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内弟子問答集 18

第三章 師弟関係問答集

内弟子の福智山山麓の「七重の滝(一の滝)」で行われる滝行。(写真は平成21年3月24日の七重の滝での滝行。行者は内弟子見習の曽川竜磨)



問答 66
内弟子とは具体的に、“通い”の道場生とはどう違うのでしょうか。

 師匠と弟子の関係を「師弟関係」と言う。
 しかし一般に稽古事をしている関係は、先生と生徒の関係であり、先生は生徒を自分の自宅に住み込みさせて膝元に置き、生徒を何かを教えるでもなく、また、生徒は先生の赦
(ゆる)しを得て、ある期間泊まり込みで、何かを習うと言うものでもない。

 つまりこの関係は、何処まで行っても、インストラクターと受講生の関係に過ぎない。寝食を共にせず、技術面を一週間のうちに、細切れさせて、時間で“技術的なもの”を学ぶ関係を言う。

 一方、師弟関係における「内弟子」というものは、師匠宅にある期間“住み込み”で共に暮し、師匠の身の回りの介助などをし、そこで真の意味での師弟関係を学ぶのである。当然こうなると、弟子は「下積み生活」をする事になり、この間に師弟関係において最も重要な事を学んで行くのである。そして「下積み生活」をすると言う行為は、俗に言う“他人に冷飯を喰う”ということであり、この厳しさの中で「苦楽」の実体を学ぶのである。これこそ、他家に寄食して“実世間の経験”を積むことなのだ。

 日本古来からの伝統は、弟子は「青雲の士」として、その志の高さで上下関係が定まり、また師と結ぶ関係も、その上下関係が、師弟の関係を明確にするのである。その為に、相対的なものから徐々に脱却して、絶対的な真理へと迫らなければならない。
 その第一歩が、実際に師匠の家に住み込み、そこで“実世間の経験”を積むことなのだ。



問答 67
「こだわる」ということを、よい事のように宣伝する人が居ますが、また一方で、こだわることの愚を説く考え方があります。どうして、こだわってはならないのでしょうか。

 この世という「現世」の世界に、“絶対的なもの”というのは存在しない。総てが相対界の構造を持ち、双方は相矛盾し、矛盾を誤魔化して、人間はそこで運命の陰陽に支配されて生きているのが実情である。
 この世が相対界である限り、最後には「捨てる」という現実に迫られる。

故・安岡正篤先生の色紙「一掴一掌血、一棒一條痕」。
 則
(すなわ)ち、人間の日常生活の中には、実は「非日常」という物が隠されていて、この非日常の到来をできるだけ避け、これに遭遇しないようにして生きると言うのが現代社会の社会システムの構造である。しかし、現実には「捨てる」という決断に迫られる。

 人生は「試煉」という構造で展開される為、例えば“火と水の試煉
(しれん)”が迫ったら、戦争や内紛も含めて、“いざ”と言う時に、捨てると言う決断に迫られる、どんな愛着のあるものも、捨てる決断に迫られる。

 この“捨てる”という行動が間近に迫ったら、今まで自らを育んだ生活環境やその空間、あるいは馴れ親しんだ家具や調度品も捨てなければならない。
 住み慣れた家を捨て、土地も捨てる決断に迫られる。これは今、人間が使っている悉々
(ことごと)くが、神からの借り物という証拠である。借り物は、必ず返還し、そして捨てると言う時に遭遇する。人間の執着するものは、そんなものでしかなく、換言すれば、人間は借り物に執着する生き物であるとも言える。

 しかし、これを“さらり”と執心せず捨てる事ができれば、その後に、自由が人間の頭上に訪れる。束縛され、柵
(しがらみ)となるものがなくなる。要するに捨てれば、自由になるという現実がある。楽になるという現実があるのだ。
 何ものにもこだわらず、まず、「こだわる」という愚行を捨てる事から始まるのである。こだわりこそ、人間の頑迷で、“見通し”を利かなくする愚行なのである。

 素直になる事こそ、進歩を促進し、上達に勢いをつけるものである。頑迷に、頑固に、こだわってはならない。



問答 68
「文武両道」の意味は、どういうことなのでしょうか。

 武術家は、“強いだけ”では駄目である。心が伴わないと駄目である。殺伐とした、「強(こわ)持ての乱暴者」では、人心を失う。特に有識者あるいは文化人という階級から、武道家と自称する者が、一等も二等も蔑(さげす)まれて低く見られるのは、強いだけしか能がないからだ。
 武道家も元は人間であるのだから、人間である以上、「人格」というものが必要になる。人格者とは程遠い、性格粗暴者の域では、人心を失う。良識を有する人格面の向上も大事なのである。

