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好機到来の法則 まえがき
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好機到来の法則 2


●八方美人は身の破滅

 良い子面
(づら)は、一見世渡りの優等生のように見えるが、その野心や心の裡(うち)に秘めた志(こころざし)が分裂し、力を八方に発散させている為、その生き態(ざま)に迫力がない。ただ、お行儀がいいだけである。
 他人に気を使うばかりで、肝心な頭を使う余裕がない。また知恵も湧いてこない。古人の智慧
(ちえ)を研究する暇もない。取り巻きや外野の意見も多く、いつまで経っても、自分の思う通りに駒(こま)が進められない。周囲の顔色を窺(うかが)うからである。

 そして、それが自らの行動を邪魔する柵
(しがらみ)となり、気配り状態一色で、一生を終わりかねない結果を招く。
 しかし、その側面には、あっちを立てればこっちが立たず、こっちを立てればあっちが立たずという悪循環が付き纏
(まと)う。その中で毅然(きぜん)とした決断が下せない。優柔不断に陥るからである。

岩場に這いつくばった植物は、岩の上を水が勢いよく流れる場所を避けるようにして根を張るものである。決して水の流れに流される事なく、岩場にしっかりとした根を降ろすものである。

 このような人間の一生は、人間関係の過大評価に重点が置かれ、個性を取り払って、自らを控え目に押さえ、既成概念の中に閉じ込めて、こじんまりさせたところに問題がある。これでは人間的な魅力が、何一つ感じられないのである。つまり、毒にも薬にもならない程度のレベルに止まっている。
 それは時と場合に応じては、毒が薬にもなることを知らないからである。

 さて、魅力とは、その人の持ち味であり、個性であり、アクであり、角度を変えて表現するならば、毒々しい、まさに原色の色鮮やかな虞
(おそ)れを抱かせるような「毒」なのだ。
 毒のない人間程、魅力に欠けるものはない。いつも某
(なにがし)かの苦悩を抱え、楽になれずに、ありもしない明日の不安に振り回されている。不自然な、他愛のない人間関係を大切にして、これこそ「和の極み」と馬鹿げた発想を持っている。このこと自体が、自らの生き方を狂わせているのである。

 八方美人は、本来、土台が弱いものである。それは自分に酔うからである。こうした人は、感情に溺れやすい。また涙もろい。単に感傷家であり、その感傷の所以
(ゆえん)に、自己に酔い易い。したがって、自分の評判を気にすることが多くなるし、その評判を気にせずにはおられない。外側の造りばかりを気にする。既にこのポーズだけで、墓穴を掘っていると言えよう。

 八方美人の行動は、弱い土台に、無理な誇大建築物を建てているようなものである。これはやがて根刮
(ねこそ)ぎひっくり返る危険を孕(はら)んでおり、遠心的膨張に耐え兼ねて、破裂することを知らなければならない。
 人間は千手観音
(せんじゅ‐かんのん)のように、至るところに触手を伸ばし、多様化し、無限の徒労努力をする必要はないのである。しかし多く俗人・凡夫(ぼんぷ)は、このことに気付かないのが現状であり、不自然な融和は、何処かに無理が生じるのは当前のことである。だから、無手勝流の達磨(だるま)になる必要がある。戦わずに策略で相手に勝つことを目指すべきである。

 共同体
(community)意識、あるいは運命共同体などと、あらゆる人々と融和を図る現世は、不自然な調和を押し付けるところがある。それは、血縁的かる地縁的あるいは、感情的な繋(つな)がりを基盤とする人間の共同生活の様式は、ある特定の目的を達成する共同体であるからだ。
 これらの言葉は、喩えば、フリーメーソンの「友愛」の説くような立場から考えれば、一見美しいもののように見える。

 しかし、争いのない穏やかな共同体の中からは、優れたものは生まれてこない。互いを同情の蟻地獄
(ありじごく)に沈め、双方の失敗すら厳しく詮議(せんぎ)しなくなる。そうなれば破滅の道へと踏み入れてしまうものなのである。

