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夜の宗教・真言立川流
続・夜の宗教 真言立川流
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理趣経的密教房中術 2

護摩壇の火


●三密観の五大

 有感化の異常は、「精気」を急速に減少させている。
 精気を蓄えることが出来なくなった現代人は、著しく正常感覚を狂わせている。つまり「精禄」を無駄に浪費しているからだ。自分の肉体を粗末に扱っていると言えよう。
 現代は肉体と「性」が一致しないようになって来ている。
 これは「食」と「性」の氾濫
(はんらん)により、生存本能が狂わされているからだ。「食」と「性」の、波動の不一致が起り始めているからだ。

 この元凶下には食の乱れが性の乱れを起こし、現代人が多く摂取している食肉や、牛乳やチーズなどの乳製品の過剰摂取は同時に「肉喰った報い」に通じ、肉食は肉欲の異常欲望に繋がっているからである。
 今や現代人は、他の哺乳動物と異なり、一年365日、一年中発情している異常性を招いた。人間は大自然の一員でありながら、大自然の法則から外れた、大自然とは平行線を辿る日常を選択したからである。それは奇
(く)しくも大自然の法則から外れる道だった。外道を歩くようになったのである。
 その最たるものが現代人の思考における、思考の「酸毒化」である。動タンパク摂取過剰は思考の酸毒化を招く。性腺を狂わす。
 これまでの連綿として続いた伝統や精神に対し、これを逆転化させる人間現象である。善が悪になり、白が黒になる現代人の引き起こす下克上を目論んだ逆転現象の出現である。

 愛情を性に置き換え、性交を重ねることが人間への愛など嘯
(うそぶ)く不倫作家や、進歩的文化人の中に不倫奨励者が居るが、愛の性は別問題であり、「愛」イコール「性」の図式は真っ赤なウソである。それは、ただの動タンパク摂取過剰から起こる“肉欲”に他ならない。

 肉欲と性愛を混同するのは持っての他と言えるだろう。
 要するに、現代人に多い欧米型の食生活が日本人に異質な波調を作り出し、これが本来の日本人を狂わせていると言えよう。
 その一つが
「性腺異常」である。動タンパク摂取過剰は、やたらに性腺だけを刺戟する異常現象が人体に現れるのである。非常に怕(こわ)い現象であり、愛情までもを根本から狂わせてしまうのである。

 では、性腺異常が起こるとどうなるのか。
 連日終日、発情状態が起こる。
 ところが、一年365日、一年中発情している癖に、“いざ”となるとからっきしだらしないのである。
 現代の世に、王朝も、宦官
(かんがん)の制度もないが、宮廷に仕える宦官の如きの悪臣の輩(やから)は少なくなく、既に“わが一物”が遣い物にならない癖に「眼で犯す」という御仁(ごじん)は少なくないのではないか。からっきし、だらしがないのはこのためである。動タンパクの酸性成分がこれを誘う元兇を招いているのではないか?……。そう考える節も多々ある。それに如何わしきは薬物に頼ることである。その薬物は「煉丹」などとは程遠いようである。性腺を狂わせるその種のものが多くない。

 男の場合、早漏や遅漏が起こり、女の場合は“鴉
(からす)の行水”的で、満足感の度明いた半減している事実だ。
 つまり性交自体が“幼くなる”のである。そして遂に頑張りの利かぬ未熟な性で生涯を終わるのである。
 この元凶は夫婦間では倦怠期という“飽き”の時期の到来で知られている。飽きるため、次から次への物珍しい“初物”に肉の眼が動いてしまうのである。移り気なのは此処から起こり、あたかも蝶が花から花へと飛び回る畸形
(きけい)なる情愛主義や快楽主義に顛落(てんらく)していくことになる。

 仮初
(かりそめ)の“かりそめの人”であったときは、思い焦がれ、恋焦がれて情熱家となり、それが発展して結ばれ、性を交わし、契りを結び生涯の伴侶であった筈の双方が、いつの間にか、離婚に発展してしまうのも性腺異常から起こる、熱しやすく醒め易い、“移り気状態”が起因している。性命エネルギーを過剰に浪費させるからだ。そして遂に色褪(いろ‐あ)せてしまう。気付いたら旧(もと)の木阿弥(もくあみ)という、以前の状態に戻っている。
 これは取りも直さず、初期の発熱状態が“肉喰った報い”と絡んでいたことだけだったのである。
 現代人の特徴は、どの時代にも見られなかった“性の未熟”が挙げられる。これは動タンパク過剰摂取に回帰するといっても過言ではないだろう。

