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戦後の日本人は改造された! 3

食の欧米化は、日本人を改造する、最短の近道だった!!
 いかに日本がアメリカ[というか、フリーメーソンや上部組織のイルミナティ]の思いのままに崩され、骨抜きにされたか、特に食について、その影響が大きいか、多くの日本人は余り関心がないようだ。飽食の時代、不景気にあっても、「何でも食べよう」の総花主義が、依然現代栄養学の中で猛威を奮っている。
 そしてこの現実に、誰も疑いの目を向けない。これこそ、日本と日本人の改造プログラムは、ほぼ完了したといえよう。日本人は確かに改造されたのだ!


●日本人は敗戦によっておかしくなった

 日本人は確かにおかしくなった。確かに「訝(おか)しい」のである。あるいは自覚症状のない「狂い」が生じているのかも知れない。無自覚のまま、自身が改造され誘導されていることに気付かない。誰もが、今の日本と言う国がおかしくなり、「日本がおかしい」と気付かないし、その幽(かす)かなる狂いに真摯に目を向けようともしない。

日本人がおかしくなり、狂う現実の第一歩は、此処から始まった。これ以降、日本人はアメリカの思惑に乗せられ、アメリカ追随の、アメリカオンリーの、政策の諸手を上げて喜ぶ「アメリカ主義」が始まる。アメリカ主義とは「民主主義」の名を騙って、他国にアメリカ主義を押し付ける、その正体は「帝国主義」であり「植民地主義」の国際ユダヤ資本の帝国だった。アメリカと言う、ある意図で踊らされる傀儡国家だった。
 そしてその傀儡役として、大統領や将官クラスの高級軍人が、あたかも傀儡師
(くぐつ‐し)から踊らされる傀儡人形のように踊った。その傀儡人形の一つがマッカーサーだった。

 戦争は絶対にしてはならない。どんなことがあっても、戦争への手段行使には絶対に反対しなければならない。極力避けるべきである。
 しかし、上層部であれ、一旦戦争が決定されたのなら、国家を揚げての総力戦は「絶対」に負けてはならない。
 戦争は指示の延長であり、国際法にも認められている。国際法に則って、一旦先端の火蓋を切ったのなら、その戦争は最後まで負けてはならない。その覚悟があれば、意地を張って「メンツ」のために戦争をするもよし、また負けて自虐的になって懺悔するのを悔いるのなら、遣る前に“バンザイ”すべきだろう。
 戦争の恐ろしさは、戦争を戦っている時ではない。戦争が終わってから、本当の「生き地獄」が始まるのである。生き地獄に、自分の生まれた国土をしたくなければ、第一の考え方として、遣るべきではないし、遣りたくない以上、最初の諸手を挙げてバンザイすべきであろう。

 次に、第二の考え方として、遣ると覚悟し戦争を始めたのなら、絶対に負けるべきでないということだ。
 敗戦国は、負けた時から戦争をしているとき以上に、精神的にも肉体的にも陵辱的な辱めを受けるのである。古来からの風土はことごとく無視され、文化は破壊され、言語までもが戦勝国の言いなりに押し付けられ、それを長らく忍従し、一つの国の民族が完全に崩壊するのである。
 この現実を忘れるべきでないだろう。

 では、日本人がおかしくなる現象は何処から始まったのか。
 所謂
(いわゆる)進駐軍の「日本占領」において、である。
 日本を占領し、日本に長らく進駐したのは「国際連合軍」という名を借りた“アメリカ軍”だった。民主主義を謳い文句に、世界に民主主義の輪を武力で広める、一握りのエリートの戦略的な意向を受けたアメリカ軍だった。

 戦後の日本人は、なぜ「アメリカ」と「アメリカ軍」に、これほどまでに寛大で居られるのか。
 日本人の寛大は「二つ」ある。
 その一つは、アメリカの押し付けた、アメリカ人が考えた「日本国憲法」である。この憲法は、アメリカ帝国主義が日本と日本人に押し付けた憲法にも関わらず、これを頑に護憲するという、実に感慨な集団が居ることである。

 寛大の第二番目に上がるのは、医療現場で用いられているレントゲンである。
 医療現場で用いられるレントゲンは、微量であるため人体に影響はないという。それなのに、広島の長崎の原爆投下の原爆には、なにゆえ大袈裟に騒ぎ立て、核の脅威をアピールするのか。
 確かに核は人間にとって脅威である。有害である。世界人類のために排除・廃絶すべきである。
 ところが、医療現場の「核」は、なぜ野放しなのか。排出される放射線量は、微量だから許されるのか。
 医療現場のレントゲンは、日本人は原爆被爆国でありながら実に寛大である。