 時には狎
(な)れ合いが不幸を招き、妥協が破滅へと暴走を始めるのだ。ここに共同体意識の「和する」ことの隠れた恐ろしさがある。人間は所詮(しゅせん)、全てを認め合い、何事も安易に黙認できないようになっている。何処かで恨まれ、誹謗中傷(ひぼう‐ちゅうしょう)を受け、何処かで嘲笑(ちょうしょう)を買っている。それを嫌い、噂(うわさ)に上った誹謗中傷や嘲笑を恐れれば、安易な融和と共同体意識は強化され、その強化が、また穏亡(おんぼう)となって、我が身の破滅を招くのである。

 その意味で現代は「破滅に向かっている」と言えないこともない。
 それはどういう意味からかと言うと、「現代人の軟弱さ」から、この事が如実に窺
(うかが)えるからだ。多くの現代人はひ弱で、脆弱なのだ。特に、日本人に於てはこの事が言えるのであり、国際問題に関しては、未だに欧米の白人主導型に追従する政策しか展開できないからだ。そこには「手玉に取られる」現実がある。この「軟弱さ」は、亡国となって、日本人は国を失う民族になるかも知れない。

 こうした「亡国の兆し」は、今日に政治にも克明に顕われ、八方美人でありたいが為に、軟弱さが表面化している事である。八方美人に徹しようとする為に、本来、見据えねばならない課題を見忘れ、枝葉末節な、重箱の底ばかりをほじくるようなことに目を奪われ、間抜けな論争ばかりを繰り返しているのである。これは外国から見て、非常に滑稽
(こっけい)であろう。

 その滑稽さを如実に顕わしているものが、日本人の持つ民主主義に対するデモクラシー観である。資本主義デモクラシーとは、政治家は一般国民庶民の使い走りに過ぎない。決して「偉い人」であってはならない。ところが、一般国民庶民の使い走りに過ぎないはずの政治家を日本国民はそうは見ない。ここに政治家をつけあがらせる元凶がある。

 民主主義下では、政治家は庶民の使い走りである。大衆の最大幸福を実行する代理人に過ぎないのである。その為に政策を実行すればよいのであって、これこそデモクラシーの下では最重要課題である。
 勿論、政治家は潔白であり、道義なければならないが、それだけでは駄目である。それだけに政治家を道徳で縛れば、不言実行は達成されない。誠実に見え、潔白に映り、一度も嘘をついたことがないような人間が登場すると、かえって危険な人物を選んでしまう。

 だから民主主義下では、政治家は御用聞きであって、御用聞き以上を役目を持たせてはならない。一人間に過ぎない欠点多き政治家に、多くを需
(もと)めてはならないのである。
 民主主義が正しく機能する為には、政治家は何処までも庶民の御用聞きであって、御用聞きに注文を出すのは庶民の側、国民の側のである。このルールを間違えば、庶民は政治家から微生物視され、政治家を思い上がらせる元凶を作り出してしまうのである。これは非常に危険なことではないか。

 したがって、民主主義下では御用聞きは、少々いかがわしくても御用聞きの役目が果たせればよい。効率良く、能率的に御用を務めればよいのである。決して「大物である必要はない」のである。
 御用聞きであり、使い走りである以上、御用聞きの道筋では、人情も必要であろうし、義理に泣かなければならないであろう。また、金も遣わなければ御用が務まらない時もあろう。代議士の背後には、代議士自身を支持する選挙民がいる。そして、御用聞きが御用聞きとして最も大きく評価されねばならないことは、御用聞きが選挙民の為に、「どれだけ選挙民の為に還元される仕事をしたか」ということである。

 その意味からすれば、田中角栄は、この事をよく弁
(わきま)えた「よき御用聞き」であったと言える。また、ある意味で選挙民の代理人を果たした代議士でもあった。こうして民主主義下のデモクラシー観は、この点が大きくクローズアップされねばならない。清潔か、潔癖か、こうしたものは、御用聞きにとっては二の次にならねばなるまい。これを代議士と、小・中学校の教師と比較するのは訝(おか)しな事である。

