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礼儀と武士道論 3

「さくらばな」は散り際の潔さを意味すると言うが……。


●控え目に、目立たないこと

 武士道で求められるのは、控えめであり、目立たないことである。つまり慎み深く、謙譲を保つことである。
 人間は年を取り、精神的熟成度が増してくると、まず「目立たない」ことに心掛けるようになる。

 人間の生死
(しょうじ)の歴史には、夥(おびただ)しい死者達が居て、この死者達は、生きて力の限り自己表現をして来たのであるが、その自己表現は大河のような自然なものであったと考えられる。彼等は、その偉大なる凡庸によって、尊厳を保って来た足跡を残している。そして彼等の見事だったことは、「実るほど頭(あたま)の下がる稲穂(いなほ)かな」を実践し、実に目立たないことを美徳にして来たのである。

 何故ならば、かつての「老」に値する尊敬の念は、一切が目立たないことに回帰され、その中でも性格のいい人や、健康で矍鑠
(かくしゃく)としている人は、瞬時に見ても目立つことがなく、自然の中や人込みの中で、「溶け込むことのできる要素」を会得していたのである。

 逆に「目立ちたがり屋」という人を観察すれば、このタイプの人間は、まず躰
(からだ)に某(なにがし)かの故障を持っていて、瞬間的には「目立つ要素」が消し切れてないことである。態度は横柄で、強がってみせ、傲慢な言葉使いをするのは、結局、自分の未熟を顕わしたようなもので、グループの中に居ても、観光地の真っ只中に居ても、直ぐに目立つのである。

 「目立たない人」と「目立つ人」の差は、有名無名に関わらず、共通して言えることは、目立たない人は心身共に健康であり、目立つ人は躰の何処かに故障を持っていて、態度も横着であり、これによって目立つのである。そして、「目立たない人」と「目立つ人」を競わせて、階段を上らせれば更に一層明白となる。

 健康な人は集団の中にあっても、足腰がしっかりしている為に、階段の上がり降りにも、遅れずに蹤
(つ)いて来る。決して、集団行動においても落伍などしない。隊列を乱したりもしないし、集団の中によく溶け込む。
 ところが「目立つ人」は躰に異常を抱えている為、危険を感じさせ、とにかく目立つ存在となる。自分勝手に隊列を乱したり、集団の中に一人となれない。抜け駆けもする。独り高名
(こうみょう)に趨(はし)る。また、自分でも、自分は目立っていることに些(いささ)かの自慢がましいところがある。
 こうした自慢がましい一面を、「目立たない人」は気の毒そうな一瞥
(いちべつ)をくれて、嘲笑にした笑いと倶(とも)に、「まだまだ人間が未熟ですね」と内心、「目立つ人」を哀れに思う。目立つ人間が、間抜けだからだ。これほど、「目立つ」ということは恐ろしいことなのだ。

 昨今は、「一億総タレント時代」などの標榜
(ひょうぼう)されて、目立ちたがり屋が、人に目立つことにより、それを「受け」にして芸能界入りを目指す老若男女が少なくないが、これはそれだけ、その人が未熟である事を物語っている。円熟した人は、目立つことを避け、自然の佇(たたずま)いの中に溶け込むことができるのである。



●目立ちたがり屋の愚行

 「目立つ人間」は、とかく「虚栄心」が強い。見栄張りが多い。他人から自分が見られることを、待っているところがある。千円でいい寄付も、一万円出したりする。虚栄心が強く、見栄を張るからだ。

 また、筆者が昔聞いた話であるが、戦場などに行くと、弾丸が雨あられのように飛んで来る激戦地で、誰もが地面に貌
(かお)を伏せ、身を低くしている中で、動かないでいる時に、一人だけ、わざわざ歩き回ったりする将校が居たと言う。そして、弾丸の飛び交う辺を歩き回り、更に詩吟(しぎん)や浪速節(なにわぶし)どを唸(うな)ってみせる将校が居たと言う。