 定期検診……という保健制度の医療行為がある。この医療行為も、元を正せば有害であり、不必要な検査の無差別施行であり、現行の保健制度が、医学的に無知は国民に「検診」という名で強いているのである。

 日本は建前上「非核三原則」の国である。核兵器を持たず、作らず、持ち込ませずという三つの原則を全うする国である。そう信じられている。ただし建前上は、である。
 そしてこの建前を無視して、無反省な放射線使用の現実がある。
 核装備絶対反対、原子力発電所絶対反対、原子力船その他の放射能漏れに対する現実に絶対反対し、その反対ぶりは「猛反対の観」が強く、ところが「核」に対して、これだけ強く敏感に拒否反応を示す日本人一般国民が、なぜか医療界の放射線使用に対しては、誰も何一つ反対せず、安易に求め、これほどまでになぜ寛大なのだろうか。

 この寛大なる「許し」は、医療現場だから認められるのだろうか。
 あるいは医師
(歯科医師を含む)という医療に携わる知的権威に、学術的にも学力的にも知性が劣り、一般国民は叶わないから単に従順になっているだけのことなのだろうか。
 現代の医療というのは、確かに権威だろう。その権威に寛大なのは、なぜだろう。おまけに尊大な医師にまで寛大なのは、なぜだろう。
 権威というのは、かくも無垢な一般国民を威圧するのである。

 その寛大をいいことに、医療現場では無反省に放射線使用が行われているのである。そしてこの現場では、医師の現に言い含められて、「放射線は微量だから人体に影響がない」というような、現在の民主党が暴言するようなことまでをいい、患者を説き伏せ、判然としない放射線療法までもを奨励しているのである。
 今日の現代医学は、アメリがか持ち込んだ医学であることを忘れてはなるまい。医学の進歩とは、アメリカの物差しではなって「医学の進歩」と定義しているのである。

 そして日本人の不思議なところは、アメリカの持ち込んだ民主主義にも、医療現場の放射線使用同様に寛大であり、アメリカの押し付けた現・日本国憲法に寛大である。
 更に不思議なのは、現憲法がアメリカの押し付けにも関わらず、これを擁護し「護憲運動」を展開する輩
(やから)の居ることである。

 押し付けられた現憲法の一項目も、一節も一行も、また一文字も変えようとしない。この「押し付け憲法」である、似非平和憲法を頑
(かたくな)に守っていることである。この憲法を奨励し、それを高らかにアピールしているのは進歩的文化人であり、シンパサイダーであり、左翼傾向に傾くことを好む社会主義並びに共産主義追従者である。この政治思想を正義と信じる輩たちである。
 また、時代の時の流れに便乗する、ポーズは何処までも革新でありながら、その実はブルジョアの拝金主義者やタレント文化人たちである。



●労働者階級の原理

 世の中には、庶民の代表として“命令する側”と、労働者として“命令される側”の立場があることは紛(まぎ)れもない事実である。これは労働者の最上部にいて、上層部に君臨していたとしても、命令される側にいることには違いなく、被支配階級の人達である。

 仮に、高級車を乗り回し、大ローンを組んでそれなりのマイホームに住み、バック類などの高級ブランド品を小脇に抱えていても、また一流仕立ての衣服や靴などの履物、更には種々の宝石類や指輪、時計やブレスレット、イヤリングやブレスレットなどを身に飾り付けていても、社会的な生活と地位は“労働者”であるには変わりなく、大衆文化に甘んじる方である。

 また、明治維新以降、欧米が持ち込んだ日本人の欧米化の中には、支配階級の、被支配階級を監視する社会システムが同時に盛り込まれていた。そして日本人が改造された顕著な象
(あらわ)れとして、「週末の過ごし方」に、その後の“日本人の改造結果”を見ることができる。

 週末や休暇の過ごし方を見ると、自分が所属する階級が露呈
(ろてい)することになる。
 多くの日本人は、この事に殆ど気付いていないが、「日本人の、余暇をどのように過ごすか」で、その階級が露呈する。昨今の流行で、プロスポーツを見れば、それだけで階級は露呈するし、また、好みのスポーツも、階級を如実に顕わすものである。

 つまり階級に結びつく概念として、「週末の過ごし方」一つで、教養面や階級層が顕われて了
(しま)うのである。
 人類が構成する世界と言うのは、主義や主張、イデオロギーまでが変化したとしても、その頂点に立つ一握りの人間のやらかすことは、要するに、社会主義や共産主義社会であっても、上流ブルジョア指向であり、人類世界では結局行くつくところは、ブルジョアに浸り、それを満喫することにある。これは歴代の革命家が、ブルジョアに傾倒したことが、その事実を雄弁に物語っている。レーニン然
(しか)り、スターリン然り、毛沢東然りである。

