運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
士魂商才 1
士魂商才 2
士魂商才 3
士魂商才 4
士魂商才 5
士魂商才 6
士魂商才 7
士魂商才 8
士魂商才 9
士魂商才 10
士魂商才 11
士魂商才 12
home > 士魂商才 > 士魂商才 3
士魂商才 3

久隅守景筆/夕顔棚納涼図


●人格力

 人間、一人の力では高が知れている。自分一人だけの力で、幾らジタバタしても、自分の始末すらつけきらないと言うのが実情である。
 その自分独りというものを抜きにして、自分以外の力というものに眼を向ければ、それは肉の眼で確認できない力であり、その力が世の中を、社会を、自分の周囲を動かしていることが分る。眼に見えない大きな力が存在しているのである。その存在の中に、実は金銭と言うものも生きて、蠢
(うごめ)いている。自分の意志以外で動いているものは総て、巨大な力で動かされているのであって、この力を知るには智慧と勇気がいる。怖じけては近付くことすら出来ない。圧倒されては、永遠に解らず仕舞いである。
 これを知るには、おろらく《信仰》というものが必要だろう。
 物事に対して畏怖と親和の気持ちが要
(い)ろう。心を落ち着かせるものである。したがって、自惚れの塊であっては、やがて思い上がって足許を掬(すく)われる。自信過剰も禁物である。手痛い“しっぺ返し”を受けるのである。

 例えば“行け行けムード”で暴走した者は必ずその“しっぺ返し”を受けている。土俵際まで追い込んでも、必ず“うっちゃり”を喰っている。こういうのは歴史を検
(み)ればゴマンとある。剣侠さと慎重さが足りない場合、必ずそうなる。
 それには「祈り」がいる。願うのではなく、ひたすら祈るのである。強請るでもなし、招くのでもなし、況
(ま)して呼びつけるのでもない。ただ祈念するのである。祈りに祈り、お任せするのである。
 日本は大東亜戦争に負けて人間として尤も尊い「謙虚の心」を失った。自分を後回しにして、他人に「譲る」と言う心を失った。
 民主主義と言う名の下に、自由と平等が蔓延
(はびこ)ったのは仕方ないけれど、その反動として“浮薄な自分”をのさばらせてしまった。他人より、自分が先に行き、いいものをみな独占するという我田引水である。自分の方ばかりに引き寄せる。

 われ先にでは馬脚が顕われよう。
 “われ先”に奔走する輩
(やから)は『荀子』に逆らう現象を起こすので、かの言に反目する。
 則ち、「窮して困窮が襲い、憂えて悩まされ、禍福始終をして惑わされる」のである。恐ろしいことだ。
 むしろこういう場合は、まず謙虚になり、自分一人に力を過信せず、頭
(こうべ)を垂れて、理に従うべきであろう。
 『荀子』の教えには、学問は人間を変えると説かれている。他人の受け売り学問でなく、人間が人間を変えるような迫力のある学問でなければならない。そして、ここで言う「人間」とは自分自身のことなのである。他人を持って来ることは出来ない。自分自身が変わる以外ない。「変わる」とは、「自分に気付く」ことなのである。これに言及すれば、他人を変えようと思ったら、まず自分を変えるべきである。ここに「変わる」の大事がある。
 『荀子』は「困窮」をどう捉えるかを説いてる。
 「窮して困
(くる)しまず、憂えて意衰(い‐おとろ)えず、禍福終始をして迷わぬ心術を養う」と。
 更に続ける。
 これが出来ると、かの陽明学者の大塩中斎
(おおしお‐ちゅうさい)がいうように「英傑、大事に当りては固(もと)より禍福生死を忘る。而(しか)して事適々(こと‐たまたま)成れば則(すなわ)ち亦(また)(あるい)は禍福生死に惑う。学問精熟の君子に至っては則ち一(いつ)なり」ということになる。これは人間学を説いたものである。

