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好機到来の法則 1


第一章 現世の構造を知る

日本最古花の窟神社



●労働の意味

 人間は「なぜ働かねばならないか」これを明確に回答できる人は少ない。
 成人になれば、人は誰でも社会人として労働の義務を負い、就労年齢に達した者は、その殆
(ほと)どは働いている。人は、日々何かをして働いている。しかし、「なぜ働くのか」その意味を把握している人は少ない。

 多くは「知」による働きの固執する。「知」によって見たものを働きと思っている。客観的に、働きと云うものを見る。しかし、、「働き」というものは、自分が「生」において、働きをしているのだから、実は客観視などできようもない。働きは、外に向けて視
(み)るものでない。自分の働きというのは、外に向けて視ることの出来ないものである。

 また、労働に憑
(つ)き纏(まと)う、「幾らになったか」とか、「幾ら儲(もう)かったか」とか、「幾ら得をしたか」というのは、本来の働きとは無関係なものである。これは労働の「跡」を問題にしているのである。しかし、労働の跡は第二次的なことである。自分が仕事をして、努力し、どれくらいの仕事を残したかと云うことは、本来の労働の意味とは無関係である。労働と報酬は無関係なのである。

 人間の存在理由は「生」において、価値観を求めるものであり、働いたことで、その人は「生」の意味を見い出しているのである。
 世の中が商業社会になり、グローバル的な営利世界になって、世界規模の市場経済が確立されると、こうした世の中では、総
(すべ)てが商品として扱われるようになる。また、そこで働く人間も、単に歯車的な労働者であり、頭脳的な仕事に携わっていても、一知能的労働者に過ぎないのである。そして商業主義社会は人間も物に見立てて「使い捨て」であり、その予備軍は、無数に存在するシステムが出来上がっている。一生懸命の労働も、勤勉に働く姿も、この社会では、総てが商品として扱われることになる。
 そして、労働を報酬に反映させる思想は、資本主義が共産主義と酷似する点である。遂に、労働は報酬への対価として計算され、足跡のみが問題にされるのである。

 足跡問題が、また自分でも、自分の労働を、金銭で推し量る思考が優先するようになる。この点が資本主義も共産主義も酷似する。金の為に働くからである。
 しかし、この考え方は一方で、労働の本質や、勤勉の意味が不透明になり、人生観的な意味は分からなくなって来る。現代社会の生活の寂寥
(さびしさ)や、荒廃(こうはい)は、実はこうした、分からなくなってしまった労働の側面に貼り付いているのである。
 それは「外から視る」あるいは「外から測る」ということが、労働の価値観にされているからである。

 現代人の誤ちは、「生」の、働いた「跡」を評価するだけに止まっている。「跡」の大小や、功績を議して、形や量をもって、人間の「生」に押し当てて、これを計測する愚行を冒しているのである。功績主義であり、その価値観のみに、「生」を測ろうとしていることである。
 つまり、労作して「幾ら金になったか」を、働いた跡の結果として残そうとしていることである。しかし、これは「働き」の原因でもなければ、目的でもないのである。

 本来の労働から云えば、「働いて幾らになったか」とか、「丸損あったか」とか、「割がよかったか」とかは、因縁によって蹤
(つ)いたことであり、本来の「働く」とは無関係なのである。「生」そのものの価値と、幸福とに、何ら関係はないことなのである。

 自分の奔走した努力の足跡が、如何程の仕事になったか、それは「働き」とは無関係である。その成果の跡に至っては、むしろ運命についての事であり、その為に尽くした努力は、「生」とは一切無関係である。
 つまり、人生における「生」の意義と価値は、結果から得るものではなく、「今を働いた」に懸
(か)かるのである。働く意義は、「今を行為した」「今を行動した」「今を努力した」ということにあるのである。

 「今」の捉
(とら)え方で、状況は大きく変って来るのである。「今」を、どう「生」に結び付けているかが問題なのである。

 一般人が想像する「好機」とは、よい機会とか、チャンスとか、あるいは「千載一遇」の機をいうようであるが、元々よき機を得るなら、その機の軌道の上に乗っていなければならない。単に、「好機逸
(いつ)すべからず」の、巡って来た機会を取り逃してはならないと云うものではない。「バスに乗り遅れるな」と云うものではない。

