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死とドン底からの復活 2

川の水は滔々(とうとう)と流れる。途切れる事なく、旱害で干上らなければ、いつも水を湛えている。川は流れている。それが自然であろう。

 しかし、現代は自然を狂わす事象が多くなった。自然を狂わすだけでなく、自然を管理しようとする人間の思い上がりが露
(あらわ)になった。人間は自分の意志で、何でも変えられると思っている。思い上がりの何ものでもない。

 健康でも、体調のありの儘
(まま)の自分の姿も、自らが作り出しているものでない。恵みにより作り出されている。いわば天命が自らの生きる因縁を決定している。人間はその因縁に従い、必然に随(したが)い、川が流れるが如く、滔々と流れて行くしかない。人間とは、そうした生き物である。


●恥辱の克服

 人は人生に於て、「恥多き一生」を辿(たど)っている。出来るだけ「恥のない生活」をしたいものだが、不完全な人間は、「恥のない生活」など、一日たりとも出来る訳はない。「恥辱(ちじょく)」に対する神経は敏感であって欲しいが、やはり何処かで恥じ入ることをしているのが人間である。
 そして、人間は恥をかきながら、人生の、ある目的地へと辿り着くのである。
 恥じ多き人生……。
 振り返ればそこに帰着する。

 世の中には、「○○をしない為に」などという、人間には実行出来ないような言葉が用意されている。例えば、「恥をかかない為に……」などという言葉である。
 「恥をかかない為に」と云いながら、その一方で「恥多き行い」をしているのである。もともと人間は恥多き生き物なのだ。

 人の感知する「恥」は、出来るだけそれを少なくしなければならないのであろうが、しかし、恥は自分の知らないところで、実に「恥知らず」なことを無意識に行っている場合がある。自分が幾ら礼儀正しいと自負していても、その礼儀正しさは、人の頭を下げる「挨拶程度」あるいは「お辞儀程度」の“お行儀の良さ”に過ぎない場合もある。したがって、挨拶やお辞儀は、礼儀正しさとは無関係である。

 本来礼儀正しさは、「恥辱
(ちじょく)」に対する心構えを言う。
 則
(すなわ)ち、「恥辱」に対する神経の疎(うと)い人間ほど、礼儀知らずであり、恥知らずである。
 また「恥辱」に対して敏感であっても、その人が知らないところで、実は無意識のまま恥知らずな行為をしているかも知れない。

 恥辱に対しては敏感であって欲しいと願うのは、多くの人が一致する意見であろう。
 しかし、一生涯、恥をかかずに過ごすなどと言うそうしたことは、不可能だ。人生はそれほど甘いものではない。それほど生温
(なま‐ぬる)いものではない。
 誰でも、何処かで大なり小なりのの恥はかいている。恥辱に対して敏感は人は、その恥も極小であろうが、疎
(うと)い人間は極大であろう。極大の恥は、まさに“垂れ流し”である。

 極小か極大か、それは人間性によるところであろうが、一見人格者と言われる人でも、恥をかき、過失も犯し、嫌なことは後回しにし、面倒は先送りし、人間の行動原理で考えられる限りの、無駄や愚行を行っているのである。

 ムリ、ムダ、ムラという「3無い」は、出来るだけ小さくしたいと考えるところであるが、やはりこれを経験しつつ、遠回りをしながら、人間は、はるばるとある到達地点に辿り着くことが出来るのである。
 それは自分が「恥多き人生を歩いて来たと言う積年の悔悟
(かいご)」である。これを感得出来る人間に限り、やがて恥辱を克服して行くであろう。恥は少しずつ小さくなって行く。極小に近付いて行く。

 しかしこうした安住日に辿り着くには、それなりのプロセスを踏まなければならない。
 世に「恥も外聞もなく」ということばがある。ある目的の為に自分の体面などまったく気にせずに行動する様子を、こう言う。
 これは「時勢」という、秋
(とき)を読むのに特殊な嗅覚(きゅうかく)が必要とされる。その嗅覚があればこそ、そこ行動は、割り切った態度を取らせるものである。
 ある意味で、「恥も外聞もなく」という態度は、実に見事であり、こうしたプロセスを踏む事により、恥の克服が出来るの出来るのである。



