運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
戦後の日本人は改造された! 1
戦後の日本人は改造された! 2
戦後の日本人は改造された! 3
戦後の日本人は改造された! 4
戦後の日本人は改造された! 5
戦後の日本人は改造された! 6
戦後の日本人は改造された! 7
戦後の日本人は改造された! 8
戦後の日本人は改造された! 9
home > 戦後の日本人は改造された! > 戦後の日本人は改造された! 4
戦後の日本人は改造された! 4

人類が住む、この地球は一体誰の物か。


●民主主義とは、神に代わり、人間を崇拝する論理

 一握りのプロスポーツ選手が、年商数億円と言う時代が、日本に到来して、既に久しい。
 スポーツ観戦や格闘技観戦をすることは、労働者階級にとって、それは“理由”であって、“必要性”でない。これはネットなどの通信販売で売られている商品と、同じようなところがある。

 ネット販売で商品を買うのは、理由であって、必要性からではない。購入されるものは、さして直接的に、生命に繋
(つな)がる大事なものではない。消費者の消費を促すものが大半である。

 労働者階級が棲
(す)む民主主義国家では、夢や野心は、誰でも抱くことができるが、その目的は単に“高尚”であるとは限らない。欲するものがセックスに絡んでいたり、“賭(か)け事”や“儲(もう)け話”に絡んでいたりと、明らかに高尚でないものも多くある。その最たるものが、エロサイトで宣伝されている種々の“性録画もの”である。猟奇、獣姦、同性、SM、ロリコンなど、あるとあらゆる異常性欲者の性欲を満足させるものばかりである。同時に妄想を誘う。現実と妄想の区別が付かなくなる。性情報の多くは、こうしたもので撹乱(かくらん)されている。それは「麻薬」に似た快感を感じるからであろう。

 また一般に労働者階級の生活は、手の届く、小さなものを目標としたり、小さな目的に対し、執念を以てこだわり続けようとするものが少なくない。そして誰もが、“見果てぬ夢”を追い求める。
 しかし、それは決して実現する事の無い“見果てぬ夢”である。見果てぬ夢を見る社会が、つまり民主主義なのである。

 人間社会は十七世紀後半より、意図的に歴史が変化する構造の中で生きる事を強要された。総てが人為で、意図的に変化する。それは裏に仕掛人と云う、暗躍者
(あんやく‐しゃ)が居るからである。
 本来歴史は、自然体の流れの中で変化して来た。何事がか自然発生的に起り、その発生に応じて歴史が変化して来た。ところが十七世紀後半に至ると、これが意図的に変化する構造を持ち始めた。

 人類は古代より現代に至るまで、歴史に刻まれた多くの事柄は、つまり“戦争の歴史”である。
 特にユーラシア大陸の於ては、数々の戦争の歴史が人類の歴史と、まるで符合したように、ぴったりと重ね合う。マケドニア、ペルシャ帝国、サラセン帝国、蒙古
(もうこ)などはその戦争の歴史の最たるもので、歴史が戦争であると謂う事を雄弁に物語って居る。敵対する同士がいがみ合い、殺し合い、自国の利益誘導の為に鎬(しのぎ)を削る。

 しかし、一旦栄えた王朝も国家も、その起源が自然体の形を取る限り、自然の摂理である“栄枯盛衰
(えいこ‐せいすい)の法則”の支配下にある。こうした観点から例えば、近代史を見詰めてみても、何らかの形で、自然発生的に歴史が繰り返されているように人間の目には映る。
 事実、近代における第一次世界大戦も、日露戦争や第二次世界大戦、その後の朝鮮戦争やベトナム戦争、更には湾岸戦争やイラク戦争まで、総ては自然の成り行きから起った自然体のように映る。しかし、果たしてそうだろうか。

 第二次世界大戦以降の歴史に焦点を置くと、此処に起った戦争の数々は、必ずしも自然発生的に起った形跡ばかりでないことが分かる。背後に仕掛人のいる形跡が漠然とながら浮かび上がってくる。何者かが仕掛け、それに踊らされる多くの人民が居る事だ。
 また裡側
(うらがわ)から門扉を開き、外国からの外圧に対し、それを受け入れ易いように画策する、進歩的文化人と云う売国奴が居る事だ。

