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戦後の日本人は改造された! 2

日本は霊的バリアで護られた神域や聖域が多くあった。写真は赤城神社の大注連縄。


●戦争観の異なる日本人と欧米人

 先の大戦を顧みる場合、多くの歴史学者は「第二次世界大戦を総力戦である」と、歴史的認識の上で定義している。この定義に異論を挟む余地はない。全くその通りであるからだ。
 そして「総力戦」という言葉が意味するように、例えばアメリカの例を挙げて考えるならば、アメリカではひとたび太平洋戦争に突入すると、物理学者や数学者はもとより、天文学者、心理学者、人類学者、歴史学者といった連中まで総動員され、戦争目的の為に国民の90%以上がこれに奉仕した。

 東京大空襲や、その他の首都圏の大空襲には日本の歴史を研究していた歴史学者の言が大いに参考になり、「日本の家屋は古来より、木と紙で出来ている」という歴史研究において、“焼夷弾”が発明された。この焼夷弾は、歴史学者に端を発し、それに物理学者が科学的構造を明らかにし、数学者が日本家屋を破壊する為には、如何なる数式において有効であるかを計算した。

 焼夷弾は、焼夷剤と少量の炸薬
(さくやく)とを入れた砲弾または爆弾のことで、油脂焼夷弾、エレクトロン焼夷弾、黄燐焼夷弾などをいう。この爆弾が、日本中至る所に投下された。
 太平洋戦争末期の昭和20年
(1945)3月10日、アメリカ陸軍重爆撃機隊所屬のB29【註】Boeing B29 Superfortress超空の要塞の意味で、ボーイング社製の米陸軍大型超長距離重爆撃機。自重は47,500kg。爆弾搭載量9屯)爆撃機344機が、東京下町を襲った。世に言う「東京大空襲」である。
 東京への夜間の焼夷弾爆撃であり、死者約10万人以上、焼失戸数約27万戸、下町地域を中心に全都の約40%に当たる40平方キロメートルが焦土と化した。

 グアム、サイパン、テニアンの各々の基地から飛び立った344機のB29は、上空で大集団を作り、一万メートルの高高度で大編隊を組んだ。
 そして機内の腹には、二千トン以上に及ぶ膨大な数の焼夷弾を抱え込んでいた。十数万発に及ぶ2.8kg焼夷弾とM69油脂焼夷弾
【註】通称「モロトフの花束」と言われるもので、6ポンド爆弾を38個束にしたもの。B29一機で5000発以上もばらまいたと言われる。通称500ポンド親子爆弾と言われる)を東京上空下で雨霰と降らせ、10万人もの非戦闘員を焼き殺す為に、一路東京へと向かったのである。これは最初から、非戦闘員を含めての「人員殺傷」だった。

 当時のアメリカの政治政策とアメリカ軍首脳は、二千五百万人の日本人を焼き殺す為に「オリンピック作戦
(tactics-olympic)や「コロネット作戦(tactics-coronet)を計画し、無差別大量殺戮を展開中であった。そして昭和20年3月10日の東京大空襲は、日本人鏖殺(みなごろ)しの、ほんの手始めの序曲に過ぎなかった。これを手始めとして、大阪、名古屋、川崎、横浜、下関、呉、広島、神戸、長崎、佐世保、横須賀、新潟、八幡、戸畑、小倉、福岡と続き、最後の止めは広島・長崎の原子爆弾投下であった。

アメリカ陸軍航空隊の新兵器・超空の要塞・B29(Boeing B-29 Superfortress)超長距離重爆撃機。
 ライトR3350-23の発動機2,200馬力を四基つけ、最高時速は600キロ。航続距離は11.200キロ
(B29は9,350キロ)。通常平均高度は7,600メートル。実用上昇限度は9,700メートル。
 爆弾倉爆弾重量:18,00キロ×4、または900キロ×8、または450×12、または45×80。乗員十一名。武装:12.7ミリ機関銃10梃および20ミリ機関砲一門。全長:30.195メートル。全幅:43.07メートル。