●過ぎたことに心を煩わすな

 恥多き人生に於て、恥が極大化するのは、損得勘定にこだわり、打算的に動いたと、他人から思われるときであろう。損をしたことを悔しがり、得をしたことで舞い上がって有頂天になるなどは、恥多き人生を、よく言い表わしていると言えるだろう。

 そして、更に愚かなのは、順風満帆
(じゅんぷう‐まんぱん)の好調な滑り出しに、得意満面(とくい‐まんめん)になることである。一時の満足を、万事に反映させる事である。それを自分の実力と解してしまうことである。そこに自惚れが起る。これが愚か者の正体だ。
 好事魔が多しという。
 事が順調に運んでいる時こそ警戒する必要がある。

 しかし順風満帆は、時間の一時的な移り変わりであり、これを享受出来る時間は非常に短い。瞬
(またた)く間である。
 幸運は維持することが難しく、また決して長く続くものでは無い。ここに世の現象の、栄枯盛衰
(えいこ‐せいすい)がある。草木の繁ることは、実はそれが、やがて枯れることを意味する。栄えたものは滅ぶのである。

 「山高ければ、谷深し」という。
 登り坂を上げ調子で登ってしまえば、今度は下りばかりとなる。下り坂のその向こうには、落ち込むほどの深い谷間が待ち構えているかも知れない。調子づいて、駆け登った山も、頂上に辿り着けば、そこから先は“下り”ばかりとなる。下るときこそ用心が必要だ。どれほど用心しても、用心をし足りることはない。用心深く、どれほど汲々
(きゅうきゅう)としようと、それはし過ぎる事はない。登りよりも下りが難しい。

 普通、山を登るのは頂上に至る、上り坂が苦しくて、下り坂は簡単だと、山を知らない人は安易に思ってしまうようだ。
 しかし実は下り坂こそ警戒しなければならない。下りこそ、危険な山の道程である。一歩踏み間違えば、深い谷底に直線に滑落するからだ。愚者は“下り”を侮
(あなど)る。しかし、下りこそ最も慎重に、充分に警戒して道を歩む必要がある。

 そこに必要なのは損得勘定でも無く、また打算的な思考でも無い。損をしないようにとか、取られたものは取り返さなければならないと言う、卑
(いや)しい発想ではなく、「捨身」の心が必要だろう。「捨て置く気持ち」が大事だろう。失ったものを取り返すことを考えるより、新たなものを捜した方が、こだわらずにすむのである。

 今まで損したところは「捨ててしまう」という、“こだわらない心”である。
 取られたら取り返すのではなく、潔
(いさぎよ)く捨ててしまって、発想を変えることである。惜(お)しいと思わないことだ。失ったところを復活させようなどと思わないことだ。それはそのままでいいのだ。これが「捨身」である。

 追風に乗って、上り詰めて行くときは運気が働いているから、少々の“へま”でも、そのまま押し通して登っていけるであろう。昇り調子の羽振りの良さが、金で周囲を黙らせてしまうからである。
 ところが、下り坂は運気が皆無
(かいむ)となるから、資金は潤沢性を失い、直ぐに底を突いたり、何事かに心が囚(とら)われたり、金や物への“こだわり”が捨てられなかったりすると、一気に崖(がけ)下に滑落してしまう。顛落(てんらく)は、登るスピード以上に急激に訪れるのである。ある日、突然に、である。

 一小局面には、こだわるべきでない。小事にこだわるべきでない。
 全心をこうしたものに囚
(つら)われては、心全体の働きは小さなものになり、それがもとで足を踏み外して滑落するだろう。小さい場面に閉じ込められて、自由自在性を失うだろう。心は小さくしか働けないから、足を踏み外すのは必定である。危うい態勢に変貌する。

