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松下村塾と吉田松陰 1
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松下村塾と吉田松陰 2

『吉田松陰の青年期』永地秀太/画
 松陰は貧しい杉家で農民と変わらない生活を続けた。少年期の松陰は、農作業を手伝わされる毎日だった。しかし杉家の農作業は、一般の農家と違って、農作業を行うことは「厳粛な行事」の一つだったのである。

 それは田畑が、幼い家族達にとって「教場」となりえたからであった。その教場では、「働きながら勉学をする」ということであった。
 父百合之助が詩を吟ずると、二人の少年が父の声に合わせて復誦
(ふくしょう)するのである。

 漢籍の素読や、又ある時には草の上に腰を下ろして、毛利家の歴史や軍物語
(いくさ‐ものがたり)を聴かせるのであった。


●杉家の美事

 杉家は侍の身でありながら、貧しさの為に農業を営んでいた。しかし農業を営むと云っても、一般の農家のそれとは大いに違っていた。農作業の場を「教場」としていたのである。この考え方が、松陰を教師としての宿命を背負わせ、また杉家の子弟を教育する基本理念であった。
 農作業の場をそのまま「教場」に使う。こうした発想を持った武士階級は、当時でも非常に少なかった。異例なことと言えたであろう。

 しかし杉家では農作業の場を教場に使うという特異な発想を、大いに誇りにしていた。またこれが、清貧に甘んじようとする武士の心意気でもあった。それを松陰は「杉家の美事」と称し、関ヶ原以来、常に追い詰められていた長州萩藩の体質が作り出した、下級武士の生活の信条でもあった。
 この体質こそ、長州萩藩士を襲い続けた貧苦が、やがて彼等を「変革の志向」に駆り立てた原動力になって行くのである。

 松陰の幼少期、杉家での過酷な苦難の経験が、特別に、家族との深い絆を作り上げ、これが家族を思う愛情にもなって行くのである。
 それは松陰の杉下の妹・千代に対しての手紙からも窺
(うかが)えるのである。

 「杉は今では御父子とも御役にて何の不足のない中なれば、子供らがいつもこの様なものと思うて、昔、山宅にて父様母様の昼夜御苦労なされた事を話して聞かせても真
(まこと)とは思わぬ程なれば、この先五十年七十年の事を、とくと手を組んで案じて見てやれ」

 更に松陰は『未焚稿
(みふんこう)』の中に「矩方(のりかた)の幼なるや、畝の中に生長し、身家稷(かしょく)の事を親(みずか)らしたり」とも記している。
 これは家族全員で力を合わせ、貧苦と戦った足跡の記録であり、この経験によって松陰らは肉親の情愛を深めて行ったとも言える。血の繋がりを一段と深め、父子兄弟姉妹が睦
(むつ)み合う事を真当(ほんとう)の家族愛としたのである。

 後に松陰が国事犯として科人
(とがにん)となると、これを周囲の者達は白眼視する傾向にあったが、それでも杉家の人達は、この事により俄(にわか)に、松陰を中心として強い結束を固めて行った。家族の絆(きずな)は一層深まったのである。これ自体、世間一般の眼から見て異端視されがちであるが、松陰を庇護(ひご)し、かつ激励する杉家の人々の姿は、当時として異様に映ったであろう。しかし、松陰は己の信念に遵(したが)って勇猛果敢に行動したのである。

 杉家の人々は、松陰の行動を信じて疑わなかった。世間は松陰を常識はずれと揶揄したが、松陰はわが信ずるところを貫いた。
 萩藩では「藩に災厄を及ぼす危険人物」として要注意人物のレッテルを貼り、松陰を投獄した。しかし杉家の人達は松陰の正義を、一貫として支持し、非難と誤解の渦中にあっても、最後まで松陰を信じていたのである。また、松陰も、自らの信念を貫く原動力になり得たのは、杉家の人達の堅固たる結束であって、これが心の拠り所となって、松陰に信念を貫かせたとも言える。