 彼等は独特の言い回しと、弁証法を巧みに使って、無知な国民を誘導する。中国の始皇帝の崩後時代の、趙高
ちょうこう/秦の宦官(かんがん)で、始皇帝の崩後、末子胡亥(こがい)を二世皇帝に立て、のち焚書坑儒を行なって思想統一を強行した丞相(じょうしょう)李斯(りし)を刑死させ、自ら丞相となり横暴を極めた。二世に鹿を献じて馬といったが、衆怖れて皆これに和したという。劉邦(りゅうほう)の軍が関中(かんちゅう)に入るや、胡亥を殺し、子嬰(しえい)を立てて帝としたが、子嬰に殺された)の如き人間である。
 したがって、近代史を見つめる場合、国家群の浮沈が単に自然体の成り行きで、動向すると言う見方は、余りにも短見的であるといえよう。

 私たちの知る近代史は、明らかに一つの脈流によって、意図的に操作されている。人工的に導かれ、人民はその説く低位の意図によって、低俗的かつ白痴的な思考に染め挙げられて行く。当然そのレベルで考える思考は、自己主張の強いものとなる。権利の要求が強くなるが、義務は果たさないと言う実情が起る。
 意図を持った“穏微な集団”の画策のまま、左右の何
(いず)れかに誘導され、これが人類の歴史として反映されているのである。その最たるものが、民主主義に反映された現代人の“思い上がり”である。

 今日の現代人が謳歌
(おうか)している民主主義は、欧米が持ち込んだ政治システムである。このシステムが人類の頭上に反映され、人間社会が動かされている。その根底にあるの者は、基本的人権と云う、個人のエゴイズムが横たわっている。
 つまり民主主義とは、「悪しき個人主義」にもなり得ると言う社会システムである。

 しかし、誰もが世界の政治システムの中で、完璧
(かんぺき)と信じて疑わないこのシステムにも、幾つかの欠点が存在する。それはそのシステムを導入する国民が愚民であればあるほど、このシステムは“正しく作動しない”と謂(い)う事実である。これが正しく作動しなければ、時として「悪魔の道具」にも変化する。

 今日の民主主義は、外圧と変化に脆
(もろ)く、悪しき個人主義としての暴走する側面が存在する。昨今に見られるような、マネーゲームの失態から、時として暴走し、人類の頭上に突如の不幸を齎(もたら)す事がある。
 また、個人主義が人間崇拝の余りに、悪魔の道具として使われれば、人民は正しい政治家を選ぶ事が出来ないような錯覚の状況に陥れられる。更に、“無知”と“事なかれ主義”が蔓延
(まんえん)した場合、この政治システムが完全に機能不能状態に陥ってしまう。

 多数決で選ばれた人の中にも、これを密かに「悪魔の道具」として画策を巡らす輩
(やから)は、確かに存在する。そして、民主主義が正しく機能しない場合、失業者が増加の一途を辿り、世界中が飢えに苦しむ、現実が到来する。基本的人権の最たるものは、エゴイズムであり、エゴイズムは偏るからである。それは金持ちの国の国民が比較的裕福となり、不運に見舞われた貧乏国では、飢餓が蔓延(はびこ)ると云った実情である。民主主義下では、国家でも、個人でも、その根底にはエゴイズムが蔓延っている。

 それは取りも直さず、民主主義・デモクラシーの威力を過信し、日本人は真の政治家を選ぶことが出来ない状態に誘導された時に、これまでの日本人の勤勉さは抹殺され、雪の泥濘
(ぬかるみ)を歩くが如くの“冷たい雪道”を歩く事になる近未来の暗示である。



●日本への再認識

 家畜化される実情の中、こうした影響下に、現代の日本人は殆ど自覚症状を持たない。精神的汚染への危機感と自覚症状を持たない。思考回路が工作者の意図で、完全に破壊されている。

 国を思い、国を憂い、国を愛し、日本人としての精神を全
(まっと)うするなどといえば、直ぐに「あれは右翼だ」と、レッテルを貼られてしまう。したがって、日本人として、日本論を語ると、進歩的文化人からは、許し難い時代錯誤の反動分子であると看(み)られるようだ。これは、戦前・戦中、自由主義者が、「アカ」と言われた、あの「色眼鏡的偏見」と酷似するようだ。

 日本人は、日本と、日本の文化や精神を忘れてしまったのだろうか。日本の情緒や文化は、いったい何処に行ってしまったのだろうか。

朝日模様は本来の「日の本」を顕わしたものだった。

 日本の文化や精神を語るとき、「日の丸」を抜きにしては、その歴史は語れまい。「日の丸」は長い歴史を持っている。起源は神話の時代に遡(さかのぼ)り、それが明確になったのは十六世紀の戦国時代で、上杉謙信や武田信玄が、戦国武将の旗印として「日の丸」を用いている。また、豊臣秀吉も軍船の旗印として、これを用いている。

