運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
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旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 6
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旅の衣・前編 40

人間は嘘をつかないと言うより、期待を裏切らないことの方が大事である。また嘘をつかないというより、仲間を裏切らない方が重要である。
 そもそも、嘘はこの世では憑き物である。憑衣されたように、人は嘘をつく。嘘をつかないという嘘をつく。
 出来るだけ正直でありたい。出来るだけ嘘をつかないようにしたい。確かに人情であろう。
 だが嘘をつかねばならぬこともある。
 これを仏すら認めている。
 仏の嘘を「方便」という。武人の嘘を「武略」という。今風に言えば戦略である。戦略とは、根底に「謀る」ことがある。
 現に、「兵は詭道
(きどう)」というではないか。戦いに勝つには計略が必要である。しかし計略も、穢(きた)くあってはならない。清々しいものでありたい。それに出来るだけ近付けたい。これも人情である。

 そもそも人の世は嘘で溢れている。
 裏切らない。失望させない。幻滅させない。これが大事で、嘘をつかないことでない。
 そのため、真面目で正直でという、この種の考え方にあえて固執する必要はない。
 真面目でありたい。正直でありたい。これも、人間である以上、人情である。
 ところが、そうかいかないこともある。
 そして危険なのは、真面目で正直でなどという自称は、飽くまでも自称であって、それは自分自身の主観による。他人から見れば、どうか分らない。真面目は不真面目に映り、正直は大嘘つきに映っているかも知れない。


●頼みごと

 それは四月の下旬のことであった。
 由紀子から五月の連休を利用して、「病院の仲間と旅行に行きたいが、何処か良い宿は知らないか?」という相談を受けた。彼女の切り出した相談事は些
(いささ)かの遠慮が感じられた。
 何故ならば、この相談を受けた時は四月下旬であり、連休といえば後三、四日後のことではないか。
  内心、
(そんなことを、今頃になって持ち出しても聞けない相談だ。何処も、この連休は半年前から一杯の筈だ。少なくともそんなことは一か月前に言うものだ。何と計画性がないやつだ)という気持ちが込み上げて来たが、突然切り出した由紀子にも何らかの理由があり、それを無下に断る訳にもいかなかった。
 「何で今頃?」と質問を浴びせ掛けるのは易しい。
 だが私などには、想像もつかない急な事情があるのだろう。そこを汲んでやらねばならない。この構図の確立こそ、末永く寄り添える第一条件となる。しかし、唐突とは困ったものであった。

 だが、私としてもポーズがある。男気がある。一応恰好だけは付ける。エエカッコシーである。根が低俗なのである。彼女の信頼を勝ち取るためには、無から有でも作る。新たなものを創作してみせる。番狂わせまで出現させてみせる。私は人生の演出家であった。
 私はそれを察して、「良い宿でしたら知っていますよ」と返事した。
 「えッ?」由紀子の驚きは、意外性を思わせ、予期しなかった返事という感じであった。
 由紀子は、私の「今頃になって?」という言葉が返ってきはしないか、という懸念
(けねん)を予想していたらしい。それに対して、「知っていますよ」という意外な返事は驚かない筈がない。
 私は意外性を演出していた。策士というべきか。あるいは彼女が指摘する通りの山師か。
 何れにしても不足がない。

 「突然のことで、あなたが怒りはしないかと、ちょっと心配だったの」と不審そうに、また少しばかり期待しているように訊くのだった。
 こういう場合、男としては鷹揚
(おうよう)にいうしかない。見栄を切るしかない。
 山師は山師でいいのである。
 いつも馬鹿な男は、自分を等身大以上に見せるのが常である。私もご多分に漏れず、例外ではなかった。
 「僕は頼りがいのある人間です。特に窮地
(きゅうち)に至っては、頼りがいがあります。大船に乗った気持ちでいて下さい」
 「えーッ?……。またそこで自惚
(うぬぼ)れる。それを言わなかったら、真当(ほんとう)にあなたは大物ですけどねェ」
 「じゃあ、岩崎は小物に準じて、知らないと言いましょうか?」と切り返したら、途端に、「意地悪!」という遣り返された。
 「だったら、もう少し素直にお願いしなけりゃ、桜井さん」
 時として、岩崎君と桜井さんの応酬が交わされるのである。
 「もう!」
 「それじゃァ、駄目ですよ。神頼みするように、心を込めて」
 「もうたらッ」可愛く拗
(す)ねてみせる。
 「牛のように哭
(な)かないで下さい」
 「またァ、人を揶揄
(からか)う。そうして直ぐ人の弱みに付け込む。そこがあなたの悪いところです!」
 彼女に指摘されるまでもなく、どうやら悪い性格をしているらしいと、内心苦笑いが趨
(はし)った。相変わらず、私はいつまでたっても大人になりきれない、子供の精神年齢しか持っていないらしい。
 「哭かしてみせよう、牛の“もう”一声」
 「バカなこと言わないで下さい。“もう”は打ち止めです。“もう”お終い」