焼夷弾の構造図(上/ドイツ軍・下/アメリカ軍)
 焼夷弾の発送は、その根底に「東洋人の皆殺し」という発想があるのではなかったか。アメリカだけではなく、当時、同盟国だったドイツも、日本抹殺を考えていたのではなかったか。ナチス・ドイツの原爆開発も、最終的には日本人抹殺を構想に描いていたように思える。
 特にアメリカが目論んだ日本人抹殺計画を考えた場合、地上から全ての日本人を抹殺するという発想があったのではないか。その最たる現れが、広島と長崎の原子爆弾投下ではなかったか。

 さて、焼夷弾による無差別大量殺戮計画はこうであった。
 まず最初に、爆撃地域の周囲にM69油脂焼夷弾を降らせ、大火災を発生させて巨大な火の壁を作る。そして住民である非戦闘員が、爆撃地域内から逃げ出せないようにして、完全に退路を遮断する。目標地域を火炎の燈火で明るくした後、第二次攻撃を引き受けた次のB29の大編隊が、2.8kg焼夷弾を投下して、逃げ惑う非戦闘員を完全に焼き殺す。

 昭和20年3月10日、東京湾上を北に向かって超低空で侵入し、当時の東京府に侵入して来たB29の大編隊は、日本人の「戦意の喪失」という名目で、焼夷弾の絨毯(じゅうたん)爆撃の雨を降らした。それは專(もっぱ)ら、軍需工場などを攻撃目標にするのではなく、非戦闘員の殺傷を目的にした鏖殺(みなごろ)しの無差別攻撃だった。

 この間アメリカは、科学の副産物としてレーダーを開発し、原爆を開発した。また、これが学際的研究として社会科学に、一種の革命を起こすことになる「行動科学」が生まれた。
 このように国家の機能を上げて、軍事目的に奉仕せしめることこそ、「軍国主義」の極みである。真の意味での「軍国主義」である。

 軍国主義に国民が全体主義の名の下に奉仕した国は、アメリカだけでなく、ドイツも、旧ソ連も例外ではなかった。
 軍事目的の為に、国民が総動員して国家に奉仕するという発想は、本来日本にはなかった。
 日本で国家総動員法が公布・施行されたのは昭和十三年
(1938)三月、日中戦争に際してのことだった。人的および物的資源を統制し、運用する広汎な権限を政府に与えた委任立法であった。此処で、日本の運営は独裁色が強くなり、国民生活の中にも「国体の本義」などが問われるようになった。

 しかし、まだ軍国主義化できなかった日本は、政治に軍国色が濃厚になりはじめたのは、太平洋戦争開戦の前後である。
 この遅れが、また自然科学の組織化を遅らせた。その為に、レーダーを初めとする各種新兵器の開発に遅れをとった。このことが日本に大きな敗因を招いたのは周知の通りである。所与の目的の為に、社会科学の組織化が、勝敗の命運を分け、国家存亡が此処に掛かっているとは、日本の戦争指導者には思いもよらぬ事であった。
 則ち、日本人の発想は、そもそも「戦争が出来るような民族ではない」のである。そして島国と言う、四方が海に囲まれた列島人は、平和はおろか、戦争の何たるかも知らなかったのである。

 一方ドイツはどうであったか。
 ヨーロッパ大陸の陸続きの地域で育ったドイツ人は、日本人とは全く違う戦争観を持っている。

 先の大戦におけるドイツの、ロシアにおける怨念は日本人と同等か、あるいはそれ以上に大きいように思える。それは明らかに領土問題である。大戦中にドイツが失った領土に関する問題は、今もなお燻
(くずぶ)り続けている。これは先の大戦で、完全に領土問題が解決してない事を物語っている。
 その一方で、今日のドイツの政治手腕は凄まじい。今日のドイツは、「未来志向」の国を目指している。現実路線に徹する事で、かつて失われたものを政治的に獲得しようとしている。未来志向路線のドイツの政治手腕は、実に巧みである。ロシアからの天然資源の獲得等である。これをうまく政治上の手腕に利用している。

 片や日本の場合は、どうか。
 日本でも樺太沖の天然ガス田を共同開発する計画がロシアとの間に持ち上がっていた。ところが、これが突如、白紙撤回された。樺太沖の天然ガスの総ては、中国に回される事になってしまったのである。かくしてエネルギー競争でも、日本は外交の失敗から完全に遅れをとってしまったのである。総てが、後手の発想で、遅れをとっている。ロシアから軽くあしらわれる外交に、一縷
(いちる)の夢を託している。