 この将校は、部下の兵士達を鼓舞
(こぶ)する為に、わざとこうした無謀なことをするのではなく、むしろ自分が豪胆な人間に見られたくてこうした事をやってみたまでである。他人から勇気があると見られたいばかりに、空元気を出していたわけである。これも端的にいえば、一種の虚栄心であり、見栄を張った「空元気」に過ぎなかった。
 要するに、「目立ちたがり屋」なのである。強がりをしているだけなのである。

 この「強がり」は、社会的な地位や富みや名誉とは無関係な、精神的な強がりであり、他人に対し、目立つことを強調して、優越感を誇示する、ただのそれだけのことなのである。
 見栄を張って、「男らしく見せ掛けている」に過ぎないのである。「強がり」の精神なのである。裏を返せば、幼児的であり、こうした現実を、心ある大人が裏から見た場合、「強がりの阿呆らしさ」や、「無意味な空元気」と映るもので、被保護者的な立場から観察すれば、こうした時に「力んで見せる」必要もないのである。つまり、空元気は本当の勇気ではなく、非常に子供っぽいジャン娘から起こるものであると言う事が分かる。

 この手の「目立ちたがり屋」は、自分の懐が火の車の癖に、友人に金策をしてやる妙な意地や、気前良く自分の一大財産を寄付したり、弾丸の飛び交う中で詩吟や浪曲を唸ってみせる気持ちは、冷静に考えると、寔
(まこと)に幼児的で幼稚な感情なのである。
 そして、一見勇気ある行動と見間違ってしまう、これらの行動は、その実体が感情から起こるもので、冷徹な判断から起こったものでない為、もし、こうした行動に出た将校の愚行を、部下が勇気と勘違いした時には、その無謀な指揮官と倶
(とも)に、部下の命も危険に曝(さら)されるわけである。

 雨あられと弾丸の飛び交う中に、わざわざ一人歩きする将校は、他人の利得心を満足させるかも知れないが、これが感情から出た行動なので「見栄」や「目立ちたがり屋」の有害な点は、此処にあるのである。
 この将校にとって、感情から出た「見栄」や「目立ちたがり屋」の精神は、必要以上な「背伸びであり」また「強がり」なのである。一種の弱さを隠す為の、不自然な行動であり、こうした虚栄心は有害である事は言うまでもなかろう。



●死の概念を考える

 武士道では、死を思い、死に対して日常から「慣れ親しめ」と教える。「死に慣れ親しむ」ことは、人間の義務であるからだ。
 人間には誰も同じように、平等に死が訪れる。貧乏人でも金持ちでも死は平等であり、もし、最大の救いを求めるならば、誰もが、いつかは確実に死ぬと言う点において、「死だけは平等である」と得心するのである。死には、身分の上下も、家柄も、貧富の差なども一切ないのである。此処に、死の実体があると言えよう。

 逆にもし、この世で最も残忍な刑罰があるとすれば、それは「人間に不死」があると言うことだろう。人間が死なないことを「不死」という。来る日も、来る日も、歳を老いても死ねないのである。死ねない事こそ、残酷なものはないであろう。
 世の中の多くは、「死」を忌み嫌い、「生」に固執するようであるが、「生き続ける」ということこそ、残酷なことはあるまい。

死は恐れるものでもないし、憎むものでもない。人は、誰でも平等に死が襲って来る。生きるだけ生きて、死ぬ時が来たら、死ねばよい事である。死ぬ人間が、死を前に、何を迷うことがあろう。死に迷いが起これば、死生観を解決できないばかりか、臨終に失敗して、永遠の迷いの中に彷徨(さまよ)うことになる。

 死ぬべき時機が来ているのに、死ねないのである。苦しみながら、なおも生きなければならないのである。この「生」は、まさに拷問であろう。人間に不死を与えることこそ、まさに拷問なのだ。躰が病んでいて死ねない。躰の半分以上が蝕まれていて死ねない。これほどの拷問の中の拷問はないであろう。ただ死ねない出生きているだけではなく、腐れていく匂いにも耐え、苦痛にも耐えなければならないからである。
 人間の死は、つまり、生まれ変わる為の新たなリセットなのである。