 聖職感が未
(いま)だに残る、善人と代議士を混同してはならないのである。彼等代議士が役に立つのは、政策実行上に於ての側面だけであり、それ以外に多くを求めれば、結局、ヒトラーのような人間が出現して、独裁政治を行われる破目となる。また、ここが日本のような農業儒教社会と、欧米のような商工業デモクラシー社会との違いである。しただがって、国民は、政治はデモクラシー社会では別物として観る、庶民の知恵が必要であろう。そうでなければ、逆にファッショ化を招いた事実を忘れてはならないのである。

 政治家は民主主義下では、絶対に「世の師表
(しひょう)」などと、自惚れた一面があってはならない。道徳堅固な政治家を出現させると、その政治体制は忽(たちま)ちに独裁化する。このことを念頭に置いておくべきであろう。

 したがって、嫌われ者でも結構ではないか。
 背後に失笑を買っても、自らに自信を失わなければ、いつしかそのような心配事は消え失せ、楽になれる筈である。無駄な気配りや、起こりもしない心配事に振り回されることなく、「毒」の一面を失わなければ、嫌われる人には嫌われるし、好かれる人には好かれるのである。敵もいれば、味方もいるということである。ここで肝心なのは、「八方美人に成り下がってはいけない」という事である。まず嫌われ者になる事が大切なのだ。

 嫌われ者。この嫌われ者の中にこそ、本当の自由があり、楽が存在しているのである。目先の嘲笑、背後の失笑を恐れる事くらい馬鹿げた事はないのである。
 無駄な気の遣い過ぎは、神経を弱め、年齢以上に老け込ませ、胃腸障害を起こす。特に、神経性胃潰瘍になり易いようである。いくら考えても仕方のない事をいつまでも考え、堂々巡りの愚を冒している事ほど、無残なものはない。時間の浪費である。

 岐路に立たされて、どちらの道を選択するかは、悩むべき問題であるかも知れないが、無から有を生む、万物の生産的な考え方からすれば、この状態に陥っていては、新たなものは浮かび上がってこない。
 寧
(むし)ろ逆の悪循環的な絶望感に襲われて、マイナス要因が働いてしまうのである。八方美人的な考え方は、一見世間常識のように見え、一時的に人との摩擦を少なくするが、総合的に判断すると、絶望に押し遣る要素も備わっている「両刃の剣である」ことも忘れてはならない。

 日本人が何処までも、民主主義の論理を押し通し、これが政治システムとして最高の装置を信ずるならば、政治家は御用聞きの範囲を逸脱してはならない。これが民主主義下の政治家のあるべき姿である。この範囲から逸脱し、政治家が庶民の上に立って「偉い人」に思い上がってしまっては、正しく機能しないだろう。

 民主主義の機能を適切に機能させるのであれば、民主主義の中に包含するデモクラシー観に立ち返り、「御用聞きとしての政治家をつけ上がらせてはならないのである。それがそもそものデモクラシーと言う、「基準値」ではなかったのか。

 したがって、選挙民こそ彼等の上に立つ「民主」という権利であって、彼等から国民や人民が、絶対に微生物視されてはならないのである。そして、政治家を志す者は、「自分が国民の御用聞き」になるのであって、国民の上に君臨する「偉い人」という思い上がりは微塵
(みじん)も抱かないことである。

 政治家の思い上がりとして、民主主義下で、少しでも政治家の自分が「偉い人」と思った瞬間、それは幕藩体制の徳川封建時代の「御上」という意識であり、この意識を逸脱した政治理念の進化が本来の民主主義を出現させたのではなかったか。

 また、政治家に「偉い」という意識が起れば、それは戦前戦中の軍隊官僚が抱き続けた、「偉い人」になり、国家を滅亡させる元凶ともなり得ない。
 もし、政治家の心の何処かに、「偉い人」という意識があれば、それは八方美人の何ものでもなく、こうした八方美人を選んだ国家は、やがて滅亡するしかないのである。



