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続・夜の宗教 真言立川流 2

実の如くを「如実」といい、法の如くを「如法」という。これはあるがままの姿を、そのように観じ、そのように行動すれば、人間の持つ情愛から起こる愛欲は、祝福される、と『理趣経』には説かれている。


●愛欲は祝福され、智慧は滞る事無し

 人は、みな同格で対等である。同等のものを持っている。だが、決して平等でない。男も女も平等に作られていない。それは肉体的構造を見ても明らかである。顔かたちも違うし、俳優にしたいような美男美女も居れば、醜男(ぶおとこ)醜女(しこめ)も居る。歌を歌わせれば、歌手になっても不思議でない者も居れば、そうでない音痴も居る。スポーツ万能の者も居れば、運動が奥手と云う者も居る。人間の一生には運・不運が憑(つ)き纏(まと)う。
 その上、生まれだって違う。
 たいていは圧倒的多数の普通中間層の子弟として生まれてくるが、中には富豪の子として生まれ、あるいは最下位の極貧の子として生まれる者も居る。また、生まれてくる地域も違えば、自分の両親となるべき、親の質も遺伝的なものも違う。だから、人は生まれながらに平等ではない。人間が平等と解釈されるのは、法の上での平等だけである。

 しかし、法の上での平等があっても、金次第でその軽重は、違った結果を派生する。現象人間界を取り巻く、平等意識は一見平等と誰もが、異口同音にして口走りながら、その実は、至る所の不平等が蔓延
(はびこ)っている。
 それは「この世」の現象が、矛盾に満ちていることを物語っている。つまり、「この世」とは、“ろくでもないところ”で、不完全で、真理に貫かれた世界ではないと云うことだ。
 
 まず、男女間について考えてみたい。男と女が対等に渡り合えるのは、人間の関係が「同質・同量の情愛」の形を形成したときである。その関係が保たれる条件に限り、それは「対等」になり、また「同格」になり得る。男女二根交会において、それは対等・同等であり、同格の肉体的生存を約束される。但し、「同格意識」が存在している条件に限りである。

 真言立川流の母体をなしている『理趣経』は、人間の欲望を放任するものではない。しかし、また規制するものでもない。あるがままの現象を客体視し、単に安易に肯定して、のんべんだらりと、それを無為
(むい)と考えるものでもない。節度のない野放しではない。貞操観念を否定も肯定もしない。そこにあるのは真理で貫かれた秩序だけである。
 また、特定の人間の行為を、特定の効果と結び付けて、非理性的な行動を奨励しているものでもない。『理趣経』の世界には、確固たる秩序がある。法門の秩序がある。

 『理趣経』は、何事も享楽に置き換えて、現実の苦悩を“性”に逃れようとするものでもないし、お手軽な快楽遊戯の為のインスタント性交術の特効薬でもない。更には、ご利益を期待する「所願成就
(しょがん‐じょうじゅ)」の護摩札(ごま‐ふだ)でもない。況(ま)してや、男女の性愛の“色の道”をそのまま成仏に結びつけ、こうしたことのみを説く、汚らわしい“誨淫(かいいん)の書”でもない。この経典を、色情の書を一蹴(いっしゅう)することは余りにも短見である。

 昨今は性に関する講習会などに、中年男女が殺到し、好んでこれを聴講する流行がある。また、若者は若者で、お手軽なインスタント恋愛術に奔走している。どうしたら、相手を口説くことが出来るか、更にはどういう話術で落すかを問題にし、言葉巧みな話術をもって、知り合って、僅か二、三度のデートをしただけで、次の回になると、もうラブホテルにしけこんでベットを伴
(とも)にするようになる。現代の世では、至る所にセックスアピールが満ち溢れ、男も女も、“性の大安売り”である。

 そして、中年達の性に関する講習会は、不倫をする為の用意は実技の為に、また若者の恋愛は遊戯が主体で、恋と云う本当の味も解らないくせに、恋を、“ベットに行くこと”と勘違いしているようである。つまり、恋愛術にすら、不平等が成立し、そこには主導権争いの側面がある。これは相手の同等・同格と見てない証拠であり、巧みな言葉の裏には、「相手を貶
(おとし)める」という魂胆が隠されている。