●後見人・玉木文之進

 松陰の後見人となったのは、叔父の玉木文之進だった。吉田大助の死後、玉木文之進は松陰に最も多く接した一人だった。
 玉木文之進は杉百合之助の次弟で、萩藩士玉木家を家督相続していたが、独身だったので杉家に同居し、松陰が天保九年
(1838)に明倫館で軍学師範となった時に、妻帯して杉家を出ている。時に二十九歳だった。

 文之進の学問に対する向学心は旺盛で、その学力は長兄の百合之助を遥かに凌いでいたと言う。文之進は軍学において早くから吉田大助に学び、
「山鹿流極秘三重の伝」を得ていた。彼は天保十三年(1842)に、松本村新道に構えた自宅に「松下村塾」の看板を出し、近所の子供達を集めて私塾を開いていた。これが松下村塾の始まりであり、少年時代、松陰もこの私塾に通って文之進の教えを受けていたのである。

 文之進の自宅は、杉家の団子巌
(だんご‐いわ)から僅かに下ったところにあり、藁葺(わら‐ぶ)き屋根の簡素な建物だった。
 叔父・文之進の性格は頑固で保守的であり、軍学やその他の学問に対しても、頑な排外思想の持主で、オランダ語や英語を横書きにするところから「蟹文字」と揶揄し、これを学習することを大いに嫌っていた。松陰も、江戸に出た時、叔父に気兼ねして、一時英語を学びかけたが、長く遣らなかった。

 篤実温厚な父百合之助と違って、文之進は気性が激しく、「いやしくも報国の念あらば、慎んで凡士となることなかれ」と、松陰に訓育していた。それは厳格を極め、松陰に英才教育を施して、軍学師範吉田家に相応しい人物を育成しようと必死だったのである。
 松陰の兄・梅太郎と一緒に通ってくる松陰の、憶
(おぼ)えの悪さに腹を立て、襟首を捕まえて庭に引き摺り下ろすなど、実に凄まじいものだった。そして松陰も叔父の叱咤激励によく耐え忍んだ。

 やがて文之進は藩に出仕して、代官に任ぜられ、松陰の死後も役人を勤めていたが、明治二年
(1869)に退官し、これまで閉鎖されていた松下村塾を再開した。此処では、後の陸軍大将・乃木稀典(のぎ‐まれすけ)も、少々の頃、此処で学んだのである。

 明治九年に勃発した「萩の乱」には、前原一誠
まえばら‐いっせい/幕末・維新期の政治家で前名を佐世八十郎という。長州藩士で吉田松陰に学び、尊王攘夷運動に加わり、維新後は参議・兵部大輔を歴任したが、新政府と意見が合わず下野し、1876年(明治9)萩の乱を起し斬罪。1834〜1876)らを中核とする松下村塾門下の門人がこれに加担し、死傷している。
 文之進の養子で、玉木正宜
(まさよし)も参加し、鎮圧軍の弾丸を受けて戦死している。

 正宜は長府藩士・乃木希次
(まれつぐ)の子であり、乃木大将の実弟であった。
 萩の乱が勃発した当時、乃木稀典は陸軍少佐であり、熊本鎮台歩兵第十四聯隊の連隊長心得の職にあり、秋月の乱鎮圧の為に豊前豐津にいた。その当時に、萩では実弟の正宜が前原一誠と倶
(とも)に反乱に加わっていたのである。
 乃木稀典の挙動はこれを知って、訝
(おか)しかったと云う風評が流された。同郷の福原和勝大佐は、乃木にこの事を問い質(ただ)したとも云う。
 乃木の遺品の中には、山鹿素行著の『中朝事実
(ちゅうちょうじじつ)』があり、これは師匠の玉木文之進から贈られたものであると云われている。

 明治天皇に殉死すると言う古武士的な死に方を選んだ乃木稀典は、明らかに文之進の影響から来たものであるとも云う。また、文之進自身、彼の最期も実に壮絶なものであった。文之進自身は、萩の乱に関与していないが、養子・正宜の責任をとって、先祖の墓前で割腹自殺を遂げている。享年六十七だった。
 叔父・文之進の自刃に当たり、その介添役の一人を勤めたのは、松陰の妹千代であった。