 さて、現代の社会情勢を見ただけでも、不穏な事件がはびこり、大交通事故があり、大型の台風や、これまでめったに地震などが起こらなかった地域にも地震が発生し、不可解な天変地異が起こりはじめている。これは地球的に見ても、異常と思える世界各地で起こっている。昨今騒がれている、“地球温暖化説”もその一つであろう。

 一方、 戦争の火種は消えるどころか、世界中の到る所で、戦争の火種は燻
(くすぶ)っている。また、個人においても、人倫が乱れ、それに伴って世相が乱れれいるが故の、不幸現象が、次々に個人へと降り懸っている。

 病気などの不幸現象も、科学の発達した現代においては、根絶できると信じられる一方で、不治の病は依然として姿を消すどころか、形を変え、難病・奇病という不治の病へと変貌
(へんぼう)しつつある。ガン疾患や、エイズといわれる、“現代の黒死病”にもたとえられる病気は、下火になるどころか、ますます増加の一途にある。これこそ現代の畸形(きけい)であり、不可解な人間の狂う怪奇現象が、私たちの側面には実存しているようだ。

内弟子の出稽古などに使用される一本下駄。心身のバランスを平衡に保つには、修行法として、一本下駄で鍛練する事も大事な修行法の一つのなる。
  人間同士の個人間の争いごと、民事・刑事の裁判沙汰、通り魔殺人や傷害事件、麻薬をはじめとするドラッグの氾濫、青少年の非行化、家庭不和、家庭内暴力、 節度あると信じられていた大人の世界に蔓延する不倫・浮気・本気、企業の倒産、リストラと、さまざまな不幸現象が、個人の人権を無視して襲い掛かる。

 また、昨今の世情の特徴として、JRや私鉄の列車内に流れるアナウンスは、現代人が狂いの世界に興じているという錯覚すら抱かせる。
  節度ある大人?たちに向けての、「痴漢防止のアナウンス」は、北半球の文明国の中でも、日本だけであり、日本人が世界から馬鹿にされる要因は、こうしたところにも点在している。

かつては、日本は「武士道の国」と、世界から尊敬を受けていた。
  ところが今日に至り、こうした、節度ある、貧困とは無関係な“大人?”の痴漢行為や、国家意識が稀薄
(きはく)になった日本人は、侮蔑(ぶべつ)の目で見られる国民性を背負い込んでしまった。そして、礼儀知らずを増長させて、日本人といえば、エコノミック・アニマルと揶揄され、蔑(さげす)まれる対象でしかない存在になってしまった。
  果たして、こうした日本人の現実に、明るい未来はあるのだろうか。
 それも、これも物質主義の恩恵に預かって、精神を蔑
(ないがし)ろにした実情から始まったことでった。

 人は、心の存在を忘れ、本能のままに欲望をむき出しにして、人生を奔走している。しかしこの奔走は、「滅び」に向かっての奔走でしかない。

 そして一見、科学万能主義の見えた、文明社会は、実は文明に名を借りた「文迷」でしかなかったのだ。
  多くの現代人は、見通しの不透明な社会システムの中で、等しく迷い続けている。こうした現実社会にあって、尚道館の「内弟子制度」は画期的なシステムであり、この指導理念とを通じて、将来日本を担うべき人材を輩出しようと言うのが、わが尚道館・陵武学舎の意欲ある試みである。

 “耐えることを学ぶ精神”は、崇高なものである。苦楽の実際を知ることは、人生の何よりもの大きな収穫となる。
  今の“苦しみ”や“辛い”現実に耐え、これを忍ぶことにより、人間は一周りも二周りも大きくなっていく。風雪に耐え、それを忍んだ所に、人間としての年輪が刻まれ、この年輪が、人生を見誤らない「見通し」となっていくのである。

内弟子の稽古三昧を行う、総本部尚道館玄関。
 わが尚道館・陵武学舎においての一日の日程は、午前5時30分起床、洗面後、道場内外や風呂場の掃除。畑への水汲みや農作物の世話。玄米ジュースや野菜ジュースの朝食。午前7時より正午まで自主的な道場稽古。あるいは午前10時より昼食の弁当を持って、午後3時まで野外での剣術並びに手裏剣などの飛び道具の稽古【註】毎日ではなく定期的)
 更には、定期的な宗家先生の講義と講話が行われる。これには学ぶべきものが多く含まれている。

