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死に方が選べない時代 5

菩薩の慈悲が“届き難い世の中”が現代である。


●生命無限の仕組み

 臨終(りんじゅう)とは死に臨むことであり、「死にぎわ」「まつご」「いまわのきわ」等の言葉が用いられる。
 また臨終正念
(りんじゅう‐しょうねん)と云う言葉があり、死に臨んで、心が乱れず、往生を信じて疑わないこと、あるいは心の迷うが無いことを言う。邪念を起こさず、素直で、清い心を以て、かつての自分の家に帰る事を言うのである。

 おおよそ人生と言うのは、「死」ほどの重要なことはなく、「死」ほどの一大事はない。
 人類がその歴史の中で、識
(し)ると識らぬに関わらず、時代の古今に関わらず、洋の東西に関わらず、あるいは長幼を超えて、また性別を超えて、何人にも同等に課せられれているのが、「死」という命題である。
 そこからは何人たりとも逃れることが出来ず、何人たりとも命を延ばすことが許されず、何人たりとも果たさねばならぬ責任がある。そがれ「死」である。

 死に臨んで、まさに一度きりであり、我が人生において再び出会う事のない、然
(しか)も最も難しい、また最も容易(たやす)い一大事。それが「死」である。そして善(よ)きにせよ、悪しきにせよ、もう絶対にやり直しが効かない、更にはリハーサルすら出来ないのが「死」に臨んでの、生の終止符の行為である。

 この終止符の行為こそ、人間の大事な生きた証
(あかし)の要(かなめ)が存在し、これを無事に終えるか否かで、生命の総決算が最終的に決着をつけることができるのである。これこそ、まさに人の世の一大事なのである。

 人間最後の最高の欲望は、恐ろしいと想念する死から逃れて、生に縋
(すが)り付くことであろう。この最高の欲望こそ、生命欲の正体であり、その断絶が「死」であるから、死に対する悲痛な叫びや、その「死」と言う、忌々(いまいま)しい姿は、何とも人の眼に、恐ろし気(げ)に移るのであろう。
 こうした死を忌
(い)み嫌うことは、日本の神話時代にも屡々(しばしば)登場し、人間が死に対する最初の感情は「恐れ」であったのかも知れない。

 死が人生最後の悲痛な叫びであるとするならば、人はあらゆる努力をして死を超剋
(ちょうこく)し、死生観を乗り越えなければならい。そして死生観を超越したところに、死は、これが最後のものでないということが分かる。
 非実在界で起こる現象人間の“火と水の試煉
(しれん)”は、生まれ出て「火」を灯し、生・老・病・死の四期を経て、最終の“末期(まつご)の水”で、そのサイクルが終わる。「阿(あ)で生まれ、「吽(ん)で傷害を閉じるのである。まさに、人生の四期の、最期である。

 しかし、火と水の試煉
(しれん)を受けたその先に見えるものは、死は、実は生の終焉(しゅうえん)ではない。死した後も、意識は生き続け、生きていると言う形から、次は隠れた幽(ゆう)に向かって、不変な世界へと向かうのである。そして、そこで再び認識するのは、生命無限の仕組みを知って、再び生命の一滴(ひとしずく)に回帰すると言うことなのである。この循環を、何ゆえ科学的でないと言えるだろうか。この循環を否定する事こそ、非科学的な考え方ではないか。

 肉体は死して後、大自然に還元される。肉体は元の形を失い、土に帰り、水に戻り、いろいろな元素に還元されて宇宙に戻って行く。霊魂は肉の形が柵
(しがらみ)から解放されて、魂は元の場所へと戻り、霊は霊で「霊幽界」へと旅立つ。これは丁度、寄合で会合していた連中が、時間が来たので我が家へ戻って行く、この別れに似ている。
 しかし肉眼でしか見えない可視世界は、不可視世界の樣子まで見えないので、人の死は、無くなったかのように映るだけなのである。三次元科学では、知覚できないのである。

