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死ぬとどうなるか 4
戦火に逃げ惑い、戦火に灼かれて死ぬのも「非業の死」であろう。悲惨であり、哀れである。戦争だから仕方がないという事で片付けずに、戦時に限らず、平時でも「非業の死」は存在するのだ。生まれた以上、人間は死ぬものだが、それにしても「非業の死」のような死に方だけは免れたいものである。
 
写真は神戸空襲(六月五日、神戸北長狭通り)では、昼間にもかかわらず、死者3184人、負傷者5824人を出した。


●非業の死

 江戸時代のキリスト教徒が、改宗を迫られて、「ころぶ」ことをせず、殉教の道を選択したのは、実にここにその理由が存在するのである。しかし、これをキリスト者で無い者が、殉教という現実を見れば、まさにこれは「横死」となる。

 「横死」とは、人間の想像を絶する凄まじい死に方であり、事故や殺害など、思いがけない災難で死ぬことをいう。その死に態が凄惨であるから、当然、そこで感じる意識体の感知は「断末魔
(だん‐まつま)」の様相を呈する。「非業(ひごう)」ともとれる死に方をする。【註】本来「非業」とは、過去世(かこぜ)の業因によらないこと、あるいは思いもかけない現在の災難によって死ぬことなどをいうが、現象人間界は因果ならびに逆因果が働く為、偶然と云う現象は起こり得ない。根底には必然が存在する)

 一言で「死んで名を残す」と云う。しかし、「死に方」如何で、その名が残ったとしても、大往生を遂げたことにはならない。則
(すなわ)ち、地・水・火・風の「四大」が調和したままで、かつ、「死の事を意味する、火を吹き消す」状態のままの「人の最期(さいご)」というのは、中々至難の業(わざ)だからである。

 何故ならば、人の死には常に、過去世
(かこぜ)の習気(じっけ)が絡み、前生の習慣はその人の性格を構築し、仏教の因果律では、そこに「業(ごう)」があり、キリスト教では逆因果の《予定説》が絡んでいるからだ。
 仏教で云う業は、行為あるいは行動で、身
(身体)・口(言語)・意(心)の三つの行為(三業)を指す。この業は、業苦の根源を為(な)す「しわざ」の根本となる。また、業は「因業」となり、業の果報と密接は関係を持つ。それがある時は、業病としての因縁を背負う。これは「因」と「業」の関係であり、また、果報を招く「因」となる「業」の根本となる。

 それが、やがて必然となって、「因縁」として顕われて来る。物事には、必ず「因」があり、「因」は直接的原因をなし、「縁」は間接的条件をなす。また、因と縁から結果から「果」が生ずる。これが「縁起」である。そして、人の運命も、大方はこの中に包含されている。
 そして、人の運命を考えた場合、因果と云う運命法則に振り廻され、その支配下に置かれる場合が決して少なくない。その最たるものが「因果」である。

 「因果」は、直接的原因である「因」と、間接的条件である「縁」との組合せによって、様々の結果である「果」を生起する。特に、善悪の業
(ごう)によって、それに相当する果報を招く。つまり、習気の根本は此処に置かれ、例えば、悪業の果報である不幸な状態あるいは、不運な巡り合せなどはこれに起因している。

 例えば、昨今は殺人事件などが日常茶飯事に起っているが、この起因は、過去世の因果関係と大いに関係がある。人が殺されると言う現象に、偶然はないからだ。現象人間界で起る現象の総
(すべ)ては、必然から起っている。つまり「因縁」である。
 特に、因果律を考えると、過去世の因縁を無視するわけにはいかない。

 それは殺人事件などを見ると明白になる。殺人と云う行為は、一方的に無差別にこうした現象が偶然に発生するわけではない。
 「因」があり、「縁」があるならば、それは長い輪廻転生の中で、何処かに繋
(つな)がっていなければならない。現象界では、偶然と言う現象が、無因果のままで起らないからだ。変化し、形を変えると言う力が働くのであれば、それに及ぼす外圧が存在しなければならない。