 もともと本来の「恋」と云うものは、ベットを伴にするまでに延々の長い過程を積み重ね、その結果、ベットを伴にするのであって、近頃は最初から、ベットを伴にすることが恋と勘違いしているのである。
 『理趣経』の説く、「愛が清らかなもの」と定義されている以上、恋愛と云うものは、二、三度程度のデートで、ベットインなんてことは起こりようがない。これでは清らかな情愛が、淫らな肉欲に転落していることを物語っている。まるで不特定多数と交わることが、享楽第一主義との思い込みがあるようだ。
 どうして現代人は、このように「愛は清らかなもの」とする、人間本来の特性を、こうも安売りしてしまうのだろうか。

 情愛の最初は、胸がときめくような、こうの思いで、いっぱいになるものである。性を交えるのは二の次である。性を交わさなければ自分の愛が通じないような、恋愛では、それは恋愛ではなく、相手の性器に興味を抱いていると云う、ただそれだけのことでしかない。
 現代と云う時代は、インスタントが好きな時代であり、一切の長いストーリーを大幅に短縮してしまう愚行が流行しているらしい。そして、そこで繰り広げられているのは、恋の生じない快楽遊戯、あるいは愛情の派生しないスポーツ的な遊戯である。
 3S
(スポーツ・セックス・スクリーン)花盛りの時代は、その代名詞がスポーツセックスであるようだ。

 だから、性が歪
(ひず)み、性教育と性器教育の違いすら、学校では教えられないのである。
 その結果、男女が一目見ただけで、ベットを伴にしたくなるような相手とは、結局、そこに愛を観
(かん)じたり、恋のせつなさを観じてベットを伴にするのでなく、ただ、双方から見た、美男美女の性器があって、その感心に応えてベットを伴にするのである。愛を、ベットの中まで引き摺(ず)るのは、余りにも短絡的と云うか、余りにも悲しいような、無惨なような、そうした気がするのである。どうして、お互いは自分の性を、そんなに簡単に安売りするのだろうか。

 これでは、『理趣経』の説く、「愛は清らかなもの」から、益々遠ざかるではないか。
 『理趣経』は正しくは『大楽金剛不空真実三摩耶経
(たいたく‐こんごう‐ふくう‐しんじつ‐さんまや‐きょう)』という。
 この経典には、大いなる楽も、金剛の如く不空なる真実も、みな仏
(如来)の三摩耶(さんまや)であると説いている。この三摩耶の意味は、平等(ひとしさ)、誓願(ねがい)、驚覚(おどろき)、除垢障(けがれなし)の四つを一字に有すると伝統的な説明がなされている。これは仏の境地の様々な表現を、集約し、その結果が「大楽」であり「真実」なのである。

 しかし、この境地を知識で理解しようとしても土台無理な話しである。知識や智慧は、此処では関与できないのである。全身をもって、体得すべきものなのである。それは身体の一切をもって、口舌をもって、更には心
(意)をもって体得すべきものなのである。

 身体にも、口
(く)にも、意にも、日常の働きとは別に、実在的な意義が宿ることを信じなければならない。これを密教では「三密」という。これは仏の身・口・意の働きをいうのだ。
 人間の思議の及ばないところを「密」という。また、人間の身・口・意の「三業
(さんごう)」も、そのまま絶対なる仏の働きに通ずるところから「三密」というのだ。
 此処で云う「三業」とは、身業・口業
(くごう)・意業の総称である。そして各々には、“業”が働く。それは身体的活動(身)と言語活動(口)と精神活動(意)であり、人間の一切の活動を「三業」というのだ。

 我執
(がしゅう)を降伏(しずめ)るには、理性によっても領解(りょうかい)しなければならない。我執は本来実体のない自我を実体視して、執着することを指し、「我見」ともいう。
 つまり、自我を実体視する為、自分だけの小さい考えに囚
(とら)われて離れられない。したがって、我(が)を張り通すことになる。それゆえ依怙地(いこじ)になる。頑(かたく)なに意地だけを張り通す。そうした結果は惨めである。だから密教では、これを調伏(ちょうぶく)しなければならないと説く。

