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合気之術 4

自然に逆らうか、任すかで、その後の因縁も違ってくる。任せば、大気中にも浮力が働き、逆らえば沈む力に圧倒される。


●吊り合う「合力」

 兵法(ひょうほう)の道では、太刀を自在に遣い熟(こな)せる者を「兵法者(ひょうほう‐もの)」という。
 一方、弓を能
(よ)く射る者のことを「射手(いて)」といい、鉄砲をうまく撃つ者を「鉄砲打ち」といい、槍を巧みに遣(つか)う者を、「槍使い」といい、薙刀をよく遣う者を「薙刀使い」といった。ところが、太刀をよく遣う者を、「太刀使い」とはいわない。こうした者は、「兵法者」と称され、兵法を代表する者として時代を反映した。

 これは太刀をよく遣う、「太刀の徳」によって、自分自身を修め、また、世の中も治める事が出来ることから、その徳を以て、兵法者と称されたのである。

 太刀の徳とは、太刀を本当に会得すれば、一人でも十人でも相手にできると言うことを意味し、一人で数人を倒す事が出来る実力者を指すのである。
 一人で十人倒すことが出来る者は、一人で百人でも千人でも倒せると言う、その武芸の徳を以て、これを「兵法者」と称するのである。

 この、太刀使いの背景には、単に太刀をよく遣うと言うことだけではなく、武士としての心得るべき法を会得し、総ての兵法に通じるという「畏敬の念」が込められている。
 したがって、多数捕りは二刀剣を主体にした戦闘理論が展開され、二刀を以てこれを巧みに活用し、一人で十人の敵と闘う構図を作り、その中で敵を殲滅
(せんめつ)させるのである。

 多数の敵に取り巻かれた時、こうした場合に有効なのは、一刀の太刀や、一刀の刀を両手で握り、こうした不自然な形で敵に対峙することではない。一刀の太刀の場合、自分の延長線上は、自分の腕プラス一刀の太刀の長さだが、二刀の太刀を用いる場合、自分の両腕プラス二刀の太刀の長さとなり、その敵への射程距離はグンと長くなる。
 そして、二刀を用いる場合、左右の手に同じ長さの太刀では、脇指などと異なり、左右の手の、振りのバランスが非常によくなる。

 したがって、合気二刀剣は、左右長さの剣を持ち、これを
「合気二刀流剣」と言うのである。
 一人で十人を相手にする場合、ただ、二刀剣の術者は、ただ、じっとしているだけではない。縦横に動き回る。更に戦闘ステージが野外である場合、これに高低差が加わり、この戦いの場は、「三次元戦闘ステージ」となる。つまり、左右前後、それに高低差が加わって上下となるのである。

 こういう場面に戦いの場が変わった場合、二次元平面でしか稽古をしたことがない、上々稽古の達人も、全くお手上げとなる。更に敵に対して、左右前後ばかりでなく、高低差を利用して常に動いているから、その動きは敵に激しいインパクトを与える。

 一般にテレビで放映される時代劇や、映画の時代劇では、三次元立体場面で高低差を利用するアクションは殆ど見ることができない。これはカメラが二次元平面の上を、横移動しかできない為に、殺陣の活劇を横からしか捉えられない。この為に、アクションは二次元側面からでしか撮影することができない。山あり谷ありの、高低差に富んだ場面は、殆どの場合皆無であり、辛うじて、ヘリコプターなどの空中からの撮影により、少なからずの場面が撮られているだけである。

 しかし、こうした場面も、主役が囲まれないように動き回る場面は殆ど無く、高低差が描き出せない為に、剣の至近距離に入った敵を、右の剣か左の剣で斬ればよいとする肝心なカットは殆どないようだ。
 況して、これが実際の戦闘であれば、縦横に駆け廻り、高低差の上下を利用してなどの、こうした戦闘は、仮に観戦者が居ても、こうした所は見逃してしまうだろう。

 合気之術を会得するまでの合気二刀流剣は、左右が両方、同じように遣えるように鍛錬を積み上げることを教え、これが自在に遣いこなせて、合気之術が完成する。
 つまり、此処には特別な極意とか、秘伝と言うものはなく、熟練者のみが術として利用できる、合気二刀流剣の左右の遣いと、工夫によって会得する、「戦闘の中の冷静さ」が教示されているのである。