 生命と言う生きとし生けるものの、不思議なものほど他にはなかろう。それはどうすることも出来ない不思議な力で、考えれば考えるほど、偉大であり、玄妙
(げんみょう)であり、また荘厳(そうごん)ですらある。人間を含めて、生きとし生けるものの生命の不思議は、一体何処から来るのであろうか。

 植物の種一つ取っても、その小さな粒の中に、茎になる部分、葉になる部分、花になる部分は何処にも見当たならい。それなのに植物は季節を間違わずに芽を出し、茎を伸し、花を咲かせる。これは動物も、また人間も同じで、特に霊長類の長
(おさ)と言われる霊魂の不思議は、その生命、その心、その霊や魂が、一体何も無いところから出て来て、忽焉(こつえん)と生まれて来るのか、そこに生命の神秘を感得する事が出来る。

 人為ではどうすることも出来ない、この一つの不思議は、親の肉体を通じて、世の中に形をとって現れると言う、その生命の本体も、モトがなければならないと言うことである。だからこそ、そこに感じるのは、生命の不滅であり、私たちはこうした事実に、永遠の命を思うのである。

霊長類としての人間の持つ肉体・幽体・霊体・本体の四つが重なった人間の四重構造。

 生命は不滅であるから、必ず循環している。永遠と繰り返され、吐納(とのう)を繰り返し、波動を作り出しているのである。放射・吸引して、これは一時も止むことがないのである。
 しかし、人間が肉の形を解
(ほど)く時、本体に戻るから、ここで呼吸を止めるのである。こうした帰って行く現象を、「去(い)ぬる」と言う。
 また「去ぬる」は「往ぬる」とも書くので、「来る」を顕
(あら)わし、更に「帰る」を顕わす。
 そして「死ぬる」の「しぬる」は「し」であり、「し」は「ひ」であり、「ひ」は「霊」を顕わします。即ち、「しぬる」は、霊
(霊または魂)が元の場所に帰ることを顕わしているのである。



●死相は、「喜びか」「悲しみか」で決定される

 人が生まれる時は「喜び」である。であるなら、死ぬ時も「喜び」でなければならない。朝起きた時が「喜び」であるならば、また夜寝る時も「喜び」でなければならない。ここに「歓喜の循環」が働いている。
 金銭が入って来る時が「喜び」であったら、また金銭が出て行く時も「喜び」でなければならない。貯金が「喜び」ならば、また借金も「喜び」でなければならない。これによって相互が吊り合うからだ。
 入って来る時だけが「喜び」で、出て行く時が「悲しみ」と言うのは、自他離別の意識である。

 物事が循環する世界で、一方だけが「喜び」で、他方が「喜びでない」と言うのはあり得ない。総てが喜びであって、自他同一の意識は成立するのである。この意識は、「同一」と言う次元に置かれる事によって、再び循環する。

 流転
(るてん)し、循環する世界では、総(すべ)てが喜びであり、歓喜であると気付いたならば、総(すべ)ての悩みは解消され、苦しみは昇華しょうか/物事がさらに高次の状態へ一段と高められること)し、迷いは断たれる。生まれる時が喜びであれば、また死ぬ時も喜びなのである。
 しかし「歓喜の順環」を知らない人は、表皮の現象だけを捕らえて、これを現実に、狭義の論理の中に回帰させる。これをただ観念の世界で捕らえて、非実在界を思索の戲
(たわむ)れと見るのは余にも短見であると言えよう。

 「入って来た物は出す」というのが「歡喜の循環」である。入って来た物を出さずに溜め込んでしまえば、当然此処にはトラブルが発生する。病気をなども、このトラブルの元凶である。入った物を出さないで溜
(た)め込むから病気をになるのである。
 つまり、「捨てる」ということをしないから、身体に異常が生じるのである。この世の法則は、
「捨てる」という行為の中に、総ての幸せの秘訣が隠されている。「捨てる」ことこそ、まさに「歡喜の循環」を良好に保つ秘訣なのだ。

