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死ぬとどうなるか 2

「死」とは人間の一生の中で、四季で言えば「冬」である。春に種を蒔き、夏に大いなる成長を行い、秋に収穫したものを歓喜とともに刈り取る。そして冬になれば、それを貯蔵する。
 この貯蔵する冬に時期こそ、まさにそれは「ふゆ」であり、増えるの「殖ゆ」である。
 言わば冬は、次のシーズンにおいての、下準備の期間であり、再び、「春になったら種を蒔く」ための、この時期が「冬」なのであり、冬は一方で、何もかもが死んだ時期を現すが、他方で、再生の為の“着々とした準備”が進められているのである。


●臨終と死の決定

 人の死を明らかにするには、まず可視現象を「医科学」という見地から検証しなければならない。
 死が始まった時、まず最初に顕れる現象は、神経細胞を組織する神経索
(しんけい‐さく)が解け離れることである。
 この神経索を構成する神経細胞は、神経系を構成する細胞のうち、刺激を受けて興奮し、また他の細胞に刺激を伝達する能力をもつ細胞である。

 核を含む部分を「細胞体」と呼び、それに軸索
【註】神経細胞から発する一本の長い突起のことで、ニューロンの構成要素の一つである。これが被膜に包まれ、あるいは束になったものの一本一本を神経線維という)と樹状突起【註】神経細胞から発する枝状の短い突起のことで、通常複数あり、他の興奮性細胞からの刺激を受け取って細胞体に送る。これは軸索突起に対していう)の二種類の突起が付属し、「神経元」ともいう。これが解け離れ、これによって自意識が消滅する。
 これは炭素と酸素の原子が結合できなくなって、“火の消える現象”と同じである。

 火の消える現象に続き、心臓は睡眠時のときのように、脳髄に送る血液中に精錬した養分を欠乏させていく。その為に2〜3分で神経索は窒息を始める。神経索が窒息すると、飢餓
(きが)に陥って、脳細胞全体が死滅が始まる。これに伴い、脳髄(のうずい)の分解が起こる。
 更に、単細胞の微生物のバクテリアの活動によって、僅かばかりの固定した化合物へと変化する。この変化が起こると、単体の元素に復帰する活動が始まる。
 これを外見から視た状態で表現するならば、「人の死」であり、この死は人間の生活活動の停止を意味する。

 生体の人間が、生活体を構成する要素は、細胞であるから、「死」は細胞の死と言える。しかし、この時に総ての細胞の活動は、その全部が停止するわけでなく、心臓の機能が停止した状態を、死と判断するようである。生体の性命活動の中枢は心臓であるが、心臓機能が停止した場合、その結果としてあらゆる組織細胞が機能を停止すると考えられる。その為に、死の決定は、この状態を言うのであって、『死亡診断書』の発行権を持つ医師は、心臓の停止をもって、「死」と宣言するようだ。

 ところが、心臓の鼓動が停止しても、暫
(しばら)くは死なないで、ある切っ掛けによって、組成する場合も少なくないとされている。こういうのを「仮死」といい、一時的な死とされている。
 そこで、「死」を何処で決定するかと言うことになる。

 死の徴候としては、知覚の喪失である。これは失神ならびに卒倒した場合にも起こる場合がある。したがって、これだけでは死と断定することが出来ない。
 一般に「死の判定」は、無感覚状態であるが、この感覚はヒステリー状態の場合も類似した現象が見られると言う。

 本来の「死の状態」とは、その無感覚状態が全身に及ぶ。したがって死者は、この状態になった場合は、どんなに烈
(はげ)しい刺激を加えても、反応を示すことはない。

 この無反応状態は、聴覚も嗅覚も働くことはない。そして「死」の特徴として、眼球の聴力が減少する現象が顕れる。これは血管が、空虚になった為に起こる。そして瞳孔
(どうこう)は開いて、拡大する。
 これは「死」と言う刹那
(せつな)において、弛(ゆる)みが生じた為で、その後、正常な状態の大きさに復帰し、眼球の角膜と水晶体との間にある虹彩(こうさい)が覆(おお)い隠される。
 虹彩は、眼球のほぼ中央にあり、瞳孔をもつ円盤状の薄膜であるが、瞳孔を囲む部分にある括約筋と、放射状に並ぶ筋肉とによって瞳孔の開閉を行い、眼球内に入る光の量を調節する機能を持っている。ところが、死ぬと、この機能を失う。