 合気之術の教えるところは、伝書に掛れたような「極意」や「秘伝」として書かれた体系的分類ではない。実戦を通じた、一人で十人を相手にする、創意と工夫の重要性を説いている。
 多数の敵と乱闘を交える場合、白兵戦では、まず体験からの教訓が多いに物を言う。実戦体験の無い者は、幾ら巧みな体捌きを屋内の道場内で稽古したところで、これは最後の最後という、白兵戦では殆ど役に立たない。実戦での乱闘は、道場稽古での二人取りや三人取りと訳が違うのである。

 則
(すなわ)ち、体験からの胆力が物を言う。したがって実践を通じて得た胆力がない場合、いかに道場稽古の達人でも、あるいはいかなる高段者でも、実戦にはそれ程役に立たず、また通用するわけでもないのである。こうした実戦での乱闘に勝利を得るには、三次元での戦闘ステージの体験から得た胆力は必要で、その他にも見聞を広めておかねば、勝利は手の届かないものとなる。

 西郷派の戦闘ステージに対する概念は、二次元平面ではなく、三次元立体の上下の高低差がある戦闘理論である。
 スポーツ格闘技は、そこで闘われる試合場の造りは、あらかじめ試合場として整備された、平坦な場所での格闘が前提となっている。

 これに対し、乱闘などが生じるのは、こうした平坦な、試合場として整備された場所ではない。乱闘が起る場合、揺れ動く電車の中、デパートや居酒屋などの人込みの殺到の中、複雑なデザインをしたコンクリートの上、また田舎の砂利道や險しい山路、海岸の砂浜、断崖絶壁の岩場の上、雪の深い寒地などであり、こうした場所は、試合場とは似ても似つかない。そして、注目すべきは、非常に足場が不安定であり、こうした地形にも精通していなければ、幾ら平地の上で戦い慣れた格闘技選手でも、赤子の手を捻られるように敗北することであろう。

 その証拠に、地上最強と豪語する格闘技選手でも、山地の地理事情に精通している、マタギと一緒に山に入れば、僅か2、30分後には、道に捲かれてしまうであろう。
 では、これはどういう事を意味するのか。
 それは、山地では上下の高低差が生じると言うことだ。実は、戦いにはこの高低差が大いにものを言い、「足場」と密接な関係を持っているのである。
 つまり、岩が横たわり、あるいが断崖絶壁の上では、ボクシングなどの格闘技のフットワークとステップは遣えないと言うことである。

 この三次元立体は、また「三次元空間」を作り出している為、必ず空間には、時間が伴うものである。常に、物理的に言って、原子物理学では時間と重感の概念が、同時に派生するとしている為、「四時圏空間」も三次元空間の中に存在することになり、この空間は何処にあるかと言えば、平面上の左右前後は同じ位置の、上下に存在すると言える。

 これが上下に存在しているのであるから、二次元平面を上から見れば、一つの点は、飽くまで一つの点であるが、三次元立体空間から見れば、明らかに一つの点の上に二つ以上のものが重なっていることが分かる。そして、更に時間差を設ければ、同じ上下を持つ位置に、別のものを置いたり、当てたりする事が出来る。

