運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
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旅の衣・前編 46

昨今は神頼みの多い世の中である。あるいは仏の縋(すが)る世の中である。
 気易く神に頼み、仏に縋る。しかし、それで事が成ればいい。おおかたは成就しないのだ。
 現代人は、一旦は神仏を否定しておきながら、自分の詣でた先きの神仏に気易く頼み事の願懸けをする。望みごとを祈る。
 だが此処から先が難しい。
 願懸けをしただけでは神仏は享
(う)けない。叶えない。
 外方
(そっぽ)を向く。厭(いや)な顔をする。

 神仏の前で偽
(いつ)りは許されない。不可である。
 ところが、それにも関わらず、次のような祈願をする。一種の呪詛の害なきことを願う。
 つまり難を逃れるための、家内安全、健康促進、家庭円満、夫婦和合、子孫繁栄、家業永続、商売繁盛、交通安全、病気恢復、悪霊退散、合格祈願、往生祈願、無事帰還などである。そして最も多いのが、恋愛成就である。恋の行方を占い、それに将来を賭
(か)けようとする。
 別に悪い訳でない。
 ただ享けないだけである。届かないだけである。叶えない。外方を向くだけである。


●落し前

 私の肚(はら)は、この時に決まった。奴らと対決するしかない。そう肚を括(くく)ったのである。
 無理難題を吹きかけられて、要求通りに金を払うばかりが“落し前”ではない。それに癪に障ったのは、捨て台詞の脅しであった。これを私への挑戦と検
(み)た。
 わざわざ噛ませ犬の鉄砲玉を披露し、蛇のような執念深さで絡んで来たからである。
 そのお披露目が“手を持て余す獰猛なやつ”という脅しだった。それは口先ばかりとは言えなかった。本当に獰猛かも知れない。顔には性格粗暴者の色が漂っていたからである。体躯も細めで、肩は撫
(な)で肩、顔は瓜実顔(うりざね‐がお)の目鼻立ちがくっきりとしていて、色白で優男(やさおとこ)然とした美少年である。歳の頃は十七、八歳くらいではなかろうか。

 私はこの少年の顔を見たとき、ふと幕末、佐久間象山を斬った河上彦斉を連想した。
 もしかすると、彦斉もこのタイプの人間ではなかったろうかと思うのである。
 幕末江戸期の「幕末殺し屋・人斬り三人衆」の一人に河上彦斉が上げられる。
 河上彦斉は熊本藩に伝わる伯耆流居合の達人で、有無も言わせぬ抜打の達人で、擦れ違い態
(ざま)に相手を斬り据える特技を持っていた。しかし、彦斉の刀術が我流であったか否かは別としても、ひと呼吸で一気に斬りつけるなどは尋常な腕ではなかったであろう。実戦派の剣客である。その剣客は道場稽古での腕前は、高が知れていて、刀剣を握ると人が変わったように強かったという。
 象山は河上彦斉に襲われたとき、擦
(す)れ違い態(ざま)に右脚を斬られ、突然のことで恐怖のあまり、刀を抜く事なく逃げ出している。そして不覚にも落馬し、止めを刺されている。

 一方、河上彦斉は第一打で相手を仕留める程の手練であった。その彼をして、手練に押し上げるその腕の冴えは、つまり「迷わぬ」ところにある。
 また相手に考える数秒の暇を与えない、無分別があり、この無分別こそが易々と相手を討ち取る要因になっている。つまり竹刀剣術での間合は、約一間
(普通一間は六尺で約1.818メートル)離れて各々が竹刀で対峙する。
 ところが河上彦斉は、こうした剣術の常識を破り、長距離から襲い掛かる激剣術を編み出していた。その長距離からの技術が手裏剣に見立てた、打法後の斬り据えである。

 河上彦斉は、実際に手裏剣を打ち込んでから斬り掛かる剣客ではなかったが、そのイメージを以て、一気に斬り掛かった事は明白であり、第一打、第二打を打ち終えてからの、有無を言わせぬ猛突撃は、さぞかし相手を震憾させた事であろう。
 これは手裏剣を打ち出し、その後、猛烈の突進する、あの白刃をひっさげての恐るべき奇襲である。
 河上彦斉も、暗殺方法はこうした独自のイメージを会得していた。

 斬るか、斬られるかは問題ではないのである。戦闘において、無分別こそ、迷いをなくす最短距離であり、他人にどう思われようと、それは全く問題ではないのである。
 重要なのは、おのが生涯を通して、迷う事なく、信念を押し通す事である。
 そしてそれが定まれば、一切の己の行動に対して、後悔の念を抱かない事である。
 衆目を憚かって、体裁を付ける事はないのだ。無分別こそ、「擦れ違い態」の極意なのである。これは剣術に学んだと言うより「天賦
(てんぷ)の才」であったであろう。
 人間には生まれながらに天賦の才を以て生まれて来る者がいる。その中に、刃物を持たせると、やたら人が変わったように強くなるという者が居る。
 もし、噛ませ犬として飼育された少年が、実はこの種の人間であったら非常に厄介なことになる。その懸念は充分にあった。今度は、私が分けもなく付け狙われることになる。

 少年が見るからに腕っ節が強そうには見えない。頭は弱そうに見えるが、それは就学を終えていないことが原因しているのかも知れない。これまで学校に行かなかった文盲と言う感じの少年であった。むしろ知能指数は高いかも知れない。そのうえ、薄鈍
(うすのろ)というより、性格そのものが性格粗暴者のように感じられたのである。

