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続・夜の宗教 真言立川流 3

上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)という男に起こる現象。
 幾ら体力的に自信があっても、修行を経ていない体質では、ついに恐妻家になる運命が免れないものも急増しているのが「現世」という、今の世である。




●不動秘伝

 
男女の結びつきとは、一つの縁である。この縁は考えれば不思議な燕である。人間の男女は子の不思議な縁により、因果関係を作ることになる。
 痘痕
(あばた)も靨(えくぼ)という。醜女(しこめ)も、検(み)る男によっては、絶世の美女となる。他人が検て、そんなに大したことはなく、変だ、訝しいと思う者であっても、当人同士は恋の結晶現象によって、結構ボーとなり、ニタニタ、ホクホク、ダラダラと訳の分からない状態でイカレてしまっているのである。

 人間の恋愛感情は、下手をすると結末が悲劇的なものにある場合が多い。したがって『不動秘伝』は、この愚を冒さないように、次のことを告げていつのである。その「お告げ」はむしろ警告に近いものである。

悪女の相。髪の毛がバサバサして、乱れた頭髪。黒子などや痘痕(あばた)があり、首は太い。喉仏が男のように出ている。黄ばんだ汚い歯。大きな口で上下とも分厚い。白目が赤く充血したり濁った瞳。口髭が生えている。骨の節々が大きく、全体的にいって角張っている。逆に大腿部などが細いだけでなく、逆に皮を張ったような状態。髪の毛が細く、茶けていて、メラニン色素が少ない女。陰毛が太くてゴワゴワとした密林。
肌のザラザラした鮫肌の女。痩せ過ぎていて骨と皮の女。“茶うす”ばかりを好んで体位とする女。どら声あるいは声を酒で焼いているしわがれ声の女。こういう声は水商売に多い。尊大ぶる女。モジャモジャの臑毛が濃い女。嫉妬深い女や焼き餅焼き。女根がひんやりと冷たい女。頑固で不感症の女。食にだらしのない大飯ぐらいの女。
 そして、「声の大事」から、声は「玉を転がすような、秋の虫に似た澄んだ声の持ち主がよい」とされた。
足の裏が汚く、魚の目などがある女。足首に締まりがない女。胴がくびれていない女。
そして昨今では、脇毛を剃る女が多いが、これは密教房中術からすれば、男側は名器を知る上での判断材料をなくしている。本来、陰毛並びに脇毛は求めるべき女を探すための重要条件であった。ところが剃るので、この判定がし難くなった。陰毛や脇毛というのは、柔らかく、しっとりしている女性はよいとされた。

 『不動秘伝』は以上の基本的なことを告げ、またその禁を犯さないように警告している。

 さて、女の善し悪しに関わらず、女と結ばれた男は別として、男の中には、なかなか女と結ぼうとして、これに縁のない男がいる。女を手に入れようとしながらも、奥手だったり、女への解消が足らず、結ばれたくても結ばれず困っている“童貞男”がいる。こうした童貞男に付け入るのが「悪鬼」である。
 この悪鬼は現象として、男に夢精を強いるのだ。

 西洋でも古くから眠っている男に取り憑
(つ)き、性交するという魔女が現れるといわれている。この淫魔(いんま)の魔女を「シュキューブ」という。この魔女が取り憑くと男は、夢の中で射精をする。
 一方、眠る女性に取り憑く魔男がいる。夢の中で女を犯すのである。女を強姦し、女根をたっぷりと濡れされる魔男がいる。この魔を「アンキューブ」という。
 西洋では、夢の中で男と女のそれぞれに取り憑く「魔」が登場するのである。

 こうした魔として取り憑く悪鬼を、東洋では「鬼交
(きこう)」という。
 この鬼は、ただの鬼でない。鬼よりも陰湿な面を持っているため、ある意味で鬼より質
(たち)が悪いともいえるだろう。
 何しろ、眠っている間に現れるのである。自分の大事な“ご本尊さま”に取り憑くのである。そしてその後、自由に淫魔は出入りするのである。この出入りを許すと、後でとんでもないことになる。それは精を浪費させ、寿命を縮めることを企てるからだ。この鬼は、古今東西を問わず、人間の性に物心ついた男どもを悩ませる存在である。

 夢の中でいい女に遭遇し、うっとりとして恋を語り、はずみがついて情欲を交わすと、思いきり射精して「ああ幸せ」と大満足していると、目を開けてびっくりするのだ。これは寝小便より質
(たち)が悪いのである。

