運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣・後編 1
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旅の衣・後編 12

悪童の頃に学ぶ多くは、後に役に立つことがある。それは、悪いことを出来ない人よりも、悪いことが出来て、悪いことをしない人の方が格が上であるという、後の事実である。
 これは考え方によれば、悪を知らない善は本当の善でないと言うことである。悪を知った善こそ偉いのである。悪を知ることで人間はじばしば挫折することがあるが、その挫折は人間的な魅力になっている場合が少なくない。


●西瓜泥棒

 悪童たちに混じって西瓜(すいか)泥棒を遣ったことがあった。
 私は太陽と海の照り返しと潮風に灼
(や)かれ、健(すこ)やかに野性児として育っていった。そして私は、年上の少年たちと遊ぶ様になってから、悪い事?も随分と覚えた。

 ある日、年長の一人が西瓜泥棒の計画を立案した。
 この計画は、『どぶねずみ作戦』と名付けられ、私達は「天誅
(てんちゅう)橘組(たちばな‐ぐみ)」と子供集団を作った。私は意味も解らず、その中に与(く)していた。
 「橘組」の名前の由来は、一番年上の年長の少年の名が「橘」という名前であったからである。橘というこの少年は当時五年生で、頭が良く、皆から「橘君」と呼ばれていた。
 今思うと、この少年は、既にこの頃から冷徹な洞察力と緻密
(ちみつ)な計算に優れていて、機転が利(き)き、来たるべき事態に対処して、着実に準備するという見事な企画力や演出力を持っていようだ。

 「天誅」という言葉は、頭の良い彼が知っていた言葉であろう。そういう理由で、私はこの年上の少年に深い尊敬の念を抱いていた。また、「天誅」という、天にかわって誅罰するこの言葉が、私は非常に気に入っていたのである。
 彼は戦時中、歌に歌われた、
 『遼陽城頭
(りょうよう‐じょうとう)夜はたけて 有明月(ありあげ‐づき)の 影すごく 霧(きり)立ちこむる 高梁(こうりょう)の……』の歌で始まる、長崎県出身の静岡歩兵第三十四連隊の大隊長・橘周太(たちばな‐しゅうた)中佐(明治三十七年八月遼陽会戦にて、首山堡の戦闘で勇戦し、後続部隊の援助なく力尽き戦死した陸軍少佐)の遠縁であるという。

 当時私は、その少年の傍で行動できることに、大変な誇りの様なものを持っていた。
 この作戦での私の役目は、取った西瓜を伝馬船で輸送する、輸送部隊の隊長に任命された。隊長とは名ばかりで、単に特別扱いされた訳であろうが……。
 『どぶねずみ作戦』の決行の日がやって来た。
 目標は、新町から約5キロ程離れた所のオランダ商館跡の先に《常燈の鼻
(じょうとう‐の‐はな)》という付近に西瓜(すいか)畑あり、橘君の情報によると、此処には悪辣(あくらつ)で欲ばりの意地悪爺いが居るということであった。この意地悪爺いが西瓜畑の持ち主であるという。

 子供心に描いた悪人は子供の目から見て、意地悪で、欲ばりであれば、その汚名は免れなかったようだ。それだけの理由で立派な悪人の烙印
(らくいん)が押された。
 橘君の計画はこうであった。
 『その持ち主を懲
(こら)らしめ、そしてその持ち主に対して天誅を与え、西瓜を盗み出し、学校に持って行って、皆にタダで振る舞う』という義賊(ぎぞく)の模倣(もほう)だった。子供の他愛のない義賊心である。
 悪戯半分だったが、私たちは他愛ない子供心の偏見とも言うべき正義を掲げていたのである。そして自分が何か、途轍
(とてつ)もなく偉い人間に思えたのだった。
 特にこのころ見た『鞍馬天狗』は、新撰組をやっける正義の味方だった。この時代の子供の多くは、脚色された倒幕派の勤王の志士に入れ揚げ、佐幕派の新撰組などの蛇蝎
(だかつ)の如く嫌い、その代表格が新撰組の近藤勇だった。悪の権化として壬生の狼の首領と思い込まされて来たのである。

オランダ橋(幸橋)。いつもこの橋の付近に叔父から貰った小さな伝馬船を繋ぎ止めていた。

 「今夜、七時、オランダ橋の下に集合!いいか!」と橘君が云うと、全員はそれに応えて、「おーッ!」と気勢をあげるのであった。
 彼は集結命令を下し、私もそこに勇んで出掛け、集結することになった。叔母には近所の子と花火遊びをしてくると嘘をつき、喜び勇んで出て来たのである。