 則
(すなわ)ち、好機は外からやって来るものでなく、「自分の裡側(うちがわ)」にあるものなのである。また、幸せも、自分の外にあるものではなく、自分の裡側にあるのである。それを見つけ出すか否かは、個人の価値観によるところが大きい。

 自分の裡側にあるものを、客観視して、外から検
(み)たのでは、その好機の連続も、厄日の連続と何ら変らなくなる。外側から検た価値観ではなく、自分の裡側(うらがわ)を見詰めた「真の価値」が大事なのである。
 これは「働くこと」と相似の関係を持つのが分かるであろう。働く行為は、自分の裡側にあるものであるから、「自分が働く」と言うのは、極めて主観的である。したがって、働く中には、「働いて幾らになったか」とか、「丸損あったか」とか、「割がよかったか」とかではない。そんなものは第二次的なものである。

 ある小説に、一組の男女が、幸福を夢見て結婚する話が出て来る。この結婚した二人は、裕福な者達ではなかった。極めて貧乏であり、病気勝ちで、不幸で惨
(みじ)めな生活を強いられる運命が待ち構えていた。貧乏で、病気勝ちで、その前途は、惨じめ一色で覆(おお)われていた。

 彼等の運命は、予測通りの不幸の真っ只中に陥った。夫は勤勉でよく働いた。しかし、その仕事は重労働の為に過労で病気になった。妻も病気勝ちで、夫を支えて内職などに励んだが、病気の夫を支えるほどの稼ぎはなかった。そして、やがて二人に迫ったものは死であった。貧困から医療の世話も受けられず、薬も買えない状態になった。

 死ぬ間際に、二人は次のように、これまでの人生を回想する。
 「私たちは、幸福を願って結婚したが、遂に幸福には達し得なかった。しかし、幸福への道を二人で歩いたことは、実に幸せだった」と。

 つまり、幸福に到達したか否かは、運命的なことであり、幸福と結果はイコールではない。問題は、自分の裡側にある幸福に気付き、幸福に向かって、その一歩を踏み出すことなのである。その一歩を踏み出した時、既に「幸福への道」を歩いているのである。その努力に価値があり、幸福への道の上に、我が身を置くことが大事なのである。そこに我が身を置ければ、それは幸福そのものなのなのである。

 今が困窮していても、それは「楽しい苦労」になるからだ。これこそ「働き」によって、「生」を充
(み)たしたことになる。存分に生きていると云うことになるのである。これこそが、実は幸福の正体であり、幸福は結果から得られるものではないのである。これに「働くこと」と置き換えれば、働く本当の意味が見えて来るはずである。
 好機とは、「最初の第一歩」を、それに向かって踏み出すか否かに懸かるのである。



●恥をかく

 「背伸びをする」という言葉がある。
 実力もないのに、実力以上の事をしようとする時に、この言葉はよく使われる。人間は見栄を張る為にこうした、心にもない行動を執
(と)ることがある。無意味と知りながら、敢(あ)えてこうした行動を執(と)るのである。

 これを裏から見れば、分相応の分別ある、俗世の常識力を越えて、分不相応な高所な位置に攀
(よじ)じ登ろうとする非常識な行動である。無分別とも言える。これはまさに、危険な場所を攀じ登ろうとする登攀者(とうはん‐しゃ)の姿なのである。見栄を張り、背伸びし過ぎるのも困りものだ。ほどほどに、ということが大事になる。しかし、闘志だけは失わないでいたいものだ。

 「熟柿を得るには、危険を冒
(おか)さなければ捕れない」という言葉の例え通り、今より更に高いものを追い求めていけば、下から上に登って行くのであるから、当然、危険は付き纏(まと)う。
 日々三度三度の温食にありつき、現状を維持して、そこで細やかな倖
(しあわせ)を求めて満足するか、あるいは無理な背伸びして、遣(や)ること成すこと大恥をかき、一敗地に塗(まみ)れながらも、その闘志を見失わない反骨精神とでは、どちらが、その志が高いであろうか。
 「常識」として考える物事の常道には、「分別知」と「無分別智
(むふんべつ‐ち)」がある。

