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好機到来の法則 3


●知性という第二の体力

 肉体末端の筋力を鍛え、スピードの強化を図る事だけが、体力の強化ではない。
 知性を深め、思考を繰り返すことも立派に体力の強化にはいるのだ。知性という中枢機能の強化を図る事も、立派な体力養成法なのである。

笹之葉の如く、太く短く書く、元代の禅僧中峰明本の筆跡を、「笹の葉書き」という。笹之葉は、小竹の葉の種類である。しかし、その裡側(うちがわ)には、精神と肉体が絡まる力強さがある。イネ科の常緑多年生植物は、常に弾力に富み、皮の落ちないものの便宜的な総称にも遣われる。

 筋力とスピードの養成は、肉体の老化と共に衰えていって、年々低下する傾向にあるが、一旦鍛えられた知性は、そう易々とは低下しない。年齢と共に益々円熟するのだ。
 人間の構造は大別すると、肉体と精神の二重構造で構築されていると思われているが、正確には水冷式高等哺乳動物の肉体の上に、心が搭載されており、肉体と心を結び付けているシートベルトの役目を果たしているのが魂であり、「肉体」「心」「魂」の三つの各々次元の異なるものが重なり合った、三重構造の仕組で構築されているのである。

 しかし、三重構造の「ヒト」としての真価は、表面的な肉体だけに集中して、心と魂は蔑
(ないがし)ろにされているのが現実のようである。

 さて、心と魂は、年齢の低下と共に、筋力に若さを失い、スピードに勢いがくなると、肉体へ執着する意識は一旦肉体を離れ、精神の方へ切り替わるという構造を持っている。そして精神の世界、心の世界に誘うのである。しかし、この構造の秘密を知る者は非常に稀
(まれ)である。

 多くの俗人・凡夫は若さを失わない為に、無知な肉体トレーニングに励んだり、無駄な汗を流す事に専念するが、これらは徒労努力で終わる場合が多い。一見肉体を動かすことで、かいた爽
(さわ)やかな汗も、実は体内の栄養素を外に排出しているだけであって、限られた新陳代謝の回数を早めているだけのことである。現象人間界では、過ぎれば何の意味もないのである。むしをマイナス面こそ、多いのである。

 したがって、一旦衰えた肉体は若い時のように回復されることはない。これらにいつまでも固執していると、短い人生はそれだけの、暗中模索の手探りだけで終わってしまうことになる。このことに気付いたら、精神向上に用の成さない肉体信奉からは、即刻、離れるべきである。物質から精神への移行が大事である。欲に振り回される生き方は、やがて禍
(わざわい)を招くのである。
 若い時の暴飲暴食は、ある程度無茶をやっても大した異常は現われないが、歳を取ってからの暴飲暴食、あるいはグルメと称して、美食の喰
(く)らい過ぎは命取りとなるのだ。肉体強化これと同じと考えればよい。

 この事からも分かるように、肉体の離れる転機のようなものが人間には各々備わっていて、この脱皮をうまく出来ない者は、肉体だけに頼り、再び同じような場所を堂々巡りしなければならなくなる。迷いの中に引き戻されてしまうのである。迷いの中に引き戻されれば、老齢期に襲って来る死生観の解決が出来なくなってしまうのである。人間は、死に向かっての存在であるからだ。

 肉体に衰えを感じたら、それは肉体が精神の方へ、転機の時を知らせているのである。それを無視して、肉体の再強化や、無理なウエイト・トレーニングをすれば、暴飲暴食の如きの愚を冒して、命を縮める結果になる。人間には各々の年齢層に、「転機」が存在しているのである。
 精神の強化は知性を豊かにするものであり、知性は精神の確立の上で重要な役目を果たしているのである。



●幽体離脱

 幽体離脱とは、自らの小さな自我
(じが)を抜け出して、それを外部から客観的に、冷静に見詰める事を言う。
 自意識に目覚めたとき、肉体から心や魂が抜け出し、時間や空間に関係なく、何処にでも自由に移動出来て、堅苦しい不自由な肉体から開放される事を言うのである。
 これは決して神秘体験のようなものではなく、こご自然に、誰にでも行える簡単な精神行動であり、「ヒト」の三重構造の集合体が、自意識に目覚めることによって、各々の次元レベルで行動することなのである。