 欧米型の食生活の主体は、動物性蛋白質である。この動蛋白食品は酸毒化する体質を造る。
 しかし一般には肉をはじめとする動蛋白食品は躰に良いと信じられ、“肉は最高のスタミナ食”と現代栄養学では教えてきた。ところが、肉には多くの人体には不必要な種々の有害腐敗物質が含まれている。そして、この食品こそ人間には不向きな食品である。

 現代栄養学の教えるところは、「肉に含まれる動蛋白の組成は良質のアミノ酸が含まれている」という栄養学上の論理を展開させ、これを盛んに摂取することを奨励してきた。
 ひところは「蛋白質が足りないよ」などとテレビにコマーシャルで宣伝し、盛んに肉食やパン食をすることを指導してきた。また現代栄養学もこれを奨励した。

 現代栄養学の説かんとする仮説は、“肉に含まれる構成要素は良質のアミノ酸”という結論に結び付けて、このアミノ酸こそ食肉奨励の根拠であったわけだ。
 しかし、人間には現代栄養学が云う、良質のアミノ酸を消化させる酵素を持たない。特に日本人の場合、欧米人に比べて、食肉文化の伝統がなく、欧米人と日本人のそれは“腸の長さ”の比較で分かることであろう。
 そして動蛋白が持つアミノ酸こそ、有害物質の温床であり、そこにはアミン、アンモニア、フェノール、硫化水素などの酸毒物質が、そのまま今度は人間の腸内に停滞し、酸毒化させる温床となる。この温床は、様々な病理現象を起こすのである。

 動蛋白は腸内で停滞し、便秘を引き起こす食品である。腸内に停滞し、異常醗酵を起こし、これが毒素となる。
 血液が汚れるとは、この「毒素」を指しているのである。これが霊的には「穢
(けが)れ」となる。
 この汚れは単に血液を汚すだけでなく、「酸毒化」する要因となる。血液が酸毒化すれば、細胞機能に混乱が生じる。その混乱の最たるものが、体細胞の
「ガン化」である。その側面には酸毒の進行化する“早老”が挙げられる。
 その一方で、細胞機能が混乱すれば、大量の老廃物が組織に停滞する。この停滞は組織の粘膜を刺激し、異常分泌を起こしたり、組織の血行不全や組織破壊を起こす。

 また動蛋白に含まれる消化過程の中で、そこで生じた強酸類は、「異常性腺刺戟」を起こすと云うことだ。つまり性的な興奮状態が起こり易いと云うわけである。この異常なる性腺刺戟は、心身の衰弱を招く病因となる。同時に、内臓機能の老化を速める。東洋人の場合、同じ摂取量でも、西洋人に比べて肉食文化の伝統がなかった分だけ、東洋人の方が短命である。日本人の場合、これが顕著に顕われる。

 そして肉常食者の罹
(かか)り易い病気は、ガン発症を始めとする種々の成人病である。肉常食者が概して短命なのは内臓の機能の老化が早いからである。これが短命なる人体を構築する。病根を抱えた人体だ。病根を抱えた神代は病魔に犯され易く、短命となる。仮に短命でなくとも、長寿と倶(とも)に生命維持装置のお世話になり、寝たっきりの老後を過ごさなければならなくなる。これでは長寿であっても、動くことの出来ない動物的な長寿である。

 食肉には、種々の有害腐敗物質がある。その有害性は強酸類で明確になる。強酸類は血液も酸毒化し、新陳代謝を根底から狂わせる。その結果、性的な病的興奮が起り易くなる。その上で、深刻な排泄障害を起こすのである。これが慢性化すると、心筋梗塞、狭心症、肝炎、腎炎、ガンなどの疾患に罹り易くなり、同時に、早熟と早老が顕われる。昨今の青少年が、早熟で早い時期から性に関心を抱くのは、この為である。

 それは血液中の過剰なる強酸類が、性腺を刺激するからだ。これにより異常なる性的興奮が起る。また排泄機能を司る腎臓は、アルカリ性の条件下において活発に働くのであって、肉食によって血液が酸性化すると、著しい機能失墜を起こすのである。機能が失墜した状態で、清らかな愛の交流である、房中術など出来る分けがないのである。

