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旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 34

思考しない。行動をしない。見て見らぬ振りをする。
 考えも無く、善悪を考えることもしない。
 現代の世に一番多い、「ただ人の真似だけしていれば安全とか、それが無難で間違いがない」と思い込み、短見なる安直な考えに取り憑
(つ)かれ、“人がしていることを真似だけしていれば、間違いない”と高を括(くく)り、安全地帯に逃げ込んだ人間である。
 世の中を真摯に生きるのでなく、また人生を語るのでもなく、ただ白々しい眼で傍観だけをしている人間である。
 斯
(か)くして、人は「志」が無ければそうなる。


●労役

 母は病院のベットの上で病に苦しめられ、私の帰りを心待ちにしているであろうし、由紀子は毎日のようにアパートを訪ねては、私の行き先を案じて、捜し求めるに違いない。その捜索は半端なものであるまい。彼女のすることは総動員的なのである。それがまた心配の種だった。
 大変な所に連れて来られたと言う不安と、金のために危険な仕事を選んだと言う後悔が先立った。
 私のこうした一連の措置を、由紀子は“危ない綱渡り”と厳しく指弾するだろう。だが、やってしまったことは仕方がなかった。今さら悔
(く)やんでも、どうなるものでもなかった。

 朝8時を回った頃、船室のドアの鍵が開けられ、弁当が配られた。弁当は昨日までとは打って変わって豪華なもので、今朝作られたばかりの出来立てであった。
 この時、気付いたが船のエンジン音は消えていた。弁当を食べ終って、監視の男が席を外した時、誰かが“夜中に船のエンジン音がしていた”と言うことを喋り始めた。船が再び何処かに移動したのではないか?との疑惑が持たれた。この話を誰もが聞いたとき再び不安に脅
(おび)える動揺が起こり、これが陰気で小さな船底の船室を支配した。船室は忽(たちま)ちのうちに、各々の不安の声が飛びかった。

 私はこれを宥
(なだ)めるように、「安心して下さい。いま弁当を食べたでしょ。この弁当はどういう弁当でしたか?」と訊いてみた。
 「昨日の“飯
(めし)”より上等だった」
 「そうでしょ。それもその筈です。この船は何処かの港に停泊していて、監視の誰かが今朝、弁当を買いに走ったのですよ。だから弁当に温もりがあったし、御数
(おかず)は新鮮でした。そうでしょ?」
 「そう言えばその通りだ。なる程、兄ちゃんは中々察しがいいね」
 私の観察眼を褒
(ほ)めたのだろうか。
 これで一同の気持ちは和らいだようであった。まずは全体を和らげ、落ち着かすことである。疑心暗鬼が一番いけない。無いもに取り憑
(つ)かれてしまう。幻の鬼が憑く。

 この後直態
(すぐさま)、仕事に駆り出されて、午前中の作業が始まった。
 作業は昨日と同じ大豆の荷揚げ作業であった。一袋40kgはあろうと思われるかなり重い大豆の麻袋
(あさ‐ぶくろ)は、連続して肩に載せ持ち上げていくと、腕と肩と腰と膝周辺に極度の筋肉痛を覚えた。
 荷を担ぐことは、動いている時は差程
(さほど)感じないが、休憩している時には、その痛みが一種独特の激痛となって、各々の箇所に襲いかかるのだった。各箇所を掌(てのひら)で揉(も)んでみても、おいそれと治るものではなかった。しかし咽喉(のど)の咳き込みは麻痺(まひ)しているためか、昨日ほどではなかった。
 こうした作業場で長いこと働き続けると、初期症状などは麻痺し、その兆候が見られなくなるのである。重労働への、肉体反応である。それは抗
(あらが)うというより、反撥(はんぱつ)するという反応のようだ。

 昼食は正午を下回った3時頃に出された。弁当は今朝と同じ豪華なもので、まだ冷え切っていなかった。
 この船が、何処の港に停泊しているのは間違いないようだ。船の最下位の底にあると思われる船倉から、それが何処であるか推測できなかった。
 しかし船底からは、空を見上げ事も出来ず、気配から辺りを窺
(うかが)うしかないが、陸地はそう遠くないらしい。もしかしたら、やはり何処かの港に停泊しているのだろうか。外の様子を確認できないだけに、疑心暗鬼に陥っていた。
 ただ私の勘として、停泊した際、船は投錨したのだろうか、それとも港に繋留したのだろうかという何れともつかない疑問が残っていた。もし沖合ならば喫水線の関係で易々とは港に繋留できない。しかし喫水線に影響されない荷下ろしが半ば達成されている船なら、おそらく繋留する筈である。果たして何れか。繋留のための鋼索
(ワイヤロープ)は投げられたのだろうか。船底に閉じ込められていたので、それが定かでなかった。

 弁当を食べ終ると休む間もなく、直に次の作業が命ぜられた。
 船底の大豆の荷は、殆ど残っていない。この調子では、夕刻を待たずに終わるのではないかという期待が持たれ、一同は帰りたい一心で、疲れた躰に鞭打って新たの希望を抱き、少しでも早く終わらせる為に意気揚々であった。急ピッチで作業が捗
(はかど)ったせいか、午後5時を待たずに作業が全部終了した。
 青竹を持った男が、作業に従事した全員を前にして「みんな、ご苦労やったのう」と礼を述べ、酒の肴
(さかな)にはちょっと程遠いが、ビニール・パックに入った簡素なバター・ピーナツのツマミと日本酒の一升瓶を振る舞った。一時(ひととき)の解放に向けての平和が蘇(よみがえ)ってくる。
 誰彼の顔にも、ほっとした安堵感が溢れ、それが全身にも趨
(はし)っていた。
 軽い酔いが廻ったようだ。私も“振舞い酒”に、とろりとした酔いを徐
(おもむろ)に躰中で感じながら、つい“ほろ酔い気分”となり、いつしか赤鬼、青鬼の亡者に取り巻かれているような錯覚に陥った。各々は仕事終了時のような気持ちで、愉快に酔い痴(し)れていた。これで、誰もが帰れると思っていたのである。解放への安堵があった。