●山鹿流軍学

 松陰が家学として受け継いだ山鹿流軍学は、単に戦術の知識を体系化した専門学ではなかった。この流派は、本来、山鹿流とは云わない。正しくは「山本勘介流」である。
 嘉永三年
(1850)、松陰は平戸の山鹿万助の許に訪れ、入門起請文の冒頭には次のように書かれている。
 「山本勘介流兵学並びに築城縄張一切御相伝の趣
(おもむき)、他見他言仕(つかまつ)る間敷(まじく)候事」
 つまり山鹿流ではなく、本来は「山本勘介流兵学」だったのである。

 山本勘介
(勘助とも)は武田信玄の軍師として知られているが、『甲陽軍鑑』に出てくる山本勘介は架空の人物ではないかと云われている。一方、勘介は実在の人物で、大内義隆に仕え、大内氏の滅亡前後に東国に流れたのではないかと云われている。その後、武田家に召し抱えられ、此処で軍師の伎倆を示したのではないかと云われている。
 毛利家家臣の家伝などの教訓を集めた『萩藩閥閲録
(はぎはん‐ばつえつろく)』によれば、勘助の孫が毛利家に仕えたと云われる。

 とにかく山本勘介は謎の多い人物で、今日に至っても殆ど解明されていない。
 また『甲陽軍鑑』については、武田信玄、勝頼
(かつより)父子二代に亘る治績、刑政、戦争、戦術などについて述べた兵学書で、甲州流軍学書ともいわれる。全二十巻からなる大著で、武田信玄の臣高坂昌信の原作に、昌信の甥春日惣二郎が補筆したといわれる。この大著は江戸初期の慶長・元和頃に成る。内容は信玄と勝頼二代の事蹟・軍法を中心とするもので、後に山鹿素行が『甲陽軍鑑』をベースにして兵学を組み立てたと云われる。

 これは山鹿素行が北条氏長から学んだ甲州流兵学に源を発し、素行の著書は戦術の教科書と言うより、武士の道義的な心得を説いたもので、「士道の書」と云われている。
 素行は元和
(げんな)八年(1622)に会津で生まれている。儒学を林羅山に、兵学を北条氏長らに学ぶ。そして『聖教要録』を著して朱子学を排し、幕府の怒りを受けて播州赤穂(ばんしゅう‐あこう)に配流された。のち赦免(しゃめん)されて江戸に帰り、儒学と兵学を結び付けようとした。

 しかし素行は朱子学に大きな疑問を抱き、これは官学として体制側に都合のいい学問ではないかと疑ったのである。この事が幕府の逆鱗
(げきりん)に触れたのだった。そして赤穂藩の浅野家へと配流された。浅野家では素行を優遇し、同時に此処で門人を育成することになる。後に赤穂義士の精神的風土は、山鹿素行の兵学により培われたものであった。
 赦免され、江戸に帰った後は、『武教要録
(武教全書とも)』『配所残筆』『山鹿語類』『中朝事実』『武家事紀』などを著わした。総て戦術だけを著わしたものではなく、士道としての心得るべき要諦を記したものである。

 吉田家の祖・友之允が素行の後嗣
(こうし)藤介に山鹿流を学び、毛利家に仕えたことが、後の萩藩に学統を齎すことになったのである。
 吉田松陰に山鹿流軍学を教えたのは、主に叔父の玉木文之進である。しかし、松陰は叔父の頑固一徹で保守的な考え方に蹤
(つ)いて行けず、やがて敬遠の素振りを見せ始める。また、同時にこの時代、山鹿流軍学は時代の適応性を失った、時代遅れのものになっていた。その後、松陰は多くの師を求め、山鹿流軍学を超越した、松陰独自の体系を樹立して行くのである。

 山鹿流軍学のうち、戦術を教える『武教要録』などを別にすれば、松陰の学問が儒学を基盤にはしているが、松陰自身は儒学者になろうとしたのではなかった。
 その事は松陰が語る言葉に回帰される。
 松陰曰
(いわ)く「吾専(もっぱ)ら陽明学を修むるには非ず。ただその学の真、往々にして吾が真と会うのみ」と語っているように、松陰は和漢の史書にも精通し、広い視野で学問を修めようとした事であった。したがって、松陰の学と言う旺盛な吸収力には、得てして朱子学も陽明学もなかったのではないかと思える。松陰は、学問を追求し、広く学ぶことを求め、それを吸収しようと努力を重ねた事であった。それが後に「松陰学」を完成させたとも云われる。