 わが内弟子制度の基本は単なる筋トレや猛稽古だけに終始することなく、“講義・講話”プラス“西郷派大東流の儀法”が中心となるため、一般に、安易に考えられる「強化合宿方式の選手の修養」ではない。
 一口で言えば、文武両道を目指し、講義の中に、武の道を見出すというものであり、肉体のみを酷使するものではない。
 つまり、「サムライ」になるべく、人材を育成するのである。そしてその実践は「武士道」でいうサムライに回帰する生き方である。



問答 69
「滝行」とは、何を目的とした修行なのでしょうか。これを行うと、どういう効果があるのでしょうか。

 健康面から言えば、まず稽古を通じて、「毛細血管の回路」を開発する為である。
 この「行」をすると言う事は、山や渓谷の中を歩き回り、「地理」を学ぶと共に、「山に登る」という高所に身を置くことが、「毛細血管の回路」を開く働きにも役に立ち、「歩く」また「滝に打たれる」ということが、この開発に繋
(つな)がる事だ。

 更には滝の場所まで歩いて行くという行動が「ただひたすら歩く」こととなり、徒歩禅にもなりうるからだ。その後に滝行に励むのである。滝行は一心に滝に打たれる事により、無我の境地に、わが身を置き、都会の喧騒
(けんそう)から解放される副産物も備えている。

 まずは歩くことは、また無我になることであり、気圧の高低を観じて、毛細血管の回路を開発すると同時に、自律神経を調整することにも繋
(つな)がるのである。更に山道を歩くことは、股関節の動きを滑らかにし、溶融や坐骨神経痛の予防や治療にもなり、長年腰痛で苦しめられていた人が、登山によって腰痛が治った、坐骨神経痛が治ったという話は、よく報告されるところである。つまり、「腰骨の関節の弛(ゆる)みぱなしの現代人」の、腰骨をしゃきっと引き締めるのである。
 そして充分に歩いた後、次に渓谷に向かい、滝行となる。

滝を司るのは「竜神」である。竜神は滝の神霊であり、恐ろしい神であり、決して甘く検(み)てはならない。

 さて、正しい滝行の修法を、わが流では指導している。
 滝行とは、単に滝に打たれることを言うのではない。正しい滝行の修法を知らなければならない。御滝場などにいくと、新興宗教の信者等が、声高らかに般若心経などの経典を唱え、滝に打たれている姿を目にするが、あれは間違いだらけの自己流の悪しき滝行である。「泥丸
(でいがん)」から直接滝の水に至れると、脳の毛細血管が破壊され、毛細管に目詰まりを起し脳障害やアルツハイマー型痴呆症の病因になる。こうした愚は犯してはならないのだ。

 現代人は「唖門宮
(あもん‐きゅう)」が閉じている人が多い。此処が閉じている為に、成人病に罹(かか)り易い体躯となっている。したがって唖門宮を開く必要がる。開いて、ここから「水の精気」を体内に送り込み、身体の裡側(うちがわ)の汚れを排出し、浄化する必要がある。その為には、寒い時期の滝行が一番である。
 滝に打たれる為には、裸にならなければならない。裸で、冷気に身を曝
(さら)す必要がある。これが寒冷浴だ。同時にマイナス・イオンも浴する事になる。

 滝行をするには、慎んで、畏
(かしこ)み畏み、「滝の神霊」に頭(こうべ)を垂れて許可を願い、周囲の邪気を祓う「真言九字を切る作法」がある。これを無視して、滝などに打たれる愚行をすれば、魂が吸い取られ、命までもを取られてしまう。滝の神霊は「竜神」である。「水神」ともいう。恐ろしい神である。竜神の前では、人知など高が知れている。

 滝の周囲ではマイナス・イオンが発生しているが、科学面の良いところばかりを見てはならない。また滝行をすれば、毛細血管のグロミューが開発されるが、人体面の長所ばかりを期待してはいけない。
 滝行とは、単に滝に打たれることを言うのではない。正しい滝行の修法を知らなければならない。御滝場などにいくと、新興宗教の信者等が、声高らかに般若心経などの経典を唱え、滝に打たれている姿を目にするが、あれは間違いだらけの自己流の悪しき滝行である。