 そして更に悩ませるのは、平常を我慢することだ。我慢すれば、頭の中はモヤモヤが起こる。このモヤモヤしているところに鬼交は忍び込む。悪戯者の鬼が現れ、陰湿な悪戯をするのだ。
 性欲が高まり、煩悩を蓄積してしまうと、脳は悪戯者の鬼に狙われ、煩悩を灼
(や)く始末へと走らされるのだ。
 心臓の火が上へ上へと上昇し、燃え上がり、ついに脳を灼くのだ。こうして脳を灼く現象に至った場合、真言立川流は『穏形法
(おんぎょう‐ほう)』を用いてこれを消すのだが、この秘術を識(し)らない者は、鬼交の悪戯にまんまと嵌められ、思いきり発射してしまうのである。これは本来の性交から離れて、脳だけを灼き、下半身に溜まる愛水と結びつかない現象が起こったからだ。

 これを放置すると、鬼交はたびたび忍び込み、長きに亘り悪戯を繰り返すことになる。その上、この状態を許してしまうと、命は精の浪費で弱められ、男根までもが畏縮するのだ。小さくなり、肩身の狭い思いをする。これが齟齬の縁あって結婚できたとしても、これが起因して男はついに恐妻家になり、あるいはわが妻を不倫相手に任すことになるのである。

 性的エネルギーの「十力尊」は、人間は生まれながらに授かっているのである。『穏形法』は、まず十力尊を尊べと教える。十力尊は宇宙が人間に使わせた「意識」のことである。
 日本人は「決断」に鈍い民族である。多くは優柔不断で“なあなな”で物事を締めくくる。
 また仮に決断ができても、“見通しの利かない決断”をしたり、“力のない裏付けの決断”をする。勝ったつもりで粋
(いき)がったりもする。
 それは、日本人の多くが「穏形法
(おんぎょう‐ほう)」の何んたるかを識(し)らないためである。これが行動に出たりもするのだ。短見で、早とちりもする。不動心がないためである。感情に溺れやすく、感傷に浸りやすい。こうした性格的特徴も、島国育ちというより、そもそもの血統による欠陥が性格に現れたに過ぎない。

 本来、穏形
(おんぎょう)は霊統の上に成り立っている。人間の保因する因子は血統ばかりでない。その霊的背景に「霊統」があるのだ。霊統を無視してはならない。眼に見えないからといって、血統書に、あるいは過去の『過去帳』に記してないからといって、霊統を無視してはならないのだ。
 霊統は、人間独特のものである。霊長類独特のものである。これを無視して、未来の予測は立たない。将来の見通しは利かない。

 人間は、意識として人体中に血統とともに、霊統を授かった。霊統は身体深くその深層心理の下に宿っている。この部分に潜在し、霊的存在として潜在するのだ。そして父母から肉体を授かった時、生命体の「命体」として霊的分野も内蔵されたのである。

 人体は「生体」と「命体」の、大きく分けて二つの合体構成からなる。だから人体を「生命体」という。これは肉体を授かる時の必須条件である。個人の根源的精神を、この時点で構築するのだ。同時に、この時の潜在意識として、成人した時の、女を抱きたいとか、男に抱擁されたいという煩悩を派生させるのである。この煩悩により、男女は成長する。潜在意識の中に内蔵される本性の力の現れは、実にこれである。

 そして成人後、現実に交会して、人間には生体部分と命体部分があることを感得する。普段は霊肉一体になって、霊の部分は肉の後ろに隠れているが、穏形法をして、霊を表面に出してくると、肉の回りには、多くの塵芥
(ちりあくた)の如き、鬼交が人間の関与して、肉体を滅ぼそうとしているか、初めて気付くのである。肉体の感覚しかない人間は、肉体が意識までもを伴わして、それの脳という肉体によって感知していると思い込んでいる。

今日の「脳科学はそれを克明に物語るもので、脳により意識までもを作り出し、それが人間の意思決定であるかのように結論付けている。
 ところがそうした意思決定を脳が関与し、それは肉の脳が判断していると考えるのは、今日の脳科学の仮説であり、この仮説は肉と命を切り離したところで、脳科学者の間で勝手に一人歩きしているのである。霊的存在を研究し、科学する上で危険か科学であり結論付けである。

 「穏形法」は説く……。
 男女の煩悩は、交会により、初めて個人の根源の活動料になると。
 心臓の火とは、意識のことで「陽」を指す。 これが煩悩を灼
(や)く「脳」である。それは上部にある。
 一方、下腹部の愛水は、活動をしない場合、「陰」である。普段、これは眠っているのである。眠っているから、女は腹部・丹田部分に「眠れる蛇」を潜在させている。「眠れる蛇」を宿し、男が脳を灼
(や)き、男根に刺激を与えた途端、この眠れる蛇は鎌首をもたげる。