 しかし肉体に固執している以上は、いつまでたっても幽体離脱など出来ようもないのである。
 現世は「夢の構造」で構築されているとするならば、その夢もまた現実であり、夢は自らに力強い勇気を与えるものである。
 そして夢を見詰める事で大切なのは、主観的な見方をするのではなく、側面から客観的に自分自身を見詰めるという事である。自己を深く掘り下げ、その自己の裡側
(うちがわ)を凝視する必要があるのである。つまり、「自分とは何か?」の自問自答である。

 これが、自己を発見し、自己と出会い、自己を探索する為のイメージトレーニングである。
 自分自身の姿を思い、その姿を第三者として、まるで自分が主役を演じているような主人公として、それを側面から「観客の座」に坐って見詰めるのである。そして、自分自身は決して脇役であってはならないのだ。あくまで主役に徹するべきである。その主役の自分を見詰める事で、幽体離脱が可能になるのである。自分とは、つまり「主人公」なのである。

 また、ここに未来の輝かしい希望と喜びが息づいているのである。それは自分一人ではない、宇宙との繋
(つな)がりを持っている宇宙意識に目覚めた自分なのである。これが出来れば、既に自分と宇宙は一体になっているのである。



●摩擦の原理

 人生に摩擦はつきものである。
 摩擦なしに、人生修行の一切を順風満帆
(じゅんぷう‐まんぱん)に送れるわけがない。人生は常に大なり小なり、トラブルの連続である。往々にして、処し難い諸問題も抱え込む。逆境に立たされたり、裏切りの憂き目にも遭う。常に壁に突き当たり、行く手を阻(はば)まれ、次から次へと厄介な難事が襲ってくる。

 さて、これを「好機!」と捕らえるか、あるいは「災難!」と捕らえるかは、各々の個人の力量と度量に委
(ゆだ)ねられる。しかし難事に遭遇する事も、また人生修行と思えば、新たな道が開けてくるのではあるまいか。思い悩むことはないのである。

 人生に「永遠」とか、「絶対」とかいうものはないのである。
 逆に、実体のない夢が永遠に連続して、難事ばかりで終始する事もない。難事はやがてどん底の淵をなぞるようにして折り返し、いつかは好機と変わるのである。それに気付くか、気付かないかは個人的な直感と、今までの培った経験によるが、経験の多い人ほど、この浮沈の道理を知っていて、また、そんな人に限って、人間的な魅力も多く備わっている。

 さて、生きる事は一種の「摩擦」であり、動く事も、また摩擦である。常に何かに抵抗しなければならない。生きると云うことは、こういう事なのである。
 人間は動けば必ず摩擦が起こるようになっている。人間の感覚器官は、そのような構造をしているし、精神的な構造も摩擦には敏感で、人生舞台そのものも、摩擦の構造から成り立っている。

 人は、これらの構造の実体に眼を背けるのは人情であるかも知れないが、摩擦や障害のない順風満帆な人生の中からでは、「修行の場」としての人生を、肉体的感覚や精神的感覚で捕らえる事は出来ない。
 摩擦や難事を恐れる、このような状態を繰り返していれば、感覚が麻痺
(まひ)して、やがては人間として心と魂が退化する。人生に落伍したことにも気付かない、精神的不感症患者と成り下がるのである。

 感覚の中で摩擦を感じる事は、人間に課せられた宿命である。その宿命は、何も摩擦による障害ばかりをクローズアップするものではない。摩擦は快感的に気持ちのいい事だってあるのだ。

 ある意味で男女の交会
(性交)も摩擦なのである。動けば摩擦が起る。その摩擦は触れ合う事によって、精神的肉体的快感も呼び込むのである。これが精神的には感性であり、肉体的には官能である。そこに宇宙の摩擦エネルギーが存在しているのである。摩擦は生きることへの創造となりうるものである。

 相手の居るところには必ず摩擦が生じ、摩擦エネルギーが発生する。トラブルを起こし、障害を起こし、口に例えようのない摩擦だって、大きなエネルギーを生み出すのである。このエネルギーを敬遠するか、あるいは素直に受け入れるかは、その人の力量と度量に委
(ゆだ)ねられるのである。