 人体を考えてみても、「捨てる」ということが如何に大事か容易に分かろう。
 何かが変化したり、何かが活動したりすると、
「エントロピーの法則」が働く。エントロピー(entropy)とは、熱平衡にある系のことで、準静的に加えられた熱量を、その系の絶対温度で割った値を「エントロピーの増加分」と定義されるものである。これは可逆変化ならエントロピーは一定であり、不可逆変化では必ず増大するという「熱力学第二法則」が適用されるのである。

 これを人体の構造で見るならば、不可僻的に汚染の量が増えると言う法則である。つまり現象界では、汚染を発生させないような活動はあり得ないと言う事である。そもそも「人間が生きている」という現象を検
(み)ただけでも、これは汚染の最たる物であると言う事が分かろう。

 この汚染の実体は、誰でも知っているように、工場で物を作ったり、車を走らせるという行為は、即、汚染に繋
(つな)がると言うことが分かろう。そればかりでなく、植物が生育するとか、動物が生まれて、それが育ち、死んで行くと言う行為の、生命活動においても、これは一種の汚染である事は明らかだ。
 生命活動には汚染がつきものなのである。その生命活動を通じて、これに比例するように無生物の活動が活発となり、喩えば、火山の噴火などによっても汚染は増大していく。
 つまり、生きとし生けるものが生きて活動をすると言う事は、「汚染の最たる物」という事ができるのである。

 この汚染の中には、「体内に老廃物が溜まる」という現象で明らかになる。これこそ大事な点であり、エントロピーは消滅しないという事実がある。つまり汚染は、以前にも況
(ま)して拡大されると言う事だ。これは増大する一方である。これが「エントロピーの法則」であり、無から有が生ずる現象である。
 しかし、「無から有が生じる」というこれは、一般の概念から離れているので分かり辛い面があり、これを簡単に要約すれば「何かが活動を生じさせれば、そこには汚染が生じる」ということなのである。そして否定できない事実は、一旦発生した汚染は消える事がないと言う事だ。

 では、消える事の無い汚染を一体どうすればよいのか。
 それは「捨てる」ことである。私たち人間が生きて活動すると言う事は、身体の中のエントロピーを増大させると言う事である。したがって、この汚染は捨てる以外にない。
 しかし、汚染をうまく捨てる事ができなければ、やがて身体中が汚染されて、死ぬ事になる。つまり、「生命体が生きていく」という行為の中には、「汚染を捨てる」という行為は含まれているのである。だから、現世とは「捨てる」という行為が、最大のキーワードなのである。
 捨てずに溜め込めば、そこに悲劇が生まれるのは当然であろう。金・物・色がこの中に含まれるのは、容易に察しがつこう。



●喜捨

 では、廃物をどういう方法で「捨てる」のか。
 その方法は二つある。一つは、物に付けて捨てる方法と、もう一つは熱に付けて捨てる方法である。
 喩
(たと)えば、老廃物は水に溶かして「尿」として捨てる。これは物に付けて捨てる方法である。あるいは汗をかいて、躰(からだ)を冷やす。つまり冷熱である。これは躰の中に溜まった老廃物を熱に付けて捨てる方法である。

 しかし、捨ててばかりではエネルギー不足が生じる。活動し、汚染を捨てるばかりでは、生命は生命活動を続けられないのである。したがって、外から食物をエネルギーとして補給し、エネルギーとなる資源を取り込まなければならないのである。このプロセスから、人体とは、その中を通り抜けるという、「資源から廃物への流れの構造」を見る事ができる。
 つまり、資源と言うのは、「取り入れる」と言うこと同時に、「捨てる」という行為をしなければ、人間は生きていくことができないようになっている。

 だから、喩えば、リサイクルと言う行為を見ても、再利用して廃物を出さないと言う物などあり得ないのである。喩えば生産工場一つを上げてみても、工場の中で、何かの活動をしたら、必ずエントロピーが発生する。もう、これ自体が汚染のである。このエントロピーは溜めておくことができないので、捨てるしか方法がない。
 喩えば、工場の場合、具体的には石油を燃やして、熱に付けて大気中に捨てるか、水に付けて海に捨てる以外方法がない。