 そのとき振舞い酒を呷
(あお)り、ツマミを加えた一人の男が、口をもがつかせながら、「儂(わし)ら、仕事が済んだというのに酒が振る舞われるとは、些(ち)と、訝(おか)しいのと違うか。皆、そう思わんか?」と不吉なことを言い始めた。
 「そうや、何でこんな処で酒を飲んでいるんや。何か訝しいのう……」
 これで再び不安の声は高まった。
 一時間程、だらだらと酒を振る舞われ、酒が切れた頃に青竹を持った男が、再びやって来て、次の船に移動すると言い始めた。
 此処に集った一同は、各々が顔を見合わせて、「えーッっ!」と声にならない声を出した。これによって、ほろ酔い気分の酔い失
(う)せて、全員が泣きたくなるような顔になった。勿論、私もその一人であった。

 上甲板に上げられ、初めてこの船が何処の港に着いていたか検討が着いた。洞海湾
(どうかいわん)の若松(わかまつ)側に停泊していたのである。近くには若戸大橋が確認出来た。
 港には、桟橋に横付けになった、荷を水平・垂直に移動させるデリック
derrick/一本のマストのように、主柱とその脚部に斜めに取り付けたジブとから成る起重機のことで揚貨機)を立てた精悍なイメージを保っている大型貨物船が、夕暮れの港に投光器を照らし付け、煌々(こうこう)と灯りを放っていた。
 私たちは一旦、船から港の岸壁に降ろされ、直横に停泊していた、別の200〜300トン級の小型貨物船に乗せられた。その移動中に感じた風は、確かに海の香りを放っていた。そしてそれは、まだ紛れもなく日本の海の香だった。玄界灘辺りをうろついたり、港湾内に何処かに移動していたのである。

当時のことを想起させる洞海湾の風景。

 この船は砂利運搬船であるらしく、船底に積み上げた砂利をベルトコンベアーに積み換えて、陸揚げすると言うものであった。船体か微かに、傾きを見せているだけに、その荷の重さが推量できた。
 そして、この仕事は“奴隷の労役”を思わせた。それは恐らく“夜通しの仕事”だろう。
 この徒刑場さながらの船底は、古代ローマか、何処かの国の、大理石を採掘
(さいくつ)する、辛くて過酷な石切り場のような所であった。その作業は全てスコップで行われ、大豆の陸揚を更に上回る過酷な肉体労働であった。エンジン付きのベルトコンベアーに、けたたましいエンジンが掛かると、一斉にその作業の始まりである。スコップを握り締めた掌(てのひら)は、忽(たちま)ちのうちに豆だらけになり、その砂利から出る砂煙は大豆の粉より更に酷かった。咽喉(のど)の中が砂だらけになり、唾(つば)を吐くと唾液に混じって泥と砂が出て来た。この作業は深夜にまで及んだ。

 これに従事した全員は、私を含めて疲労困憊
(ひろう‐こんぱい)の状態で、砂利を掬(すく)い上げる重いスコップに歯を食いしばり、踏ん張った膝と腕の筋肉を震(ふる)わせながら、誰もが崩れ込む寸前であった。
 監視され、時折
(ときおり)叱責されながら、誰一人として不満の声すら洩らさなかった。科(か)せられた刑罰のような重労働を黙々と果たしているように見えた。
 少し見間違えば、此処はまさに労役刑場であった。此処には暗澹
(あんたん)たる重い空気が流れ、誰もが苦悩に藻掻(もが)き、恐怖に緊張し、汗まみれになって命乞い的な労働に従事し、躰(からだ)の至る所は痛みに喘(あえ)ぎ、筋肉は鬱血(うっけつ)していると思われた。

 母がどうなったか?……、由紀子がどうしているか?……、そんな事はどうでもよかった。
 ただ、疲労のために何処でもいいから、早く横になる場所が欲しかった。横たわりたい。とにかく立っているのがやっとで、脚が踏ん張れなかった。
 この作業が積み残しの砂利を残して、一応終了したのは、午前2時を過ぎた頃で、私たちは港の作業場に隣接した小さなタコ部屋のような作業小屋が割り与えられた。一時の仮眠と言うわけだろうか。
 一時の仮眠では、肉体の疲労は元通りに癒されないだろう。しかし、寝る以外なかった。
 もう、披露困憊
(ひろう‐こんぱい)なのだ。今は横になることだった。
 その作業小屋には、一応昨日の船室とは違って、枕や蒲団
(ふとん)などが揃えられていたが、どれも至る所が破れ、汚れていて、臭いはきついものであった。しかし疲れのために、そんな贅沢(ぜいたく)は云っておられず、直に誰もが鼾(いびき)をかいて深い眠りに落ちた。

 早朝5時頃、始めてみる男が、弁当を運んで来た。昨日の弁当と同じもの出来立てであった。
 弁当を頬張
(ほおば)る誰もが、一切の口を聞くこともなく、半ば諦めたように明治時代の刑務所の囚人のような表情をして、黙々と弁当を食べていた。
 弁当が食べ終ると、直に同じ作業に就かされた。
 持参したタオルは真っ黒に汚れ、痰
(たん)と唾を常に吐き出していなければ、咽喉(のど)が詰まって呼吸困難になるような感覚に襲われた。
 この日の昼は昼食が出なかった。“ブッ続け”の重労働だった。夕方5時を回っても中断することなく続けられ、僅かに途中で30分程の休憩時間が与えられただけで、あとは休みなく作業が強制された。
 この作業から解放されたのは、夜の9時を過ぎていた。そして昨日と同じ作業小屋に詰め込められ、誰もが疲れのために、床に崩れ臥
(ふ)した。勿論、外には見張りがいた。