 人間的な成長を助けるものは、分相応の世間風の常識の中には存在しない。その常識を超えたところに、成長を助ける大きな力が潜
(ひそ)んでいる。ただ温室の中に籠(こも)り、平穏な生活を求め、分相応に甘んじていては人生修行に迫力がない。荒波に揉(も)まれることが大事だ。安全圏ばかりに逃げ込んでいたら、何事も消極的になる。消極的な発想からは、「前向きなもの」は出てこない。前向きの思考は、「無分別」の中にある。

 細い柿の枝に登り詰めて、「熟柿を採ろうとする行為」には、常に危険が憑き纏う。危険を覚悟で、命を賭してこそ、熟柿を手に入れるチャンスは訪れる。下から指を銜えて、熟柿をただ視ているだけでは、これを手に入れることは出来ない。いいものを手に入れようと思えば、危険を冒し、命を賭ける必要がある。この「賭け」こそ、その要素は無分別だ。

 無分別に、分不相応な位置に攀
(よ)じ登ってこそ、その生き方に迫力が出てくるのである。そして何よりも大切な事は、へこたれない事が肝心である。それには思い切り恥をかく事だ。
 その恥が大きければ大きい程、その反骨精神も大きくなる。そこに至ってこそ、人間的な成長がなされるのである。
 また、それらの恥や、不当な暴力に、打たれ強い体質になる事も大切である。気怠
(けだる)い退屈な安全地帯に非難するような、甘やかされたような人生を歩いていては、突然の不意打ちに対処することが出来ない。

 可もなく不可もなくの、ちっぽけな、脆
(もろ)い、転び易い体質では、無慙(むざん)に破壊されるしかないのである。自分の本領と、葛藤をあますところなく発揮する為には、多いに恥をかき、無知を罵(ののし)られ、短所を誹(そし)られて、尻尾を巻くのではなく、先ず安全地帯に固執する消極的な自分自身を、外に向けて叩き出す必要があるのである。
 「生きる」という事は、外に向かって抵抗することだからである。



●本当の恐怖

 人生には恐怖がつきものである。その恐怖は何処からともなく忍び寄るもので、あたかも得物を狙う豹
(ひょう)のように忍び寄り、心の奥底に取り憑(つ)いて、やがてそれが癌(がん)のように、心の奥底にこびりつく。この恐怖に一度取り憑かれれば、浮き足が立つ。
 恐怖はこのように脳裡
(のうり)に描く幻想が、自らを悩みの淵(ふち)に近づける要因となる。

 人間には様々な不安が取り憑く。将来への不安。時代に見通しの効かない未知への不安。起こりもしない明日への不安。持病を持つ者の、持病から起こる種々の精神的肉体的不安。これらは不安の潜在的な材料になり、予測の付かない恐怖へと変換されていく。そして、これは計算されるような生易しいものではない。

 自我
(じが)があるが故に、小さな我に囚(とら)われ、囚われるが故に、ありもしない不安に振り回される。この不安は知性や理性などでは、決して解決されない不安である。解決されない不安であるからこそ、これが将来ありもしない恐怖になっていくのである。
 即ち、自分自身の影に怯
(おび)え、弱味となるのである。人はこのように、何処かに弱味を纏(まと)っている。この弱味が何なのか、何処に存在しているのか、それを突き止めて、原因が分かったら、その克服に努めなければならない。

 それは自我を解き放つ開放に向かってである。
 自らがその開放に向かって、自我と格闘を始める時、既にその自我は解き放たれたと言ってもよい。絶対に恐怖に蓋
(ふた)をして、それを避けてはならない。蓋をすれば不自由になり、不自由は不安が次の新たな不安を呼び、いつまでも解決されない堂々巡りの恐怖に変わるのである。
 したがって、それらが解決されなければ、生涯、何ものかの不安に怯え、「杯中
(はいちゅう)の蛇影(だえい)」を抱いて、不安に満ちた人生を歩いていかなければならなくなる。

 恐怖は否定するものではなく、それをあるが儘
(まま)に認め、受け流し、頭ごなしに否定しなければ、やがてそれは、いつの間にか姿を消すのである。恐怖の実体も、また夢で作られた「からくり」でしかない。
 「からくり」は実体を伴わないものである。いつまでも持続しないものである。時が経てば、やがて自然消滅するものである。我々は時として、そのような実体の無いものに振り回されている時があるのだ。