 これは人体でも同じ事が言える。
 人体の中の老廃物は、喩えば老廃物を水に溶かして尿として捨てる時、それまでの老廃物を集めて来る働きをしている構造が、何かと言うと、それは血液の循環である。廃熱でも、血液の循環により集められ、皮膚や呼吸を通して捨てられている。つまり、捨てれば循環するのである。
 人体構造はその構造の中に、捨てる作用をする循環装置が至る所にあって、人体の中で発生した様々な汚染のエントロピーを集めて、「捨てている」という作業を絶えず繰り替えしているのである。したがって、「捨てる」という循環が止まった時、生命は死んでしまうのである。

 この循環を良好に保つ為には、「捨てる」という行為が欠かせないのである。物質界の実情は、「捨てる」という行為の中で、その循環が保たれるのである。

 人間の迷いは、物事の洞察力の短見さ、観察眼の近視眼的視野、思慮の浅はかさは、「捨てると言う行為を怠った時に起こる現象である。しかし、人間の持つ肉の眼は、形に捕われることが多いので、中々「捨てる」と言う行為が容易に行えないようだ。
 それはあたかも、波を打ち上げる岩壁を見ながら、そこに起こっている現象は、ただ波の作用だけと思ってしまいがちな思考とよく似ている。

 しかし、岩壁に波を打ち上げる作用には、決して眼に見る事が出来ない、風の力も加わっているのである。波が形を作るのではない。風が吹いて、波に変化を与えるのである。風がまた、波にうねりを与えるのである。眼に見える物だけに、誑
(たぶら)かされてはならない。その背後の見えない部分まで、鋭く観察しなければならないのである。一切は循環から起こる現象であるからだ。

 さて、人間が死ぬ時の臨終に際して、そのこにはいろいろな「形」が現れる。
 ガンや脳卒中
【註】脳の急激な血液循環障害による症状で、急に意識を失って倒れ、手足の随意運動が不能となる疾患。脳出血によることが最も多く、脳塞栓・脳膜出血等でも似た症状が起り総称して脳卒中という)で死ぬ場合は、その苦しみの余りに、両手を虚空に伸し、空中を掻(か)きむしるような仕種(しぐさ)をする。虚空(こくう)をかき、藻掻くのは、内臓の何処に閉塞不通の状態が現れているからであり、老廃物が捨てられないからだ。中枢神経系に異常が発生している場合に、こうした現象が起こる。こうした仕種(しぐさ)は、抗癌剤を投与された副作用で、後は死ぬだけと言う、末期ガンの患者に多く見られるようだ。

 脳卒中で昏睡状態
(こんすいじょうたい)で死んで行く人は、昏睡でありながら、突如眼を開くが、眼には力がなく、焦点が定まっていない仕種をする。眼を開けて、盛んに当たりを見る表情を作るが、こうした状態が激しくなると、臨終が近い事を顕わすことが多い。
 肉体的には、肉眼では何も見ていないのであるが、意識では善悪を判断する理性を持っており、これは眼を固く閉じて死んで行く「失神」
しっしん/理性と正気を失うことであり、「亡」を顯す)状態の人とは対照的である。

 また末期癌の人に多く見られるのは、声を出して泣いたり、涙をこぼしたりする。これは自身の臨終を悲しむ姿である。痛いから声を出して泣くのか、泣くからまた痛みが増すのか、とにかく臨終に際して「泣く」と言う行為は、断末魔の「横死を顕わす」もので、憑衣・憑霊が解かれぬままに死んで行く「死相」を顕わしている。

 憑衣・憑霊が解かれぬという事は、死して後もその想念意識が続くから、死後の憑衣・憑霊が解かれたと考えるのは短見であろう。
 こういした形で死んで行く人の多くは、紛
(まぎ)れもない「横死の相」であるから、この血縁家族である人は、死者と同じ病気を煩(わずら)って死んで行くことになる統計があるようだ。