 私たちの生活は、山を登る行為と、山を下る行為を交互に繰り返しているのである。
 喩
(たと)え頂上に辿り着けたとしても、頂上に入れる間は短く、独占時間も非常に短いだろう。それは世の中が、刻々と変化するからだ。そしてやり直そうと思っても、それは不可能になっている。こうなると人の努力や、人知ではどうしようもない状態に陥る。過ぎた時間は戻らないのである。

 では、そうした状態に直面したら、どうしたら良いのか。
 それは「捨てる」ことである。放置することである。
 後ろを振り返らず、前を見ることである。前向きに物事を考えることである。先を切り開くことを考えればいいのである。損した事、取られた事を自分の脳裡
(のうり)から忘れることである。消去することである。

 失ったところを取り返そうとか、その部分を補って復活させようとかを考えるより、すっぱりと捨てることだ。諦めて断念することだ。
 そして、むしろ残っているところを失うまいと努力することだ。残っているところを生かすことだ。これを防衛することだ。
 こうすることの方が賢明である。過ぎたことを思い悩むことはないのである。



●捨てて生きる大事

 過ぎたことに心を煩
(わずら)わせる人は、「損に引っ掛かる人」であり、「失ったものを惜しいと思う人」である。
 こうした人は、何処までも“こだわり”が付き纏
(まと)う。頑固であるばかりでなく、頑迷であるからだ。
 まさに「凶の人生」を行くが如し……である。こだわれは、「凶」だと覚えておこう。
 昨今は、馬鹿な論者が「こだわることは良い事だ」と教えた。これは、とんでもない間違いである。

 近頃は何でも“こだわる”ことが、良いように解釈され、「意地になる」ことが正論視されているが、これは愚人の愚行である。
 こだわる人は、何事かに引っ掛かり、「抜ける術」を知らないからである。こだわり続ければ、そこで崩壊する。人生とはそう言う構造になっている。こだわることは、いいことでない。

 運命は「因縁」からなる。
 運命は元々が因縁であるのだから、これをいじって左右することは出来ない。運命における因縁は、勝敗を左右することが出来ないのである。したがって「抜ける術」が必要になる。
 此処で肝心なのは、運命を抜ける術である。勝敗は、勝にせよ負けるにせよ、ただ出会って、それから抜けるだけのことである。こだわりを残さないことだ。何れにせよ、サラリと流れることだ。止まってはならない。

 しかし、運命は逃げるべきものでない。それを迎えて、「果たして行く」べきものである。
 損をしたら、損をしたで、そのままにしておくことである。失えば、取り返そうとしないで、それを放棄することである。損をしたら、放って置く。これが運命の、因縁の“順”なところである。正道である。

 例えば、貧乏が嫌だと逃げ回れば、貧乏が何処までも追い掛けて来る。貧乏から抜ける術を知らないからだ。貧乏から離れようとしないからだ。
 こうなれば、貧乏はますます付き纏
(まと)う。貧乏から逃げ回って背中を向けて趨(はし)るから、貧乏は背中に担いで、何処までも逃げ回らなばければならない。したがって背中から離れない。
 貧乏と離反しようとする意識が、貧乏から追い掛けられることになる。貧乏に背を向ければ、貧乏と私は“二つ”になる。追う者と追われるものの関係である。これではいつまでも追い掛けられる。

 貧乏から抜け出そうとすれば、貧乏に背を向けるのではなく、それに頭を向けることだ。
 頭を貧乏の中に突っ込んで突撃すれば、貧乏は意識しなくなる。貧乏に納まればいい。逃げる必要はない。合体すればいい。一つになればいい。
 一つになれば貧乏を意識しないのであるから、貧乏と対峙
(たいじ)する、私と貧乏は存在しなくなる。したがって、貧乏は意識しなくなる存在となる。
 このようにこの世では、作用と反作用の力が働いているのである。

