運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
松下村塾と吉田松陰 1
松下村塾と吉田松陰 2
松下村塾と吉田松陰 3
松下村塾と吉田松陰 4
松下村塾と吉田松陰 5
松下村塾と吉田松陰 6
松下村塾と吉田松陰 7
松下村塾と吉田松陰 8
松下村塾と吉田松陰 9
松下村塾と吉田松陰 10
松下村塾と吉田松陰 11
松下村塾と吉田松陰 12
松下村塾と吉田松陰 13
松下村塾と吉田松陰 14
松下村塾と吉田松陰 15
松下村塾と吉田松陰 16
松下村塾と吉田松陰 17
松下村塾と吉田松陰 18
松下村塾と吉田松陰 19
home > 松下村塾と吉田松陰 > 松下村塾と吉田松陰 3
松下村塾と吉田松陰 3

霊椿と称されるツバキの花は一重・八重。


●まごころ

 事業は憂いによって崩れ、農作物も憂うるばかりの現実に直面していては、実りが悪くなる。
 こうした状況下、悪人は益々悪事を働き、一層狂暴化して、兇悪になり、各地で無差別犯罪が多発する。今日の犯罪が、過去に比べて低年齢化し、狂暴化し、兇悪化ていることは、信念を失った人間が、益々増加していることを物語っている。世の中の不穏は、陽明学で言う人の「真心
(まごころ)」が薄れた為である。

 「信」において、欠陥があるのだ。
 信とは、「まごころ」からなる。陽明学では、自らのうちを「良知
(りょうち)」に発現することを教えている。良知に発現することが「修己」となるのである。これこそ「事上磨錬(じじょう‐まれん)」の目標であり、「省察克知(さいさつ‐こくち)」の到達点となる。人は誰でも「良知」という素晴らしい心を持っている。そのこころが「まごころ」であり、「真心(まごころ)」と書き、あるいは「誠(まごころ)」と書き、これが「信」の正体である。そしてこれらが、総じて「知行合一(ちこう‐ごういつ)」に繋(つな)がるのである。

 しかしながら、人生は「信」からなっている。世の乱れは「信」の欠如である。
 これを修正し、元来の軌道を復元させる為には、「信」を取り戻すことである。悪人を善人に移行するには、唯一つ、「まごころ」を以て信ずることである。

 「まごころ」とは「寔
(まこと)」であり、陽明学の言う「無善無悪説」である。
 悪人だから信じられぬというのは、今日の世の常識となっているようであるが、この常識は誤りであり、悪人だからこそ信ずるのである。信ずるから悪を働かないのである。そして、やがてその信は、動いて、「愛」となるのだ。この愛は、総
(すべ)てを潤し、総てを充(み)たす。陽明学では、こう教えるのである。

 陽明学とは、明代の王陽明が唱えた儒学である。陽明は、最初朱子学の“性即理説”に対して、“心即理説”を唱え、後に“致良知説”、晩年には“無善無悪説”を唱えた。
 朱子学が、明代に入って形骸化したのを批判しつつ、明代の社会的現実に即応する理
(知行合一や事上磨練など)をうち立てようとして陽明学が興(おこ)り、やがて、経典の権威の相対化、欲望肯定的な理の索定などの新思潮が生れたことに、この学問は起因する。

 そして日本では、中江藤樹
(なかえ‐とうじゅ)、熊沢蕃山(くまざわ‐ばんざん)、三輪執斎(みわ‐しつさい)、佐久間象山(さくま‐しょうざん)、高井鴻山(たかい‐こうざん)ら、また大塩中斎おおしお‐ちゅうさい/平八郎)、吉田松陰(よしだ‐しょういん)らに受け入れられ、幕府の権威の相対であった朱子学に対して、革命的な「知行合一」や「事上磨練」が倒幕運動の原動力となり、まがりなりにも日本は、歴史の中で近代を迎えることになる。