 一般にガン家系は遺伝する等と言われるが、これは肉体的な遺伝子の中にある体質情報が遺伝するのではなく、同じ霊的波調を持つ、波調が非常に身内のガン死亡者の波動と似ている為に、親がガンで死ねば、また子も、孫も憑衣・憑霊されてガンで死ぬと言う事であり、憑衣・憑霊され易い波調が、ガン死亡者と非常に似ていると言う事に由来する。

 食べ物も、親が肉や乳製品が好きであれば、子も同じようなものが好きであり、孫もそれに準ずる食傾向を好む。ガンは食事の誤りから来るものであるし、腸によって造血された赤血球の異常が、憑衣・憑霊現象と重なってガンを作り出している。ガン細胞は、正常細胞の異常変質であるが、この変質こそ、憑衣・憑霊の最たるものである。

 また、脳卒中をはじめとして、腎不全
【註】腎臓の機能が低下した状態で、尿毒症を指し、腎臓の機能不全のため、尿として排出されるべき成分が血中に溜まることによって起る中毒症状)や心不全(心臓の機能が低下した状態で、心内膜炎・心筋炎・心臓弁膜症・心筋梗塞・心臓神経症・心嚢炎など)等で寝た切りになっている人は、大小便の垂れ流しで看護が大変だと言われる。臨終が始まる一週間前後から、その垂れ流し状態が酷くなり、これは急速に精気が外に漏れ出したことを意味する。

 こうした状態を「脱」
だつ/とりこぼす意)と言い、「外脱(がいだつ)とも言う。外脱は体内の精気が漏れる様であり、これは高齢者に限らず、若者でも、恐怖を味あうと、大小便を漏らす状態であり、これは横死のような状態を味合いながら死に直面すると、精液を漏らしてしまう。

 青酸カリで毒殺されたり、自殺した場合は殆どの男性が精液を漏らし、また首吊り自殺の場合は、馘
(くび)を吊った瞬間に男根の勃起が始まり、射精が起こる。こうした脱症状が「脱」というのである。
 また《脱》が「狂い死」の相でもあり、極度に狂えば「暴脱」といって、男性の場合は勃起不完全のまま、夥
(おびただ)しい精液を漏らす。

 また寝た切り患者の多くは、男性の場合、徐々に精液を漏らし始め、見る見る中
(うち)に痩せこけて、精気が失われ、眼すら見えない状態になる。

 糖尿病と血液のガンが重なった場合は、こうした状態が起こり、虚脱が繰り返されて、一週間前後の余命となる。この僅か一週間で、臨終を予期して覚悟をし、心静かに死んで行くことを悟らなければならないのであるが、多くの、こうした病態で死んで行く人の感情は、益々生にしがみつこうとして、「死の超剋」が出来ないまま、この世を去る人が少なくないようである。そして「死の超剋」が出来なかった人の多くは、悲しみのうちに死んで行く。

 また死に際して、眼を開かぬままに閉じた状態で死んで行く人がいる。つまり失神状態であり、こうした状態を「亡」ぼう/逃げることで亡者の意)と言う。
  肉眼でものを見ないばかりか、善悪も判断できずにいる状態で、「迷い、狂っている様」を顕わす。大小便を垂れ流し、両腕はだらしなく投げ出され、「神
(しん)が宿っていない態(まさ)が明白になる。こうした相を「脱神」と言う。

 悲しみの余りに「不貞
(ふて)腐れる相」であり、こうした人の意識には「絶望」が宿っていて、生前に霊界の仕組みを研究しなかった中途半端な無神論者は、殆どがこうした死に方をする。憑衣・憑霊のカモにされ、死した後も取り憑(つ)かれたままの不成仏霊となる。

 次に、悲しみの余りに顔を掌
(てのひら)で覆(おお)う人が居ますが、こうした人は、霊界の仕組を知らなかった為、死を直前にして、自分の周りに霊が見え始める作用が起こる。臨終真際の霊視状態が始まる。
 こうした霊視状態に陥って、何かが見え、何かが聞こえ、これを霊視や霊耳
(れいじ)なのか、また幻覚・幻聴なのか、これを判断できずの迷ってしまえば、恐ろしさの余りに、顔か頭を覆(おお)うとする。