●魂を打ち込む

 世に、楽しみと言うものは、苦しみ以上に多くない。何事も、楽しみより苦しみの方が多い。
 しかし、物は考えようである。楽しみは、自分の方から作り以外ない。楽しみを創作し、喜びを作り上げるのである。その基準は、「魂を何事かに打ち込む」ことであろう。

 そうすると楽しみと言うものは厚みを増し、幅が出来る。
 美しいものを観る。それを観る為に美を創作する。あるいは無償で命を賭けられるものを探す。それを見つけ出すことにより、心の拠
(よ)り所が出来る。また、それが喜びとなる。素朴で、尽きの喜びとなる。人はこうしたよりこびを見つけた時、独自の、新たな力を得る。この喜びこそ、損得勘定を超越した、地上無比の喜びとなる。
 したがって、この「喜び」に上下貴賤
(じょうげ‐きせん)の別はない。心から、喜ばしめるものに、尊卑はないのだ。

 自然に与えられた楽しみや喜びは、それ自体で尊さを悟る。これが最高至上の「歓喜」となる。人生は喜びで満ちることになる。そして喜びと楽しみによって構成された歓喜は、それが単に喜びを伴うだけではない。
 明るく朗らかな歓喜は、魂を打ち込むことによって得たものであるから、歓喜は肉体の健康にも通じ、精神をも躍動させる。この躍動
(やくどう)により、人は「天にあるもの」を手に入れることができる。

 そもそも「貧富」というものは、人知の中にあるのでなく、「天にあるもの」
である。これが「天」にある以上、人知では如何ともし難い。人知での望んでも、その範囲は高が知れている。望めば「貧」しか帰ってこない。
 したがって、天にあるものを手に入れようとする場合、人知に頼らず、総てを歓喜の中に還元させて、天に任
(まか)せることだ。天に任せれば、自らが必死に求めなくても、おのずと富貴はついてくる。それに伴って、物質の恵みも、名誉も地位も、おのずから自然の状態でついてくる。天に任せた、「徳分」がそうさせるからだ。

 人間が「生きている」ということは、喜びを感じていると言うことだ。損得勘定を度外視して、働く喜びを知った時、それは大いなる歓喜となって、自らに回帰する。それは「徳分」がそうさせるからだ。
 人が「生き甲斐」を感じる時は、こうした時である。生き甲斐を感じている人は、同時に「徳分」も感じているからだ。
 「徳分」があるからこそ、魂を打ち込む姿には、生き甲斐を見出すことが出来る。そこには損得勘定で動く、我欲がないからだ。そして魂を打ち込んで、「歓喜」に帰納させる時、人は生きている証
(あかし)を知る。生きていて、よかったと思う瞬間である。

 一方、自分勝手に世を果無んで、自殺に趨
(はし)る人は、徳分のない人である。生きている証を自分で証明できない人である。自分で証明できないから、死に急ぐのである。死ねば何とかなると、短絡的に結論を出す人である。
 しかし、死んでも何とかなることはない。

 それは「死ねば、総てが終わりになるからでない」からだ。死ねば、それで御仕舞
(おしまい)でないからだ。
 生きている間に、十分に自分を生かすことが出来ずして、どうして死した後に、安住の安らぎがあろう。安住の安らぎは、生き甲斐を見出し、十分に生き尽くした後に得られるものである。



●帳尻は常に辻褄が合っている

 現象界で起っている一切の事象は、総て「万物は生きている」という証
(あかし)のようなものである。
 だから物も、生きているのである。一切の物は、人間と同じように生きているのである。

 それはあたかも、徳の高い人の許
(もと)に、多くの人が集まってくるように、生きて、移動をする。変化をする。形を変える。これこそが、物が生きている証である。そして物は、生きているばかりでなく、「働き」もする。

 この「働き」をする為に、物は少しでもよく働かせてくれる人のところに集まる。物は、よく働かせてくれることを好む。よく「使ってくれる」ことを好む。物を、よく働かせるとは、使う時に、思いきり、惜しみなく使うことである。そうすると物は喜ぶ。歓喜の喜びを示す。