 性腺を刺激され、あるいは排泄障害やその他の機能障害を起こした男女が性交に及べば、その後の結果が如何なるものになるか、その悪影響は容易に想像できよう。この性交こそ、それ事態が凶事であることは疑いようもない。
 それに人間の持つ霊的世界の「精気の居場所」としてのチャクラーまで狂わせてしまうのである。

七つのチャクラ

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 人間には「精気」の保存場所と、その通路として、縦に
「七つのチャクラ」を持っている。
 チャクラとは、呼吸によって体内に取り入れられた精気と、精気を受けて、力を有した生命エネルギーの蓄え場所であり、此処からは清らかな霊力ホルモンが分泌されている。それが現代では、食の誤りにより、清らかなものが穢いものになっている。また霊的ホルモンが正しく分泌されず、また現代人の解釈間違いによる“性概念”の誤りによって、性の氾濫と共に、性の浪費が行われている。それは精液の愚かな浪費を考えても、明白であろう。

 現代の世は、至る所で「精禄
(せいろく)」の無駄な浪費が繰り返され、“死に急ぎ現象”が起っているのである。自ら知らずに寿命を縮めているのだ。
 人間の寿命とは、単に生存年齢だけではない。長く生存しても、単に生きているだけの、寝たっきり植物と状態であっては、もう人間の機能を果たしていないことになる。
 「人間の寿命」と云うのを正しく定義すれば、「先ず健康であり、歳をとっても五体満足に機能し、それに加えて男女二根交会も可能である」というのが人間としての寿命であり、交会すら果たされないのであれば、これは寿命を喪失していると云っても過言ではない。

 端的に云えば、「二根交会」が可能な状態を云うのである。
 この「二根交会」は男女の交会であり、ホモ同士の性交は含まれない。
 男女の交会は陰根と陽根が交わってこそ、その性的バランスは健全に安定するのであって、陽根同士では安定しようがない。
 したがって『理趣経』では、男女二根交会の
“清らかな愛の喜び”を説いているのである。

 そこで、「三密観
(さんみつ‐かん)の五大」の即身成仏の“義”に遵(したが)い、これを正していく必要があるのだ。
 三密観とは、人間の持つ、身・口・意の三つの働きを指し、これが仏の働きと同化した時、偉大に力が発揮されると云われている。
 身は「肉体」であり、口は「真言」、意は「心」である。
 肉体には「地」である足と性根部があり、「水」である腹部と消化器があり、「火」には心臓、「風
(ふう)」には顔面と口や鼻腔を含め肺臓までの呼吸器管、「空」には頭脳の五大原理がある。それに加えて、真言と、真言を唱える心があり、これが仏教的な七つのチャクラとなる。

人体の五大原理を顯す五重塔。五重塔は 地・水・火・風・空の五大にかたどって、5層に造った、仏舎利をまつる塔である。

 正しく呼吸して、吐気から始め、次に後頭部に軽く抜けるように呼気を吸い込み、それを腹に溜め、次に静かに重く吐気で吐き出す。吐き切ったところで、再び軽く静かに後頭部に、その“軽き気”が抜けるように吸気を始める。この呼吸法をもって、精気を身・口・意に行き渡らせて蓄えれれば、人間も神仏のごときエネルギーが発揮されると言う。

 密教では、護摩壇
(ごま‐だん)を設け、護摩木を焚(たい)て息災・増益・降伏・敬愛などを本尊に祈る。これは古くからインドで行われていた祭祀法(さいきほう)を採り入れたものである。智慧(ちえ)の火で煩悩の薪(まき)を焚くことを象徴するという。
 こうした目的で修法する行を密教では「内護摩
(ない‐ごま)」という。

 また、戒壇
(かいだん)に火炉をつくり、木を燃やす修法を「外護摩(げ‐ごま)」というが、これは自分の体内を「壇」として、自らの精神力を仏の智火として、自分の内部にある害敵を殲滅(せんめつ)することを目的にした内護摩法(ないごま‐ほう)である。

 現代人は食と性の乱れにより、裡側
(うちがわ)に多くの害敵を溜め込んでいる。この害敵が心身に大きな悪影響を及ぼしているのである。特に昨今多く見られるようになった、統合失調症(とうごう‐しっちょう‐しょう)をはじめとする精神障害は、明らかに精気の減退から起る病気であり、精気不足は「神(しん)」を冒し、これにより精神障害者が増加しているのである。