●頽廃心理

 かつて、ある自殺者の遺書には、「この世の中には確かなものがない。何一つない。何も頼るものがない。ある時、革新団体のスローガンに耳を傾け、それをいいと思い、これに打ち込もうと思った。しかし考えてみれば、こうした革新運動は、どこな少し間が抜けている人間にしかできないと分かった。また、どんな社会が出来たとしても、人生はそれほどよくはならない。
 成就の暁
(あかつき)には、一握りの権力者の為に、その他大勢の底辺の庶民が奉仕すると言う社会構造が出来上がる。結局、正義を標榜(ひょうぼう)していても、その背後には不正と害悪が渦巻き、内部抗争として激しい椅子取りゲームが繰り広げられる。そこで革新運動に加わることは辞めた。
 人間の不幸や悩みは絶えないものである。それで、ある宗教団体に入信しようと思った。けれども、教祖が威張り腐ったその教団は、実に馬鹿げたものであった。教祖や幹部は夜郎自大に陥り、一般信者はゴミ屑
(くず)であった。教団から貰った教義をしたためた教典は「折伏」などと訝しなことが書かれていた。彼等、幹部以上は、信者から集めた金の分配についてどうも揉めているようであった。あまりにも馬鹿馬鹿しいので、入信することを辞めた。
 こうして考えてくると、どこも頼るものがない。頼るものがなければ、人生は無意味である。だから生きていても仕方ないので、死ぬことにする」というものであった。

 この遺書はある意味で、現代という時代をよく言い立てたものであるといえる。現代人の多くに人々の心の中には、こうした気持ちが流れている。また、こうした気持ちを持ちつつ、「何も信じられるものがない」という不安を抱いている人も少なくない。
 そして、「これこそ確かだ」とか、「これこそ、一生を懸
(か)けて求めていくものだ」というものを持っていないと言うのも、現代人の特長である。

 如何なるものも、ただ一時に情熱に過ぎない。一時の酔いに過ぎない。どういう理想を追い掛けてみても、ただ一時の夢に過ぎない。ただ、安易に酔い痴
(し)れるだけである。こういうふうに考える人もいる。
 如何なる事に対しても、批判的であり、自分の生きていることでさえ、自嘲的な人がいる。何ら、自分に“これ”といったものを持っていないからである。そういう「蔑
(さげす)み」の気持ちで生きている人も少なくない。

 これこそ、現代人の「しらけた」ニヒリズムであるのかも知れない。虚無的な気持ちが、心を巣喰っている実情かも知れない。こうした実情は、現代社会の一つの現象だろう。
 一の世にも、一つの社会が終焉
(しゅうえん)を迎え、次のものが擡頭(たいとう)するまでの末期現象と思われる。こうした時に、多くの人は刹那(せつな)主義に陥り、一時のことに熱中するが、それはあああ長続きしない。一種の頽廃(たいはい)心理である。気風が崩れ、不健全な気風が発芽する前兆を顕(あら)わす。

刹那主義の現象「ええじゃないか」の倒幕運動。「ええじゃないか」は慶応3年(1867)8月頃、東海地方に始まり、翌年4月頃にかけて近畿や四国、さらに信州方面等に広がった。神社の神符などが降下したのを契機に「ええじゃないか」の囃子(はやし)をもった唄を、高唱しながら集団で乱舞した。倒幕運動が行われていた時でもあり、「世直し」的様相を呈するものもあった。そして、この運動の背景には刹那主義の「しらけ」ムードがただよっていた。

 こういう時代が到来すると、この時代に生きる人間には、心の持ちようが大方、四つに分かれる。第一は自殺願望が起こる人。第二は頽廃的享楽に溺れようとする人。第三は虚無的な破壊活動を企てる人。第四は自分を捨てて信仰に趨(はし)る人である。何(いず)れも、「自己を捨てた」という点では共通点を持っている。