 軽くあしらわれる原因は、どこにあるのか。
 それは北方領土を巡る、日本の頑
(かたく)なな態度である。これにロシアは業を煮やした事は疑う余地もないであろう。
 日本は、戦後の政治の中で北方領土問題ばかりに固執してきた。これにこだわるあまり、戦後六十余年が経過しても、何の解決策も見出していない。いたずらに時を見過ごしてきた観がある。不毛の論議を繰り返すだけで、両国は何も得るものがなかったのである。

 日本の北方領土の問題は、西欧人からすると、実に滑稽に映るだろう。
 それは敗戦国が戦勝国に、「もの申している」からである。戦争に負けて失った領土を、過去の条約や取り決めを持ち出して北方領土を取り返そうとしているからである。しかしこんな論調など、通る分けがない。敗戦国は、戦勝国の意のままにされると言うのが、世界の常識である。「それを負けていながら」と、西欧人は思うのである。

 日本人に戦争観が存在しない事は、ほぼ明らかのようだ。
 その上に、「社会科学音痴」と指摘される所以は、忍従するべきところは忍従し、戦勝国のいい分に従い、聞き流すところは聞き流さなければならない。これが「大人の感覚」であろう。
 しかし「負けていながら」という事実を曝
(さら)け出したまま、自主憲法も制定できず、世界は日本に戦争放棄をさせない状況にありながら、日本だけが勝手に戦争放棄して、口先だけで「平和、平和」とほざいているのである。実に愚かしい限りである。

 この点を観ただけでも、日本とドイツは戦争観が大きく異なっているのである。
 ドイツはこれまでに度々憲法を改正し、自主憲法を持ってきた。その上、再軍備を成し遂げ、アメリカからの追随状態を脱し、服属すらしていない。独自の外交姿勢を示しているのである。



●霊的神性を否定した現代日本人

 日本人は戦争を放棄したばかりでなく、霊的バリアの防御網も、今や完全に否定しつつある。その否定した状況の中で、見えない先に不安を抱き、その一方で“科学的”という言葉を常に口走りながら、これまで日本人が霊的に護られてきた霊的世界までもを退けようとしている。

 その結果、西欧の科学一辺倒主義を取り入れ、科学力を発展させてきた事は、また事実の側面である。
 ところが、科学の、これほどの進歩の中で、人々の苦悩は逆に増大の一途を辿っている。
 一見平和が保たれ、表面的には静けさを装いながら、その社会の裏側では異常なほど、日々、非常識が常識となり、言葉や文字は伝達の手段を欠きはじめ、現代社会の構造が、人間の棲む世界とは言い難いような、「欠落」の部分が多くなりはじめている。

 特に子供の世界は大きく狂いはじめ、仲間同士からのいじめ、父母の虐待、そして自殺と、衝撃的な現象が浮上して、既に久しくなった。

 この世の「異常な捻
(ねじ)れ」は、幽界の世界からの反映である。その“写し”が顕界に顕われているのである。この世を「顕界」という。これに対して、あの世を「幽界」という。霊的世界のことだ。この世界が、この世に反映されているのだ。
 その幽界から、「異常な捻れ」が顕界に連鎖されているのである。現代とは、そうした世の中である。

 そして人間は、霊妙不思議な力を持つ優れたものであり、万物の霊長などと表現したりする。それは「霊魂」を持つからだ。霊魂は幽体と一緒に、幽界にいき、また肉体を付けて、物質を携えた人間として、この世に誕生してくる。霊魂は、「輪廻転生システム」の中で生き続ける。
 このシステムは、物質をより高い物質に高度化する大いなるシステムである。

 高度化された物質を、「超物質」という。物質が究極に至り、高い意志や感情を持った時、それは超物質となる。当然人間も、肉体と言う物質を携えて生きているので、肉体すら、超物質となることは可能で、超意志や超感情と言ったものを、超物質に回帰することが出来る。
 物質が、超物質になっていく為には、より高く、そしてより広く、深い奥行きを持った感覚を高めていかなければならない。