 イギリスの歴史家で政治家だったギボン
(Edward Gibbon)は、その著書『ローマ帝国衰亡史』の中で次のように危険な兆候が顕われることを警告している。

 かつて文明の中心世界であったアテネ人は、だんだん、わがままになり、いい気になって、自由を欲する以上に保証を欲するようになった。彼らは、いやが上にも快適な生活を欲して、あげくのはてに、その一切を喪失した。
 保証も、快適も、自由も……。
 アテネ人が自ら社会に寄与することを欲せずして、しかも自ら、その社会より寄与されんことを欲し、そして、彼らが、最も欲した自由が自己の責任よりの自由であったとき、ついにアテネは自由を失い、再び、自由を得られなくなってしまった。
 

 これは同じようなことが昨今にも見て取れる。企業のエゴイズムに対峙
(たいじ)する民主主義の自由と平等の名の下に身勝手な大衆の要求であり、双方とも人間は自己の小さな自我から解脱(げだつ)することが如何に難しいか、ギボンの言が如実に物語っている。

 人は一人では何も出来ない。
 しかし徒党を組んだ時に、思わぬアクシデントが生じるようだ。要求ばかりを通し、それに熱狂して狂えば御破算になることが多い。生き物は毀れるからだ。
 人間は一人の力では何もすることが出来ない。自分の身を始末することも出来ない。
 況
(ま)して事業ともなれば、尚さら一人では難しい。人の協力がいる。一人の人間が他社の協力を得て、はじめて「人」になることが出来る。そして例えば事業では、それが成功するか否かは、他人の協力が得られるか否かであり、その場合は、その人の鋭さでなく「人格力」である。



●頼りになるのは何か

 世間には、金を欲しがる人がいる。金さえあれば、幸福だと信じる人がいる。金を得て、富者になるのが人生の目的であるかのように考える人がいる。
 もしそれならば、一生懸命に働いて、働き詰めの一生を送って、金持ちになれなかったらその人の人生は無意味だと云う事になる。
 その人生の中で、働き詰めの一生は、あくせく働くことであり、生涯を貧乏暮しで送るのである。金持ちになり、資産家になるのが人生の目的ならば、金の為に働く人は、その多くが目的を達成出来ないのだから、目的を達成出来ない人生ほど無意味なものはない。

 そして資産家の家で、金さえあれば幸せだと云うのなら、金持ちの家の遺産相続やお家騒動はないはずだが、こうした創造劇が起らずに、円満な遺産の分配が出来たなどと言う話は、余り聴いた事がない。逆に資産家の家では、余り金は無くてもいいから、愉しい平和な家庭でありたかったと、どんなに願った事だろう。
 しかし、実情として人間は金を頼りに生きている。金の為に働いている。働く目的は、金を得て、それを生活費に充て、暮して行く事である。真面目に働いて、労働で得た対価として金銭を受け取るのである。そして少しでも貯金に廻し、老後の為に備える。だが、そのように考えてコツコツと蓄えた金だが、老後に備えて貯えた金は物価の上昇などで目減りしても、預金利息として増える事はない。
 人間が一生かかって貯えた金も、僅か一年か二年の“食い凌
(しの)ぐ金”にしかならないのである。年金生活を決め込んで、悠々自適(ゆうゆう‐じてき)を描いても、それはいつまでも続かない幻夢である事は明白だろう。

 人間が一生働き、溜め込んだ金も、一年か二年の値打ちしかないのである。この事で、私たちは金が頼りにならない事を知るのである。
 金が実に頼りにならない代物と分かれば、次は、誰もが思う事は「物」である。金持ちではなく、「物持ち」になろうとする。金より“物”だと思う。この考え方が、金を物へと変換させて行ったのである。物へ物へと、物持ちでなければならぬと思ったのである。

 この場合の“物”は、多くは有価証券であったり、金相場であったり、穀物相場であったりする。あるいは土地を買って地主になるなどの行動である。しかしこれらの“物”は絶えず変動していて、安心を買うようなものではない。時代の応じて上下する。急騰したり暴落する。やがては二足三文となる。
 昔から「物が頼りにならない」とは、よく云われた言葉である。その上、物は古くなれば朽ち果てる。有価証券にしても、暴落したり買った会社の株式が倒産すれば、タダの紙切れとなる。火に遭えば燃え、盗難に遭えば奪い去られる。土地だって、名うての詐欺に掛かれば騙
(だま)し取られる。