 こうした外圧を明確に顕わしたものが、人が殺される殺人事件あるいは、人を殺さねばならない殺人事件へと展開されていくのである。例えば、怨
(うら)みによる殺人などは、殺された被害者が生前、犯行に及んだ犯人に対し、どのような非道を働いたかという、動機が存在する。したがって、被害者の罪は一切不問にされてしまうのは甚だ、片手落ちであろう。これでは次の因縁を生む。
 人が殺される、また、人を殺すプロセスを追えば、そこには必ず、過去世
(かこぜ)からの因縁を見て取れる。

 そして、通り魔殺人なども、単に偶然に起っているのではなく、必然的に、殺されなければならない場の因縁が生じているのである。現世の、その人が生きている間には、因縁らしきものは見えなかったかも知れないが、過去世からの転生の中での輪の中では、そこに派生する因縁が見て取れる。

 これを追うと、輪の中では、何処が始まりで何処で終わりか、その因果関係の原因と結果を、何処からだと判別することは出来なくなる。
 ただ、原因があり、結果があると言う考え方からすれば、その人の行動には、無意識や潜在識の中にその「因」たるものが保菌され、それが「縁」によって働いたという必然が存在しているだけなのである。

 これが「殺した者は、殺される」あるいは「殺された者は、その怨みを晴らす為に、人殺しに及ぶ」という、輪廻の輪が循環しているだけの事である。これを見た場合、殺人事件では、被害者の罪も何処かで問われなければならなくなる。
 横死とは、こうした因果のメカニズムで起っていることがわかるであろう。したがって、この循環の輪から解脱する為には、無意識や潜在識から「因」を消去し、「縁」たる間接条件を削除する必要があるのである。

 《予定説》は、逆因果であるから、原因があり、それに準じた結果が起るとはしていない。最初に結果が上げられ、結果に応じた原因が派生するとしている。

 例えば、悪を働く悪人がいるとしよう。その悪人は、生まれた時は無垢な、穢
(けが)れを知らない赤子(あかご)であったが、この赤子は物心がつき、悪知恵を働かせることを覚え、更に教育がない為に悪の道に染まり、ついには悪事を働く悪人になって行くと言うプロセスを考えた場合、そこには因と縁が絡み合って、因果律により確認が出来上がると言うストーリーが展開されるが、《予定説》は逆因果律になっている為、生まれつき悪人であるから、悪事を働くのだという因果性の一切のものは原因があって生起するというプロセスを追わないで、最初に結果があり、結果に応じた原因が派生するとしている。

 《予定説》から考えれば、例えば、人の臨終においても、成仏できる人と、成仏できない人が、生まれる以前から予定されていて、救われる人と、そうでない人が、予
(あらかじ)め、最初から予定されたと云うことになる。
 こうなると、死んで名を残すなどと云って喜ぶわけには行かず、人間の生・老・病・死というプロセスを再び洗い直さねばならなくなる。それは、人間が何故この世に生まれて来るのかと言う、根本に迫らなければ、全体像が見えてこないのである。

 霊魂の循環は、一種のリングの「輪」の中にある。巡り巡ることが、この「輪」の中で行われている。だから過去世を再び繰り返す事になる。いま顕われている現象は、過去世
(かこぜ)による「習気(じっけ)」である。習気は、「性格」や「性質」であるから、再び巡り巡って、同じ現象が時代を変えて顕われる。

 こうしたものが、再び再現され繰り返されるのである。
 例えば、「色情の餓鬼界
(がき‐かい)」では、不義密通をした男女が堕ちる苦海を表現したものだが、飲食に困った亡者に、たった一つの許された食べ物に、一日女が五人産む自分の子供を、食べると話が不成仏の相を説く『守護経』には説かれているが、ここには八種類の『墮餓鬼道相(だ‐がき‐どうそう)』が記され、一切衆生に「生」あるうちの改心を促している。それが「姦淫をするな」である。姦淫をすれば、結末と云う終止符が打たれず、巡り巡るからだ。