 「ねえ、兄さんよ。こいつのニックネーム、“ヤッパの俊
(とし)”というんだ。今はちゃちなナイフしか持たないが、こいつにヤッパを遣わせたら手強いぜ。「用心しな」と蛇のような男が言った。
 極めつけの捨て台詞だった。言葉には粘着性の狡猾
(こうかつ)さが絡み付いていた。
 この「用心しな」は気を付けれという意味でない。裏を読めば、「これから付け狙って悩ませるぜ」という意味が含まれている。つまり、枕を高くして寝られないということだ。いつもヤッパの俊が、背後から蛇影として付き纏うのである。
 攻撃を仕掛ける方と、守備する方はどちらが有利か。どちらが不利か。
 勿論、守備が不利で、攻撃が有利になる。何しろ攻撃は、いつ何時、どこで襲ってくるか分らない。これから「杯中の蛇影」に怯
(おび)え、単に影だけではなく、物音一つにも悩まされることになろう。思いも知らぬところで意表を衝かれる可能性も大であろう。

 「それにしても、理屈に合わない勘定ですね」
 今度は私の捨て台詞だった。
 蛇男は、それを一戦交える宣戦布告と採
(と)ったのかも知れない。
 「だから言っただろ。あとで取り返しのつかないことになるって」
 蛇のような執念の男は、遂に本性を吐いた。それは「主導権は自分らにある」という意味である。ということは、私は後手に廻らずを得ない。すること為すこと、みな後手である。
 だが折れなかった。痩せ我慢だったのだろうか。あるいは虚勢だったのだろうか。思えば実に理屈に合わない勘定だった。

 しかしである。「義」によって助太刀しているのである。
 斯くして宣戦布告が宣言された。
 「義」を抱えている以上、脅されて落とし前を付けたとあっては男が廃
(すた)る。人としての尊厳を、肥溜(こえだ)めにぶちこんでなんになろう。毅然(きぜん)とした態度でありたい。
 脅しに屈して、こういう手合いにペコペコ頭を下げ、金を脅し取られるようでは、自分の生きる人生に自信は持てまい。やはり人生の大道を大手を振って、自らに恥じなく生きたい。そのためには反抗の牙を剥くことも辞さない。
 だが、今はその牙も隠しておかねばならない。状況判断を把握することであった。
 更に金欠病の私としては、金以外で解決するしかない。それには戦う事だった。それ以外にない。いかなる結果にも、たじろがないように心を決める以外なかった。覚悟したのである。
 肚を括
(くく)った。

 傲慢
(ごうまん)に押し捲(まく)られて、威圧に屈し、奴らの軍門に降るのは、口惜(くや)しかったし、奴らの要求する大金も、私にはなかった。これを解決する手段として、私設武力の行使で解決するべく、対決の一大決心をしたのである。徹底抗戦である。
 脅されて尻尾を巻くわけにはいかない。抗
(あらが)う以外なかった。無抵抗のまま要求に応じて、その後、二度三度とむしり取られるのはご免だった。

 私はどちらかと言うと、自分自身を“小心者”と値踏みしている。小心なことは臆病にも通じる。
 性格としては、気が小さく、びびり易く、臆病で、心配症で、それでいて、どうかすると途方もない危険に敢
(あえ)て挑んだりする。そして前後の見境がない。そんな狂暴なところも同居していた。また損得勘定を度外視するところがあった。そうなると勝ち負けは二の次になる。
 要するに、小心者は、ある時点で炉心溶融
(メルトダウン)を起こすと、融点を超えて特異点を超えて大爆発起こすのである。窮鼠(きゅうそ)になって蛮勇を働くのである。

 運命や因縁と云うものは、人知では左右出来ない。
 運命の前に、人間が意図的に勝敗を左右することは出来ない。勝にせよ、負けるにせよ、それは人間の作為で動かせるものではない。当って砕
(くだ)けるしかない。運命は逃げるべきものでないのである。それを迎え入れて、これを果たして行くものである。
 決心がついた以上、二の足を踏むべきでなかった。戦って損をするか、得をするか、それは私の知るところでなかった。損をしたら、損をしたで放っておけば済む事だ。これが因縁に順になる、と云う事と踏んでいたのである。サイは投げられたのだ。

 こうなれば行き着く処まで、行きき着かなければならない。
 しかし、此処まで決心した以上、それは無闇
(むやみ)に“負け戦”を展開する分けにはいかなかった。同じ負けるにしても、闘い方がある。一泡(ひとあわ)吹かせねばならなかった。それは何よりも「義によって助太刀もうす」からだ。
 「義」を背負って戦う以上、理はこちらにある。
 私は得を窺
(うかが)って、損得勘定で戦う気は毛頭なかった。「義によって助太刀するのだ」という気持ちだった。義によって戦う以上、損は当たり前だった。

 私は得をえて、栄えて行こうなどと言う気持ちなど毛頭なかった。
 「義」と一緒に死ぬのだという気持ちだった。「義」と共に滅びようとしたのだった。
 理不尽に立ち向かい、「義」と一緒に滅びようとするとき、人は、はじめて「義」によって息を吹き返す。この「義」によって惰夫
(だふ)も勇者となる。
 この域に達して、天下は寛
(お)おどかであることを知る。曇りが霽(は)れ、心は涼(すず)やかに、清々しく明朗となる。
 何を怖れよう。そう思う。何に動揺しよう。
 真
(まこと)の奮闘とは、これだと思う。そしてその源泉は決意から来る。