 また、身体の方に眼を向けると、下顎
(したあご)が、まず胸に落ちる。これは死の兆候として絶対的なものではないが、死に伴う弛緩(しかん)状態を考えられる。これは死後硬直が起こる前の、死体の“こわばり”と考えられている。
 更に、死ぬと全身が冷たくなるが、これは自身で熱を発生できなくなったからで、この状態は、冷却して周囲の外気と同じ温度になるまで降下していく。この冷却した状態を「屍冷
(しれい)」と言う。
 屍冷に辿り着くまでには、周囲の温度と、冷却の温度によって、長い時には24時間を要すると言う。

 また、死体の表面から冷却が始まり、死体全身が同じ程度の冷却状態になるまでには、かなりの時間を要する。年齢や、体躯
(たいく)の大小によって個人差があるが、年齢の若い人や、特に女性の場合は脂肪が多いことから、一般に痩せた老人より冷却が遅く、高齢者で痩せた人ほど、死ぬ前から体温が低いので、冷却速度は速くなる。

 更に「冷却」ということを考えれば、例えば殺人事件などで、刺殺されたり、斬殺された場合、大量の出血の為に、冷却は早いように思われがちだが、多くの場合、必ずしもそうとは限らない。大量に出血したとしても、死体自体の冷却速度は、一般の死の場合とあまり誤差は生じない。

 屍冷ということを考えた場合、最期の臨終の状態がどうであったかということが冷却と関わりを持っているが、異例としては窒息死の場合、多少遅れることはあるようだ。そして屍冷は明らかに死の兆候であるが、ある種の病気などで死んだ場合、死後、ある程度の時間が経過して、生前よりも体温が上がる場合がある。それは破傷風で死んだ場合の死体の体温は、生前より上昇すると言われている。

 さて、死体の冷却が始まると同時に、顔の筋肉が畸形
(きけい)に収縮する作用が起こる。時として、顔面が歪(いびつ)な形に変化することがある。それは死後硬直と同時に起こる場合が多い。顔が畸形して歪(ゆが)められるとき、死者は酷い苦痛によって死んでいったかのような印象を受けるが、それは必ずしもそうではない。これは肉体の変化であり、死後硬直の一環として死後の肉体変化が起こっているのである。

 一方、「呼吸」は、死ぬ時にほぼ同時に絶える。しかし呼吸が途絶えたからといって、それが死と直接結びつく要因は少なく、本当に死んだか否か、それを判断することは難しい。したがって、心臓の停止を「死」と判定しているようだ。

 人が死ぬと、暫
(しばら)くして小さな鉛色の斑点(はんてん)が死体全身に顕れる。これは血管から、細胞組織に血液が流出することによって生ずる現象である。この現象は、殆どの死に対して見られるものである。まさに、これこそが、「死の兆候」といえる。但し、死ぬ前に夥(おびただ)しい出血があった場合は、血液の流出がない為に、この斑点は見られない。刺殺されたり、斬殺されれば、血抜きされた状態になり、肉の体は斑点が生ずることが少ない。
 更に、皮膚全体の変色も、一般には「死相」を呼んでいるようだが、これは必ずしもそうではない。
 以上の、臨終を迎え、屍冷が始まるまでの兆候としては、まず、やがてくる死後硬直、更には腐敗現象と続き、こうした現象が顕われた時、この時期において「死を決定する」のである。

 
肉の眼で確認できる範囲
(可視世界の現象)
見えない次元で起こる現象
(不可視世界の現象)









臨終間際の行動としては、昏睡状態から、自意識の消滅が見られる。
 これは蝋燭の火の消える状態に欲似ている。それは寿命の紐という、蝋燭の芯が燃えつき、炭素と酸素の原始が結合しなくなったように、である。

 心臓は睡眠時のように、脳に送る血液や養分が欠乏状態となり、神経索が窒息状態を起こし、飢餓に陥る。また、バクテリアの活動により、幾らかの固定化した化合物へと、それぞれの元素が復帰状態を始める。