 頽廃思考は生存の無希望から来る一つの自棄
(じき)である。また、破壊も虚無的になった時の一つの自棄である。「自暴自棄」という言葉があるが、失望や放縦(ほうじゅう)などの為に、自分の境遇や前途を破壊して顧みない時に、「すてばち」に陥る。そういう意味からすれば、信仰もまた、自己を捨て、知識を捨てて親和の情から生ずる考えに傾倒していくことである。何れも、一種の精神的自殺に酷似しており、この背景には「何も信じるものがない」とか、「希望がない」とか「何もかも馬鹿げている」などの虚無的な頽廃が漂っていて、そこから頽廃心理が起こるのである。

 こうした頽廃心理は、フランスの詩人ボードレール
Charles Baudelaire/象徴派の先駆、芸術至上主義・頽廃主義の代表者。1821〜1867)の詩集『悪の華』や散文詩『パリの憂鬱』などを読むとそれがよく分かる。
 また、同じくフランスの詩人のヴェルレーヌ
Paul Marie Verlaine/フランス象徴派の代表的存在。1844〜1896)の感情の微妙さや、多彩な変化と持続を音楽的な言葉で言い表わした詩集『華やかな饗宴』や『ことばなき恋歌』などを読めば、そこにはボードレールと同じ頽廃主義的なものが横たわっている。

 両者は、「世に何も信じるものがない」という虚無的な気持ちを詩集に綴っているのである。したがって、人生は馬鹿げている、不幸や悩みは如何に世の中が変ろうと永遠に消滅することはない。希望はあっても、それは実現するものではないとしているのである。
 したがって、人生で最も大事なことは刹那主義的な、ただその日その日を酔って暮らせばいい。呑んだくれて行き斃
(たお)れるのだ。明日は明日の風が吹くというような心で詩を謳(うた)っているのである。

 こうした心は、人生は金儲けだ、名声だ、名誉だ、地位だ、権力だ、道徳だといって、毎日あくせくと働いている俗人には分からないとしているのである。そして、この心の虚
(うつ)ろな悲しみや、埋め合わせることの出来ない空洞を、ただ酔いに任せて享楽に耽り、更には淫蕩(いんとう)で埋めていくとしているのである。その為には、爛(ただ)れた官能的享楽の中に身を沈め、そこに身を投ずることで嘆美は達せられるとしている。

 その為に、何処までも酔い潰れる。醒めれば心の虚ろが眼を開けるから、何処までも酔い潰れていく。酔い醒めの悲しみが、心身を蝕むのを、心の底で感ずれば感ずるほど、醒めまいとして、身を乱倫に陥れ、その底にのた打たせるのである。そして更に不幸なことは、そうした自分を何処までも蔑んでいることである。これこそ「生きながらの自殺」である。
 しかし、身を屍
(しかばね)にしても、ひたすら官能的享楽に沈湎(ちんめん)してもなにも生まれて来るものはない。永遠の死だけである。



●俗世を超越する思考

 人生は「苦」であるとは、釈尊
(しゃくそん)の言葉である。この世を苦と見、絶望の闇と検(み)るか、あるいは人の世の営みを、総(すべ)て究極的には虚しいと検るか、それはその人の人生観に委ねられる。

 あらゆるものの終着点は「死」である。あらゆるものの価値観は、その時、その場だけのものである。時代が変れば過ぎた日の栄光は、総て人に知られず、虚しいものとなる。時代が変れば、ただそれだけのことである。
 また、一世を風靡
(ふうび)したものでも、社会の要求が変れば何の価値も見い出さなくなる。総てのものは「一時のもの」に過ぎないのである。時間が経てば、人々の記憶から消えていくのである。

 したがって、「永遠のものはない」とか「価値観は変化する」という現実に対し、人生の営みはなるべく心を煩
(わずら)わされないようにしなければと考えるようになる。その為、高く超越して生きると言う態度をとる。それは形骸的には、高踏的かつ隠遁的な生き方の模索となる。