 これは下層労働者階級であっても同じことである。
 彼等に、経済面の余裕から、豪勢な週末は存在しないが、彼等が模倣する週末は、“家族サービス”という面に力を入れることが、流行になって随分と久しい。この結果の象
(あらわ)れは、中流階級や上層労働者階級の雇用主と労働者の境目で起った「週末の過ごし方」が起因しているようで、命令をする側の底辺と、命令をされる上層部が、その労使関係において、“賃金の奴隸”になっている労働者を、命令する側が、一時的に解放するという思惑が、「週末の過ごし方」に反映されているように思うのである。

 今や、「週末の過ごし方」は、すっかり労働者階級に定着してしまったようである。
 それはスポーツ新聞を見れば顕著だろう。この新聞の大半は、娯楽にスポーツを絡ませた“セックス関連”情報が中心で、溢れるばかりの営利本位の宣伝広告は、自分が何をしたらいいか分からない“能無しの読者”に「週末の過ごし方」を教授しているからである。性欲の捌け口の指南とでも言おうか。

 昭和の時代は、週末の過ごし方など、いちいちメディアから教えてもらわなくても、それぞれは、その楽しみ方を知っていた。また、旅行会社から、割引旅行をしなくとも、それに見合った旅行法を知っていた。それも、高額な金銭を掛けずに、である。
 ところが今日は、どうだろうか?
 「週末の過ごし方」を自分で決められず、スポーツ新聞のセックス情報に、どこのソープランドが穴場か、穴場情報に目を奪われたり、旅行会社の誇大宣伝に唆
(そそのか)されて、海外まで出かけると言う有様ではないか。

 特に、年末から正月三箇日
(さんがにち)に掛けて、家族総出で、海外で過ごす階級層は、明らかに、旅行会社の誇大宣伝に唆された労働者階級であり、此処にも「正月休暇」の克明な象(あらわ)れが露呈している。

 休暇の過ごし方は、日本では中流階級以上の命令を出す側は、「夏休み」という長期休暇があり、一方、労働者階級に入ると、上層労働者階級を含んで、終末と「正月休暇」や「盆休暇」などの短期休暇がある。
 昨今では、労働者階級でも「夏休み」がないではないが、彼等は上流階級が過ごすような、毎年同じ場所で過ごす分けでもないし、避暑地などの場所を自分で所有している分けでもない。況
(ま)して、“三代前の先祖”からと言う避暑地や別荘も、所有したと言う痕跡(こんせき)は見つかりそうもない。

 上流階級や上層中流では、休暇を取るにしても、短くても“3ヵ月”や“半年”という単位であるが、中流を含む労働者階級では、せいぜい長くても土日を挟んで“2週間止まり”である。この休暇の長さにも、階級の違いが克明に顕われている。

労働者が過ごす、現実逃避のファンタジーの世界。幻想的といえば聞こえがいいが、そこは幻覚であって、一時の慰安しか齎してくれない。

 多くの労働者階級は、家族サービスにディズニーランドやハウステンボスなどのような、労働者階級の為に作られた娯楽地で、休暇を過ごすのである。
 また避暑地や行楽地などに旅行して、そこに滞在しても、それは借り物であり、ある一定期間宿泊すれば、その後は、その場を去るのである。これこそが「労働者階級の行動原理」と言える。

 更に労働者階級の顕著な象
(あらわ)れとして、「長蛇の列を作る」という現象がある。
 例えばグルメを気取り“うまいもの”と聴けば、それを仕掛けたマスコミに踊らされて“追っかけ”の流行に乗り、さして美味くもない店に押し掛けて、店頭に長蛇の列を作る。
 海外旅行にしても、皆が押し寄せる観光地や行楽地に行き、そこに到着すると、好んで行列に並び、添乗員の支持に従って、順番を待っているなどは、“長蛇の列を作る現象”の象
(あらわ)れであり、此処に「労働者階級の行動原理」が働いているのである。



●旅行で分かる階級の違い

 その国の文化程度を顕わす言葉に「旅」というものがある。
 古くは「旅」といえば、必ずしも遠い土地に行くことに限らず、住居を離れることを総
(たび)て「たび」と言った。そして次のような言葉まで生まれた。これこそ日本人の心情ではなかったか。