 物が頼りにならない事は今始まった事ではない。
 この頼り無さは、頭では分かっていたのだが、上下変動に操られている現実は、素人の頭で理解出来るようなものでない。そして頼りにならないのは、金や物ばかりではない。

 現代人の多くは、現代生活者として大多数はサラリーマンである。会社と役員にしたところで、サラリー重役に過ぎない。そうした生活が、また至って頼りにならないものである。そして、サラリーマン生活の底には、いつも得体
(えたい)の知れない不安が流れている。

 今日の経済界では、本質が“好況”とか“順調”とかの好機に覆
(おお)われているわけでないから、何かのはずみで本来の貌(かお)を顕わす。つまり、経済界の実体である「不況」と云う貌であり、「恐慌」という姿だ。
 世界の企業の多くは、株式会社形式である。
 株式会社は資本金が“株式”という均等な形式に分割されるシステムだ。出資者すなわち株主が組織する有限責任を負う会社のことである。その機関は、株主総会、取締役会、代表取締役、監査役などから成る組織である。そして資本の三要素となるものは、土地、資本、労働の三つである。

 キャピタリズム
(capitalism)では、新たな営利の為に使用する、過去の労働の生産物を用いて、また、剰余価値を生むことによって自己増殖する価値を生み出して行く。しかし、これは“好況”とか“順調”とかの好条件が揃わないとうまく機能しない。
 一方、配当金や地代など譲渡可能な一定の定期的所得を、背後にある一定額の貨幣資本の齎す利子と想定した場合、その資本の大きさを計算する為に還元する操作が行われる。これを資本の還元と云うのだが、所得額を市場利子率で除して算出する為、擬制資本になり易い。架空資本の事だ。
 例えば、地代収入や株式の配当額を、利子率で評価したときの資本価格であり、扮飾が行われ易い。好景気に湧いている時にはよいが、一度不況が襲うと、一溜まりもない。会社が倒産する現象は、こうしたところにも見られる。実に確かでないのだ。

暮れの物乞い 稲荷の眷属

 現代は「使い捨て時代」である。消費の為の消費を生むには、物を遣
(つか)い棄(す)てする以外ない。人間もまた、「使い捨て」である。雇用は定年退職まで、永遠のものでない。必要に応じて、人間も増やされたり減らされたりする。雇用の均衡を保ち、企業は生き残ろうとする。その為には、物同様、いつでも遣い棄てにされる恐れがある。現代人はそう言う社会環境の中で暮している。
 亭主一人の労働に、女房も子供も頼っているのである。この点について私たちは、どうしたら家族を安心させ、幸福に暮していけるかが、いつの時代も同じテーマだった。常に、この点に回帰された。

 しかし、どんな文明も、国家も、いつかは凋
(しぼ)むのである。栄枯盛衰の法則を辿るのである。どんなに栄えた文明も、いつかは崩壊するのである。
 今日の日本のように、歴史の偶然の上に乗り、アメリカから事実上軍事占領されながら、経済大国として繁栄を見ているのは奇跡的な恵みと言ってよい。世界史にはあり得ない、絶対的な異常状態の上に、不況下でもありながら、国民は比較的裕福な日常を暮しているのである。これは極めて危険な事だが、その危険性に気付く人は少ない。遠からず、破局は訪れるだろう。

 何故ならば、日米安全保障条約と自由貿易体制が、もう既に過去の遺物となりつつあるからである。
 この不可解極まる状態を、あえて歴史に中で探すとするならば、古代ローマの名族であったスキピオ・大アフリカヌスのローマ軍が、その宿敵であるフェニキア人が建てた古代の植民都市カルタゴの城壁を守るという奇妙な構図を作り上げ、ローマが、地中海を航行するカルタゴ船の安全を保障しているようなものなのであるからだ。
 しかし、この奇妙な構図に多くの日本人は気付いていない。不安定である事に気付いていない。歴史上あり得ないことに気付いていない。

 今日、幾ら不況と云っても50年続く不況はないだろう。不況が50年も続けば、もうそれは不況などではなく、それは一つの時代であり、立派な歴史なのである。
 歴史を振り返って云うならば、ローマの繁栄の後、中世期と言う倹素な時代が到来した。日本では、平安朝の栄華の後、質素で倹約第一主義の時代が続いた。