 しかし、その上で、手には降三世
(こうさんぜ)の印を結び、顔は蓮華(れんげ)の如く微笑し、然(しか)も眉をひそめ眼をいからし、降伏の立ち姿を表現するのである。
 そして「降伏」の境地を、一字で表現する聖音「フーン」を唱えるのである。

 『理趣経』の各章は、総て「意
(こころ)」で理解し、これを形で顕し、音声で唱える三部構成から成り立っている。意で理解することを「可然(かぜん)の理趣」といい、形で顕すことを「可見(かけん)の理趣」といい、また音声で唱えることを「可聞(かもん)の理趣」という。
 この三つを身・口・意の「三業」として、それは総て実在なるもの、則
(すなわ)ち大日如来だいにち‐にょらい/宇宙と一体と考えられる汎神論的な密教の教主で、大日経ならびに金剛頂経の中心尊格。その光明が遍(あまね)く照らすところから遍照または大日という)を表現されるものと結びつき、相対的な思弁以上に働くとされている。これが「三密」なのである。これこそ、仏(如来)と人間の相関した機能なのである。
 そして『理趣経』には「悟りへの秘密」が隠され、『理趣経』が「秘経」と称されるのは、この為である。

 『理趣経』は第十七章に編からなり、総てに共通して説かれている基本的な考えは、大別して三つに分けられる。

その第一
「大いなる楽」が説かれている。この“楽”の根本は《大楽》であり、一般的には、これを快楽や享楽とかに受け取られ、誤解されるが、これは決して安易なセックスの快楽遊戯に走る為の、人間愛欲の実践道ではない。大楽こそ『理趣経』の説く広大な世界観である。そしてこの世界観では、人間が体験すべき、基本的な世界観が説かれ、男女の愛欲は淫らなものでもなく、また汚らわしいものでもないと説き、これこそ実在的に見て、決して嫌悪するものでもなく、避けるべきでもないと説いている。
 そしてその本質は、「清浄なもの」と説き、情愛こそ「清らかなもの」としているのである。
その第二
清浄なものの次に説かれていることは、『理趣経』は「真実なる智慧(ちえ)」を重要なテーマとし、この教典は一つの智慧をもって、悟りに導こうとする目的を持っている。
 その智慧は、特別な角度で検
(み)る演繹(えんえき)された知識と云うものではない。則ち、推論の一種ではない。更には、推論を拡大させて、花を形作ったものを分解し、それを細胞レベルにまで分割化することもでなく、あるがままに、自然を自然と見ようとする、真実なる智慧である。「自然のまま」こそ、『理趣経』の説く真実であり、その真実の中にこそ、「自由」があり、「悟り」があると教えるのである。
 このような真実の知恵を備えた時、それが人格化されて観自在菩薩
(かんじざいぼさつ)に成り代わると説くのだ。

 つまり、あるがままに自由に自然を観
(み)る“仏”になるというのである。
 物事の本質を捉えるには、「あるがまま」に観なければならない。この自然観で物事を見詰めた時、「ものの穢
(けがれ)れ」は本質に関わり無く、そのままの姿を現すのである。それはあたかも、上空の雲の下には曇天あるいは雨天の変化があろうとも、雲を突き抜けた上には、常に「晴天」があるように、である。また、大海にしても、表面には波面(なみも)に波浪が高かろうとも、その下の海底には静寂な「深海の憩い」があるようにである。
その第三
『理趣経』という経典は、第一の「大いなる楽」の清浄さ、第二の「真実なる智慧」の実存によって、遂に人間の日常へと迫ってくる。人間の欲望を形作る三つの大きな働きとしては、まず第一に自己拡張の本能である性欲。第二に利・財の欲望。第三に自他の区別の境目などの三点を挙げ、これにどう対処するか説いている。
 つまり性欲も、利財の欲望も、自他の区別も、最初からこれを軽んじて軽蔑したり、あるいは好んで貪
(どん)に奔(はし)り、これを誇示することもないと説いているのである。