 次の日の早朝4時、「起床!直ぐに起きろ!」の号令で、全員が叩き起こされた。怒気を含んだ荒々しい声である。あるいは単なる脅しだろうか。
 しかし、あきらかに怒気が含まれていた。その怒声を聞けば、聴いた者は悉
(ことごと)く身を慄(ふる)わせてしまう。脅しの話術の妙であろうか。
 「こら!貴様。もたもたするな!」
 その叱責は凄まじく、辺りを音を立ててびりびりと振わせるほどであった。その上これに暴力が加わる。
 青竹で容赦なく背中を殴る。時には顔面を打ち据える。また安全靴の爪先で、鈍重な動きをする者の尻や腹を蹴る。脅しの話術と併せて、なかなか巧妙な動物の使役の仕方である。かなりの慣れと年季が入っているように思われた。

 「はようせんか!」
 この怒声の一喝は、労役に駆り出される奴隷たちの作業開始の合図なのである。昨日より、一時間も早く叩き起こされた。
 起きると躰の関節の節々があちらこちらとビリビリ・キリキリと痛い。筋肉痛は頂点に達し、動きもどことなく鈍くなっている。目を擦りながら、今から食事かと思ったが、食事は出てこず、いきなりトラックに詰め込まれて移動が始まった。
 揺られるトラックの中で、誰かが、「儂
(わし)ら、一体これからどうなるのやろう?」と何かを諦めたような声で呟(つぶや)いた。
 すると反対側から、「東南アジアか、何処かの外国にでも売り飛ばされるのと違うやろか」などと、飛躍した妄想のようなことを呟いた者がいた。この言葉で一同の動揺は深まった。

 「今日中には帰れますよ。必ず帰れます」私がそう言うと、
 「兄ちゃん、この前もそう言ったが、作業が終わっても帰えれんかったやないか。気休めばかり言って、糠
(ぬか)喜びさせんどってくれんか」
 「いや、きっと帰れますよ。もし今日帰られない時は、僕が必ず帰してあげますよ」
 「それ、本当
(ほんま)かいなァ……」
 それは不信と諦めを合わせて、苦笑いをしたような返事だった。そして一同の沈黙がまた始まった。
 揺られて行き着いた先は、下関港であった。そこには遠洋漁業から寄港したと思われる大型のトロール船が岸壁に横付けにされていた。
 此処での仕事は、船倉からの魚の荷揚げ作業であった。全員に胸まである長めの長靴が配られた。朝食をさせて貰えない儘、作業を強制された。私は、この仕事は直に終わると踏んでいた。食事をさせないのはそのためである。
 「儂
(わし)ら、今日は朝飯食わせてもらえんのかのう。腹が減っては戦(いきさ)はできん」
 「食事の出ないのは、この仕事を急ぎたいからです。直に終わってしまいますよ」
 私の激励に反応した返事は、「そんなもんかなァ……」であった。
 私はこの日で仕事を終る気でいた。それは独断である。依頼主がどう言おうと、関係なく終る気でいた。だから魚の荷揚げ作業だけはきちんとやって、貰う金だけはきちんと貰って、何が何でも帰る気でいた。後は決行するのみである。

 仕事は二手
(ふたて)に割(さ)かれた。船倉の船底からスコップでベルト・コンベアーに乗せる組と、ベルト・コンベアーに乗って来た魚を、トロ箱に詰め上から氷を載せて貨車に詰め込む組であった。
 私は船底の組に回された。作業が始まって10分も立たないうちに猛烈な汗が出始めた。冷凍室のような船倉であるが、長靴を履いているためそれ自体が蒸
(む)れて、更に周囲の空気が遮断されて、汗でびっしょりとなり、全身が濡れ始めた。
 まさに此処は、小林多喜二
(こばやし‐たきじ)のプロレタリア小説『蟹工船(かにこうせん)』の船内工場に出で来る、あの過酷な作業場に似ていた。底辺の作業労働者が資本家から搾取(さくしゅ)されて、酷使される“あの場面”である。
 『蟹工船』のストーリーは、カムチャツカの沖で蟹を獲る北洋漁業で、それを缶詰に加工する蟹工船の「博光丸」だった。
 この缶詰工場と化した、船内には様々な出稼ぎ労働者を安い賃金で酷使する経営者の思惑があり、社会主義が指摘する資本家の搾取
があった。労働者は常に資本家に、あたかも乳を搾り取られるように、成果を毟(むし)り取られるのである。
 プロレタリア文学では、此処を特に強調して資本家の搾取をクローズアップし、誇大宣伝する。作者は攻める箇所を充分に知り抜いているのである。実に巧妙な名場面の演出と言えよう。

 酷使される労働者は、低賃金で扱
(こ)き使われ、一方高価な蟹の缶詰を生産する海上の閉鎖空間はまさに監獄に等しかった。出稼ぎの彼らは、自分達の労働の結果、高価な製品を生み出しているにも関わらず、蟹工船の持ち主である大会社の資本家達に、不当に搾取されていた現実を、この小説は描いている。巧みな文章力で読者を惹き付け、読書終了後には、如何に資本家と言うものが悪徳商人であるかのような手の込んだ言い回しを用意している。実に巧いと言えよう。
 まず経営者になろうとするならば、この巧妙な能弁も勉強しておかねばならない。そうでなければ労使のバランスは保てないだろう。遣り過ぎれば、『蟹工船』の二の舞になるからだ。小さな町工場の経営者と雖
(いえど)も、確(しか)と勉強すべきである。
 酷使される労働者たちは、劣悪な環境の中で懲罰という名の暴力や虐待、更には過労と病気
(多くは脚気)で次々と倒れて行くのだった。残酷な光景が描かれている。酷使される現実を生々しい筆遣いで、小林は綴(つづ)り、虐待の描写が、後に大きな波紋を呼んだのである。
 また、これが真実であるというような錯覚を抱かせ、蟹工船での虐待や奴隷的な労働が、あたかも現実にあったかのようなフィクションで、小林は筆を踊らせている。その筆遣いが、あたかもノンフィクションにように踊っているのである。その意味では文豪だった。