 これらは歴史的に検
(み)て、不況と云うようなものでなかった。一つの時代の方向性だった。歴史の転機であり、生活意識の変革であった。これこそ一つの新しい時代の性格であったのである。
 歴史における不況は進歩し、発展する為の途上に顕われる不況であったが、それはとにかく一時的なものだった。やがて景気回復が訪れて、不況は跳ね返し、進歩・発展の途上に戻るわけだが、今日では進歩そのものが副作用
(公害に始まる地球汚染や、石油枯渇問題や地球温暖化問題)などで抑制されているから、復元運動の起る可能性は極めて少なくなったのだ。次に時代へと突入する可能性が大になった。
 つまり現代人は、時代の曲り角に置かれているのである。

 これにより現代人の生活態度や意識は行き詰まる状態に置かれているのだ。
 新しい状況や、時代に則した新しい暮らし方は、現代人の生活意識や人生観で大きな転換期を迎えていると言えよう。頼りになるのは「何か?」ということを常に迫られる世の中になったと言えよう。



●人間の心は常に揺れ動く

 沢庵禅師は、「動くのが心の本性にて候」と謂
(い)った。そもそも心は揺れ動くものなのだ。
 人間は常に頼りになるものを求めて奔走する。しかし、此処に来て、金が頼りにならぬ、物が頼りにならぬ、と分かったのだ。
 では、何に頼って生きようか、と思う。

 そこで、金も駄目、物も駄目となると、今度は「心?」となる。心さえ、しっかりしていれば、と思うのである。
 しかし心は、常に揺れ動くものである。何故ならば、心が揺れ動かず、「動かなくなった」という状態は、「死んだ」という状態であるからだ。

 人間は生きているから、心は様々なものに動くのである。しかし、心は自分の力によって動いているのではない。環境の変化や条件に従い動くものである。因縁によって動いているといってよいであろう。したがって次に瞬間には、もう動いて何を思い、何を考えるか分からない。

 こうした順を追うと、金が頼りにならる、物が頼りにならぬ、心が頼りにならぬ、という事が分かろう。頼りにならぬものの本性には、それが不安定であり、常に変化・変動すると云う事からである。そして何一つ頼りになるものがないから、世渡りをしていくには寔
(まこと)に心細いのである。心の拠(よ)り所として求めるものがないからである。時代が変われば、今までの価値観が通用しなくなるからである。

 時代が変わり、文明が変われば、それから以後の生活は空虚なものになる。無意味な勤労だけが課せられる事になる。それはこれから先の、自分の日々の世渡りとなる。不安であり、不信であり、心は実に心細いものである。そして目標を掲げるものがなくなれば、目的を達する課題もなくなり、その後の一生は無意味で、無価値のものになるのである。

 さて、宗教では度々「浄土」だの「天国」だのを口にする意味を御存じだろうか。あるいは「諦め」を初め、「のそみ」とか、「欣求
(こんぐ)」とかの言葉をしばしば遣(つか)って力説するのを御存じだろうか。
 これは「この世には、総て頼るものがない」と言う意味のものである。それに引き換え、一方で「喜びがある」と教えるのだ。浄土や天国に至ると、そこには心から喜べるような往生があると教える。この世に諦めを付けて、あの世で喜びを求めよと教えるのである。

 この世で失われた「のぞみ」をあの世に求めると言う意味なのだ。あの世では「願いが叶う」としているのである。

 この現実社会である「現世」は、よく事業に失敗して自殺する人がいる。仕事の成功に一生を託し、わが身一身を投じ、朝から晩まで働き続けて、それまでして成功に辿り着けなかったら、もうこれまでの努力は無意味で無価値なものになろう。自分の一生の否定に繋
(つな)がろう。「失敗」することにより、これまでの生活とその態度は何の意味もない事になる。後は何もない事になる。このように成功を目指す人は、何処までも求めるのは成功のただ一言であり、それ以外のことは考えられない。