 愛情が一種のこのような摩擦力の要素から出来ているとするならば、また恋愛も摩擦であり、ここにある種の摩擦エネルギーが発生するものと考えられる。相手が居て始めて、この摩擦エネルギーは放電し始めるのだ。

 世の中は弱肉強食の世界である。強い者が勝つようになっている。しかし強者も初めから強かったわけではない。鍛えられるうちに、そして場数を重ね、経験するうちに次第と強くなっていったのである。鍛えられるという事と、経験するという事は、一種の摩擦を体験する事であり、これが強者の要因を作りあげていくのである。摩擦や障害のない順風満帆な状態では、これを感覚的に捕らえる事は不可能である。

 弱い者と摩擦しても強くはなれないが、強い者と摩擦すれば、自分が挫
(くじ)けない以上、必ず強くなれる。
 情愛もそうである。知性的な美人と情愛を交わせば楽しいが、無教養なブスとでは楽しくなれないのと同じである。無教養なブスでも最初はもの珍しさと、性器への興味から、肉欲は満足させてくれるが、やがてはその肉欲にも飽きが来る。
 それは肉体以外に、精神面が何も存在していないからだ。

 話をするにしても、知性の溢れる相手と会話するのは楽しいが、知性の欠けた者を相手にすると、傍
(すば)に居るだけで息が詰ってくる。一切が暖簾(のれん)に腕押しで、摩擦が伴わないからだ。
 知性は互いが磨き合うことで強化され、各々の刺激と摩擦から向上するものである。
 摩擦原理は相手が強ければ強いほど、向上していくという仕組がある。

 これを利用して1ランクも2ランクも上を狙うべきである。下とは、決して摩擦が起こらないのだ。上へ背伸びをして目標を高く持つと、「出る杭
(くい)は打たれる」喩(たと)えから、必ず内外から摩擦が起こってくる。その摩擦こそ、人生には大事な事柄であり、これが好機到来の暗示を促(うなが)すものなのである。



●「生」の創造

 生きることは、他に抗
(あらが)うことであり、また、「生」について創造することである。
 人間の「生」については様々なものがある。「生」とは第一に、自分の要求ならびに意志の不断を外に向かって顕
(あら)わす力である。
 「自分の力の表現」とは、自分を一つ一つの
“形”に、“物”に、顕わしていく働きである。自分と常に、「外の表現」としていくものである。

 あるいは、これを「創造」として造り出していくものである。それは“言葉”であったり、“泣き笑いの貌
(かお)”であったりする。みな同じ表現である。これこそが外に顕わす表現である。また、これこそ「生」そのものであり、「死」と対照的である。
 つまり、「死」とは、屍体
(したい)が物言わぬように、貌の表現にも表現力がなく、ただ物体化した状態を云うのである。

 したがって、“生きている”ということは、自分を外に向けて表現していくことなのである。
 自分を表現するのに“言語”がある。自分の心うちを表現するのに“言葉”がある。また“文字”がある。その為、自分の要求を外に向けて顕わす為には、「物」を持って来たり、運んだり、あるいは創り出すという事をする。これこそが唯一の表現方法であるからだ。

 喩
(たと)えば、「水が飲みたい」と言う要求が起きたとする。水の飲む為には、そこで水を飲む為の“器”が必要になる。器を持って来て、それに水を受け止める。受け止めて、次に口に持っていき、流し込むことにより、咽喉(のど)の渇きは癒(い)える。

 この行為の一連を洞察すると、「水が飲みたい」という要求が起きた場合、水を汲む器を持って来る。それに水を汲んで眼の前に持って行く。口に当てる。そして「飲む」という、要求を充
(み)たす動作があることが分かる。
 これは如何なる動作も、要求完成の為に向けての働きである。自分の要求を外に向けて顕わし、要求の課題である水を飲むと言う行為を行い、水と言う「物」に顕わして、水を飲む行為を表現したのである。

 眼に見えない自分の心の裡
(うち)だけに燻(くすぶ)っている要求は、「物」に表現すると云うことで、要求は完了するのである。
 この要求の完了ならびに要求の完成は、喩えば、美しい花などを見て、これを絵に描いて表現する方法もある。これが芸術の起こる起源であった。つまり、ものが起こりうる起源とは、「生」の表現であったのである。「物」なり、「形」なりを創り出すというのが「生」の表現であり、これが「生」の本質なのである。