 「死のうではないか、この旗の下に……」として、次に「死のうではないか、義の為に……」という不安材料が取り除かれ、覚悟が決まるのである。
 此処に来て、これまでの惰夫
(だふ)も勇者となる。懐疑も不安も一気に消滅するのである。
 これは「覚悟のほど」が決めるのである。ただ突き進むのみだった。戦って「生」を全うするのみだった。生き尽くのみだった。
 一方、死のうと覚悟した以上、死んだとしても後悔はない。そして死んだ以上、命を捨てて掛かった以上、そこには不思議な力が働く。死ぬどころか、却
(かえ)ってあべこべに、自分を大幅に生かしきるのだ。
 死んで後悔のない生き方とは、こういう生き方である。これこそが、本当の楽な生き方である。思い悩む事はないのである。心はすっきりと晴れ渡る。戦って戦って、戦い尽くすのだ。
 千歳
(せんざい)の下(もと)、人を生かしむる偉大な行為も行動も、実は此処に生まれるのだった。

 私は「決死隊」を思うのであった。
 決死隊とは文字通り、決死の覚悟で、敵の攻撃に向かう部隊のことだ。生きて帰らぬ覚悟をもった部隊のことだ。
 私はその決死隊員の一人になった覚悟を持った。
 死は、人によってその捉
(とら)え方は様々である。
 死を覚悟する事によって、「生」を断念する人と、「生」を断念する事で、新たに生まれ変わる人である。双方の考え方は天地の開きがあるだろう。私は後者の考え方を捕りたいのである。
 「生」ばかりを追い求めると、その判断は間違ったものになる。死して、はじめて判断は明瞭化される。一点の曇りもないほどの爽やかなものを感じるようになる。何によって生きようかでは駄目だ。「生」を探し求めても駄目である。「生」と云う、「得」になる事ばかりを考えても駄目である。損得勘定で、じたばたしても駄目である。それでは死んだも同じである。

 私は今まで、「生」ばかりを追い求め、「死」から逃げ回っていたのである。逆にこれでは死んでいたのだった。本当に生きた日は、一日もなかったのである。命を後生大事にしたばかりに、本当は命を粗末にしていたのだった。
 生きると云う事は、生命の火を燃やす事である。果たして私の場合、生命の火は不完全燃焼していたのではないかと思うのであった。燃えきらずに、生命の火はただ燻
(くすぶ)るだけであった。
 そして今、眼を醒
(さ)ましたのだった。戦わねばならない。そんな気持ちは私を爽やかにしていた。


 ─────国家間の政治でも、国際政治の場でも、一旦交渉が決裂すれば、後は政治的手段の延長と、武力行使が実行される。袂
(たもと)を分かつ以上、結着は武力に物を言わせた強行手段以外ない。
 そして両方には、自分が正しいと言う「正義」があるから、相手の立場の正義は認めず、自分の方の正義ばかりを強調する。これが戦争の実態である。要するに「義」によって戦うのだ。戦う以上、そこには当然、大義名分が要る。

 私にも、自分の立場としての正義があった。以後は、これを押し通すしかない。こうした訳の分からぬ不正な暴力には、とことん抵抗することが、本当の武士の生き態
(ざま)ではなかろうか。そう思うのだった。
 ここ一番の、意地を見せるしかない。不屈こそ、私の最後の砦
(とりで)であった。私はそう思って対決を決意したのである。
 わが人生を屈することなく、勇敢に生きるためには、どういう態度であるべきか。また不正かつ不当な暴力に対して、どういう態度をとるべきか。それは毅然
(きぜん)とした態度であろう。なにも無抵抗主義の言葉に甘んじて、敵の要求に何でも差し出すだけが、人間に残された道ではないだろう。

 暴力を正面から受けて立つ勇気もなく、寛容
(かんよう)と忍耐を口に出しても始まらないのである。何もせずに、どこまでも無抵抗で通す事が正義ではない。また、泣き寝入りをして、“長い物には巻かれろ”では、余りにも不甲斐(ふがい)ないではないか。理不尽に気おされて、尻尾を巻くのでは、余りにも不甲斐ないではないか。
 暴力を恣
(ほしいまま)にさせてよいう分けはない。哲人カントImmanuel Kant/ドイツの哲学者)すら、《正義が亡びるなら、この世に住む必要はない》と言い切っているではないか。

 そもそも「武」とは何か。
 読んで字の如く、「戈
(ほこ)を止める」と書く。不正な暴力の戈を止めてこそ、まさに「武」なのだ。それはまた「義」に殉じることだった。
 緩柔
(かんじゅう)な教えに従い、無抵抗を気取って、寛容と忍耐で、無力な自分を修飾しても、つまるところは狼に歯向かえない、無力な仔羊(こひつじ)でしかないのだ。戦わずして屈するのは悔しい限りだ。
 陰険な本性を現し始めた不正かつ不当な暴力に、報復処置を取ることこそ、武術家に残された最後の砦
(とりで)なのである。奴等に歯向かうことこそ、武術家の心意気なのである。そして「義」に殉じるのだ。私はそう確信していた。
 そして、死を心に充
(あ)て、その死の行方(ゆくえ)を探していたのである。
 そのとき模索中に、ふと
『アラモ砦の戦い(Battle of the Alamo)』が脳裡に泛(うか)んだのである。
 これこそ、「依って以て死ぬ何かの拠り所」ではないかと思ったのである。
 人は最初から負けると分っている戦いに参戦することがある。不幸を、不運なることを百も承知で、その中に足を踏み入れることがある。
 こうした行動を起こすのは何故だろう。命を賭けていいものとは何だろうか。