 食と性の誤りは、人間の心と躰を蝕んでいる。しかし、これに自覚症状を感じる人は少ない。無自覚の儘
(まま)、食と性の間違った行いを続けているのである。現代は食も性も、貪(むさぼ)るだけのもになっているのである。しかしこの怕(こわ)さを知る人は少ない。



●人間臭い経典『般若理趣経』

 食と性を貪ることと、堪能し賞味することとは違う。両者は貪ることではなく、味わうものであると言う事が分かろう。美食を貪りそれに狂えば「禄
(ろく)」を使い果たして早死にを招く。また精も貪れば、「禄」を使い果たして、早死にする。
 「禄」とは、食を「食禄」といい、性を「精禄」という。
 何
(いず)れも“精的エネルギー”に深い関係をを持っている。そして、「人間が生きている」とは、『三つの中有(ちゅうう)』を経験しているからに他ならない。

上 焦横隔膜より上の督脈(とくみゃく)の百会(ひゃくえ)の泥丸(でいがん)までを指す。死の刹那の中有を顕す。
中 焦横隔膜から脾の神闕(しんけつ)までを指す。顕在(げんざい)の中有を顕す。
下 焦任脈(にんみゃく)(へそ)から下部の会陰(えいん)までを指す。再生を求めて彷徨う中有を顕す。

 人間の誕生のプロセスは「焦
(しょう)」から始まる。焦とは、火を焦(こ)がすと言う意味である。阿吽(あ‐うん)の呼吸でいえば「阿」であり、生まれ墜ちてオギャーと呼吸し、臍の緒(お)を切って成長する。更に下焦で大小便をするプロセスが人間の誕生である。生は上・中・下の「焦」は下から起こる。そして死は、上から起こる。
 死はその逆の順序で顕われる。
 自然死の場合、まず下焦の会陰が閉じられる。体内に存在する生命力は中焦の神闕
(しんけつ)を通って、上焦に移行する。次に泥丸の蓋(ふた)が開き、そこから体外へと出るのである。

 人間の誕生は生命力が焦げはじめることから始まる。逆に死は、生命の火が消えることを云う。
 本来人間は、「精液」という自ら生命力が誕生した。そして生命の火が尽きる時、「末期
(まつご)の水」を必要とするのである。
 “死を致す”とは、咽喉
(のど)が渇く行為なのだ。つまり人間は次のプロセスを辿るのである。

中有水(精液)末期の水中有
 人間は天地の陰陽が体内に顕われた生き物である。『霊枢』
(邪客篇)には「これ人は天地とあい応ずるものなり」とある。これは天地と反応すると言うことが述べられている。
 非存在なる「人間」という生き物は、男も女も天地と反応するように出来ているのである。男女は天地と反応するとあるから、その反応に応じて栄えるも滅ぶも天地の間の「人間
(じんかん)」次第と云うことになる。

 陰陽は、
“あい和す”のである。“あい和す”ことによって生命力が、活動の源として体内に充満する。
 これが保持する力を生み、活気を帯びる。活気の源泉は心包経である。心包経は三焦経と陰陽を成し、これが身体の動き、労働、変化、生殖と云った精力へと変換される。自分から子孫への移行と云う行為は三焦の働きである。
 腎の中の生命力である精液は、三焦と云う機能臓腑の玄気であり、この玄気が全身に分配される。三焦経と対になる心包経は、器質の代表として、心の代弁者として、知覚、記憶、思考、随意運動、感情、意志などを心の機能として司る。

 また心包経は心の代行機関として、生理機能を主宰するだけではなく、邪気を除去する働きがある。邪気が心に中
(あた)らないように保護する役目を持っているのである。同時に心の働きは感情を司る。
 感情は精神の働きを知、情、意に分けた時の、情的過程全般を指す。
 つまり、それは情動、気分、情操などが含まれる。そして、そこに映る感覚は「快い」「美しい」「感じが良い」「気持ちが良い」などというような、主体が状況や対象に対する態度、あるいは価値づけをする心的過程を為す。その時に心は天の気を支配する「神
(しん)」と結び、地の気を支配する「精」と結んで、「天・人・地」を為すのである。

 この「天・人・地」の結びの中に、男女の交会
(こうえ)も存在する。男女二根交会と云う、この人間臭い経典に『般若理趣経』なるものがある。密教の経典であり、その経典の中でも、最も人間臭い経典である。男女の性欲を、開けっ広げに説いている。悦楽の曼陀羅を経典の中に展開している。
 しかし性欲は貪ってはならないことも同時に記している。「堪能するべし」とある。「清らかなもの」は、貪るのでなく、賞味するのである。