 それは例えば、貧富の差においても、それは人間の欲望で判断する限り、人知では最低もあるが、最高という上限もある。そして上限以上に超えることは出来ない。限度は上限までである。しかし、これでは「限りなき富」を手に入れることはできない。稼いでも、奪っても、人間の得られる富の限度額は高が知れている。奢
(おご)ったところで、人間の能力は高が知れている。その枠内にあるのでは、「限りなき富」は得られない。だから『理趣経』では、無欲は大欲で、この大欲こそ、「限りなき富」と説くのだ。
 実の如くを「如実」という、法の如く「如法」というが、「如」に行動すれば、人間の愛欲は祝福され、智慧は滞ることなく、生活の質は、自他を通じて窮することがないと説くのである。

 物事を、あるがままに見詰めた場合、こうしたものに対して、軽重はないはずで、これに偏見を持つことこそ、まさに人間を認めてないと云うことになる説くのだ。一切に境目を作るな、偏見を持つな、現象界をそのまま見詰めよ、と説くのである。これが『理趣経』の世界のなのである。

 『理趣経』の説くところ、仏(如来)を「正」とするところには、総て“自然のまま”がある、と説いている。
 無我も無我に執着するのでなく、本来の状態、あるいは自然の状態に戻れば、愚かしい我執
(がしゅう)があり得ないことを教えている。
 現象人間界では、実存のまま、如実なることが、そのまま《仏の悟り》の境地と説くのである。

 実存世界の一切は、各々の事象の現れである。密教で云う如実は「実の如く」の意味であり、如法は「法の如く」ということを意味している。実と法をもって行動すれば、まず愛欲が祝福され、智慧は滞ることがないから、日々を生活する質は、自他を通じて決して窮することがない。行き詰まらないのである。円満に潤滑するのである。
 そもそもこれが『理趣経』の説く、理想世界のことである。



●『理趣経』の理想

 理想世界を“秘密”という。また、これを説く経典を「密教経典」という。これは秘密仏教のことを指す。日本では、真言宗系の「東密(東寺を本山とする真言密教の称で空海を祖とする)」と、天台宗系の「台密(日本の天台宗で伝える密教のことで、最澄・円仁・円珍らが中国から伝え、延暦寺・園城寺などで発展し、主要な流派が13あり、台密十三流と呼ばれる)」とがあり、何れも秘密教である。だから秘密教で説かれる経典は総て密教経典と云うことになる。

 本来、悟りの境地などと云うものは、理性のみで獲得することが出来ない。知識と行動の規範を、ただ理性のみで得ようとする現代人の考え方と、密教の考え方は、理性のみで得ようとするところと、反目する。
 私たち現代人は、人間存在が本来は自他の対立と相剋もなく、生まれついていることを、理念として受け止め、これを理解するのは決して困難ではない。
 しかし、その実感を感じることの出来るのは、生まれて間もない嬰児
(えいじ)でなければ不可能だろう。嬰児の穢(けが)れのない、清らかさを讃えるが、密教では嬰児の心に逆行することが、成人の救いになるとは考えない。

 人間は成人になるに従い、自他の心から起こった相剋や、我執も、日増しに強くなって行く。敵対関係も明白となり、敵味方がはっきりしてくる。同時に好き嫌いも起こる。そして独特の個性も身に付ける。
 しかし、これに眼を反らしても、自然のままの姿を正しく映しているとは云えない。
 相剋も、我執も、眼を反らせる必要はないのである。直視し、あるがままにそれを映せばいいのである。したがって、密教ではこれを直視し、調伏
(ちょうぶく)してこそ、本来の清浄なる世界へ還帰(かんき)する途(みち)が開けると教えるのである。

 人間は我執を捨て去ることにって開けて来る世界を『理趣経』では説いている。我執を捨て去ることにより、「大楽」が訪れる。これを「大楽の世界」と呼び、《金剛さった》の如く、変わらず、空しからざる真実を現すことが出来るのである。