 その為に、何度躓き、何度失敗しても、意気沮喪
(いき‐そそう)しない。求めるものは「成功」であるからだ。いつか成功すると言う、望みを抱いているからだ。成功の夢を何処までも捨てないのである。どんな境遇に追い込まれても、貧困のドン底に居ても、病気に最中でも、その望みを捨てないのである。
 そしてこのように、成功に向けて日々を奔走する人は、それが「夢である」ことを中々認めようとしないのである。夢である事を、感じたくないのである。しかし、「これを感じた時」どうなるのか。夢である事が分かった時どうなるのか。恐らくその時は死ぬであろう。自殺に走るのはこの為である。

夢/沢庵禅師 この世とはろくでもない所

 しかし人間が、この浮き世で、苦労の中を生活して行くには夢が必要である。夢を見る事が必要である。
 「ゆめ」という言葉を置き換えれば、「のぞみ」である。ろくでもない世の中を苦労しながら生きるのであるから、「のぞみ」は必要である。生活活動の根本的な原動力は、「のぞみ」である。人間は「のぞみ」を失った時、生命の火が消される。生命の火を燃やし続けられるのは根底に「のぞみ」があるからだ。



●剣聖・榊原鍵吉

 直心影流
(じきしんかげ‐りゅう)男谷精一郎信友(おだに‐せいいちろう‐のぶとも)の門下に、榊原鍵吉友善(さかぎばら‐けんきち‐ともよし)なる剣の達人が居た。
 直心影流の男谷精一郎門下は、講武所頭取兼剣術師範役などを勤めた達人が多く、この門からは島田虎之助や榊原鍵吉らが出た。後に彼等は剣聖などと云われた。

 榊原鍵吉は、代々が幕臣の家に生まれ、父益太郎友直は軍学に詳しかった人物であった。鍵吉は天保元年
(1830)十一月、麻布広尾の榊原邸で生まれ、天保十二年、十三歳で男谷精一郎の門に入り、直心影流剣術を学んだ。
 そのころ男谷は麻布狸穴に道場を構えていたので、鍵吉は道場に通うのも便利だった。

 そしてその後、研鑽十年、ついに天性の素質に加えて、稽古熱心であった鍵吉は心技共に著しく進歩した。格段の腕になっていた。その間同輩と倶
(とも)に、目録を受け、更に免許を受けた。
 当時、免許は弟子からの申請がなければ、師から進んで与える事はなく、また免許を受けるには、礼物として本金一枚を贈り、宴を設ける必要があった。これが当時に風習であり、師や先輩方々を餐応
(さんおう)する慣(なら)わしがあった。

 しかし貧乏であった鍵吉に、そのような余裕も金もなかった。この事情を知った男谷は、鍵吉に為に無条件で免許皆伝の式を挙げてやった。これにより鍵吉は直心影流の免許皆伝を得た。

 安政三年
(1856)築地に開設された講武所は、万延元年(1860)小川町に移転開所となるが、鍵吉は他の十名と倶に、築地講武所剣術教授方として、また小川町講武所剣術師範として、師の男谷精一郎をはじめ、十三名と倶に名を列ねた。
 安政五年
(1858)十月は「安政の大獄」の真っ只中にあって、家茂(いえもち)が紀州家から入り、徳川十四代将軍となった。そしてこの年に「軍政の改革」が行われた。つまり、徳川軍の洋式化であった。

 軍政の改革によって、歩兵、騎兵、砲兵の“三兵兵制”が布かれ、鍵吉は、三橋虎蔵、井上八郎、今堀登代太郎、近藤弥之助らと倶に、師範役として将軍護衛の任務を負った。この時鍵吉は、二の丸御留守居役の格で三百俵、朱塗りの槍を立てて登城する身分となった。

 慶応二年
(1866)、将軍家茂は、二十一歳の若さで大阪城で死去した。その後、講武所は陸軍所の管轄下に入った。そこで練兵されたのは、西洋式の練兵で、のち講武所は洋式銃隊操練場となった。そこで鍵吉は致し方なく、下谷車坂の道場に籠(こも)り、剣術の指導に能(あ)った。
 それから二年の歳月が流れ、慶応四年
(1868)五月十五日、上野で彰義隊の戦いがあり、事態を憂えた鍵吉は上野に駆け付け、奮戦したが、輪王寺宮現法親王(後の北白川能久親王)を背負って、三河島まで落ち延びた。そしてそこで付添いの僧侶に宮を委ねて道場に引き返した。この戦いに参戦した鍵吉は、何も咎(とが)めを受けなかった。

