運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 1
続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 2
続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 3
続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 4
続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 5
home > 続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 > 続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 2
続・霊性の養成『地獄よりの帰還法』 2

夜叉姫幻術対大宅光圀

拡大表示

源頼光と土蜘蛛

拡大表示


●「初めの言葉ありき」という言霊の大事

 『ヨハネの福音書』第一章には「初めに言葉ありき」と言うことが上げられ、「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。この言葉は神であった。この言葉は初めに神と共にあった。総てのものは、これによって出来ていた。出来たもののうち、一つとして、これによらないものはなかった。この言葉に命があった。そしてこの命は、人の光であった」と記されている。
 これは、まさに真理を述べたものと言えよう。

 また、宇宙に遍満へんまん/あまねくみちふさがること)する言霊(ことだま)として「アイウエオ五十音」に濁音、半濁音を加えた七十五音の言霊がある。この音節は“日本語”そのものである。
 この言霊を完全に発声できるのが日本語を遣(つか)う日本民族である。五十声音から重複音を除いて、「ン」を加えた音声が四十八音で、これを「四八音」【註】ヨハネ)と言う。
 この「四八音」の一音一音が「神の名」となっていて、これを「型神名」【註】カタカムナ)と言い、「カタカナ」を現わす。
 こうして考えると、言霊と食物は密接な関係があることが分かる。密接な関係にあるだけに、食を乱すことは言霊をも乱すことになり、日本人はこの食体系を正しく守る必要がある。

 玄米穀物菜食・小魚介・貝類・海草類の食餌法(しょくじ‐ほう)を徹底すると、言霊は、清く澄み渡り、濁(にご)りや歪(ひずみ)のない、正しい発声が可能となる。この清音によって、「三千世界の神々」との交流が可能になる。それは霊的波調が植物性の食べ物によって、「密」に保たれ、清く澄み渡っている為である。此処に現代人は「霊性」を養う必要があるといえよう。

 しかし、グルメを気取り、美食に溺(おぼ)れ、肉食を常習する人達は、血液が濁り、言霊も濁り、ために霊的波調が粗(あら)くなり、霊的神性が下がって、外流世界の交信する次元は低いものになり、交流する霊は魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類のなる。そしてその顕著な現れとして、不倫、怪我、事故、訴訟、争い事などの不幸現象に見舞われるのだ。
 これこそ「霊性」を損ない、自らの“神聖なるもの”を穢(けが)している証拠といえよう。この現実に気付くと気付かないとに係わらず、多くの現代日本人は言霊を穢しているといえよう。

 現代は、神だとか、仏だと言うと、こうしたものは異端視され、狂人に思われる時代である。誰もが、科学の進歩をひたすらに信じ、それに大きな期待を寄せている。科学万能主義に絶大な期待を抱いている。科学こそ万能と信じて疑わない。
 しかし、「科学」などという、人間の知識が作り出した物は、神仏の前では敵ではない。人為は所詮(しょせん)大自然を相手にして適(かな)わないのだ。人間は、まだ人知の範囲として、大自然の一部すらも知り得てないのだ。

 そして、現代人ほど、不可視世界を見下し、未科学分野を迷信と決めつけている人種は、歴史上、これまで顕われたことはなかった。未科学分野を現代人達は異口同音にして、“迷信”と決めつけたり、“オカルト”と捨て置く人種はいない。どうして現代人だけが、このように思い上がってしまったのだろうか。あるいは傲慢(ごうまん)になってしまったのだろうか。

 その一方で、“怪談話”や“幽霊現象”が好きである。さも、実(まこと)しやかに語り、まるで見てきたような、講談師のようなことを喋(しゃべ)って得意がる、低次元の怪談話が好きな連中が居る。同僚や友人や、その他の仲間を前にして、得意満面に怪談話を繰り広げる。自分の「霊的神性」を穢(けが)して、低下させているのも知らないで……。
 そして自身は中途半端な無心論者であるから“お話”にならない。何故こうまでに、自身の霊性を低めるのだろうか。それも、今日の欧米化の食べ物に問題があると思われる。