 更に徳川幕府も、寛永年間には船に「日の丸」を掲げた記録がある。

 幕末には、薩摩藩が島津斉彬(しまず‐なりあきら)の言を採用し、安政元年には異国船と間違われないように「日の丸」を掲げることを行っている。万延元年(1860)には、咸臨丸(かんりん‐まる)が安政条約批准の為にアメリカに言った際も「日の丸」を掲げている。その後、「日の丸」が日本の国旗として正式に制定されたのは、明治3年の太政官布告による。

 「日の丸」は、太陽を表している事は明確である。これは農耕民族の象徴であり、また太陽を仰ぐ山岳民族の象徴であった。日本人は古来より太陽を崇(あが)め、植物を成長させ、五穀豊穣(ごこく‐ほうじょう)を祈ってきた民族である。太陽信仰は産土(うぶすな)信仰とも結びつき、その象徴が「日の丸」であった。したがって、「日の丸」は国家権力の誇示ということではない。

 「日の丸」と聞くと、胸糞が悪くなるという日本人が居る。このように感想を述べる人は、日本が中国大陸を侵略し、あるいは朝鮮半島を植民地にして、その歴史的事実から、これが太平洋戦争に繋(つな)がり、「日の丸」を見ると胸糞が悪くなるというのであろうが、では、英国のユニオン・ジャックはどうなるのだろうか。

 アジア侵略の度合いから言うと、英国こそ、その侵略の歴史は古く、世界中に日の沈まない国の象徴がユニオン・ジャックではなかったか。そして、大英博物館には、海賊国家らしく、世界中から盗んできた美術品などの戦利品が処狭しと並べられている。エリザベス女王第一世は、紛(まぎ)れもなく、海賊の姐御(あねご)だった。

 欧米には、このように傲慢(ごうまん)がある。世界の覇者でなければならないとする思い上がりがある。

 また、欧米には歴史を捏造(ねつぞう)し、加工し、操作する傲慢がある。先の大戦も、うまく捏造され、日本人は自虐的(じぎゃく‐てき)立場に追い込まれた。それが「日の丸」と「君が代」の全否定に繋(つな)がった。

 また欧米は、東京裁判(極東軍事裁判)において、日本人を自虐的立場に追い込むことに成功した。それが戦後民主教育で、指導的立場にある学校教師の国旗掲揚に対する不起立である。そこに彼等の思想的見解と信条があるとしている。

 しかし、それを一概に否定はしない。戦争といえば眉をしかめ、軍事といえばおぞましい凶事と考え、「戦争はもうこりごりだ……。先の大戦当時、日本人の悪逆非道を世に知らせなければ……。“日の丸”と“君が代”がこの戦争に悪を齎(もたら)した……」という、使命感を帯びた言辞が、国旗掲揚時の不起立者の中にはあるようだ。

 一方、彼等の思想と信条は、また憎悪から来る「感情そのもの」である。彼等は一様に、感情論で戦争を裁いているところがある。軍国主義反対という怒りそのものが、紛(まぎ)れもない感情である。そして、この感情こそ、絶対的正義として、今なお君臨している。

 しかし、よく考えれば解る事だが、「日の丸」と「君が代」の全否定で、感情論のみで、後世の次世代に戦争を説く事は極めて傲慢(ごうまん)であり、次世代を愚弄(ぐろう)しているとも言える。何故ならば、次世代に歴史を検証する正しい能力を奪い、歴史への見識を失わさせ、感情の発露として、「日の丸」と「君が代」を全否定しているからだ。これでは理性や知性を失わせたのも当然ではないか。

 かつて青年海外協力隊の青年達が発展途上国などに出向き、農業、漁業、工業、医療、その他の面で随分といい仕事をやり、感謝されたが、ある国で国旗掲揚のとき、日本の青年の協力隊員一団が掲揚時に起立せず、殴られたという事件が起った。