 此処に集合したのは総員で十一名。
 舟は私の伝馬船を入れて、二艘。もう一艘は橘君の家の舟であった。各々は二手に分かれ乗船することになった。私の舟には、躰
(からだ)が一番小さくすばしっこい藤田という同じクラスの少年が乗った。
 彼は軽業師
(かるわざ‐し)のように身が軽く、猿か栗鼠(りす‐ねずみ)のようにちょこまかと動き回る機転の利く少年だった。そして何事につけても小器用ですばしっこく、抜け目の無い性格をしていた。
 私は彼に「小猿」という渾名
(ニックネーム)をつけた。
 彼の役目は舟の舳
(へさき)に居て、自身の夜目(よめ)の利(き)く特徴を生かして、物見の役をすることが割り当てられていた。

 さて、いよいよ纜
(ともづな)を解いて出航である。
 計画は手筈
(てはず)通りであった。全員が息を殺して身構え、乗船した。今からそこに向かって海から攻め込む手筈である。
 全員、顔がバレないように各々が持参した風呂敷で顔を覆った。
 先日学校の映画教室で見た、嵐寛十郎
(あらし‐かんじゅうろう)の鞍馬天狗のように覆面(ふくめん)をし、岸沿いを約一時間程掛かって現場に向かうのである。しかし覆面と言っても、風呂敷を被ったものだった。
 また、子供心に感じたことは、これが実に恰好よかったのである。
 平戸港の岩の上町側に舟を寄せながら、先頭を行く橘君の舟の後部に付けた堤灯
(ちょうちん)の灯りを追いながら舟を進めるのである。
 そして平戸港の入口から一気に進路を北にとり、そこから一直線に《常燈の鼻》へ突き進むのである。

 岸から離れないように、遠望する陸地の灯り見ながら、船を進ませるのである。そして目的地に到着した。
 当時私は何処をどう進んだかは知らないが、暗がりの中を、よくぞ此処まで来たものだと思った。
 物見役
(ものみやく)が舟を浜に引き寄せ、一斉に舟から飛び出て上陸が始まった。これがまた子供心に、実に恰好よかった。全員が正義の使者・鞍馬天狗なのである。
 藤田が舟を浜に引き揚げる。彼は動きが実に機敏であった。橘君の指示で、攻撃態勢を作り、各々が手に手に図工に授業に使う、切り出しナイフを刀代わりに持っていて、突撃命令を待っていた。

 周囲に散らばった各々は、完全に鞍馬天狗になりきっていた。私の目には鞍馬天狗が何人もいるよう映り、実に恰好よくかった。彼らが実に凛々
(りり)しかった。私もその一人だと思うと、何か不思議な武者震(むしゃ‐ぶる)いが疾った。
 しかし私は、輸送隊なので舟に一人で残された。これは少なからずかっかりした。私も彼らと同じような行動をとりたかったのである。遣
(や)るなら、同じように、実行犯になりたかったのである。
 子供心に描いた、あの恰好の良い行動に加わりたかったのである。だが、これは橘君の命令で許されなかった。

 今考えると、捕まった時のことも既に計算されていたのではないかと思われた。こう、考えてみると彼の計画の緻密
(ちみつ)さに驚ろかされる。これは橘君の、私思いの失敗した時のことを考えた配慮(はいりょ)であったのかも知れない。それでも、もう此処では、私も西瓜泥棒の立派な共犯者なのである。
 突撃隊が出かけて行って、暫
(しばら)く経った頃、藤田という少年が頭巾(ずきん)をとり、浮かぬ顔で走りながら戻って来た。

 彼の話しによると、こうだった。
 「突っ込め!」という、橘君の声が上がった。全員が西瓜に向かって突撃した。西瓜の蔕
(へた)を切り下ろし、持って逃げようとした時、犬が吠えまくった。それに全員が動揺して、浮き足立った。

 橘君はそれを抑
(おさ)える様に、
 「落ち着け!皆、落ち着け」と何度も押殺したような低い声で繰り返した。犬の吠えるのが収まらず、全員が浮き足立ってしまった。
 とうとう家に明かりがつき、悪玉の爺さんが出て来た。近所の人も出て来て、この騒動を知ることになっしまった、というのである。

 私は仲間の帰って来るのを舟で待っていたが、藤田だけが戻って来て、仲間が全員捕まったというのだ。彼は橘君の命令で自分一人だけが逃げて来たという。
 「殿、仲間が捕まりました。俺たちも早く逃げましょう」 
 私はこれを聞いて唖然
(あぜん)となった。
 「小猿。橘君達を置いて行くのか?」
 「橘君が、俺に逃げろと言いました」
 「しかし……」
 仲間の置いてけぼりを懸念した。
 「仕方ありません」 
 私も仕方なかった。そして来た海路
(かいろ)を泣く泣く舟の艫(ろ)を漕いで帰って行った。仲間が心配だったが、子供の私に、これをどうすることもできなかった。
 西瓜泥棒の『どぶねずみ作戦』は、失敗に終わり全滅した。そしてこの夜、叔母から夜の帰りが大変遅いと酷く叱られた。
 私は泣きながら床に着いたことを憶えている。