 「類は友を呼ぶ」という俚諺(りげん)がある。似た者同士は、自然と寄り集まる、の喩(たと)えだ。
 怪談に登場する、また幽霊現象に登場する、死霊や生霊の類(たぐい)は一個の「意識体」である。人間の落した「唸(ねん)」である。肉体は持たないが、波調が同じであれば、同等のレベルに人間に同調する。程度の同じ物は共鳴し、同調するのである。よく言えば、同調や共鳴だが、悪く言えば「憑衣(ひょうい)」である。取り憑(つ)かれるのだ。

 それはあたかも音楽的なハーモニーが、よく融(と)け合った和声になるが如く、共鳴し、協和するのである。つまりこれが同調であり、“ハモる”という現象なのだ。
 程度の同じ意識体は、同じ程度のものに同調するのである。霊的波調が同じならば共鳴するのだ。
 肉の眼に確認できない物でも、意識体において“ハモる要素”があれば、これは協和する。同調する。
 もっと分かり易く言えば「取り憑(つ)かれる」ということだ。「憑衣されて、一体化する」といってもいいだろう。こうした現象が、若者を初めとして、幅広い年齢層に起っている。今日では老若男女を問わず、憑衣現象が起っている。

 中途半端な無心論者は、こうした「意識体」に協和して取り憑かれ、健康を害している者が少なくない。
 別に、身体的な障害の病状は発見できないが、というような、「不定愁訴(ふてい‐しゅうそ)」というような、神経を逆撫(さかな)でする、明白な器質的疾患が見られないのに、さまざまな自覚症状を訴える状態なども、一種の憑衣現象を現れで、霊障である場合が少なくない。
 霊障は、まさに精神的には「霊症状」である、多くの場合、心身を冒している。そのくせに自身では正常と思い込んでいる。実に始末の悪い状態と言える。

 つまり、気付かないうちに、精・心・神の「神(しん)」を冒(おか)しているのだ。
 「神(しん)」が冒されれば、心身共に異変が顕れる。肉体的異常が顕れる。心に異変が顕れる。常人になくなり、精神を分裂させ、人格が失われる。この状態を、現代では「統合失調症」などという体裁のいい言葉で呼称されているが、要は、「精神分裂病」であり、この精神病に罹(かか)ると、今日の雇用難の時代では、廃人同様に扱われてしまう。
 この病気は、人格に特有な変化を来す「内因的精神病」であるからだ。慢性化するだけに始末が悪い。

 中途半端な無心論者達は、「オカルト遊び」が好きである。こうした遊びをおもしろ半分に遣(や)る。そこに憑衣の現実が、側面に横たわっている。
 彼等は霊魂など、端(はな)から信じない癖(くせ)に、幽霊現象などを「興味本位」の趣味の領域に率いれて、怪談話を好む。こうした若い男女が少なくない。彼等は皆おもしろ半分だ。他人を怖がらせることに、異常な執念を燃やす若い男女が少なくない。そして「自分には霊感がある」などと嘯(うそぶ)く。
 しかし、これも“度”が過ぎれば、不完全な青少年時代は、憑衣され易い体質にあるのだから、心を傷付け、神を冒す場合がある。この時に、精神分裂病の初期症状が顕れる。動物などの狐狸(こり)の類(たぐい)の低級霊に憑衣された為だ。そして体調を崩していく。人格の自律性が疎外されるからだ。

 この病気は、多く青少年期に発病する。十代後半から二十代初めに第一期症状を表す。この時期に、心を傷付け、神を冒せば、三十歳前後に、妄想や幻覚などの症状を呈するようになる。
 そして、しばしば慢性に経過して、人格の特有な変化を来す内因的症状が顕れる。
 精神分裂病とは、こうした恐ろしい精神病である。そして憑衣者は、ご丁寧に「狐狸(こり)の真似」までやってのける。精神と神経を冒されれば、この世界に落される。異常は拡大され、憑衣はますます深まるばかりである。心の領域だけではなく、「神(しん)」を冒されているから質(たち)が悪い。

 こうした憑衣現象は、最初は「頭が重い」とか「頭痛がする」といった軽い程度のものである。ところが、ある日突然に豹変(ひょうへん)する。常人とは違う行動を見せるようになる。幻覚を視たり、幻聴を聞いたり、異常な言葉を喋り出す。言霊が狂わされたからだ。
 特に、人格の自律性が障害され、周囲との自然な交流ができなくなるのだ。その為に、動物の仕種(しぐさ)を真似したり、何時間も、じっとしていて動こうとしない。