 《金剛さった》は、言宗付法八祖の第二番目に当たるもので、大日如来の説いた教えを結集して、鉄塔に納め、のち竜猛
(りゅうみょう)に授けたという。この菩薩は密教の中心的な菩薩で、両界曼荼羅(大日如来を慈悲または理(真理)の方面から説いた胎蔵界と、大日如来を智慧の方面から明らかにした金剛界)でも主要な尊格として表され、右手に金剛杵こんごう‐しょう/密教で、煩悩を破砕し菩提心を表す金属製の法具であり、もとインドの武器である。修法に用い、細長く手に握れるほどの大きさで、中程がくびれ両端は太く、手杵てぎねに似る)、左手に金剛鈴こんごう‐れい/密教法具の一。金剛杵の一端に鈴を取り付けたもの。諸尊を驚覚し、有情を警悟する)を持つ菩薩である。別名、金剛手菩薩あるいは執金剛といい、秘密主とされる菩薩である。空しからざる不変なる世界を司る仏だ。

 空しからざる不変なる世界は、私たちが日常の現象界で体験し経験している、こうした世界のことではない。いま私たちは、現象界に生き、人間界に生きている。だからこの世界を「現象人間界」という。
 この現象人間界では、現象に左右され、此処に生きる衆生としての人間は、いわば現象的に生きているのであって、此処に生きている間は、空しからざる不変な世界と交わることはない。それは人間と云う生き物が、真実に目覚める日が来るまで、永遠に交わることがないからである。

 ところが一度真実に目覚めたならば、その空しからざる不変なる世界は、現象界以外のその他のところにあるのではないと云うことが解ってくる。この娑婆
(しゃば)こそ、実は肉の眼で見ることが出来なかった、もう一つの世界である《空しからざる不変なる世界》だったのである。娑婆と云うこの世界そのままが、実は空しからざる不変なる世界であり、したがって「寂光浄土(じゃっこう‐じょうど)」と古来より表現されて来た。

 この浄土は、法身仏
(ほっしん‐ぶつ)のいる浄土のことで、生滅変化を超えた永遠の浄土のことをいう。
 法身仏とは、永遠なる宇宙の理法そのものとして捉えられた仏のあり方を指し、三身の一であり、色身
しきしん/肉体をとり、現実界に顕現した仏陀の姿。釈迦牟尼はその典型的な例とされる。これに対応するものが法身である)、応身おうじん/衆生救済の為に、仮に相手に応じた姿をとって出現した仏の身体で、最も低い段階のものと考えられている。応化身、化身、現身とも)、報身ほうじん/過去の修行によって成就した完全で理想的な仏のあり方を指す。法身の永遠性と応身の具体性を統一したもので、浄土教では阿弥陀仏を報身としてとらえる)などに対応している。

 浄土を表現する場合、“現象”即“実在”とか、“実在”即“現象”と命題を反復することは極めて簡単であり、またそれの頭の中で考え、反芻することは決して難しくない。言葉を繰り返すだけで済むからだ。ところが、この尽日の境地に生きることは極めて困難なことであり、断じて易々たる道ではない。それは表現力による事柄が問題にされるからではない。事実そのものが問われるからである。



●秘密蔵

 “現象”即“実在”とか、“実在”即“現象”の世界に生き得た古人は、これを「仏」と呼んだ。如来のことだ。真理の世界から衆生救済の為に、迷界に来た人と解する。だから如来という。
 しかし、この定義は難しい。仏と呼ぶことに難しさがあるのではない。その困難な面は、仏が、仏以外の人間と、あるいは仏のなる以前の彼と、どのように異なり、相違点があるのか、如何なる経典にも具体的に記述されていないからである。

 だがしかし、仏と人間を区別し得るところは、仏になる以前の彼と、仏になった後の彼とでは、その自由な態度において唯一の相違点を見出すことができる。また、自
(おの)ずから万人に合掌(がっしょう)を起こさせる神々しさの威厳がある。この白日の事実に、仏となった彼は、他の人間と明白に区別することが出来るのである。此処には、人に「仰信(ごうしん)」を起こさせる何かが存在しているのである。

 苦しみや受難、また感情や激情などの意を持つ語を「パトス
(pathos)」というが、これはエートスethos/人間の持続的な性格の面を意味する語)のように恒常的ではない代りに、一瞬のうちに何かを生み出す契機となるもので、仰信もその一つであろう。