 翌日、担任の先生から、
 「昨夜、残念なことがありました。この学校に西瓜泥棒した人ます。まだ逃げている人が居るそうです。どうか、正直に出て来て下さい」という話がった。
 藤田がまず、堂々と席を立った。そして私もいつの間にか立っていた。

 それは「正直に出て来て下さい」という担任の先生の言葉に従ったのではなく、捕まった彼らとは運命共同体の連帯意識があって、これがそうさせたのかも知れない。当時の私は、彼らの仲間の一人であることに誇りを持っていたからであろう。
 何よりも、捕まったら私をどう逃がすか、計画を最初から緻密に計算していた、橘君の為でもあった。
 もう既にこの事で、家に帰ればこの連絡が届いていて、叔母からは叱られるのは当然であったろうが、何故か不思議な清々しさがあり、それでいて何の悔いもなかったのである。

 この作戦を指揮した橘君だが、後に猶興館高校から防衛大学校に進み、現在海上自衛隊の幹部自衛官として佐世保基地に勤務しているという話を、風の噂に聞いたことがある。随分前の話であるが、あの団塊の世代を生きた、少し年長の少年とともに少年時代を過ごせたのは、私自身それなりに幸せであった。



●雪駄

 『鞍馬天狗』と聞いて、もう一つ忘れられないことがある。
 それは鞍馬天狗が履いていた履物である。その履物に異様な執着を示したことがあった。
 学校の映画教室で『鞍馬天狗』を見て以来、鞍馬天狗の脇役として「杉作」という名で登場した美空ひばりより、鞍馬天狗役の嵐寛寿郎が履いていた雪駄に、異様に魅
(み)せられたのである。あの履物が欲しいと思うのであった。
 鞍馬天狗が履いていた、その履物が、やがて欲しくて欲しくてたまらなくなったのである。これを散々伯母に強請
(ねだ)って買って貰ったことがあった。
 しかし、このお強請りは、直ぐには事が運ばなかった。ごねられた経緯があった。

 平戸に来た頃、私は周囲の人にあまり馴染めず、私の遊び相手は、専
(もっぱ)ら岩崎家の三女の弥生であった。
 人見知りの烈
(はげ)しい私は、直ぐには学校の級友に馴染めなかった。そのうえ持ち物も着ている物も、田舎の子とは違っていた。それだけで奇妙がられた。違和感も感じていた。
 父母は、目一杯奮発して、ありったけの金を叩いて、私にいい物を持たせて平戸に送り出したのである。そのためか、何から何まで田舎の子とは違っていた。これでは馴染めないのも無理はない。
 更に、周囲の人間環境も今までとは違っていたからである。どうしても面食らう。そういう学校に上がったばかりの、僅か一ヵ月程度の期間を経て転校し、平戸に遣って来たからである。環境の急変は、私のとって青天の霹靂
(へきれき)だった。私にとっては大事件だった。
 それに何から何まで、八幡製鉄のある「鉄の都」の八幡市とは異なっていて、私には大変なカルチャーショックであった。

 それに、物心ついた幼児期から水洗便所の生活に馴染んで来た私は、田舎での肥溜式便所が些か怕
(こわ)く、これに馴染むのにも随分と時間が掛かった。
 夜は特に、便所に行くのが怕かった。肥溜めの下から手が出て来そうで怕かったのである。夜便所に行けずに、寝小便を垂れて、よく伯母から叱られたものである。
 第一、便所が肥溜式という認識が無かったから、このカルチャーショックは大きかった。また、田舎の肥溜は深かった。あたかも地獄の釜の中を思わせた。子供の目にはそう映るのである。
 奇怪なる深遠な、底無し沼……。それが子供の目から見た肥溜め式便所だった。
 そうした環境下では、遊び相手も限られた人物となり、平戸に遣って来たとき、私の遊び相手は、当時猶興館高校に通う女子高生で、三人姉妹の従姉の一番下の娘だった。私が頼れる遊び仲間は、この従姉ただ一人だった。
 従姉
(いとこ)の通う猶興館は、当時は平戸藩校の伝統を持つ、地元では有数の名門校で、長崎県の県立高校だった。かつては多くの偉人を排出した学校である。
 この従姉をいつも「弥生ちゃん」と呼んで暫
(しばら)くは、ただ一人の遊び相手だった。彼女に、いつもへばりついていて、仔犬(こいぬ)のように纏(まつわ)り付いていた。外に出て、少しでも離れると、何処かに連れ去られる錯覚と恐怖を抱いたものである。それだけ暗愚で、気弱で、小心な子供だった。
 一方。弥生は勝ち気な娘だった。