 しかし、松陰の学問の年輪に克明に刻まれたものは、紛
(まぎ)れもなく山鹿流軍学であり、これが松陰の人物形成に大きな影響を及ぼした。こうした意味で、山鹿素行の血脈は、幕末の長州において、松陰を通じて流し込まれたことは事実であり、これは長州を動かした大きな精神作用になったことは否定出来ない事であった。



●藩主・敬親が松蔭門下に名を列ねる

 萩藩十三代藩主・毛利敬親もうり‐たかちか/はじめ慶親を名乗る)は、萩藩々校明倫館の教育に力を入れた人物だった。江戸から国元の萩に帰ってくると、明倫館に行き、「親試(しんし)」を行った人物として知られる。親試とは藩主自身が明倫館での勉強ぶりを試すという意味であり、親試は「御前講義」の形式が取られ、此処で学業が優れた者がいれば、選ばれて藩主に進講をするというものであった。

明倫館の外塀

 本来、親試は藩校生徒を対象にしたものであったが、教授達もこれに加わることが出来た。親試を受けることは非常に名誉なことであり、明倫館挙げて、関心が高まって行った。そして親試は、藩学興隆に少なからぬ効果を発揮した。
 天保十一年
(1840)、松陰はこの年の十一歳の時に兵学教授見習として、明倫館で山鹿流軍学を講義した。藩主は少年松陰がどのような講義をするのか、大変興味を抱き、彼に講義の機会を与えたのであった。この時松陰は、山鹿素行の『武教全書』の“戦法篇”の中の「三戦の節」を講義した。

 「三戦の節」曰
(いわ)く、「兵法は曰く。先ず勝ちて後に戦うと。これは孫子軍形の篇に出ておれり。言う心は、敵に勝つ軍(いくさ)は、如何様(いかよう)にして勝つかなれば、戦わぬ先に勝ちておりてその後に戦うなり。それ故、百たび戦いて百たび勝つなり。然るを、軍の仕様がおろかになれば、勝つべき道理をもわきまえず、負くべきわけも知らず、何の了簡もなしに先ず戦うなり。これは戦を以て勝たんとするにてよろしからず、多くは敗れるものなり……」と、講じたのであった。

 藩主は少年松陰の講義を聞いて、すっかり気を呑まれ、十一歳と言う若年者の講義は、明倫館では稀
(まれ)のことであり、異例の親試は忽ち城下の話題を攫(さら)ったのである。松陰の卓(すぐ)れた資質は、この時に発揮されたと言ってよい。
 その後、松陰に対しての親試は、十三歳、十五歳、十七歳、十九歳、二十一歳と、六回にも及んだ。

 藩主・毛利敬親は、松陰の学問に対する進歩の度合いを見るのが愉
(たの)しみだったのであろう。松陰が十五歳の時に行った親試では、『武教全書』を講じ終った後で、「孫子虚実篇を講じてみよ」と、急に言い出したくらいであった。藩主敬親は少年松陰が、咄嗟の事で“まごつく”のではないかと懸念したのであったが、松陰はこれに動ずることもなく、また周囲の者の眼も憚る事なく、堂々とした態度で、“孫子虚実篇”を講義し始めたのである。

 「孫子曰く。凡
(おおよ)そ先ず戦地に処(お)りて敵を待つ者は佚(いっ)す。先ず戦地を占拠するには、兵家の要訣。孫武卓識なり。故に曰く、深く入れば則(すなわ)ち専(もっぱ)らにして、主人克(か)たずと……」
 藩主はこれを聴いて驚き、かつ大層感心して松陰の恩賞を与えている。

 松陰二十一歳の時の親試では、『武教全書』の“守城篇”のうち、「籠城
(ろうじょう)の大将心定(こころさだめ)の条」を講じた。この時、松陰は“心定”に「御」を付けて、「御心定」と言い足したのである。これは単に、山鹿素行の遺著を述べただけではなく、藩主が万一四方に敵をうけて、篭城した際、城を枕に討ち死にする覚悟が大事であることを講じたのであった。更に、松陰はこの時、藩主・敬親の心の裡側まで問題を提起し、「もし御主君ならば、どういたしますか」あるいは「主君であればこそ、こうした態度をとって頂きたい」と言う、無言の問いを発して、これを「主君のあるべき態度」として通説に説いたものと思われる。