 眠れる蛇は、眠っている間に、活動のための「陰の水」が意識の陽から脱して、陰の力を強めて肉体から遊離させる「夢」を男に与え、普段は発情状態にするのであるが、これに鬼交が関与すると、則ち、「哀れな夢精」のなるのである。夢精は鬼交の仕業なのである。女を抱きたいという悪想念が、鬼交の女に化けさせる隙を与え、男はまんまとこの策にはまり、あえなく射精して夢精を味わうというわけだ。

 陰と陽の、水と火は普段は結びつかないが、脳を灼くことにより、想念から誘導されて、健全な肉体を少しずつ弱らせて崩壊に導き、少しでも蝕もうと企てるからだ。
 そこで『穏形法』は教えるのである。
 呼吸法をして、呼吸を正すことにより、夢精からの悩みを脱出できると、呼吸法こそ、密教房中術並びに真言立川流は唯一の急務の道と諭
(さと)すのである。



●人間即身成仏

 また『穏形法』は、夜、就眠前の呼吸法の大事を説いている。寝床に入る前、吐気をして大きく息を吐き、寝床に入ったら、まず大きく息を吸い込むと教えるのだ。これにより精気の力を下腹部へと下げることができる。この時、肛門を開き、吐く息とともに邪気を追い出すのである。これを数回繰り返し、「今夜は夢精淫魔に脅かされる心配なし」と自覚し、これを強く念ずることだ。

 この場合に注意すべき点は、邪気を吐
(は)き終わったら、即座に肛門を閉じることである。肛門を開けっ放しにしてはいけない。肛門を閉じるとともに、「転法輪小周天」を行うことだ。小周天を行うことで、引用のエネルギーは前身部分と背面部分の陰陽のバランスがとれ、陰陽エネルギーの拮抗(きっこう)が保たれるのである。

 そして最後に特記すべきことは、真言立川流は仏法を「陰」と「陽」に分けて説明するが、これは単なる「陰陽二言論」ではない。陰よ陽が対立するのではなく、「一つになる」ということを教えているのであって、またこの「一つ」が分かれて、「二」になったりするというだけを男女二根交会の中で教えているだけなのだ。
 つまり男女二体は、「一」なるものを証明し、それを集積したデータに過ぎないということだ。「一」なるものが二根交会の根本であり、生死も、また「一」なるものなのである。生と死は表裏一体なのだ。

 これは根本が「一」ではなく、はじめから“男女は二元”であったら、例えば“犬”対“猫”の関係のようなもので、性交することもない。“男”対“女”は、決して“犬”対“猫”の性交ではないのである。
 また生と死の二元だったら、生と死とは異質の別物であるから、生物には死はないはずである。生物に生死があるのはそれが一体であるからだ。

 真言立川流や密教房中術が説かんとする“セックス論”は、「一」なる宇宙力の現象を総合して、「生物的に観たもの」に他ならないのだ。
 また真言立川流の本質は、交会を通じて、「一」なる宇宙神を求めるところにある。男女は呼吸を合わせて「一つになる」のである。しかし、一口で「一つになる」といっても、男女相互の呼吸が乱れていては果たされるわけもなく、この行法自体は実に厳しい修験道であるといえよう。

 一般に密教といえば、頭から難しいものと決めてかかる者が多い。複雑なものという先入観で密教を考えてしまう。そのために、深刻ぶり、敬遠してしまう。しかし、そうした心構えでは、本来の宗教の目的である“衆生済度”は中々出来ないことになる。衆生など最後まで救済できないことになる。
 特に仏教は、衆生を救済するものではなかったか。

 仏や菩薩が、苦海にある衆生を済
(すく)い出して、涅槃(ねはん)に度わたらせることではなかったか。法を説いて、人々を迷いから解放し、悟りを開かせることではなかったか。
 決して寄付行為を強制し、戒律で雁字搦
(がんじ‐から)めにし、坊主が信者の頂点に立って、威張りくいさり、酒や美食を喰らうことではなかったはずだ。また、坊主が信者の中から自分好みの美女を探し出し、それを口説いて、妾にすることではなかったはずだ。
 こうなると坊主は、単に地獄に墜ちる手本のような存在を、我が身に賭して、この世の春を謳歌
(おうか)しているに過ぎなくなるだろう。しかし、また“こんなことをしていると地獄に墜ちるのでは?”と半信半疑で、この世の春を謳歌する僧侶がいることも、この世はまさに“ろくでもないところ”なのである。