 目先に感情に流れ、それで取り引きするようなことがあってはならない。あくまで感覚を高め、感性を研ぎ澄まし、高度化されなければならない。この感覚を高める為に、人間は何度も、輪廻転生を繰り返すのだ。生まれ変わるのだ。物資が輪廻する意味は、この一点にある。

 人間は、なぜ生まれるのか。なぜ、この世に誕生し、他の性命を犠牲にして、生きて「生」を体験するのか。
 また「生」の体験の中で、苦悩や歓喜、失望や悲壮、そして離別と繰り返され、愛とともに憎悪を感じ、時には絶望の淵に叩き落されて、のた打ち回ることもある。なぜ、そうまでして生きなければならないのか、なぜ、こうまでに過酷な「生」を体験しなければならないのか。

 こうした様々な感情を、生・老・病・死のプロセスの中に循環させ、その時その時の感情や、その感覚は、一切が霊魂に記録されていく。その記録が、死した後、肉体を失って幽界へと伝達される。そして人は生まれる時、また「霊魂」という記憶する意識体の中で、過去世
(かこぜ)に積み込んだ意識を携えて、再び誕生してくる。

 一方、時代が下がれば、その後世
(ごせ)の世界は、死後生まれ変わる世界を通じて、日々複雑化する社会環境と、その感情や感覚も、感性的に広く深くなる。そして多種多様化する。
 こうなると、時代が下れば下るほど、喜びや悲しみも、ある意味で純粋さを失う。そして愛情の世界にも、物質化された低次元のものが、打算的に感情として入り込んでくる。

 低次元の物質は、高度化されていない為に、極めて物体らしく、物体の本性に魅せられるべく、人を誘惑し、魅惑するのである。そして後世の人間ほど、この誘導に弱いようだ。
 そしてそうした世界の環境下に、過去世の感情を抱きしめて、再び人は生まれるのである。

 人は生まれ堕ちた後に味わう感情の数々は、過去世に落したその時、その場の「唸
(ねん)」である。その感情の数々は、より多く、より深く、より広く、感情を欲望に穂接(ほつぎ)させるのであるが、また、そこには数々の感情を抱え込んで死んでいく運命が待っている。

かつての日本には超感覚を研ぎ澄ます、神域や聖域が至る所にあった。しかし今日は、それが崩れ、霊的バイブレーションは次第に失われつつある。そして「鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)」といわれた社の境内にある森も、乱開発で姿を消した。

 感情や感覚と言うものは、輪廻を繰り返して霊魂の中に堆(うずたか)く積み上げられ、それは感情の山となる。それが喩え、如何に醜い欲望であったとしても、あるいは欲に凝(こ)り固まったヘドロのような、ドロドロとした感情であっても、それはやがて万物の創造主の望む、超感覚的な大きな一つの隠し味のようなものになろう。
 人間は、つまり苦悩の中にもがき苦しんで、ドロドロとした欲望や、精神の働きを知・情・意の感情を経験しないと、その垂直線上に輝かしい超感覚に到達できないようになっているのである。

 悩み、苦しむことこそ、この世の「理
(ことわり)」なのだ。
 こう考えてくると、この世に存在する「憑衣現象」も、ある意味で理解できることになろう。
 取り憑くとは何か。怨念を抱くとはどう言う行為か。

 それは取り憑いた霊の復讐によって、人は苦しみ、悩むのだ。悲しみを感じ、涙を流し、絶望すら感じるのだ。この感情を生きて超感情に到達させた時、人は初めて解脱を見るのである。この不幸現象から脱しようと、叡智
(えいち)に心を傾けることになる。
 そしてその叡智とは、総て日本人の霊的神性の中に存在するのである。したがって、「霊性を高める」ことこそ、急務となる。
 しかしそうした急務の必要性を知る者は少ない。霊性が低下すれば、「金銭」という黄金の奴隷に成り下がる以外あるまい。



●家畜化された2種類の日本人

 日本には、大きく大別すると「無力なる2種類の日本人」が存在する。
 その一つは、“無力な善人”というタイプであり、悪いこともしないが、善いこともしないという善人で、可もなく不可もなく、その多くは、流行に振り廻された生き方をし、固定観念と先入観が強く、「思い込み」によって生きているタイプである。また、このタイプは「思い込み」が激しい為に、マスコミ報道などに振り回され易く、世の中に報道される100%を信じてしまう人である。つまり、マスコミに踊らされる人である。