 ─────由紀子は、病院で今年の連休旅行の「有難い幹事役?」を仰
(おお)せつかったらしい。
 仰せつかったというより、駆け出しのタマゴは、押し付けられたという方が正しいかも知れない。あるいは尊敬する先輩医師たちや、経験の長い看護婦連中の願望を恭
(うやうや)しく承ったのかも知れない。
 要するに、使い走りに使われただけだったのだろう。
 なりたての、経験の浅い“ひよっ子”に、お鉢が廻ってきた分けである。

 彼女の話によると、計画していた旅先の旅館が、突然の火事で焼けたと言うのである。
 事実この年、旅館の火事が多かった。その中でも、泊客の煙草の不始末が最も多かった。当時、煙草は、今の時代と異なり日常茶飯事の喫煙行為で、どこでも当然のように吸われていたし、それを咎める周囲も少なかった。健康願望の意識は極めて薄かったのである。
 子供の前でも、重要な会議などの席でも、上役が居ても、「煙草を吸っていいですか」などと、周りに同意を求めず、ごく当たり前のように、無意識に、喫煙者の好みとして、“呑みたいから呑むのだ”という権利として吸うのだった。おそらく、この時代、喫煙者の権利とさえも思っていなかっただろう。
 寝タバコも、日常茶飯事の行為だった。床に入ってから、最後の一服を遣るのである。困った習慣だった。

 またこの時代、スプリンクラー設備などの消火設備を整えた旅館やホテルは少なく、昭和57年2月の東京千代田区のホテル・ニュージャパンの火災からも分かるように、十分な消化施設がないために死者33名、負傷者34名という大惨事を招いたのである。
 当時は防火設備の徹底とか、その中でもスプリンクラーの設置をするという認識は薄く、ホテルに限らず、デパートでもスプリンクラーの設置は、熊本の大洋デパート「鶴屋」の大惨事
(昭和48年11月に発生。年末に向けての買い出し客や従業員、工事関係者ら103人が死亡、124人が重軽傷)を見ても分かるように、日本人には防火設備の認識は殆どなかった。
 デパート火災の大惨事は、戦前の白木屋
(しろきや)火災を見ても分かるだろう。
 この火災は、東京都中央区日本橋一丁目に存在した、かつて日本を代表した百貨店の「白木屋」が火災を起こした大惨事だった。
 この火災は昭和七年十二月に起こった火災だった。この火災で逃げ遅れた客や店員ら、十四人が死亡し、五百人余りが重軽傷を負った大惨事であり、日本初の高層建築物火災となった大事故だった。

 当時、白木屋は歳末大売出しとクリスマスセールが重なり、店内は華やかな飾りつけがなされていて、開店前の点検でクリスマスツリーの豆電球の故障を発見したのである。そして開店直後に男性社員が修理しようとした時に初の火災が起こる。それは誤って、電線がソケットに触れたためスパークによる火花が飛び散り、クリスマスツリーに着火たのである。何ともお粗末だった。
 そして歴史史上、有名な出来事が起こる。

 私が敢えて「歴史史上、有名」と定義するのは、クリスチャンでもない日本人の多くが、外国の宗教儀式の雰囲気だけを、表面的に取り込み、欧米人の真似をして日本文化を蔑ろにした、一種の報
(むく)いが日本人に降り掛かった元凶であると捉えたからである。
 日本人は、キリスト者でない限り、クリスマスとは無縁である。
 しかし、無縁のものを商魂逞しく、商売に結びつけるのが商人であり、ここに資本家の文化まで畸形にしてしまう恐ろしさを感じるのである。
 そして私は、かのブルボン王朝を崩壊させた、フランスの銀行家どもの仕組んだブルジョア革命すら、連想してしまうのである。
 “クリスマス商戦”イコール“白木屋火災の大惨事”に、直ぐに結びつけてしまうのは、私の傲慢
(ごうまん)だろうか……。

 かつて、日本橋消防署に在籍していた器械体操の経験者が、消防車積載の梯子
(はしご)を外壁に垂直にかけて攀(よ)じ登り、ロープで固定して避難ルートを作った上で被災者を誘導したが、一部の客や店員らはパニックに陥り、売り場にある布やカーテンを結んでロープ代わりにしたり、女性店員の帯を結んで脱出を試み、途中で切れて転落死した。
 また、消防署員が地上で張った救助ネットをめがけて、七階から飛び降りて助かった客や店員が80人ほどいたが、目測を誤って地面に激突して死亡した人も居たのである。その中でも、哀れなのがデパートの女子店員たちだった。彼女たちは、女の恥じらいにおいて、ロープを握るより、着物の裾を押さえたのである。それを選択したのだった。

 なぜ、そちらを選んだのか……。
 また、恥じらいを起こさせる現象が起きたのか。
 大火災現場では「上昇気流」が吹き荒れる。下から上に向かう風が猛烈に起こる。
 何もかも一切を、下から上へと吹き上げる。着物の裾も捲
(まく)し上げる。
 そのうえ下では消防署員の他に、警備のために軍隊が出動し、救急隊の男までもが居る。その行方を見守っている。
 そうした男の視線に恥じらいを感じるのは、淑女として、当然かつ必然の意識だった。
 日本女性は、この時代、多くがこうした羞恥の意識を持っていた。今とは違う。