無尽蔵の宝を求めて。

 さて、人間は清濁(せいだく)併せ呑み、味噌も糞も綯(な)い交(ま)ぜにして世界に、わが寿命が尽きるまで留まらねばならない。清いものも汚れたものも同じに扱うこの世界に、平均寿命分だけ留まって、ここで苦悩を味わって生きなければならない。
 昨今は平等意識が蔓延
(はびこ)り、人権が猛威を振るい、善悪や優劣の区別が曖昧(あいまい)になる中、何が正しくて何が間違っているか、それ自体も不明確になりはじめた。そうした中で、差別をせず善を悪の如く扱い、悪を善の如く扱わねばならなくなってしまった。偽善者も随分と増えた。
 かつて釈尊が説いた「末法
(まっぽう)の世」は、既に到来しているのである。

 かつて日本では、平安後期から鎌倉時代にかけて流行し、人々を不安に陥らせる一方、仏教者の真剣な求道を生み出した末法に入ると仏教が衰えるとする予言的思想は、そのまま現代に至っても継続されているようだ。
 釈尊入滅後の仏教流布の期間を、三区分した最後の時期を「末法」というが、昨今では修行する者も、悟りを得る者もなくなったように思う。今日のこの世に残るのは、形骸化されたものばかりである。中身が失われて、外形だけ残っている状態である。

 さて『不動秘伝』であるが、もともと密教の教義は「二而不二
(にに‐ふに)」「入我我入(にゅうが‐がにゅう)」「梵我一如(ぼんが‐いちにょ)」である。
 「一」になる絶対的存在を大日如来に求めるものである。大日如来に求めることは、太陽神の恩恵を求め、万物を同一の仲間と看做
(みな)し、これを平等だとする教えである。

 これらは如来の身口意
(しんくい)の三密(さんみつ)が我に入り、我の身口意の三業(さんごう)が如来に入り、一切諸仏の功徳をわが身に具足することで、仏と自分が一体になることをいう。また、インドのウパニシャッド哲学の根本思想であった梵我一如は、宇宙の根本原理である梵(ブラフマン)と我(アートマン)とが同一であるというもので、このことを直観すれば、輪廻(りんね)を超越できるとするものであった。

 真言立川流は「日」と「月」を主尊とする。この両者は「陽」と「陰」を顕わし、また「不動明王」と「愛染明王」を顕わしている。そして「日」と「月」を生んだ宇宙ならびに大自然の生殖力を絶対神としたのが「密教」なのである。

 さて、真言立川流は長い間、邪教という汚名を被せられてきた。
 どうして邪教視されたのか。
 それは絶対神の違いからであった。
 大日如来を中心とする真言宗から、邪教と罵
(ののし)られたのは、絶対神の解釈の違いであり、立川流がセックスを説くから邪教とされたのではないのである。問題はそんなに単純ではないのである。

 真言立川流の修法の一つに「阿字観
(あじ‐かん)」がある。これか真言宗とて同じである。
 立川流は「阿字観」に回帰した。
 即ち、「即身成仏の教え、ひとえに真言密教より出たるも、阿字にとどめたり」と、大日信仰を通過して、宇宙生殖力に目を向けたことから、真言立川流と真言宗が対立することになった。立川流は宇宙に目を向け、その生殖力に畏敬の念を抱いたのだった。
 それによると「阿字は、これ三世諸仏の妙体にして、一切衆生の本性なり」としたのである。これにより立川流は宇宙観に到達したといえるだろう。生殖力の根源を宇宙観の中に見出したのである。

 阿字観は、宇宙生殖力を絶対神とした宇宙観である。この宇宙観に到達するための修法であると、真言立川流は説く。阿字観の体験として、二根交会があるのだとする。
 しかし、二根交会に反論をする人も居よう。それは人間が年を取るからである。年老いて、実際に交会不能になったら、立川流は自然消滅しないのか、と疑問を抱く人も居よう。果たしてそうなのか。年をとったら交会は不能なのか。

 ところが真言立川流は、男女の二根交会はそんなものではないとしている。年を取ったからといって、二根交会はそんなケチなものではないのだ。
 立川流は説く、正しい認識のもとで行う性交は、二根交会自体が性的エネルギーとして、光となるのである。この光は男女を最後まで照らし合うものなのだ。年を取っても衰えないのだ。

 年を取ったら性的エネルギーも精力も衰えるとしているのは、世間一般で行われている精の浪費の性交であり、体力主義の精巧である。こうなると精気が盛んな若者優位となる。この種の、スポーツ・セックスでないことを立川流は説いているのである。
 立川流でいう交会は、あくまで男女が合体することで、光を放つものであり、これを愛情の本質にしているからだ。
 それ故、『理趣経』では「愛は清らかなもの」と定義しているのである。清らかだから、また光を放っても当然なのである。