 私を小さな乾児
(こぶん)のように引き連れて、遊び相手をしてくれた。末っ子で高校二年の彼女は、最初、歳の離れた従弟が珍しかったのだろう。あたかも猿回しの猿のように連れ回された。一種の玩具である。
 主に彼女とは、キャッチボールや、あるいは女子高生に混じって軟式野球をして遊んだ。軟式野球といっても正式なものでない。ただの子供のお遊びであり、ボール転がしであった。お湿り程度にバットに当てた、緩やかに転げて来たボールを掴み取り、それを投げ返すと言う、ただそれだけの遊びであった。
 弥生は最初、このように、実に私によく構ってくれていたのである。まるで、壊れ易いガラス細工でも触るように……。
 ところが、こうした扱いが徐々に変化し始める。人間は変化する生き物だから仕方がない。
 これも、好事魔が多いと言えたし、逆から検
(み)れば、有頂天に舞い上がった天罰だろうか。
 男勝りの彼女は、軟式野球部に籍を置いていたし、剣道部にも籍を置いて、二つを掛け持ちしていた。
 私に、最初剣道を教えてくれたのは、従姉の弥生だった。
 ある日、猶興館の武道場に連れて行かれて、彼女から剣道を習ったことがある。
 否、これは習うと言うものではなかった。単に「打ち込み台」だった。
 教わったことはない。叩かれ台だった。
 彼女は、当時では珍しい剣道弐段の女流剣士だったのである。剣道部の男子が舌を巻くほど、弥生は強く、男を顎で使っていたような節があった。何しろ、馬鹿強かった。これでは男も適
(かな)わない。一目置かれても当然だった。それでいて、私を連れ回る。連れ回された方は、猿回しの猿になる以外ない。
 小さな私を、あたかも着せ替え人形ように取り扱い、今まで着ていた衣服を剥
(は)ぎ取って防具を着せさせ、道場に引き立てられ、その途端、何の説明も無く、いきなりボコボコに打ち捲るのである。
 一発目の脳震盪を起こす寸前のこれは、眩暈
(ねまい)がするほどだった。
 このとき「泣くな、怒るな、怺
(こら)えて捨てろ」という言葉が理解できていたら、我慢のしようもあったろうが、何しろ暗愚な私である。弥生のボカスカの猛攻が理解できるわけがない。

 竹刀は、少年用の三六
(さぶろく)を使っているとはいえ、いきなり連続面打ちで連打されれば、脳天は焼け付くような痛みが疾(はし)る。しかし、そうしたことはお構えなく、連打されたことがあった。まさにボカスカである。
 弥生は一種の狂人で、男勝りだったのである。これは祖母譲りか。岩崎の家の女どもは、みな祖母の性格の遺伝を受けているようだった。そして私は、彼女専用の、剣道用の、お手軽な「移動式打込台」だった。
 私が彼女の打込台になったのは、そうした弥生に引き回されているときだった。
 そして弥生に引き回されるときは、いつも彼女から逸
(はぐ)れないように、彼女のスカートの端を握っているのである。幾分馴れたとはいえ、平戸の地理は隅々まで把握していなかった。彼女と逸(はぐ)れないことが自身の身を護る手段と信じていたからである。
 最初、手をつないでくれていたのであるが、やがてそれをしなくなり、そこで、何処に引き回されるか分らない私は、途中ではぐれないように、いつしか彼女のスカートの端を握るようになっていた。

 これは幼児期からの私の癖かも知れない。
 八幡に居る時、やはり母と蹤
(つ)て歩くときも、迷子にならないように母のスカートの端をしっかりと握っていた。
 迷子になって、うろついていると、人攫
(ひと‐さら)いに攫われるということを、父母からいつも聞かされていたので、いつの頃からか逸(はぐ)れないように、母のスカートの端を握るようになっていたのである。その癖が、平戸に来てからも暫(しばら)く抜けなかった。この癖が小学一年の半ばまで続いていただろうか。
 したがって弥生から引き回されるときも、彼女の制服のスカートを握っていたのである。
 「みっともないから、やめなさいよ」と、よく叱責混じりに言われたものである。
 そこで、最初は手をつないでくれたのである。