 物事には、始めがあり終わりがある。始末こそ、人間の人生では、最も大事な事柄の一つである。これを「けじめ」という。「けじめ」とつけきれない行為は、「迷い」を生む。したがって、迷いっぱなしの人生では、生死を解決することができない。死生観を解決できないで生涯を終える人は、再び六道
(りくどう)を輪廻して、同じ迷いを繰り返す事になるのである。これこそ、終りなき生き方と言えよう。「姦淫をするな」とは、この「けじめ」のなさを指摘しているのである。



●姦淫はするな

 仏道では、酒の「禁酒」と共に、「生き物を殺傷するな」「人の物を盗むな」そして「姦淫はするな」と戒めている。その中で、特に重要視していることは、「姦淫はするな」ということである。

 自由主義圏は、同時に自由恋愛圏でもある。恋愛を自由三昧
(ざんまい)に弄(もてあそ)び、自分勝手の扱い廻(まわ)す、そんな日常生活圏が、則(すなわ)ち自由主義国家である。
 また、自由恋愛とは、男女の交際にさまざまの制約があった時代の反動により、恋愛を放縦なものとして、自由奔放にし、その奔放から、
「性器教育」の乱れが生じた。
 本来、「性」は清らかな愛情に象徴されていた。しかし、時代が下がると、性が卑猥
(ひわい)な対象へと成り下がって行く。

 また、自由恋愛から起った錯覚は、自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対的自由があり、その中に男女の愛、あるいは同性愛への自由があることを主張し、社会的条件を変革する現実が生まれた。自由の増大により、現代人は自由と平等の下
(もと)に狂った。繰り返しの戒めであった「姦淫するな」という本当の意味を解せなかったのである。そして、自由が謳歌され、自由の名の下に狂い続けている。

 因果応報の禍根を待つまでもなく、狂い続け、錯覚を露
(あらわ)にして、小賢(こざか)しい分別知で狂い続けている。また、こうした「狂い」状態を助長して、大衆に淫らな性を売り付ける進歩的文化人も少なくない。

 男女が異性を獲得する為に、その目的の為だけに、「愛情」と言う情念を、自然的かつ社会的条件に変革させ、男女の仲において、束縛かつ強制のない自由奔放へと解き放った。自由主義は、自然と社会の法則から人類を解放したように思われたが、それは何処までも錯覚であった。自然と社会の法則の認識を通じて、人類の解放は実現されなかったのである。
 人類の禍根
(かこん)は、実に此処に由来する。これは「古い」とか「新しい」の問題ではない。単に、錯覚に過ぎなかった。

 それは、人間の「肉体」が、人間自身のものでないからだ。肉体とは、則
(すなわ)ち「借り物」であり、最後は帰さなければならない時機(とき)がやって来る。現代人は、これを完全に忘れてしまっている。
 「自由」を、「何をするにも人間の自由」とか、「全く障害がない」と踏んだのである。責任は生じないと思い違いしたのである。

 自分のものでない肉体を、勝手気ままに、意に用いていいはずがない。錯覚はそこに生じた。しかし、「威福
(いふく)を擅(ほし)いままにする」【註】思うままに威圧を加えたり福徳を施したりすることで、人を服従させること)では、いい筈(はず)がないのだ。

 一方、現実に「社会的自由」なるものがある。これは個人の権利および人権が侵されないことを云い、歴史的に成立している重要なものに、「市民的自由」と「政治的自由」がある。しかし、これとて、一種の空想であろう。現実に則して考えてみれば、願望であり、そこに自由はない事が分かる。