 この間、旧門人中の不平組の勧誘があったが、一切これに耳を貸さなかった。十六代将軍たるべき田安亀之助
(後の徳川家達(いえさと)の招きに応じ、その年の八月、静岡に移り、明治三年(1870)までの三年間をその地で過ごした。
 明治四年
(1871)七月、廃藩置県により、地方制度改革が実施された。これは全国の藩が廃され府県が置かれ、中央集権化が完全に達成されたことを意味する。同年末には、北海道のほか、3府72県が置かれた。

 また、旧政が一新され、男性の結髪ならびに長髪廃止の「断髪令」の布令が出された。それと同時に、散髪脱刀令が出され、髷
(まげ)を落し、刀を帯びないことを自由にした、旧弊打破ならびに文明開化の法令が発布された。またこれは廃刀令として、廃刀令が出され、軍人および警官や大礼服着用者以外の帯刀を禁止した法令であり、明治九年(1876)に公布された。

 この時、榊原鍵吉は42歳になっていた。明治新政府の招聘
(しょうへい)を悉(ことごと)く斥(しりぞ)けた鍵吉は、それからの余生を、全く「剣一筋」に生きた。明治九年の廃刀令にも従わず、また、終生、髷を落さなかった。

 しかし明治の世になっても、鍵吉は先祖代々が幕臣であり、士魂商才の、その“才”は皆無と言ってよいほどだった。禄を貰って生活する、徳川幕臣の頭の切り換えが出来なかった。
 そこで鍵吉は、明治六年、官許を得て、浅草見附外の左衛門河岸
(さえもんがし)で、激剣興行を行ったのである。興行である以上、木戸銭は取る。木戸銭とは「入場料」のことで、“見せ物剣劇”を行ったのである。

 この“見せ物剣劇”は、元幕臣で講武所師範の幕府最後の剣士と云う触れ込みで行った。これが評判を取り、ささやかながら成功を収めた。また、この興行に刺激された、千葉道場
(千葉周作門下)、斎藤道場(斎藤弥九郎門下、桃井道場(桃井亨門下)の剣士達が同様の興行を打つようになり、激剣ブームが起った。この激剣ブームは全国規模になり、日本各地で行われるようになった。

 そして一部に、批難の声が上がった。武芸を著しく沈滞して、何事か!と言う声が上がった。しかし、「激剣会」興行は、武芸に対する人々のと関心を惹
(ひ)く事で、入場料徴集の激剣会は廃れる事もなく、素人武芸家を含めて、新興武芸として広まっていった。

榊原鎌吉友善の肖像

 榊原鍵吉の下谷車坂の道場には、廃刀令以後も多くの剣術修行者が押し掛け、竹刀の音は絶えなかった。欧米からの、外人武芸家も訪れた。
 此処に参集した外国勢は、例えばオーストリアのフェンシング大家のシーボルト・ヘンリー、英国領事館書記官のトーマス・マクラチ−、フランス人で陸軍戸山学校のフェンシング教官のウィラレーおよびキール、またドイツ人で東京医科大学ならびに東大医学部教師のベルツらである。
 この中でも、イギリス人トーマス・マクラチ−は三年間も榊原鍵吉の道場に通い、直心影流の伝書まで授けられたという。

 一方、ドイツ人ベルツ
(Erwin von Balz/ドイツの内科医で、東大で医学の教育・研究および診療に従事。のち宮内省御用掛。1849〜1913)は明治15年から16年に懸けて、剣術並びに柔術に興味を持ち、体育上に及ぼす利害得失を文部省から研究依頼された人物だった。

 明治十二年
(1979)前アメリカ大統領グラント将軍が来日にした際、鍵吉は上野公園で明治天皇、グラント将軍に剣術を披露している。
 また明治二十年
(1887)十一月十一日には、伏見宮邸で「兜割り」の天覧を供にしている。時に、鍵吉58歳であった。