 また、眼球においては、張力が減少しはじめる。瞳孔は死の刹那に拡大し、やがて正常な状態となり、虹彩が覆いはじめる。
 躰は動かなくなり、自分で熱を発生できなくなる状態が迫って来る。そして死の刹那、「屍冷
(しれい)」の準備が始まる。

 臨終を迎える人の体内では、脳髄に送られる血液の量が減少するばかりでなく、炭酸ガスが急増して、これが神経中枢に作用しはじめる。それが脳神経節を麻痺させ、意識と感覚を失う状態へと誘う。そこで昏睡状態が始まる。
肉の眼で確認できない臨終への準備の現象としては、誕生のプロセスとは逆のコースを辿る。人間が誕生する場合、まず上焦(じょうしょう)、中焦(ちゅうしょう)、下焦(かしょう)の「焦(しょう)」の火を焦すことから始まる。焦の火を焦し、生まれ落ちれば、まず「オギャー」と泣いて吐気(とき)を行って呼吸し、臍の緒を切って成長し、下焦で大小便をする。これが誕生のプロセスである。

 一方、死はこの逆のコースを辿る。自然死においては、下焦の会陰
(えいん)が閉じられ、生命力は中焦の神闕(しんけつ)を通って、上焦のブラフマの開口(百会・通天)から体外へ出る。
 要約すれば、誕生は生命の火が焦げはじめることをいい、死は、その火が消えることをいう。

 人間並びに哺乳動物は、精液という“水”から生じた生命の火を、「焦」の尽きる時、「末期
(まつご)の水」を必要とするのである。寿命がつきて、自然死の場合で臨終を迎える人が、「水を欲しがる」のはこの為であり、死に際しては「喉が渇く」のである。




臨終の刹那(せつな)から移行するプロセスは、まず生活反応の停止である。生活体を構成しているのは体細胞である。この細胞は各々の部位で、機能停止を始める。生命活動の中枢は心臓であるから、心臓が停止し、また、その他の組織細胞の機能が停止する。
 この時、医師は、心臓の活動停止をもって、死を宣告する。
 但し、心臓が停止したとしても、蘇生する例もあり、この状態は一時的な死と位置づけられ、「仮死状態」と看做
(みな)される。
人間の霊魂の存在は不可視世界にあり、中有→水(精液)→焦→末期の水→中有というプロセスを通り、生まれ変わる。
 したがって、霊魂がブラフマの開口から体外へ出て、シルバーコードが切れ、「中有の世界」に戻った瞬間を「死」と断定する。一旦、体外へ出た霊魂はシルバーコードが切れた後に、体内へ逆戻りすることはない。






可視現象として、唯物論者達は自然科学を介して、死相の顕われは、殆ど確認できないとする。また科学的と評する学者達は、「死相はない」と断定している。
 その根拠は、彼等は霊魂と脳髄を同義語として扱っているからだ。

 唯物論者曰く。
 「脳髄の働きによって展開される精神現象そのものが“霊魂”である。この霊魂は取り出したり、肉眼で確認できないが、肉体が死ぬと、脳髄も死に、脳髄の死は霊魂の死である。そして人間の精神現象は、その一切は、大脳が司っているのである。
 精神作用は複雑で、感情とか理性もそうであるが、記憶、思考、判断というような精神作用は頭脳の働きと考えられる。したがって一切の精神現象は、大脳の司るところであり、この精神現象とても、あらゆる肉体活動と同じで、総ては物質現象である。
 更に物理的な活動は物理現象である。精神活動は肉体を失えば、その活動は不可能になり、意識活動も見られることはない。意識活動というのは、そもそも老部に血液が送られないと不可能で、これは頭脳を働かせるエネルギーが、血液であるからだ。肉体あっての霊魂
(心)である。肉体が死んでしまったら、霊魂すら死ぬのであり、肉体の死が霊魂の死である」
不可視世界の出来事としての死相の顕われとしては、眼等にその暗示が顕われ、経絡上の経路としては、太陰→少陰→厥陰→死の順に顕れる。太陰は手の肺経(白)と足の脾経(黄)、少陰は手の心経(赤)と足の腎経(黒)、厥陰は手の心包経(各色)と足の肝経(青)に顕れる。