 更にもう一つは、“真面目型の善人”というタイプで、毎日決められた通りのことを、確実に熟
(こな)していくタイプである。平凡に、波風の立つ事を好まず、コツコツと日々のノルマを達成し、決められた通りの「行い」によって、自己表現をしていくタイプである。このタイプは「たかの知れた生活」に満足する人である。そして「無力な善人」の要素も兼ね備える。
 以上に述べた“2種類の善人”は、被支配階級であることは言うまでもない。また、これこそが「無力な善人」の実態である。集団催眠術に掛った「眠れる善人で」もある。そして被支配階級であることは紛
(まぎ)れもない。

 この被支配階級を、支配階級側から見れば、非常に扱い易く、また“家畜化”され易いタイプとも言えよう。つまり、階級的には「労働者」である。
 一般に“労働者”と言えば、労使の関係と思われがちだが、労働者と使用者の関係を言うのではない。命令される働き手と、命令を下す指令者の関係を言うのである。

 今日の日本は「平等」という神話に、完全に“階級”と言うものが隠されているが、実を言うと、人間世界には明らかに「階級」と言われるものが存在し、それは旧態依然に現存している。
 それは何かを考えたり、行動する時に、上司との人間関係以外に、「階級」によって、人間の行動原理が決定されるからである。しかし一方で、階級は闇の中で隠され、明確でない部分がある。そして極めて巧妙で、複雑な問題を抱えている。

 「階級」という言葉は、誰もが遣
(つか)いたがらない言葉である。
 今日の平等社会で、「階級」を口にすると、“つむじ曲がり”と思われたり、“精神異常者”の扱いを受けかねないからである。そして多くの日本人は、今日の擬装
(ぎそう)の「平等」の世の中で、誰もが“この平等の世の中に階級などあるものか”と思い込みによる思考によって、辛うじて自己満足を抱いているのである。そこにささやかな優越感も存在している。

 その為に、隠れた部分の「階級」の話が持ち出されると、その“立腹度”は頂点に達するのである。誰もの頭の中に、錯覚した平等意識があるからだ。
 しかし、これこそが暗黙のうちに、社会階級に対する反映ではないか、と思われる節がある。また、支配層から被支配層を論ずると、一握りの支配層から、自称“上流階級”と自負しているそれ以下の、中流階級や下層階級を見て、一貫して総ては皆「労働者」なのである。

 労働者の定義は、単刀直入に言えば、「働いている」か、「働いていない」かの違いである。仕事を持つ者、働いている者は、みな“労働者”なのである。ただ、その労働者の中でも、楽な現場で働いて、楽な仕事をしながら高給取りであるか、否かの違いは生まれるであろうが、これを除けば、“働く者”や“仕事を持つ者”は、みな労働者なのである。楽な仕事をとして働いていても、働く以上は労働者であり、頂点に経っている者は、奴隸制度から言えば、差し詰め“高級奴隷”であろう。

 多くの日本人は、「社会的平等」という、表向きの謳
(うた)い文句に、非常に騙(だま)され易い人種である。その背後には、幻想が生み出す「失望」と「妬(ねた)み」が隠されているからである。
 したがって、人間社会は人種的にも“平等”であり、社会的にも“平等”という言葉で、誰もの人権が守られていると言う、“幻想の世界”に逃げ込むのである。そして「平等」と云う言葉は、実に耳に心地よく聞こえるものである。そして誰もが、この「平等」に人間としての拠
(よ)り所を求めている。

 また、この世の中には世襲の示す、“肩書き”や“地位”がある為に、その「自称」あるいは「称号」によって、この便利な制度に便乗し、これが階級に取って変わったと信じ込んでいる。そしてこの便利な“制度”は、一部の人間が、社会生活を送る上で必要不可欠な「人々の尊敬を勝ち取る」という問題だけをテーマに、平等と謳
(うた)いながらも、実は“平等などあるのものか”という、反目する心が自分の裡側(うちがわ)に隠れているのである。