 自由主義国家の「契約の自由」、「財産・身体の自由」、「思想・信仰の自由」、「言論・集会・結社の自由」などは、一体何を指すのだろうか。本当にこうした物が、庶民の頭上に輝いているのだろうか。
 あるいは行動の自由を意味し、国家権力その他の干渉がないことを意味しているのだろうか。
 では、何から何まで自由を象徴する一方、錯覚した自由によって、本当の自由が束縛されているのではあるまいか。

 釈尊の言葉に「姦淫はするな」とある。一方、現代社会の現実の中に、「自由交尾」があり、昨今の性の乱れは、釈尊の「姦淫をするな」の戒めを悉
(ことごと)く破っているではないか。これこそ破戒の最たるものではないか。
 親が、親族が全く関与しない自由奔放な、「愛情」の名を語る、男女の不埒な自由後尾状態が存在している。何故、人間が蚕蛾
(かいこが)のような養蚕に転じなければならないのであろうか。

 自由恋愛を奨励したものは、自由婚姻であった。これは子供が父母の同意を得ないでなす婚姻をいう。旧民法では、男は満30歳、女は満25歳に達するまで、父母の同意を要したが、現行民法では未成年者のみ、父母の同意を要すると改められた。こうした物が隠れ簑
(みの)として遣われ、「自由」の名の下に、無責任な自由恋愛が花盛りである。

 未成年の不純異性行為から、成人した大人達の乱れた愛憎の応酬。既婚者の不埒
(ふらち)な不倫と姦淫。総(すべ)て、自由恋愛の延長上に置かれた、現象人間界の恥部である。
 仏道には「姦淫はするな」と、繰り替えし述べられている。婚姻前に「不正な男女の交わりはよくない」と述べられている。不倫な情事は「危険である」と力説されている。

 また、強制猥褻
(わいせつ)罪や強姦罪、淫行勧誘罪などもするなといっている。個人の性的自由を侵害する犯罪は、とにかくよくないのだ。こうした犯罪を姦淫罪という。不倫も同罪である。自由恋愛の結果からそうなったと、軽々しく述べるべきでない。

 尻軽女が、男に騙されて貞操を売り、言葉巧みな男が、痴女に接近し、その貞操を奪うこともよくない。これこそ既に、「姦淫」しているからだ。
 では何故、釈尊は「姦淫をするな」と力説するのだろうか。

 理由は簡単だ。
 実は、自分の躰
(からだ)と言うものは、自分の物でなく、「借り物」であるからだ。借りた物は、「必ず返す」というのが現象界の掟(おきて)であるからだ。借り物の「肉体」を自由奔放に遣っていい、酷使していいという許しは、誰からも得られていないのである。

 不摂生で日常生活の誤りから、慢性病を患う者。愛の名を借りて、自分の肉体を異性に、あるいは同性に提供し、これを弄
(もてあそ)んだ者。それを実行する為に、五感を偽った者。騙(だま)した者。こうして、これらを奪った者らは、少なからず、現世に因縁を残し、現世もしくは来世に因縁を引き摺ったと言えよう。
 また、臨終に苦痛が付きまとうのは逃れようもない。



●因果律と逆因果

 この世は、「因果律」からなる。それが「因果」でろうが、「逆因果」であろうが、殺した者は殺される、奪った者は奪われる、騙した者は騙される、犯した者は犯されるという因果律により、その執行が必ず行われる。軽いものは現世に顕われ、重いものは来世に引き摺るかも知れない。

プリンシペ・ピオ丘の銃殺。大量殺戮の中で、死刑執行の方法として小銃で射殺する方法は、最も手間と金の懸らない安上がりな方法だった。

 また、現世で顕われている現象の中にも、過去世(かこぜ)の習気(じっけ)により浮上して来るものもある。これは死後に生れ変る世界の「後世(ごせ)」があるからだ。
 仏道では、過去・現在・未来のことを「三世
(さんぜ)」という。また、また、前世・現世・後世(来世)ともいい、ここには「三世因果」の法則が働いている。過去・現在・未来にわたる因果の関係は輪廻(りんね)の輪となって連続しているのである。