 ところが、私を手をつないでいるとき、同じ高校の男子生徒から見られて、ついに手を繋ぐことを止めてしまったのである。
 彼女とは十歳ほどが離れていたが、やはり小学一年生とはいえ、そういう子供の手をつなぐのが照れくさかったかも知れない。それ以来、手をつないでくれなくなったのである。
 そこで私は幼児帰りした。逸
れないように、である。
 前のように、彼女のスカートの端を握るようになったのである。
 最初は、「みっともないから、やめなさいよ」と優しく言われていたが、そのうち「バカ、やめろ!」になったのである。
 「だって、迷子になると、人攫いに攫われるもん」
 「そんなことあるもんか。今どき、人攫いなんかいるもんか、バーカァ……」
 「いるんだよ。人攫いに攫われたら、サーカスに売り飛ばされて、ライオンの餌にされるんだぞ。弥生ちゃんはそんなことも知らないのか」
 「バーカァ……」
 弥生はバカバカしくて聴いていられないという貌をした。
 それでも、弥生のスカートの端を握ることは止めなかったのである。止めようと思っても、直ぐに握ってしまうのである。癖になっていた。その度に弥生は叱った。
 「おいチビ!。そんなとこ、握ったら見えるじゃないか」
 「見えるって、なにが?……」
 弥生が急いで先へ行くと、その端が吊り上がるのである。中から太腿とともに白い物がちらちらした。
 「止めんか、見えるんだよ」
 「なにが?……」
 「そんなこともわからんのか、バーカァ……」
 「バカバカ言わないでよ」
 「あのなあ、そこをそのように握られると、中が丸見えになるんじゃよう。お前なあ、ワシの気持ちを考えろよ、中が見えて拙
(まず)いんじゃよう」
 「何が見えるの?……」
 「ジロチョウが、だよ」
 「ジロチョウってなに?……」
 「ジロチョウといえば、ジロチョウだ。分ったか、バーカァ……」
 従姉はいつの間にか、私を完全に馬鹿呼ばわりしていた。またそれが私を見る度に、社交辞令のようになっていた。そして遂には怒り出すのである。

 さて、“ジロチョウ”の意味は、60歳以上の方ならご存知だろう。
 この当時の女性は、大人も子供も下着としてシュミーズ
(chemise)という物を肌につけていた。
 昭和40年代は、上着のと滑りをよくするため、その下に身に付けスリップとも言ったが、当時は日本では和製語で「シミーズ」とも言われていた。
 シミーズ。これをもじっての「シミズ」であり、シミズは「清水」で、清水とえば、ご存知“清水の次郎長”である。つまり次郎長である。これがまた、隠語でジロチョウという。
 ジロチョウとは、当時このシミズをいい、女性下着のシュミーズの隠語のようなものであった。

 「いいか、どチビ。人間はなあ、素直が一番なんだ、素直が……」
 これは私を諭そうとしたのだろうか。
 だが解しない。分かろう筈がない。
 つまり、二、三歳の幼児でないから、スカートの端を握るような真似はするなと言う意味だった。
 しかし、その意味は素直に解すことが出来なかった。
 「ふ〜ん……」と語尾を長引かせて返事をすると、またお説教調に「人間は素直、そして正直。分るか。正直は三文の得というだろう」と相槌を促すのである。
 私は相変わらず「ふ〜ん……」だった。
 「お前なあ、考えて返事しているのか。よく考えろよ」
 「なにを?」
 こう答えると、益々怒り出すのである。
 そう言うときは、剣道場での「移動式打込台」のお仕置きが待っていた。
 しかし、ここらが幼児癖からの訣別の時かな……ということは、悟ったような気がするのである。

 人間はいつまでも、前のままでいられると言うことはないのである。人間は変わるものである。時間と言うものが人間を変えて行く。時の流れは人間に変化を与え、もう再び、前には戻れない。幾らいい想い出でも、捨て難い栄光でも、過去のものは「昔」という記憶の中に封印することで、人間は先へと進んで行く。
 従姉からは、いうことを諭
(さと)されたような気がするのである。
 弥生はいつの間にか、私を馬鹿呼ばわりしていた。
 そんな時である。


 ─────履物屋の前を通り掛かったとき、店先の陳列に雪駄が飾ってあった。
 それを見た途端「あッ!鞍馬天狗の靴……」と、思わず口走ってしまったことがあった。
 弥生は、吹き出すように笑いながら、「靴ですって?……」と訊き返した。
 「いいか、バカ。あれはだ、雪駄というんだよ、バーカァ……」と、“馬鹿付き”で教えてくれた。
 「欲しいな、あれ」
 「無理よ」
 「どうして?……」
 「だって、雪駄は大人が履く物なのよ。あんたのようなチビは駄目。大きくなってから欲しがりなさい」
 「いま欲しいなァ」
 「無理ね」一蹴されてしまった。
 「でも、欲しい。弥生ちゃん、買って!」
 彼女に縋
(すが)るようにお強請りした。
 「いいか、チビ。雪駄って、高いんだぞ」
 「高いでもいい、買って……」
 「だめ!」
 「欲しい。ねえ、買って、買って……」
 「だめったらだめ!」
 「弥生ちゃんのケチ!」
 「だったら、あんたの伯母さんに買ってもらいなさいよ」
 そう言われて、弥生ちゃんへのお強請
(ねだり)りは破棄されてしまった。

 「伯母ちゃんは厭
(いや)だなあ。欲しがったりすると、直ぐに怒るから。やっぱり伯母ちゃんは厭だな」
 私が、伯母が厭というのは、つい先頃、“おねしょ”をしたからである。寝小便するたびに叱られたからである。叱られた恐怖が重なったからである。