●虚無的な人生観

 しかし、こうした「生」も永遠のものではない。永遠どころか、千年、万年のものもない。百年のものですら少ない。幾ら完璧の思想であっても、時代が変ればそれは過去のものであり、旧式のものになってしまう。古典となり、過去の研究材料になって、「今」という次元では使い物にならないものとなる。

 時代が変り、新しい時代がくれば、またその中から新しいものが生まれる。況
(ま)して、功績などというものは、その時代だけのものである。政治でも、法律でも、芸術でも、文芸でも、総て、その時代にだけ通用したものである。歴史に記される、歴史的なもの以外ではない。時代が変り、歴史が転換すれば、先に価値のあったものは、次には価値を失う。世の中が変れば、先の偉大は、次に何の価値も認められない。

 「十年ひと昔」であり、十年も経てば、もう昔のことなのである。人間には、十年を一区切りと見て、その間には大きな変化のあるものだという思考が働いている。人間は十年単位で物事を考える生き物なのだ。十年経てば、その時代の最新鋭も、古典に過ぎなくなるのである。

 しかし、これを現実的に考えると、現代人と云う生き物は、この「一時のもの」に対し、異常な執念を燃やし、汗水垂らして奔走する側面がある。ただ一度限りの人生において、その虚しさに向かい、功績を捧げようとしてあくせくする現実がある。この「功績を捧げる奔走」こそ、結局、わが人生を虚しいものにしているのではないか。こうした疑念が起こっても不思議ではあるまい。

 幾ら大金を儲けて、自分のものにしてみたところで、自分の生きている間だけのものである。自分の生きている短い間だけである。短い間を享受するとは、何と虚しいことではないか。人の人生は、実に短いのである。第一、一日24時間と言うのは、研究学徒にとっては非常に短い時間であろう。本当ならば、一日48時間欲しいところである。人の一生とは、あまりにも「束
(つか)の間の一生」なのである。

 束の間の一生が尽きれば、後は滅ぶ以外ない。この「滅び」が、実は「死」である。最後には何人
(なんびと)も死ぬ。死だけは、人間に平等に訪れる。これを直視的に捉えれば、人の世は儚(はかな)い夢の如きであろう。

 功績の為に奔走しても、結局、消えゆく一時の花火に過ぎないのである。功名だと有頂天に舞い上がっても、そんな功名などは、時代が変れば無価値のものとなる。無価値に憑
(つ)き纏(まと)う背後には、常に「虚しさ」が鎮座する。みな滅びる運命が免れない。ここに虚無的な人生観が存在しているのである。それは「絶望的」とさえ言えるだろう。



●美以外は総て虚仮と考える耽美主義の愚

 人間が生きていく上で、虚無的な人生観に嘖
(さいな)まされる事実は否めない。つまり、この世に「頼るものは何もない」とする考え方である。最後は「みな滅びるのだ」という虚無感である。

 真理だの、正義だの云っていても、立場が変れば真理もなければ、正義もなくなる。時代が変れば、こうした理念は一挙に崩壊するのである。その最たるものが、政治理念だろう。
 マルクスが得意になって用いたイデオロギーという語句は、歴史的かつ社会的に制約され偏
(かたよ)った観念形態でしかなかった。
 また、レーニンは、ブルジョアジーのイデオロギーに対抗する為に、マルクス主義をプロレタリアートのイデオロギーと考えたが、トラシー
(19世紀初頭、フランスの哲学者デステュット・ド・トラシーが唱えた観念学)らを空論家として非難したナポレオンの侮蔑的用法をもじったに過ぎなかった。便乗の為の諷刺(ふうし)でしかなかった。

 それは中世の封建時代の真理が、今日では真理でないのと同様である。封建時代の正義は、今日では正義でない。したがって世に、永遠の真理も、永年の正義もないのである。真理も正義も時代的なものであり、歴史的なものである。その時の、一時のものなのである。そして観念と称するものでも、みなそんなものは人間の頭に浮かんだ一種の“想念”に過ぎないのである。それが真理なのか、どうかは全く判別がつかないのである。
 また、“これこそ本当の真理だ”ということも、人間のレベルでは知りようがないのである。ただ、発言者が真理だと自称しているだけである。

