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死の訪れ 3

羅漢像の嘆き。


●人生は量ではなく、質の問題である

 果たして人生は「量」だろうか。人生は長生きすること、つまり人生とは「長生き」という“量”の問題として捉えるべきなのだろうか。そのように捉えている人は多いようだ。
 特に現代は、人生が健康で長生きして、いつまでも若々しく、そのような人生観を抱いている人は多いようだ。

 しかし、人生とは果たして“量の問題”なのだろうか。
 筆者はむしろ「質」の問題ではないかと思うのである。
 人生は時間を圧縮して、密度の濃い人生を送ることこそ、大事ではないかと思うのである。
 単に動物的に長生きして、寝たっきりになり、あるいは病院の生命維持装置により、思考が失われてダラダラと生かされる生命の長さ、つまり量の問題ではなく、如何に充実して、生き生きとした濃厚な人生を送ったか、と言う質の問題ではないかと考えるのである。

 喩
(たと)えば、他の人は一生掛かって愛するこの「愛」を、時間を圧縮し、濃縮して、一人でも多くの人に愛を向けられれば、その人の人生の「質的」は非常に良かったと云うことになる。
 一方、人生を“量”と捉え、ただ長生きだけを目指し、80歳、90歳と長生きしたとしても、その日のと長き歳月は、単に自己の肉体の裡側
(うちがわ)に閉じ込められた「牢獄」の中での人生ではなかったかと思うのである。
 したがって充実した人生は、必ずしも“量の問題”ではないと考えるのである。

 生命は“量”に価値があるのではなく、その生命の「質」と思うのである。
 また、「質」として考えた場合、真に人を愛すると云うことをしなかった人は、幾ら100歳、110歳、120歳と長生きしたところで、その人の“長生き”は『長寿のギネス・ブック』には記録されるであろうが、質としての生命の評価は高い筈
(はず)ではないだろう。

 年寄りの長生きには「質」が附随していなければ、それは単に長生きをしたと言う長寿記録に留まるもので、況
(ま)して病院の生命維持装置を借りて生きた、その長寿ほど「牢獄的」なものはない。長い牢獄生活は、何とも空虚な人生を浪費したと云うことになりはしないか。内容は余りにもお粗末だったといえはしないか。

 そして残念なのは、寝たっきりになった老人や、生命維持装置を借りて長生きした老人が、その後、病魔と闘って病魔を追い出し、遂に勝利して健康な肉体を取り戻し、社会に復帰して元気に働いていると言う話は一度も聞いた事がない。末期ガン病棟の末期患者も、延命は少なからず維持できようが、事実は目前に死が迫りつつある状態なのだ。これを克服して社会に復帰する人など、殆ど居ないのである。

 ある日、突然倒れて、昏睡状態になったり、その後、昏睡状態が回復せずまだ眠り続けていたり、寝たっきりになって、身動き一つ出来なくなったりの、こうした状態は、一応「死に直面した状態」と言えるのではないか。
 そしてその場合、直に死なず、一時的に「死の執行猶予を受けた状態」と考えるべきであろう。こうした執行猶予を受けたまま、その後、好転が見られず、そのまま死んで行く人も少なくない。

 もともと人間は「非存在」であり、生きていること事態が奇蹟
(きせき)であるのだから、その奇蹟が行われなくなり、遂に死に至ると云うことは日常茶飯事なのである。その為にも、日頃から死について考えておく必要がある。自分は若いから、死は当面訪れないと云うような、こうした安易な考えは慎(つつし)むべきであろう。
 この現世に、死は至る所に存在し、死の可能性は、誰もが一様に平等に同格に、孕
(はら)んでいると云うことになる。そこに老若男女の区別はない。

 だからこそ、年齢や性別とは関係無しに無差別に襲って来る死の訪れに対し、「自分の迫りつつある死」というものを、再認識する必要があるのである。
 善人だけがみな生き残り、悪人だけがみな死に絶えたと言う時代は、未
(いま)だかつて、人類の歴史の中には存在しないのである。

 人生には、訣別があり、その訣別の度に、みな人は「小さな死」の体験をする。その「小さな死」の体験をした時、必然的に、自分の中に存在した馴
(な)れ親しんだ部分は少しずつ失われ、結局、最後は殆ど残っていないと言う、自らも死した屍(しかばね)の中に閉じ込められると云うことを覚悟しておかなければならない。自らも、やはては屍になる対象なのだ。その宿命から逃れることは、何びとも出来ないのだ。