 「だったら諦めなさい」
 「いやだ、諦めない。それじゃあ、婆ちゃんにしよう。そうだ、婆ちゃんに買ってもらおう」
 次に浮んだのは祖母だった。もしかしたら、と思ったのである。
 「お婆さまは買ってくれないわ」
 弥生も直ぐに、祖母の威厳を思い泛
(うか)べたのだろう。弥生も、祖母が如何に厳しいか知っているからである。彼女自身、祖母からは散々絞られたのであろう。
 「どうして?」
 「あんたには、大き過ぎるの。だから無理、わかる?……」
 こう訊かれて、その語尾に、また“バーカァ……”が付くのではないかと思った。
 そして弥生は、何とか諦めさせようとした。
 「でも、欲しい」
 「聞き分けないのね」
 そう言われても、欲しい物は欲しい。これは人間の、否、私の生理現象だった。
 それ故、どうしても欲しかった。
 次に浮んだのは?……と、思っても、威厳のある叔父は絶対に無理で買ってくれそうにない。やはり伯母かな……となった。

 そして伯母に散々せがんで、何とか買ってもらうことに成功したのである。
 但し、それは条件付きだった。
 「買ってあげるから、もう二度と“おねしょ”はだめよ、わかった?!」だった。
 「うん」
 こうして、私は空手形というか、空約束をして、伯母に雪駄を買ってもらったのである。
 それも子供用の、七五三のときに履くような、そういう白緒の雪駄であった。
 だが、その種のものとレベルが違う。立派な職人が作ったものだった。最高級品のミニュチュア版というような高級品であった。
 その雪駄の底は、革張りである。昨今の安物の雪駄ではない。裏の皮には鋲まで打っている。歩くと、ジャリジャリと音がする。鼻緒の部分には、畳が張ってある正真正銘の雪駄で、鼻緒は蛇革であった。伯母も、奮発したものである。
 形こそ小さいが、まさに大人擬
(もど)きだった。雪駄職人が作ったもので、前が反り上がって、大人の粋な作りだった。もしかするとこの雪駄は、履物屋の看板だったかも知れない。それを伯母が買ってくれたのである。かなりの値段だったかも知れない。子供に履ける雪駄はこれ以外なかったのだろう。
 いつもその雪駄を履くことが、嬉しくて、自慢したい逸品で、いつもご機嫌で、学校にも、遊びにも、雪駄履きという時期があった。
 しかし、その雪駄履きも長くは続かなかった。

  ある日、湾内に打ち上げられ、停泊していた朽ち果てた廃船によじ登り、その船の甲板の上で何人かの級友と走り回り、遊んだことがあった。そして遊び疲れて飛び降りた時、土に潜った古釘を踏んだのである。その釘は、余程尖
(とが)っていたのであろう。
 釘というのは、錆びてその表面を腐蝕させればさせるほど、尖るのである。身は細くなるが、その反面、先端は尖るのである。その、尖った釘を踏み抜いたのである。底が、如何に革張りであろうと釘の鋭さが革を突き抜いて、私の足の裏に達したのだろう。貫通するほどのものではないが、雪駄の皮を突き破り足まで到達していた。

 最初、「痛てィ……」で終わった。
 大して気に留める痛さでなかった。チクリとしただけだった。
 この「チクリ」を泣いては、小さいながらに男が廃
(すた)ると思ったのである。私は泣かなかった。涙が出るのを堪えた。そして後は忘れた。もう、何事もなかった。
 だが以降、大変なことが起こった。高熱を出したのである。頭は焼け付くように痛かった。頭だけ、天火の上で灼
(や)かれているようだった。
 そのとき危うく破傷風になり掛けて、命を失うかも知れないという局面に接したことがあった。高熱を出して魘
(うな)されたのである。
 以降、親戚一同を上げて、てんやわんやのことが起こった。
 当時でも、破傷風の怕さはよく知られていたからである。

 破傷風は外傷から体内に入った破傷風菌の外毒素のため中枢神経が冒される感染症である。更に破傷風菌は土中に常在する菌で、外傷から人や哺乳動物の体内に侵入すると感染する。これが破傷風である。
 病症としては、咬筋
(こうきん)の強直による開口不全に始まるという。咬筋は咀嚼(そしゃく)筋の一つである。酸欠状態のようなことが起こるのかも知れない。
 また、顔面筋その他の随意筋強直性の痙攣
(けいれん)が起こり、また咀嚼筋にも異常が顕われ、高熱を発するという。そして重症の場合は一日以内に死亡するという。何とも恐ろしい感染症である。したがって重傷に至って、運良く恢復しても、高熱で脳を冒されることがあり、脳性麻痺のような後遺症が残るかも知れない。子供は、高熱による後遺症が大と言われる。