 したがって、この輪廻の輪の循環は、止まることがない。三世の因果・善悪・吉凶などは、「三世相
(さんぜそう)」に顕われる。仏道の因縁説によれば、陰陽家の五行相生や相剋の理(ことわり)を交えて、人の生年月日の干支(えと)や人相などは、三世の因果・善悪・吉凶などに顕われ、そこに運命の陰陽の支配が決定されるといわれている。
 運命は、人間が生まれて死ぬまでの七十年か八十年の短い生息期間を指すのではない。輪廻の輪に存在する大きな循環の中の運命の支配である。この支配を「巡り合わせ」という。

 循環するからこそ、再び同じ場所に戻って来て、同じ経験をすることになる。そこに因果応報があるのである。だから、この報いを、「遣
(や)った者は、今度は遣り返される番」が巡って来るのである。
 「姦淫をするな」とは、実に、この応報かならる巡り合わせの凶事を指すのである。

 では、この禁を犯せば、どうなるか。
 水を求めて彷徨
(さまよ)う事になる。水に不自由し、水を求めて餓鬼(がき)へ墮(お)ちるのである。
 昨今、水やその他の飲料水のペットボトルなどを持ち歩く、人が増えているが、これは一種の、「生きながらにして餓鬼に堕ちた過去世
(かこぜ)の習気(じっけ)」が現世に顕れた現象であろう。
 咽喉
(のど)の渇(かわ)きを覚えるのは、水を求めて色情を繰り返す人に見られる。こうした人は、躰(からだ)が火のように熱くなり、その為に、しょっちゅう水やその他の水分を欲しがる。これは自分の躰から急速に水分が失われると同時に、水を求めて彷徨(さまよ)っている霊的な現象と言えよう。

 「姦淫をするな」の禁を破って居る人は、体温を調節する機能が狂ってしまったからだ。人体の体温を調節するサーモスタットは「延髄」にある。そして此処には「温中枢」と「冷中枢」の二つがある。
 此処が故障すると、生きながらにして「求めて得られない苦悩」の餓鬼道に堕ちる苦しみが起る。

 人間は額
(ひたい)の印堂(いんどう)部分で、霊的な気配を感じるのであるが、体内に色情などが絡む外邪(がいじゃ)の唸(ねん)が入り込むと、背中の中央より、少し肩よりに「風門(ふうもん)」という処(ところ)がある。この風門に外邪が潜り込むのである。水死した霊や、横死の霊体が持つ意識は、一種の唸としての波動を持ち、ここから潜り込む。気配として、「ゾクゾク」とする感得は、こうしたことに起因している。

 外邪は風門に潜り込み、ここから上昇して後頭部の「唖門
(あもん)」という経穴に至り、温中枢と冷中枢を刺戟して体温調節を狂わせるのである。此処が刺戟されると、反射的に毛穴の立毛筋(りつもうきん)が収縮し、気が体外へ逃げ出すのを防ぐ。俗にこうした立毛筋が経つ現象に「鳥肌が立つ」という言葉を使うが、眼に見えない何かに懼(おそ)れを抱いた時、人は反射的に何かを感じ、この「門」を動かすのである。

 そして、最初は風門ならびに唖門が反射的に動かされるのであるが、これが慣らされ緩慢になると、この自動調節機能が狂って来て、その物質的行為として、水を欲しがったり、何か常に口の中に清涼飲料水などを流し込んでおかないと、落ち着きがないと言う行動が起るのである。

 やたらに咽喉の渇きを覚える人は、外邪が唖門に居座り、背後から自動調節機能を狂わされている人である。「姦淫をするな」の禁を破った人である。これを「見えない心」が無意識のうちに動き、現象としてこうした行動を執
(と)らせているのである。



●不倫から齎される報い

 「姦淫をするな」という言葉は、釈尊が云った言葉だけではない。イエスも、また「姦淫はするな」と云っている。因果説であろうが、逆因果説であろうが、「姦淫をするな」と云っている。

