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死に方が選べない時代 3

咽喉の渇きは、生命の焦げる火を消す、“末期(まつご)の水”を連想させる。


●霊的神性が失われた現代社会

 日本人は太平洋戦争敗北以前には、それぞれが神仏を敬(うやま)う心を持っていた。神仏に低頭し、それを恭(うやうや)しく畏(おそ)れていた。
 ところが、あの敗戦から60余年ほど経った今日、神仏を敬う精神生活をしている人は殆どいなくなり、それに代わって、神仏などは絶対に存在しないという、唯物史観で自然科学を見る傾向が、社会全体を覆(おお)うようになった。
 しかし、唯物論的な考え方は、果たして正しいだろうか。

  眼に見える世界、手に触れる事の出来る世界を「物質界」という。また、こうした世界を「可視世界」という。
 だが、地球上に存在する世界は「現象界」である為、相対的な変化が起り、それに対極する「二大対極」の一方に、何か別の存在する媒体が無ければならない。変化して止まないのが現象界であるから、変化する媒体は、相反する相対的なものが存在しなければならない。
 したがって、可視世界が存在するのならば、これに相対する「不可視世界」も存在していなければならない。現象界が、一方だけしか存在しないというのでは、片手落ちであろう。また、宇宙法則にも反している。

 かつての日本人は、この不可視世界の霊性をよく知っていた。日常生活の中に、眼に見えない世界があることを、ごく自然に理解し、霊的世界のことを認めていた。神と共に歩く生活をしていた。特に神道に対する畏敬の念は深かった。
 ところが、今日の日本人のこうした霊的神性は、太平洋戦争敗北とともに打ち崩され、それ以降、欧米的な考えに染まり、横文字文化に慣れ親しんできた。
 これが「物質への誘惑」であった。そしてその後、日本人は、「黄金の奴隷」に成り下がる道を選択することになる。

 太平洋戦争敗北は、同時に日本の精神文化の敗北にも繋
(つな)がった。太平洋戦争のもう一つのアメリカ側の戦争目的は、「日本の文化破壊」であった。
 日本に進駐してきた欧米を核とする国際連合軍
(UN)は、精神破壊工作として、日本人が長年培っていた精神生活を崩しにかかった。そこで日本人に培養したのが、「民主主義」という社会システムだった。
 民主主義の理念である、自由・平等・博愛の精神は、人間の人権という、個人の守るべき道理を教えたが、一方で民主主義信仰という一種の宗教を植え付け、これを日本人の脳裏に悉
(ことごと)く培養した。

 昨今の「人権、人権」と、ヒステリックに叫ばれる元凶が、ここに由来する。
 この民主主義信仰の要旨は、眼に見えない神仏を崇
(あが)めるよりは、実際に眼に見える「生きた人間を崇めよ」ということだった。
 では、一体誰を崇めるのか。

 それは、群れを率いる「リーダを崇めよ」という、一種の選民意識から端を発した信仰である。個人の人権は、群れを率いる欧米風の思考によって、初めてその機能を発揮する。眼に見えない神仏や、心というものを信仰するのでなく、個人の自由、個人の人権、個人の平等を信仰せよということなのである。
 こうして日本人は、欧米の唯物策略に嵌
(はま)り、心を大事にする世界から、金や物を崇める世界へと誘導された。

 そして、「民主主義は何だったのか」と反芻
(はんすう)すれば、この信仰は、心という精神世界を一蹴して、人間の肉体と、自分の所有する物財の所有量で差別化する「自分中心」の世界へと導いただけだった。昨今の悪しき個人主義は、ここに由来する。
 しかし、こうして物質世界の真っ只中に放り出された日本人は、資本主義とドッキングした民主主義の中で、「自分中心」という悪しき個人主義に趨
(はし)り、あくなきエゴイズムを謳歌(おうか)している。そして、多くの物を所有し、多くの金を所有する人が一番偉いという考え方が生まれた。