 菩提樹
(ぼだいじゅ)の下で「正覚(さとり)」を得た釈尊が、はじめて他を度(すく)(生死(しょうじ)の迷いの海を越えて、悟りの彼岸に渡ること)為に、ナイランジャナーの河の畔(ほとり)に修行を続ける、かつての同行者のもとを訪れた時、彼等は「我々を離れ、苦行を捨てて墜落したゴータマが来ても、我々は礼をしまいではないか」と話し合っていた。
 ところが一度、釈尊
(しゃくそん)がそこに顕れるや否や、釈尊が一語も発せぬうちに、彼等は今まで打ち合わせた通りの「礼をしまいではないか」という取り決めを忘れ、等しく釈尊を師と仰いだのである。そして釈尊に付き随(したが)うことを誓ったのであった。

 このように一語も発せぬうちに「信」を起こすことを《仰信》という。一瞬のうちに仰信を起こさせてしまったのである。悟りに至った人は、こうした威力を持ち合わせている。したがって仰信は、単なる智慧で理解を増して、深めて行く《解信
(げしん)》とは区別されている。解信とは、仏教の教理を学び、よく理解して信ずることをいう。

 本来、仏は表現不可能なものである。また、仏の内面の悟りも、私たち俗人のレベルでは、知識や言語を持ってしても理解し難いものである。則
(すなわ)ち、言語道断(ごんご‐どうだん)とか、言語表現を逸している、というものがそれである。つまり、可視世界と不可視世界の違いであり、可視世界を因分可説(いんぶんか‐せつ)、不可視世界を果分不可説(かぶんか‐せつ)といい、現象界で表現できるものと、実在界では表現できないものとの違いを顕している。

 本来、言語も論理も、総ては差別に準じ、差別を立てた約束から成り立っている。しかし仏の世界では、そのような約束は通用しない。此処に言語道断がある。
 仏の世界にあるものは、ただ静寂と清浄、平等と均衡、そして真理のみが存在している。古来より、この世界を「光」で顕したのは、光こそ、静寂と清浄、平等と均衡を表現するのに最も適していると考えられたからである。

 無量光の仏、金光明の経、維摩
(ゆいま)居士(維摩経の主人公で、釈尊時代に都市国家ヴァイシャーリーに住んだ富豪で、学識のすぐれた在家信者という)の金色に輝く居室などは、光をもって真実なるものを現したものが多い。それに言語を用いたとしても「法界平等(ほつかい‐びょうどう)」としか現しようがない。これがロゴスlogos/言葉の意味で、概念・意味・論理・説明・理由・理論・思想など)の世界の問題ではなく、パトスの世界の問題だからである。
 つまり、パトスの世界に直接入る為には、仏自身の表現に従う他ないのである。ロゴス無用であるからだ。

 パトスの世界に居る仏と、真理そのものからなる仏となって、これを「秘密蔵
(ひみつ‐ぞう)」と名付け、「また金剛頂大教王と名付ける。等覚十地(とうかく‐じゅうじ)も見聞することあたわず。故に秘密の号を得る」と、空海は『弁顕密二教論』に説いている。
 ちなみに秘密とは、仏が理由あって秘した教えのことをいう。

 如何に優れた理性の持ち主であっても、総対敵な思弁の世界にある限り、決して仏の世界に身を浸すことは出来ない。だからこそ、この世界を「秘密」だというのである。



●恐るべき大秘術

 「恐怖の呪い」の大秘術は、次のようにして行う。
 最初に厳重注意しておくが、決して霊験を試す意味で、これを面白半分に行ってはならない。真摯な、謙虚な恐れ多い態度が必要である。
 密教の四種法の一つで、五大明王などを本尊として法を修し、怨敵
(おんてき)・魔障(ましょう)を降伏(ごうぶく)することをいい、これを「調伏法(ちょうぶく‐ほう)」または「降伏法」という。

 しかし、実際にこれを行うには、非常に面倒な手続きが居る。「秘法深法経成就品
(ひほう‐しんぽうきょう‐じょうじゅぼん)」によって、正式に修法をしなければならないからである。この場合、まず本尊を安置する必要が生まれ、その後に、両頭愛染曼荼羅(りょうず‐あいぜん‐まんだら)を飾ったり、結金剛墻(けち‐こんごう‐しょう)や結金剛鈎欄(けち‐こんごうこう‐らん)を造ったりと、法具を並べなくてはならない。