 これがもし、本当のノンフィクション小説なら、文句はないが、一部はフィクションであるだけに、小林の指摘する搾取の実体は曖昧
(あいまい)だった。
 要するに、左派誘導が目的だった。最初から資本家は悪玉に仕立てられていたのである。
 この小説には、善玉のプロレタリアが居て、悪玉のブルジョアが居て、悪玉をやっけるためにストライキを行い、それにより労働改善を迫るというストーリーである。
 こうして日本人は戦前・戦中・戦後を通じて、プロレタリア小説で、徐々に空想的社会主義の理想の中に誘導されていくのである。
 特に、この影響をもろに受けたのが、インテリ層と言われる連中だった。
 彼らの多くは空想的社会主義のジレンマに掛かって心酔し、“シンパ”へと傾き、自由主義的“リベラルぶりっこ左翼”を自称し、ある者は“進歩的文化人”へと変身していくのだった。

 私は空想社会主義の虚構理論の妄想には捕らえられることはなかったが、当時の肉体労働を思い出すと、そこはまさに『蟹工船』さながらで、酷使を強いられ監視され、監禁されて、長時間働かされた上に、最後は搾取されて賃金をピンハネされるという理不尽な経験を強いられたのだった。
 それは『蟹工船』の小説上のフィクションが、あたかも現実のノンフィクションのような印象を与え、読者は過酷な重労働を強いられている錯覚を生むのである。
 そうした錯覚を小林は巧みに遣い、一つのフィクション小説を書き上げている。
 しかし、私の身の上に起こっているのはフィクションではなかった。ノンフィクションの現実だった。
 関節の節々の痛みを我慢して、必死で早く帰ることだけを願って、作業に打ち込んだ。この仕事は正午前に全て終了した。
 一旦全員が岸壁の一ヵ所に集められ、同時に昼食が用意された。昼食は弁当ではなく、まだ温もりの残った丼物
(どんぶり‐もの)であった。何処か近くの食堂から出前させたのであろう。

 私は丼
(どんぶり)を手にした儘、好き勝手に、港に横付けされた船のワイヤー・ロープを固定した鉄の船止めに腰を下ろし、他の全員とは離れて食事した。
 それを食べ終った後、青竹を持った男が、黒塗りの高級車に乗って現れ、仕事はこれで終わりという。各々に厚手の封筒に入った今日までの賃金が配られた。封筒はしっかりと強力な接着剤で封印されており、中に如何程の金が入っているか見れないようになっていた。
 青竹を持った男は、その封筒を家に帰ってから開けろと子供騙しのようなことを言った。
 私はそれに従わず、その場で封を切り、金額を確かめた。封筒の中には千円札が30枚で、合計三万円しか入っていなかった。一日一万五千円と聞いていたので、一瞬目を疑ったが、しかし三万円しかない。

 「あれだけ扱
(こ)き使われて、たったの三万円?……冗談じゃないぞ!」誰かが怒鳴った。
 これこそ本当の搾取だった。労働者を騙す資本家どころではなく、まさに悪徳そのものだった。
 搾取も搾取、大搾取だった。半分以上をピン跳ねされたのである。
 「搾取だ!」大声を飛ばした。
 私は腹立たしさにそれを口走っていた。
 私のその言葉に釣られて、他の六人も封筒の中身を確認し出した。そして一同に不満の声が上がった。搾取されていたのだ。誰もがこのことに気付いた。この仕事を計画した計画主から、大ピンハネされて搾取されていたのだった。前代未聞の大搾取だった。
 それを聞いた青竹を持った男が、「やかましい!四日もタダ飯食わしたり、寝床まで用意してやった。金が貰えるだけでも有り難いと思え!命のいらん者
(もん)は前へ出らんかい!」と濁声(だみ‐ごえ)で怒鳴った。
 迫力あるこの言葉に、逆らう者は、誰一人としていないように思われた。だが、こうした場合、怒りが爆発すれば窮鼠になる場合もある。暴動が起こる。もし私が筋金入りの煽動者
(アジテーター)なら、これを暴動に結び付けて焼き討ちなどの暴動を煽っていたかも知れない。
 だが残念なことに一匹狼だった。
 私は怒りが込み上げてきたが、命あっての物種
(ものだね)、帰して貰えるだけでも有り難いと、渋々我慢を決め込んだ。やはり弱い一人の人間だった。一人では何も出来ない。
 しかしである。
 ふと目を投げた先に、青竹を持った男の黒塗りの車が目に付いた。その車は、助手として付き纏うチンピラ風の若者が丁寧にワックスをかけ、丹念に磨かれていた。大搾取を働いた悪徳資本家の車だった。

 青竹を持った男は、「連れて来た所まで送り届けてやるから、トラックに乗れ!」と、しきりにガナり立てていた。この魂胆は何だろう。
 私は腹立たしさの余り、この声が聞こえなかった。いや、聞こえない振りをしていた。聴く耳など持っていなかった。
 黒塗りの車にワックスをかけているチンピラ風の若者に近付いて行った。この若者は、私の顔を見て、「へへーッ」と笑った。その顔つきは“様をみろ”と言わんげであった。
 これが私の気持ちを逆撫
(さかなで)でした。
 