 男女陰陽の合歓は、子孫を誕生させるだけでなく、我身を仏として誕生させることでもあるのだ。
 真の歓喜
(かんぎ)とは「東西に求め、南北に訪ねるものに非ず。我ら心中に具足(ぐそく)するところ。本有常住五智の如来なり」とあり、阿字観は人間そのものであると説いているのである。
 ここに立川流の目指す究極の境地があり、それは則
(すなわ)ち「人間即身成仏」なのである。



●虚空庫と虚空像の世界

 
『理趣経』の第二章に進むと、此処には、物や金銭の説法がなされ「物や金銭を能(あた)う限り人に授けよ」とあり、「世の中の生活に不如意なものをかならしめる行いをせよ」と説いている。更に、この行いを実行すれば「世の中の人の総ては、意願(ねがい)は満ち足りたものになろう」と教えている。これが「義利施(ぎり‐ふせ)」というものである。
 これは灌頂施
(かんちょう‐ふせ)によって見出された無尽蔵の宝が、みな平等に行き渡り、福徳の一切が聚(あつ)められ、これにより万人の意願(ねがい)は平等に満たされると云う。

 衆生の願いは、いつも不平や不満の声で満ちている。この不平や不満は、宝が平等に分配されず、また、願いが平等に聞き届けられないから、起こるのであって、これをなくすには真理の獲得が急務であると説くのである。
 これが『理趣経』の第三に掲げられたテーマである。
 このテーマによれば、法
(おしえ)を人々に施し、この施しによって、万人が法性(真理)を獲得することができると説いている。

 この法門の説かれる順序に従えば、灌頂
(めぐみ)と義理(もの)の満足が成し遂げられた後に、はじめて法(おしえ)の満足が説かれると云うことになっている。これが説かれた後、最後には第四のテーマとして、生命(いのち)の資糧(かて)となる様々な飲食を施す行いが説かれている。この「施す」行いによって、この世の総ての飢えたるものは、ただ人間のみに止まらず、総ての生きとし生ける物に及び、その苦しみから救われ、身も口も意(こころ)も安らかで、楽しい状態である「大楽」が訪れるとしている。
 この大楽には、生命の資となるものの重要性が具体的に説かれているのである。

 今日、真言宗や禅宗では各寺院で催される「施餓鬼
(せがき)」の法要では、《広博身如来(こうはくしん‐にょらい)》と云う名で、大日如来を祀(まつ)り、多くの餓えたるものをして「咽喉寛大(いんこう‐かんだい)・施食充飽(せじき‐じゅうほう)」という祈願が行われている。これは喉(のど)が広がって、何でも充分に食べられるという願いを込めた祈願である。これは『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつ‐ぐはつ‐えんく‐がき‐らだに‐きょう)』に基づいている。
 『理趣経』の第四のテーマとして述べられているこの箇所の“資糧
(かて)”の施(めぐみ)も同じ願いに立っている。此処に論じられていることは、充分な生産の論理ではなく、主に論じられていることは、抽象的な《無限の富の可能性と、その完全な活用と、その分配法》である。

 万物に有効性を見出し、この中から時と場合に応じて、その機能や効能を発見し、それを万物に還元させる教えである。したがって『理趣経』の説かんとするところは、万物の本質上の「清浄性」と云う大前提から、この結論を導き出しているのである。
 したがって、教えはどこまでも平等であり、また完全なる施与によって一切は清潔になり、かつ「無限の富」が平等に分配されると云うものである。

 無限の富を約束されると云うことは、同時に無限の分配を約束されたと云うことである。無限の分配は約束により成り立つものであるが、一切の如来
(ほとけ)を種々(さまざま)に供養することから始まる。この供養こそ「やしない」といわれるもので、これこそ世の中の広大な儀式の蔵(もと)となり、この境地を人格化して「一切如来種種供養広大儀式如来(いっさい‐にょらい‐しゅじゅ‐くよう‐こいうだい‐ぎしき‐にょらい)」と名付けたのである。この如来(ほとけ)が《無限の富》の菩薩であり、これを虚空庫菩薩(こくうこ‐ぼさつ)という。

 この虚空庫菩薩は、虚空蔵菩薩と非常によく似た菩薩である。言語では虚空蔵菩薩は「アーカーシャ・ガルバ」と云い、虚空庫菩薩は「ガガナ・ガンジャ」と云う。アーカーシャもガガナもともに「天空」と「虚空」を意味し、ガルバは子宮である「胎蔵」の《蔵》を顕し、ガンジャは「宝庫」あるいは「庫」を顕している。
 虚空蔵菩薩は古くからよく知られ、有名であるが、虚空蔵菩薩の教えを援
(たす)けたものが虚空庫菩薩であり、布衍(ふえん)する形を採(と)っている。