 白木屋の店員の多くは、女性の恥じらいを重んじた女性店員たちであり、そこに悲劇が起こった。ロープを離したために、転落死するという悲劇が起こった。
 彼女たちは、ロープから手を離してまでも、着物の裾を押さえたのである。そちらを選んだ。そして地面に激突していった。
 恥じらいを知る意味では、「見上げた根性」だった。彼女たちは男以上だった。
 男としての私も、この行為にはシャッポを脱ぐ。偉い女たちと思う。
 当時、まだこういう偉い女たちが居た。恥を知る女たちが居た。確かに彼女たちは、本当の意味で「大和ナデシコ」だった。恥じらいを知る日本人の末裔
(まつえい)だった。その意味では“大和撫子”だろう。淑女の代名詞として、日本ではこう呼ばれてきた。

 ちなみに昨今では、マスコミの作り出した流行によって、ある種のスポーツの種目の中で、「なでしこジャパン」とか“サムライ日本”とかのチーム名が持て囃
(はや)されている。日本代表名などと豪語しているが、芸能人気取りのスポーツ・タレントに、本当の「なでしこ」とか「サムライ」がいるのではない。
 むしろ、無名の底辺の名も無い、平凡に日々を暮らしている人の中にいるのである。芸能人やスポーツタレントの中に、この手の女性はいない。
 真物は普通、目立たずひっそりとしている。
 私は、当時の火災で、ロープを握る手までを離して、自分の着物の裾をひたすら押さえた女性たちの「恥じらい」に、いたく感動する。これでこそ、「なでしこ」の名に相応しいと思うのである。
 その後、白木屋は女性店員に、これまでノーパンだったことが多くの死傷者を出したと結論を出し、ズロースを穿くことを義務付け、翌年には和服から洋装にすることを奨励したのである。
 これがよかったのか、悪かったのか……、あるいはその時点から、日本女性の羞恥心が次第に薄れていく元凶になったのかも知れない。

 羞恥心……。
 それは日本女性に送られた「最高の無形の勲章」ではなかったか。
 その代名詞が、「大和ナデシコ」ではなかったか。
 いま、最高の女性を讃える勲章であるはずの「大和ナデシコ」の意味が、急速に薄れつつある。そうした意味での、かつての美しい日本語を知る、日本人も少なかろう。
 ちなみにナデシコとは、「撫子」という漢字を用い、秋の七草の一つであり、野や河原に生える多年草のことであり、桃色の花びらをつける草花である。かつての日本人は大和国に思いを馳せ、「大和撫子」と称したのである。

 私は火事についての印象は、かつての祖父母らから聴いた、白木屋の大火災を思い浮かべ、そこで死んでいった女性店員たちの「恥じらい」を想うのである。
 人間の不注意と、安易な思い込みによる勘違いが、最後は大惨事を招くという恐ろしさである。
 由紀子から旅先の旅館が火事になって焼失したということを聴いて、直ぐに戦前の「白木屋の大惨事」を連想したのだった。
 火事イコール白木屋の大惨事、更には旅館やホテルの火災の大惨事、そしてホテル・ニュージャパンの大火災と連想されるのだった。

 特に、旅館やホテルでの火災の原因の多くは、社員旅行や仲間通しの旅行をして旅先の旅館に泊まって、これまでの憂さを晴らすように大酒を飲み、酔った挙句の喫煙者が煙草の不始末により、火災が発生したという事件が多発していたのである。乾燥注意報でも出ていれば、火災の確率はグーンと跳ね上がり、これが異常乾燥に伴う、客室壁内部の空洞施工が原因でフラッシュオーバーと呼ばれる現象が発生した場合、その殆どが大惨事となり、泊まり客は火災の犠牲になる場合が多かった。

 昭和48年前後を挟んで火災事故の多くは、泊まり客のタバコの不始末や、それに併せての異常乾燥、更にはフィラッシュオーバーという現象により火災が発生し、それに伴う犠牲者が多く出るのは、室内の施行工事に問題があり、可燃材による内装などが犠牲者を出す原因になっていた。楽しいはずの憂さ晴らしの旅行が、こうした生き地獄に一変するのである。
 こうした事情により、由紀子から適当な宿泊所を訊かれたのであった。
 予定先の旅館が火事になったため、その後、彼女は何軒か別の宿を捜したのだが、何ぶんにも五月の連休のことであり、何処も満員で、仕方なく諦めようとして、半信半疑の、ほぼ絶望的な気持ちで、私に話しを持ち出したと言うわけであった。

 「どこな適当なところが、あるのかしら?」
 こう訊かれたのが数日前だった。
 私は安易に断るのでなく、いくらかでも希望を持たせてこう返答した。
 「ただしですね、急なことですから、余り贅沢
(ぜいたく)なことは言わないで下さいよ」
 旅先の観光地や行楽地に合わせるのではなく、宿泊所に合わせてもらうことにしてもらったのである。
 「贅沢って、どんなことですの?」
 「少々不便でも……」
 「分かっています。時間を忘れて、のんびりと何処かで日頃の疲れを取って、ゆっくり羽が伸ばせればそれでいいの」
 「じゃあ、任せてくれますね」
 「勿論ですわ」