 こう考えてくると、この世に中には真理だの、正義だのは、永遠の値打ちのあるものではなくなってしまう。真理だとか、正義だとかのこれは、みな人間の頭脳の中で湧き起った空想に過ぎないことになる。もし、これが空想ならば、人間は錯覚の中に、現代と言う世の中を展開していることになる。自分だけの「自覚」と云うことになる。

 火に手を触れれば熱い。氷に手を触れれば冷たい。これは瞭然たる自分の感覚上の「事実」であり、誰が何と云おうと、「確か」なことである。これだけは偽ることの出来ない事実である。つまり感覚だけは「確かである」という思考は、その感覚に寄り添う生き方が生まれる。
 感覚には、快いものと苦痛なものがあるが、苦痛なものを避けて、快いものだけを相手にする生き方が享楽主義である。快楽主義である。

 他に何も信じるものがなければ、人間はこの感覚の中に取り込まれていく。感覚の中に引き込まれれば、「美しいもの」「好きなもの」「気持ちのいいもの」「愛するもの」などをひたすら追求することになる。
 この考えに陥ると、正義だの、道徳だの、真理だの、善だのは存在しなくなる。耽美だけが中心課題となり、その中に快楽の営みを追い求める。そして、正義だの、道徳だの、真理だの、善だのは、人間が互いに世渡りを円滑にする道具に過ぎないと決めつけるのである。

 道具に過ぎない枠
(わく)の中で、それに縛られ、平凡かつ無意味に、享楽や追美の深い意味を知らないでは、これこそ人生を無意味に終らせると、この考えの支持者は息巻く。ただ勤めを大事にして、金儲けの為に道徳を利用して、耽美な味を知らない俗人界は哀れであると、かなり鼻息の荒い論調で一蹴(いっしゅう)するのである。

 この追美に趨
(はし)る人は、美しいものだけを追い、美のみが一切の価値観を代表すると考えるのである。したがって、自分の若さが消え、年老いて醜くなったら自殺した方がいいと考える人である。

 「若さ」という美が、滅びないうちに、有らん限りの力を尽くして、美と享楽に明け暮れるのである。次から次へと、蝶が花の間を飛び回るように、恋から恋い、色から色へと飛び回って、「若い」という生き方を追い求めるのが真実だと考えるのである。そして、こうした考えを持つ人の所見を述べれば、物事を功利的に損得勘定で行動して、そんなことをしては困るとか、人から指弾されるとか、それを不道徳と喚
(わめ)いたり、世渡りに損をするとかを論じている人間を、十把一絡げにして「俗人」と定義するのである。

 この俗人は、凡庸な義理人情に縛られ、一方で道徳を持ち出し、その上で卑怯な立身主義に立ち、結局この人種の追い求める究極には、功利主義が蔓延
(はびこ)っていると論破するのである。

 耽美主義者たちは、何処までも「美」の追求に飽くことを知らない。大胆に、快楽のみを追求するのである。彼等の信じるところは、「美のみが真実」なのである。そして美以外は、虚仮
(こけ)なものとして捉え、空虚であり、虚偽であると考えるのである。



●生の本質を見極める

 理想だの、真理だの、道徳だのは耽美主義者から見れば、総て虚仮に映る。そんなものは人間の頭の中でつくり出した虚構に過ぎないと云う。耽美主義者に懸かれば、マルキシズムすら、虚構の域を出ないのである。したがって、マルキシズムは虚構の域を出ないのだと云うのだ。

 しかし、耽美に溺れる姿も虚構の域を出ないもとなる。何故ならば、快楽は「一時のもの」であるからだ。
 「美」を疑わざる真理と定義したところで、所詮
(しょせん)美も永遠のものではない。一時期に宿る、刹那的なものに過ぎない。一時的であると言う、これこそ、耽美主義の側面に横たわる真実である。

 快楽、悦楽、陶酔、抱擁。これらは疑うべきもない官能の事実から湧き起こるもので、一方、不快、苦痛、難儀も疑うべからざる確かな感覚的事実から起こるものである。これ以外に、感覚器においては確かなものはない。そして耽美主義者に言わせれば、他のものは総て虚妄となる。
 このような主張に立って、享楽主義、快楽主義、耽美主義は、人生観の上に確立されているのである。