 人間は、命を賭けていいものに行き当たったとき、「何と一緒に死ぬべきか」という目的意識に行き当たるようだ。そこには、もう勝ち負けを超越している。
 「道とともに死ぬのだ」という「共に死ぬ何か」が見つかったとき、「この旗の下で」という決意が、有機的な相乗作用を伴って、あたかも『アラモ砦の戦い』のような状況が起こるのではないか。
 この戦いは、1836年、テキサス独立戦争中、デビッド・クロケットら市民と義勇兵の混成軍の189名の独立軍が、メキシコ軍相手に、アラモ教会を砦に立て籠って全滅する壮絶な戦いである。
 メキシコ軍の大軍の前に、勇敢に戦ったのである。その戦いぶりは、一歩も譲らずという壮絶なもので、大激戦が繰り広げられた。
 最初から負けると分かっている、負け戦を敢行したのである。負けると分かっていて、そこから逃げ出さずに踏みとどまり、決死の覚悟で戦うところに「誇りの根源」があり、そこに美学があるのである。
 アメリカでは毎年3月6日がアメリカ人にとって一番胸を張る誇りの日なのである。

 『アラモ砦の戦い』の戦いは、戦闘が13日間に及んだ。激しい攻防の末、3月6日、アラモ砦は遂に陥落する。そしてこの背景には、189人の市民と義勇兵の混成軍も全滅するのであるが、メキシコ軍側の被害も甚大(じんだい)で戦死者は1500人以上と言われる。これだけでも、この戦いが如何に激戦であったかが想像できよう。

 これと同じことは、大戦末期の硫黄島でもあった。
 大戦末期の硫黄島では、日本陸軍がいかんなく能力は発揮した壮絶な戦いであった。日米両軍の火力の差は3500倍以上であった。物量的な差は米軍の方は断然上だった。
 この島で陣頭指揮した栗林忠道陸軍大将(中将)は「日本精神の根幹は、敬神崇祖の念より生ず」とした。
 栗林大将は『日本精神錬成五省』を掲げて、最初から負けると分る戦いをしたのである。
 米軍側は最初、一週間程度で決着がつくと考えていた。なぜなら日本軍の3500倍以上の火力を投じたからである。ところが、陥落させるまでに36日もかかっているのである。

 この戦いを闘った戦士たちは最初から勝つなど、心にも止めていなかった。むしろ勝ち目はなく、最初から負けると分っていた。
 こうして負け戦を闘った動機は、死守の覚悟を持って誇く毅然と生きれば、その崇高なるネバー・ギブ・アップの精神は後世に残ると信じたからであろう。不屈の精神である。


 何しろ相手が拳銃を所持する暴力団なのである。今度こそ、本当に死ぬかも知れないと思っていた。
 それゆえ、覚悟を決めるものが欲しかった。
 この世の顕界
(げんかい)とは、如何なるものか。
 その実態とは、いったい何から構築されているものなのか。

鍋島論語と云われる『葉隠』を生んだ佐賀城の御門。写真は佐賀城、鯱(しゃちほこ)の御門。

 『葉隠』で説かれている顕界
(げんかい)を“夢”とするならば、いったい夢ではない、不変の実体(じったい)は何処にあるのか。現実すら夢であり、夢ですら現実であると説く、現世の顕界(げんかい)とは如何なるものであろうか……。

 私は、夢想して夢を思い、現実を思う。夢と現実の間には、いったい何があるのか。それを夢想せずにはいられなかった。
 仮に琥珀色
(こはく‐いろ)の製造法が、搾(しぼ)り立ての牛乳と、人間の鮮明な赤き血を、五分五分に混合させれば、やがてそれが攪拌(かくはん)されて、あの赤茶の褐色(かっ‐しょく)を作り出すものだろうか。
 もし半
(なか)ば、薄汚れた煩悩(ぼんのう)から起こる迷道(めいどう)の原動力と、半ば清々(すがすが)しい、悟りに似た悟道(ご‐どう)の原動力を撹拌すれば、各々が混ざり合って、やがてバラバラに斯(さ)くが如く、撹拌を始めるだろう。またもし、この現世が撹拌構造で製造された琥珀色の各々の原液であるならば、そこには紅(あか)き血が存在するのではあるまいか。あるいは、あの赤血球の赤い玉ではあるまいか。
 赤い血が、この世の撹拌装置には混入されているのである。
 赤き血の色。そして血の匂い。思えば幻想に誘う何かを感じざるを得ない。

 おおむね黄色を帯び、脂肪ならびに光沢いちじるしい、あの赤玉は、また琥珀に回帰するのであろう。
 もしそうだとすると、その種の根元に類似点を見い出せるような認識の顕現
(けんげん)があることになり、夢と現実は、同根に帰一する要素を持っていることになる。碧玉(へきぎょく)の赤い物は、まさに夢の中の、熟した李(すもも)を幻想させる。まさに“紅き玉”である。それこそが、人間の持つ潮(うしお)の源泉だった。
 赤い潮である。

 進むも夢、退
(しりぞ)くも夢……。一切は幻……。
 幻想は思い起こせど、尽きることはない。夢は、かくも現実を見る如く、また夢としての現実を見ていることになる。斯くしてこの世界は夢を根源とし、蜃気楼
(しんき‐ろう)のような幻(まぼろし)を実体とするものではなかろうか。私はその追求に余念がなかった。碧玉の紅い色は、そこに回帰するのだった。あの艶(あで)やかな赤い玉。そこに潮の源泉があるのだ。
 そう思うと、由紀子自身も「夢の中の人」なのか。
 それが夢なら、夢でいい。好きな女と一時
(ひと‐とき)ではあるが、念願通り暮らすこともできた。もうこれで潰(つい)えても思い残すことはないのだ。
 精神的には、途方もない贅沢
(ぜいたく)をしているのだ。これ以上、何を望むことがあろう。
 今が盛りの“甘い密”に浸って、あるいは一時
の酔いに浸って、死ぬのも悪くはない。そう思っていた。