旅は心、世は情け

旅は情け、人は心

 旅には「心」とか「情け」が絡むものだったのである。旅では人の情けが頼もしく、嬉しく感ぜられるし、人では“心の持ち方”が、何より大切であるとの意味である。

 ところが、「旅行」となると、そうはいかない。
 旅行とは、多くの場合、交通機関によって、おもに観光や慰安などの目的で、他の地方に行くことを指す。既に旅行は、「観光旅行」の意味が込められ、その意味合いは狭められているのである。

 したがって、古典で言う「旅」のイメージからは程遠くなり、本来の旅先でも目的であった、人の情けに縋
(すが)ったり、旅する同士が助け合い、新しい経験に出会うかも知れない、こうしたことが皆無となって、むしろ昨今の旅行者は、旅に出る“心の豊かさ”や“余裕”を失っていると言えるのである。

 現代人旅行者達の旅行と言えば、多くは「観光旅行」を指す。そして旅行にも、一種の階級が顕われ、上層部からは、下層部の旅行を「観光旅行」などと、皮肉を込められた呼び方で揶揄
(やゆ)されている。階級上層部は、階級下層部の階層を、次のように揶揄する。

 「労働者階級は、その階級の上層部に位置していても、彼等のする旅行はあくまで“観光旅行”であり、旅に出ると言った余裕を持ち合わせないばかりか、旅先で新しい経験や体験をすることを恐れ、こうした突然の異変を何よりも嫌っている。彼等の求める旅行は、その地域に多少明るい添乗員がいつも同行し、言葉に不自由がなく、前もって予想できる、そうした観光地へと足を運ぶ。彼等が望むのは、あくまで“予期せぬ出来事”ではない。
 そして彼等の多くは、この予想できる場所に行き、予想できる“お決まりのコース”の上で、現代の観光旅行が売り物にされ、旅行社はそれで経営が成り立っているのである」と、皮肉と侮蔑
(ぶべつ)を込めて言うのである。

 上流階級から見た労働者階級は、「旅に出る」という感覚を、殆ど持ち合わせていないと言うのである。見ず知らずの人に接触し、その場を臨機応変に切り抜けることもできないし、土地の風土や気候などについて、無知である為に、事件に巻き込まれる危険性も上げている。日本人が海外旅行先で事件に巻き込まれ、殺傷されたり、金品を奪われるのは、そもそも「無知」に起因するものである。

 更に、“ことの成り行き”に委
(まか)せ、“うまく対処する能力”が乏しいとも指摘している。そして結論的には、観光好きな階層は、労働者階級の中でも、上層労働者階級や中層労働者階級と言う、自分が「中流」と意識している人達だと言っているのである。
 これは「中
(あた)らずと雖(いえど)も遠からず」だろう。

 日本では、日本国内にも避暑地を持ち、そこに別荘を置いて、“給仕付き”の食事をし、湖面にクルーザーやヨット、野山を駆け回るランドクルーザーを持っている上層中流階級に含まれる人は、欧米の上流階級に比べて、極めて少ない。それは日本の上流階級が、欧米のそれに比べて、上層中流以下であることを物語っている為だ。

 また日本では昨今、「海外旅行」という言葉が、旅行の中で日常茶飯事に遣われるようになったが、これは文化面よりも、リッチ層としての経済的豊かさを誇示したもので、多くの日本人は海外旅行に出かけて、その国の文化を学ぶ為に旅行するのではない。
 これが労働者階級ともなれば、顕著となり、文化面を優先することは殆どあり得ない。そして総ての労働者階級と、上流階級の違いは、前者はグループで参加する旅行を好むが、後者は普通、グループ旅行には参加しない。気侭
(き‐まま)な旅行をするのである。これはむしろ旅行と言うよりも、「旅」に近いだろう。

 「添乗員付きの観光旅行」に出かける参加者の多くは、参加者自身の無知、知的な怠慢、好奇心の欠如を物語ったものである。海外での観光旅行の多くは、その主体が多くは“美術鑑賞旅行”であり、教科書に出て来る歴史的観光地巡りである。これは何
(いず)も海外旅行に限らず、日本国内の観光旅行も同じだろう。
 そして日本国内においても、例えば、自分の知人などが遣
(や)ってくると、彼を誘って真っ先に連れて行く所は、やはり“名の知れた観光地”であり、此処をまるで自分の庭のように自慢することだろう。

 そこが寺院や神社であったり、名所旧跡などであったり、デパートや大型娯楽施設などの巨大建造物であったりしたとしても、それは自分の棲
(す)む地域の自慢であり、まるで自分が所有するかのように、自慢たっぷりと説明を加えるのである。
 つまり、この根底には、優秀な権威の“威光”を拝借しながら、芸術鑑賞をするという図式が組み込まれているのである。これが労働者階級と、上層階級の真っ先に区別される意識の違いであろう。