 また、自身では時間の観念がなくなってしまう。時間と言う観念が、突然空洞化するのである。こうした表情は神経症患者にも多く見られる。神経症は、分裂病患者と酷似した症状を見せることもある。現代精神医学では、分裂病と神経症は因果関係がないとしているが、そうばかりとも言い切れない。

 また、こうした症状には種々の型があり、大きく分けて、破瓜型、緊張型、妄想型などがある。そして症状はますます深刻化する。かってこの病気は「早発性痴呆」とも呼ばれたこともあった。しかし精神医学では、痴呆症とはっきり特別されている。そして分裂すれば、今日の精神医学では、殆ど恢復(かいふく)の見込みがない。生涯、「朝・昼・晩の、日に、三度三度の精神病薬の薬」を飲用することが、決定付けされてしまう。
 この病気が、いま現代人を襲いつつあるのだ。患者は増加の一途にある。

 現象の発端は、食餌法の大間違いに加えて、言霊を穢(けが)したことにあった。言霊を穢せば、人間の言葉は「唸」に通じるのだから、直ちに履行(りこう)されてそれが現実化される。言霊で言う「ことば」は、また「光透波(ことば)」の意味を持つ。そして光透波が乱れるのだから、結果は容易に想像が付こう。これを狂わせれば、人間としての人格までもを失うのである。



●食への慎みを忘れてしまった現代人

 食が乱れ、食に慎みがなくなると、世の中は自(おの)ずと乱れる。此処に不幸現象の実体があるといえよう。
 人類の歴史は、欲望の歴史であるが、その側面に“飢餓の歴史”があり、食(く)える者と、食えざる者が居たことを忘れてはならないだろう。

 政権争いや、戦争による領土の争奪は、一方において、食える者と食えざる者の戦いであった。こうした飢えからの解放に向けて、人類は奔走(ほんそう)したという歴史を持っている。豊かな、農作物が実る、緑の大地を求めて、人類は争奪戦を繰り返したと言っても過言ではない。

 主導権争いに先駆けて、君主は自国民を食わせてこそ、「王」たる資格を得たのである。
 「衣食住そなわって礼節を知る」とは、この事を如実に現わしている。
 しかしこの「衣食住」のうち、神から本当に授けられたものは、衣食住のうち、「食」だけであり、衣類も土地も家も、神からの預かりものであるということを忘れてはならない。

 いつの頃からか、人々は衣類も土地も家も「私有財産」と思い込み、食だけが神から授かったものであるということを忘れてしまった。
 この事は、親子孫三代に亙(わた)って、同じ土地、同じ家を維持している人が極めて少ないと言う理由からも窺(うかが)えよう。

 かつて祖父の代は大地主であった。ところが「子の代」になって、子は放蕩息子(ほうとう‐むすこ)に成り下がり、孫の代に至っては、売に出され、一家が離散したと言う話は全国津々浦々ゴマンとある。一時期住み着いた先祖からの土地も家も、永遠なものでないということが分かろう。

 また、衣類にしても、子供の時に着ていた物は、年齢と共に着られなくなり、衣類すら、自分自身には永遠のものでないことが分かる。
 したがって「食」だけが人間に与えられている、「今の食べ物」であるということが分かる。少なくとも主食においては、同じものが与えられる。

 そして「食の原点」を振り返った時、食は節食し、捧(さ)げてこそ、開運に至り、病気が治るという事が分かる。それは人間界が、神の庭の上に展開されているからである。
 太古の日本人は山を見て神を感じ、川を見て神を感じ、海を見て神を感じた。そして風も神、雨も神、天地悉々(ことごと)くが神であり、草木も神であった。

天地大自然には、多くの神々が宿っている。ところが、こうした「神」の扱い方を間違うと、とんでもない「報い」を受ける。『蛇石の怪』より。

拡大表示

 だからこそ日本民族は神を祀(まつ)る民族で、五穀豊穰(ごく‐ほうじょう)の儀式は神を祀った、神への感謝と供えの儀式であった。大地から穫(と)れた農作物をまず、神のお供えし、それを頂いたのが人間に与えられた食べ物であった。