 その一方で、神を信じず、仏を信じず、不可視世界を信じず、ひたすら自己中心主義に趨
(はし)り、可視世界の物質だけしか信じない人が、やがて歳をとり、死に直面したら、一体どうなるだろうか。
 人間は、生まれた以上、一度は死ななければならない。死こそ、万人に平等であり、人権以上に、この平等は徹底されている。人が平等なのは、民主主義のいう論理が平等ではない。死において、人は平等なのである。
 この平等は奇妙な現象を作る。これまで自分は、世の中で一番偉いという考え方で汚染されていた権力者や大富豪は、自分の死に直面して戸惑いを感じる。

 しかし、死に直面して戸惑いを感じるのは、何も金持ちばかりっではない。物質界で肉体的に恩恵を預かった者、総てが、戸惑いを感じる筈である。理財の才があって金銭を蓄えた者ばかりでなく、肉体的な才能や素質に恵まれたスポーツ選手、力士やレスラーなどの格闘選手、顔や声を売り物にしてきた映画俳優や歌手、その他の芸能人も、自分がしに直面すれば、当然そこには戸惑いが起る。物質界の恩恵に預かってきた者は、自分が幾ら有名人であるからといって、死からは決して逃れることは出来ない。

 大金持ちであっても、政府要人のVIPのお偉方でも、逃れられない死に直面した環境下では、最も惨めな人種と成り下がる。彼等は、彼等自身の為に、これまで豪華な生活を約束してくれた多くの物質的な財産を、自ら失うことになるからである。
 その時点で、人間は「最後は皆同じ」ということを気付かされるからである。彼等は自分の死に直面したとき、それを素直に認めようとしない。彼等は最終段階まで徹底的に、金に物を言わせて闘う。豪華ホテル並みの特別個室に横たえようとするのも、そうした現れであろう。

 しかしそれは、そしうした事が、屡々
(しばしば)最終的に、彼等自身が決着をつけねばならない死生観の解決のチャンスをも失わせる結末を招く。拒絶と怒りを露(あらわ)にする。皮肉なことに、死に直面して、死の瞬間に最も孤独な絶望を味わうのは彼等なのだ。

 死の平等において、「人が死ぬ」ということは、逆転できない事実であるが、問題は「人の死」よりも、死ぬ時機
(とき)の「よりよき死に方」である。金・物・色に奔走する現代人は、一体どのような死に方を考えているのだろうか。
 そして、人の死は大きく分ければ、自然死と事故死であり、事故死こそ、古来より言われてきた「横死」ではなかったか。



●死にざまに現れる凶相と死相

 死相は確実に顔に現れる。そして、死相の現れる特徴は、「正中線上」に現れることだ。
 正中線上に現れた人は、臨終に臨み断末魔を経験する。
 人間の正中線上には任脈
(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)と言う二つの経絡が趨(はし)っており、両方とも「会陰(えいん)を起始とする。

 任脈は会陰から始まり「神闕
(しんけつ)を経由して、更に上に昇り、24番目の経穴「少漿(しょうしょう)で終わる。また督脈は会陰から始まり、「命門(めいもん)を経由し、更に昇って「唖門(あもん)」に至り、後頭部の正中線を通って「百会(ひゃくえ)、更には「印堂(いんどう)、そして「齦交(ぎんこう)で終る。

 顔面の正中線上には、任脈として「神庭
(しんてい)、「印堂」、「素(そりょう)、「水溝(すいこう)、「兌端(だたん)、「齦交」があり、督脈には、「少漿」がある。

 また観相学的に観
(み)れば、天中天庭宮/髪の生え際から上を見上げた時にできる皺まで)、官禄(職務宮、額のど真ん中で、吉凶が出る)、印堂太陽宮/眉間の事で、一身の運気が集まるところ。更にここからは気力と活力の精気が出る)、山根自身宮/目と目の窪んだところで品性と知性が出る)、年寿活力宮と寿命宮/鼻の尾根で、闘志と病状が現れる)、準頭物心宮/鼻の先で金に対する力と生命力が出る)、人中人中宮/口の鼻の間にある縦の溝。寿命や健康状態が現れ、女性の場合は女性器の状態や子供運が現れる)、口飲食宮/情欲と哺乳動物的愛情)、承漿地力宮/口の下で、病気や薬当たりが出る)、地閣地力宮/顎で、子孫や愛情や志が出る。また晩年運が克明に出る処)を現す。