 さて、人間の死について、「死の概念」を考えれば、人が死ぬと言う現象が誰でも自由に、好きなように考えればよいであろうが、それだけに、「死」という現象には筋道が通っていることが大事である。誰でも理不尽に殺されていいとは思わないからだ。

 その為に、「死」には筋道がなければならない。臨終の作法がなければならない。単に、肉体が死んで「動かない物になる」と言うのとは違うからである。人間の「生」にも筋道があるのならば、当然、人間の「死」にも筋道がなければならないのである。



●武士道の「武」の概念

 武士道の「武」は、「戈を止める」意味である。戈を止めることなしに、「武」はあり得ない。
 また「戈を止める」行動に厳守されるものは、「人間の抱く志」であろう。「志」は、単に暴力的な腕力に頼るものではなく、「道」に適
(かな)っていることが大事である。

 また、ここでいう「道」は、頼る道ではない。栄えていく道ではない。道を拠り所にして、栄えていこうと言う道ではない。「頼る道」や「栄えていく道」では、道が本当に生かすと言う事が分からなくなる。本当に「行
(ぎょう)じていく道」が分からなくなる。

 「道」とは、それと一生に繁昌していくものではなく、「道と一緒に死ぬ」という心境に至って、「道」と言うものの味が分かって来る。「道と一緒に滅びよう」とする時に、この「道」は生きて来るのである。輝きを増すのである。
 道と一緒に死ぬのだ。道と一緒に、倶
(とも)に滅びようとする時に、はじめて道は人を生き返らせる。こういう心境に至った時、心は清々しくなる。朗らかになる。恐いものがなくなる。何を恐れよう、何を動揺しようという気持ちが湧き起こって来る。

 「力ある生活」とは、この事をいうのである。本当の努力とは、此処が発信源である。真実の奮闘とは、「道と一緒に滅びよう」とする決意なのである。

 「死のうではないか、この旗の下
(もと)に!」となったとき、此処に来て、惰夫(だふ)も勇者となる。

 迷いは、死ぬ何かが見つからないから起こるものである。死ぬ何かが見つからないから、懐疑が起こるのである。不安や恐れは、死ぬ何かが見つからないから起こる現象である。これに襲われると、心に動揺が趨
(はし)り、不安が趨る。戦って戦って、「生き尽くす」のである。

 一旦「死のう」と決心したのであるから、これで死んでも後悔はないはずである。そして、一旦死のうと決心した時、不思議にも、そこでは死ぬどころか、却
(かえ)って自分自身を大幅に生かし切っているのである。

 武士道実践者ならば、死んでも、後悔のない生き方を模索すべきであろう。これこそが、「生」に固執せず、実に楽な生き方なのである。この生き方において、自分自身に偉大な行動がとれるのである。偉大なる行動は、「死のうではないか、この旗の下
(もと)に!」となったときに訪れるものなのである。

 ところが多くの現代人は、人生での生き方を模索する上で、「何によって生きようか」のみを探し捲っている。これは間違った人生模索である。損得ばかりを考えた生き方である。利己主義的であり、悪しき個人主義に偏った生き方である。しかたって、死に態
(ざま)が穢いばかりでなく、生きる過程の生き態までが穢くなるのである。
 人に、「穢い」とか「卑怯」とか言われるのは、生き態
(ざま)が穢いからである。

 また、「何によって生きようか」と考えている間は、その間は死んでいることになる。本当に生きた日は、一日もなかったのである。現代人の多くは、このように死んだ日々を無意味に過ごしているのである。



●自己をどれだけ偉大にしたか

 日々戦場の境地は、自らが「道」を全うすることによって、「生きる事」が、創造であるという事を教えてくれる。

 人が人生を生きて、それが成功であったか、失敗にあったか、それは本人が感得するものである。
 また本来は、「成功したか、失敗に終ったか」という、こうした事は、人生の最終目標ではなく、本人の主観
(subject)による、先験的な満足度が決定することである。したがって、客観的対象を構成する認識によって、自己同一的な基体(subjectum)を意味するのであるから、第三者がこれに口を挟むことではない。