 「これは一城についてのみではなく、天下国家に通ずる大議論である。天下は私有すべきものではない。先祖が天命を受け人心に従い、千辛万苦
(せんしん‐ばんく)して創業したのであるから、後世の子孫たるものは、その祖宗の心を体するということが大切だ。つまり祖宗いらいの国体を確乎として変ぜず、たとい叶い難き合戦になろうとも、君臣とも命を限り戦い、討ち死にして、恥を受けないようにしなくてはならぬ。もし暴乱の世となり、政治むきによろしくないことがあれば、君臣の義を重んじ、直諌(ちょっかん)すべきである。それは少しも曲げてはならない。私はその忠諌(ちゅうかん)のために家が断絶し、身を滅ぼすことになっても、言うべきことは必ず言う積もりだ」と、以上のように松陰は進講を述べている。

 松陰の“身を滅ぼしても忠諌する”という、生き態
(ざま)は生涯変わることがなく、これは松陰の人生を一貫していた。この時、松陰は更に言葉を繋いで、藩主に語り懸けた。

 「孫子九地篇の語を引いて言えば、これを死地に陥れて然
(しか)る後に生きるというのである。心定(こころさだめ)とはそのようなものであり、将も士卒も、死を恐れ、敗を虞(おそ)れるあまり、却(かえ)って死と敗に至る。富国強兵をめざし、武器を蓄え、義勇の民を募ればいかなる敵も恐れるに足りない。清国の如きも阿片(あへん)代金二千百万両を、義勇の民に賜(たま)い、さかんに大砲小銃を鋳造し、軍艦を造って、知謀の士を招集し、朝野君臣共に一致して必死の働きをしたら、イギリスを恐れる必要はなかったであろう。これが死地に陥りて然(しか)る後に生きる道である」と。

 松陰は、単に山鹿流軍学に照らし合わせて、「城を守る大将の心得」すらも、古めかしい古典の考え方を排して、時代に即応した軍学であるべきだと、間接的に主張したのであった。松陰にとって、山鹿流軍学の伝統とは、形骸的な伝承を、今の時代に展開させるのではなく、この伝統を基に、時代に則した伝統的な軍学に生かす事であったのだ。
 当時松陰の口から吐かれる言葉の多くは、中国で起った阿片戦争などに反映され、「欧米列強の横暴に手を拱
(こまね)いていると、清国のように列強の餌食にされてしまうぞ」という“諌め事”が含まれていたのである。

 阿片戦争は1840年〜42年にかけて、清朝
(しんちよう)の阿片禁輸措置に端を発し、これを巡ってイギリスと清国との間に起った戦争である。その結果、清国が敗北し、列強との不平等条約締結や、中国の半植民地化の起点となるのである。松陰は、この事を藩主に指摘しようとした試みが、親試を通じて実行されたと見ることができる。
 既に松陰は、山鹿流軍学を時代に即応させ、それが阿片戦争の現実に、時務的課題として取上げ、これをすかさず援用して行ったのである。こうなると、単に古典的な山鹿流軍学に止まらず、山鹿流を時代に即応させ、現実的な兵学講義へと転化させた意思を強く感じられる。

 山鹿流軍学を「時代史即応させた伝統的な時務課題」として、特に松陰の講義には、印象的な部分が少なくとも二つある。
 その一つは、大将が四方に敵を受けて囲まれて、二進
(にっち)も三進(さっち)も行かなくなった時、「城を枕に、藩主も討ち死にする覚悟を定めよ」という件(くだり)の部分であるが、これを松陰は藩主・敬親に強く印象づけたと思われる。