 当時の日本が欧米列強に対して、意の儘に日本を植民地化させないと奮戦したのは、吉田松陰の『海防論』に寄るところが大きく、幕藩イデオロギーが増幅されて、封建体制を終焉
(しゅうえん)させたことは周知の通りである。

 しかしながら、『海防論』の背後には、松陰独自の「諌幕論」が流れており、彼は毛利家や幕府に非がある場合は、諌主、諌幕の為に「一誠兆人を感ぜしめ」と云い、誠
(まごころ)を尽くして、それに感じない者はいないという信念を持っていた。こうしたことが多くの後輩を育成し、概ね高杉晋作(たかすぎ‐しんさく)、久坂玄瑞(くさか‐げんずい)、吉田稔麿(よしだ‐としまろ)、入江九一(いりえ‐きゅういち)の松下村塾の四天王と謂われた人々は、松陰の「まごころ」に感化された人達であった。

 信じるという事は、理論上で、あるいは口先だけで唱えるのではなく、それを行い、生涯貫いてこそ大きな意味があるのだ。

 人は、縄を以て縛
(しば)り、肉体の自由を奪うことは出来るが、縄を以てしても奪うことの出来ないものが精神であり、「まごころ」である。そして人の心を縛り付けるものがあるとするならば、それは「まごころ」に貫かれた「信」であり、前漢の歴史家であった司馬遷(しば‐せん)の『史記』には、「士は己を信ずる(知る)人の為に死す」とある。

 人の世の、人と人の交わりの根源は「信」であり、「信」こそが、大事をなす原動力なのである。
 信ずるところに神が現われ、信ずるところに「まごころ」が生まれる。信ずれば物事は成就し、憂い、疑えば物事は崩れるのである。

 物事は旨く運ばないからといって、希望を失うものではない。希望を失うから、物事は成就しないのである。見掛けがよく見えたり、貧弱に見えるのは表皮の部分の変化であり、一時の気紛
(きまぐ)れである。この見せ掛けに、多くの人々は眼を奪われ易い。見せ掛けに眼を奪われるということは、「まごころ」の欠如であり、心眼と見識の低さばかりでなく、根本的には信念を失っているからである。

 凡夫
(ぼんぷ)はこうした、一時の気紛(きまぐ)れと、カラクリに眼が奪われ易いものである。

 見かけ倒しに、“恐れ”を抱いてはならない。

 山本常朝
(つねとも)は、こうした類(たぐい)に対して、「人間は、まことに良くできたカラクリ人形である」と言い捨てている。そして暫(しば)しの暗がりで、こうした「表皮的な可視現象を見せつけられているのだ」とも云っている。

 カラクリ人形が、見かけに圧倒するポーズをとるのは、“人欲”があるからだ。人が持つ欲の多くは、減らすことをせず、殖
(ふ)やすことばかりを考える欲である。欲に振り回されるものは、純粋さに欠け、どうしても不純物が多くなる。不純物が多ければ、その言動や行動は「信」から外れることになる。同時に人心は荒廃(こうはい)する。

 人心が荒廃すれば、「道」を学ぶ者が少なくなり、覇道
(はどう)だけが盛んになる。弱肉強食の論理が罷(まか)り通ることになる。
 覇道を唱える輩
(やから)は、自分こそ世界最強と自称することになる。外面を飾り出す。その実、己(おのれ)の欲望を遂げようとする。このような考え方が一世を風靡(ふうび)し、流行を作っていく。人々は先を競って、富強の為に理論武装をし、相手を陥れる為に謀略を企てる。その結果、計略などが幅を利(き)かし、一時の利益の為に名声を挙げようと企てをはじめる。

 人々は闘争強奪ばかりに明け暮れるようになる。行き着くところ、覇道の弊害
(へいがい)が深く染み込み、賢智の人と雖(いえど)も、皆それに汚染されてしまい、「道」は埋もれてしまう。