 逃げれば、私と貧乏は二つに分かれ、対峙の関係になって、貧乏か嫌いな存在になる。嫌なものは追い掛けてくるというのが、この世の現象である。こうなると、逃亡者になる以外ない。
 ところが、貧乏に向かって行って貧乏に頭を突っ込めば、私と貧乏は一つになるから、対峙する相手がいなくなる。一体になってしまえば、もはや意識する存在は消えてしまうのである。貧乏と一体であれば、貧乏はないのである。それは逃げ回る、対峙する相手がいなくなるからである。嫌なものの中に納まれば、嫌なものはなくなる。

 “貧乏が嫌だ”と逃げたいと思っている間は、貧乏は何処までも付き纏
(まと)う。離れよう離れようと逃げ回る間は、何処までも追い掛けて来る。逃亡者は、これにより捕らえられてしまう。
 こうした場合、サラリと受け入れて、それを“ただ抜ければいい”のである。こだわらず、サラリと受け入れ、受け流せばすむことなのだ。
 この「受け流し」を抜ける術と言うのだ。
 運命を素直に受け入れ、サラリと受け流すことである。
 貧乏に心が囚
(とら)われて、全局面を検(み)ずに、一小局面に心が囚われていると、結局は自分の全生涯を失うのである。捨てて生きることの大事が、此処にはある。



●過去を懐かしまず

 現代人が描き出そうとする幸運論は、老後の苦しみより、今の快楽を……、というのが幸福論の根本に置かれているようだ。
 つまり青春の謳歌
(おうか)である。それも物質に寄り掛かる、物質的快楽を最優先させ、「今が良ければ」という刹那(せつな)主義に流れる傾向がある。
 あたかも、“苦あれば楽あり”を逆転させる思考である。
 つまり、現在の苦労は後日の幸福を逆転させて、今の快楽を追い求め、未来に苦の種ばかりをまき散らす考え方である。

 この考え方は「若い時でなければ楽しめない人生」を、その第一に幸福に上げ、有
(あ)らん限りの享楽を尽して、青春を謳歌(おうか)する生き方である。老後の為に、若いうちに働くのではなく、若いうちに出来るだけ楽しむと言う人生を模索するのである。青春を文字通り快楽と享楽に塗りつぶしてしまうのである。

 こうした人生は、根本に置かれている考え方が、年を取って少しくらい楽をするのなら、若いうちに青春を謳歌した方が、どちらが得か?……と言うことを秤
(はかり)に掛け、結局若いうちでなければ出来ない享楽とか、快楽を楽しもうとするものである。青春を享楽的に過ごし、人生をできれば、太く短く生きる……と言う考え方である。

 つまり、こうした生き方を経験した人の多くは、「ああ、私の若い頃は、実に良かった」と、回顧
(かいこ)に耽る生き方をする人である。
 その人は、七十年なり八十年なりの人生を閉じるときに、過去を回顧して懐かしむという人である。また、過去の栄光に、しがみつく人である。これは未来否定の生き方である。刹那主義である。

 一方、今の「若いとき」を中心に充
(あ)てて考える若者は、「今」という時点を見て、「確実な未来は何処にあるのだろうか」と懐疑を抱くのである。そして、若いときに真面目に働けば、年を取ってから、必ず幸せになれると言う保証は、いったい何処にあるのか」と、年を取ってからの未来に疑いを抱くのである。
 それで、「それならば若いうちに」という流れに偏
(かたよ)ってしまうのである。

 「一寸先は闇
(やみ)」という諺(ことわざ)がある。
 一寸先が闇である以上、誰も確実な未来など、保証し切れないし、それを断言出来ないのである。未来予知では、「一寸先の闇の中」すら、見通すことが出来ないのである。何が起こるか分からないのだ。

 しかし、今に生きるも、未来に生きるも、その人を支配しているのは、“運命の陰陽”である。
 因縁から起る、陰になったり陽になったりの、徳分による支配が左右するのである。したがってこの徳分は、一寸先の闇の中にでも働いていることになる。その人の因縁によるところが多いのだ。