(何と理不尽な!何と不条理な!)という激しい激昂が起こっていた。このまま足許(あしもと)を見られて引き下がっては男が廃(すた)るのだった。黙って退き下がれなかった。
 私は、このチンピラを見て、無性に腹が立ってきた。
 側にあったスコップを手に取って、若者が車の後ろのトランクを磨いている隙
(すき)に、丁寧(ていねい)にワックスが掛けられた車のフロントガラスに第一打を、ボンネットに第二打と第三打を打ち込んでやった。残った有りっ丈の力でである。フロントガラスは粉々(こなごな)に割れ、ボンネットからは、白い湯柱を吹き上げ、煙のようなものが上がった。

 「みんなからピンハネした金で、修理代くらい出るだろう」と捨て台詞
(せりふ)を吐いてやった。
 大搾取のお返しである。
 痛みは、双方で平等に分かち合わねばならない。一方的であってはならない。搾取を赦さぬのなら、これくらいの気構えがいるだろ。私の信念であった。
 チンピラ風の若者が驚いたのは勿論のことであるが、もっと驚いたのは、この車の持ち主の青竹を持った男であった。トラックに乗り込む寸前の六人の男も、私の行動を見て唖然
(あぜん)となった。これだけの事をしてタダで済む筈がない。誰もがそう思っていた。
 一戦を交えるつもりでいた私は、決戦を覚悟していた。
 しかし、私に挑戦する者は居なかった。それは私を狂暴な人間と判断したのか、それに準ずる、その辺の判断が、駆け引きとして働いたものと思われた。奴らも計算高い人間だった。

 私はその儘、道路のある所まで歩いて、そこからタクシーを拾った。
 そして住所とアパート名だけを告げて一路、自分のアパートに向かった。
 兎
(と)に角(かく)疲れていた。アパートに着くまで、タクシーの中で深い眠りに落ちたらしい。何処をどう通ったのか、如何程(いか‐ほど)の時間がかかったのか、全く覚えていなかった。
 そしてアパートも前にタクシーが横付けされて、運転士から起こされた時、その料金は何と25,400円だった。
 私はこの金額に驚いた。びっくり仰天であった。
 下関から八幡までで、そんなにかかる筈がないからである。
 この運転手は、山口県下関市から関門トンネルを抜けて北九州に入り、八幡周辺を相当走り回ったらしい。おまけに地元の運転士でない為に、私の告げたアパートを探すため、至る処をうろついたらしかった。
 「詳しい場所を聞くために、お客さんを何度も起こしたのですが、中々起きてくれなかったものですから、辺りの人に道を訊きながら走ったのですよ」というのが運転手の言い訳だった。
 この日のタクシー代は、大きな出費だった。そして私の手許に残ったのは、たったの4,600円だった。
 何たることだ。そして何たる徒労。
 “危ない綱渡り”は、このような結末で幕が引かれた。
 果たして、もう再び幕が開く事はないのだろうか。危ない綱渡りのシナリオの種はこれで終
(しま)えたのだろうか。


 ─────私が沖仲仕
(おき‐なかし)の仕事を終えてアパートに辿(たど)り着いたのは、解放されたその日の夕刻近かくであった。ボロ雑巾のように疲れ切った躰(からだ)を横たえていると、暫(しばら)くして由紀子が現れた。
 もう、完全に「勝手知ったる他人の家」になっていた。勝手に使い回され、好きなように、どこもかしこも奇麗さっぱり片付いているのだった。かつてのグウタラな面影は殆ど残っていなかった。部屋を間違えたのではないかと思うほどである。
 そうした部屋の中で、木偶
(でく)のように転がっていたのだった。
 「ただいま」
 「まあ!」
 「眠ります。おやすみなさい」
 私はごろりと横になった。
 単なる物体であった。動く肉体の機能をしていなかった。ぐったりとなり、疲れていたのである。泥のように疲れていたのである。泥の残された課題は、寝る以外ない。
 「起きなさい」
 「もう駄目です」
 「駄目じゃない」
 「木偶です、起きられません。おやすみなさい」
 「起きなさいったら、起きなさい!」
 「勘弁して下さい」
 「起きろ、木偶!」
 「木偶坊ですから駄目です」
 「起きろ、健太郎!」
 私の耳には、何かが喚いているようにしか聴こえなかった。何処か遠くで、誰かが怒鳴っていた。
 しかし、このまま無視できるだろうか。

 薄目を開けてみとる、彼女は、つかつかと進み寄ってきて、私が横に転がった側面に坐り、まず私をいきなり睨
(にら)らんだのだった。意味ありげに睨んだのだった。睨み方が尋常ではなかった。今までに見たことのない仕種をするのである。更に眼が合図をしたようだった。それに鋭さが籠っていた。一瞬閃光(せんこう)が疾った。
 それは“そこへ坐りなさい!”という、半ば強制的な叱責の意思表示であったかも知れない。この暗黙に睨みが怕い。
 木偶の肩がポンポンと叩かれた。
 そして、指を差している。坐れと言う意味だろう。その無言が言葉以上に威力を持っていた。
 こうなれば居住まいを正して坐るしかない。

 眼を向けた。眼と眼が合った。この時の焦点は、言葉では形容し難いものである。
 睨んだだけの無言の威圧である。凄まじい。そうなると、あたらまって正座する以外なかった。
 かしこまり、針の筵
(むしろ)に引き据えられて、神妙にする以外なかった。お白洲の針の筵(むしろ)の上に居た。
 そして、私は私で無言の訴えを放っていた。
 (そんな顔で睨まないで下さい。今は、そっとしておいて下さい。非常に疲れているのです。疲労困憊なのです。私への叱責は明日以降にして下さい。どうか分って下さい)果たしてこの願いか聞き届けられるだろうか。それを眼で訴えた。哀願と云ってもよかった。
 しかし、退けられていた。許さないのだ。
 彼女の目付きは、バカも休み休み言えという風だった。
 私を睨んだ眼は、“今まで何処に行っていたのよ!”という風な、きつい眼で私をじっと見据
(みす)え、無言で何かを訴えるようだった。その形の良い唇(くちびる)に、表現出来ない程の、もどかしさを感じた。
 その顔にははっきりと、はがゆさめいたものが漂っていた。連絡くらいしたらどうだという、苛立に似たものだった。
 私はこの表情を見て、ただでは済まないな……と思った。荒れるだろう。その覚悟が要った。
 今にでも根掘り葉掘りと問い質
(ただ)して、喰いついてくるのではないか?と思われた。
 この後に続く台詞があるとしたら、根掘り葉掘りであろう。他に何があるだろうか。