 そして人生の質の問題、生命の質の問題は、矢張りその人の生き方を決定するばかりでなく、その人の「死に方」までもを決定しているのである。理想としては、静かに涅槃
(ねはん)に入ることこそ、安らぎを与えるものはないのである。この涅槃を仏道では、“絶対的な静寂”と称し、「生命の理想郷」を示唆している。つまり「安住の地」である。

涅槃(ねはん)に入る釈尊の像。
 そして涅槃には「有余涅槃
(うよ‐ねはん)」という、一切の煩悩を断じて涅槃に入っているが、まだ肉体を残している“有余”と、もう一つは、「無余涅槃(むよ‐ねはん)」という一切の煩悩を断じ、さらに肉体も滅した完全な寂静の境地の“無余依(むよえ)涅槃”があるという。


●死は、何処で決定されるのか

 肉体の死を明らかにするには、「死の現象」と言うものを把握しておかなければならない。
 まず死の訪れを医学的に見れば、その第一の現象が、自意識の消滅である。肉体的に言えば、神経索
(しんけい‐さく)が解け離れ、この状態は、例えば炭素と酸素の結合がなくなり、火の消えるような状態である。
 つまり、生へのエネルギの根源である「火」の消滅である。

 火の消滅が起ると、次に心臓は睡眠時のようになり、脳髄に送る血液中に精錬した養分を送れなくなり、その後、2〜3分で神経索
(しんけい‐さく)は窒息し、飢餓(きが)に陥る。更にその後、脳髄(のうずい)の分解が起る。この分解はバクテリアの活動によって始まり、固定した化合物へと変化し、やがては各々の元素に復帰するのである。

 こうした状態が外側に顕
(あら)われた時、人間の肉体は生活反応を停止するのである。人体の生活体を構成している要素は、体細胞であるから、これ等の細胞は、その後、細胞死へと向かう。これは細胞総(すべ)てが細胞機能を停止するのではなく、生命活動の中枢(ちゅうすう)を担っていた心臓が停止し、その結果として、組織細胞が機能を停止するのである。この細胞の機能停止をもって、医学的には「死」と断定するのである。

 ところが、心臓の鼓動が止んだからといって、これが100%死亡したとは断定できないのである。心臓の鼓動が止んでも、蘇生
(そせい)する例が少なくないからだ。こういう場合は仮死となり、仮死は蘇生する確率が高いからだ。

 したがって、死の兆候を見つけ出さなければならなくなる。死の兆候は、知覚の喪失によって顕われる。知覚は、感覚細胞の興奮を感覚中枢に伝達する神経であるが、これが喪失する場合に顕われる。しかし、知覚の喪失は失神卒倒の場合にも起るので、知覚神経が失われても、これだけで死と断定する事は出来ない。
 しかし、死とは無感覚状態である。

 死は無感覚状態に至り、その無感覚は全体に及ぶ。したがって、死者は激しい刺戟
(しげき)に対しても反応することがない。聴覚も嗅覚も肉体を通じて感じとることは出来ないし、眼球も張力が失われ、その瞳孔(どうこう)に映るものは何も感じ取ることができない。更には、虹彩(こうさい)が覆(おお)い隠される。

 虹彩は、眼球の角膜と水晶体との間にあり、中央に瞳孔をもつ円盤状の薄膜である。ここは、瞳孔を囲む部分にある括約筋
(かつやくきん)と放射状にならぶ筋肉とによって、瞳孔の開閉を行い、眼球内に入る光の量を調節する役目を持つが、こうした生前の動きは全く見られなくなり、やがて瞳孔は死の刹那(せつな)に正常な大きさに復帰し、また、眼球筋は張力を失う。

 躰は微動だにせず、下顎
(した‐あご)は落ちる。しかし、これでもまだ、死を決定する材料にならない。ただ、この時に死後硬直の前に起る状態に至り、躰にこわばりを見せることがある。
 死ぬと躰全体の体温が下がり、冷たくなるが、これは自分で発熱できなくなった為であり、周囲の温度に等しくなるまで、体温の低下が行われる。こうした冷却された状態を「屍冷
(しれい)」という。

 屍冷には、外気の温度と等しくなる為に、約24時間掛かる。しかし、死体が冷却を阻害する暖かい寝床や、衣服などを着ている場合は、それ以上に時間が掛かる。また、老人と若者は、老人の方が冷却する時間は早く、若者の方が冷却される時間が長い。更に男性と女性では、女性の方が皮下脂肪が厚い為、冷却されるまでの時間が長く掛かる。

 斬殺などにより、出血多量で死ぬ場合は、一見、冷却が早いように思われるが、むしろ一般の死に比べて、冷却までの時間が掛かる。血抜き状態となり、血液の腐敗が遅く、肉だけの状態になるからだ。
 窒息死に於ては、屍冷は明らかに死の兆候であるが、稀
(まれ)に生前の体温より高まることがある。