 しかし、喩えば享楽主義の人生観が、その人の推し量る人生の上で、どれほどの値打ちを持っているかと云うと、それはその人の享受する快楽の度合いによるものらしい。どれだけ自分が、それを享受したかに懸かるのである。これを自然な考え方とする。自然の性情だとする。

 しかし、享楽主義に自然の性情は存在するのか。あるいは果たしてこれが、人生の真実であり得ようか。問題は此処にあるのである。
 それは人間が「何の為に生きているか」「何の為に存在しているか」と言う命題に回答を出せないからである。生きる目的が享楽や快楽や追美だけにあるとするならば、「生きている」という生存行為は、外から見れば生命の活動であるが、それは外から検
(み)た状態であって、単に生物学的な見解に過ぎないからである。

 いわば「生存」の本当の意味合いを、何ら明確にしていないからである。単に一つの生命活動に過ぎないのである。その姿や働きを外から見れば、それは一つの生命活動かも知れない。とことが自分自身から見れば、それを主体と見るべきであろうが、自分自身の「私の日常」は、単に生物的な存在ではないのである。「私の日常」には、意志や感情が内在していて、主体的に働いている生活行為である。

 つまり、「主体的に働いている」というのが「生」であり、これこそが「私の日常」なのである。それを客観的に検
(み)たのでは、単に生物の存在に過ぎないのである。
 「生きている」というのは、「生」の働きであり、この「働き」の奥に、「生の根本」があるのである。

 外を見ているという客観視は、どんなものでも「物」と同じになる。物として扱われれば、「心」というものも、客観視して眺
(なが)めれば、「物」になってしまう。物を取り扱う感覚で心を捉えれば、これは「心というもの」になってしまう。

人間の心は、常に揺らぐものである。時には荒海のように波立つ心の荒れ、感情の荒れが起こる。心とは、いったい何だろうか。

 しかし、心は物でない事は明白である。それは心には、「働き」というものが存在するからだ。
 「生」も働きとして考えるならば、「心」も同じ働きの上にある。つまり、これこそが創造の原点であり、「生の本質」と云うことになる。そして、生の本質は心に回帰されると云うことである。心の存在について、深く掘り下げてみる必要がある。



●悟りは突然に開けるものである

 人生を生きていく上で、何事かを、理解し、「分かった」ということが往々にしてある。これが「悟り」といわれるもので、「何事かを求めて訪ね歩く」という行動哲学の原点を成しているものであるが、その悟りというものは、決して生半可なことでは得られるものではない。

 仮に、道を急ぐ先に、難解な問題や巨大な障害物が前途を阻
(はば)み、何かが横たわっているとしよう。多くの俗人・凡夫は、これをどう対処するだろうか。恐らく回避したり、迂回(うかい)の道を選ぶのではあるまいか。これを乗り越えようとする人は稀(まれ)であろう。難解なものを嫌う所以である。

 難解であるからこそ、その謎解きが困難であり、困難であるからこそ、それを避けて通りたがるのは人情の常である。また仮に、それに挑戦しても、障害物が巨大である為、長い歳月を必要として、容易に片付くものではないようにみえる。しかしこれは錯覚である。

 長い歳月を要するのは、本人の自我や煩悩
(ぼんのう)が断ち切れない為であり、この世の俗界の柵(しがらみ)に振り回されているからである。即ち、夢を夢と受け止めず、物理的肉体的に、この世を体験しようとするところに、悟りへの難しさがある。
 金や物や色に捕らわれ、その実感の中に、唯物的にそれを体験しようとするのだ。そこに悟る事の出来ない、人生の苦悩がある。

 夢が、一つの「からくり」から出来ているとするならば、「からくり」は一瞬にして出来上がったり、あるいは解除される筈である。「からくり」には、零
(ゼロ)からの一つずつ積み上げていく実体のようなものがない。それは人の眼の錯覚をそそり、幻覚が実体であるのにも関わらず、人の眼には巧妙な仕掛けと、あたかも複雑な構造で出来ているように映るものなのである。だが、突然の素早さから出来た幻(まぼろし)の建造物と気付けば、答えは差して難しくはない。

 したがって、悟りも「夢の要素」の一部に属しているのであるから、ある事をきっかけとして、突然に開けるのである。例えば、ある日突然に、思いがけない人から電話が掛かってくるように……。