 この事件などは、日本の学校教育で、国旗掲揚時に起立をしなければならないとマナーを教えなかったことが、こうした事件の元凶となった。

 国旗に対し、起立しないのは国旗への侮辱(ぶじょく)であり、また、その国家への侮辱である。喩(たと)え、青年達に悪気はなかったとしても、日本では、国旗掲揚時に不起立を頑張り通す日教組教師が居(お)り、国旗への礼儀も、全く知らずに成長した青年が、無意識的に何処の国でも国旗を見ると胸糞が悪くなるという無意識が働けば、それは戦後の平和教育の悪しき影響といえるだろう。戦争イコール“日の丸”と“君が代”に結びつけているからだ。

明治初期の「開国日本」を祝う浮世絵。

 ちなみにある新聞社調査で、「日の丸」を国旗として相応しいと思っている人は全国民の86%、そう思わない4%、回答拒否が10%であったという。つまり86%は、「日の丸」が日本の国旗でいいと答えているのだ。

 ところが残りの「そう思わない」と「回答拒否」の僅か14%の一部の反対者で、これがクローズアップされ、国民の大多数が反対のような印象を与えてマスコミに取り上げられ、国旗と国歌の全否定として操作されるのであるから、日本の未来も、先が見えたという感じで、欧米に靡(な)く欧米化の煽(あお)りを受けているといえよう。【註】欧米推進奨励思考と赤化工作思考、またインターナショナル系国際勢力は、国際ユダヤ勢力下のイルミナティや傘下のフリーメーソンに派生したもので、もともとは同根。日本人はこの区別がつきがたい。但し、国際ユダヤ勢力と一般のユダヤ人は全く違うので、これに誤解なきよう)

 また、そうした一方で、赤子の手を捻(ひ)るが如き、欧米の日本破壊の策謀に、まんまと日本人は嵌(は)められているといえよう。そして、日本国旗の「日の丸」を考える時、この国旗には必ず賛否両論の二つの意見が起り、両者は相半ばすると言うのが実情である。

 「日の丸」賛成派は、日章旗は日本の国旗とされている旗であると言い切り、最も日本の国旗に相応しい旗だといい、江戸時代、幕府船の標識として使われ、幕末日本船の印となった事実を挙げている。そして日章旗は、明治政府にも引き継がれ、1870年(明治3)の太政官布告で商船規則を制定し、旗の規格を定めている。

 これによれば布地は白色の長方形で、縦横の比率は横を100とすれば縦は70の比で、日章は赤で、その直径は縦の5分の3である。日章の上下のあきを等しくし、日章の中心は旗面の中心より、横の100分の1だけ旗竿の側に近寄る。慣習的に国旗として使われるに至っているが、法律上これを国旗とする明文はないのが実情だ。

 この実情を論
(あげつ)らって、日の丸反対派はこれまでの日章旗を徹底的に否定し、“先の大戦”の悲惨な現状と結び付け、日の丸を徹底的に否定する事で反戦運動のシンボルとして、徹底的に否定するのである。その背景に横たわっているものは、“先の大戦”を反芻(はんすう)する感情論である。

 しかし、日の丸を素朴に見詰め直すとき、日の丸には何の思想も、政治理念も、これらのものは一切存在していない事が分かる。ただ素朴なる、「太陽を表わす旗」である。素朴なまでに、ただ太陽を表わしている。これこそ簡単明瞭な、素朴の原点であり、此処には思想も政治理念なども一切絡んで来ない。むしろ素朴であり、極まりなくシンプルである。

 しかし、国民が愚民であればあるほど、その操作下にいる国民は、「無知」と「事なかれ主義」の蔓延(まんえん)によって愚昧化(ぐまい‐か)され易い。愚昧化された後に残るものは、国民の「動物化」であり、「家畜化」である。人間が家畜化すれば、理不尽に対しても「反抗の牙(きば)」が抜かれるであろう。ここに欧米支配中枢の日本人ゴイム化工作が働いているといえよう。

 その最たるものが、“日の丸を見たら胸糞が悪くなる”という連中の暴言である。彼等の多くは、日本画中国大陸を侵略した歴史を辿り、その記憶をベースにして、日の丸を見ると胸糞が悪くなると謂っている。しかし、日の丸を見て胸糞が悪くなると言うなら、ユニオン・ジャックはどうなのであろうか。かの国の国旗こそ、東亜侵略から謂えば、日本の比ではあるまい。
 更に旧ソビエトや現ロシア連邦のハンガリーやチェコスロバキア、更にはポーランドでの自由を押し潰した歴史的な犯罪やアフガン進攻はどうなのだろうか。