 そこで人生の意義と価値とは、何かと謂
(い)う事になる。
 一般的に観
(み)て、裕福になり富豪として生涯を全(まっと)うした者は、世間的には一応、成功者と検(み)るであろうし、困窮の真っ只中にいて、失意のうちに死んで行った者は、失敗者の典型のように考え勝ちである。しかし、こうした「検方(みかた)」は正しくない。

 何故ならば、死の直前の臨終
(りんじゅう)の間際(まぎわ)を思い泛(うか)べてもらいたい。
 果たして、富豪が「安楽」であり、貧乏人が「辛苦
(しんく)」の極みだろうか。また、富豪が臨終に成功し、貧乏人が臨終に失敗したのであろうか。
 更に、貧乏人だけが辛い目にあって、苦しんでいく存在だったのだろうか。

 むしろ、富豪と呼ばれ、周囲から成功して、金持ちと謂
(い)われた人の死の方が、もっと辛いのではあるまいか。
 何故ならば、彼等は生きている間、「VIP
(very important person)」として君臨したからである。重要人物として注目を浴び、人も羨(うらや)む、特別待遇を受けた「権力利益集団」の一員であったからだ。この世に、自分一人の享楽の環境を開拓し、それを貪(むさぼ)ったからだ。こうした「VIP」の死は、惨じめであること請(う)け合いである。

 何故ならば、
「金持ち」であっても、「成功者」であっても、あるいは人民の上に君臨して強制力を持ち、権力者としてのさばった、いわゆる「VIP」と謂(い)われた「お偉方」ですら、死は免れないものであるまらだ。
 そして、自分が死で行く時の「死」が、庶民の底辺の「死」と、同じ事に気付き、「同じ事」に嘆きを生ずるからである。

 つまり、「金持ち」「成功者」「お偉方」という環境で長らく暮らした人と、底辺の、喰うや喰わずの生活を送って来た人と、「死」という環境下では、同じであり、これこそ「惨めな環境下」と言えるのではあるまいか。死は、いかなる人に対しても、「平等」に訪れるからである。

 「VIP」と称された御歴々
(おれきれき)は、今までの生き方の中で、彼等は、彼等の為に、人生を楽しく作り替えて来た。自分の都合のいいように作り替えて来た。
 例えば、彼等の都合のいいように作り替えたものに、「VIP」をひけらかせば、空港の税関を通るにもフリーパスであったし、庶民が入れない超高級会員制クラブのメンバーでもあったし、また、鶴の一声と言うものがあり、庶民とは較べものにならない程の
「暴君」であったと言える。その某君が、いま臨終を迎えようとする際、庶民と同じなのである。一寸一分も違わないのである。
 死に際し、自分だけがこの世の特権階級として、閻摩
(えんま)大王の前では、フリーパスでは通れないからである。

 生きている間は、彼等は「暴君」として振るまい、この世の人生とは、彼等の為にあったようなものだった。ところが、彼等は、臨終に臨み、庶民と同じ席上に坐らされる。この席は、庶民の苦しみを上回る「針の筵
(むしろ)」であるかも知れない。
 自分が手にした物質的なものを、「持たざる庶民」と同じように、わが命の最後は尽きるのである。

 庶民より、多く手にした物財。天文学的な数字の桁
(けた)の金銭。広くて高級感溢れるプール付きの大邸宅。日々、華やかに繰り広げられる、上層階級との舞踏会。数人あるいは数十人と及ぶ、性交奴隷の端女(はしため)の群。こうした物質的なこの世のものを、自分が死して後、地獄の底まで率き連れてはいけないのである。

 それを彼等は、「死」という時点を基点に、この世の総ての財産を、一瞬にして失うのである。彼等にとって、これほど不条理な世界はあるまい。失うものは多く、訪れる死の局面が、庶民と同じであっては、彼等も立つ瀬はあるまい。

 しかし、「VIP」と雖
(いえど)も、人間の「死」はみな同じである。生まれた時と、死ぬ時の瞬間は、上下の隔たりがなく、みな平等なのである。平等に「生」がやってきて、平等に「死」が訪れる。人の生死(しょうじ)は、みな同じなのである。