●スポーツで分かる階級の違い

 スポーツに参加したり、それに興味を持ち、支持しているスポーツ一つ上げてみても、その階級差が顕われて来る。
 さて、スポーツには「ボール」を使用するものが多い。
 球の小さい順に並べて行けば、ゴルフ、テニス、スカッシュ、ポロ
polo/ペルシア起源の騎乗球技)、ホッケーhockey/世界最古の球技で紀元前5〜4世紀頃から行われ、日本へは1906年(明治39)初めてイギリスから紹介された)硬式野球、軟式野球、ソフトボール、アメリカンフットボール、ボーリング、サッカー、バレーボール、バスケットボールなどの順になろう。

 現在ではゴルフやテニスは、かなり階級が下がったとは言え、格好良く、高額なレッスン料を払うので、一応上層階級のものとなっている。
 ゴルフも元々は、庶民が介入出来ない“格の高いスポーツ”であったが、現在は労働者階級が多く入り込んで来ていて、この“格の高さ”は低下した。今日、ゴルフ場に殺到しているのは、上流階級のものは殆ど見なくなり、その大半は総て労働者階級である。そして労働者階級でも、上層労働者階級並びに中層労働者階級である。
 特に、中層労働者階級のゴルフ熱は未だに根強いものがあり、夜間などの“打ち放し”のゴルフ練習場には、この階層が多く屯
(たむろ)している。

 またゴルフ・ゲームを楽しんだ後、ゲームの成果をクラブハウスで話し合っているのは決まって、この上層と中層の労働者階級であり、更に、名の売れたプロ・ゴルファーのゲームの後を、観戦者として熱心に蹤
(つ)いて廻っているのも、この階級の人達である。

 これまで社会的に格が高く、地位が高いとされたスポーツは、それを定義すれば、道具やレッスン料が非常に高額である事が「格の高さ」とイコールであった。またスポーツ設備も高額であることが、格の高いスポーツとされた。そして格の高さは、何よりも、商品やサービスを、惜
(お)し気(げ)もなく速やかに消費すると言うものであった。

 例えば、ゴルフの場合、何エーカーもの広い土地を有し、その拡大で高額な土地を、農耕、住居、工場、デパートなどの商行為に使えなくして、少数の人がそこでプレーを楽しむから、ハイクラスのスポーツとして成り立つものである。その結果、ゴルフコースは絶えず芝生の手入れをし、雑草を除去し、水撒き、芝刈り、ローラー掛けなど、非常に高率が悪くて、高く付く機械を遣
(つか)って手入れするから、一切が高額な費用を要するのである。

 そしてゴルフを、更に格の高いスポーツに押し上げているのは、「審判員が居ない」ということである。つまり、「審判員が居ない」ということは、18ホールを設けたグリーンの上で、ゲームを楽しむゴルファーは、言わずと知れた上流階級の“紳士”や“淑女”であり、プレーに不正をしないという格調の高さを物語るものである。

 常に審判員が複数いて、ゲームの行方に“いちゃもん”をつけるのは、そのスポーツ自体が「格が低い」からである。また選手に違反があったり、不正が隠されているかも知れないという、疑いから審判員が付く。更に、観戦客を納得させ、ルールに則した結果を明確にさせる為である。したがって、球の大きいスポーツほど、審判員も増えることになる。今日のサッカーやバスケット・ボールなどが、大勢の審判員を要するのは、この為である。

 さて、スポーツには球を遣うものだけではなく、他にも高尚と言われたスポーツがある。例えば、スキーなども、かつては上層階層以上のスポーツであった。
 スキーの特長は、都市から離れた不便で、遠くて、そこに出かけて行くにも大変な出費を要し、高い場所でしか出来ないスポーツである。また平坦地では無理であり、高い位置から低い位置に向けてしか滑ることが出来ないからである
。その上に、危険が伴うものであった。
 またかつては、上層階層では、「白色勲章」というものがあり、冬の間、足や踝
(くるぶし)にはめる石膏(せっこう)を貰えるスポーツであった。

 この「白色勲章」は、スキーで怪我をしても、べらぼうに高い治療費を払えると言う経済的余裕と、何ヵ月も仕事を休んでも、差し支えないと言う、富豪であることの証
(あかし)であった。