 大きなことを言って請け負った私は、この彼女の笑顔に、多少の重荷と責任と不安の影を感じた。それは期待しているという笑顔であったからだ。これは絶対に裏切ってはならない期待だろう。
 話はこれで一件落着したように思えるが、これからが私の奔走
(ほんそう)するところであり、私の苦労の始まりとなる。私が引き受けたのは、心当たりがあるからであり、これを頼りの綱(つな)にしていた拠(よ)り所があったからだ。
 その頼りに綱と言うのは、私がY大学の師範をしていた頃、そこに四国出身の学生がいた。
 彼は口癖
(くちぐせ)のように、「俺の叔父さんは、四国の奥道後温泉の旅館組合の会長をしている」が、口上垂れの決まり文句であり、これを後輩たちに自慢げに話していた。

 「一度、四国に遊びに来るようなことがあったら、いつでも俺の所に寄ってくれ。後輩のお前たちから金など取ろうとは思わない。俺の顔で高級旅館にタダで泊めてやってもいい」などと、日頃から大きな口を叩いていた。
 彼のこの言葉は、後輩たちの信望を得て、一種の尊敬を勝ち取り、いつでも頼りがいがあり、ある意味での「面倒見のいい先輩」で通っていた。これも口先から出た言葉の演出だろう。だが不言実行の演出家でなかったことは明白である。
 彼は一年前に卒業して行ったが、噂によると叔父さんの顔利
(かおき)きで、何処かの観光ホテルの支配人になっているということであった。
 私は、いつも彼の口癖
(くちぐせ)を心の片隅に仕舞い込み、孰(いず)れ何かの時には、彼に頼むかと言う気持ちでいた。そして、ついに「孰(いず)れ何かの時」が来たのである。

 この彼の名をTと呼ぶことにしよう。
 私は学生たちから彼の電話番号を聞き出し、Tに早速電話をした。Tの返事は、私の想像していたものと大きく異なり、その予想を反していた。

 「先生の気持ちは急遽(きゅうきょ)のことで、痛いほど分りますが、幾ら顔の広い私でも、今頃になって、そんなこと言われても無理です。一年の中
(うち)で最大の連休を前にして、今頃申し込んできても、空き部屋があると思う方がおかしいじゃありませんか」
 その口調は少々傲慢
(ごうまん)で、不機嫌に苛立っていた。
 Tの一言で呆然となり、それ以上、返す次の言葉が出てこなかった。

 (顔の広い君だからこそ、この無理な願いを聞き届けるくれるのではないかという絶大な信頼と、期待で頼んだのではないか。「今頃」だからこそ、無理と分かっていて、頼んだのではないか)という気持ちでいたが、Tは評価に値しない期待外れの小物であった。口先の徒であった。
 世の中にこうしたタイプの人間は多いと思うが、一方で、それを真に受ける私のような空想家も少なからずいるということである。私は幻に取り憑かれた空想家だった。そしてTを過大評価していたのである。
 人を見抜く目が養われていなかったと言ってよい。
 この時、口や表面に何らかの飾りつけをする人間は、実に信用のおけないものだという感想を持った。理不尽の現実を見た思いだった。
 世の中には口先だけの人間が多い。恃まれて黙って不言実行を実践している者こそ、稀
(まれ)である。

 武士に二言はないという。
 しかし、江戸末期までに日本中に居た武士の数は、全国民の7%前後という。
 これは名字帯刀を許された豪農や、藩士でない郷士や浪人主含めての数であり、十人に一人も満たない割合だった。
 十人が十人、「俺に任せて大船に乗っていろ」という約束をした場合、この実行率は、かなり低いものになるだろう。何しろ「武士に二言がない」と口から吐く数が7%程度で、武士はみな二言がないということはあり得ないから、7%を下回るのは確実である。
 しかし一方で、不言実行をしているのは武士に限ったことではなかったから、二言を持たない者は、武士を除く、農・工・商の中にも居たはずだから、まあ大目に見て5%か、それを下回る数だったろう。こうした現実を踏まえて、西洋では「契約」というものを誓わせるのである。
 西洋の契約は、神を介入した誓約であり、結婚するにも神を介入させて、神との間に男女の結婚が許されるのである。

 これを経済行為の中に持ち込んできたのが、プロテスタントとだった。
 ドイツの社会学者ウェーバー
(Max Weber)が指摘している通り、今日の資本主義経済を発展させたのはキリスト教の精神だった。この宗教の「契約」の理念が資本主義を発達させたのだった。
 「契約書を書く」ということは、人間が口で喋るより重々しいものになる。文字に書き、認
(したた)めたのだから、約束していないなどと後に覆せない。証文という証拠がある。
 しかし日本では、商人の証文の他に、「口約束」というのがあった。武士に二言がないと言うのが、それであった。武士は自分の口から出た言葉を大事にし、その信用で、自分の躰を張ってきた階級である。実に、不言実行は此処にあった。

 そして私の観念では、武術や武道をしている者も、その愛好者を含めて少なからず「武」に携わっているという観念を持っていたので、不言実行とまでは行かないが、それに近い存在と信じていたのだった。
 また、私が指導している各大学の学生も、それに近い考え方を持ち、礼儀正しく、自分の使っている言葉に責任を持ち、人から信用されるようなことをしているのだと思っていた。
 しかし、これは私の思い込みだった。
 武術や武道の一部が、競うことにより、他のスポーツ競技と同じようになってしまったため、礼儀正しさや人格は二の次になり、勝つことのみが鍛錬の目的となり、大会に出て勝者となって他から脚光を浴びるというのが、日頃のトレーニングの目的になったようだった。修行ではなく、トレーニングだったのである。トレーニングはスポーツ的だから、武の持つ、恥に対する観念や礼儀正しさなどという礼とか、仁とか、義というものは化石のような過去のものに押しやられるのである。