顔に顕われる凶相と死相。死相は正中線上の任脈と督脈の周囲に顕(あら)われる。また、人間の貌(かお)には、疾病するべき箇所の小さな人形が張り付いている。
(曽川和翁哲学博士の『立体人相学』より)

 死相は観相学的に観(み)ても、この正中線上にはっきりと現れ、喩(たと)えば、額に現れ易いのは縦の黒筋であり、これは間もなく死ぬ死相である。次に、死霊(しりょう)に苦しめられている人に人相は、眉間(みけん)に縦皺(たけじわ)が一本入り、特に、憑衣・憑霊されている人は、ここに皺(しわ)が入り、胆石やリュウマチ、胃痙攣(い‐けいれん)や精神障害であり、何らかの身体的精神的苦痛を抱えている人である。こうした人は、皺または深い溝が出来る。
 また、呪われている人は、眉間に縦皺が2本入る。これもまた、死霊のせいであり、死霊は督脈上に対し、これが現れる。

 こうした死霊の憑衣に対し、生霊
(いきりょう)の場合は《足之太陽膀胱経(あし‐の‐たいよう‐ぼうこう‐けい)の左右の線上に現れる。特に「晴明(せいめい)と「攅竹(さんちく)には克明に現れる。こうした形で死相が現れる人は、この部分の両方が、既に黒ずんでおり、生霊(いきりょう)の呪いが効いている事を現す。またこうした人は、精神分裂病の人に多く見られ、癲癇(かんしゃく)並びにその他の発狂等は、この《足之太陽膀胱経》の病気だと言えよう。

 これは前生
(過去生)の色情の因縁に絡むと言われている。
 この印堂横の、左右の線上に現れる短い縦皺
(たてじわ)2本は、前生に色情の因縁で狂った人であり、現世に至ってもこうした因縁を持ち越し、これに狂う。十代半ばで、性交渉のあった女子は、色情因縁から起こるもので、更に、成人しても不倫を働く女性は、過去から持ち越された色情を、今もなお、続けていると言う事になる。

 こうした色情因縁を持っている未婚の女性は、男を誘ったり、男に付け入られる合図を自ら示しているが、こういう色情因縁を背負った女性が既婚の場合、夫を横死させる「凶相」を背負っている事になる。また、こうした女性は、未婚や既婚に関わらず、男側を横死に導く。

 一般に横死と言えば、事故死等を指すが、色情因縁に絡む女性と接触した場合、殺人
(複数殺人)等を働き、「刑罰によって横死する」と言う凶相を持つ。つまり処刑死である。これも憑衣としての霊障の顕われであり、此処に現代人の多くが「憑衣されている」と言う現実がある。恋愛などには霊的現象が絡む場合が少なくない。あるいは、だから恋愛に趨(はし)るとも言えよう。異性や同性を引き寄せる現象は、憑衣・憑霊から起こるものであるからだ。

 これを考えれば、犯罪は、偶発的に起こるものではない。前生からの因縁を持ち越して、現世に現れるものであり、この派生の過程には、何一つ偶然や、自然発生的なものは一切存在しない。予定は、既に過去から予定されているものであり、これを人間は現象人間として、現世に具現しているに過ぎない。此処に因縁の必然性がある。




●死にざまに現れる刑と罰の死相

 刑罰の裏側には、同じ人間でありながら、一方が一方を言語に絶する残忍な方法で断罪し、一方は、逆にその残忍な刑罰に対し、断末魔(だんまつま)の叫びを上げて、地獄を見ながら筆舌に尽くし難い苦しみを味合いながら死んでいく。この事実から、人が人を裁くと言う恐ろしさを、身を以て感じ、一体「刑罰」とは何だろうか、と言う疑惑が浮かび上がって来る。