●徳分

 例えば、商才がなく、浪費家で、身に金がつく因縁がなければ、幾ら若い時から懸命に働いても、いっこうに金は残らず、年から年中、貧乏でピーピーしているだろう。永遠に働き続けながらも、商才がないばかりに、喰(く)うだけの生活にも事欠くのである。いつも何かが足らないのである。
 こういう人は、周りに多く居て、決して少なくないはずだ。

 それとは逆に、別に若い時から汗水垂らして、一生懸命に働いた訳ではないのだが、自然に金が身に付く徳分と商才を持っている人がいる。
 分けなく金を引き寄せてしまい、金の方が蹤
(つ)いて来るのである。
 つまりこれが因縁であり、因縁が派生させる「徳分」であり、また「商才」と言うものである。金銭と云うのは「徳分」と「商才」がなけれな身に付かない。因縁はまた必然だから、起こるべきして起こる現象である。徳分も商才も、もともと備わっていたのである。
 その両方に欠けている人は、幾ら働いても、その生活は楽にならないのである。働き詰めで汲々としているのである。

 因縁の作用が、人間には常に働くので、徳分を発揮させるのは、「人の道」を外さないことであろう。
 当たり前の事を、尋常
(じんじょう)の思考で、当たり前に遣(や)っていれば、幸せは、幸せの方から遣って来るのである。幸せでないと感じるのは、人の道を外しているからである。考え方に驕(おご)りがあるからである。独断と偏見があるからである。人を見下げて、頭(ず)が高いからである。先入観が旺盛で、固定観念の殻(から)が破れないからである。
 こうした人は、“因縁の悪さ”に悩まされる。そこに因縁の必然がある。

 貧富は、常に天にある。
 富貴天にあり。
 富を得られるかどうかは、運命によるものであり、人の力ではどうにもできない。これは否定しても、現象界を検
(み)ればその通りになっている。
 死生命あり……ともいう。
 人の生死は天命で決まっており、人力ではどうすることもできない。これも現象界では事実である。
 天命により、その人が富むか貧するか決定されるのである。
 富貴天にあり、死生命あり。
 天にあるものは、因縁によって縁が結ばれる。因縁に左右されれば、わが身に持つ徳分も、因縁によって派生していることになる。「因縁」は“必然”の意味を持つ。必然あるから因縁が派生する。必然は、必ずそうなる結果を派生する。

 金持ちが益々金持ちになり、貧乏人が益々貧乏になるのは、必然の作用である。
 「貧すれば鈍する」という諺
(ことわざ)のこれは、この作用が働くからである。
 この作用が働けば、悪循環が祟
(たた)り、貧乏になると、頭の働きが鈍くなるという謙称から、またその品性も、それに左右されて、“さもしく”なる。見苦しく、みすぼらしくなるのだ。

 「貧富の差は、総て天にあり」
 この言葉を繰り返し、自分に充
(あ)てて自問自答してみる必要がある。

 だが、この自問自答を怠
(おこた)る人間は多い。
 天だの、天命だのと論じて、どうなるのだ。そんなことで未来が保証されるのか。そんな“充
(あ)て”にならないものを「あて」にして、二度と返らぬ青春を無駄にしたくない。青春のこの美しいときを、虚しく棒に振っても良いのか……、という考えに落ち着く人もいる。そして遂に、「人は何故働かねばならないのか」という疑問を生じさせるのである。

 いま、身に金のつくのは因縁次第で、徳分がなければ、幾ら働いても金は身に付くものでないと申し上げたが、確かに徳分がない人に、金は身につかないようだ。身に付く必然がないからである。それは因縁による。
 つまり、同じ金を稼ぎ出すにも、労働に喜びを以て励む人と、時空間内を嫌々と過ごし、労働に喜びを見出せない人は、矢張り幾ら働いても、金は身につかないようだ。
 富貴天にあり、死生命あり。
 確かに自問自答する必要はあろう。