 だが万一のことがあって、私が死ねば、由紀子は泣くかも知れないが、しかし泣き縋られて死ぬ方が、よほど増しであろう。
 だらだらと平穏
(へいおん)な日々を送り、時間が経って、無慙(むざん)に捨てられて死ぬよりは、まだ増しではないか。
 彼女の恩寵
(おんちょう)が加わらなければ、私はただの“痩せ我慢”の徒(と)に過ぎないのである。
 華々
(はなばな)しく戦って、華々しく死ぬのも悪くない。そして太く短くの、無分別の生き態(ざま)でも、これはこれで、いいではないか。そんな事を考えながら、勇敢に、死地に向かうい原動力が欲しかった。
 この時、一冊の本に行き当たったのだった。



●劇薬

 現代の、思想の劇薬
(げきやく)として恐れられている、山本常朝(やまもと‐つねとも)の口述書『葉隠論語』である。
 「武士道というは死ぬことなり……」の、この強烈な一言で迫るこの書物は、現世の劇薬である。この冒頭で始まるこの書物は、死に向かって猪突猛進
(ちょとつ‐もうしん)する、危険な思想として恐れられている書物である。これは大東亜戦争(太平洋戦争)当時、多くの出征兵士に読まれ、精神を鼓舞(こぶ)した。
 しかし戦後は、一変して悪書と恐れられ、恐れるが故に、劇薬
(げきやく)と称された。またその毒は、一方で薬にもなるのだ。毒をもって毒を制する薬である。
 私は、その書物と快川和尚
(かいせん‐おしょう)の火定(かじょう)を重ね合わせてみていた。これはまさに行動家の必見の書であった。

 「安禅は、必ずしも山水
(さんすい)を用いず。心頭(しんとう)滅却(めっきゃく)すれば火も自(おのずか)ら涼(すず)し」と壮語したのは、織田信長に滅ぼされた、武田家の菩提寺「恵林寺」の住職、快川和尚であった。
 燃え盛る火の海を恐れず、平然と猛火に焼かれて、己一身の生を顧みない、快川和尚の大胆さに、信長軍は驚嘆
(きょうたん)した。それは大胆不敵の行動の中に、現世の俗人には真似できぬ、魂のあり方を、自らの身を以て示していたからだ。
 一方「冷熱
(れいねつ)は、生道人(なまどう‐にん)の知るところに非ず!」とは、慧春尼(えしゅん‐に)の言葉である。慧春尼は燃え盛る火の中で、最乗寺の住職の「火の中は熱いか?」という愚問に、これで答えた。傍観者の愚問は、まさに愚問の域を出なかった。これを思うと、現代人も愚問の域を出ない人種なのだろう。
 そして「心頭滅却すれば……」とは、その上に新たな世界が広がっていて、何処か安らぎのようなものがあるのではないかと思わせるのは、どこか『葉隠』と共通点を持っているように思われる。

 つまり、単的に言うならば、吾
(わ)が身の保身と、物資界の物財に取り囲まれるような、唯物論的な生き方以上に、それを超越したところに、もっと別の、上の次元があることを窺(うかが)わせる。
 此処に到達すれば、現世で惑わされている、美男美女も、あるいは醜男
(ぶ‐おとこ)も醜女(しこ‐め)も、そんなことは一切問題ではなくなり、また貧富の差すら超越して、そこに真当(ほんとう)の世界があるとする、永遠界、絶対界に辿り着けるような、勇気すらを抱くのである。そんな予感すら感じさせる、異次元世界が広がっているように思えてくるのである。

 更に、『葉隠』の武勇の項には、「武士たる者は、武勇に大高慢
(だい‐こうまん)をなし、死に狂いの覚悟が肝要(かんよう)なり」の名言があり、《人の死に態(ざま)の決心》を促している。
 つまり「死に狂い」である。だが、狂い死にではない。
 「狂」の一字に賭
(か)けた行動律である。
 これに突き当たった時、言い知れぬ戦慄
(せんりつ)が趨(はし)った。そして、いつの間にか、死を正面から凝視(ぎょうし)した内容に触発されていた。

 毎日をいつ果ててもいいように、全力疾走をする人間は「死は決して最後のもではない」と説いている。
 常に死を覚悟して、今日一日を「生」の中で精一杯生きる人間には、その行動が眩
(まぶ)しいくらいの光で満ち溢れているということを説いている。私もこの光が欲しかった。
 禅の実践者が一心に禅に打ち込むのは、常に、生も死も捕らわれない心を以て、行き着いた先には、如何なる者にも、束縛
(そくばく)されない自由を求めてのことである。自由を求めての求道(ぐどう)の旅である。
 「生」に囚われない安住の境地を目指すのである。
 それは「死」を忌み嫌わない、安らぎの境地だった。死生
(しじょう)を解決した境地だった。
 しかし、これら実践者の最大の不幸は、死ぬべき時に死ななかった場合である。死ぬ事が実践者の行動原理であり、そこには純粋さを決して失わせることがない。それは死生を解決しているからだ。
 そして、死ぬことも……敢えて解決しているのだ。
 死ぬことこそ、究極に掲げられた耽美
(たんび)の象徴なのである。

 実践者が死を恐れたり、生に執着した時は実践者で無くなり、もはや行動家としての志は、船が舵
(かじ)を失って航行不能となり、やがては座礁(ざしょう)する哀れな結末に似ている。そうなると生死の域から抜け出せない哀れな、迷宮の世界に、身も心も迷い込む事になる。それは死をとちるからだ。しくじるからだ。一生に一回だけしかやって来ない、死のしくじりはその代償が大きいのだ。迷った挙句に横死の死相に、わが肉を捧げなければならないからだ。これこそ、永遠の死ではないか。
 これについては、武士の生き態
(ざま)も同じ事が言えるのである。
 生死に迷いを持たぬ事が、武士の行動原理であり、武士が死を恐れ、死を避けた時は、最早
(もはや)武士では無くなっているのである。死のしくじりは此処にある。