●性を貪る現象人間界

 真言立川流には「ドクロ譚
(たん)」なるものがある。
 この「ドクロ譚」の説くところは、「髑髏
(どくろ)本尊」について、文永三年(1270)に誓願房心定(せいがんぼう‐しんじょう)が著わしたとされる『受法用心集』に記され、これによると、「この秘法を修行して大悉地だいしっち/密教の修行によって成就した大いなる妙果)を得んと思わば、本尊を建立すべし。女人の吉相のことは、今注するに能(あた)わず。その御衣木みそぎ/仏像彫刻に用いられる木材のことで、檜・白檀(びやくだん)・栴檀(せんだん)・朴(ほお)の類を指す)というは髑髏なり」とある。

 誓願房心定は健保三年
(1216)に、現在の石川県豊原に生まれ、後年、円福寺心定上人と号した密教僧だった。
 真言立川流は「二根交会
(にこん‐こうえ)」を、“悟りの道”とするため、本来ならばその本尊を美女に求めるのであるが、本尊は皮肉にも「髑髏」である。したがって御衣木(みそぎ)も木材ではなく、人骨の髑髏(どくろ)なのである。

 「この髑髏を取るに、十種の不同
【註】共通に揃ったものでなく、異なった不揃いのものを指す)あり。一、智者。二、行者。三、領主または国王。四、将軍。五、大臣。六、長者。七、父親。八、母親。九、千頂せんちょう/千人の髑髏の上部を集め、それを砕いて粉にし、粉を練って団子にして作り上げた本尊)。十、法界髑ほうかい‐どく/重陽の日の陰暦の九月九日に、死陀林(寒林の意味で墓場を指す)に入り、髑髏を集めていき、毎日、荼枳尼天(だきに‐てん)の神呪を唱えて祈り、霜の降りた朝、霜のついてない轆轤を選び、頭蓋に縫合線のないものを用いて、これを本尊にするのが最高と言われる)なり」

 そして、以上のようにして集めた髑髏が法界となるには「これを本尊として用いる場合、建立
(こんりゅう)するに三種の不同あり。一、大頭。二、小頭。三、月輪形(円形)。大頭とは本髑髏をはたらかさずして顎(あご)を造り、舌を造り、歯を付けて、骨の上に、ムキ漆にて、木屎こくそ/漆塗りの下地の隙間などを填うめるのに用いる、繊維くずや木粉を漆に練り混ぜたもの)をかいて、生身の肉のように、醜くなきところなく造り定むべし。その上を、よき漆(うるし)にて、能々(よくよく)塗固め、箱の中に納め置き」とある。

 この安置した髑髏を枕頭に安置し、相愛の美女と交会
(こうえ)して、流出した愛液を髑髏に塗るのである。『受法用心集』には、「百二十度、塗り重ねるべし」と記載してある。
 これは120回交会して、男女の和合液を集めなければならないことになる。60花押
(かおう)に陰陽の2を掛けて120回としたと思われる。更にその上、毎夜、子丑(ねうし)の時【註】午前零時から午前二時まで)には、反魂香はんごんこう/漢の武帝が李夫人の死後、香を炊いて、その面影を見たという故事から由来したもので、香を炊けば死者の姿を煙の中に現すという香)を炊き込め、反魂(がんごん)の真言を千回唱えるとある。そしてこれだけの面倒に手間暇掛け、その後、髑髏の中に種々の秘法の呪符(じゅふ)や春画を納め、これこそが最高であるとされる。

 しかし、こうした非日常的な行為を振り返れば、ここには何とも言えない、猟奇性を感じるではないか。
 思い起こせば、魔力とか、神通力と言うのは、それを得る為に怪奇性が備わり、あるいは猟奇性を追い求めねば得られぬ、筆舌に尽くし難い異端の“タントラ性魔術”の恐ろしさを感じる。性命を損なうからだ。
 ここには、性のエネルギの飽くなき活用が見られ、世界の宗教の戒律には屡々
(しばしば)こうした禁欲主義が漂っているのは、宗教的恍惚感(こうこつ‐かん)の裡側(うちがわ)に性的エクスタシーがあり、それを昇華させる為に、厳しい戒律が設けられているとも言える。