 「泥丸
(でいがん)」から直接滝の水に至れると、脳の毛細血管が破壊される。破壊と同時に、毛細管に目詰まりを起す。後遺症として脳障害やアルツハイマー型痴呆症の病因にもなる。滝行は安易な気持ちで出来ないのである。

 滝行は、頸椎
(けいつい)部位の唖門(あもん)に受ける「術」を、正しい指導者について学ばないと、命までもを取られてしまう、非常に「危険な荒行」なのである。
 安易に、体力に物を言わせた“滝の水打たれ”は、非常に危険である。
 ゆめゆめ、滝行は滝の水圧に耐えて、それに頑張る肉体的な“筋トレ”などとと思ってはならない。邪心を抱いて、滝行をした者は、再び現世に還って来れない「恐ろしい行」である。恐れを知らない、愚かな人間ほど、安易に命を落とすのである。また、こうした事故も多発している。竜神は恐ろしい神である。「神霊の理
(ことわり)」を知らないでする、滝行の愚行に要注意だ!

 また最近では、プロボクサーが「精神を鍛える為」と豪語して、滝行をして事故死
(横死)する事故が起っている。滝行をするには体質が重要であり、体力の有無とは無関係なのだ。格闘技の猛者(もさ)と雖(いえど)も、竜神を無視すればとんでもない事になるのである。決して自然をなめてはならないのだ。恐れを知るべきである。水の事故は、竜神を甘く見たところに起こる。滝で死ぬ人、水遊びで川や海で死ぬ人、プールや風呂場で死ぬ人は、竜神を甘く見た人だ。竜神を迷信と決め付けた人だ。「甘く見たツケ」は必ず廻ってくる。

 なお、尚道館では毎回滝行を行っているが、過去44年間に、一度も、こうした事故死者や怪我人は一人も出していない。



問答 70
内弟子には断食行なども指導するとありますが、具体的に断食とは、いかなる「行」なのでしょうか。断食を行うと、どういう効果があるのでしょうか。

 健人間の躰には、食物を「消化する働き」と、これを「吸収する働き」と、吸収されたものを「燃焼する働き」と、更には燃焼された残りカスを「排泄する働き」の四つがある。

 しかし断食をすると「消化」と「吸収」の働きが不要になり、後に残る「燃焼」と「排泄」のみが残される。口から食物を入れる事を休みますから、体内にあった余分な脂肪分やタンパク質や、日頃は体内に止まって燃焼できなかった老廃物を排泄し出する。
 排泄される多くの老廃物は、組織や細胞内の腐敗菌や病毒素であり、これを悉々
(ことごと)く燃焼し、排泄してしまう。
 これは体内を掃除する禊
(みそぎ)であるから、躰は洗心浄体となり、清浄無垢な躰になる。

 断食をすると、体内の赤血球の活動は盛んになり、断食をして約二週間目ほどが、その活動においても、その数においても最高頂になる事が確認されている。更に、余分な贅肉や、脂肪や宿便と言ったものを体外へ排泄し、病毒や病素までもを排泄し、不要になった細胞は滅失してしまう。
 これにより大抵の病気は好転し、以前の肥っていた時よりも、躰が軽くなってより一層健康になるのである。

 適当な断食を2〜3週間続けると、腹部の贅肉がとれて極端に凹む頃、七〜八年から数十年を腹中に溜め込んでいた、滞留の宿便や黒便、砂便や結石、脂肪塊、寄生虫、仮性糞石、粘液毒素、そのたの病原菌が排泄される。
 これによって人間は、生まれて初めての「禍の重荷」を降ろしたような晴れ晴れとした軽い躰になり、また頭の中まではスッキリした状態になる。
 同時に腸管に停滞していた老廃物が排除されて空っぽになるから、腸の蠕動
(ぜんどう)運動は快調となり、まず便秘症が一気に解消してしまう。

 断食は始めると、だいたい七日目頃から腹部の脂肪は落ち始め、肥っている人は下垂した胃が腹筋によって押し上げられ、その復元によって元の位置に戻ろうとする。更に、胃が空虚状態になっているから、拡張していた胃は縮小を始め、胃の収縮によって、吐き気を催したり、胸のムカムカが起こる。こうした状態になる人は、普段が大食漢で、多喰いの人に見られる。