 この「白色勲章」は乗馬の場合でも同じであった。乗馬中の事故でも、この勲章が貰えたのである。
 かつて乗馬が上層階層のスポーツであったのは、ヨットやクルーザーを湖面に浮かべるだけで金が懸
(か)かると言うばかりではなく、非常に格調の高い、古典的なスポーツであったということである。
 馬に乗る行為は、人を見下ろせると言うばかりではなく、大勢の人から見ても、見上げられるからであった。馬にまたがり、騎乗する騎士こそ、一握りの個人が、大衆の中で、クローズアップされるからである。したがって乗馬は、スポーツと言うより、権力者の権威を大衆に見せつけるものであった。

 しかし、今日はこうした本来のスポーツの意味が薄れた。特に多くのプロスポーツは、芸能界と地続きであり、誰もが高額な賞金額や契約金を狙って、これに殺到するようになった。これが、今日の日本人社会の「一億総タレント時代」と言われる所以
(ゆえん)である。



●民主主義とスポーツの関係

 日本でゴルフとボーリングが流行し始めたのは、ほぼ同じ頃であった。
 そしてこの両者が、明らかに格の違いを見せつけたのは、ゴルフは上流階級がし、ボーリングは労働者階級がするものに、二分したからであった。
 ゴルフとボーリングの最大の違いは、ボウリングが労働者階級に好まれた最大の理由は、飲み物を飲んだり、食べ物を食べたり、タバコをふかして、プレーできると言う点だった。

 一方ゴルフは、こうした事が紳士や淑女のスポーツとして定義されていたので、飲食は皆無であったし、タバコをふかすなどの不作法な行為も、最初から存在しなかった。そこには上流階級のマナーが歴然と存在していた訳である。

 この差が、ゴルフの格の高さを押し上げて、上流階級のスポーツになり、一方、ボーリングは庶民的であるばかりでなく、ゴルフのように特別なスポーツ・ウエアーに着替えなくても、普段着で出来ると言う点だった。また、ゴルフはイギリス的な上流階級のスポーツであり、一方ボーリングはアメリカ的な労働者階級のスポーツであった。

 ゴルフやボーリングが日本で流行し始めた頃、テレビ観戦できるスポーツは、当時、新たに加わったゴルフやボーリングをはじめとして、カーレースなどであり、これまでのプロ野球と大相撲、それにプロレス、プロボクシングなどであった。そしてテレビスポーツ観戦は、次々にその数を増やして行った。

 また東京オリンピックを切っ掛けに、バレーボール、水泳、体操競技、柔道、更に札幌冬季オリンピックを切っ掛けに、アイススケートやアイスホッケーなども放映されるようになり、テレビ観戦できるスポーツは益々数を増やして行った。

 一頃は改造車を乗り回すストッカーレース、更にはローラーゲームまでがテレビ放映され始めた。
 特にローラーゲームがテレビ放映された頃、広告業者はローラーゲームのスポンサーになりたがり、これに殺到したが、アメリカではローラーゲームの観客層が下層労働者階級と判明すると、このスポーツは広告し甲斐のない、「望ましくない下層階級」という折り紙が付けられ、アメリカでは間もなくテレビ放映が終止された。それに伴って、日本でも一時放映されたローラーゲームだったが、そのプロレス擬いのその競技は、遂にテレビから消えてしまうことになる。

 スポーツの社会性を分析すると、上・中・下層の労働者階級をスポーツに夢中にさせる理由は、唯一つである。それは社会的に被支配者側にある“命令される側の人間”は、勝者と一体感を味わい、やがては自分も、その勝者としてチャンピオンの座に据わる、一縷
(いちる)の夢を抱くからである。
 また、経済的に裕福になれるという暗示が、スポーツ選手へと、この階層を駆り立てて行からである。貧困とまでは行かなくとも、スポーツ選手になることによって、タレント並みの有名人になれるからである。

 民主主義と言うのは、「人間自身を、この世での主体」に祀
(まつ)り上げる政治システムである。人間崇拝のシステムである。
 これまで神や仏を拝んでいた人達が、今度は神や仏に成り変わり、歌手や俳優やタレントなどの「有名人と言う人間」を拝む政策に取って変わるのであるから、社会の底辺にいた者達は、下剋上を行える唯一のチャンスとして、スポーツ選手を憧れるようになる。同じ肉体労働でも、日の目をみない地下鉄工事や下水道工事の肉体労働者より、多くのファンから“ちやほや”されるスポーツ・タレントを憧
(あこが)れる。あるいは記録を作って頂点を極めれば、プロスポーツ選手から、芸能タレントに滑り込むことができる。これに成功すれば、老後の生活の心配もなくなる。総て、経済的要素が絡む、収入源の確保が前提となっている。