 修行僧が、夢幻のうちに、観音菩薩と性交した話は『日本霊異記
(にほんりょういき)』などにも記され、一方、これに対し、第二の性エネルギーの利用法として、男女交合を通じて変成(へんせい)意識状態に自らを導く方法であり、この修法は屡々(しばしば)、呪術や魔術と結びついた。こうした歴史的背景の裏側に、真言立川流が興(おこ)ったのである。

 真言立川流は、武蔵国
(むさし‐の‐くに)立川(たちかわ)の陰陽師(おんよう‐じ)仁寛(にんかん)よりその修法が広まったとあり、一応 真言密教の一派とされる。その特徴は、男女の性的な結合である「交会」を通じ、即身成仏の秘術とすることである。平安後期の仁寛を祖とし、十四世紀に文観(もんかん)により大成され、中世に広まったが、のち邪教として取締りをうけて衰えた。それが真言立川流が「夜の宗教」であった為だ。
 そして、真言立川流の本尊建立は、まだまだ続きがあるのである。
 真言立川流は、男性原理と女性原理の結合を意味し、タントラ性魔術の実践が、万物の一体化を顕わすとしている。そのこは男性原理と女性連理が一体化した時に、生じる生命力が物質変成を成就する原動力になると説いている。

 大いなる物質変成を成就する為には、「王」と謂
(い)われる原理と、「王妃」と謂(い)われる原理の「結婚」は必要であり、タントラの男性原理と、女性原理の結合は生命力を作り出す象徴的な意味合いを持っていた。これを象徴したものが、真言立川流では「ドクロ譚」であり、「ドクロ学」であった。
 真言立川流の「ドクロ学」では、大頭
(だいず)では持ち難いとして、小頭(しょうず)の製造法を特記してある。
 「大頭の頂上を八分にて切断し、その骨を面像として、霊木
(れいぼく)をもって頭を造り、具して“ハク”を押し、曼荼羅(まんだら)を書き、男女の和合液を塗る」としている。こうして造り出した小頭に秘密呪符を入れ、首に掛け、体温をもって供養するとある。

 密教房中術で云う性魔術は、内護摩を特長とする。内に棲む害敵を殲滅することにある。したがって、男女二根交会に際し、ベットの中での内護摩は、まず修法者自身が心を正しくして静なる境地を確保しなければならない。そこに「破魔息」の呼吸法があり、この呼吸法をもって「三密五大内護摩法」に入るのである。

 真言立川流では「ドクロ学」こそ、性魔術に秘儀とされ、精気を蓄え「眠る蛇」を
“七つのチャクラ”に這(は)わせることを、一種の菩薩行(ぼさつ‐ぎょう)としているのである。
 この行に入る際、破魔息
(はまそく)をもって、体内に入った精気を臍下丹田(せいか‐たんでん)に蓄えたと感じたら、次の息を吸う時、その蓄えた精気を丹田から性根に移動させ、更に会陰部を経由して、脊柱(せきちゅう)に伝わらせ、これを上昇させていくのである。性根(せいこん)に降りた精気は、ここで生命の基礎に火を点じる役目を持つのである。

 また、「ドクロ学」には、一つの戒めがあり、貪り過ぎると、最後には哀れな死が待ち受けていることを、髑髏を表現型において、それを無言で示しているとも言える。ドクロ学は単に猟奇
(りょうき)と捕らえるのではなく、貪(むさぼ)る結果が、こうなると示しているのがドクロ学であり、まず修法者は、性力を示す「力波羅密(りきはらみつ)」を交会に結び付け、同時に精気を体内に回して全身に力が漲らなければならないとしている。この力の漲ぎりこそ、「火竜」なのである。

 火を負う火竜はクンダリーニ
と同じもので、クンダリーニは性根部に潜む霊的な蛇の事である。
 平素は、「三巻き半」の蜷局
(とぐろ)を巻いて休止しているが、修法が始まると眼を醒(さ)まし、陰極たる性根部から七つのチャクラを通って上昇し、頭蓋(ずがい)の裡側(うちがわ)にある陽極の「千蓮座(せん‐れんざ)【註】結跏趺坐(けっか‐ふ‐ざ)の意で、「跏」は足の裏、「趺」は足の甲のこと。足の表裏を結んで坐する坐相あるいは降魔坐(こうま‐ざ)のこと。坐して足の裏は天に向く)に達し、これを陰陽を結んで、体内に自家発電を起こさせ、人間に強いエネルギーを充満させると云われる。