 美しい大きな眼は、悲しみの目付きで満ち溢れていた。目の縁の周囲がほんのりと潤
(うる)んで、涙さえ窺(うかが)われた。
 暗澹
(あんたん)たる、虫の声のような啜(すす)り泣きが、今から始まるのではないかと思われた。
 彼女の瞼
(まぶた)を濡らす涙癖(なみだぐせ)は、以前と少しも変わっていないようだ。

 四ヵ月程前、私が留置場に収監されて、面会に来た時に見た、あの眼と同じものであった。ああいう眼をされると弱い。
 健全な眼の動きが、鋭く私を叱責
(しっせき)している。それを殊更(ことさら)素直に受け入れ、神妙に受け止めて、ある種の戦慄(せんりつ)を感じられずにはいられなかた。
 周囲には息詰まるような空気が漂っていた。
 そして今まで、涙を堪えて唇を噛んでいた由紀子が、ついに涙声を発した。
 このままではまずい。とにかくまずい。
(泣くのはよせよ)とそう気障に言ってやりたかった。
 「みっともないなァ……」
 つい言葉が滑ってしまった。
 「みっともないですって!」言葉が尖
(とが)った。
 益々まずい。逆撫でしてしまったか。その証拠に眼には涙が溜っていた。彼女は涙脆いのだ。
 「まあまあ、そう目くじら立てずに、号泣もなさらずに、落ち着いて下さい」
 「号泣ですって!」
 「そのように揚げ足を取られると困ります」
 「あたくし、生まれつき、涙が勝手に出るようなの涙腺構造になっていますの!」
 「はあ……、それはそれは、恐れ入りました……」平身低頭した。
 「どうして早く言ってくれなかったのよ?……。どうして?!」詰問であった。
 今にも泣き出さんばかりの声で詰め寄って来た。果たして号泣が始まるのだろうか。
 「いったい何をですか?」
 一応惚
(とぼ)けてみたが、直に見破られたようだ。小細工など通用しない。
 「お母さまのこと……」
 「うム!……」
 私は二の句が続けられずにいた。聴いてショックを覚えた。

 しかし私の顔を見て、安堵
(あんど)の気持ちに辿り着いたのか、由紀子は徐々に愁眉(しゅうび)を開いた。彼女は既に、母の事を知っていたらしい。何から何までお見通しのようだった。
 私は返す言葉なくって、黙っていた。これを察して、これ以上責めたてる気持ちは、彼女にはないらしい。
 後で訊
(き)くと母の事は、彼女によって完全な処置が施されていた。手術費を含む金銭的なことから、輸血の血液集めまで……。
 そして、また大きな借りを作ってしまったのであった。
 益々、人生の貸借対照表の帳尻合わせは困難となり、「負債の部」ばかりが大きくなるのだった。

 「今まで、碌
(ろく)なもの食べてないんでしょ?夕飯の支度しますから暫(しばら)く待っいらして」
 由紀子は指で涙を拭うと、笑顔を繕
(つくろ)ってエプロンをかけ、小さな台所に向かった。
 激しい重労働をした後でもあり、私は疲れのために坐るだけの気力を失いかけていた。とうとう坐っていることが出来ず、遂にその場にごろりと横に転がった。木偶と化したのである。
 やがて睡魔
(すいま)が襲って来て、うとうとと十数分程、転(うた)た寝したようだ。
 目を覚ました時、私の汗臭い躰
(からだ)には、一枚の毛布が掛けられていた。
 「さあ、お食事できましたわよ。お起きになって」
 はッとして、この声で起きようとしたが、中々腰を上げることが出来ない。訝
(おか)しい!と思った。
 腰に激しく引き攣
(つ)るようなものがあった。
 確かに訝
(おか)しいのだ。そして、腰を上げようとしても、腰が抜けたようになっていた。腰が立たない。重くて持ち上がらないのである。
 (どうしたんだろう?……)と、自分でも不思議に思っていると、
 「どうなさったの、お食事ですよ。早くお起きたら……」と、やや強引なお言葉。
 この、お言葉には従う以外ない。ありがたい、お言葉なのだ。この場合、従順であることが第一だった。

 「聞こえていますよ」
 しかし七転八倒しながらも、どうしても起きることが出来ない。腰が重いのだ。重くて仕方ないのだ。上半身を起こすことすら出来ないのである。
 腰が抜けたような感じだった。それに痛みが加わった。仙腸関節に異常が出ているのだ。重労働で、仙腸骨を傷
(いた)めているようだった。開いたのかも知れない。あるいは接合部が弛(ゆ)んだのかも……。
 それでも腕を突っ張って、上肢だけを引き起こした。腰が上がらない。異常に重いのである。下半身を動かすことが難儀だったのである。難儀なる辛さを必死に耐えようとして、上肢を起こそうとしたのだった。

 その姿を見ながら、私の傍
(そば)に寄って来た彼女は、「もうイヤ……。さんざん心配をかけた上に、まだ下手な芝居するなんて……」と笑いながら、私の肩を軽くポンと叩いたら、腰骨がガックと崩れるように鈍い音を立てた。
 あッ!という間もなかった。
 それと同時に錐
(きり)を揉(も)み込むような激しい痛みが、電気のようにキリリと疾(はし)り、一瞬にして動けなくなり、躰全体が萎(な)えるのを覚えた。腰砕けが起こったのである。
 そして少しでも動くと、猛烈な痛さが疾った。これはどうしたことか。