 遊びから帰ったとき、いつもとは違う私の様子に気付いたのである。既に熱を出していたようにも思う。いつもと違って、ぐったりなった様子に伯母は異常を感じたのだろう。急を要すると検
(み)たのだろう。伯母の観察眼は実に適切だった。伯母は勘の鋭い人だった。
 直ぐに救急車を呼び、私を病院に運び込んだ。そこからが大変だった。その想像は容易に察しがつく。大童
(おおわらわ)だった筈である。
 医師の話では破傷風かも知れないということになったのである。

 病院に担ぎ込まれたとき、そのまま直ぐに入院となり、即座に破傷風血清が施されたように思う。同時に、
化膿菌(かのうきん)摘出手術もした。後で聞くところによると、そうだったように思う。

 しかし、私は魘
(うな)されるような高熱の中にいて、一部始終は明確に覚えている訳でない。当時を、うろ覚えの中で想像する以外ない。大変な迷惑を掛けたのである。私より、周りの人の方が大変だったことは言うまでもない。そして三日ほど熱を出して寝たままの日々を送ったことがあった。当初は、命の関わることだったかも知れないが、次第に和らいでいき、やがて回復した。
 丸一日か、二日ほど眠っていたように思う。思うが、疎
(うろ)覚えである。

 高熱に浮かされ、夢の中を彷徨
(さまよ)っているとき、伯母とは別に、祖母の貌がちらついていたことを憶えている。そうだったように記憶する。祖母も交替で看病してくれていたのであろう。あるいは、ときには弥生の顔がちらついたこともあった。彼女が、私の手を握って名前を呼んだことを記憶している。
 私は、その度に夢の中で「弥生ちゃん」と呼んでいた。夢の中では、私の前方に弥生が居た。スカートの端を引っ張られる弥生が居た。その彼女にズルズルと引っ張られて歩くのである。何処に引っ張られるか、何処に連れて行かれるか分らない。それが夢か現実か分らなかった。何処に彷徨っているか分らなかった。
 その弥生が、ときどき後ろを振り向いて「見えるじゃないか」と叱咤するのである。叱咤の声は、近付いたり離れたりした。離れて消え去るようだった。

 しかし、祖母は現実的であった。
 祖母は、幻の中に彷徨う人でなかった。実態を顕す人であった。それが克明だった。
 それゆえ、やはり祖母の顔が、一番長く在
(あ)ったように思う。祖母が私の傍(そば)に、いつもいてくれていたように思うのである。祖母には確かに実態があった。幻想ではなかった。
 祖母は私の手を握り、何か歌を歌って聴かせてくれているようだった。それが子守唄のようにも聴こえたのである。心地よく耳に響いたものであった。
 小さな、掠
(かす)れた声で、しかし細いが、しっかりと澄んだ声で、歌を歌い、耳許(みみもと)に届くように囁(ささや)いていてくれたことを憶えている。
 それに、子供心に歌詞の意味は全く分らなかったが、古語調的な歌詞が、何故か私を惹
(ひ)き付けたのである。それが妙に、耳に心地よかったのである。夢うつつのなかを心地よく響き渡ったのである。
 随分と後で分かったが、「あした露おく、野の静寂
(しじま)に、愛(いと)しアニー・ローリー、君と語りぬ、とこしえまで心かえじ……」という歌詞だった。

 あの時の想い出の中に、祖母の小さく響いていた歌声は何だろうと思うのである。濁声
(だみごえ)で歌う、ド演歌の歌手の音色より数段も上の、透き通る声だった。
 日本人が長らく忘れているような声だった。本来は、こういう声が正しいのだろう。

 ところが、商業音楽は、現代日本人に濁声で歌う、その手の大衆音楽を提供し、あたかも神聖なる音楽のように錯覚を植え付け、培養してしまったのである。
 演歌を自称「艶歌」と言う。
 いつのまにか、日本人は商業音楽に、霊的神性な音感を狂わされてしまっていた。
 考えれば、どこに「つや」があるのかと言いたい。艶
(つや)は、うるわしく光る光沢があってこそ、絹のような鮮やかさを放つのだ。濁らせては、何処に光を見出すというのか。救われるというのか。
 地の底に埋没するだけではないか。

 人間が生死を彷徨っているとき、そこに聴こえて来るのはド演歌ではないだろう。濁声ではないだろう。天子のような透き通った声の響きだろう。限りなく透明に近い声だろう。
 一方、ド演歌は、天から聴こえて来る歌ではない。安らぎを覚える歌でない。狂う情念が絡んでいる。男女の狂おしさが絡んでいる。
 それは地の底から声であり、狂わんばかりの歌である。天からの調
(しら)べではない。
 もがき、悶
(もだ)え、善(よ)がり、狂う惜しいほどの恋愛小説の世界の情念である。渇愛(かつあい)の乱れである。強い欲望であり、肉愛の悲鳴である。この狂う惜しいほど悲鳴を、顕界では「情念」と言う。
 この情念は、生死の縁を彷徨う人間には無用である。末期の、危篤の、九死に一生を得るか否かの瀬戸際にあるものには、無用の長物である。