 武士にとって大切な事は、乱世や平世を問わず、生死の迷いに捕らわれることなく、行動によって自らの勇気を鼓舞し、それが行動とともに一貫していなければならない。まさに陽明学の行動原理が此処にあり、『知行合一
(ちこう‐ごういつ)』は、これを明確に物語った言葉である。私は、自分の行動原理は『知行合一』でなければならないと思った。これこそが不言実行の原点なのだ。そして事上磨錬(じじょう‐まれん)だ。現実に鍛われてこそ、それは成就される。

 王陽明の説く、事上磨錬こそ、その錬磨で人間の価値が決まる。
 実際に、事に当って、精神を錬磨することそ、王陽明が声を大にして説いた言葉だった。
 これで私の肚
(はら)は決まったのであった。喧嘩師として肚(はら)を据(す)えたのである。
 その行動原理は、《分別のない狂暴性》であった。分別知に頼らない、「無分別智」が必要なのだ。分別知
では、常識を超える事は出来ない。無分別智だけである。
 打算や利害を捨てた「道と一緒に死ぬのだ。道と一緒に亡びよう」という信念を貫く以外ない。
 「この旗の下で死のう。大旆(たいはい)を掲げた崇高な精神の下に、ともに亡びよう」とする、死してもなお悔いない誇りがあったのではないか。
 ここにきて惰夫(だふ)も、勇気を奮い起こし、敢然と戦い勇者となるのである。
 こうなると、金銭とか金融とかの儲け話は無関係となり、ただ日本の武士道流に言えば、「武士道は死ぬことと見つけたり」に回帰するのである。無分別智の極みだった。


 分別のない行動こそ、純粋で強力なものはない。事を起こすのに、一々分別を持ってしまったら、その決断は鈍
(にぶ)り、行動には迫力がなくなって、新鮮さを失ってしまうのである。心意気や怒りまでもが薄れてしまうのだ。目的意識も、ふやけよう。だから無分別智が必要なのだ。
 だから、行動の終わった後の事を、一々考えてはいけないのである。
 例えば行動において、世間風の分別をもって考えると、結果は最悪となる。怪我したり、させるのではないかとか、警察沙汰になるのではとか、親兄弟家族のこと等と、一々考えてしまうと、その行動は力を失い、実に弱いものになる。行動を起こすその手段と、それが実行されて、終了するまでのことだけを考えればいいのであって、その後の事態は一切考えなくていいのである。戦いが終えた事後処理までを考えると、目的意識がぼやけるからだ。

 それで、由紀子の事も頭の中から消した。彼女の事を一々考えれば、こんな行動など出来るものではない。時間は時として、人間を従順にした後、堕落
(ついらく)させることすらあるのだ。
 時間というものは、人間を向上させる要素も兼ね備えている反面、冷静な分別を与えて、従順にする。意志薄弱の境地にも陥れてしまうのである。それが時間だ。時間が経過すれば、時間は人間を従順になる。時間と倶
(とも)に分別知が起る。怒りは火の玉になっている時が一番強いのである。

 後先考えないで、一気に攻め込むところに、この行動の新鮮さがある。
 私は出かける前に、そう考えていた。そして、これを絶対に由紀子に知られないようにしなければならなかった。ここに女の口が入れば、止
(や)めるように泣きつかれるのは目に見えていた。
 一旦泣き付かれれば、この決意は薄れてしまい、目標がぼやける。目的意識が不明確になる。やがて分別が起こって、従順となり、目的を遂げることができない。だから無分別に、躊躇
(ちゅうちょ)することなく、一気に事を決行しなければならない。そう思っていた。
 だが、二つだけ分からないことがあった。

 一つは、無分別を以て縦横
(じゅうおう)に暴れ回るのはいいが、一体素手で暴れるのか、それとも得物(えもの)を持って、それをどう行うのか決めかねていた。多勢に無勢の喧華である。単身の弱者は極めて弱い。それを補う為に、真逆(まさか)ダイナマイトを抱えて、暴れるわけにも行かないだろう。
 しかしそれに近い位の得物
(えもの)はないかということを考えていた。根性の据(す)わった者でも、臆病風に吹かれて、ワッーと逃げ出すような、適当な得物はないかと考えていたのである。

 最初に浮かんだのは、私の所持していた日本刀である。
 私はこの操作を充分に知っていて、据
(す)え物斬りの経験も充分に積んでいた。相手に致命的な傷を負わせることなく、しかも相手が蜘蛛(くも)の子を散らして逃げ出すような得物は、やはり日本刀ではないかと考えていた。そして二つ目には、その行動をいつ実施するかであった。
 『八門遁甲』で云う「軍立
(いくさ‐だて)」である。その軍立を検討し、「いつ戦いを起こすか」その取り組みを始めていたのである。



●軍立

 戦争と云うものは、ある日突然に始まるものではない。練りに練った「軍立」がある。開戦年月日時があるのである。開戦年月日時は不規則に、安易に決められたものではない。
 戦争を始める以上、勝たねばならない。勝つ為には、勝つ為の年月日時がある。「いつやるか」という年月日時だ。これをいい加減に考え、鍛え上げられた強い軍隊だけが勝と考えるのは短見である。

 強い軍隊が勝てない年月日時と云うものもあるのだ。逆に云えば、弱少の軍隊が強敵に対峙して勝つ事もあるということである。それはちょっとした時間の誤差や、気象状態に異変によるものである。時間が遅れた。手間取った。風が吹いた。雨が降った。雪が降った。寒かった。暑かった。これらの条件が、勝と信じたものを敗北に導く事すらあるのだ。
 その典型が、太平洋戦争時のミッドウェーの日米海空戦ではなかったか。
 昭和17年
(1942)6月5〜7日、中部太平洋、ハワイ諸島の北西に位する珊瑚礁(さんごしょう)の小島でアメリカ海軍の重要基地で、日米の海空戦が展開されたのだ。