 これを逆因果説から考えると、救われない者は「姦淫をする」となる。慎
(つつし)みを忘れて、相手から惚(ほ)れられているなどと錯覚し、有頂天に舞い上がり、色情により、姦淫に及ぶ。したがって、最初から救われないと予定されているから、救われない者は、色情に及ぶと言うのである。

 つまり、この論理は、悪事を働くから悪人になるのではなく、もともと悪人だから、悪を働くのだとする考え方である。これこそ《予定説》の力説するところである。
 仏教では因果説なので、色情に及ぶ者は、その報いを受けると言うのである。行為に及べば、その行為としての報いを受けるのは、必然的な成り行きであろう。

 しかし、現代と言う、性情報が氾濫
(はんらん)している世の中なので、「姦淫はするな」などの言は、暖簾(のれん)に腕押しであろう。こうした戒めを守っている現代人など、殆ど皆無(かいむ)に近いであろう。また、性的欲求を慎めというの同じである。
 では、現代において、「姦淫はするな」とは、一体何を指すのか。

 現代の特長は、不倫の時代である。
 成人男女の貞操意識は失われ、動蛋白摂取が多くなり、やたら性腺
(せいせん)が刺激される生活空間におかれている。食肉・乳製品・卵類などの動蛋白食品は、肉や乳製品の分解によって生じた強酸類が、血液を汚染して、酸毒化を齎(もたら)す。また、そんな悪しき食環境の中で暮らしている。しかし、肉食はいつの時代も、幸福を齎さない。
 仏道では、この為に「動物は食べるな」としているのであり、「動物は人間が食べる物ではなく、人間が保護すべき生き物」だとしているのである。ここに、動物は食べてはならない根拠がある。

 また、肉常食者は短命である。食肉類などを摂取すると、内臓機能の老化が早まるからである。この病因は、動蛋白の持つ強酸類が代謝機能を根底から狂わせる結果、性的な病的興奮を高めて狂わせ、深刻な排泄障害を起こすからだ。

 この為に、哺乳類の形態を持つ人間は、「常に発情」状態にあり、異性や同性のセックスを求めて夜の巷
(ちまた)を徘徊(はいかい)しなければならなくなる。風俗産業や水商売などの夜の盛り場に屯(たむろ)する連中は、何(いず)れもこうした人種であり、動蛋白摂取過剰で、「精禄(せいろく)」に淀(よど)みを生じ、排泄異常の為に猛り狂う。人相も、「性器化」する。

 精禄に淀みを起こす現象は、動蛋白を摂取して、性腺が刺激され、その刺戟
(しげき)過剰状態が、常に根底から代謝機能を狂わせている為である。だから、常にセックスを貪らねばいられなくなる。隙(すき)あらば、という目付きで、虎視眈々と異性の隙を窺(うかが)っているような行動をとってしまうのである。
 人間が不倫に奔
(はし)るとき、大方はこうしたプロセスを辿っている。

 最近のホモ同性愛者の増加も、性腺に狂いが生じ、異常性欲が吹き上げているからである。この現象のメカニズムは、単に、精神性から来す精神性女性、あるいは精神的男性と云う、こうした精神が及ぼすだけの現象ではない。既に、《予定説》で上げるならば、性腺異常は、既に予定されたものであり、予定された通りに事が運ばれていると云っていいだろう。

 則ち、男でありながら、女性の精神性をもって生まれて来る。また、こうした「女性の精神性」に惹
(ひ)かれる男は、惹かれるように予定され、生まれて来る。昨今の「鉢巻き現象」は此処に由来する。
 これは性腺異常から、眠っていた潜伏的保菌状態が眼を覚まし、表面化しただけの事である。しかし、一旦予定されたものは、御破算
(ごはさん)に戻すことは出来ず、生きながらに全うするしかないだろう。