 則ち、これこそ「四次元空間に敵を沈める」ことのできる術理であり、この時間差を利用され、敵が生け捕られることがあれば、次のような状態となる。

西郷派大東流では「剣の素振り」を重要視する。これは「肩」を上下左右に、嘗めらかに動かすことを目的にしている為である。そして、重要なのは肩を縦軸の方向に動かすという事で、上半身の難しい独自の鍛練法が会得できる。
次に肩を縦に動かす上半身の鍛練法に加え、独特な動きをする足頸(あしくび)を回転させるに回転させる下半身の鍛錬をする。これを「躰動法(たいどう‐ほう)」といい、これを行うと下半身にうねりが起る。螺旋形(らせん‐けい)を伴った動きは、一点に集中された力を、集結して「崩し」を行う事が出来る。
合気に懸った相手は、うねりが躰動法によって押し寄せる為、一瞬、肩を前から後ろへと縦に回転させられて、「棒立ち状態」になる。足から、背中に掛けて、筋肉がうねるような体感が派生し、そのうねりは、肩の部分でピタリと止まる。これは肩が浮き上がる状態を作り出し、肩の前の胸部から後ろの背中に掛けて、縦に回転する動きである。
合気は、その秘訣として「合気揚げ」のその極意が隠されている。したがって、この合気揚げは、相手に両手を力一杯掴ませて、術者の上肢だけの動作によって浮かす鍛練法である。これにより、手先の指への集中力が増し、その集中力は、手から臂へ、臂から肩へ、肩から上肢へと移行し、更には胸部、腹部、背後部、体幹部、下肢へと移る。攻め込む目的部位に力を集中し、これが出来れば、如何なる部位にも相手が接触して、自由自在に力を集めることができる。
この力の集中に対し、如何に相手が頑張っても、完全に崩されてしまう。これは手頸、臂、肩の各関節の構造と機能を利用して行う術であるからだ。自己が作り出した集中力を以て、相手の肩と連動した、吾が肩を少し動かすだけで、一瞬にして浮かすことが出来る。この時、相手は「棒立ち状態」になる。
柔術の手解きは、基礎の中の基礎であるが、手解きは相手のから手頸を掴まれた際に、これを抜く業(ざわ)である。特に合気を得るが為に注意をして頂きたいのは、相手が手頸を抜く際に起る、「崩し」の姿勢である。これは崩す側も、崩される側も、「伝搬する」という躰動法による波動を見逃してはならない。
合気揚げは、「肩霊(かただま)の縦」の作用であるから、これを自在に遣う事が出来れば、相手が腕や胸蔵などを掴むといった攻撃に対し、此処を掴むと、相手は一本のロープに吊るされたようになり、宙吊りとなる。
この「宙吊り」は、相手側の意識として、「一本のロープ」に捕まっているのだから、このロープを離すことができない。手を離せば、自ら落下するイメージを描くからだ。したがって、落下を食い止めるには、いつまでもロープを握っていなければならない。これが、合気に懸った場合の「宙吊り状態」であり、これが自在になると、手を触れられただけで、「宙吊り状態」が出現するのである。

 「宙吊り状態」は、吊り合う力の「合力」によるものである。相手に対する「崩し」も、合力を利用したもので、実はこれは「手解き」の中にある、「抜手」を用いる際に生ずる僅かな「崩し」が、合気之術と連動されている。

 しかし、この連動を会得するには、まず躰にうねりを起す「躰動法」を正しく体得しなければならない。躰動法の「躰動」とは、うねりであり、震わせ方を会得する方法として用いられるもので、「手先の集中」により、相手の上肢に働きかける「肩霊の動き」である。

 躰動法を遣うには、足頸
(あしくび)を捻り、肩を意識的に縦から後ろへと伝搬させ、「振動」と「うねり」を起さねばならない。更に前へと回転し、敵の足から背中までを、うねるような躍動感が起らねばならない。しかし、このうねりは肩の部分で止まることが肝心であり、また、肩を回転させる事により起るもので、これは肩を回転させる事により、腕へと「津波(つなみ)」となって伝搬(でんぱん)するものである。
 この伝播が出来れば、「素手」対「素手」でも、「剣」対「素手」でも、「剣」対「剣」でも同じように伝播を疾
(はし)らせることが出来る。



●大気に働く浮力

 古式泳法を識(し)らない者が、流れる川で、腰の辺ま水のある所で転ぶと、なかなか立つことができない。これは泳ぎを識らぬ者も同じで、泳ぎを識らぬ者は溺れることもある。腰が立たず、腰砕けになるからだ。

 何故、こうなるかというと、立とうとする場合に、水を掴んで立とうとするからである。
 こうした場合、物を手で掴もうとする動きは、掴もうとすればするほど焦るものであり、もがけばもがくほど、沈むのである。
 合気之術に掛かり、なかなか起き上がれないと言うのは、掛けられた被験者が「物を掴もうとして焦る」からである。これは自分で墓穴を掘っているようなもので、自滅の方向へ走っていると言うことになる。