 虚空庫菩薩の布衍は、引き延ばし展開すると云う意味を持つから、総てのものに惜しみなく、かる円満にものを与え、それはあたかも虚空
(おおぞら)を庫(くら)とするように不可分無くあたえ、それが欠けることがないと云う意味で、四種の供養の教えを説いている。これが第九章に出てくる「供養の法門」である。



●供養の法門

 『理趣経』第九章「虚空庫の章」によれば、まず、「菩提(さとり)への意願(ねがい)を起こせ」とある。
 それがそのまま如来
(ほとけ)の喜ぶこととなり、これが「歓喜(かんぎ)」であると説いている。同時にこれが何にも増して広い供養の道となる。これを発菩提心供養(ほつ‐ぼだいしん‐くよう)と云うとある。何故ならば、真理の具現者である如来や菩薩は、真理を知る者の、一人でも多いことを自らの願いとしているからである。

 次にこの世の総ての衆生
(ひと)を済度することは、それがそのまま如来(ほとけ)を供養することになると説いている。
 これは総ての衆生が済度することにおいて、如来
(ほとけ)の本懐(ねがい)そのものであるからだ。これを「資糧供養(しりょう‐くよう)」と云う。

 真実の智慧
(ちえ)を「般若波羅蜜多(はんにゃ‐はらみた)」といい、この経典にその智慧が記されている。この教えを身に保ち、読み誦(とな)え、自らも書き写し、他にも書き写させ、よく心に考え、実行する。この実行には、十種類の修行である「十法行」が説かれ、この総ての供養したならば、それがそのまま如来(ほとけ)を広く供養すると云うのである。これを「事業供養(じごう‐くよう)」という。

 また、此処で述べられている四種類の供養である、発菩提心
(ほつ‐ぼだいしん)、資糧(かて)、法(おしえ)、事業(じごう)は、私たちの意志のもとにある「富」を如何にして他に対し、支障無く、平等に分配しうるか、物心両面に亘って説いたものである。
 「発菩提心」は、則
(すなわ)ち真実なる生活の目覚めと「法」であり、またこれによって真実とは如何なるものか、真実に触れることにより、真実を具現させる如来(ほとけ)に対し、他者に対する最大の供養であることを明確にしているのである。

 これに対し、「資糧」と「事業」は、この二つの供養を通じて、その真実に基づいた生活から、他を済度
(さいど)し、済度によって救う善なる事業(おこない)をなすという実際的な行為を示している。

 この二方面に亘る四種類の供養を可能にする根拠は、ただ一つである。それは、『理趣経』が繰り返し強調している、人間本来の清浄なる生活を経験する以外ないと云うことである。これを実在世界のおいて、如何にすれば可能になるか、探究しなければならないのである。

 この世は、有限なもので満ち溢れている。現象の上に立ち、跼蹐
(きょくせき)させる相対的な意識は、単に“頭が天に触れるのを恐れて背をかがめて歩き、地が落ち窪(くぼ)むのを恐れて抜き足で歩く”ことである。跼天蹐地(きょくてん‐せきち)の限られた世界である。

 何処にも、身の置き所もない思いをしながら、肩身が狭くて、世を恐れ憚
(はばか)って暮さなければならない。これこそ、まさに小我の世界である。小さな「我」の応酬(おうしゅう)にあい、肩身の狭い思いをして生きなければならない。これから解脱(げだつ)するには、こうした現代人が頑迷に持ち続ける我執を取り払わなければならない。
 自他の区別があるから、境目を作り、その境目の垣根によって、我が身を小さくしているのである。これを消滅させるには、自我意識を排除する以外あるまい。

 だいたい夫婦においてでさえ、本を正せば“他人”である。夫婦は婚姻により、適法の婚姻をした男女の身分を取得したものだが、これはあくまで法的な立場である。“夫婦合
(ふうふあい)”と言ったところで、元は他人であることは間違いない。夫婦間に「他人」が持ち込まれるのは、夫婦生活において、正しい男女二根交会(こうえ)が行われていないからである。この正しさと、清らかな愛が存在しないからこそ、そこには他人の関係になる、様々な要因が周囲に漂っているのである。そして、この元凶には、自他の区別があり、自我意識が、他人に押しやる眼に見えない垣根を作っている為である。夫婦はこの垣根に悩まされ易い。