 そして死相は「眼」や「腹」に顕れ、東洋医学では“腹証
(ふくしょう)”という。
 ちなみに「正常な死」の時は、人体内の生命力は神闕から背中にある側の督脈(とくみゃく)の命門(めいもん)に達し、背骨の両脇を上昇して、頭部の天辺(てっぺん)の“ブラフマ”の開口から体外に霊魂が抜け出すのである。

 また、水死や交通事故死などの時には、頭部のブラフマの開口が閉ざされて開かず、霊魂は体外に抜け出すことが出来ず、そこで肛門と睾丸
(女の場合は女陰)との中央部にある会陰から、「陰の総気」として外に漏れ出すのである。
 ブラフマの開口から出た陽の生気霊
(陽霊)は、陽の性質に基づいて昇天し、会陰から漏れ出した感応の陰気霊(陰霊)は下降し、あるいは迷い、地縛霊(じばくれい)としてその場に縛り付けられ、永く止まることになる。こうした陰霊に対し、陰の性質を持つ“念仏”を唱えれば、それに反応し、地縛化が進む。

 人間の死とは、その人の業
(ごう)の定めによって生命の火を焦していた肉体霊が去り、更に精神霊が断たれ、生命力を司っていた霊魂は、ブラフマの開口から体外へ出て、「中有の世界」に戻っていく。

 死と断定された後の、その後の、その人はどうなるのか。そこで一切の意識は失われるのか。死ねば、一切が終わりの人生を閉じるのか。
 それは万人の関心事であろう。




●人間は死ねば“御仕舞”なのか

 人間の有史以来の歴史は、「戦争」であった。殺戮の歴史であり、世界中何処を見渡してみても、規模の大小や程度の差はあれ、至る所で「人殺し」が行われていた。太古より、戦争や抗争の連続でなかった地域は、殆ど存在しないだろう。

 さて、人間は「神の姿をひな形」にして造られた生き物だと言われている。しかし、この「神のひな形」には同時に“悪”“欲”“疑”のマイナスの三要素も備わっている。それが争いを起こす元凶でもある。この元凶を携えて、人間は生まれてくる。
 そして元凶が齎
(もたら)す古代の“戦いの図式”は、現代に至っても、その形は殆ど変わっていないのである。

 太古の昔から、現代に至るまでの人間の有史以来の歴史は、結局は「戦争」に回帰される。
 では何故、戦争が起こるのか。
 それは略奪するのに“手っ取り早い”からである。戦争を仕掛ける側は、長い時間を掛けて自国の経済的成長を待つよりも、軍事力を駆使することによって近隣の民族や国家を征服し、そこから纂奪
(さんだつ)する方が時間の短縮になり、かつ効率的であるからである。
 古代から現代に至るまでの人間の歴史には、このことが克明に刻まれている。

 したがって人間の欲望は限りなく膨らみ、かつ「悪」と称される戦争を平気で遣るのである。結局戦争の根底には、人間の欲が絡んでいる。戦争を遣る目的は、まず相手の領土を奪うことである。更に奪った領土から、産出される貴金属、希少鉱物、食糧、工業製品、労働力、交通の要所としての土地の確保などであり、戦争は、つまるところ、“人間の欲の顕われ”なのである。
 人間の持つ動物なみ、あるいはそれ以下の悪と欲は、その想いを拡散・膨張させて、いつ果てるともない抗争から目覚めることはなく、過去においてもそうであったが、現在も、また未来も人類の歴史からは戦争が無くならないのである。

 人間は戦争だけを繰り返すのではなく、悪と欲の中からは個人間でも殺人、強盗、強姦、麻薬等の飲用、更には難病や奇病までもが、未来永劫まで連続させるのである。
 そしてある評論家は、「人間は戦争を回避できないほど愚かな動物ではない」と豪語しながらも、二十世紀には、二度も世界規模の大戦を行っているのである。評論家の言は、見事に裏切られているのである。