 この事は理屈ではなく、平常の事実として、周囲を見渡せば幾らでも実見することができよう。
 同じ条件下で同格の金額を稼ぎ出した人が、一方はそれが長く自分の身に留
(とど)まり、他方がもう数日で抜けて行くと云う人がいる。これも金が身につく徳分の“差”である。徳分がなければ、同じ労働の対価で得た金も、因縁次第で左右されてしまう。得た金も、右から左である。

 徳分のない人の金が出て行く現象を、よく観察すると、金が抜け出して行くこれは、ただ出て行くだけではないのである。一層悪いことまでをつけて、出て行くのである。運気まで付けて出て行くのである。まさに「凶」を思わせる。
 凶を背負っていては悶
(もだ)えるだけだろう。
 貧の盗みに恋の歌。
 こんな俚諺
(りげん)まである。
 貧乏に苦しむあまり物を盗み、恋に悶えるのあまり歌をよむ……のである。
 愚かついでに、必要に迫られれば何事でもしてしまうのである。

 身につく“縁”を確立しなければ、金は幾ら稼いでも出て行くばかりである。
 穴の開いたバケツは、それを塞がなければ水を溜めることが出来ない。
 歯を食い縛り、人との生存競争に奔走して、どうやらせっせと稼ぎ続け、何とか種金が溜って一安心というところまで漕ぎ着けたとしても、身に金がつく因縁がなければ、そこに思わぬ出費を強要されてしまうことがある。

 例えば、配偶者や扶養家族の中に、重病人が出るとか、盗難や詐欺や強盗に遭遇するとか、家や財産を丸焼けにしたり、裁判沙汰や離婚騒動で慰謝料を取られたり、何かの事件に巻き込まれて、生命までもを取られてしまう場合がある。こうした場合は、矢張り金が身に付く因縁がないと考えられる。こうした人は修行を通じて、徳分を得る必要がある。

 金が身につく因縁は、徳分の有無によって決定される。徳分がなければ幾ら懸命に働いても、抜け落ちるばかりなのである。
 これこそが、運命の陰陽に振り回されている、最たる証拠である。徳がなければ、金に汲々とする。この事実を、冷静に考え直してみるべきであろう。



●徳分を養う法

 では、徳分を得るには、どうしたら良いか。
 かつて東洋哲学では、智者達が思考したことは、“金”や“幸せ”と言うものを、直接追い求めても無駄であると心得ていた。
 つまり「直接行動」の無駄を、よく熟知していたのである。直接行動は露骨な部分があり、露骨な現象は、金と言う生き物が最も嫌うところである。
 此処が肝心である。
 直接に求めず、間接的な方法を用いて、その誘導を図ったのである。

 だから間接的に「徳分を養うように努めた」のである。此処が非常に大事なところである。
 つまり、金や幸せの方が自分に向かってやって来る、間接的な経路を作ったと言うことである。自分が追い求めるのでなく、金と幸せが、自分に向かってやって来る形を確立したのである。

 金や幸せを「直接」に求めれば、それはただの“我
(が)”の炎上である。欲望が吹き上げただけである。
 “我”を行使しても、何もならないのである。“我”の強い者に、何者も寄らないのは周知の知るところである。
 したがって、“我”を捨てなければならない。この世の真理は「捨てる」という中に、物事の道理がある。

 “我”を炎上させる人間は、貪欲
(どんよく)である。我執が強い。だから、「遣り口」も汚くなる。手段も選ばず、穢(きたな)さだけが目立つ。
 こうした者には、何者も寄り付かない。敬遠される。
 “我”に振り回され、計算高く、打算で動く人間は、足許
(あしもと)を見られる。凡夫や暗愚でない限り、我執の強い人間は敬遠される。
 煩悩
(ぼんのう)を燃やし過ぎて、我執に凝り固まった頑迷な人間は、人に不快感を与える。愉(たの)しくさせる一面は何処にもない。人に不快感を与える人間は、天も不快に思い、その人間に徳分を与えようとしない。