 では、垣根意識が起こると、どうなるのか。
 そこは「結婚」と言う地獄が待ち構えている。結婚により、夫婦合から地獄が起こるのである。
 多くの現代人は、結婚と言う行為の中に、「地獄」という局面が、直ぐ真横に隣接されていることを知らない。だいたい、相思相愛の夫婦と云ったところで、双方の所有する愛は、各々に均一でもなければ、同量でもない。各々に懸
(か)かる愛の比重は、微妙に異なっている。男女の何れかが、強い愛で支配し、また一方的な愛に支配されている。
 お互いに慕い合い、愛し合っているとしても、それは男女の各々が、均一に担っている愛の、同量分のものではない。何
(いず)れかに偏っているのだ。夫の愛が強い場合、妻は一生家に閉じ込められて、主婦業に専念することになり、妻の愛が強い場合、夫は世話焼きの姉さん女房から監視される紐(ひも)付き亭主となる。
 このように、相思相愛でも、微妙に支配する愛の比重は違うのである。



●“おんぶ”に“だっこ”の破綻生活

 では、何故偏りが起こるのか。
 それはそもそも夫婦合が対等であり、同等であるという立場が充分に築かれていないからだ。そもそも、日本人が考える結婚生活は、多くの場合、夫の稼ぎに妻が便乗すると言う形式が大半である。そもそもここからして、対等ではない。
 現代人の多くの男女は、大半が恋愛結婚であろう。しかし、恋愛をよく考えると、そもそも純粋なる恋愛など、この世には何処にも存在しない。口先で「純粋」と唱えたところで、結婚して純粋で居られるのは、おそらく“半年未満”であろう。どんなに長くとも、半年で恋なんて冷めてしまうものである。そもそも、結婚がそうであるから、恋愛ならば、もっとその寿命が短いだろう。

 せいぜい、胸がときめくのは三ヵ月程度である。相手と知り合い、意気投合して愛を語り、それに準じたとしても、せいぜい三ヵ月程度である。更に今日のように、出会いから、二、三回のデートを重ねただけでラブホテルに向う短絡的な恋愛遊戯が流行している世の中では、肉愛を交わした時点で、恋は急速に萎
(しぼ)んでしまう。肉体を交えただけで、安心が起こり、それに双方が胡座(あぐら)をかきはじめる。

 「安心」は、恋を萎ませ、肉欲を交わした時点で、今度は相手の躰
(からだ)に飽きが出てくる。逢う度にラブホテルにしけこみ、そこで交わされる肉欲の限りは、やがてマンネリ化し、相手の性器に飽きはじめる。要するに、ベットを伴にする肉欲に飽き飽きするのである。
 「飽き」が起これば、延々と続く退屈な共同作業は、興味深くも、面白くも可笑しくもなくなる。そして最後の止めは、互いが自分の性器を曝
(さら)した時点で、「最後まで手の内を見せた」という元凶が起因して、やがて恋愛に走った、その事自体が、愚行に思えて来るのである。

 躰の隅々まで、相手に見せてしまったら、それこそ三ヵ月以内に「うんざりする」気持ちが起こってくるだろう。これは結婚生活でも同じだろう。
 多くの夫婦は、結婚半年未満に、初期の倦怠期が始まると言われている。倦怠期の起こる最大の理由は、結婚と同時に、この時点をスタートと考えずに、多くはゴールインと錯覚してしまう為である。この錯覚が、そもそもの元凶の始まりである。

 本来夫婦は、お互いが砥石
(といし)になって磨き合い、絶えず成長していなければならない。何かを吸収し、どんどん新陳代謝をして、自分を高める修行をしていなければならないのである。
 これを少しでも怠ると倦怠に襲われ、やがて破綻
(はたん)を来すことになる。つまり、伴侶(はんりょ)だって、油断のならない間柄であり、男女は互いに刺戟(しげき)し合い、成長して行く関係なのである。

 ところが日本人の考える結婚は、その時点がゴールインである為、“べったり”と密着した夫婦関係は、実は飽きがくるものであり、これ自体が、そもそもの倦怠の始まりだったのである。ある程度の距離のない夫婦関係は、長続きするはずもなく、適度な距離をおくことを忘れた夫婦関係は、やがて破局を迎えることになる。
 また、緊張感を失わさせる為、やがてそこから小言の一つや、罵詈雑言
(ばりぞうごん)も浴びせかけられるようになる。もう、こうなれば恋人でもなく、また夫でも、妻でもなくなろう。