 だが、世の中には「鉢巻き現象」以上に恐ろしい物が存在する。
 それは「動物を喰
(く)うな」という戒めに併せて、「姦淫はするな」という戒めを破った「不倫」であり、この不倫において、女が妊(みごも)った場合である。この責任は、男女双方にあり、これを意図的に堕胎する、あるいは事故により流産するなどの結末に至った場合、その破戒(はかい)は「姦淫はするな」の文字通りに、悲惨な因果応報が待っている。
 それを現実化したものが、「臨終の失敗」である。そしてこの失敗は「不成仏」をつくり出す事になる。



●死ねば、それで終りなのか

 「死ねば、それまでよ」という事が、世間一般では罷(まか)り通っている。しかし、果たして死ねば本当に“ただそれまで”なのだろうか。

 人は死に向かって生きている。生まれた以上は、必ず死ぬ。しかし、人の死は、人それぞれに、様々な死に方がある。そして、家族に見守られながら、静かに、穏やかに息を引き取るということは、現代では稀
(まれ)になった。
 その意味で、現代は「自分の死」すら、「自由に選択できなくなった時代」といえる。

 死は一般に、「自然死」と「事故死」の二つに分けられる。
 しかし、現代社会では、「自然死」は稀で、多くの人は「事故死」をする。特に現代人の特徴は、病院で生まれて、病院で死んでいく、生も死も病院である。
 かつては「月」の満ち引きに応じて、生死
(しょうじ)が決定されていたが、現代人には、殆ど無関係となってしまった。

 自然死に関する文献を紐解
(ひも‐ど)くと、人が自然死で死んでいく場合、潮汐(ちょうせき)の関係に、古人は注目しており、「干潮にほんの僅か遅れて死がやってくる」と記されている。こうした古人の文献から窺(うかが)えることは、月は、潮汐を通して、人の死にかかわっていたことが、非常に高かったと思われる。つまり昔は、人間は月の波動に反応し、それに応呼していたことになる。

 しかし、病院で生まれて、病院で死んでいく人生しか選択できない現代人は、かつての古代人のように、自然死として、潮が引くように死んでいく事は不可能になった時代だとも言える。
 この意味からすれば、現代人は、古代人より遥
(はる)かに退化した、「生」と「死」を生きるしかない味気のない人生に生きていることになる。

 そして、特記すべき事は、「月が、死と不死を司る神として観念」されていて、月が人間の死を司っていたとしたら、一体これはどういう事になるのだろうか。
 また、古人の文献によれば、「人間は潮が引くときに死ぬのだ」という伝承が残っており、一方、古代人の観察眼は鋭く、これがもし、真実としたら、病院で生まれて、病院で死んでいく現代人の、この人生は、一体なんなのだろうか。

 私たち現代人は、太古の人や、人の死と、潮汐を関連付けた古人に対して、面目を失うほど、退化した人類と言えなくはないだろうか。

 人間は、生れ落ちる過程で、生・老・病・死の四期
(しき)が、必然的に人生として割り付けられる。人の死は、「生」の逆のコースを辿って死に向かうという。そして、「死」は咽喉(のど)の渇きから始まるといわれる。その際、「六つの中有(ちゅうう)と、三つの経験がある」といわれる。またこれは、東洋医学の思想の中にも見られる。

 古い東洋医学の文献
【註】『霊枢』邪客篇)を紐解くと、「人は天地と相応ずる」とある。
 つまり天地の陰陽が、人間の体内にも現れているということである。これを総じて、人体を「小宇宙」と定義しているのである。天体の大宇宙
(大太極)に対して、人間はそれに応呼する小宇宙(小太極)なのだ。