●大楽とく『般若理趣経』

 『理趣経』の正確な経題は『大楽金剛不空真実三昧耶経
(たいたく‐こんごうふこう‐しんじつ‐さんまいや‐きょう)』という。この経典は七世紀から八世紀に掛けて、インドで完成したものであると推測されている。
 大楽金剛とは、この経典が示す
“金剛さった”のことである。“金剛さった”と云う菩薩を通して、大楽と云う男女の欲望を倶(とも)に体現し、清らかな愛を交流させて、一つは長寿を全うし、もう一つは健康なる長寿と倶に覚醒を覚え、悟りを得ると云うことである。

 『理趣経』では、男女の二根交会を“あるがままの欲望”と解する。この欲望こそ、「真実」と定義しているのである。そこの不純は存在しないと説くのである。そしてこれを体現し、その中の
「人となる」のである。
 般若波羅蜜多
(はんにゃ‐はらみた)とは、智慧(ちえ)で溢れていることを云う。
 波羅蜜多とは、完成、熟達、通暁の境地を云い、現実界の生死輪廻の此岸から、理想界の涅槃
(ねはん)の彼岸に到達するという意味だ。理想郷の意味でもある。理想郷に向かう為に、この智慧を「愛の行動」に移し、男女が二根交会をすることを、「うま味のある理趣(りしゅ)」という分けだ。
 『理趣経』では、この理趣を“物事の道理”と説いている。つまり“事”の分けを説き、そこに男女の道理があるとしているのである。

 したがってこれを「般若波羅蜜多理趣品
(はんにゃ‐はらみた‐りしゅぼん)」ともいう。そしてここで言う「品(ぼん)」は、一部を分けたと解釈し、“経典の一部”を指している。そして密教では、この経典の母体を『金剛頂経』ともいう。
 元々は10万句あったとされ、その中から抜き出して広付されたものが理趣経なのである。

 それによれば、ある日、大毘盧遮那如来
(たい‐びるしゃな‐にょらい)は、欲界にある他化自在(たけじざい)という天人の宮殿で、金剛手(ごんごうしゅ)らの八人の菩薩と、80億人に及ぶ大衆を相手に「総てのものは、もともと清らかなものである」という説法をしていた。この中でも、男女の欲望は取り分け清らかなもので、これを「十七項目」に渡って説いたと云う。
 この主題とするところは、欲・触・愛・慢という言葉を象徴したもので、これを他にして人間生活はあり得ないとしたのである。
 この欲・触・愛・慢という事柄からそれを、一種の煩悩
(ぼんのう)として嫌って逃げ出すのではなく、この中に突っ込んで行けと教えているのである。これを素直に受け入れれば、光り輝く生き方ができ、「人間道」を全う出来ると説いているのである。

 これを拝聴していた80億人の聴衆は、これを自分達の心の問題として、進んでその内容を発表するという経典の仕組みになっている。心の中の問題は、変化きわまりない宇宙間の事象を捉えて、その限りない変化の世界に分け入り、これを理解し、体現しようと試みたのである。
 密教ではこれを象徴的に捉えている。それに似つかわしい言葉で絶唱しようとする。これが所謂
(いわゆる)密教の曼陀羅(まんだら)の表現となる。

 『理趣経』は日々に聞き及び、またそれを読経し、そうすることによりその人の心が自然に悦びに溢れて、安らかになるというのが、そもそもの「大楽」の意味であり、金剛のように堅固な地位に至るであろうと『理趣経』では結んでいるのである。

 ちなみに、大毘盧遮那如来とは大日如来
(だいにち‐にょらい)のことで、また『華厳経』【註】けごん‐きょう/大乗経典の一つで、華厳宗の所依の経典。全世界を毘盧遮那仏の顕現とし、一微塵の中に全世界を映じ、一瞬の中に永遠を含むという一即一切・一切即一の世界を展開している)などの教主で、万物を照らす宇宙的存在としての仏である。そして毘盧遮那(びるしゃな/ Vairocana)は、「輝きわたるもの」の意で光明遍照(こうみょう‐へんじょう)と訳す。
 光明遍照とは、阿弥陀仏の慈悲が広大で、この世の衆生をことごとく済度
【註】さいど/仏や菩薩が、苦海にある衆生(しゅうじょう)を済(すく)い出して、涅槃(ねはん)に度わたらせること)するのを、光明が遍(あまね)く照らすのに例えることだ。