 そして、子思
(しし)、孟子(もうし)は、はからずとも千年後に、周濂渓(しゅう‐れんけい)や程伊川(てい‐いせん)、程明道(てい‐めいどう)といった知己に巡り合うが、こういう事が実際にありうるならば、天下の万人に信じられるよりは、一人でもよいから、心から信じてくれる者に巡り合った方が、よいと云っているのである。

 葉隠の口述者・山本常朝も、天下万民に受け容れられようとして、『葉隠』を論じたのではあるまい。常朝は、「道」はもともと“何ものにも捉われない”ものであるということを知り抜いていた。
 その為の行動原理は、「道」という武士道の行動原理は、天下の人すべてに信じられても多過ぎるとはいえないし、また、僅か一人にしか信じてもらえなくても、少な過ぎるとは言っていないのである。

 この心境は、『易経』 に云う、「人から認められなくても、不満に思わない」という事と酷似する。つまり、『葉隠』武士道論は、“浅薄な人には到底理解の域を超えているのだ”とも言っている。
 『葉隠』が行動哲学である以上、それは論理で武装するものではないといっているのである。行動哲学である以上、人から信じられようが、信じられまいが、問題外であり、要は、自分の言動と行動が、「知行合一」の接点で、共通していればよいのである。迷うことはないはずだ。



●品格と言う志

 人の志は「品格」の有無で決定される。品格は“志”の別名であり、志を胸に秘めている者は、気高(けだか)い品位を持っている。
 その品位は、人に自然に備わっている人格的価値であり、品格とも云われる。品格は、目的意識としての将来の「見通し」を明確にし、人が何を考え、何を求めて求道
(ぐどう)の道を進んでいるのか、その心の向う方向を自(おの)ずと示してくれる。

 さて、尚武
(しょうぶ)を語り、武勇について論じていると、何やら猛々(たけだけ)しい、強(こわ)持ての、近寄り難い人物のように誤解され易いが、これは大きな誤りである。本当の志を裡(うち)に秘めている者は、威張り腐ったり、頭ごなしに他人を扱ったり、目下を罵倒(ばとう)するような暴言は吐かないものである。

 志は、別名、「親切心」の標榜
(ひょうぼう)である。また「厚意」の現れである。そして愛情も兼ね備えている。したがって鄙劣ひれつ/品性・行為などの、いやしく下劣なこと)な態度には出ないものである。
 「親切」の言葉からも窺
(うかが)えるように、物言いは「優しさ」がある。しかし、物言いが優しいからと云って、その人が軟弱であるという事ではない。
 それは逆である。

 軟弱な人間程、「空
(から)りきみ」があり、“威(い)”を張って見せるものである。
 巷間
(こうかん)で、「弱い犬程、よく吠える」と言う。まさにこの言は的中である。弱い犬程、よく吠え、相手が年下とか、弱いと見抜けば、とことん吠え捲り、更に、バックに何者かが控えていると、「虎の威を藉(か)る狐」を決め込む。つまり、このタイプの人間は、自分以外の他人を、色眼鏡で視(み)ると言う事だ。

 個人でも、悪意のある眼で視ると、何もかもが悪いように映ってしまう。
 大人しい控え目な人間を“女々しい”と言う。朴訥
(ぼくとつ)な人間を“田舎ッ平”と愚弄(ぐろう)する。

 しかし、心に目指すところのある者は、こうした愚行は侵す事がない。
 酷薄
(こくはく)な印象を与える人間は、古来より、君徳(首長の徳)の欠ける者として決して高い評価は下されなかった。温情味がなく、人生の機微(きび)に疎(うと)い者は、評価が低かったのである。何故ならば、明治維新前、武人と言うのは当時の知識層であり、その見識の中には、深い思慮と、人間理解の徳育の成果が備わっていたのである。

 西郷隆盛は当時、武人の典型のような人物として深い尊敬を受けていたが、この尊敬は、彼が猛々しい、武張った人物では決してなかったからだ。
 時代小説や時代劇では、作者が勝手に作り上げた武張った武士が登場するが、武士も上・中・下のランクがあり、日本陽明学の祖・中江藤樹
なかえ‐とうじゅ/江戸初期の儒学者で日本の陽明学派の祖)が、上のランクを付けた武士は、猛々しい武張った武士ではなかった。