 多くの恋愛結婚の場合、恋愛と云う錯覚の上にこの結婚が成り立っている為、その誤解の上に成り立った結婚であることを忘れてはならない。したがって、恋愛結婚は、結婚と同時に恋は死ぬ。安堵感がこうした死を齎
(もたら)すからだ。同時に、相手に「飽きる」からだ。飽きた夫婦生活は、実に面白くないものである。
 この面白くない夫婦生活は『理趣経』の説く、「愛は清らかなもの」という定義に、大いに反することになる。それは成長が止まってしまった夫婦関係であるからだ。

 では、「飽き」は何処から起こったのか。
 それは恋愛と云う熱病からだ。適当な距離が保てない熱病は、距離が保てないだけに、“最初べったり”から誤解と錯覚を生む。互いが盲
(めくら)となって、情熱だけで燃え上がる為である。しかし、情熱はやがて冷める。情熱に持続性はない。最初は触ると、火傷するほど熱かった熱も、「飽き」とともに冷却へと向う。

 恋愛結婚の新婚三ヵ月目までは、恋に陥った当初の感覚と、よく似ている。
 例えば、一日に何十回となく相手に電話を掛けたくなるような、こういう衝動である。こうした衝動と闘いながら、結局自分の方から電話を掛ける勇気がなく、ひたすら相手からの電話を待ち続けるような、こうした感覚であり、同時に心がときめくような、期待感に彩
(いろど)られたものが、つまり、恋愛であり、また恋愛の延長した恋愛結婚である。新婚六ヵ月未満では、夫の帰りも気になり、少しでも遅いと何かあったのではなかろうかと、気を揉(も)んだりする。

 しかし、こうした恋愛遊戯も、日を追うごとに「飽き」が生じてくる。人間は変化無しでは生きられない動物であるからだ。一箇所に長く止まることが出来ない動物である。変化を好む生き物であるから、そこには絶えず変化が起こっていなければならない。
 したがって、ゴールインなどと称する恋愛結婚の成れの果
(はて)は、その後の人生は「ただ飼い殺し」だけが人生の余生となり、結局は、お互いがお互いに尽くす忠実な番犬か、あるいは永久奴隷にされてしまうだけのことである。こうした結婚は、ゴールイン後が地獄であることは、疑いようがない。置き去りにされ、人々から忘れ去られて行くような、死んだ状態が、つまり、恋愛結婚の側面には隠れている。それに気付かないと、結婚しても織田が亥に敵対して地獄を見るか、結局離婚する以外ない。

 人間は歳を重ねるに従い、一人の人間を真剣に好きになり、愛して行くと云う持続性は、徐々に失われて行くものである。したがって、恋愛には、気の遠くなるような執念と体力が居るのである。
 そしてこの体力を継続しつつ、常に成長して、知的な会話を夫婦間で楽しむと云うのが、この結婚の前提であるから、この努力を怠った場合、忽
(たちま)ち、恋は旧(もと)の木阿弥(もくあみ)に連れ戻されてしまうのである。結局双方に残るものは、性的な飢えとともに、敗残兵としての、今は喰って生きるだけの、それだけの余生しか残されていないことに気付かされるのである。

 こうした結末が、既に漂っている恋愛結婚の多くは、日本人の場合、特に若い女性が、「いい結婚」に、自分の人生の総てを賭
(か)けるのは、そもそも「自分」と云うものがないからである。
 つまり、結婚に自分の人生を賭けてしまうのは、自分一人の身を、自分で面倒見切れない、と錯覚しているからである。多くの結婚に憧
(あこが)れる女性の多くは、自分の面倒を自分で見切れないという錯覚を抱き、自分で生きて行く為には、喰っていかなければならないと云う基本的な原則ですら、自分で確保できないという状況にあるからだ。

 同時にこの錯覚は、自分が口にする最低限度の糊口
(ここう)や、身に付ける衣類や、就寝する為の最低限度のスペースを、自分自身で用意することを最初から放棄し、その分だけ、夫の稼ぎによって賄(まかな)おうとしているからである。これを頭から信じ、これを少しも疑っていないのである。
 つまり、これこそ「恥知らずな生き方」であることを自分では全く理解していないのである。

 こうした恥知らずの一面が、やがて恋愛に始まった結婚に、暗い翳
(かげ)りを投げ掛け、娼婦以下の地獄へと叩き落されるのである。
 娼婦だって、自分一人の衣食住は、自分の力で賄
(まかな)っている。ところが結婚に憧れ、恋愛遊戯に走り、その結果得た結婚が、実はその結婚の側面に、「破局」と云う事態が、大きな口を開けて待っていることを、多くの女性は知ることもなく、安易に、結婚に逸(はや)るのである。そして自称恋愛に始まった結婚は、その後、主婦として夫に、“おんぶ”に“だっこ”の地獄絵へと変貌して行くのである。



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