 一般には、処罰させられるからには、何らかの罪科があると考える。では、その処罰の対象になる罪科とは何なのであろうか。それは果たして、罪を罰すると言う事なのであろうか。
 人間の死に態
(ざま)には、あらゆるものが絡んで来る。その絡んで来るものとは、一体何なのであろうか。
 生命は「尊い」と言う。その尊い生命までを犯し、残虐し、罪科に課せる言う思想は、一体、人類の何処から起こって来るのであろうか。
 源泉を辿れば、疑問は果てしなく浮き上がって来る。

 人類の死に対する「残酷」に焦点を当てる時、どうしても「死に態」に最も関わり合いのあるのは、罪科を定める、その根底に流れる思想である。
 そして、再び浮上して来るのが、刑罰とは、犯罪に対する報復手段であるのか、ということである。

 現在では、刑罰は犯罪者を日常生活の社会から隔離する事によって社会秩序を維持し、同時に犯罪者を再生させる事を理想に掲げ、社会に再復帰させる事を目的にしている。
 したがって、前近代的な虐待
(ぎゃくたい)や拷問(ごうもん)は姿を消し、懲役、禁固、罰金等が刑罰の中心となっている。しかし、犯罪者の生命を断つ刑罰は、未(いま)だに世界各国で存在している。

 それに懲役、禁固、罰金にしても、内容は苦痛そのものであり、刑罰の本質は、依然として罪に対する応報と言う、江戸時代に科
(か)せられた処罰の域から全く抜けだせていないのである。人間の倫理意識と、哲学や思想は相変わらず旧態依然のままである。



●臨終と死相

 人の死に態(ざま)の刹那(せつな)には、様々な形が顕(あら)われる。そして死に態は、その人の生き態に大きな影響を与える。それは即、死に態が、生きざまに連動された《予定説》であるからである。
 予定説は、原因があって結果が派生するものではない。結果があって、原因が生まれるのである。この考え方は、「因果応報の原因が結果を生む」と言う因果律的な思考とは逆で、大きく異なっているので注意して頂きたい。

 十七世紀後半、ヨーロッパにおいて金融経済が勃興
(ぼっこう)すると、その人々の欲求はこれまでとは異なり、外へ外へと拡散・膨張続けた。この拡散・膨張のエネルギーが資本主義を始動させ、消費を繰り返すシステムが生まれたのである。

右回りの西洋思想は、欲望の現れである拡散と膨張を繰り返す資本主義の、卍(まんじ)と同起源である右鉤十字のハーケン・クロイツ(Hakenkreuz)。右回りの思想は、かつては1919年以来のナチ党のシンボルに使われた神秘主義の右鉤十字だった。

 この拡散・膨張のエネルギーは、明らかに《右回りの法則》から構築されたものであり、またこれはマックス・ウェーバーMax Weber/イツの社会学者・経済学者)が唱えたように、このシステムの中には『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の、思想があり、これはキリスト教の予定説で貫かれたものであった。

 《予定説》では、悪人は、善人が汚れて悪人にはったのではないと説く。悪
(あ)しきを働くから、神は救済を予定しないのだと説く。したがって、神が予定しない人であるから、その人は悪しきを働くとするのである。善行あるいは悪行と、救済と不救済が逆の関係にっているので注意を要する。

 《予定説》とは、「逆因果律
(ぎゃく‐いんがりつ)」なのである。そして神の予定は、必ず予定されると言うのが、《予定説》の一番重要なところである。

 また《予定説》は「想念」が作り上げるものであるから、その予定は、必ず心像化現象として現世に具現されてしまうのである。これが、死に態が生き態にも影響している所以(ゆえん)である。
 《予定説》で行けば、死に態が予定されているから、生き態に反映され、生き態の反映はそのまま、善悪の行動として顕
(あら)われる、という「逆因果律」を導き出す。

 現世と言う非実在界には、現象人間と言う行為が起こるから、様々な災いがあり、盗賊難、疾病、下剋上や革命、殺人や傷害、不倫や家庭不和等の不幸現象が次々に起こり、こうした不幸現象が不調和を起こしながら国運に関わり、企業の盛衰に関わり、個人の運・不運に関わっている。