 また東西南北の門に、方角それぞれの守護神を祀
(まつ)り、明妃(めいき)を置き、修法の実行の完璧を期さなければならない。しかし、こうした面倒な手続きをせずにこれを簡略化したのが、「五色阿字(ごしき‐あじ)」である。梵字である「阿」は、次のように配色される。

五色阿字図

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大日如来=中央法界体性智……大日……金剛サッタ……不動明王……「識」
阿弥陀如来=西方妙観察智……阿弥陀……観音……大威徳……「想」
釈迦如来=北方成所……作智……釈迦……弥勒……金剛夜叉……「行」
宝生如来=南方平等性智……宝性……文殊……軍荼利……「受」
阿ショク如来=東方大円鏡智……阿シュク……普賢……降三世……「色」

 以上の五智五仏五蘊(ごち‐ごぶつ‐ごうん)の正法輪(しょうほう‐りん)をもって、邪(じゃ)を粉砕するのである。あるいはこれにより降伏法を行うのである。密教房中術および真言立川流で「降伏」を行う場合は、単に呪いとして降伏法を用いるのではなく、呪い、かつ邪としての粉砕に値する敵である場合に限り、この修法を用いるのであって、個人的な恨みなどに、この修法を用いるべきでない。
 つまり、「悪党退治」の大義名分が含まれている。この大義名分に叶う場合に於てのみ、降伏法は遣われる。

 この修法は、不動明王を始めとする、五大明王を備えているから、万全であると言わなくてはならない。
 この「五色阿字図」を描いた紙を、日中秘蔵にしておいた「福の神」に重ね合わせるのであるが、呪術を行う際は、男女の性毛を抜いて焼き、その灰に自分達の血を少量付着させ、三角に折り込んだ「福の神」に入れるようにする。降伏ならびに調伏は「福の神」を三角に折り畳んで用いる事が、「呪い」の特長である。

 これにより無敵の正法輪と、陰陽の宇宙エネルギーが一体となり、最高のパワーが発揮されるのである。
 この修法を行う場合は、その夜に決して交会はしてはならないので、これは固く守るべきである。その理由は呪術者たる男女の魂を、修法に凝結させる為のことからである。

 阿字を重ねた「福の神」は、まず枕頭の盆の上に備え、男は「外縛印」を結び、女は「内縛印」を結ぶ。そして二人並んで印を結んだまま心を一つにして、祈念に入る。これは二人の「精」を強化する為である。また「精」の強化は、事前に接吻などをしておく事も善い事で、その際の周囲の電燈などの明は消す事である。

 この際の明として一番理想的なものは「蝋燭
(ろうそく)」であり、この灯りのみを頼りに、呪術修法を行う。また、古来より蝋燭は大きな呪術効果があると言われる。
 調伏などの際は、呪い倒す敵に言葉を吐くのは、本尊の「阿」の文字である。その際に唱える呪文は、「オン・ア・ウン」である。
 この呪文と、呪いの言葉を交互に何度も繰り返す事である。この場合、阿吽
(あうん)の呼吸と、“呪い”を一致させる為に、呪力強化したもの次に示すものである。



●無限の富

 密教が出来上がった社会的背景は、現代に至っても、まだ、はっきり解っていない。発祥の基本的な背景が、都会的なものであるのか、農村的なものであったか、それさえも不明なところが多い。
 密教を信仰する時代背景の中には、古代インドの部族的な信仰があったともいわれ、それが反映されたとも云われるが、この起こりは、支那大陸やアジア大陸であったと云われている。
 何
(いず)れにしろ、密教が起こった社会的な背景には、原始仏教から大乗仏教へと移行し、その継承過程において複雑な経路を辿って今日に伝承されていると云われている。

 また、施与
(せよ)の道徳にしても、密教においてはバラモン的供犠きょうぎ/神に生け贄(いけにえ)を捧げることで、神と人との関係を成立させる宗教的儀礼として行われる行為)の方向に物質的転換がなされたと考えられている。
 更に、密教の中には、バラモン的方向への体質的な転換があったことも認められているようだ。
 密教成立の背景を検討した場合、バラモンに関係した足跡を見ることが出来よう。