 私の教えも、既に空洞化し、あるいは化石化していたのかも知れなかった。そこに虚しさを感じる。その虚しさは空虚であり、またそれは、この世の中を理不尽を思い知らされる現実だった。人間界に存在する「この世は碌でもないところ」という現実を自覚させられることだった。

 さて、この事を毎年五月が来る度に、当時の回顧するにつけ、Tのことが思い出され、凡人は如何にも当たり前のことを、当たり前にしか答えられないのか、という悲しい私感に陥ることがある。
 もしあの時、Tが渾身
(こんしん)の力と、自分に置かれた環境と、裁量をフルに活用して、私の願いを聞き遂げていたならば、私は彼に対して生涯感謝し続け、その地位は揺るぎのない尊敬に値するものであったであろう。彼には一人の人間を心から感動させ、畏敬(いけい)の念で尊敬される絶好のチャンスがやって来たのであるが、これを無慈悲にも退けたのである。自覚症状のない理不尽を働いたのである。

 幸運の女神は前髪だけで、後ろは禿という。したがって幸運の女神を捕まえようと思ったら、前に顕われたとき、もう前髪を掴んでいなければならない。通り過ぎて、後ろ髪を捕まえようとしても、禿だから掴みようがない。
 世の中には、こうして自分を売り出すチャンスが何度か遣って来るが、それを見逃し、みすみす取り逃がす人が多い。兆しは『易』で言う「困」として顕われるようだ。

 世間風の解釈では、“ピンチはチャンス”と言うが、これは言葉の綾
(あや)で、好機を当て込んだ虫のいい解釈のように思える。実感として感得するには非常に難しい言葉だ。危急の場合に、好機を描くのは難しいことである。窮地(きゅうち)に陥った、その殆どの人は、窮地の圧力の押し潰(つぶ)されて、果敢(あえ)なく消え去るのが運命のようだ。危機を凌(しの)ぐとは、そういうことなのである。
 好機を招き寄せるには、「発想の転換」という、今までの暗い固定観念を捨て去った打開原則を全
(まっと)うしない限り、心身ともに向上していく糸口は見つかりそうにないようだ。
 私はこの時、断られたショックに打ちひしがれる間もなく、次の手を打たなければならなかった。次にどのような災難が降り掛かるかを考える暇
(ひま)すらなかった。今やることは、次の手の新たな模索(もさく)であった。
 「かちかち山の狸」にならないようにしなければならないのである。
 一般に知られる「かちかち山」の物語は、昔話の一つとして、室町時代の末期に成立した話だが、この話は狸に殺された婆さまを、爺さまのために兎が復讐するというシナリオで、勧善懲悪の寓意と知恵の勝利、また任侠と復讐の精神を表したものとなっている。
 ところが、ある八門遁甲の大家から聞いた話では、このシナリオに巧妙な「軍立
(いくさだて)」がある戦記物と聴いたことがある。それが「泥舟」を模した策であった。
 策は最初、口から出
(いず)る。だが、気付くのが遅いと特異点という“どんでん返し”が起こる。
 私の「泥
(どろ)出来た大船」は、その使命を果たすことなく、脆(もろ)くも崩れ去ろうとしていた。早急に次の手を打たなければならない。そのことだけしか眼中になかった。
 そして考え抜いた挙げ句、ある場所が思いついた。

 山村師範と伴に、訪れたことのある若宮
(わかみや)の英彦山(ひこさん)の梅林寺(ばいりん‐じ)であった。此処には宝蔵院流槍術(ほうぞういんりゅう‐そうじゅつ)の遣(つか)い手、鹿島玄幽(かしま‐げんゆう)老師がいる。玄幽老師は文武を極め、禅によって自らを完成させ、その微動だにしない立ち振る舞いは、若年の私を畏敬の念で畏(おそ)れさせていた。

 「あそこしなかない」そう思うと、そこへ頼みごとを持ち込む以外、この急場は乗り切ることができないという勝手な妄想が私を支配していた。私の脳裏に閃
(ひらめ)いたのは、梅林寺の離れにある宿房(しゅくぼう)であった。此処の宿坊は、また僧侶の僧房でもあり、昨今で言う参詣者の体験宿屋とは異なったものである。鍛錬道場である。
 善は急げ……、そう思うと直に行動を開始した。
 仮に断られる場合があっても、その時はその時で、姑息
(こそく)な手段として、地べたに這(は)い蹲(つくば)って平蜘蛛(ひら‐くも)のように土下座して、私の苦しい胸の内と、事は急を要するということを熱っぽく語り、老師に同情を得るしかないと思った。
 この手でいこう。