 「腹八分」とは、こうした神への供物が「二分」で、残りの「八分」を臣民が頂くという事だったのである。臣民腹八分とは、実は二分を神の感謝に捧げるという事だった。そしてこれは同時に、「節食」を現わしたものでもあった。これこそが「慎み」とされた。多くを欲張ってはならないのである。満腹になるまで喰い過ぎず、何事も「ほどほど」が躰に一番良いのである。こうすれば、脳内の「満腹中枢」も正しく働くだろう。

 また太古の日本人は、今日の現代日本人よりも、遥(はる)かに優れた自然観を持ち、その魂は正しく、清らかに、濁りなく、澄み渡っていたものと推測できる。
 特に縄文期の日本人は、生まれながらにして自然の至る所に神の居ることを感受でき、人間本来の「霊的能力」を十二分に発揮していたと考えられる。自然の一部始終を捕えて、神を見、そこに“畏敬の念”を抱き続けたのであった。

 彼等は神と共に在(あ)り、神と擦(す)れ違う今日とは大きな隔たりがあった。
 私達日本人は、もう一度こうした太古の日本人の精神に立ち帰る必要がある。玄米を中心とした穀物菜食と、近海で捕れた小魚介・貝類・海草類によって、食改革を推進する意義が、此処にある。



●共食いの食文化からの脱出

 玄米穀物菜食・小魚介・貝類・海草類などの食餌法(しょくじ‐ほう)を実践すると、どのような利点があるか挙げてみよう。

血液が清浄に保たれ、浄血されて、抗ガン体質を造る事が出来る。
血液が浄化されるから、霊的波調が密になり、神気(しんき)を受ける確率が高くなる。
全般的に病気に罹り難くなる。仮に罹っても恢復(かいふく)が早い。
怪我、事故、不倫、家庭不和、裁判沙汰、警察沙汰などの争い事がなくなり、不幸現象が小さくなる。温和な気持ちになり、腹を立てなくなる。
 また、こうしたものに遭遇しても、最小限に被害で止める事が出来る。
大きな災難が小さくなるのであるから、災いに対する防禦(ぼうぎょ)・護身に無駄なエネルギーを遣わなくてよくなる。
腸内から酸毒性の腐敗物質を駆逐する事が出来、躰が軽くなって、疲れに難くなる。
 また、身軽になるため、腰痛、肩凝り、肘痛、膝痛、足頸痛などの体重が圧迫する痛病から解放される。
判断力、決断力、直感力が高まり、根気と忍耐の精神力が養える。
運を開く事が出来る。穀物菜食ならびに小魚介・貝類・海藻食の粗食・少食は後天的に「末広がり」の運勢を持つ。
精神力と共に、度胸が出来、心が豊かになって、肚(はら)の坐った度胸と人間性ができ上がる。また「細心大胆」の兼ね合いが理解できる。
10
霊的神性が高まり、霊格が一段と増す。つまり「霊性」が養われるのだ。

 以上のように穀物菜食は科学的にも有効であり、他にも細々と挙げれば、切りがないが、歴史的に見ても、神霊学的に見ても、人類にとっては非常にプラスになる面が挙げられているので、この真理は疑いようもない。

 こうした真理を挙げながらも、中には、それでもやはり牛肉か美味しい、ローストビーフはカロリー豊富で美味、寿司のトロは格別、仔牛(こうし)のソテーや、中国風の青葉焼牛柳(チンチョイシャオニュラオ)、その他の肉と野菜などをバターや油で炒めたり焼いたりする料理は止められないとして、穀物菜食をしても長続き出来ないのではと、はじめから諦めてしまう人がいるかも知れないが、こうした人には、敢(あ)えて穀物菜食を御勧めする気持ちは毛頭ない。好きなだけ肉を喰(く)らい、「肉常食者」になればいいのである。

 ついでに、牛を丸ごと自分で“解体”してみればいいだろう。生きた牛を、自分の手で解体してみればいいだろう。そうすれば、この「行為がどんなに恐ろしいことをしているか、明確になるだろう。
 牛肉や豚肉は、スーパーやデパートの地下街の食肉コーナにパックに入って、最初からこうした形になっていないからである。