 中江藤樹が示した「武士とは」を題して書かれた『翁問答』には、かつての自分が仕えた大洲藩
おおず/媛県西部、大洲盆地にある現在の大洲市で、もと加藤氏六万石の城下町である。中江藤樹の旧宅があり、藤樹は大洲藩の藩士であった)の同士の為に、士道について述べられている。
 この書の筆には、一種独特に気魄
(きはく)があり、叙情的に情熱が籠(こも)り、時に、それ程もでにと思わせる迫力がある。
 中江藤樹は、脱藩をして、一旦は武士を捨てたはずであったが、武士に期待を繋
(つな)いでおり、士道を明らかにする事によって、その使命感を明白にしている。

 『翁問答』では、まず武士を「士」として捉えている。
 藤樹の言う「士」とは、天子・諸侯・卿大夫
(けいたいふ)・士・庶民の五等の身分のうち、卿大夫を助けて、様々な役職に就き、政治上の実務を担当する人物を指すのである。この人物は、「道」の実現の為に、渾身没頭してその開発事業の一翼を担う身分の士を指すのである。したがって、士道とは、明徳を明らかにし、仁義を踏まえて、「天下の泰平」の為に尽くす人格を備えていなければならないと説いたのである。

 当時の言う「武士」とは、そのような身分と、身分相応の職分にあって、然
(しか)も文武の統一に心掛けねばならないとしたのである。
 世間では、気立てが優しく、起居振る舞いが優美な者を「文人」といい、猛々しく、荒々しい者を「武人」と云っているが、それは大変な考え違いであると指摘した。
 「文」とは、天下国家をよく治め、人間関係を正し、この機能を正常化させる仕組みを言う。また、「武」とは、悪逆秘道の者が、「文」の道を妨げ、こうした者に対し、懲罰を下したり、成敗する者を「武」としたのである。
 即ち、「武」とは、天下国家の秩序を回復する役割を担う者を「武人」と定義したのである。

 文の道を実現する為に、武道
【註】武道と言うのは、今日で言う武道とは異なる。武士の厳守すべき道を言う)があるとしたのが、中江藤樹だった。武道の根拠は、武を擁護(ようご)し、それを守る事であった。文なくして、武道はないとしたのである。
 しかし、文道も、武道も、威力と実力によって実現が維持される限り、文道の根拠はあくまでも武道であった。
 即ち、中江藤樹の考える文武両道は、総じて「一徳」であり、武なき文は真実の武ではなく、文なき武は真実の武ではなかった。両者は、両輪の輪の如き役目を果たして、文武両道と言い、かくして、文は「仁道」の異名であり、武は「義道」の異名であった。

 藤樹の説いた文武両道の、目指すところは、士道は「文武の道」であり、仁義の道であって、これまで考えられて来た、武張った武辺
(ぶへん)の武道ではなく、儒教の説く、「君子の道」なのであった。
 したがって武士は、「人倫の道」の担い手として、農工商の三民の模範とならなければならないとしたのである。

 しかし、現実は中々そうはいかなかった。現実世界に於ては、夢想する理想のようには行かないものである。
 現実を見回すと、武士には上、中、下の区別される要素が歴然として横たわっていた。同じ武士にも格差があり、ランクがあったのである。このランクは、家柄や身分を指すものではない。精神面での思考や心の在り方で、武士は三つランクに区別されていると観
(み)たのである。

 上の武士は、明徳が明らかであり、名利私欲に趨
(はし)らず、仁義を行う勇気があって、文武を兼ね備えているものであると定義した。
 中の武士は、明徳が充分ではないが、私利私欲に迷わず、自分の名誉や同僚等への義理を命賭けで厳守する者であった。
 下の武士は、上辺は義理を大事にするように見せ掛け、仁にも厚いように思わせ、しかしそれでいて、心の裡側では私利私欲が逞しく、立身出世を狙っている者であるとしたのである。
 武士の上、中、下の品定めをする要点は、徳と才能と功であり、これが文武と一致しているかを観たのである。