 物を使う場合、“ケチる”のはよくない。ケチケチするのは、物を生かすことにならない。これは金銭であっても同じだろう。金銭をケチケチして遣
(つか)えば、その結果がどうなるか容易に想像できよう。決していい結果は生まれないのだ。
 こうしたケチる使い方は、結局、生かして使うことにならない。

 物でも、金銭でも、使う時機には、思いきって使うことだ。使う側も“大胆”に、そして“細心
に、喜んで直ぐにこれを出して使うことだ。これは結局、物を生かすことであり、また金銭を働かせることである。
 物を使い、金銭を働かせる場合に、我欲の激しい人は、自分一人の為にこれを使ってしまう。自分勝手の目的の為に、これを使ってしまうようだ。

 こうした場合、物でも金でも、いうことを聴かない。自分一人の為の使い道には、物や金は喜んで働かないのだ。これは、例えば、手足を動かして十分に活動したい子供を縛り付けたり、親の我が儘
(まま)で、親元に残すようなことである。こうした使い方をすると、物でも金でも言うことを聴かなくなる。急に聞き分けが無くなる。

 物を十分に使い、金を働かせる行為は、その人の使う為の努力に正比例し、自我に縛られた欲心に反比例する法則がある。これはギャンブラーが、自分の我欲の為に、大金を手に入れようとする行為と酷似する。ギャンブラーが、いつも金に汲々しているのは、この為である。
 財貨と言うのは、喜んで働かせてくれる人のところに、自然と集まる。したがって、欲心があれば、その分だけ差し引きが行われる。
 博奕を打って、そこから得られる金が少ないのは、この為である。



●自ら求めて追いかけたものは凶事の泡

 我欲によって求めたものは、「あぶくもの」である。例えば、博奕によって得た金を「泡銭
(あぶく‐ぜに)」というが、こうした金は、一旦、金が身に付いたと思っても、もともと我欲で稼いだものであり、身に付く徳分がないから、直ぐに出て行ってしまう。身に付く因縁がなければ、直ぐに抜け出してしまうのである。

 「求めて得たものは“あぶく”もの」である。気泡である。最初から実体がないのだ。実体がないのだから、身に付くはずがない。
 人間は往々にして、こうしたものを追いかけることがある。しかし、それは実体のない、幻を追いかけていることに過ぎない。我欲の炎上によって起った“幻”である。「我の炎上」である。我を炎上させると、我が身まで炎上させて、ついには身を滅ぼしてしまう。

 貪欲や我欲から始まった博奕などに走る行為は、これが競馬・競輪・競艇、あるいはパチンコなどの小ギャンブルであっても、その出所は我欲の為、煩悩の焔
(ほのお)を燃やしたことになる。こうした焔に煽(あお)られて限り、徳分など付くわけがないのだ。
 「あぶくもの」は、何処まで追いかけても“泡
(あぶく)”の範疇(はんちゅう)を超えるものでない。そして“泡”の中に、幸福など、何処にも見出すことができないのである。

 また幸福と言うものは、自分が追い求めて追いかけるものではなく、向こうから遣
(や)ってくるものである。幸福が、自分の方向に向かって遣って来るか否か、それはその人の「徳分」による。徳分がなければ、遣って来ようがないのである。
 幸福は先方の方から来るのである。

 一方、禍
(わざわい)は自分が求めて追い回した結果である。
 災難と言うのは、意図的に追い回したか、あるいは無意識に呼び込んだかをしたものである。徳分が身に付いていない人は、往々にして、意識的にあるいは無意識のうちに呼び込んでいる場合が多い。

 自分の力で追い回すものは、総て我利我欲の欠片
(かけら)である。そうした欠片には、どこか“強奪”の匂いが漂っている。奪い取る影がちらついている。これこそ「凶」なのだ。そんな凶を呼び込んでいては、やがて強奪したものは逃げていくばかりでなく、自分にもその凶事を残していく。奪った分だけ自分に跳ね返り、自分の仕業は、やがて世間に公表されてしまう羽目に遭(あ)うのである。
 自分から追い求めたものは、“泡”であることが理解できよう。しかしこの“泡”は周囲に凶事を漂わせるので、最終的には破滅だけが待ち受けていることになる。



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