 この世の事には、出来るだけ煩わされず、孤高に持して清らかな生き方に立とうとする。そして、この世の営みの総ての価値観を認めない。つまり、没価値観というべき見方を採る。この生き方には、気高い尊敬すべき、隠者の生活法がある。静かにして、涼やかで、高士の生き方が感じられる。
 しかし、その根底には否定的人生観が漂っていることが否めない。俗世を超越し、一人孤高を持しても、俗世から隔絶れた世界では何物も生まれないことが分かる。独り善がりの愚行が消えないからだ。



●理想に生きる犧牲的人生観

 何事かの理想に燃えてという生き方がある。人生に一つの理想を立て、それに燃え尽きようとする生き方である。その為には、人生に価値あるものと、沿うでないものを選
(よ)り分ける。選り分けた後に、それが少しでも理想に近いものであれば、それを価値あるものと固定する。その固定により、その人の生活価値は高いものになる。

 一方これと反対に、理想に遠ければ遠いだけ、その生活価値は低いものとなる。何処までも理想を固守するのであるから、人生の生き甲斐と云うものをそこで見い出そうとする。
 したがって、この考え方に取り憑
(つ)かれれば、理想を持てないものは人間でないと考えるようになる。異端者として排撃する。的な見方か色分けをして、非理想主義者は敵と決めつける。理想に反する者は、悪魔か邪鬼のように思う。

 そして、これと鬪い、激しい敵対意識と迫害を加えようとする。何処までも理想に向かって突き進む自分を正しいものと考え、一途に精進する姿こそ、唯一の人間であるかのように考える。一切の遊戯や享楽をかなぐり捨てて、眼をつぶり、喩えどんなことが起こっても、それ以外に目を向けない。それ以外に、どんな価値観があろうとなかろうと、自分の価値観以外に価値はないとする生き方である。

 自分の理想こそ正義と信じる。自分の理想だけが正しくて、他は間違いであるとする考え方である。その他のものには脇目を振らない。それは一見勇敢で、情熱的で、火の玉のような生き方である。

 こうした立場に立って人生を営む人に、信仰家いる。一切をその宗教に捧げ、理想主義者の人々である。神の国を夢見る人達である。あるいは社会主義者達に生き方もこれに酷似する。理想に燃え、社会主義や共産主義と云う宗教の信仰に身を捧げているからである。彼等もまた、情熱的である。それ以外、決して脇目を振ることはない。実に一穴主義である。

 しかし一方で、人生の価値を一つのものに決めてしまい、固定させている生活に悲劇がある。先に述べた没価値観や価値観の否定を考えるならば、理想主義に取り憑かれた人は、まさに「価値の固定」に毒された人である。



●筈身の威力

 筈身とは「はずみ」である。
 筈身には、浮き上がるような、ある種の勢いが加わっているので、拍子的な不思議なエネルギーが存在している。それは一種の「呼吸」であり、その呼吸には、「動き」と「勢い」と「リズム」があって、一種独特の軽快なテンポのようなものが備わっている。そして動きの一切は、効率の良いエネルギーに覆われている。

 トントン拍子という言葉があるが、まさにその快進撃であり、効率の良いエネルギーであるからこそ、その不思議なエネルギッシュさは、更に増大するのである。
 したがって、コツコツ石橋を叩いて歩くような堅実な努力家は、このエネルギーに太刀打ち出来ない。

 世の努力家といわれる人は、緻密な計算と十分な計画性を持って、慎重に石橋を叩くように歩いている。そして何よりも地味な努力を続けることを惜しまない。
 しかし、それだけの事である。それは何の変哲も生じることがない。自らの思慮深い意識によって、最初から予想された概ねの結果と、寸部も狂わない計算によって、決まった分だけを堅実に確実に進んでいる。

 だから、報われることより、報われないことの方が多く、足取りが遅い為に、志し半ばに寿命が尽きて、下手をすると徒労努力に成り兼ねない。
 それに比べて、筈身は何の計算も、何の自意識も持たない。俗界の人間のように、こぢんまりした有意識に振り回されていないのである。全てが予測不可能な無意識なのだ。
 だからこそ、無から有を生み出す力を持っている。