 ところが『理趣経』が展開する「富の理論」は、一つの特異性を持ち、これが第五章に出てくる「富の法門
(おしえ)」として論じられ、法門(ほうもん)を説いた仏の名を取って、「虚空蔵章(こくうぞう‐しょう)」と名付けられている。
 此処に出てくる「虚空蔵」とは、菩薩の名であり、その蔵するところ、虚空の如し、また無念なりという境地を、そのまま教えに顕しているのである。

 則
(すなわ)ち、限りなき富の持ち主である虚空蔵が、この境地を完成させるに至った真実の無限が説かれているのである。
 虚空蔵の境地とは、「総てにおいて自由なる仏」という意味を持ち、《一切三界主如来
(いっさい‐さんがいしゅ‐きょらい)》となり、その智慧は、総て人に恵みを注ぐとされている。そして、人に恵みを注ぐことを「灌頂(かんじょう)する」という。これこそが、真実なる智慧の理趣(みち)であるという。

 此処で云う「無限なる富」は、また「自由なる富」のことで、結局は灌頂
(めぐみ)、義理(もの)、法(おしえ)、質(かて)が無限にあることを悟り、それを無限に、平等に施すことを云う。これこそ『理趣経』が説く、「大いなるなる富」あるいは「無限なる富」なのである。これは《湧き出る泉の如きもの》を連想させ、その泉は永遠に枯れることはない「枯れない泉」としている。
 この「泉」を『理趣経』を母体にする《真言立川流》では、「女根の泉」に対峙
(たいじ)させているのである。

 これを真言立川流では、「溢れる春水」といい、また「無限なる富」の根底に据えている。
 “無から有を生み出す原理”は「摩擦」によるものと、立川流では説く。例えば、掌
(てのひら)を摩擦すると、電流が生じる。それが交会の場合、女根のエネルギーに作動する。
 女根の持ち主の“姫”は嬉しさの余りに「濡れ」が起こるのだが、『如宝抄
(にょほうしょう)』にある「陽風而(しか)して春水を動かす」とは、このことであり、艶景(えんけい)すら、実は「無限なる富」の現れであることが分かろう。女根には、無限なる富が、総て人間に平等に備わっているのである。それは、これらが有用であるからだ。

 空海によれば、「匡王
(きょうおう)の眼(仏の眼)には途に触れて皆宝なり、自他受用日日に弥弥(いよいよ)新たなり」と云い、仏の眼から見れば、万物は総て、そのところを得ているのであるから、天地に存在する一切のものは、皆有用であり、皆宝であり、無駄なものは一切ないと云っている。つまり、万物は無用であり、無意味なものは何一つないと云っているのである。
 ちなみに、今日では無用と思われていた排泄物である大小便からも、有用な薬効成分が抽出されることが知られているし、猛毒の劇薬も、人間の生命を救う上では、不可欠な働きをすることが多い。

 有用・無用は、一つにそれを用いる人間の能力と、用いられる機会によるもので、その“もの”があるべくしてあると云う以外、それ自体で一定の目的を持つものではない。
 これは『理趣経』の表現に従えば、万物はみな本来は「清らかなもの」なものである。天地に存在する万物の一切は、みな清浄であり、それは「性行為」という行為すら「清らかなもの」なのである。総ては清らかであるから、これを如何様にも使うことができ、有用により、これが無限の宝になるのである。

 この無限の宝を、人に恵むことを「灌頂
(めぐみ)を齎(もたら)す」といい、齎したことを知ることを「灌頂智蔵(かんじょうち‐ぞう)」というのである。これらの灌頂を限りなく自らも受け、また他にもこれを施して、総てのものを各々に生かして行をすることを「灌頂施(かんじょう‐せ)」という。
 灌頂とは、古代インドの王の即位式や、僧侶の入門式に用いられた儀式であり、宝瓶に満たした水や油を頂
(あたま)に灌(そそ)ぐ事をいい、今日の言葉を借りて表現するならば、この「無限の富」が万人に灌(そそ)がれることを準(なぞ)えている。
 『理趣経』では、「無限の富」の「無限の活用」を説いた後、第二章、第三章以後の《施》がとかれることになる。



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