 まず、屍冷が始まると、貌
(かお)の筋肉が畸形に萎縮する。あるいは歪められ、苦痛に満ちた貌になる場合がある。臨終際の、死の苦痛により、こうした場合、貌に苦痛を漂わせる。
 この時に判断は、医学上では、何らかの苦痛に反応したわけではないと断定しているが、しかし、貌の表情は、明らかに大病を抱えて死んだ場合や、事故死などで苦痛を抱えて死んだ場合に多く顕われ、死相が顕われていることは明白である。それが肉の眼には見えないだけのことである。

 つまり、現代医学では「死相は現われない」としているが、実際には臨終間際に、「死の恐怖」に直面するのであるから、その恐怖に対して心因性の心の動揺は、表皮の肉体に克明に伝わるはずである。
 心の動揺が、貌に顕われても不思議ではなく、末期ガンなどの抗癌剤投与で断末魔のしに直面した場合、やはりその苦痛は表皮の貌に顕われるものであるから、当然それは苦悩に満ちた断末魔を迎えることになり、その恐怖は死んで行く時の恐怖であり、「死」イコール「恐怖」であるから、死に戦
(おのの)く死相は心因反応として、どうしても顕われて来るのである。

 こうした場合に顕われる死相として、最も多いとされているのが、貌に顕われる死相であり、こうしたものが出て来た場合は、不成仏とされている。
 その不成仏を顕わす「死相」に、貌の正中線にハッキリと顕われる「死相の黒い筋」というものがある。人間は、何事に関しても心理的には「心因反応
(psychogene Reaktion)」を起こしているということである。

 この心因反応は、欲求不満や葛藤
(かっとう)などの心理的ならびに精神的原因によって起こる精神障害であり、この強弱は人によって各々の格差がある。そしてこうしたものが病的に嵩(こう)じれば、怨念(おんねん)を齎(もたら)すことになる。
 神経症および心因性精神病を含む精神障害は、欲望の裏側に隠れ潜む、妬みや恨みであり、それは「堆積する」という現象を起こして心の中に降り積もって来る。つまり、これが「怨恨
(えんこん)」というものである。恨みが堆積すると、それが怨念となり、怨念の極みが精神異常である。これこそ人間の霊魂構造が「意識体」である証拠である。

 死すれば霊魂は帰るべきところに帰る。
 霊魂を語る場合、魂魄
(こんぱく)という言葉がある。
 魂
(こん)とは、死が訪れるとその時に肉体から遊離したがる霊であり、一方魄(はく)とは肉体から離れたがらない霊である。
 魂と言う文字を解字すれば、音符「云」
(=雲気)+「鬼」とからなる。肉体を離れて雲気のように天上に昇る死者の「たましい」のことを指す。
 この文字からも分るように、「云」は雲の原字である。更に「鬼」は死者の意味である。
 つまり、この文字から窺えることは、雲のような水蒸気のような、靄
(もや)のような、地上に立ち上っていく死者を顕している。
 これは天に昇り、浄化されることを希求する存在であり、霊で言えば祖霊の元になる魂のことである。

 一方、魄は音符「白」+「鬼」とからなる。白は骨であり、白骨化した躰を指し、形骸の意味を持つ。また躰に宿る活力を指す。併せて肉体の意味を持つ。
 しかし肉体は、死ねば腐乱する。腐乱して蛆
(うじ)が湧き、蛆に啖(く)われて白骨化するまで自分の躰に纏(まつわ)りつき、傍(そば)に居続ける死者の霊が魄である。

 これは人間の思考から生まれた「心」であり、また「意識」である。そして、これは意識体をなす。
 この意識体は生に何処までも固執する。肉体が消滅しても、更に生に未練を燃やし続けて地上に彷徨うのである。
 魄こそ、人の陰の精気であり、肉体を司り、死後もなお、地上に止まる意識体である。

 死者の霊は、魂と心
(=生前と同意識の意識体)からなる。その比重がどちらが重いかとなると、それは人によって異なる。生前の意識、つまり心残りや未練などがあれば魄の比重は大きく、いつまでも地上に止まろうとする。
 一方、魂の比重は大きければ雲気となって昇華して行く。
 魂の比重が大きくなれば成仏に向かうが、魄の比重が大きい場合はいつまでも地上に止まり、未練に引き摺られて迷い続けることになる。意識が大きければ大きいほど、意識体は地上に残る。つまり不成仏である。


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