 作戦は先ず、山村師範を訪ね紹介状を書いて貰った後、梅林寺の鹿島玄幽老師に、その了解を取りつけるというものであった。
 そのとき山村師範はポツリと最後に言葉を付け加えた。
 「程々にしとけよ」
 泥の舟は度々浮ばないという意味だろうか。
 私はこれがどういう意味なのか、最初よく分からなかった。
 「程々と申しますと?」
 「女だ」
 「女?」
 「女は、一時頼られると天国になるが、一生頼られると地獄となる」
 化けの皮の剥げる泥舟は一時的なもので、あとは沈むだけと言うのであろうか。そしてやがて背中に背負った柴に火が点いて劫火に焼かれる……。そんな結末だろうか。
 「はあ?……」

 私は煮え切れぬ返事をしたが、言われて見れば尤
(もっとも)だと思った。山村師範の最後の言葉が耳から離れず、暫(しばら)く余韻(よいん)を引いた。攪乱されているようでもあった。そこに不安と迷いが起こった。私の心は常に揺れ動いているのだった。
 その度に、修行が足りないな……と思うが、自分では如何ともし難いのである。
 しかしこの時、捻
(ひね)くれ者と思われた山村師範は、難なく紹介状を認(したた)め、後はそれを梅林寺に届けて、老師の許しを乞うという作業だけが残された。事は順風満帆(じゅんぷう‐まんぱん)のように全てが順調に運ばれていると思われた。

 私はその足で直ちに梅林寺に向かった。
 八幡駅から列車を小倉、城野
(じょうの)と三回乗り継いで、一路英彦山に向かった。日田彦山線は、山の奥へ奥へと入って行く。渓流沿いに二両編成のディーゼル列車が走るのである。
 久しぶりに見る若宮の英彦山の山々は美しい。駅から曲がりくねった坂道を黙々と昇って行く。40分程昇ると、寺の第一の門前の黒門が見え始めた。
 此処は戦国期の出城
(でじろ)造りになっていて、急な坂を利用した堅固な要塞(ようさい)を呈している。参道(さんどう)に差し掛かると門前に萩(はぎ)の蕾(つぼみ)が小さな実を付けていて、開花する時機(とき)を窺(うかが)っていた。
 ふと足許
(あしもと)に目をやると、そこらここらに早蕨(はやわらび)が萌(も)え始めていた。
 その向こうに目をやると、近所の小さな子供たちが、はしゃぎながら、芽を吹き始めたばかりの柔かな鶯色
(うぐいすいろ)をした蕨を摘(つ)んでいた。

ある山門 僧堂玄関

 息を弾ませながら参道の石段を昇って行く。陽気は夏を思わせるせいか、暖かく躰中が汗ばんでくる。
 石段はおかしな処から再び急に曲がりくねり、甃
(いしだたみ)が急な勾配(こうばい)を造っていた。これも恐らく軍略上の配慮(はいりょ)から、そのように造られているのであろう。
 山間には鶯
(うぐいす)の声が木霊(こだま)して、清々(すがすが)しい空気が優しいそよ風となって、あるが儘(まま)に心に吹き付けてくる。

 第二の門を抜けたら天を突き刺すような伽藍
(からん)があり、そこを潜(くぐ)ると厳(いかめ)しい寺の間口の広い玄関があった。
 玄関で声をかけると初老の寺番らしい男性が出て来て、玄幽老師にお目通りしたい旨を告げ、山村師範の紹介状を渡すと客間に通され、暫くそこで待たされた。
 客間の床柱
(とこばしら)は、どっしりとした黒檀(こくたん)と檜(ひのき)を組み合わせたもので、床飾には一輪の菖蒲(しょうぶ)が、紫檀(したん)で出来た花台の上の一輪挿しに生けられていて、後ろに掛けられた掛け軸の「飛翔(ひしょう)」という力強い筆捌(ふでさば)きの字に、良く調和していた。

 庭に面した方の障子
(しょうじ)は全て開け放たれ、客間の座敷から美しく落ち着いた石庭が一望できる。簡素で、さりげなく敷き詰められた石砂利(いしじゃり)を海と見立て、その中央に苔(こけ)で覆われた味合いのある、横広がりの大きな石が、二つバランスよく置かれていた。そこは静かな湖(みずうみ)の湖面に洗われる岸壁の一影を思わせた。
 此処には一種独特の荘厳
(そうげん)な謐(しず)けさがあった。空は何処までも美しく晴れわたり、時々木霊する鶯の鳴き声は、春の長閑(のどか)を告げて耳を楽しませてくれる。まさに瑞兆(ずいちょう)を暗示する長閑さであった。
 一面に広がる緑の木々や苔も石庭も、目前に遠望する青き山の頂きも、また美しく木霊する鶯
(うぐいす)の声も、何もかもが、瑞兆の一部に他ならなかった。ここは俗悪な世間を悉々(ことごと)く遮断し、別天地の様相を極め、何もかもが森羅万象の潤いに満たされている歓喜の滴(しずく)に溢れている所であった。
 この構え、この造り、この広さ、この景色。何処を見ても日頃の疲れを癒
(いや)し、羽を伸ばすには絶好の場所である。ここなら、その辺の傲慢(ごうまん)を気取るサービスの悪い二流三流の旅館には、決して引けは取らない筈だ、とその絶景と日本建築の妙(みょう)の素晴らしさに目を奪われていた。