 この事は後年、第一次長州征伐
(元治元年・1864年)の直後、藩内は「謝罪恭順」か、「武備恭順」かで分裂した。その時、藩主・敬親は後者を選んでいる。これは幕府との対決姿勢を示したものであった。
 第一次長州征伐の時、幕府は長州藩の攘夷即行の藩是、ならびに七卿西走の擁護を怒り、蛤御門
(はまぐりごもん)における暴動の問罪を名として、征討軍を派遣し、たまたま長州では、英・米・仏・蘭の連合艦隊が下関に来襲して藩内が危急に瀕したので、戦わずして恭順の意を表し、主謀者を処刑して謝罪した。高杉晋作らの藩内強硬派はこれを喜ばず、奇兵隊を以て恭順党を一掃し、幕府に反抗したのであった。

 その後、再び幕府は兵を差し向ける。
 1866年
(慶応2年)幕府は再征したが、薩長連合のために連敗し、勅命によって、遂に軍を解いた。これにより幕府の権威は急速に失墜する。
 これはとりもなおさず、松陰の「御心定」が、藩主・敬親の胸に蘇り、幕府との対決姿勢をとったものと思われる。

 そして更に一つは、長州藩の、攘夷
(じょうい)実行への報復行動に出た欧米の外国軍艦の襲撃に、長州藩は大打撃を受けるが、藩主・敬親は高杉晋作の奇兵隊結成に「富国強兵」の影を見て、民衆のエネルギーの起用を考えた節がある。これは松陰が講義した、「富国強兵を目指し、武器を蓄え、義勇の民を募れば、如何なる敵も恐れるに足りぬ」の、松陰の、あの時の講義の内容が胸に蘇ったに違いない。
 これにより、高杉晋作の奇兵隊は長州藩の正規軍同様に扱われることになる。そしてその背景には、松陰の残した言葉の、「生き残りの道」が藩主の胸に鮮やかに蘇り、「割拠論」と「民衆起用」が見事に結実した瞬間だったと言える。

 敬親は松陰の講義を熱心に耳を傾けた。熱心に聴いたことにより、敬親は次のように松陰を表した。
 「ふつう儒者の言葉はありきたりの言葉が、羅列ばかりで、聴いていると眠気を催してしまう。ところが松陰の講義を聴いていると、思わず膝を進めたくなる」と、云ったと謂れる。
 嘉永四年
(1851)一月、松陰は藩主・敬親に山鹿流軍学「三重伝」を印可した。時に、松陰22歳の時であった。


 吉田松陰(1830〜1859)
 松陰は幕末の志士で長州藩士であった。文政十三年八月四日、萩
(はぎ)藩士の杉百合之助(すぎ‐ゆりのすけ)の次男として生まれた。
 幼名を虎之助といい、後に大次郎、松次郎、寅次郎と改めた。名は矩方
(のりかた)、字は子義、義卿、通称、寅次郎を通した。また松野他三郎や瓜中万二(かのうち‐まんじ)などの変名を用いた。以後、松陰と呼ぶ。別号、二十一回猛士。

佐久間象山画像
象山使用のショメールの百科事典

 松陰は山鹿流兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山(さくま‐しょうざん)に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用い、1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。のち萩の松下村塾で子弟を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死。著書に『西遊日記』『講孟余話』『留魂録』などがある。  


松下村塾内部

○講孟余話の内容より

 経書を読むの第一義は、聖賢に阿(おも)ねらぬこと要なり。若し少しにても阿る所あれば、道明ならず、学ぶとも益なくして害あり。孔孟生国を離れて、他国に事へ給ふこと済まぬことなり。凡そ君と父とは其義一なり。我君を愚なり昏(おろか)なりとして、生国を去て他に往き君を求るは、我父を頑愚として家を出て隣家の翁を父とするに斉し。孔孟此義を失ひ給ふこと、如何にも弁ずべき様なし。或曰孔孟の道大なり、兼て天下を善くせんと欲す、何ぞ自国を必ずとせん。且つ明君賢主を得、我道を行ふ時は、天下共に其沢を蒙るべければ、我生国も固より其外に在らず。(下略)   〈岩波文庫〉より。