 発泡スチロールのポリスチレンの“気泡の中”に、牛肉や豚肉は最初から納まっていないからである。あれが牛肉や豚肉の実態でないからである。これは人間が加工処理した結果である。こうした「動物を殺す職業」に従事する人が居るからである。これは間接的に言えば、多くの大衆の中の肉常食者が、「動物の肉を求める」からである。現代栄養学が「肉と野菜をバランスよく」などというスローガンを掲げているからである。その為、人が求めるからである。美食にありつこうと、贅沢を覚えるからである。

 またこの学問では、「肉の中に良質のアミノ酸が存在する」という学説を掲げているからである。その為に、その食指針に従い、現代人は“四ツ足の肉”を喰(くら)う肉食文化を作り上げた。賭殺(とさつ)文化を作り上げた。

 しかし、それは同じ性(さが)を持つ「共食いの文化」だった。これが不幸現象を巻き起こす元凶だった。その為に、せめて“四ツ足”の肉を断ち、動蛋白は哺乳類の人間の性(さが)から遠い、小魚介か貝類に切り替え、玄米正食に切り替えるくらいの気持ちは持ってもらいたいものである。
 人間と同じ性(さが)を持つ、哺乳類の彼等は、例えば牛とか豚とか羊とかは、人間から使役され、または喰われる苦しみに喘(あえ)いでいる動物であるからだ。本来ならば、彼等は人間が保護すべき動物なのだ。それを「喰(くら)う」とは、筋違いも甚だしいのだ。

 そして現代は、クジラやイルカは「賢い動物だから喰(く)っては駄目だ」という考え方がある一方、牛や豚は「クジラやイルカほど賢くないから喰ってもいいのだ」という考えがある。同じ哺乳類でありながら、どうしてこうまでに差別されるのだろうか。
 それだけに最初から人間に喰われる為に生まれてくる牛や豚の苦しみは、実に哀れなものがある。

 苦しみに喘(あえ)いでいる動物を見たら、「あれはかつて自分の父母だった生き物だ。ああやって苦しんでいるが、迷いの為に苦しみから解かれず、心の愚かさで曇らされているのだから、彼等の“痛み”を分かってやらなければならない」と、そうした気持ちを持ち続け、その努力を常に怠ってはならないだろう。
 そして彼等にこそ、「深い愛情と慈悲の心の込めるべき」なのである。

 彼等は人間の同じ性を持ちながら、「なぜ動物に生まれてしまったのか」という苦しみを理解し、その立場を少しでも分かってやるべきだろう。
 不自由を強いられる彼等こそ、実は神が作り出した、「最高の芸術品」であり、これを喰うとは筋違いも甚だしいのだ。



●「頂きます」の意味

 さて、私達は食事の前に合掌して「いただきます」という言葉を発する。
 この「いただきます」は、食物から「命を頂いている」から「いただきます」と言うのであって、人間に代わって、その命を投げ出した食物に対しての感謝の意味を現わした言葉であることを忘れてはならない。
 だから当然、食事をするには「正しい食べ方」と言うのがあって、少なくとも、次に挙げる三点には、ぜひ注意を払いたいものである。

自分の棲(す)んでいる土地で採れた穀物野菜類並びに、近海で捕れた小魚介や貝類、海藻類を食べる。これは「身土不二(しんど‐ふじ)」の思想。
 したがって、“四ツ足”を間接的に食べることは、人間には許されていない。また、三白癌(白米ならびに白パン、白砂糖、精白塩)の元凶である食品も口にしない。添加物食品やインスタント食品も出来るだけ口にしない。




よく噛んで食べる。一口50回程度の咀嚼(そしゃく)で、よく噛む咀嚼法を実践する。咀嚼法には「一二三(ひふみ)の食べ方」という食事作法がある。
 “よく噛む”ということは、コメカミにある海綿静脈洞
(かいめん‐じょうみゃく‐どう)を刺激し、脳に血液を送り込む作用を促す。そして「噛む」という作業は肥満防止にもなる。噛むことにより、脳の満腹中枢が正しく働くからだ。
 咀嚼回数を標準体重の人と、肥満の人とで比較すると、一回口に含むごとに標準体重の人は男性で15〜22回、女性で16〜25回。肥満の人では男女とも3〜7回と少なく、咀嚼回数の減少が肥満につながっている。
早食い(くん呑み/本来哺乳動物は「くん呑み」出来ない口腔構造になっている。ところが、やわらかい食べ物が急増した為、流動食的に「くん呑み」する早食いの悪習が出来た。果たして人間以外の哺乳動物に咀嚼の際、「くん呑み」する動物がいるだろうか)に趨(はし)らず、ゆったりとした気持ちで食べることが大事であり、食物から命を頂いた感謝の気持ちを忘れない。
 また、食事の際に、テレビを見ながらなどという、誤った一家団欒
(いっか‐だんらん)は禁物である。咀嚼回数が減り、食べることより、見ることの方に注意が向かうからである。「お笑い番組」を見ながら、それに現(うつつ)を抜かす一家団欒は、やがて家庭内に破局を生じさせる元凶となる。