 さて、ウェート・リフティングのような重量挙げを、工事現場や作業場で、クレーンかフォークリストのような肉体労働に従事させれば、“虐待”と“人権侵害”で、雇い主は告訴されるであろうが、こうしたスポーツの世界では、肉体を酷使しても、一向に虐待とはならない。むしろ肉体を極限まで酷使することを要求される。作業場の肉体労働とは大違いである。
 体重別で、スナッチ
(引上げ)とジャーク(差上げ)の2種目の競技は、むしろ肉体をフォークリスト並みに酷使することで、勝者にありつくことが出来るスポーツである。極限まで肉体を酷使したものが克つのだ。肉体スポーツの、勝者へのキーワードは此処にある。

 今日、テレビ放映しているプロスポーツは、“絶対に勝つ”ことを目指して、勝利を売ることが、ポロと云うスポーツの目的になった。勝つことに、誰もが疑いを抱かない。何が何でも、勝てばいいのである。
 それは大衆の意向による。大衆の意思は、勝者を讃え、敗者には目も呉れない。大相撲でも、敗けてばかりの力士にはファンが付かない。大衆は強い者が好きである。強い者に憧
(あこが)れる性質を持っている。したがって、スポーツ選手はこの意向に答え、強くあらねばと思う。そこに必要以上の肉体の酷使がある。その背景に、躰を壊して引退する選手も少なくない。

 また昨今の流行として、素人がスポーツ解説をしたり、その評論を展開させると言う流行がある。
 特に、スポーツ格闘技の世界ではこの傾向が強く、素人の「格闘技研究家」や、自称「武術研究家」の類
(たぐい)が、マイナーな雑誌に投稿をして、格闘技ファンの一部のオタクから支持を得ている。

 また、格闘技選手などの後を追い掛けて、“追っ掛け”という、まるで芸能人を追い追い掛け廻る、熱狂的なファンまでが登場している。そして彼等も、一端
(いっぱし)の熱い評論を展開する。

 こうした人達は、社会の底辺に位置する人達であり、自身の日常生活では、人生で勝利を味わう事のできない環境にいる人達である。こうした人達が、格闘技のチャンピオンと、勝利の一体感を味わうことから出発している。スポーツ観戦者となったこれらのファンや、自称「○○道研究家」といわれる人達は、自分の贔屓
(ひいき)の選手に、我を忘れる。我を忘れることにより、世の中の憂さ晴らしをスポーツ観戦により、勝者と同じ気分を味わうのである。此処にパトロン擬きの“オタク”が誕生する。

 これは物語としたて描かれている『武勇伝小説』なども同じである。
 日本人の情熱は、「小が大を倒すこと」に熱狂的な執念を燃やす。義経の鵯
(ひよどり)越え、楠木正成の千早城、織田信長の桶狭間(おけはざま)、そして江戸中期に下って『忠臣蔵』と、日本人は「小が大を倒すこと」に、熱烈に入れ揚げ、これを称賛する民族である。近年では、『姿三四郎』の“山嵐”などであろう。何(いずれ)れも、小が大を倒す、そんなストーリーになっている。

 この意味からすれば、昭和16年
(1941)12月7(日本では8日未明)、日本海軍が真珠湾Pearl Harbor/ハワイ、オアフ島南岸のアメリカ海軍根拠地)を奇襲攻撃して、太平洋戦争を勃発させたことも、同じ意味合いの「小が大を倒すこと」だったとも言える。大国アメリカに、東洋の小国・日本が先制攻撃として、鉄槌(てっつい)を下したからだ。

 真珠湾奇襲作戦を考えたのは、山本五十六
やまもと‐いそろく/海軍大将・元帥で、太平洋戦争に連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃などに成功したが、前線作戦指導中、ソロモン諸島ブーゲンヴィル島付近で搭乗機を撃墜され戦死したとされる。1884〜1943)である。
 山本は、真珠湾攻撃のプランを、日本人が最も喜ぶ、「義経の鵯
(ひよどり)越え、楠木正成の千早城、織田信長の桶狭間」の連続でなければならないと豪語していた。そして真珠湾に限り、その通りになった。しかし、これは“眠れる巨人”を起こしただけであり、アメリカの工業力と物量作戦に、日本の敗北を明確にするものだった。

 しかし当時の日本国民は、勝者・山本五十六の真珠湾攻撃奇襲作戦の成功を、末代まで末永く、勝利の一体感を味わい続けることが出来なかったのである。“束
(つか)の間の勝利”だった。