○吉田松陰の書簡より 

 北山安世宛 (安政六年四月七日)
 幽囚中懸料の論なれば隔靴の所多からん。去ながら天下の大勢は大略知れたる者、実に神州の陸沈可憂の至りなり。幕府遂に人なし、瑣屑の事は可なりに弁じも致すべけれども、宇宙を達観して大略を展
(の)ぶるの人なし。外夷控馭最も其宜を失ひ着々人に制せられること計り、癸丑・甲寅より已に六七年に及べども今に航海の事なし。華盛頓(ワシントン)がどこにあるやら、竜動(ロンドン)が如何なる処やら、画すらごとにて何の控馭を能なさんや。然ども幕府の吏皆肉食の鄙夫とシロギヌ袴(白い練り絹の贅沢な袴)の子弟のみなれば、就中一二の傑物ありとも、衆楚の囂々、一斉人の能く克つべきに非ず。因て思ふ、東晋・南朝及び趙宋などの中原を恢復得(え)せぬも勢なり。況や今の徳川をや。徳川存する内は遂に墨・魯・暗・払に制せらるゝことどれ程に立行べくも難計、実に長大息なり。幸に上に明天子あり。深く爰(ここ)に叡慮を悩されたれどもシ紳衣魚の陋習は幕府より更に甚しく、但外夷を近ては神の汚(けが)れと申事計にて、上古の雄図遠略等は少も思召出されず、事の成らぬも固より其所なり。列藩の諸侯に至ては征夷の鼻息を仰ぐ迄にて何の建明もなし。征夷外夷に降参すれば其後に従て降参する外に手段なし。独立不覊三千年来の大日本、一朝人の覊縛(きばく)を受くること、血性ある者視るに忍ぶべけんや。那波列翁(ナポレオン)を起してフレーヘードを唱(となえ)ねば腹悶医(いや)し難し。僕固(もと)より其成すべからざるは知れども、昨年以来微力相応に粉骨砕身すれど一も裨益なし。徒に岸獄に坐するを得るのみ。此余の所置妄言すれば則ち族せられん矣なれども、今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは何如にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を輔佐し奉れば、匹夫の諒(まこと)に負くが如なれど、神州に大功ある人と云ふべし。此人要するに管仲已下には立ざるなり。(下略)   〈日本思想大系54〉より。 

 松陰の生きた時代は、十六世紀の大航海時代から始まるヨーロッパの植民地主義や帝国主義が猛威を振るい、十九世紀に至る阿片戦争の、こうした風雲急を告げる時代だった。
 先の大戦当時、吉田松陰は戦意高揚を目的に、担ぎ出された観が多いにあった。そして殉国教育にまで担ぎ出された。

大戦末期の、敗戦を間近に控え、切羽詰まった当時の日本の悲壮感は、戦争指導者達に大いに利用され、大東亜共栄圏に論拠を発する軍国主義に利用された。若き学徒兵たちに、激戦地に出陣し、そこで死んで来いと言うような、戦争遂行を掲げる軍国主義者達の常套手段に利用された。

 当時、軍部が画策した『吉田松陰南進論』には、このように記されている。
 「長崎露艦事件が米人誅斬論
(ちゅうざん‐ろん)となり、この延長が下田踏海(とうかい)事件となり、この下田踏海事件の壮挙が、松陰先生の大陸および南進政策具現の第一歩を踏み出した」と。
 しかし、これは大きな誤りである。松下村塾の教育理念に、以上のような南進論や帝国主義的思想は一切含まれなかった。

松下村塾を遠望する。松下村塾は萩藩の精神的風土を培った。

 松下村塾の「建学の精神」は、人材の活用であり、当時、江戸に優秀な人材が集中し、地方都市では人材が疎外されつつあった。それを憂いて松陰は「泰平久しかるべし。ああ悲しいかな」と憂いたのである。
 それがいつの間にか、松陰は戦いを好む好戦主義者との思い込みが起り、「泰平の続くことを悲しむ」と誤訳されたのであった。
 これがまた、「華夷弁別
(かい‐べんべつ)」の思想として誤解を招いた。

 とことが松陰は“乱を好む人”ではなかった。単に当時の時代背景の、享楽的瀰漫
(びまん)が蔓延(はびこ)っている世を歎いたに過ぎなかった。そして吉田松陰の、時代の先駆者としての名誉が回復したのは、昭和26年のことだった。



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