 鍵吉は剣には長
(た)けたものの、「理財の才」に欠け、生涯貧乏をし、更に不肖の違い腹の兄弟が多かった事も災わいして、晩年は殆ど恵まれた人生ではなかった。そして、日清戦争宣戦布告の翌月の、明治二十七年九月十一日、六十五歳の生涯を閉じた。
 もし、榊原鍵吉に「士魂商才」の意味が理解できていたならば、彼の生涯は、また別の物になっていたであろう。熟
(つくづく)惜しまれる人物だった。



●まず、理財の才を磨け

 この世には「運」が働く。天命が働く。貧富は、そもそも天にある。
 そしてこの世には、運の陰陽が人間を支配している。運によって、人は何
(いず)れかに導かれる。自分の才能や努力だけでは如何ともし難いところがある。素質にしてもそうだ。

 先天的な気の下地があり、親から受け継いだ素質があっても、それを使いこなす方法を知らなければ、それは単に宝の持ち腐れになる。

 さて、士魂商才の「士魂」とは、武士の魂
(たましい)あるいは、その武士が備えた精神構造をいう。毅然とした態度だ。そして「商才」とは、武士の精神と商人の才とを兼備することをいうのであるが、その他の解釈として、サムライの道である武芸に通じているものならば、同時にその通じた道の背景には、「商魂」なるものがあり、武芸の達人は同時に“商いの達人”でもあるという意味を持つ。これを総称して「士魂商才」と云う。

 武士の魂及び、その精神構造は基本的には「人民の奉仕」であり、武人こそ、その奉仕者でもある。この奉仕者という意味は、単にボランティアなどの、自ら進んで社会事業などに、無償で参加する人の事を指すのでなく、わが身一心を投げ出して、全体に奉仕すると言う大義が含まれている。

 そこそも「商
(あきな)い」と言う語源は、「贖(あがな)い」という言葉がなまって変化したものである。
 「商い」の古い言葉を調べれば、東雅に、「あき」は秋で、農民の間で収穫物や織物などを、交換する商業が秋に行われたことによる、とある。
 また「商い」を“贖い流”に解釈すれば、罪などの代りをすることを意味し、犠牲や代償を捧げることによって罪過を「あがなう」ことを意味し、その背景には宗教的な意味合いを含んである。つまり、「商人
(あきんど)」とは「罪を贖う人」という意味を持つ。だから、商人も人民に奉仕する意味では、武人と同じである。

 罪を贖うのであるから、その姿勢は人間として、最も低い姿勢をしなければならない。商いをするには腰を折り、頭を下げなければならない。ふんずり返っては、商売が出来ない。客に罵
(ののし)られても、頭を下げ、頭を低くする事に、商売に根本がある。「あきんど」という商人と云う言葉は、「あがないをする人」ということだ。人にあがない、「奉仕をする人」ということである。此処には、「人間の基本姿勢」が描かれている。これこそ“弱い犬程よく吠える”という態度の否定がある。強い犬は、よく吠えないのだ。

 商いをするとは、「人を学ぶ」ことである。商売相手は「人」である。したがって、「人の研究」が中心課題である。人を徹底的に研究し、ひたすら人を追求する。「人間とは何か」ということを徹底的に研究し、これを「あがない」に照らし合わせて、「頭を低くする姿勢」を探究するのである。
 商人は、人の頭を下げなければならない。腰を折り、頭を低くして、「贖い」の気持ちを込めて、悪因縁を解消して行く。相手から、ただ取るばかりでなく、「与える」ことを主とする。武人も、その意味からすれば共通点を持っている。

 士魂商才の根本は、欧米流の“give-and-take”ではない。日本独特の「贖
(あがな)いの思想」だ。
 自分から相手に利益を与え、その代りに自分も相手から利益を得ること云う、この次元のものでない。
 根本は礼儀を知って「譲り合うこと」であり、そこに流れるものは「公平」であり、かつ、贖いを込めた「商いの道」でなければならない。また、えげつない“take-and-take”のユダヤ人商法の、それでないのだ。
 “あがない”に、人間の狡猾
(こうかつ)さが漂ってはならない。
 「貧富は天にあり」の言葉を忘れたくないものである。この言葉が理解出来れば、「運」は自らに傾き、幸運の眼がもは微笑みかけるかも知れない。


これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。


入会案内はこちら
daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法