 何しろ日本では日教組が日の丸の国旗掲揚に反対し続けて来た実情がある。その為に、多くの日本国民は戦後教育の中で、国旗に対する礼儀知らずな一面を増長させたばかりでなく、日本と言う国すらも否定し続けて来た痕跡がある。そしてそこで培養した不可解な現象は、“日本国は愛国に値する国ではない”という幻影を植え付けた事だった。この外圧からの工作は、今日大いに成功したと言えるであろう。

 そうして戦後教育の中で培養された多くの戦後生まれの日本人は、「日の丸を見ると胸糞が悪くなる」という社会主義礼讃の思想であった。これこそが外圧の政治工作に敗れた、日本国民の動物化であり家畜化であった。その背後には常に、外国の勢力の影がちらついている。
 動物化され、家畜化されれば、欧米に思うようにコントロールされ、日本国民はその自覚症状すら失うであろう。一億二千万の日本人が、この先を歩く道は、恐らく、雪の泥濘(ぬかるみ)だろう。冷たい雪道の泥濘の上を、何処までも歩かされることになるであろう。だが、今日の日本人に、その自覚症状はないようだ。



●隠された「左回りの法則」

 日本人は「神」という超感覚に対し、殆ど反応しなくなった。そして自称“神”は、低級霊に取り憑かれた職業祈祷師や、自称“霊能者”を名乗る程度の低い金の亡者達である。

 戦後の日本人ほど「物」に魅了された国民はいないであろう。そしてこの物の世界は、食に及び、日本人の食体系を破壊した。
 本来、日本人は「肉食禁忌の思想」をもって、その食体系を古来より連綿と受け継いできた。古代の日本では、「物忌み」の風習により、清浄の気を保つということに注意が注がれ、これを厳守してきたのだ。
 その「物忌み」において、「肉を食べない」という考え方があった。四ツ足を喰らい、地を汚さぬことに心掛けたのである。これは「神」という超感覚に通じる意識を持つには、肉を食べないと言うことに努力が払われたからである。

 日本人は古来より、殆ど肉食をしなかったと言うことは、仏教の「殺生禁断」
【註】五戒のうちの不殺生戒)の影響を受けたところが大きい。これは神に通じるには、肉食をしてはならないと言う考え方である。肉食をしないと言う行いこそ、霊的感覚を強め、霊性を高める特別メニューだった。

 そして一方、高めた霊性を維持していくには、高地である程よいとされた。古来日本人の山岳信仰は、こうしたことに由来している。
 特に北半球においては、聖地と言うところは山岳地帯に多く、高地であればあるほど、気圧が低くなり、気圧が低ければ、それは同時に「神に近い場所」と考えられていたようだ。また、「気圧に低い場所」ほど、神霊的なバイブレーションを感じるところなのである。

 それは現象人間界と言う場所が、聖地としての高いところには、神が、神の感情や感覚として、それに応じてセットされた構図が描かれていることである。
 神の超感覚あるいは、超感情と言うものは、普通俗界で暮らしている現代人には及びもしない高い意識が存在するからである。低地に棲む、俗人の世界を「俗界」という。
 俗界に棲む人は、別名“谷に堕ちる人”という解釈が成り立つ。

神々と触れ合う高山地帯

 一方、高地に住む、山の人を「仙人」と言う。仙人は“山に棲む人”のことである。空気の薄い、気圧に低い高知こそ、高くて奥深い神の意識に触れることが出来る。
 これは高い山に登ると、なぜか気持ちが洗われるという感覚が起ることからも、明白になろう。高い山に登ると、神仏の姿を見るというのは、そこが聖域であることを現し、神が鎮座している場所であるからだ。

 人間の肉体の奥にある霊的な意識は、超意識と言われるもので、この深層部は、高いところに行くほど、そこにセットされた超感覚に反応するようになっている。
 日本の古来よりの山岳信仰は、こうした超感覚と無縁でない。則ち、人間は、高いところに行くほど、その肉体の中の霊的な細胞変化が起るという事を現し、精神的叡智を高め、それを護るという本能において、神の法則に触れることが出来たのである。
 山岳信仰とは、高地に行くことによって、超感覚に反応する霊的体験の場であったのである。

 ところが、こうした体験の場は、乱開発により、破壊された。
 そして現代では、高地に行って霊的な体得する「左回りの法則」
(中心帰一)は、物質文明を主導する“右回りの法則”(拡散膨張)に圧倒され、隠されてしまったのである。



これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。


入会案内はこちら

daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法