 霊肉共に合い備える人間の肉体は、人間以外の動物の肉体と、殆ど同じ組織を持っている。同種の、「水冷式哺乳動物」である。そして喜怒哀楽の同種の「性
(さが)」まで持っている。本能も同種であり、理不尽に殺されれば、その殺される恐怖心まで同じものであり、その瞬間にアドレナリンを分泌する構造まで酷似している。
 また、空腹になれば他の命を奪って、あるいは他人の食糧を奪って、自らの腹を満たす本能まで、そっくりである。
 ところが動物と人間の違っている点がある。

 それは人間が持つ肉体が、その他の動物の肉体を同種の水冷式哺乳動物の「動物体」をしながらも、例えば、動物は空腹になれば肉食獣の場合、他の草食獣等に食らい付き、その命を奪って食するが、満腹になればそれ以上の無用な殺傷はしない。
 野生動物を観察すれば、彼等は弱肉強食の世界に生きている為に、“凶暴”であるが、「凶悪」ではない。

 獲物に対しても、動物は、人間ほど無制限な欲望は持っていない。満腹になれば、それ以上の喰い溜めをすることもないし、その多くは貯蔵することすら知らない。
 どころが人間の場合は違う。一つの獲物を獲得しても、持てば持つほど、更に欲しくなる生き物である。その欲望が、自然を破壊し、他国を侵略し続けてきた帝国主義、植民地主義を生んだのであった。そしてこうした欲望は、かつてほど露骨では無くなったが、これと同じ欲望は形を変えて、なおも現代人の行動の中に引き継がれている。

 そして周囲を見渡せば、動物なみの人間、動物以下の人間、悪魔のような人間は益々増え続け、至る所でエゴイズムを氾濫させているのである。人間の大半以上は、ひたすら自分の欲望を満たすだけの人生に全力を注ぐものが多くなった。
 これらの顕著な現れが、戦争を初めとして、殺人、強盗、強姦、その他の凶悪犯罪の数々、更には享楽を追いかけた麻薬やフリーセックスなど、ありとあらゆる範囲や領域にまで、こうした欲望が流れ出している。

 戦後の日本人は、押し付けがましい“民主主義”なるものをアメリカから貰った。
 この民主主義は、人類の考え出した世界最高の政治システムだと豪語されながらも、果たして、正しく機能していない。この政治システムが、霊的に視ても、民主主義の世界に生きながら、その人が他界した後、死後の世界では、幸福と言えるような道は歩いていないことだ。死後の意識体は、決して幸福ではないことだ。

 更に、安易にデモクラシーを口にし、民主主義の思想を充分に取り入れたのにも係わらず、他界した人の中には、自らの招いた地獄の想念に意識体が陥り、そこで苦しんでいる人が以外に多いことだ。
 しかし、これらの人は、生前、殆ど刑法上の罪等は何一つ犯していない人達である。それなのに、他界して意識体が苦しんでいるとは、どういうことなのか。

 それは現代社会と言うものが、眼に見える形の面での悪や罪というものばかりではなく、むしろその背後の不可視部分で起こっている想念が穢
(けが)れていると言うことである。毎日の想念生活が狂い、大半の人の心の中には、いつも常にどこかで、「隙(すき)あらば」という虎視眈々(こし‐たんたん)とした欲望があり、これが知らず知らずのうちに、想念を穢しているのである。

 日本で展開されている政治システムである民主主義は、その主要テーマである、自由、平等ならびに人権と言う実定法上の権利が、歪曲
(わいきょく)されて解釈され、その結果、自己本位のエゴイズムが丸出しになり、「行き過ぎた現実」が至る所で猛威を揮うようになったのである。

 その最たるものが「自分さえ良ければ」とか「今日だけ良ければ」という刹那主義を招き、嫌なことは先送りし、自己の利益や、フリーセックスのように享楽の為に精力を傾けるという現象が起こり、ここから悪魔的な想念が流れ出しているのである。その為に、自らの霊魂の存在を否定し、神仏を信じず、自らを破壊し尽くそうとしているのである。