 昭和17年6月5日、日本は海軍を中心にミッドウェー作戦
(MI作戦)を実行に移した。この作戦はひと握りの作戦参謀達によって立案され、与えられた様々なデータからあらゆる戦略を試みた。彼等は海軍大学校を優秀な成績で卒業したエリート中のエリートであった。
 ミッドウェー作戦の当時、当然ながら彼等の頭脳は結集され、日本の機動部隊空母群は、ミッドウェー島を攻撃しなければならないという予想に基づいて陸上攻撃用の爆弾を搭載し、発進寸前の状態で待機していた。ところが敵の機動部隊が接近中との無電が入り、爆弾を搭載した飛行機は一斉に魚雷に変更せよという命令が下った。甲板員は気忙しく作業して魚雷に変更したところで、日本の索敵機は敵の機動部隊を見失い、その旨が作戦室に飛び込んできた。
 参謀達はひとひねり考えた挙句、再び陸上攻撃用の爆弾に変更するよう南雲忠一
(海軍中将)司令長官に具申する。そして再び変更命令が出され、その作業が終わるか終わらないうちに敵の急降下戦闘機が襲ってきた。もう、この時日本はアメリカに遅れを取っていたのである。

 日本機動部隊は、空母「赤城」をはじめとして空母の甲板上に積まれていた爆弾や魚雷は大爆発を起こし、更に弾薬庫に誘発して辺りは火の海と化した。この作戦に携わった参謀や指揮官達は、何れも海軍大学を優秀な成績で卒業した戦争の専門家であった。頭脳もずばぬけていた。だからこそ臨機応変に対処した筈だった。しかし人知を超えたところに、運命の不思議がある。
 ミッドウェー海戦の敗北は、日本始まって以来の大敗で、信じられない程の悲惨な負け戦であった。アメリカ側の情報を軽視し、準備不十分の儘、連合艦隊司令長官・山本五十六の強引な性格を浮き彫りにした無謀な作戦であった。

 敵を過小評価し、楽観視して自身過剰に陥っていた海軍部は、日本の歴史始まって以来の、白村江の戦いに匹敵する負け戦を経験し、真珠湾攻撃を上回る手痛いしっぺ返しを受けた。この海戦を最初から侮り、楽観視して見ていたのは、この作戦の指揮に当った連合艦隊も、海軍軍令部作戦課同様であった。戦う以前から、海軍軍令部では祝杯の用意が整えられていたという。全く馬鹿げた話である。
 この間に軍令部には南雲機動部隊の悲報が届いた。
 赤城、加賀、蒼龍が被弾を受け、大火災を起したという急報であった。この時点では、飛竜は健在であり、突撃をして「我攻撃成功セリ」の知らせを打電するが、やがて敵の猛爆を受け、「飛竜被爆大火災」を報じて沈没する。
 これら沈んだ四隻の空母は、無敵攻撃空母の異名を取る日本海軍の秘蔵っ子であり、時速30ノットを誇る最新鋭艦であった。真珠湾を皮切りに、太平洋やインド洋を巡航し、日本海軍の積極的な作戦を実行する秘蔵っ子的な存在であったが、これ以降は逆転して、陸海軍ともに消極的な作戦しか立てられなくなって行く。この点を考えると、海軍は陸軍に較べて無謀な作戦を展開したというべきであろう。海軍の無謀さが、陸軍までも引きずり込み、陸軍の犯した作戦に較べると、その桁は遥かに小さい。連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将。彼こそ、ミッドウェー作戦で大失敗を招いた張本人だった。
 この敗北はこれまで、日本最大の大敗北と言われた白村江
(はくすきえ)の戦いに匹敵する。
 開戦当初から太平洋戦争は、年功序列の愚将に率いられた敗北への戦争だった。その最たるものがミッドウェーだった。
 ミッドウェーの敗北や、ガダルカナルやニューギニアの数々の悲劇も、全ては連合艦隊司令長官・山本五十六の責任であり、当時の日本の国力から考えて、勝てた筈の大作戦に敗北したというべきである。

 日本の運命を大きく変えていった大東亜戦争の、一つ一つの戦いは敵味方ともに、大きく運に左右された。戦争というものはほんの纔
(わずか)なことで、どちらかが有利になる。
 喩えば、その時刻に雲が出た、風が出た、あるいは命令が一箇所だけ届かなかった等で、それが「上手の手から水が漏れる」式で勝敗に決定的な差が生じてくるのである。
 人知を超えたところで運が左右するのだ。運は確率から言っても、最初は敵味方双方にも五分五分に働く法則がある。しかしこれで勝利を得る方は、決して体力があり、経済力がある方ばかりとは限らない。

 約3年8ヵ月の及ぶ大東亜戦争を論ずる場合、これを無謀な戦争と位置付ける考え方が一般的であるが、もともと日本人は小兵力を以て大敵を敗る事に異常な情熱を傾ける国民である。
 太平洋を挟んだ大東亜戦争が、日本とアメリカの国力の差を論
(あげつら)い、圧倒的大差の敵と戦ったから無謀であったと、一概に否定すれば、鵯(ひよどり)越え、千早城(ちはや‐じょう)、桶狭間(おけはざま)等の戦いから、日清、日露の戦争まで否定されねばならぬ。また朝鮮戦争も、ベトナム戦争も否定されねばならぬ。
 ところが、物量神話はアメリカの虚仮威
(こけおど)しにしか過ぎなかった。

 アメリカの強大な国力を思う時、大国に刃向う事は無意味であるから、朝鮮人民も、ベトナム人民も、戦わずして尻尾を巻き、アメリカの軍門に降るべきであったのか?
 そして何故大東亜戦争
(太平洋戦争)だけを無謀と決め付け、その譏(そしり)を受けて、日本人はこれ程までに自虐的な立場に追い込まれ、一億総懺悔(いちおく‐そう‐ざんげ)しなければならないのか?