 つまり、民主主義の謳い文句が掲げる、その国家の展望の中で、
「民主主義国家ほど、市民が取るに足らない存在である」ということを明確に物語り、その根底に隠れる平等意識の明確性の中で、「国民の誰もが一廉(ひとがど)の人物である」と標榜(びょうぼう)する国家は、裏を返せば、「誰もが取るに足らない、誰一人として重要人物は存在しない」ということになってしまうであろう。この事は、非常に重要な点である。しかし、多くが見落とし、気付いていても知らない風(ふり)をしている。

 「誰一人として、重要人物が存在しない」という国家こそ、実は民主主義国家であり、誰もが“平等”という言葉に騙
(だま)されているのである。これがまた、政治家一つ考えてみても、「誰がなっても同じ」とする考え方に結びつき、この社会システムは、政府が、市民間に「均等な状態」という幻想を作り出し、日本人が家畜化される状態を“人類の展望”などと嘯(うそぶ)いている。「平等」とは、実に便利な言葉であるからだ。

 そして民主主義国家では、政治家を含めて誰がなっても同じと言う意識が植え付けられる背景には、その背後に隠れている「官僚」の実体が浮き彫りになって来る。
 つまり、日本は行政側の政治家が国家を動かしているのではなく、政治家を操っている官僚が、日本の政治を動かしていると言えるだろう。日本ほど、官僚が政治家に指図し、国家を運営していると言う国は、世界に例がないであろう。

 したがって、「善良な市民間」の中で、「努力すれば、容易
(たやす)く、上の階級に上がれる」という神話は、まさに“幻想”であることが分かる。
 これこそが、現代人の抱いた幻想であり、「取るに足らないと思っていた階級制度」が、実は「平等」を意識させることで、善良な市民に、幻惑を抱かせる罠
(わな)であったと言う事が分かるのだ。

 いま、“無力な善人”と“真面目型の善人”は、ほぼ固定化された社会システムの中で、「平等」と言う言葉に振り回されて、「底辺の歯車」に組み込まれ、その中で“目に見えない階級制度”への道を歩るかされているのである。
 そして「平等」という、人類に齎
(もたら)された意識は、その一方で“人類はみな兄弟”というワン・ワールドの、“新世界秩序”の渦の中に巻き込もうとしている。

 だから、一方で“目に見えない階級制度”という存在に、薄々気付きながらも、その一方で“階級に対する妬み”は、いざとなれば復讐
(ふくしゅう)の為の「平等主義」を振り回す原動力となるのである。この事からして、今日の人類は、“二重のジレンマ”を抱えていると言うことになる。

 その証拠に、政治的かつ法的に、表向きとしての「平等」は認めているものの、個人的な見解や理解度に於ては、現代人と言う生き物は、物事に上下を付け、価値観の決定的な違いに対し、自分と他人を区別する「境目」をつけているのである。誰の心の中にも、「十把一絡げは御免だ」と言う意識があろう。

 そして階級のない社会が、人類社会の理想と、タテマエ論を吐きながらも、自分より経済的に貧困な者を見ると、“自分はあれよりましだ”と、ささやかな優越感を抱くのである。
 この“優越感”の出所こそ、2種類のタイプから派生した、
“目が耳の見えないことを嗤(わら)い、耳が目の聞こえないことを嗤う行い”なのである。その、それぞれに特性と言うものがあると言うことも知らずに……。
 今の日本人こそ、この平等主義に騙
(だま)されている人種は、世界の中でも珍しいのではあるまいか。



●金銭と物財に取り憑かれた階級過敏症

 テレビや新聞や雑誌などのマスコミを通じて、“豊かな生活”をするイメージは、しっかりと現代人に固定化されたように思える。また、その洗脳の威力によって、“目に見えない階級制度”を暗黙の了解としている。
 つまり、日本人の階級意識は、口にこそ出さないが、その行動原理において、物質的に“豐か”か、快適か、便利かということが、これを如実に顕わしている。

 平等の意識を口にする一方、その裏返しとして、例えば仕事一つを上げてみても、“安全”か“危険”かが、選ぶ方に選択権を与える一方で、安全に属する仕事は極めて少なく、危険に属する仕事は極めて多い。
 したがって、頭脳の知力の度合いを競って、一握りの安全に属するポストの従事者を、知力テストで篩
(ふるい)に掛けて選別し、狭き門に絞り込み、頭脳競走に負けた者を、危険な仕事の肉体労働者へ、また知能テストで優秀な成績を納めた者を安全で危険のない、後方に於ける楽な仕事へと選(よ)り分けたと言えるのではあるまいか。