 武士にとって徳分は、「文武合一」の明徳である。また、才能とは、天下国家の政治を運営する上で、文武両面に亘っての智慧
(ちえ)や能力、技術や工夫であった。次に功は、国家を運営し、国難を打開して、国防を全うするなどの、国政上の実績であった。
 この三つの、武士のランクを区別する物指しとして、適切に処遇する事が、また主君たる者の是非となったのである。



●誠をもって誠に帰す

 「志
(こころざし)合えば胡越(こえつ)も昆弟こんてい/兄弟の意味で、「昆」は兄の意)たり」と『漢書鄒陽伝』にはある。
 これは、志が合えば、疎遠な者も兄弟のように親しくなれることを表す意味である。それに、年齢の差など関係がない。

 西郷隆盛は、自分より遥
(はる)か年下の、少年少女に対しても、無礼・乱暴な態度で接しなかったと言う。
 一般に、年下の者や目下の者に対しては、物事を粗略
そりゃく/誠実さがなく、おろそかにする事)にするように、軽く見下し、横柄な態度でこれに接する。特に、少年少女ともなると、更に見下し、これを甘く見る。あるいは侮る。弱年者には人格の有無を見ない。

 凡夫
(ぼんぷ)か、否かの境目は、年下や目下の者の接し方によって決定されると言ってもよかろう。凡夫は、年下や目下を甘く見るばかりでなく、特に、少年少女に対しては、一個の人格を備えた人間とは見ないようだ。したがって、その口の利(き)き方も横柄(おうへい)であり、傲慢(ごうまん)であり、辛辣しんらつ/きわめて手きびしいこと)である。心の中には、離れ難き侮蔑(ぶべつ)がある。

 ところが西郷隆盛は、幼い者にも、一個の人格を備えた立派な存在と看做
(みな)し、これを遇する事を識(し)って居たと言う。
 現在の教育者でも、小児に対して、若年層の子供を一個の人格ある存在として看做す者は稀
(まれ)である。教えるが側と、教わる側に境界線を引き、境界線のこちら側は教える方、向こう側は習う方と、しっかり線引きし、教えるが側の物言いで、甚だ傲慢な態度でモノを言う教師が少なくない。それでいて、「自分は教育者」などと胸を張る。既に、こうした態度に侮りが起っている。
 そして、「弱い犬程、よく吠える」と言う諺
(ことわざ)が思い返される。弱い者ほど、“虎の威を藉る狐”に成り下がろうとするのである。

萩焼の吉田松陰像
萩の町並み

 人間理解とは、「人間観察」の事であり、観察眼や養われていれば、その理解は速い。また、観察力を旺盛にすれば「徳」が備わる。徳の少ない者は、要するに観察力が欠けているからである。相手をよく見ないからである。検ても上辺だけであり、その肝心な中身を見ようとしないからである。ここに人物選定の品定めを誤る元凶があるのだ。

 人間観察の確かな眼を持っていれば、当然、温情味も出来、人に尊敬される一面を備える事が出来る。武家の目利きの基準の一つとして、「温情味」をいう事が挙げられていた。温情味がなければ、武人としては高い評価が下されなかったのである。

 かつて旧日本海軍はイギリス海軍を手本に、海軍士官を育てた。そして日本海軍士官がイギリスから学んだ事は、紳士の意味を持つジェントルマンであった。
 ジェントルマンは
gentlemanの「静かで優しい人」を指し、単に日本語解釈で言われる、「殿方」だけを表す語ではない。同時に「勇敢」も表すのである。