 「貧富は天にあり」という言葉を思い返すべきであろう。
 つまり「貧富の差は、総て天にあり」なのだ。
 煩悩の焔
(ほのお)で身を灼(や)いている人間は、直接行動に出て、天から、そっぽを向かれる。それでは先方から遣って来ない。当然、天からも人からも敬遠される。
 寄って来るのは貧乏神だけである。

 「求めて得たものは埃
(ほこり)」とか、「自分が願って得たものはゴミ」という言葉があるが、これは直接的な煩悩に頼り、手に入れたものは、やがて失うということを言い表わしている。自分が直接的に求めて、手に入れたものは、やがて失うものなのである。総ては、向こうの方から遣(や)って来なければならない。直接ではなく、間接的に、である。そこに必然がある。そこに因縁がある。

 論理学の中に、『間接還元法』なるものがある。背理法
(reductio ad absurdum)ともいう。
 ある命題の否定を真とすれば、そこから不条理な結論が出ることを明らかにして、原命題が真であることを証明する仕方であり、間接証明である。貧乏も不幸も不条理なものだ。

 東洋の哲学者達は、幸福が身に付く徳分、金銭が身に付く徳分を、自身に養えとしたのである。幸福な生活は向こうの方から来るものである。金銭も同じである。それが本当のものであり、だからそれが末永く居着
(い‐つ)くのだ。それがそうなる「態(さま)」である。

 自分で求めたものは我利我欲
(がり‐がよく)の片割れであり、こうした何処かに強奪の影を落としているものは、「凶」の匂いが漂っているものである。こうした直観として観測される者に、寄り添って来る者は居ないだろう。強欲が先走る者は、やがて何か凶事だけが残されて、自分の中に、これが禍(わざわい)の種となって発芽する。以後、単純な円を描いて、堂々巡りする。これこそが、徳分の失われている人間に降り懸かる、禍の作用である。

 幸福とか金銭とかは、求めたからと言って、与えられるものではない。
 求めて得られるものなら、大半以上に人は皆幸福になり、金持ちになっている。世の中は至る所に富豪が溢れているはずだ。
 また、あくせくして働く必要はないであろう。そして皆が幸福で、皆が豊であるはずだ。
 しかし、決してそうはならない。
 幸福を得ている人は、千人に一人、万人に一人だろう。それほど少数の、一握りの人しか、それを得ることが出来ない。
 時勢だけを見て、小器用に泳ぎ渡ろうとするものには、それ相応の酬
(むく)いが訪れると言う、禍の現象だ。
 この世は代価を支払うというのが真理である。

 幸福を得ている人、また幸福が長くその人の頭上に微笑みかけている人のことを、幸福者
(こうふく‐しゃ)と言う。
 この幸福者ものという幸せの意識には、二つの考え方があるが、まず、幸福が人生の目的であり、善であるとする倫理説からなり、これは快楽主義が感覚的な快楽を求めるのに対し、持続的かつ精神的な喜びを求める「幸福説」を指すものであり、前者は物質的な肉欲に回帰され、後者は心を悦ばせる「eudemonism」
(幸福主義)に帰着する。
 それは常に間接的な立場を取り、肉欲だけを求めない快楽主義とは区別される。

 更に、幸福説に則った幸福者の求め方には、まずその第一は、幸福を直接に追い求めず、幸福より、幸福の方が遣って来て、それが身に付くという徳分を養う方法である。
 これは自分から幸福を求めず、幸福の方が自分に向けてやって来るという求め方である。
 この方法は「幸福を求めない」ことであるが、あくまで「直接的に求めない」ということで、“本当に求めない”ということではない。ただ「求め方」の上で、直接に求めないということである。露骨さを否定していることに注意して頂きたい。

 だから幸福を求めずに「徳分を養うこと」にしたのである。これこそ、徳分の重要なポイント。
 いわば幸福の求め方の方向転換である。直接的追求から間接的追求に、転換していることに特徴がある。