 合気に掛かることを阻止するには、まず、掴もうとする焦りをなくすことであり、そのためには、反対に何もせずに、手を開いて伸ばせば、逆の結果が出てくる。
 この逆の結果が、泳法の場合、水に人を浮かす力がある。水に人を浮かす力に、身を任せればいいのである。つまり、「為
(な)すが儘(まま)」だ。そうすれば、自然が人を水に浮かせてくれるのである。

 しかし、人間が合気に掛かると言う現象は、多くは、既に述べたように、腰くらいの水嵩で、川のような流れている水の中では、下半身が不安定になり、不安定から顛倒
(てんとう)した場合、自分の手で、水を掴み、それで立ち上がろうとするからである。水を掴もうと焦り、掴むことを頼りにするからである。これはロープを握って宙吊りになる現象とよく似ている。

 自分の力に頼って立とうとすれば、この場合、何かの「頼り」がいることになる。つまり、自分の力を頼りにする、「支える力」である。頼りになる「支柱」がいることになる。しかし、この支柱は払われれば、自分の頼りになる力は奪われ、結局いつまで経っても、起き上がることができない。
 同じ現象は、ポケットの中に手を突っ込んだまま転けたとして、ポケットから手を出さねば、いつまでも起き上がることができないのと同じである。
 逆に、ポケットから出を出させまいとすれば、合気に掛かった状態となる。

 合気は、自分の焦りが「死角」となり、また何かを掴もうとすることが「盲点」となって、結局自滅した状態を言うのである。これは「他力一乗」を識
(し)らないからだ。「任す」ということを識(し)らないからだ。要するに、「自然でない」からである。自然を離れると、こうした結末を招き、死角に捕えられて、最後は墓穴を掘る。

 合気の鍛錬は、心的には、「任す」という自然の摂理を理解し、「逆らわない」ということを学ばねばならない。
 「任す」とは、つまり「自然に任す」ということであり、ここには人為を取り込まないことである。為
(な)すが儘(まま)にさせ、その間隙を衝いて、相手を自滅に導く。一切の力は、自力を持って抵抗するのではなく、他力一乗を持って臨機応変に変化することである。

 では、「自然に任す」ということはどういうことか。
 「一切を任す」ことができれば、それにより、自分に働く力が加わる。例えば、「縦の動き」などがこれに入る。
 多くの格闘技やスポーツ武道は、「横の動きを自力で闘おう」とするものである。動きを、「床に振り回す」のである。これでは筋力が要るのは必定で、筋力を養成し、スピードを養成しなければならない。これこそ、肉体力を駆使する戦いからである。
 ところが、動きを「横に振り回す動き」から、「縦に動いて、方を上下に回転させる動き」に変えると、これに“自分の力”プラス“重力”が働く。此処にこそ、「自然に任す力で、自分が動く働き」が生じる。

 「術」というものは、自分の力で自分が動くものではない。任す力によって、自分の力が働くのである。
 人生というものは、普段の生活も同様であり、ある一人の人間は“そこに生まれた”ということは、そこに生かすだけの力があるのだ。生かす力が、そこに働いたから、そこに生まれたともいえる。

 人間は、その人生に生まれたということは、産み落とされた時限で、人生に浮かび上がるという反作用的な力が働くようになっている。産み落とされれば、同時に浮き上がる力があるのである。
 つまり、生み落とされたというこおてゃ、「生まれた」ということに、「生きるだけの因縁が働いた」ということなのである。その因縁を、全ての人間は抱えているのである。それは、因縁の方が自分を生かしてくれるのである。「生まれた」ということは、生まれるだけの徳分を持っていたことになる。

 現象界には、生命力という不思議な力が働いている。この生命力が、人を衝き動かしている。その「動き」は、自分の力であくせくするのではなく、「任す」ということで、浮力が働くということだ。浮力が働いているのに、自分で焦って、あくせくすれば、当然浮力も失われ、例えば、ポケットに手を突っ込んだまま転けて、この状態でもがいても浮力が働かないのだから、起き上がれないのは当然である。

 浮力というのは、何も水の中だけに働いているのではないのである。大気中にも、空気に浮く、浮力というものがあり、大気の浮力を利用すれば、起き上がることも可能であり、逆にこれを利用して相手を自滅に追い込み、絡め捕
ることもできるのである。