 「勇敢」といえば、「勇気」を連想するが、勇気とは戦場だけで発揮するものではない。戦場から遠く離れた処でも、勇気は発揮できる。知略や武略も勇気の一つであり、喩
(たと)え裏方に準じていても、勇気は発揮する事が出来る。そして勇気は、誠を尽くす者の証でもあった。至誠とは、誠実な事であり、また実直な事でもあった。

 関ヶ原の戦いの際、薩摩の武人達は知略を配して中央突破作戦を試み、見る者の肌に粟
(あわ)を生じさせ、島津義弘しまず‐よしひろ/安土桃山時代の武将で、兄義久と共に九州を略定したが、豊臣秀吉に降り、大隅に封ぜられ、文禄・慶長の役に殊功をたてた。関ヶ原の戦に石田三成にくみして敗れ帰り、兄に因って降を請い、剃髪して惟新と号した。1535〜1619)麾下(きか)数十騎が一気に薩摩まで駆け戻ったではなかったか。この決然たる行動は、まさに勇気のそれでなかったか。

 この勇気の裏には、優しさがあった。その優しさの裏には、柔軟な頭で、知略も武略も自由自在な発想があった。そして忘れてはならない事は、武人としての温情味だ。これを考察すると、単に試合に強いだけでは、こうした発想は生まれないという事である。

 そして「勇気」とは、その行いの中で、最も大事になるのが、「過ちを認める勇気」である。
 過ちを認めるこの勇気を、「第三の勇気」という。
 第一の勇気は「進む時に勇気」であり、第二の勇気は「退く時の勇気」である。第一ならびに第二の勇気は、勇猛心のある者ならば、如何なく発揮できよう。ところが、第三の「過ちを認める勇気」は、並みの勇猛心のある者では、中々これを実行する事が出来ない。
 それは、人が自分の過ちを素直に改められないのは、多くはぐずぐずと姑息
(こそく)な保身ばかりを考えて、これまでの猛々しかった勇気が時間と共に萎(な)えてしまうからである。

 勇気を示す上で、最も難しいのは「第三の勇気」なのである。したがって、これを発揮しなければならぬ時は、奮然と勇気を奮い起こし、「即」実行しなければならないのである。
 多くの場合、以前からの諸々の悪は昨日死んだ如くに消え去り、その後の善は今日生まれた如くに生々しく盛んになってくる。だがらこそ、昨日迄の過ちは、即その非を認め、これを認め、切り除かなければならないのである。
 それはあたかも毒蛇が自分の躰
(からだ)の一部に噛み付いた場合、その箇所の毒を一刻も早く取り除くようにである。

 過ちを改めるには、時間を置いてはならない。少しの猶予もあってはならないのである。
 『易』の中には「風雷益」というのがある。これは「君子はもって善を見ればすなわち遷
(うつ)り、過有ればすなわち改む」という意味である。

 第三の勇気を奮い起こすには、「恥心」「畏心」「勇心」の三つの心を備えれ居なければならない。単なる猛々しい勇猛な心だけでは、どうしようもないのである。したがって第三の勇気を奮い起こすには、以上に述べた三つの心が必要なのである。この心が備われば、喩
(たと)え如何なる過ちであろうとも、「春の氷が日に照らされて消え去るかのように」消えてしまうものなのである。
 この世に消えざる「憂い」など、一切ないのである。



●死して不朽の見込みがあるならば

 現世の心象化現象は、その人の心の通りに、境遇の方が変化するのである。しかし可視的現象に振り回され、翻弄(ほんろう)されていると、こうした事実が見えてこないのだ。
 こうした事実を凝視するには、一種の冷徹さと同時に、死生観を達観した「信念」を抱くことが肝心である。だから他力本願ではいけないのである。
 確固たる信念こそ、人を感動させ、説得する唯一の力であり、この力を失ったとき、人の死は実に哀れなものになる。

死して不朽の見込みがあるならば、それは煩悩を断ち切った蓮華のようであろう。

 喩(たと)えば獄中にあって、死刑が確定し、刻々と死刑の日取りが近づいてくると、死刑囚の多くは、死との対決の手段として、あるいは生の固執から逃れると称して、生を断ち切る手段として、概ねが救いを求めるのが、差し当たり「宗教」であろう。宗教によって、死を克服しようとする。これが人間の“弱さの一面”であるともいえる。