 手には、太陽小腸経
(たいよう‐しょうちょう‐けい)、少陽三焦経(しょうよう‐さんしょう‐けい)、陽明大腸経(ようめい‐だいちょう‐けい)、太陰肺経(たいいん‐はい‐けい)、少陰心経(しょういん‐しん‐けい)、厥陰心包経(けついん‐しんぼう‐けい)があり、また、足には太陽膀胱経(たいよう‐ぼうこう‐けい)、少陽胆経(しょうよう‐たん‐けい)、陽明胃経(ようめい‐い‐けい)、太陰脾経(たいいん‐ひ‐けい)、少陰腎経(しょういん‐じん‐けい)、厥陰肝経(けついん‐かん‐けい)の三陰三陽の、合計12経絡を教えている。

 人間が生まれながらに持っている成長ならびに発育の根源は、「生命力」である。この生まれながらの気を「先天の気」という。また、生れ落ちた後、飲食や大気などから取り込まれる酸素などの天空の気と、「先天の気」を合わせたものを「後天の気」といい、「先天の気」と「後天の気」を合わせたものを「真気」といい、これが気の本質である。
 人間は気の運行により、成長と発育の生命活動を営むことが出来る。この真気運行の通路が経絡であり、ここに12経絡と、奇経脈の任脈
(にんみゃく)と督脈(とくみゃく)を合わせて「14経絡」となる。

 そして、中有
(ちゅうう)は、「三つの経験」をするといわれる。その三つの経験とは、「死の瞬間の中有」「死した後の表現形態の中有」「再生を求めて父母を探す中有」の三つであり、この三つの経験は、「生」とは、逆のコースを辿って行われるという。

 東洋医学ではこの「三つの経験」を、次のように定義している。
 「上焦
(じょうしょう)」を横隔膜(おうかく‐まく)より上とし、「中焦(ちゅうしょう)」を横隔膜から脾経の神闕(しんけつ)までとし、「下焦(かしょう)」を臍(へそ)から会陰(えいん)までとしている。
 人が誕生する過程を追えば、それは「焦
(しょう)」からはじまる。「焦」は火が燃えて、それが焦(こ)がす態(さま)を表す。

 まず、生まれる瞬間は母体の陣痛
(じんつう)に始まり、子宮から膣の産道を通って、外に押し出される。この時の胎児の意識は、膣を通って出て行く際、「鉄のトンネル」の如き産道を通って、外に押し出されるようなもので、言語に絶する苦痛であるという。その苦痛の為に、生まれ出た赤ん坊は、「鉄のトンネル」を通って出てきたのであるから、その摩擦で真っ赤な躰(からだ)となり、そして痛さを訴える為に、ただ泣くしかないという。赤ん坊の産声(うぶごえ)とは、痛さを訴える為の、抗議への泣き声だったのである。

 「オギャー」と生まれて呼吸の「呼気」をし、これが上焦である。阿吽
(あうん)の「阿」である。
 次に臍
(へそ)の緒が切られる。これが中焦である。下焦で大小便をし、この三つの経験が、人間の誕生のプロセスである。したがって、「死」は、この逆のプロセスを辿るという。

 まず、自然死の場合、下焦の会陰
(えいん)が閉じられ、生命力は中焦の神闕(しんけつ)を経由して、上焦へと至る。上焦に至って生命力は、泥丸(でいがん)部分の百会(ひゃくえ)のブラフマの蓋(ふた)が開き、この開き口から、生命体を成す霊魂は体外に出ると、東洋医学では論じている。その時に、最後の息を引き取るのが「吸気」であり、これが阿吽(あうん)の「吽」である。

 人の誕生は、生命力の「火」が焦げ始めることからはじまる。逆に死は、この「火」が消える事をいう。精液という、「水」から生じた生命力は、「焦」の尽きるとき「末期
(まつご)の水」を必要とする。
 つまり、人間は、中有→水
(精液)→焦→末期の水→中有というプロセス通りに再生を繰り返し、生まれ変わりをするのである。これを仏道では「輪廻転生」という。
 これは人間が、「死ねば、ただそれまでよ」という以外の事を顕わしているのではあるまいか。



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