●「虚」になる大事

 中国の宋の時代、司馬光(しばこう)が著した書物に『資治通鑑(しじつがん)』なるものがある。これによれば、「兵法を持ちうる道」と題して、次のようなことが述べられている。
 「敵強ければ即ち智
(ち)を用い、敵弱ければ則(すなわ)ち勢を用いる。大を以て小を呑むこと、猶(なお)、狼の豚(にく)を食うが如し。治を以て乱に易(か)うること、猶、日の雪を消すが如し」
 つまり、「虚実の教え」を述べているのである。

 物事には、一切に「虚実」がある。「虚」と「実」があるように、そこには陰と陽がある。「実」の部分だけを見せられていては陽ばかりを見ているようなもので、陽の裏には影があり、影は陰を為
(な)すということが分からなくなる。したがって「虚実」を見、「陰陽」を見、その両者に偏(かたよ)らず、然(しか)も「虚」の裏に「実」があり、「実」の裏に「虚」があることを知らなければならない。両者を等しく見ることである。中庸(ちゅうよう)に徹することである。

 一般に、突きと見せかけて蹴りを仕掛け、蹴りと見せかけて突きを仕掛けるなどの、こうした駆け引きは初心者でも出来ることであるが、単に技術的な駆け引きに止まらず、心と心の駆け引きが肝心であり、「虚実の性質」を読み分けることは大事なのである。然
(しか)も何(いず)れかに偏って、中庸を失ってはならない。

 肉の眼で凝視するだけでなく、物事は「心の眼」で凝視することも大事である。「心の眼」で凝視することを忘れれば、安易にこけおどしに敗れてしまう。見掛けで圧倒され、中身の実質を見抜くことを見失ってしまうのである。
 三次元顕界
(げんかい)では、万物は単に物質的関係によって成り立っているように考えがちである。しかし、三次元レベルで物事を判断することは危険である。

 現代の世の中は、依然として三次元世界の「物」に魅
(み)せられ、「物」に圧倒される現象があらゆる箇所で起こっている。しかし、その結果、人類が何処に向かおうとしているのか、容易に想像することが出来よう。
 物に魅せられる世界では、物質的な豊かさを追求した為に、生物の本質を見失い、精神的には退化する一方であるといえよう。この退化する文化思想が、実は西洋物質文明だった。

 豊かさと、便利さと、快適さを追い求めたあまり、現代人は物を追いかけ、物に縋
(すが)る生活を選択したが、実はそれは精神的に空しさの空虚を広げただけではなかったか。物に頼り、物を信じる生き方は何処か、空しくはなかったのか。

 欲の文化を推し進めたのは、紛
(まぎ)れもなく西洋物質文明だった。単なる「実」だけを追い求めた文化だった。表面だけで判断し、心という中身のあることを見落としていたのである。
 それは金銭的に豊かになること。物質面が便利に快適になること。そして、こうした利益と豊かさを追い求めた結果、今日の人類が、その後、どういう結末を迎えるか、想像に難しくないだろう。
 心が失われた結果からの、報
(むく)いを現代人は受けているといえよう。

 今日実が存在し、陰陽が存在し、その事実に何れも偏ることなく、正しく中庸
(ちゅうよう)を保つことが必要であろう。それは、あたかも一本の白扇の中に、「虚」と「実」が存在し、「陰」と「陽」が存在するが如く、臨機応変の開閉が、死する者と、生きる者との明暗を分けているのである。

 『撃刺論』に随
(したが)えば、「敵が強く守らんとすれば、虚実を用いて、破りを作ること」とある。「虚実を用いよ」とは、敵の隙(すき)を誘い出せということである。

 人間の行動律から起る隙は、同時のその人の強さから顕れるものであり、かつ、術者がそれを作り出すものである。自分の強さに溺れる者は、当時に隙だらけである。自分を最強などと豪語する者は、その一方で隙を作っていることになる。
 表皮が立派だから、それは総てが立派なように映るが、実は中身はそうでもない場合が多い。
 しかし、こうした実情を逸
(いち)早く見抜くのは“見識眼”であり、洞察力である。こけおどしに翻弄(ほんろう)されてはならない。 外見の立派な者は、一見守りのガードが堅い。しかし、守りが堅い故に、それが隙でもある。守りの堅い者は、隙を生じさせればよいのである。