 由紀子は此処で一時
(ひととき)の満足感に浸り、満喫(まんきつ)の限りを尽くして、私に感謝するのではないかという、奢(おご)りに似た感情が立ち上っていた。(してやったり)これが私の今の感想であった。
 そんな風景に目と心を奪われているとき、玄幽老師が私に待つ客間に姿を現した。
 「ご貴殿は、以前山村先生と一緒にござったごお人じゃな」
 「実は……」とそう話を持ち出そうとした途端、
 「それ以上言わなくても宜しい。了解しよう。ただし、拙僧
(せっそう)の相手が済んでからじゃ」と妙なことを言う。
 「お相手と申しますと?……」
 「これじゃよ、これ」
 老師は一本の筆を手にして、私の前で書を窘
(くるし)める素振りをした。私は老師が一体何を言っているのか、また何を行おうとしているのか理解に苦しんだ。
 (一本の筆は何を意味するのか。単に禅問答の一種なのか)などと思案に苦しんだ。訳の分からない儘、一瞬の困惑に固唾(かたず)を呑んでいた。私はこの時、試されて居たのである。

 「拙僧の後を蹤
(つ)いて来なされ」
 老師は、そう言って、私を僧兵堂
(へいそう‐どう)と言う、この寺の特設道場に案内してくれた。中に入ると雨戸は、入口の一か所を除いて全てが閉ざされ、締め切られていて、中は薄暗かった。
 この僧兵堂は、戦国期僧兵たちが、武技の稽古を積んだ場所であるらしい。槍の修練をするためか、道場にしては高すぎる程の天井が、吹き抜けていて、二百畳程の檜の板張りに黒ずんだ太い柱が両脇に各々四本どっしりと立てられていた。
 その柱の至る所に、木刀や木槍だけではなく、真剣か、長刀と思われる傷が、深く斬り付られており、その跡がはっきりと確認できた。昔は此処で想像を絶する真剣勝負が行われたのであろうか。

 僧兵堂の中央上座には、雛壇
(ひなだん)のような神棚が祭られていて、神仏習合というより「神仏両輪」というような不思議な空間が辺りを支配していた。神と仏が重なっているのである。
 神棚の下には、入口の方から差し込む一条
(ひとすじ)の光で仄(ほのか)に薄らと、「ゝ」の一点の筆跡の掛け軸が掛けられているのが窺(うかが)われた。
 その筆跡には、風の中を一気に駆け抜けたような凄
(すさま)じい気迫が示されていて、恐ろしいまでの痕跡(こんせき)が、唯中央の一点のに、「ゝ」の一文字で打ち込まれていた。

筆者が見た「ゝ」の復元図。

 何と言うエネルギーの集約か!一点に強烈なエネルギーが打ち込まれている。そう感じずに入られない程、鋭くも、恐ろしい気合いが感じ取れた。圧倒されてしまうような迫力だった。
 私はここに至って、老師が何を行おうとするのか分かりかけてきた。「ゝ」の一点が、私の躰の何処かに打ち込まれるのではないかという、身震いするような恐れが躰の中を駆け抜けた。戦慄である。
 老師は、このような私を一瞥
(いちべつ)すると筆に墨を付け、徐(おもむろ)に私の前に立ちはだかった。
 「拙僧
(せっそう)の筆を躱(かわ)してみなされ。獲物は何を使ってもよろしい。存分に好きなものを選びなされ。何なら真剣でも構わん。それでこの筆を躱わしてみなされ」
 この言葉で内心
(随分と年寄りに嘗められたものだ)という侮られた感想が込み上げてきた。

 玄幽老師の噂は、山村師範に聞かされてよく知っていた。
 しかし“筆”対“武器”では、最初から勝敗は決まっているではないか、という甘い気持ちが私の脳裡を先行していた。筆を武器と看做
(みな)さなかったからである。筆は生活の一部の必需品であり、その程度の見識しか持っていなかった。先入観が先行し、思い込みが激しかったのである。
 私は老師の注文通り、真剣だけは遠慮して、一番軽いと思われる木刀を手にしていた。

 それを手にした私を見ると、
 「拙僧を何処からでも打ち据えなされ。拙僧の躰を少しでも掠
(かす)ることが出来れば、ご貴殿の頼みは全て叶(かな)えてしんぜよう」と、厳然として言うのだった。
 (駆け引きを出すとは、些か癪(しゃく)に障るが、持ち出した条件の、何と他愛のないことか)と甘い気持ちが隠し切れないでいた。
 昼間とはいえ、この僧兵堂の中は一か所を除き、雨戸が全て閉ざされていて薄暗い。眼の遠近感に障害を持つ私としては、逆に薄暗いことは好都合の場所であった。
 耳も、人よりは何倍か良い。
 これを一つのチャンスと思いながら、私が木刀を構えて老師と正対しようとした瞬間、一気に場面は変わって、一枚だけ開け放たれた雨戸側を背にして、老師が床から燃え上がる熱陽炎
(かげろう)のように姿を揺らして立っているのが確認出来た。茫然(ぼうぜん)とした、揺らぐ影のようだった。
 それは眼を疑うような光景だった。
 しかし逆光線なので、その、お姿やお顔の表情までは、はっきりしなかった。あまりにも茫然としていたからである。不思議な現象を見ているかのようだった。