 つまり、頭脳の知力的度合いによって、その優れた者は高級奴隷となり、一方劣る者は肉体を酷使する低級奴隸のポジションが与えられるのである。そこは低級なだけに、頭脳以外の肉体を酷使し、過労死する危険が大きく、寿命もそんなに長くないのである。
 こうした、階級別に管理するシステムが今日の社会に出来上がっていることを認めねばなるまい。

 その階級差別によって、労働者が仕事に関した事故や病気で、怪我をし、病気に罹
(かか)り、あるいは死んでいる実情は、仕事に危険と安全があることを如実に物語り、その構造化に、命令される側と、命令をする側が存在すると言えるのである。

 そして、昨今はテクノ・ストレスと言う仕事の上で派生する「鬱病
(うつ‐びょう)」が社会問題になっている。
 “耳鳴り”などの症状を訴える多くの就業者は、既に鬱病の初期段階であり、耳疾患は外部からの音の刺激がないのに、耳または頭蓋内に音が感じられる状態で、鬱病や神経症としても顕われてくる。
 これも“安全”か“危険”かの二種類から派生したものと言えよう。また階級を階層別に分けると、次のようになる。















最上流階級
決して表面に顕われず、桁(けた)外れで見えない。これと言った仕事を持たず、遺産や配当、あるいは銀行の金利だけで暮している階級層である。100%労働をしない有閑(ゆうかん)階級層。先祖の功績や巨額な遺産などにより、その膨大な資産を受け継ぎ、一切働くことをしない特異な層である。
上流階級
財産の“量”を誇る階級層だが、慈善事業をしたり、名誉職などの仕事を持っている。肩書きに温存する富裕層。
上層中流階級
権威筋で、法律や医学、あるいは石油や海運などの大手企業などの経営に携わり、大企業の創業社長であったり、また大手ジャーナリズム、著名な演劇家・芸術家、著名なプロスポーツ選手、金融や不動産で働く代表取締クラス。国会議員や、競馬の馬主になれる資産家。かつては国会議員なども、地域の名誉職として地元の有志が代議士に出馬すると言うこと持った。
 または10億円以上の資産を所有するスーパーリッチ層。自分では「上流階級」の富豪の意識が強い。国際政策に携わる政府要人なども、これに含まれよう。
中下層中流階級
中堅金融業者、地方銀行家、中小企業の取締役や創業社長。売り出し中の芸能人や人気タレント、プロスポーツ選手。宗教団体幹部。政治家、医師(一部の医師の中には、医師が上位で、同じ医師でも歯科医は一等下という優越感を抱く者が居る。パーティなどの行くと、この意識格差が明確になる)、弁護士、公認会計士、不動産鑑定士、弁理士、パイロット、大型船の船長、各省庁のキャリア官僚など。自分では、かなりの優越感を持ち、エリート意識が強い。また、その為に人間的な配慮や、一般常識に疎く、自分以下の下層を見下す意識も強い。














上層労働者階級
大学教授・準教授、あるいは同程度の研究所職員や同等の所得を有する者。准医師または柔道整復師。新聞やテレビのジャーナリスト。歯科医師、税理士、土地家屋調査士、司法書士、スチュワーデス、アナウンサーなど。労働者階級の最上部に君臨している。自分より出世してない同期達を見下す階層。会社員では一部上場の中間管理職以上の地位にある。
中層労働者階級
按摩マッサージ師、鍼灸師、看護師、療術師、カイロプラクター、心理師、福祉師、教師、社労士、ノン・キャリア下級公務員、行政書士、僧侶、神父や牧師、その他の平均的サラリーマン層。自営業者。強い自尊心で自己が培われ、「自由」と「平等」をよく口にする。日本では、ブランド品に敬意を払う階層で、最も多い階級層だろう。
 多くは私大や専門学校の出身者で、自身では“ホワイトカラー”や“頭脳労働”を自負し、横文字文化を好み、高級ブランド品は、特に敬意を払う。気が小さくて保守的。一方、希望退職やリストラの対象になり易い。
 また、VISAカードやクレジットカ−ドや銀行系のサラ金カードも、この階層が一番多く持つ。現金や小切手より、カードを持ち歩く層でもある。
下層労働者階級
非正規雇用の季節労働者や派遣社員など、一般的な作業労働者など。中中層労働者を含めて此処までの階層が、深層心理には、「中流意識」を抱いている。夫婦共働きも多い。豪華家電などは分割払いで購入する。“派遣切り”の対象になり易い。
 また、人材派遣会社から時給や月給を“ピン跳ね”されて“かもられる”対象でもある。
貧困階級
ワーキング・プアー、あるいは定職を持たないフリーター。また、“親の年金”で暮す就業年齢に達した、仕事をしない若者など。
住所不定階級
路上生活者などのホームレスのストリートプアー層。あるいは犯罪を抱えた逃亡者や外国からの密入国者。