 隙を生じさせるとは、強さに秘めた「虚」の一面であり、この「虚」こそ、隙なのである。したがって、「虚」を攻めて、隙を誘えばよいのである。

 更に端的に述べれば、「虚とは何か」といえば、隙であり、「隙とは何か」といえば、駆け引きによって誘い出した「いま撃つことの出来る絶好の機会」なのである。

 さて、この隙を大別すると、まず「心の隙」が挙げられ、次に「形の隙」が挙げられる。したがって、「隙を作るにはどうしたらよいか」ということになるのであるが、隙は、心を崩すことによって顕れ、また、堅い守りで覆われた殻を崩すことによって顕れる。

 形を崩すには、技術を学んでその修練に励み、肉体の崩れる実態を模索すれば、それは掴めようが、心を崩すには、並大抵の修行ではどうすることも出来ない。
 強い人間は、常識的に見て心身ともに鍛えているといわねばならない。特に心身のうちで、心の面の無念無想も同時に鍛えているので、それ以上に優れた心法を学び、心身両面の「術」を研究しなければならない。

 また、静かなる無念無想の境地は、常に静まり返った状態であり、これを突き崩すのは容易でない。そこで心法による「術」が必要となる。その「術」を駆使することで、敵の心を先取りし、せかす、イライラさせる、目障りに思わせる、嫌にさせる、驚かせる、迷わせる、疑わせる、悩ませる、怒らせる、有頂天にさせるなどの術策
(じゅつさく)がある。そして、これらは総て変化を伴うものである。

 心法の中で、「武術の十悪」とされるものは、我慢、我心、貪欲、怒り、懼
(おそ)れ、怪しみ、疑い、迷い、侮(あなど)り、慢心である。いずれも心の本然(ほんねん)を失わせるものとしてこれを戒めているのである。心の姿で、最も「道」に適った心は「平常心」である。しかし、平常心が突き崩されれば、忽(たちま)ち心の本然は突き崩され、変化が起る。

 変化は、緊張の連続を現実化し、この現象の中で弛緩
(しかん)が出来る。この弛緩に乗じて、隙を誘うのである。そして、「いま撃つことが可能な機会」を、撃刺とともにケリをつけるのである。
 まず、その為には「迷わぬこと」あるいは「疑わぬこと」であり、総ては自らの「術」の会得に懸
(か)かるのである。

 既に、古式泳法でその譬
(たと)えを説明したが、泳法でも、その根本をなすところは、自分の力で浮いているということではない。
 この「浮く」という因縁を考えた場合、古式泳法や水泳が出来ない者は、泳いでいる者を見て、泳いでいるから浮いているのだと思い込む。泳げるから、浮くのだと、そう、安易に考えてしまう。

 しかし、そうではない。水野のものに、人間の肉体を浮かす力があるからだ。その力に浮かされて、人間は泳ぐことができるのである。
 もし、人間の人力だけで泳いでいるのなら、2、30分も泳いでいたら息切れし、溺れてしまうだろう。

 人間が泳げるという裏には、未我が人間を浮かす力があるという現象が存在している。つまり、人間が水上を泳げるという現象は、水に浮かされて泳いでいるということになる。
 水に浮く、ということは水に浮かされているということで、水の力に身を任せるから、泳ぐという運動ができるのである。
 これは取りも直さず、人間が因縁に身を任せた時、因縁の力で生かされているのと同様、泳ぐ場合も、水に身を任せれば、浮かされるという現象が心象化現象としておこるのである。因縁の力に浮かされ、生きて人生を泳いでいけるということになる。

 これは自分の力によらないところに秘訣がある。自分の力によらないとは、「虚」であり、「からっぽ」を指すのである。腹積りがないことをいう。自分の力でなく、任せているのだから、「他力一乗」の因縁であり、「虚」が現れるから、それ自体が途切れのない、「行き詰まらない妙法」となるのである。虚とは、腹積りがなく、己がないのである。無心である。無想である。肚の中は、「からっぽ」なのである。