 私たち日本人は、この点に於て、本当に論ずるべき事を論じていないのではあるまいか。そして平和主義を唱え、戦争反対をヒステリックにシュプレヒコールして、大東亜戦争期の悲惨な状況に、生理的な反発だけを強めていても、何一つ教訓を得る事に努力していないのではあるまいか。
 真剣にその敗因を考えその中にこそ、真の平和は宿っているのである。
 そして見逃してはならないのは「軍立」である。
 八門遁甲では、「軍立」はその開戦年月日時とセットになっている。「いつ仕掛けるか」である。遁甲盤の配当を正しく理解する事から始まる。
 遁甲盤は一般の九星気学の30度と60度の方位などと異なり、遁甲方術は360度を均等の45度で分割してそれを配当盤にする。
 この「配当盤」には、攻略を作用させる「立向盤
(りっこう‐ばん)」と、守りの為の布陣に作用する「坐山盤(ざざん‐ばん)」の二つを作成するのである。

 立向盤作成に当っては、360度の円を各々に45度で配当し、これを八つに分配するのである。
 一番上が南で、時計回りに遵
(したが)い、南を“天”に置き、南西、西、北西、北、北東、東、南東を分配するのである。
 立向盤は四重の円を描き、配当盤の外側から天干
(てんかん)、地干(ちかん)、八門(はちもん)、八神(はちじん)とし、更に十干(じっかん)の甲(きのえ)、乙(きのと)、丙(ひのえ)、丁(ひのと)、戊(つちのえ)、己(つちのと)、庚(かのえ)、辛(かのえ)、壬(みずのえ)、癸(みずのと)と、八門である休門(きゅうもん)、生門(せいもん)、傷門(しょうもん)、杜門(ともん)、景門(けいもん)、死門(しもん)、驚門(きょうもん)、開門(かいもん)を分配する。
 更に、秋
(とき)を読むため、八神である太神(たいじん)、日神(にっしん)、月神(げっしん)、水神(すいじん)、火神(かじん)、木神(もくじん)、金神(きんじん)、土神(どじん)の象意と、十二支の子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)の日時を配当する。

 以上の配当盤の上に立向盤と坐山盤を作成するのだ。そして電気線の浮沈を計算し、方角の攻めと守りを考えるというものだ。
 日本海軍はミッドウェーで奇しくも凶方を犯していた。攻略するのに、陸攻爆弾を魚雷に積み換え、再び魚雷を陸攻爆弾に積み換えた。
 機動部隊の南雲忠一はこの時、迷いに迷って駄策を連想させていた。そしてアメリカ軍が来襲した時、「最後の五分間」で勝敗が決せられた。この五分の差が、日本海軍連合艦隊の運命を決した。大敗北を喫
したのである。索敵も不充分であった。
 八門遁甲で云うと月神を犯す「月破
(げっぱ)」だった。俗に言う、五黄殺(ごおうさつ)である。

 この方角を犯せば、慢性病の延長状態になる。だらだらと迷妄を繰り返すだけだ。そしてこうした状態にあって、判断を狂わせるばかりでなく、外野の意見が多くなり、指揮官はこれに翻弄
(ほんろう)されて、最悪の決断を下す。それが「最後の五分」ではなかったか。あと、五分あればではなかったか。
 強力な軍隊でも、運がなければ、雲に阻まれて下界は見えず、攻撃欲に惑わされて、ああしたり、こうしたりと迷うのである。迷い放しの空海戦がミッドウェーでなかったか。
 それは疑心暗鬼の迷いの中で繰り返されていた。
 これを考察すると、私は非常に劣勢でありながら、負けたと云う意識は持っていなかった。
 優勢な軍隊でも、年月日時「日取り」を誤れば、このような醜態を曝
(さら)すのである。
 ひとたび戦えば、奇手を用い、間隙
(かんげき)を衝(つ)いて、逆転可能だと云う変な自信を持っていたのである。

 軍立から導いた日取りは「月破」だった。間隙を衝けるのは、この日をおいて他になかった。
 行き詰まる「困」である。二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる日取りである。それは自分にも跳ね返るが、相手にも跳ね返る。一方的に負けるのではない。負けても、それなりに見せ場があるのである。
 困とは『易経』でいう「沢」でもある。この「沢」をどう解釈するかである。
 塞がったと思えば八方塞がりとなり、まさに困である。だが、解釈は他にもあるである。
 この解釈について、私は山村師範のところに伺った。爺さまの智慧を借りるしかない。

 「先生、『困』はどう読むべきでしょうか?」
 「お前、熱でもあるか」
 爺さまはとんでもないことを訊き返してきた。
 「熱はありません、お窺いしたいことは『困』の解釈です」
 「だから、訊いておろう。熱でもあるかと」
 「分りません」
 「お前、鈍いなあ。儂はなァ、熱でもあるかと訊いておる。それはだなァ、人間、三年間は一度も風邪をひいてはならぬということだ。風邪をひくようなやつに戦などできるか」
 「健康管理ですか。はあ、自分は暗愚ではありますが、バカではありません」
 「それで宜しい」
 「では、『困』は?」
 「これ、なんとかなると読むものだ」
 「なるほど」
 私は『困』の意味を得心した。


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