 次にその第二は、幸福を外に求めないで、自分に求めるようにしたことである。自分の位置に幸福が遣って来るようにしていることである。
 財産を手に入れ、金持ちになるという、“物”か“金”の位置を、外に存在する物質に求めないで、自分の現在持っているものを自分の中に求める方法である。
 これが精神的豊かさであり、例えば、今日は飽食の時代であるが、飽食の時代に相応しく、誰もが美食に趨
(はし)っている。
 そして、フランス料理だの、中華料理だの、あるいは料理の鉄人が作った和食だの洋食だのといって、誰もがグルメを気取る時代であるが、この食文化に中にあって、あえて断食をし、それを横目で冷ややかに見るという精神的気位の高さも、実は“食べないこと”で、「食べない贅沢」を満喫しているのである。



●食べない贅沢

 食生活は現代栄養学的に、贅沢である必要はない。したがって「半断食」でもいいし、粗食・少食であってもいいと思う。
 実際に金持ちでも、心が卑
(いや)しかったり、貧しかったりする人がいる。グルメを気取っていても、餓鬼のように、食べ物を貪る人もいる。食道楽を自称し、「うまいもの」と聴けば、千里の道も厭(いと)わない人がいる。ヨーロッパやアメリカまで押し掛ける人がいる。パリの、どこそこのレストランで、マキシムのローストビーフを食べてみたなどの批評を、評論家擬(もど)きに口にする人がいる。

贅沢な食事をするだけが、食事ではない。美食家は命を縮めるのだ。物が溢れている時代、あえて食べないという贅沢もある。ほどほどに慎んでこそ、身は保てるのである。

 だが、飽食の時代、美味しいものをどれだけ沢山食べるかという贅沢と同様に、「美味しいものを食べない」と言う贅沢もあっていい。

 昨今は食べ過ぎが害となって、生活習慣病と食生活の偏りからガン発症などをはじめとして、こうした成人病が急増している。“食べ過ぎ”は医学的観点からも決していいことではない。
 贅沢には、物質的なものばかりでなく、もっと別に精神的なものがあってもいいはずだ。食べない贅沢の「優雅さ」というものも存在するのではないか。
 貧しいからから食べられないのではない。食べられるが、精神的優雅さから、食べない側面を作ってもいいはずだ。
 此処にも富貴は漂っていよう。

 もし時代が先の時代の終戦直後のように、乏しい時代で、食べたくても食べられないと言うのは惨めだが、今のように物が溢れ、金さえ出せば何でも食べられる時代に、あえてこれを食べないという贅沢もあっていいのである。その贅沢こそ、まさに物では置き換えられない富貴ではないか。

 あるいは玄米・雑穀の“お粥”と、僅かに“梅干1個”という粗食・少食に徹する食生活も、優雅であろう。纔
(わずか)それだけのメニューに、まるでフランス料理のフルコールに掛ける時間と同じくらいの時間を掛けて、30分も、1時間も掛けて味わうというのもあっていいだろう。何も満腹中枢を破壊するばかりに喰らうのが、食の贅沢ではあるまい。

 また、脂でギラギラ烱
(ひか)る、中国料理の大皿を囲む、華麗な食卓と、果たしてどちらが優雅であろうか。
 物質と文明に食傷している現代人の肉体と精神は、精神的豊かさで、癒
(いや)しを行わねばならない時代がきていると思う。
 「武士は喰
(く)わねど高楊枝(たか‐ようじ)」では、気位ばかりが高く、その上に空きっ腹を抱えては余りにも惨めだし、そうかといって、食べ過ぎからは解放されて、心も躰も休ませるべきであろう。

 だから、物質的に恩恵を受けなくても、精神的には、こんな優雅で贅沢な人生の過ごし方があるのである。精神的な貴族のみが、味わえる妙味とでもいうべきか。
 かつてはこういう人を、「懐
(ふところ)に玉(ぎょく)を抱いた人」と云ったのである。



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