 これが死後の世界である、人間は「死んだらどうなるのか?」という問いに対し、「人間は死ねば、それで御仕舞
(おしまい)」という概念を生み出したのである。



●死の恐怖意識の克服

 人間は「死んだらどうなるか?……」、これは誰もが持っている最大の関心事であろう。
 人間は生まれながらに、「死」を内蔵して生きている。「生」の裡側
(うちがわ)には、常に「死」がその反対側にあり、「生」をもって「存在するべきもの」が、ある日、突然、非存在として「死」を余儀無くされる事がある。人間は絶えず「死の影」に怯(おび)えた存在なのである。そして「死の影」は、いつ襲って来るか、私たち凡夫(ぼんぷ)には予測が出来ないのである。

 こうしたところに、最近では死の恐怖意識を持つ人が増えた。また、こうした情動問題に悩む人が増えた事は、究極的には、現代と言う社会が、急激に変化する社会である事を物語っている。
 この、社会変化により、死と、死ぬ事への対処が、一層これを複雑化し、現代人の無意識の心の中
(うち)には、死を拒(こば)み、死を認めない猛反撃が始まっていると言える。

 そして、誰もが、心の無意識下に、自分自身の死は、決して起こり得ないと言う、「対岸の火事」的な考えを持ち、「死」を他人事のように思い、自ら死の到来を拒むのである。
 だからこそ、死は「恐怖」となり、人は死を忌
(い)み嫌うのである。

 しかし、現実問題としては、死は拒みきれるものでない。
 多くは、死が決定された時、大声を挙げて泣きわめき、悔恨
(かいこん)と恐怖と懊悩(おうのう)が自らを襲って来る。これに大多数の人はは、悶(もだ)え、悩み、苦しむ。
 特に、こうした現象が見られるのは、ガン発症の末期患者に見られ、ガンを告知され、余命数カ月と告知された時のその衝撃は、想像して余りあるものがある。この時に起る、恐怖から派生する錯乱は、ショックと狼狽
(ろうばい)で、自分自身を前後不覚にするであろう。また、そこから生まれるストレスも、決して小さなものではない。

 では、現代人は何ゆえ、こうまでに「死」を恐れるのか。それは死そのものより、死に至る過程で、筆舌に尽くし難い「苦痛」があるからだと信じられている事だ。
 特に末期ガン患者などは、激しい副作用により、ガンと闘うことよりも、合併症
(がっぺい‐しょう)と闘い、これに多くにエネルギーを浪費するからである。だから、死に至る過程が、喩(たと)え刹那的(せつな‐てき)なものであっても、「死ぬ瞬間」イコール「苦痛」に結び付け、これにより死を恐怖するのである。
 そして、科学が進めば進む程、「死」の現実を恐れ、「死」を正視する事なく、徹底的に「死」を否定する傾向が強くなる。

  さて、死病を抱えた末期患者の多くは、次ぎのような「死に行く過程」を経験して、死に就
(つ)く事になる。
 

致命疾患者の死に行く過程。末期患者の死に対面する行動の中には、「驚き」「否認」「怒り」「憂鬱」「諦め」の順に経験をし、遂には、大きなものを無くしたと言う喪失感に取って替わられる。そこに漂うものは、どうしようもない「絶望感」である。

 末期患者の特長は、最初、自分が「ガンである」ということ否認する。それはガンが感知しない「死病」と思い込んでいるからだ。自分がガンであると云う事は、「もう直(じき)死んで行く人間」ということを認めなければならないからだ。

 しかし、数週間が経ち、落ち着いた頃、遂
(つい)に否定できなくなり、主治医のすすめで、二度三度と手術を行い、あるいは入院加療を受けて、「生への延命」を試みる。しかし、その後の容態は以前にも増して芳(かんば)しくないことを知る。手術を受けても、あるいは延命効果のあると言われる、ガン疾患に有効な種々の療法を受けても、その後の華々しい決定的な治療の効果の痕跡(こんせき)は殆ど顕われないからだ。

 そればかりか、無理な治療が加わった為に、幾つかの併合した合併症が顕われ、体力は衰弱し、延命に賭
(か)けた期待は、一層大きく裏切られる。その時のショックは、計り知れないものであろう。それは多額な治療費を注ぎ込んだ上での「延命効果」を期待しての、裏切りであるからだ。
 しかし、多くはこうした形の治療を受け、ついには集中治療と入院には、莫大
(ばくだい)な数字に上り、多くの患者はその人が老後の生活プランとして蓄えた、唯一の持ち物すら手放さなければならなくなる。老後の為に建てた家屋も、もはや維持できなくなるだろう。