 だが、「VIP」の御歴々
(おれきれき)は、庶民と同じ、死を認めようとしない。彼等は、自分が「VIP」であることを誇らしく語り、自分は「特権階級」であることを最後まで主張する。死に直面しながらも、自分だけは、豪華な特別個室に身を横たえ、自分が庶民と違う事を強調する。
 貧乏人と違うところを最後まで主張し、その論を一歩も譲らない。最後の最後まで、庶民と同じであることに異を唱え、これを譲らず、闘って闘う。葛藤
(かっとう)に葛藤を繰り返し、最後まで格闘者を決め込む。自分が「VIP」であることの誇張は、最後まで譲らない。
 彼等の、「無能の一面」は、此処に存在する。

 つまり、彼等は、自分の死が庶民と同じであってはならず、「死」を人生の最終結果として、「謙虚に受諾する」という、人生最大のチャンスを失うことだ。

 人の上に君臨した、権力利益集団は、庶民と同じ死が訪れることに、拒絶
(きょぜつ)と憤懣(ふんまん)を投げ付ける。而(しか)して、尤(もっと)も絶望的で、孤独であるのは、こうした彼等のような、権力を貪(むさぼ)った特権階級ではなかったか。

 世の中が悪い、政治が悪い、権力者が悪い、金持ちが悪い、不平等だと彼等に憎悪を抱いた諸君!決して心配する事勿
(ことなか)れ。彼等も立派に、みなさんと同じ、地獄への直行便のキップを、生きながらに手にして居るのである。それは、あなたと行き先が同じ、地獄へのキップである。

 さて、人間の死後、名声や業績が残るとしても、時代が変われば、今日、羨望
(せんぼう)されている、スポーツ選手も、芸能人も、芸術家も、はたまた政治家も、財界人も、やがて弊履へいり/本来はや敗れた草履(ぞうり)であり、「弊履を棄つるが如し」と謂って、惜しげなく捨てて顧みないさまを謂う)の如き存在になる。

 今までの功績とか、成功とか、立身出世とか、富裕とかは、それのみを一心専念として追いかけ、それを手にしたのは、これまでの努力が実った結果であるが、あくまでもこの世だけの事であり、それが「永遠か」というと、実はそうではない。
 江戸中期頃、大富豪でならした紀伊国屋文左衛門
(きのくにやぶんざえもん)も、銭屋五兵衛(ぜにやごへい)も、死ぬ間際(まぎわ)は、庶民以上に惨めだった。彼等の晩年は、何処か虚(むな)しかった。

 こうした特権利益集団が、栄達を目指し、成功を目標にして生きて来た人生は、運良く財を築いたとしても、死ぬ間際は虚しくて、寂寥
(せきりょう)を痛感ぜざるを得ない。

 現代社会は、利己的であり、現世に生きる人間の生活ステージは、利己を主張し、使用すべき場所となっている。
 「道徳」という、成員相互間の行為の善悪を判断する人倫は、それを守る事の方が、自己の鋭利活動に繋
(つな)がり、有利である為に、その実体は家族・市民社会・国家であって、秩序関係を「決まり」として守り、社会全体的には、功利的な考え方が世の中全般を貫いている。つまり、適法性だけを順守している。

 哲学者カントの謂
(い)う、各々の人間の行為が、その動機の如何(いかん)を問わず、法則に合致するか否かを問題とする、外面的合法則性だけに着目している。これに既存する社会性に従順となることだけが、問題点となっている。つまり、法の順守であり、押し並べて、「従順」を強要する。

 その「従順」において、現代人の行為は、単に道徳法則に、外面的に一致するだけのポーズをとる。単に、表皮的な態度を保つということだけが課せられている。
 それが他人との協調を促す従順主義を齎した。昨今、流行
(はや)りの「国際協調」と謂(い)うのは、総てこポーズから生まれたのである。