 こうした人の多くは、精神分裂病とガン疾患をの両方を併病した人に多く、混乱して、狂い死する場合に見られる。手で顔や頭を覆
(おお)ったりする仕種(しぐさ)は、一種の拒否反応であり、見たくもないし、聴きたくもないと言う意思表示の現れである。意識の中は、悲しみで充満している。
 こうした表情をする人は、二重三重の憑衣・憑霊現象に悩まされ、死して後も、この想念現象から解き放たれる事はない。
 こうした家系は子供がいても、子供が成人した後、子供が婚期を逃し、家運を絶やす一族に多く見られるようだ。

 では、臨終に際し、なぜこうした仕種が顕われるのか。
 人生は人体構造を通して循環されるものであり、生命もその中の構造の一つであり、人体システムは社会システムと同じであるから、資源から廃物や廃熱の流れに淀みや停滞が起これば、そこには霊肉共に生涯が起こるのは当然の成り行きである。
 だから、金・物・色を「捨てる」という行為の中に、現世と言う仕組みがあり、その仕組みは、「捨てる事を喜びとする」システムなのである。



●極楽浄土と言う名の地獄

 人は、「死ぬ時の想念」を、そのまま引き継ぐ意識体が、つまり人の「霊魂本体」であり、ここに想念の実体がある。その儘(まま)の想念を持ち、その儘の意識を持って、それぞれは極楽に棲(す)み、あるいは地獄に棲む。

 これは人間の構造上の仕様による。
 人体を構成する要素は、生活現象を行う為の生物仕様を持ち、主としての成分は、炭素と水分から成り、したがって、「水冷式哺乳動物」の形体を構成している。
 水は酸素元素と水素元素の化合物であり、炭素も非金属元素の一つで、それぞれに原子核を構成している。そして、物質界の存在する最小物質で人体を述べれば、それは究極的には、素粒子が人体を構成していることになる。

 つまり現象人間界では、三次元構成としての物質を形成し、その物質の姿は、究極的には素粒子と言うことになる。
 現代物理学や、大脳神経心理学などは、現代の様々な学問分野において、欧米的な数々の問題を、全く違った文化の民族が作り上げてきた文化圏の人々の、かつての古典に回帰する動きを見せ始めている。その最たる傾向が、古代インドで発明された「ゼロの概念」であろう。

 そして、これまで欧米の科学では解決できないと考えられていた難問が、北半球の、より文化的な概念を作り上げた、中東や極東の思想に注目する自然科学が出現するようになった。
 その最たるものが、現代物理学の、ある時点から東洋の神秘主義に注目する傾向をとり始めたことだ。
 それは質量も位置もなく、エネルギーだけのある素粒子や、マイナスの質量といった、かつての十七世紀のニュートン物理学には見られなかった、不可解な概念を導入し始めたことだ。この意味で量子力学は、「ゼロの概念」を巧みに取り入れた理論といえよう。
 その結果、見えてきたのは、奇
(く)しくも東洋が掲げた、中国の古典物理学の「気」の宇宙概念だった。

 素粒子の世界を観測する量子力学では、素粒子以下の正体を突き止め、それがあまりにも細かい為に、「無い物を発見した」という、無に対する概念だった。これが素粒子以下の、更に細かで、光以上に高速運動をする、「無い物」の存在を窺
(うかが)わせるような暗示を与えている。

 それは動植物の自然界に見ることが出来る。
 例えば、植物が芽を吹き、成長して花を咲かせ、実を付ける。魚類や爬虫類や鳥類の動物が卵を生み、それが孵
(かえ)り、子が成長する。哺乳動物の牛や豚が子を産み、それが成獣となる。植物は植物なりに、動物は動物なりに、その姿を形成し、形質の秘めた遺伝子の働きによって、同じ種が、同じ子孫を残して行く。そして同質の形質以外は、そこから派生することはない。それは遺伝子が働いているからだ。