 有から有を生み出した力は、然程
(さほど)恐れる事はないが、無から有を生み出す力には目を見張るものがあり、決して侮(あなど)ることが出来ない。それが筈身の無意識から起こる力であり、そこには恐るべき強さが存在している。

 この力の殆どは、「勢い」というもので構成されている。恐るべきは、その息をもつかせない流れである。濁流のように、一息で流れ込んでくるところに恐るべき力が秘められている。計算され尽くした有意識を、ひとっ飛びに飛び越えて、一気に畳み掛けてくる。それが無意識の力である。換言すれば「潜在意識」である。

 では、その力をものにするにはどうしたらよいか。
 先ず力まない事である。俗事から離れ、肉体的な感覚に頼る依存心と、無理な力を捨て去る事である。即ち、肉体力を放棄して、リラックスする事である。リラックスすれば心は自由になり、やがて弾
(はず)むようになる。この弾みが「筈身」なのである。
 それは丁度、適度な空気圧が保たれたボールか、あるいは何かが、弾むようなリズムを以って軽快になる様とよく似ている。

 しかし、力を入れて力んでしまっては、弾むものも弾まなくなる。 
 軽快に弾む為には、余計な意識に支配された力を、体から排除しなければならない。無理に強張った力など必要がないのである。そして迷ず、潔い、思い切りの良さが、更に心を自由にし、軽快にするのだ。

 それが「勢い」の実体であり、無から有を生み出す秘訣である。そこには俗人・凡夫に防ぎ切れない、激流のような、痛烈な逆巻く怒涛
(どとう)があり、その勢いは健康なオーラに伴われて実在している。

 心の自由性を失わず、健康なオーラを発する限り、元気は失われず、元気であるからこそ、おいそれと人を寄せ付けないのである。相手の見識眼もさることながら、人から嘗
(な)められる者、侮(あなど)られる者は、このオーラに、勢いと凄味がないからである。これは孤立故の、自由性と元気の欠乏である。

歓喜こそオーラの発信源である。歓喜は健康なオーラを発する。

 人の人たる所以(ゆえん)は、何処からともなく滲(にじ)み出る凄味であり、安易に第三者から軽くあしらわれない事にある。黙っているだけで、威圧があり、そこに居るだけで他人から一目置かれるようになる。

 過去から来世に繋
(つな)がる数直線上の通過点に現在があり、オーラはそこを生きている人間自身に、誰にでも存在し得る、人類共通の所有物だ。自称霊能者の専売特許ではないのだ。
 オーラの現在の強弱は、来世の強弱を暗示し、将来を測定するバロメーターである。そして、その原点は、筈身から生まれた「勢い」である。

 では、そのオーラの勢いとは、どのようなものであろうか。
 例えば太陽を凝視すると、その輪郭
(りんかく)にコバルト・ブルーの光彩が現われる。これを人間の構造で表現するならば、これがオーラであり、その諸元には霊感といわれるものが存在する。

 霊感とは、単に俗人が想像するような予知能力であったり、予見能力などの一般に謂
(い)われている超能力では決してない。また、俗界の邪霊・善霊を指摘したり、祈祷によって、それらを打ち払ったり、招いたりするものでもない。霊感とは、「霊性」であり、一般に想像されるような神通力や超能力を指している言葉ではないのである。

 人間における霊感という感覚「勘」は、各々の個人の内側に備わっていて、これを意識することによって、自らを崇高
(すうこう)な高い境地に導いたり、あるいは恐怖の変わりに、勇気を導き出す、魂の根源をなすものである。それに満たされている人のオーラは、いっも平安で、ゆったりとしていて、緊張のカケラも見ることが出来ない。

 このように快い、「リズム」、即ち、「筈身」から出発した、潜在意識を伴う歪
(ひず)みのない「勢い」は、自らが新生したことを、実感したような希望と勇気を与えてくれるものなのである。
 希望は心に筈身を与え、勇気はその湧き出た筈身に行動を伴わせてくれるものである。



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