 ところが「今、この一瞬」に生きる人間は、救いの手段として、宗教に己の生を求めない。
 吉田松陰は死に際して、神佛
(しんぶつ)にそれを求めなかった。信念に培われた知性と意志力で死生観に到達し、それを見事に超越しているのである。これこそが武士道の、武士道たる所以(ゆえん)である。
 死に際し、松陰の悟りの境地はその和歌からも窺
(うかが)い知る事が出来る。

心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ思ひ残せることなかりけり

 武士道とは、単に潔(いさぎよ)く死ぬことばかりが武士道ではない。死して不朽の込みがある有る場合に限るのだ。
 したがって何時、何処で死んでも良いのであり、畳の上で……等と、世迷い言は問題ではないのである。

高杉晋作画像

 高杉晋作(たかすぎ‐しんさく)は松下村塾時代、師匠松陰に対して「男子は何処で死ぬべきですか」と質問している。
 之
(これ)に応えて松陰は言う。
 「生きて大業をなす見込みがあれば、何時までも生きたら宜
(よろ)しかろう。また、死して不朽(ふきゅう)の込みがある有るのなら何時、何処で死んでもよいではないか。要するに“死”を度外視して、それを乗り越え、まず、何を為(な)すかが大事なのだ」と。

 そしてこれは、高杉晋作の生き方に転機を与える大きな示唆となり、苦難から逃げることを屈辱
(くつじょく)とし、ただ潔(いさぎよ)く死ぬ「犬死」を避けて、「死して不朽の込みがある有る場所」を、彼は模索していたといえる。
 また晋作の行動原理を支えていたのは、処刑寸前の松陰から受け継いだ崇高
(すうこう)な死生観に達した松陰自身の姿であった。

 江戸生まれで、漢学者であり、演劇評論家の佐倉
(さくら)藩士・依田学海よだ‐がっかい/演劇改革に参与し、脚本『吉野拾遺名歌誉』など。日記は明治文壇史上、貴重な資料を遺す。1833〜1909)の日記には、次のようにある。
 「過ぎし日、死罪を命ぜられし吉田寅二郎の動止には感泣
(かんきゅう)したり。奉行、死罪のよしを読み聞かせし後、畏(かしこ)まり候(そうろう)よし恭敷(うやうやし)く御答申して、平日庁に出ずる時に介添せる吏人に久しく労をかけ候よしを言葉やさしくのべ、さて死刑に臨みて鼻をかみ候わんとて心静かに用意してうたれけるとなり。およそ死刑に処せられるものこれまで多しといえども、かくまで従容たるは見ず。多くは命をよみ聞かせらるる時、上気して面赤く、刑場に赴く時は腰立たず、左右より手を取り行くに、踵(かかと)、地につく事なし……」と記されている。これは日記では、八丁堀同心の吉本平三郎から聞いた話として記載されている。

 師匠松陰は門人晋作に対し、「死して不朽の込みあらば、いつにても死すべし」という死生観
(しじょう‐かん)は、殺されることにより、「不朽の死」を得たのであり、自らが受難者としてその実像を確立することで、生前の叫びに強い説得力を付加したと言える。そして松陰は、30歳と言う年齢により、「不朽の死」を遂げたと言える。
 この「不朽の死」こそ、後に多くの感銘を与え、松陰は殉教者になることにより、幕府は自らの誤ちにより、墓穴を掘ったと言えるのではないか。それこそ、専制政治の末路に見る、古今東西を問わずの歴史的現象ではなかったか。

 われわれ日本人は、武士道を以て、山鹿流兵法を以て、陽明学を以て、歴史を旋回させた、松陰の達観した崇高
な死生観を忘れてはならない。



これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。


入会案内はこちら

daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法