 『理趣経』の説くところは、「男女の愛は清らかで、その徳望こそ、“人間道”を全うする道」としている。このことは、大日如来が80億人の民衆を前にして説法を説いたことからも明らかである。
 ところが、日本に於いては、“男女の性愛”が、儒教的な精神風土も強く、また明治維新以降はキリスト教の「禁欲生活」の輸入もあって、現代に至っても、国民の民情にはマッチしてない節がある。その一方で、こうした金欲の世界が仇となり、間違った「性教育」が小中学校の教育現場で行われている。

 多くの日本人は、男女の愛を「性教育」と評しているが、この教育は間違いらだけの、“性教育”からは程遠い、明らかに避妊対象の為の「性器教育」である。早熟の男女を、どうしたら妊娠せずにセックスを楽しむかの、そうした快楽主義に誘う元凶を、恐れ多くも、「教育」の名を語って、避妊を指導していることだ。
 つまり、避妊とは男女の無差別の性交と云う、享楽を楽しむと云うところに重点が置かれている。

 この思想は『理趣経』でいう、「愛は清らかなものだ」とする真実の二根交会からは程遠い。また、仏教には性愛を説く経典があるが、この経典は日本では儒教の輸入に因り、完全に無視されてきた。
 『理趣経』が江戸時代、経典にある性欲を初めとする欲望についての、人間否定を行った為、ややともすれば誤解を招き、歪
(いぶつ)にこれらを“邪経”と一蹴(いっしゅう)した節が否めない。

 このような事情から、特に『理趣経』は大衆的流通は固く禁じられたのである。それは真言立川流が“邪宗”と禁じられたようにである。
 真言密教の伝統的な教学からすれば、『理趣経』を読むに能
(あた)っては、まず、密教の阿闍梨(あじゃり)の弟子となり、一定期間修行しなければ、よむことは出来なかった。
 こうした厳しい条件がつけられたのは、この経典が宇宙の規則性を包含しているという真理性と同時に、危険性をも持っていることを証明している。
 ある意味で『理趣経』はそれほど危険なものであり、読み間違いや偏見的な解釈によって起る怕
(こわ)さが内包されているということである。

 また五官の眼
(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)の五つのうち、第五番目の「触覚」の大事を挙げ、“触”に自分の好みの異性と交際したり、接吻とか性交をして、肉体的に関わること。あるいは身体で触れて知覚されるもの、あるいは触境。感官と対象が接触すること挙げ、「触金剛菩薩」としている。
 色欲を感じる「慾」を誘う情である。
 『理趣経』はこの「情」を否定しない。自然と説く。
 陰陽二根二気は肉体を造ったばかりでなく、意神までも作った。意神は精神のことである。その根本に性命エネルギーがある。これをもって総合的に心身を構築しているのである。気の要素である。更に気は物質的要素と精神的要素を兼備する一元概念である。この概念を理解すれば、「導」が可能になる。
 導……。
 それは陽気によって齎される。

 これを房中術の「腹部の愛撫」で、手が肚
(はら)の上で動くことの自然をいい、その感触は皮膚を通しての透過し、そこから掌を通じた陽気が体内に侵入するとある。
 これは物理的と言うより霊的である。
 掌は陽気を発する発生器である。始まりは、大地の気を掴む足の裏から始まり、「足心」が大地の気を捉え躰を通して、一つは掌に向かい、もう一つは貌
(かお)に到達して、そこから外に向けて発散される。その、掌に到達した陽気を下腹の上と鳩尾(みぞおち)に置く。過剰な刺戟を与えずとも、丹田で作られた陽気は無数の気の集約点であるから物理的に烈しい圧迫を加えずとも、置いただけで体内に伝わる感触は熱を帯びて強くなっていく。これこそ“金剛さった”の働きである。

 この働きには「隔交之法
(かっこう‐の‐ほう)」があり、萎縮したものを膨張させたり、衰えたものに活力を与える。満ち、勃(た)ち、硬度を増す。
 これはわざわざ肉を重ね、情を交わさなくとも熟練者は通常の性交以上に快楽を得ると言う。そのうえ体力の消耗が殆どない。肉体的快美は「衰」を招く元兇にもなることから避けたいものである。
 快美……。
 肉体を介さない法である。
 これは精を吸われて衰死する愚を避けられるという。
 普通、死の中には衰死の現象が含まれていることも否めないようだ。



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