 そして若い頃に夢見た、晩年の人生のラスト・スパートの悠々自適
(ゆうゆう‐じてき)の生活の夢は、実現不可能に帰するであろう。そうしたものへの執着と、死んでいかなければならない怒りとが、ごちゃ混ぜになって、末期患者の顔つきには“憤怒の表情”が顕われるのである。

 誰もが、「死」に対して冷静に直面せず、「死」から逃避する事ばかりを考えるようになる。こうした傾向が、現代では、「人間が死ぬ」ことは、多くの点において、昔より、一層気味が悪いものに押しやっている。それは「死」が、酷(ひど)く孤独で、機会的な、非人間的で、惨(むご)いものと想像しているからである。
 しかし、「死」をこうした感覚で捉
(とら)えている限り、人間は本来、「非存在的な生き物」であると言う、実体を冷静に考える事が出来なくなる。そして「死」は、益々危険視されることになる。

 危険視された「死」は、現代人にとって
「恐怖」そのものであろう。また恐怖は、「恐ろしい苦痛」という概念を遵(したが)える為、こうした事から逃れようとする意識が働く。
 しかし、危険から遁
(のが)れるとか、護(まも)ると言う祈りは、一種の「懼(おそ)れ」であり、死が自分に目近に迫った場合、「謙虚に直面し」かつ「受諾する」というチャンスを逸(いっ)してしまう事になる。

 「死」を極度に否定するものは、自ら死の到来に対し、死を最終結果として、それを「謙虚に受諾
(じゅだく)する態度」を逃してしまう事だ。折角の到達機会を失ってしまう事である。最早(もはや)こうなれば、喩(たと)えば、死を目前に控えた末期患者らは、絶望的な、非常に「孤独な死」を迎えなければならなくなる。

 しかし、「人の死」は、本来は決してそんなものではないだろう。死は懼
(おそ)れるものではなく、謙虚に向かい合い、直面するものである。だから「人の死」において、苦しみが収まるように願うものではなく、「生死を超越する」ことこそ、人の死を一層荘厳(そうごん)にするのである。克服する心を養ってこそ、生死を超越し、死生観を解決する事が出来るのである。

 現代人は、「死」を懼
(おそ)れる余り、死から逃れる事ばかりを企てて来たが、人生の最終結果である「死」をこのようにして捉えてしまうと、「死に直面するチャンス」を逸してしまうのである。生きている間に、死生観を克服し、解決しておかなければならないのである。
 また、この違いが、
「自然死」「横死」を隔て、「成仏」と「不成仏」を隔てているのである。これは同じ、「人の死」でも、成仏と不成仏の何れかがあることを物語っている。

 人間が死ぬと、その肉体に宿っていた霊魂は、霊界へと旅立つことになる。その旅立ちに要する時間は、現世の時間で言えば、2〜3日間である。
 そして死と同時に、肉体の中の霊の要素を司っていた意識体が、死後、数時間で目覚める。この目覚めた霊の意識体は、人の死を知った霊界からの霊の導きによって、死者の霊は異次元へと旅立つ。
 この異次元は、遥か遠い異次元を指すのではなく、顕界と隣接された異次元のことである。

 死者の霊はそこへ旅立つ前に、死後2〜3日を通じて、永遠の生を送る為に、その準備に取り掛かる。それは想念界での意識交換であり、この交換を通じて、死者の意識は霊としての考え事を巡らすのである。
 生死の問題は人生のおいて一大事のように錯覚する。しかし、本当の一大事は死生観を超越することで安らぎを得ることも、また事実である。そして生死の問題以上に一大事があるのである。それは生にも死にも囚われないことだ。人の生き死ににこだわらないことである。こだわれば迷いを生むからだ。
 「こだわり横行」の時代、何れにも囚われないことが真の中庸を招くのである。異次元世界では、中庸を保つことこそ一大事と考えるのである。



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