 木刀を打ち据える間もなく、私の額
(ひたい)に濡れたものを感じた。不思議に思って手を当てみると墨の跡が付いた。立ち竦(すく)む老師の姿を窺(うかが)ったが、老師は音を立てて動いたような気配がなく、ただじっと雨戸から差し込む一条(ひとすじ)の光を背にして、無言の儘(まま)立っておられた。
 私には今一体何が起こったのか、全く分からなかった。もしこれが墨を付けた筆ではなく、一揉
(ひと‐も)みに、脳まで揉み進む鋭い錐(きり)であったら、と思うと、次第に恐ろしくなった。額に付けられた墨の跡は、血の跡に変わっているのではないかという恐ろしい戦慄(せんりつ)が湧き起こった。老師を蔑ろに出来ないという畏怖(いふ)の念が込み上げて来た。

 老師の早業
(はや‐わざ)が、単なるまぐれに似たものだと思いつつも、今度こそはという気持ちで、間違いなく打ち据えたつもりでいたが、またもや、額に墨を付けられた。
 この期
(ご)も、二度三度と往生際悪く必死で斬り込んだつもりでいたが、易々と躱され、暖簾(のれん)に腕押しであった。老師に全く触れることも出来ず、完全な敗北に終わったのである。
 私は愕然
(がくぜん)となり、ガックリ床に手を付いて肩を落としていると、
 「そんなに墜
(お)ち込まなくてもよろしい。お相手頂いたお礼に、ご貴殿の頼み、しかと聞き届けよう。あとは寺番の作治に細かい事は聞きなされ」こういう言葉を残して、この場を後にされた。

 不思議な目に合わされた事と、後味の悪さから、素直に願いの適
(かな)ったことが喜べなかった。私には大きな衝撃であった。
 帰り際に、再度老師にお眼通りを願いたい旨を、寺番の作治氏に再度申し出たが、老師は既に何処かにお出かけになった後で、その願いは適わず、ここからの帰り道は、考え込む道中がしばらく続いた。
 考え込むあまり、何処かのドブに片足を落とし、靴とズボンの裾を汚してしまった。

 駅舎の待合室で時間待ちをしている間も、この衝撃と後味の悪さは交差していた。
 ドブ臭い匂いに誘われて、寄り付く銀蠅
(きんばえ)の翅音(はおと)も、そこから匂う腐臭(ふしゅう)も、私の感覚器には、何も感じ取ることができなかった。それくらい衝撃と戦慄を覚えていた。
 八幡に戻ってからもアパートには戻らず、その足で山村師範を訪ねた。
 この謎を何が何でも解き明かさねばならない。黙って退き下がれない。山村師範にこの事を告げると、ただ笑って、何も答えようとしなかった。
 それでも更に問い詰めると、
 「十年早い!」と血相を変えて怒鳴られ、それ以上何も答えてくれなかった。
 この後味の悪さは、この後十五年以上も続き、私の心の中を今なお、燻
(くすぶ)り続けている。この難解な謎は、山村師範が仕組んだのだろうか。
 今になっても、解き明かしができない謎として、修行の課題となっている。
 仕方なくアパートに戻って、ぼんやりしていると、そのうち由紀子が帰って来て、
 「電気もつけずに何を考えているの。まさかお願いしたお宿が駄目になったのではないでしょうね?」
 何と勝手なんだ、人の気持ちも知らないで……。
 彼女の頼みごとは意外な方向に展開し、奇妙な後味の悪さを引き摺
(ず)り出してしまったのである。私は彼女に、事細かに梅林寺までの地図や、電話番号を教え、宿泊に関する一切を寺で教えられた通りに伝えてやった。

 私は由紀子が出かけた後、一人だけぽつんと取り残されて置いてきぼりを喰らい、孤独空間の中に隔離されたような感じだった。日頃、勤めに追われ、忙しく行動している勤め人にとって、ゴールデン・ウイークはまさに命の洗濯に違いない。私のような定職を持たない社会不適合人間にとって、ゴールデン・ウイークは参加の許されない無用の長物であった。
 しかしゴールデン・ウイークとは、よく謂
(い)ったものだと思う。
 この連休を黄金に準
(なぞら)えることは、単に休みが連続しているから、そう名付けたのではあるまい。
 ただ単に休みが連続するのであれば、年末や年始もあるし、盆休み等も休みが連続する。
 五月始めのこの頃を、殊更
(こと‐さら)ゴールデン・ウイークと呼ぶのは、五月晴れの下で手足の伸ばし、日頃の疲れから解放されて、羽を伸ばす為であるらしい。そして新緑の爽(さわ)やかさを楽しむ季節が、そこにはある為であるらしい。
 そして快適な季節の五月、その喜びも含めて、人はゴールデン・ウイークと呼ぶのであろう。

 車で出かけた二泊三日の彼女たちの小旅行は、非常に有意義で良いものであったらしい。彼女のリフレッシュは叶
(かな)い、帰宅してからの評判は上々であったが、一方私はこの三日間何処にも出かけず、食事もとらずに、思いに耽って寝込んでしまっていた。
 社会不適合の人間にとっては、最も相応しい連休の過ごし方であったかも知れない。



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