 また、口に中が粘り着き、口臭が非常に臭くなって来る。
 平素から大酒呑みの人は、酒を飲まないのに呼気は酒臭くなり、断食三、四日目頃から、アルコールの腐った様な臭いがし始める。
 喫煙の習慣のある人は、呼気がヤニ臭くなり、舌コケが黒ずんで来る。中には真っ黒なヤニの痰
(たん)を吐く人もいる。
 また、平素から肉を常食している人は、肉の中毒にかかっている為、断食四日目頃から、肉の缶詰が腐ったような呼気になる。

 そして断食すると、自分で分からなかった病気までもが曳
(ひ)き出され、全身全霊の大掃除がなされ、血液が浄化されるのでえある。
 ただ、こうした断食は、自分勝手な独断と偏見で始めるのは非常に危険であり、断食はきちっとした下準備をして、補食と言われる少量食事を徹底させて、断食に入らなければならない。そして、更に大変なのは、断食中よりも断食後のコントロールが難しく、ここで失敗してしまう人が非常に多いのである。
 また精神的にも、頭の中に食べ物の妄想が走り回り、これを克服するのは難しい。したがって断食を行なう場合は、正しい断食指導者の正しい助言に従って、これを実行しなければならない。

 断食をすると躰に種々の疾患のある人は、特に悪い部分の現れて来る。
 例えば肝臓の機能に傷害にある人は、胸椎の第四番目と第八番目が痛むとかの症状の変化であり、また副腎に傷害のある人は腹椎の第九番目が痛むとかの症状が現れて来るので、椎骨の両側を指頭で自分自身で揉み解す必要が出て来る。
 また、肝臓機能に傷害のある人は、夜間その部分を温湿布か電気ストーブで背中を暖めて痛みを和らげる必要がある。

 また黒便や宿便は、人によって様々であり、断食を始めて三、四日目頃から大量に出る人と、十日目頃から出る人と、人によって異なる。
 皮膚病を潜伏させている人は、腹部や背部、腰部や腕や脚の付け根等に吹きで物や水疱瘡
(みずぼう‐そう)のような湿疹が出始め、これは一週間程続きますが、空気浴をして裸療法を行なうと、次第に良くなって消えてしまう。

 断食は「食べない贅沢」である、認識が必要だ。
 誰もは食べ急ぎ、美食に舌鼓を打つ現代にあって、美味しい物をできるだけ多く食べて死に急ぐよりは、普段から粗食・少食に徹し、食べ過ぎから来る食害を予防し、美食に振り回されない身軽な体躯を造っておく必要がある。

こうした肉料理や動蛋白食品が人体の機能を畸形化し、生活習慣の悪循環に絡んで、ガン発症を筆頭とする、成人病を招き寄せる。一見野菜なども加味されていて、ヘルシーに見えるが、それは料理人の作為に満ちた虚構である。こうした物を食べ続ければ、一時的に体力がついたように錯覚するが、体質は益々悪くなる。

 さて、断食の修行法を少し述べてみよう。
 断食とは、ある期間を定め、その計画に従って、一切の食を断つことを言う。したがって、口から食物を摂取して消化器官で栄養を「吸収」したり、「消化」するという働きが一切なくなるのだ。
 したがって躰
(からだ)の働きとして残るのは、「燃焼」と「排泄」という作業のみに集約されよう。

 「燃焼」は毛細血管が行い、「排泄」は小腸や大腸などの消化管が行うのである。また、毛細血管は脂肪等の中に入り込み、それを生命エネルギー源として燃焼作用を行おうとする。小腸や大腸等は腸癖にこびりついた宿便
(ニキビや吹き出物の原因を作る)やタール状に付着する黒便(肉の摂り過ぎで大腸癌や直腸癌の原因を作る)を排泄しようとする。また、体内の細胞の中に残る水銀や作物を栽培する際、除草剤として使用したダイオキシン等の有害物質の解毒・排泄作用を行う。

 これらの効果が絶頂期に達するのは、断食を初めて二週間目頃からであり、白血球の活動が最高に働く時期とされている。

 断食は、一種の「禊
(みそぎ)」であり、これを行う事によって、先ず、今までの悪行の限りを尽くした諸々の因縁【註】食べ過ぎや偏食が原因で起こる肥満体質や痩せ形体質から起こる諸悪の劣勢)が断ち切られるからだ。
 運命的に悪かった人も一週間程度の断食を行えば、今まで引き摺
(ず)っていた諸々の悪因縁が断ち切れる。そして心身共に、爽快になるのである。



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