最下層階級
決して表面に顕われず、桁外れで見えない。かの階層は、これと言った仕事を持たず、労働をしない有閑階級層。働いていないが、金にも困らず、食うにも困らない。また、自分の努力や功績によらず、福祉機構や更正組織から、ぎりぎりで生きて行く最低限度の金銭が与えられている。
 この構造は、「最上流階級の有閑層」と酷似している。最上流階級が先祖代々の遺産で暮すのと同じように、彼等は殆ど現金を身に着けていないのである。正体不明の悠々自適の階層。
 寝る時に寝、食べる時に食べる。まさに“有閑層”の名に相応しい。

 階級意識の中に潜在する、被支配層から検(み)た支配層は、長い間“倫理”と“文化”を支配し、旧家の権威によって、土地の人民を支配した“一握りの階層”で、人民の多くは、この権威に従順である事が社会の為来(しきたり)と考えていた。

 しかし、戦後の日本を席巻
(せっけん)したものは、「平等主義」の持つ神話だった。
 人は、誰もが平等との「思い込み」が始まった。そして長らく日本人は、この平等主義に振り回されて来た。平等でなければ、腹立たしいのである。平等に違反する感情に、“逆撫での感覚”が敏感に反応するのである。特に学校教育で、日教組に指導された年代には、非常にこの意識が根強いものである。そして階級の嫉みは、いざとなれば復讐の為に、「平等主義」を振り翳
(かざ)すのだ。

 ところが一方で、口では“平等”を口走りながらも、その実は、“人間には階級があって可然
(しかるべき)で、あいつと自分がどうして同じなのか”という訝(おか)しな優越意識を持っている。特に中層労働者階級に、この類(たぐい)は多い。そしてこれが“階級過敏症”を招く原動力となっている。

 つまり、口では「平等」を唱え、自他との個人的な意識間では、“自分はあんな奴とは違う”という、もう一つの素顔があり、階級意識から来る優越感である。平等と矛盾する意識である。これこそが、日本国民の抱いている固有の階級構造になっている。
 そして人間の価値を、財産の量で推
(お)し量ろうとする“西洋的処世術”に感化された生き方を模索しているのが、まさに今日の日本人である。

 それは「中流」と「平等」に焦点を合わせた価値観から来るものである。
 その中でも顕著なのは、日本の中流階級が、自分では上流と思い込み、中流階級が上層中流に這
(は)い上がろうとする足掻(あが)きを、上層中流がこれを拒む状況があり、中流階級と、一つその下の上層労働者階級との鬩(せめ)ぎ合いが、本来の中流階層の間で繰り広げられ、特に日本では水面下の“階級衝突”が起っているように思われる。

 似たような環境に、多くの日本人の誰もが閉じ込められ、学閥出身校による優越感合戦が起っているとも言えるのだ。最終学歴の出身学閥で、“肩書き”や“ポスト”が定まると言う階級構造である。
 つまり、国家公務員などで見れば、“キャリア”と“ノン・キャリア”の階級の枠組みである。また、此処に境目としての線引きがあるように思われる。
 これは“富”と、それに伴う“権力”を指している。また、これに附随して、生活様式、好み、自意識が一方で、財産同様に重視される。また、これが人間を判定する場合の価値観となるようだ。



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