●蜘蛛之巣構造のアンテナを張る

 現世は因果律によって作られている。現世の構造を断片的にみれば、原因のない結果はないのである。しかし、また結果が原因を生むのも真実である。
 直接的原因の『因
(いん)』と、間接的原因の『縁(えん)』との組み合わせによって、結果が現われてくるのである。そして、善悪の業(ごう)によって、果報(かほう)が訪れる。

 現在行った行動には、必ず何らかの結果が生じて、何
(いず)れ、わが身に跳ね返ってくる。それは丁度、壁に向かって投げるボール投げによく似ている。
 現世における原因と結果の因果関係は、現世の生きているうちに起こるものである。
 過去に投げたボールが現世に跳ね返ってきたり、来世に跳ね返る事はない。

 また、今やっている因縁が過去に跨
(また)がるという事もない。それは過去から未来に至る延長上で、現在という時点は単なる通過点であり、「現在」という断片的な一コマの枠(わく)の中での出来事であり、因果律はそのような、決して気の遠くなるようなものではない。

 宇宙は『五十五十の平均法則』、あるいは「プラスマイナス・ゼロの法則」から成り立っているので、一生のうちで一方的に得をし続ける事もないし、また生涯不運の儘
(まま)で終わる事もない。全てが、平らに淘汰され、収支合計は五十を半ばにした平均点でる。【註】しかし、稀に一方的な不運、一方的な不幸は存在するものである。これは現世における『五十五十の平均法則』の外にある過去世(かこぜ)の因縁であり、もしこうした状態が連続するならば、これは自分の生まれる以前の過去の因縁を疑ってみなければならない)

 上り詰めた者は頂点を経由して、やがて下だり坂に差し掛かるし、下だり坂の辛い底を嘗
(な)めてきた者は、どん底をなぞるように上昇気流に押し上げられて、やがて頂点目指して浮上をはじめる。

 人の浮き沈みは、絶頂期に油断したり、傲慢
(ごうまん)になったりする者ほど大きく、有頂天に舞い上がった者ほど、謙虚さが足りないため、「山高ければ、谷深し」の喩(たと)えから、没落のときは大きな穴が抉(えぐ)れ、実に悲惨なものである。人生の絶頂期は最も警戒をしなければならない時期でもあるのだ。

 今、絶頂であるという事は、やがて沈没する憂
(う)き目は免れず、また底に沈んでいた者は今から絶頂期を迎えるのである。
 ただし人生を諦め、投げ遣
(や)りな生き方をした者には、決して絶頂期は訪れることはない。
 どんなに辛くても不満を漏らさず、決してへこたれることなく、志を高く掲げた者のみに、輝かしい絶頂期が訪れるのである。

 その時の用意として、蜘蛛之巣構造のアンテナを張る必要があるのだ。これを張ることによって、人生に幅とゆとりが出て来て、生きて経験することが一層面白くなるのである。どん底時代や、下積みの時期に自分の気の合う、多くの人と「縁を結ぶ」ことである。

 人は調子の良いとき、あるいは好調のときには、密に集る蝿
(はえ)のように、人は群がってくるが、一旦落ち目になると見向きもしないのが実情である。
 したがって、このような輩
(やから)は、人を煽てて有頂天にさせることを心得ている下賎の徒であり、奢侈(しゃた)と放埒(ほいうらつ)に明け暮れて、次から次へと、旨い汁を追い求め、人と人の間を渡り歩いている、単にそれだけの人種である。

 これから察せられるように、羽振りの良いときに猫撫
(ねこな)で声で摺(す)りよってきて、一旦落ち目になると、掌(てのひら)を返したように去っていくのが人の世の常である。
 だが、困窮時期に親しく言葉を交したり、人物に好感を持って寄ってくる人間は、まさに本物であり、生涯の友である。

蜘蛛のかけた網のことを「蜘蛛之巣」という。また、蜘蛛が巣をつくることを「蜘蛛の巣がき」という。この作業は、自分の居場所を外に向かっての自己主張でもある。

 蜘蛛之巣(くものす)構造のアンテナは暗いトンネルを抜けて絶頂期に至ったときに、時として有頂天の世界に舞い上がる抑止力として、格言の役目を果たすこともあるからだ。困窮時代に蜘蛛之巣構造のアンテナを張るのは、転ばぬ先の杖なのである。



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