 激痛だ。何だ何だ、これは。
 並みの痛さではなかった。これまでに経験したことのない、痛烈な痛さだった。刃物をねじ込むような痛さであった。
 その激痛なること、実に痛烈であり、再び横に転がった。木偶のように転がった。躰を丸めて横になるしかなかった。
 《うあーッ!》声にならない悲鳴を発していた。
 「どうなさったの?」と白々しく云う。
 (どうなさったって、あんたが、今叩いたからだろうが……)と言いたかった。
 「ねえ?……」
 「……………」私は痛さを必死に堪
(こら)えていた。
 この痛さで、眼に涙さえ滲んだのだ。
 「変な冗談、おやめになって……」彼女は、まだ笑っていた。私を下手な役者と見たのだろう。
 (馬鹿言うな、これの何処が冗談なのかよ……)
 「腰が、腰が……ううッ……」と言って、歯を食い縛
(しば)って、必死に立ち上がろうとするが、どうも儘(まま)にならない。烈しい激痛が疾(はし)る。這(は)うしかなかった。
 この私の姿に、どうやら、何らかの異常があると気付いたのは、2〜3分程過ぎてからであった。気付くのが余りにも遅過ぎる。早く気付いて欲しかった。
 激しい肉体労働の挙げ句、椎間板
(ついかんばん)ヘルニア、つまり俗に言う《ギックリ腰》を患(わずら)ったわけである。まだまだ私の厄日は続いていた。

 こうなると立つことも歩くことすらも出来ない状態になった。
 困った!……これが率直な感想である。
 動けば刺すような棘々
(とげとげ)しい激痛が疾(はし)る。無理が出来ないのである。動くと痛いし、寝ていても寝返りに失敗すれば、もろに腰に激痛が疾るのだった。大の字になれない。仰向けすらなれない。
 それから丸五日間、外には出られず、道場に顔を出すこともできなくて、ゴソゴソと、部屋の中を四つん這
(ば)いになって這(は)って移動する、尺取虫(しゃくとり‐むし)のような生活が始まったのである。何とも情けない姿だった。移動は這うしかなかった。
 これは仙骨と腸骨を繋ぐ仙腸関節が大きくズレてしまったためである。そのために椎間板が飛び出し、ヘルニア状態になったからである。
 仙腸関節のズレは、些細なことが原因して起こることがある。
 例えば、顔を洗おうとして洗面場で前屈みになっただけで、あるいはスーパーのレジで行列に並んでいて、後ろから子供か誰かに軽くポンと押されただけで、また、今回のように肩を軽く叩かれただけで、骨盤が弛んでいる場合、仙腸関節が右か左かに外れ、ここがズレてしまうのである。要するに骨盤が滑った状態になるのである。

 私の場合、肉体労働からの“筋肉痛”から、突然、緊張が緩み、その緩みが、腰骨までを弛
(ゆる)ませたものと思われた。
 ちなみに緊張の緩みは、骨格まで狂わせ、骨盤を弛め、この弛みが肩に達すると肩こりとなって肩凝りとなって肩関節を外し、更に肩関節の外れは頭蓋骨に上って頭骨の縫合
(ほうごう)を外し頭痛の病因を招くのである。縫合の外れをそのまま放置すると、やがて年を取って、これは痴呆症(認知症)の病因を招き、ボケるのである。ボケ老人の殆どは頭骨の縫合が外れたままになっているのである。
 この因果関係を追うと、緊張不足が骨盤の弛みを発症させ、骨盤の弛みが肩に至って肩凝りになり、肩凝りから頭骨の縫合が外れて、これは徘徊するボケ老人を発症させ、脳に異常を来すのである。腰骨は頭部の頭蓋まで連結されているのである。

 現代医学は仙腸関節がズレたり外れたりして、腰や腰痛が発生する症状を一切認めていない。
 腰椎がズレを起こし、そこが外れ、腰椎性の症状が発生したとしても、これに“椎間板ヘルニア”という大仰
(おうぎょう)な病名と言うか診断名をつけて、これを牽引で治療したり、ヘルニア手術をしてこれらの方法で治療するが、整形外科などで行われるこの治療法は、治癒率が非常に低い。むしろ悪くなる場合が多い。
 現代医学では、“椎間板ヘルニア”は手術に頼るだけである。
 しかし、この手術をすると腰力が衰える。腰骨が弱る。そのため脊柱を腰骨の上に垂直に立てることが出来なくなる。正坐も苦手になる。身体的変化としては、腰椎が削られて細くなり、腰力が低下するだけでなく、腰自体が以前にも況
(ま)して弱くなるのである。脊柱にある26個の椎間板の水分が失われ身長は縮む。
 仮に、26個の椎間板の水分が失われ0.5mm縮んだとしよう。僅か1個の0.5mmの減少は、合わせると13mm前後縮むのである。則ち身長は1cm3mm低くなるのである。
 例えば170cmの人は、その後、168cm7mmになってしまうのである。
 むしろヘルニア手術は避けて、腰力を矯正する背筋運動に心掛けるべきだろう。但し、腹筋運動をすると腰痛は悪化させるばかりでなく、健康な腰力を持つ人でも損なうことがある。就寝時でも、仰向けに寝られなくなり、横向けに躰を丸めた状態でしか寝られないのである。椎間板をいじると、脊柱を腰骨の上に垂直に立てることが出来ないので要注意である。
 腹筋よりは背筋なのである。しかしこのことは余り知られていないようだ。
 私はこれを知っているだけに、心の中では《さあ、大変なことになった》と思うのであった。