 これは「協調」と称すれば聞こえはいいが、常に自己の鋭利・幸福の為に、幸福を、贅沢と快楽に置き換えて、物質的幸福を増す場合のみ、その価値観を認めるものである。これこそ、本来の自然的立場を、利己的立場に置き換えて、「人生を享楽」と捉えた考え方である。
 こうした考え方に定着すると、人間観から齎される選別は、富裕か、極貧かだけに分割され、その中の各々のランクにセットされて、人間評価されるのである。

 実際にこのように、評価、選別され、各々のランクに分類されると、やはり特権利益集団の属した、ひと握りのエリート階級は、庶民を前に、夜郎自大
(やろうじだい)となり、身分が違う、生まれが違う、頭脳が違うと、このような優越感から、ついに人間にランクを設けたがる。愚かにも「見下す」「侮蔑する」という、人間で最も愚かな、傲慢(ごうまん)に及ぶのである。
 しかし、この傲慢は、いかほどのこともない。

 死に直面すれば、その人の本当の真価が問われると謂
(い)うが、それは、貧富の差や、特権階級であるか否かの差に関係なく、平等に、同等に、同格に遣(や)って来るのである。慌てなければなら兄のは、むしろ彼等の方である。

 富豪である、特権階級であるとして、富豪や特権階級に、「阿弥陀二十五菩薩来迎図」のような、豪華な死が遣
(や)って来るわけではない。
 だから、「VIP」と雖
(いえど)も、「死」が平等であるだけに、返ってこうした「VIP」は、死が庶民以上に悲惨になる。それは「謙虚に死を受諾する」というチャンスに恵まれないからだ。かくして、特権利益集団であった彼等の「死」は、自らで穢(けが)され、汚される事になる。

 しかし庶民も、「VIP」と同じ、汚れた死であっては、自分自身でも納得いくまい。少なくとも、自分の死は、「VIP」以上に、清く、正しく、潔いものでありたいと願うは人情である。況
(ま)して、苦汁を嘗(な)め、下積みとして働き、額に汗して年から年中貧乏し、楽ことより辛かったことの方が多かった人生は、わが過去を振り返れば、決して、薄汚れた「VIP」と同じであってはならないと思うはずである。少なくとも、「VIP」の彼等より、一等も二等も高い「死」で、清々しい臨終を迎えたいと思うはずである。

 では、実際にそんな臨終があるのか。
 ある。武士道では、「道」に準ずる死に方こそ、美しいと説く。では、何故、道に準ずれば美しいのか。

 それは貧富の差に関係がないからである。貧富を超越しているからである。
 傷付き、敗れた一生であっても、それが理想に向かい、幸福に向かっていたら、それだけで偉大な生涯を送った事になる。自己を偉大にした事が、つまり幸福であり、そこには貧富の差は存在しないのである。

 今まで、「道」に生き、理想に燃え、しかしついに幸福は訪れなかった。傷付き、一敗地に塗
(まみ)れ、最後は力尽きて立ち上がる事は出来なかったが、それでも「幸福への道」を歩んだと謂う事は、実に幸せな事であった。

 自分の頭上に、勝利は輝かなかったけれど、勝利に向かって歩いたと言う事は、まさに立派な勝利であった。
 不断に、偉大なものに向けて、普遍永遠の理想に向けて、その「道」を志
(こころざ)し、その為に苦しみ、理想に向けて闘った事は、喩(たと)え、最後は成就しなかったとしても、それだけで偉大な志(こころさし)に向かって歩いた事になる。清々しく有意義であったと言える。衆人に捧げた人生は、潔く、涼(すず)やかである。最後は打ち負かされるかも知れないが、それでも人間としての道は全うしたことになる。人生の意義と価値は充分に達せられたことになる。

 一方、人生を快楽と捉え、官能と享楽に現
(うつつ)をぬかし、贅沢豪華を享受して、人生を戯画だとか、笑劇として生きた者と、志に向かって歩いた者とは、袂(たもと)を分け、一線を画するべきであろう。
 人生とは、敗北と自責の一生であっても、偉大に向かって、どれだけ苦しみ、闘ったかということが、人生の意義として評価されなければならない。そういう一生は、つまり栄光に充
(み)ちているのである。それは喩(たと)え、結末が悲劇で終っても、高い壮美な頌栄(しょうえい)となる。



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