●スポーツ観戦を通じての自称者達の討論会

 明治維新後の日本人は、時の権力や、その次第に育まれて来た秩序を崩壊させると言うことに、倒幕運動を成し遂げ、それが日本の近代化に繋(つな)がったと思い込むようになった。庶民の中から、英雄が出ることを“好ましい思考”と考え、神仏に変わり、それが人間にとって変わることを民主主義の基本に置いてしまったのである。そして民主主義が、今日、暴走しているように思える。

 それは大衆が自分の代理成功者として、芸能人やタレント、プロスポーツ選手らに尊敬の念を抱き、芸能界やスポーツ界、はたまた格闘技界などが労働者階級に人気のあるのは、知ったかぶり、独断と偏見、記録をとること、思い込みによる先入観、人の知らないような“ちょっとした知識”などが、持て囃
(はや)されるからだ。

 本来ならば、「物事に決断を下し」「それを情報分析して管理し」「意見を形成する」そして「最後は実践する」というこの一連の流れが、自称「○○道研究家」といわれる連中に独占され、“似非
(えせ)知識”に転落してしまったからである。マイナーな武道雑誌には、こうした輩(やから)で溢れている。そしてこの階層の最大の優越感は、そのこと自体をスター気分で“気取ることが出来る”からである。

 更に例えば、プロスポーツ世界に、ワールドカップ、日本シリーズ、スーパーボールなどの晴れがましい大会は、誰でも屈託
(くったく)のない意見が述べられて、“博識ぶる”唯一の機会になるからである。これらのスポーツ大会のイベントが行われている短い期間、様々な素人評論家が、上層階級の真似をして、大演説をぶったり、自分の特異な意見を披瀝(ひれき)するチャンスが顕われるからである。

 換言すれば、ワールドカップ、日本シリーズ、スーパーボールなどのスポーツイベントは、庶民が某
(なにがし)かの自尊心を取り戻す為の、年に一、二回の無害かつ無益な、“またとないチャンス”なのである。そしてこれらのスポーツイベントは、民主主義の“神聖な日”として、絶対に欠かすことの出来ない“儀式の決行日”なのである。誰もが偏った知識を振り回して“通”を気取ることが出来るからだ。

 日本人がスポーツイベントや格闘技大会などの「試合の見どころ」について語る時は、その論者が総
(すべ)て“通”になるということである。それぞれに満足の行く解説を加え、自分なりの“憂さ晴らし”の為の満足感を得る為の、機会を自作自演で作っている。したがって自説には熱弁を揮う。この熱弁こそ、オタクのオタクたる所以(ゆえん)である。そして、オタクは昨今ではすっかりこうした指摘に居直り、「オタクで何処が悪い」と噛み付く始末である。それだけに、スポーツ界全般は、総じて「格が低下した」といえよう。

 彼等が催す居酒屋などでのスポーツ観戦の議論は、あたかも国会議員らが、国会議事堂で政治討論をする如く、である。
 要するに、スポーツ談義や格闘技評論は、日本では“労働者階級版”の討論会なのである。またレベルが低いだけに、国会議員の与野党の攻防のように、見苦しく、聞き苦しい。

 彼等の討論は、過去の戦歴を抜け目なく秤
(はかり)に掛けたり、証言を基(もと)にして推理を働かせたりするのは、学識経験者の会議やセミナーに似ており、反対論者に浴びせる皮肉や悪口は、上層階級の著名な書評家や演劇評論家や芸術評論家が、傲慢(ごうまん)な批評を下す論調と、全く同じである。その上、無責任きわまりない。

 そして、自分が精通している事柄について“権威者面
(づら)”をするのは、労働者階級が、自分は「価値がある」と自身で認識し、自身の人間性の復活と自己満足を得る為である。
 特にこの手合いは、自称「○○道研究家」といわれる連中に、急増している現象と言える。また、日本古来の武術が競技化され、スポーツ化されると言うことは、総てを民主主義と言う「人間主体の世界観」に閉じ込め、他の動物を圧して、人間中心の世界観を展開させることである。

 格闘技が、こうした手合いに持ては囃
(はや)されるのは、以上の理由に寄るものである。日本武術や日本武道の愛好者に於ては、外国人が期待した以上に、格の低い、幻滅させるものになっている。海外から、日本の武術や武道に憧(あこが)れて来た来日者は、これらの日本人愛好者の、態度とマナーと礼儀の悪さに幻滅して、帰国すると言う。
 おそらく日本のものは、外国人に吸収され、日本人は、日本のものを学ぶ為に、外国人から教わると言う、由々しき事態の到来も、そんなに遠くないだろう。



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