 だが、私は奇
(く)しくも祖母の優しい声を聞いていた。
 細く絞られた、波調の高い歌を聴いていた。あたかも天使の歌声のように聴こえた。天界から聴こえて来るように思えた。
 もし、あのとき祖母が私の傍にいて、顕界へ、私を引き戻してくれなかったら、私の魂は、そのまま遠方へ行ってしまったのではないかという気がするのである。顕界へ引き戻してくれたのは、祖母の優しい子守唄のような歌声だった。安堵を感じさせることが、私を顕界に引き戻した。

 そのとき、その歌が何と言う曲で、どういう歌詞で、どういう意味のものか分からなかったが、後で分かったことは、 スコットランドの民謡『アニーローリー』だった。それが分かったのは、私が20歳を過ぎてからのことだった。
 そして、この詩とメロディーは、日本人の感性に適合していた。
 私を顕界に引き戻してくれたのだから……。
 祖母は、この歌を何処で覚えたのだろうかと思う。あるいは女学校に通っているときに覚えたのだろうか。
 そういう明治の、あの時代の和洋折衷であった頃の、よき日本を思うのである。青春時代をあの頃に持つ祖母にとっては、古き良き時代であったのだろう。それが、恋の残滓
(ざんし)とも思える『アニーローリー』だった。私の“婆さま”は、随分ハイカラな人だったと思うのである。祖母は娘時代、長崎のミッション・スクール系の女学校に通っていたというから、そこで教わって覚えていたのかも知れない。

 私には、『アニーローリー』の歌とともに、もう一つ忘れられない記憶がある。
 それは祖母が付添え中に、「どうかこの子だけは……」と何かに祈っていたことであった。小さな声で「どうかこの子だけは……」と何度も繰り返していたことであった。その語尾ははっきりしないが、「……この子を持って行くのは……」と、そのようなことを言っていたように思う。
 祖母は神に祈っていたのであろうか。
 明治期、岩崎家に長崎市から輿
(こし)入れした扶美子(ふみこ)という祖母は、私にとって“いい婆ちゃん”だった。祖母が娘時代、どう言う青春を送ったかは知らないが、女学校時代、馬術の選手だったと聞く。
 さぞ、活溌な、お転婆な娘だったに違いない。

 岩崎家の男どもは悉
(ことごと)く死に絶える……。そういう伝説が岩崎家には伝わっている。生死の狭間を彷徨った私に、その言い伝えが闇の中から蘇る。男どもは悉く死に絶える……。みんな死ぬ。
 くぐもった聲
(こえ)で闇の中から聴こえてくる。
 実は、私の上には兄がいた。三歳上の兄がいた。
 隆
(たかし)と言う兄だった。しかし一歳のとき肺炎で死んでいる。
 そのことを知っている祖母は、「どうかこの子だけは……」と、必死で何かに祈っていたのであろう。
 もしかすると、わたしの命を引き換えにして……というような、神との約束をしたのだろうか。わたしの命はどうなっても、いいという気持ちでいたのだろうか。
 いま思えば、もしあのときに重傷化していれば、その後どうなったであろうか。その後の子孫は、この世には存在しなかったし、わが流派もなかった筈だ。
 重篤……。
 やがて危篤状態の陥り、私の命はそこで潰えたであろう。死にかかったが、死ななかった。悪運だったのだろうか。
 “婆さま”が、私の脳幹を通じて、体験記憶を植え付けたのだろうか。有難いことである。
 これは私の幼い頃の小さな臨死体験であった。“婆さま”に感謝……であった。
 祖母によって一命を取り留めたのである。生きる因縁は祖母が齎したのである。祖母から命を与えられたのであった。

 雪駄を買ってくれた伯母は、私を破傷風寸前に追い込んだことや、それが起因したことで、祖母から随分と叱られたかも知れない。威厳のある、武門を誇る“婆さま”のことだから、きっと伯母を呼びつけて叱ったに違いない。それだけに、逆に言えば、私は本家の跡取りとして随分と大事にされていたように思うのである。
 爾来
(じらい)私は、雪駄の類は二度と履かせてもらえず、その後、分厚い革靴ばかりを履かされていた。

 当時を振り返って、祖母が私に対して献身的な看病をしたのは、それなりに理由があった。単に、孫可愛さだけではなかったと思うのである。
 それは、「岩崎家の男は、みな死に絶える」と言う恐ろしい怪談話のような言い伝えがあったからだ。事実そういうことは起こり始めていた。私が破傷風になり懸けて、死にかかったも、これと無縁ではあるまい。
 では今から、その話を始めることにしよう。





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