 さて、人の死に態における「臨終
(りんじゅう)」とは、人が、まさに死なんとする時機(とき)、その人の総決算とも言うべき形が、一挙に顕われ、これまでの生き態の善悪の清算が問われる。そしてこの総決算こそ、「ゼロ」の世界であり、「空」に回帰する来世の第一歩となる。
 臨終に際して顕われる「相」は、その人の生き態の正・邪を顕わす審判であり、それは臨終の「相」によって判断する事が出来る。唯物論者達は、死に際して「死相」など無いと断定しているが、死に態の大事を教える臨終は、各々の刹那の瞬間に宿ってしまう。

 「眼は口ほどにものを言う」という諺
(ことわざ)がある。
 これは情を込めた目付きは、口で話す以上に強く相手の心を捉え、抉
(えぐ)るからである。死の刹那(せつな)に、「眼に神(しん)が宿る」からである。
 死に態は、生き態に影響しているから、刹那の瞬間に眼に神が宿っていれば、それが即ち死に態であり、生き態もまた、そうした精気
(生命力や活力)によって表現される。

 精気が宿っていれば、眼にはやはり神が宿り、衰えると神
(しん)は居なくなる。神が居なくなれば、物事の善し悪しは判断出来ないから、こうした神の居なくなる人の臨終は、呼べど叫べど、眼が答えなくなってしまい、やはて三白眼さんぱくがん/黒目が上方にかたよって左右と下部の三方に白目のあるもの)の悪相へと移行する。こうした意味からも、やはり死相はあるのである。



●教条主義は死相を招く

 臨終に際して、心得るべき事は「教条主義は死相を招く」ということである。
 教条主義は特定の宗教や宗派に属し、自分達の宗教や宗派以外は頑迷に認めようとせず、他に属する人達を邪教扱いする考え方である。特に、こうした考えは折伏
(しゃくぶく)等で理論武装した新興宗教に多く見る事が出来る。

 こうした教条主義に陥っている人の多くは、死して後、それほど宗教に熱心でなかった人や、清貧を甘んじて受け、慎ましやかに静かな信仰生活を送って来た人より、本来の人間の姿に戻り、素直な魂に還元していく事が遅れる。歪
(ゆが)んだ宗教の理論武装の暗示に幾重にも掛けられている為、その固定観念を中々捨てる事が出来ないからである。此処に理論武装した宗教の固定観念の恐ろしさがある。「こうでなければならない」思考に凝り固まっているからである。

 また、新興宗教における「信仰熱心」と言われる人達は、人間界での修行より、教団に入り浸りの時間の方が長く、人生経験に欠け、常識に欠け、人間としてのトレーニングが不充分でしたから、前頭葉の発達が、他の人より未成熟で、死して後、最初の段階である霊幽界
【註】ここを「精霊界」と言う人もいるが)に至った時、霊界構造のシステムが中々理解する事が出来ない。

 本来ならば、新興宗教の教義によって霊界システムを学んだ筈なので、一番先に霊幽界から霊界へとスムーズに旅立てる筈なのであるが、これは出来ずに、顕界
(げんかい)等の悪想念に邪魔されて、地縛霊等になってこの場に留まり、不成仏霊になっている事も少なくないようだ。
 そして、むしろ宗教に入れ揚げた人ほど、逆の結果を招き、成仏できないでいるのである。

 つまり、特定の宗教に与
(くみ)すれば、その教団の教義に、自らの霊的神性が曇らされて固定観念と言う殻を作り、その為に波調の格を下げてしまうのである。そうなると低級な外圧等としか交流できなくなる為である。接するものは低級なものばかりで、その波調も粗(あら)いからである。低級で、波調が粗いとなれば、その結末は言わずと知れた事であろう。したがって、臨終を失敗してしまうのである。この失敗が、既に「死相として現れる」のである。

 所謂、唯物論者達が言うように、「死相はない」のでなく、「死相があるが三次元の肉の眼では感得できない」だけなのである。




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