 腰の全治は時間が掛かるのである。
 それには、自然治癒するまでに約一週間ほど懸
(かか)るからである。病院に行くまでのことはないが、自然治癒力が働き、元に戻るまでに一週間を要するのである。
 しかし、安静にして寝ているという分けには行かなかった。腹筋の凝りを解
(ほぐ)し、動き回り、歩くことで治す以外ないのである。これにより、仙腸関節のズレた部分を元に戻す以外なかった。そういう難儀を背負わされたのであった。


 ─────それから六日程たった、ある日のこと。
 まだ腰痛の後遺症は残っていた。
 些
(いささ)か腰には不安があるが、痛みをこらえて何とか歩けるようになったので、久しぶりに山村師範を訪ねた。
 だが訪ねる途中、道中の路面電車の中で、訝
(おか)しなことに気付いた。
 今朝あたりから躰の至る所が、痒
(かゆ)くてたまらないのである。今迄は腰痛に悩まされて殆ど痒さに気付かなかったが、腰の痛みが和らぐと、今度は痒さに襲われたのだった。
 背中から肩から肘から、そして脇腹や下腹や、特に性器
(殊に睾丸)付近が燃えるように、灼(や)け付くように痛痒(いた‐がゆ)いのである。
 また手を見ると、指の間にも何かブツブツの、赤い湿疹のような斑点
(はんてん)が出来ていた。あるいは手の裏にもあった。それが広がり始めているのである。痒みが伴うだけに始末が悪かった。

 しかし電車の中のでは、流石
(さすが)に人目を憚(はばか)るしかなく、今でも掻(か)き毟(むし)りたい衝動に襲われたが、只管(ひたすら)これを押し殺し、唇を一文字に結び我慢に我慢を重ねた。とにかく辛抱する以外なかった。
 山村師範から稽古の手解きを受けたが、その灼け付くような痒みで、中々集中出来るのもではなかった。
 稽古の終わった後、山村師範が、
 「お前、躰が痒いのと違うか?」とズバリ訊いて来た。口許
(くちもと)には、からかうような笑みが浮かんでいた。
 「はあ、実はそうですが……」
 「じゃあ、それは伝染病じゃなァ。間違いない、確かに伝染病じゃ」と断定したように言う。
 「えッ?!どんな伝染病ですか?」
 「疥癬
(かいせん)という伝染病じゃ」
 感染症に罹病したことを指摘しているのだった。
 「疥癬?……」
 この変な病名は、初めて聴く名だった。

 「いいか、この病気はなァ。戦時中、中国大陸から、日本の兵隊どもが、国内に持ち込んだものじゃ。儂
(わし)も現地で何度も罹(かか)った経験がある。実に痒いものだ。痒くて、辛く切ないものだ」
 実に嬉しそうに、同情など一欠片
(ひとかけら)もなく、笑みを浮かべて言うのだった。
 「この痒さは、辛く切ないものですか?」
 「ああ、そうじゃった。疥癬は、ヒゼンダニという節足動物の昆虫でなァ。人間の皮膚のごく浅い表面に取り憑
(つ)いて、長期にわたり悩ますものじゃ。人間の体温を敏感に関知して、僅か30分も経たないうちに、直に人から人へと伝染していく大変な病気じゃ。
 お前も小学校の時に経験があると思うが、頭から振りかけられたDDTという《メリケン粉》
【註】小麦粉の俗称)のような農薬を知っておろうが?」
 「はい、知っていますが……」

 「DDTはなァ、戦後直、進駐軍
(日本占領下の米軍。その総司令部をGHQといった)が持ち込んだものじゃ。虱(しらみ)や蚤(のみ)や疥癬を殺虫するために使われた有機塩素系の強力な殺虫剤じゃ。
 このDDTによって、一応疥癬は日本では終息したが、最近になって東南アジアに出張した商社マンが、色遊びの中で現地の女と接触し、性器に宿したまま、これを再び日本国内に持ち込んで帰って来た。つい最近まで、この病気は“性病”と信じられていた。そしてこれを退治するのにDDTが遣
(つか)われた。
 だがなァ、DDTは、現在環境汚染防止のためと発癌性
(はつがん‐せい)のある有害物質として厚生省(現在の厚生労働省)は、これを使用禁止にしている。だから今は、これが使用できん。
 いいか、この病気はなァ、三十年周期に姿を現し、猛威
(もうい)を振るって流行する、恐ろしい伝染性の皮膚病じゃ。この生息期間は約六ヵ月と謂(い)われている。世の中が混沌(こんとん)とすると、この病気が流行すると云われている」
 《何と言う情報通!》と、山村師範の物知りに感心し、舌を巻くと同時に、これを聞いた瞬間、顔は一瞬青ざめて、
(アチャー、何と言う羽目になったのか)という恐ろしい気持ちになった。
 「罹ると、痒くて、切ないぞ」
 そう言った顔は嬉しそうだった。
 「えッ!痒くて、切ない……ですか」
 思わず復唱していた。

 しかしDDT
dichloro diphenyl trichloroethane/ 有機塩素系の殺虫剤で現在日本では環境汚染防止のため使用禁止となっている)とは何とも懐かしい言葉であった。
 私は、DDTとくれば、直ぐに虱
(しらみ)を連想する。そして、次に長い髪を連想する。
 虱には一つの思い出があったからである。
 人間に取りつく虱は、コロモジラミ、アタマジラミ、インジラミなどであるが、DDTはこれらの虱や蚤を退治するためにアメリカから、戦後日本に持ち込まれた有機塩素系の殺虫剤であった。
 私は疥癬の治療が、実は伝染性のものを治療するのでなく、殺虫するとは知らなかったのである。
 その意味では、爺さまは物知りであり、まさに情報通と言えた。大戦中、諜報機関に居たというから、工作員として大陸を縦横無尽に暗躍していたのであろう。


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