●合気之術は肚構え無し

 腹の中が、いつも虚であることを「肚構え無し」という。
 自分で画策した腹に、何かの肚構えを抱いていると、それを頼りにしていたことが、見込み違いで狂わされることがある。もし、事情が異なり、肚構えと違った奇手
(きて)で、敵が攻め込んできた場合、それに敗れることがある。したがって、本来は腹の中に意念を持たず、我(が)を捨て去ることであろう。はじめからそういうものは消去してしまうのである。腹を、虚にするのである。

 この虚によって、時と場合により、出たところに応じて、こちらが変化して働きを生じさせればいいのである。こうすれば、敵の出方に応じて自由自在に手が出るようになり、行き詰まることはない。この「手」が“奇手”であり、奇手は自由自在に変化する。この変化は、自分の人智から出たものでないから、行き詰まらない。変応自在となる。
 その時、その場で変化するのであるから、こうした局面に、自分の頭に浮かんでくることは、最初から自分の知るところでない。任せていく中に「奇手」の真髄
(しんずい)があり、虚の為(な)せる技である。

 こちらには何も持ってはいない。だから、「腹積り」がないのである。肚構え無しである。ただ、出たとこ勝負の臨機応変さだけが物を言う。
 それはわが打つ手と見えながら、実はわが打つ手、あるいは自分のためにする働きではない。因縁が、運命の必然が打つ手なのである。必然は因縁によって齎される。因縁によって運ばれるのが「運命」である。運命の「運」という文字は、「軍が走る」と書く。軍が走るから凄まじい。その周囲でぼやぼやしていいては、その走る軍の勢いに呑まれて、一命すら落とすことがある。軍が走る運命とは、凄まじいものだ。
 運命は、また「命を運ぶ」という語句からなる。命は、軍が走る凄まじい勢いによって運ばれるのである。この、「運ばれる」という瞬間に、運命の陰陽が起こる。人間はその支配を受ける。陰から至り、やがて陽の極みが訪れ、そして陽は再び陰に変化する。その変化の度に、人間はその陰陽に支配されるのである。

 陰に傾くか、陽に傾くか、それは軍の走り方による。その勢いの凄まじさによる。この凄まじさは自分が起こした旋風ではない。軍が起こした陰陽の旋風である。自分の勘考や肚構えでは、何ら役に立たないし、そうした実を用いれば忽
(たちま)ち軍の走りに呑み込まれ、あえなく最期を遂げることもある。したがって、対局する局面は、「虚」でなければならない。因縁に任せ、虚から出(いづ)る。因縁をして、打たしめるから、それは「虚」なのである。

 武術や武道の根本には、総て「虚」の道に立った妙技である。
 相手の変化に応じて、肚構え無しから出発しているのである。そこに作為など一切存在しないのである。相手が、ああ出たらこういこうとか、こう出たら後は自分がこう躱
(かわ)すなどと一々頭で考えていては、後手に陥ってしまう。その時の最大の欠陥点は、作為があり、作為通りに相手が出てこなかった場合である。その場合、期待外れや予想外れとなり、面食らうばかりか、敵に腹の内を読まれ、その裏を取られてしまう。そして転倒惑乱する。

 命の遣り取りの世界で、転倒惑乱はそのまま自分の命を費やすことに通じる。だから、この愚は避けなければならない。腹積りは自滅の元なのである。「虚」こそ、極意であり、肚構え無しという状態に自己を置くことが大事である。
 敵の出方に応じて、作為で動くのではなく、虚で動く。虚で動けば自由自在となる。突然の敵の変化も変応自在に躱していける。出方に応じて変化し自由自在に動くのであるから、その接点には“粘り”と“柔らかさ”がいる。敵が押してくれば、押してくるままに、その押す力に逆らわず流れていけばいいのである。流れれば、その力を流すことで利用できる。また敵が引いてくれば、引かれるままに引かれていき、敵の引く力を利用して倒すことができる。つまり、これが顛倒
(てんとう)であり、「宙吊り」にして、“柳に風”の状態を作るのである。

 悟道歌に、「風なりに春は雨降る柳かな」とある。
 柳は風の吹くまま、東西南北の孰
(いず)れかに、風の吹くまま流れればいいのである。吹き流れる柳の枝こそ「柔」であり、柳の枝は、まさに「虚」なのである。つまり、肚構え無しなのだ。



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