 遺伝子は、生物の個々の遺伝形質を発現させるモトである。このモトはデオキシリボ核酸
deoxyribonucleic acid/DNA)、そして、一部のウイルスでは、リボ核酸ribonucleic acid/RNA)の分子の領域を持つ。
 更に、一つの遺伝子の塩基配列が、一つの蛋白質やリボ核酸の一次構造を指令する。また、遺伝子産物や遺伝子間の相互作用が形質発現を調節する。遺伝子は生殖細胞を通じて、親から子へ伝えられる。

 更に核酸は、アデニン・グアニン・シトシン・チミン
(またはウラシル)の4種の含窒素塩基・糖・燐酸(りんさん)が、規則的に結合した高分子の有機化合物である。
 更に、糖がデオキシリボースか、リボースかによって、それぞれ、デオキシリボ核酸
(DNA)とリボ核酸(RNA)に二大別される。細胞やウイルスの遺伝物質として、生命現象に重要な役割をする。
 この為、人間には人間の子供しか生まれない。猿には猿の子供しか生まれない。生命伝達情報の鍵は、総て遺伝子が握っている。そして、遺伝子も一つの物質であるから、究極的には原子であり、電子であり、その最小物質は、やはり「素粒子」と言うことになる。

 素粒子
(elementary particle)は、物質の構造を分子・原子・原子核と、分けて階層的に観たとき、原子核の次にくる粒子である。そして、素粒子間の相互作用を媒介する粒子が「ゲージ粒子」である。
 ゲージ粒子は、光子・ウィーク‐ボソン・グルオンなどで、それぞれ電磁相互作用、弱い相互作用、強い相互作用を媒介する粒子である。つまり、物資界宇宙は、総
(すべ)てエネルギーにより構成されている。

 水にしても、酸素元素と水素元素の化合物である。これ等にはそれぞれ、中心には原子核を持ち、その周りに電子が飛び交っている。則
(すなわ)ち、エネルギーから構成され、エネルギーは「力」の要素である。水の一滴にもエネルギーが存在し、それはまた同時に、力でもあり、これと同様、その他の物質にも、また、人間の血液や髪の毛の一本に至るまで、総(すべ)てがエネルギーの塊(かたまり)である。

 したがって、人間の躰
(からだ)も、エネルギーより構成されている。人間の遺伝子さえも物質であり、その物質はそれぞれの力を有している。そしてエネルギーが働く、最小物質が物質界では素粒子と言うことになる。
 だが、科学や現代医学で確認される最小物質は、素粒子までである。物理学では素粒子を更に探究し、究極的には「何もないものを発見した」と言う仮説が出来上がっているが、「何もない」というのは、単に「無」を指すのではない。

 その先に、更に物質界では測定不可能な、計れない、「奥の奥の世界」があると言うことを「発見した」と言っているのである。恐らく物質界で、現在のところ突き詰められるのは、最小物質が素粒子であろう。

 しかし、霊的世界を覗
(のぞ)くと、その奥の奥の世界がある。この世界こそ、精神の世界、心の世界、霊界の世界、神の世界と言うことになる。つまり、素粒子以上に小さな小さな物質で構成されたものが、霊的世界には存在するのである。この世界こそ、「霊魂の世界」なのである。また、死後の世界も、此処に複雑な階層となって、入り組んで存在している。

 人間は、生命力の「火」が消えると同時に、肉体と言う物質を消滅させ、次には意識体としての「霊体生活」が始まる。霊体として、霊界の住人になるのである。生前、「食の化身」である人体が、食肉や乳製品の常食により、動蛋白ばかりを摂取して、波調の粗い食べ物ばかりを食べた人は、霊体を構成する霊的波調が粗
(あら)い為、粗い階層の、霊界最階位の幽界または霊幽界の住民となる。

 一方、食に化身である人体が、主に植物性の霊的波調が肌理
(きめ)の細かい食品を摂取した人は、その波調が細やかである為、肌理(きめ)の細かい霊界上位階層の住民となる。
 霊体の構成要素が、どんどん小さく、肌理が細やかになって行けば、霊体はそれだけ波調的には浄化されて、霊界の最上位へと昇り始める。これが霊的な進化である。



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