腹八分を心がける。
 一日三食以上の過食は禁物。排便反射を高める為に、朝食は飲物(玄米ジュースなど)にして、昼と晩の一日二食が理想。

 昨今は“飽食の時代”である。世の中は不景気であろうと、企業倒産が起ころうと、日本国民の多くは、一度味わった飽食から逃れることは出来ないようだ。

 巷(ちまた)には、至る所に様々な飲食店やハンバーガー・ショップが軒を連ね、美食や美食擬きを庶民に提供している。
 そして食べ過ぎで死ぬ人はいても、食べられないで死んだ人は、居たためしはない。

 誰もが食べ過ぎで病気になり、それのもたらす難病・奇病で苦しんでいる。これは日本だけの不思議な現象と言えよう。
 したがって私達は、口から入る物、そして出て行く物に注意を払わなければならない。これを怠ると、不幸現象に見舞われる。また、これによって、私たちは「食」が如何に大事であるか教えられる。

 戦争、交通事故、不倫、その他のトラブルや裁判沙汰、災難、難病・奇病と言ったものは、食と密接な関係があり、これが乱れ、慎みがなくなると、こうした不幸現象が現われてくる。
 そして人間が食する理想的な食餌法は、一日二回の昼食と夕食のみ。朝食は食べずに「玄米スープ」などの飲用物を用いるのが、「同化作用」と「異化作用」から言っても理想である。

 肉体と言う、生体を支えているのは、生体の持つ「生理機能」である。この生理機能に、「同化作用」と「異化作用」がある。両者は全く違った、相反する方向性の働きを持っていて、一日の活力のエネルギー源を生理的に関与しているのである。

 ちなみに「同化作用」は、生体物質を合成し、エネルギーを蓄積していく働きがあるのに対し、「異化作用」は、生体物質を分解し、エネルギーを解放して消費していく働きを持つ。この二つの作用は、夜と昼では交互に入れ変わるのである。日が暮れて夜半に入ると、この間は同化作用が優位になり、夜が明けて日中においては異化作用が優位になるのである。

 人間は、一日の内で違ったリズムにより、生体は運営されている。
 「食事」と「睡眠」は同化作用の働きであり、「排泄」と「活動」は異化作用の働きである。
 人間は食事を摂ると、心身がリラックスし、やがて眠りに就く。そしてこの睡眠中に、同化作用が完了する。
 そして翌朝、眼を覚まし、早朝は排泄タイムであり、不要物を排泄したら、一層身軽になって、昨日、異化作用で得たエネルギーを存分に遣って、様々な日常活動や経済活動を行うのである。これこそ、人間に与えられた順当な「今日一日」なのである。

 また食事にあたっては、霊的神性を高める為にも、粗食・少食の「腹八分」で止めることが大事であり、残りの二分は神への捧げに用い、何よりも動物性を口にせず、舌先三寸で、その美食・美味の、味覚のウソに騙されないことが肝腎である。

 騙されれば、四ツ足を安易に食べ続ける結果を招き、波調を粗くして霊的神性を曇らせ、霊格を下げてしまう。
 霊格が下がれば、当然、見通しが悪くなり、勘が鈍り、様々な不幸現象を招き寄せる。

 不幸、不運と思っている多く人は、こうした「禁を犯している」からであり、四ツ足を食べながらも、幸福になりたい、強運を招きたいと思っても、それは空しい“負け犬の遠吠え”であろう。まずは「食」の改善は必要であり、霊性を養わなければならない。
 強運、開運の秘訣は、実は粗食・少食の「食餌法」と密接な関係があったのである。



これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。


入会案内はこちら

daitouryu.net会員の入会はこちら



<<戻る トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法