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合気之術 3


●合気之術の組み立て

 初伝から奥伝までが柔術や合気柔術とすれば、合気之術は「秘伝」に置かれる位置にある。また初伝から奥伝までが三次元業(わざ)とすれば、秘伝は四次元業(わざ)に相当する。これは奥伝を「三十箇条」、秘伝を「五十三箇条」に定め、次の『秘伝奥儀』は「三十六箇条」で奥の院に辿り着く構成になっている。しかし、密教の密儀(みつぎ)が加わるのでその印伝形式は非常に複雑である。

 さて、その中の一部を紹介すると、巧みに経絡業
(けいらく‐わざ)を使い、「当てる」「崩す」「担ぐ」「掛ける」「固める」等の他に、発気若くは発声(真言を用いて)して、敵の「力を抜く」行動を「停止させる」等の業(わざ)が用いられ、古くは「天狗之術」と称された。

 これらの術は「当てる」事を中心に、その当てる際、敵に接近しなくても当身を入れる「天狗の遠吠え
(発勁に似た一種)」等の術があり、また「投げる」事は単に投げ放つのではなく、三次元空間に壁を作り、その壁の中に沈める「沈める技法」である。これを「四次元空間に沈める」という。

 つまり完全に抵抗できない次元に、敵を引き摺
(ず)り込むのである。
 この技法は更に進んで、多数の敵を相手として、敵の心理状態を撹乱して、判断を狂わせ、更に霊的波調まで狂わせる術である。

 敵の霊的波調を狂わせる原理として簡単には、気合い、掛け声、特殊な仕種
(しぐさ)、奇妙な構え、手の動き、足運び等が挙げられるが、これは心理状態に影響を及ぼす初歩的なものであり、合気に用いる霊的波調を狂わせる方法は心理状態だけではなく、個人の脳の中に入り込み、視覚や言霊(ことだま)に影響を与えて幻覚を起こす方法である。

 これらは呪文によって行われ、言霊に影響を与えて、敵の波調を狂わせてしまう。またそれによって敵に隙
(すき)を招かせ、敵の一瞬の狂いに乗じて、頸椎(けいつい)を回転させたり、敵自らが判断を誤るような敗因に導くのである。「神経中枢を狂わす」というのが、合気之術の特徴であり、これは「一刀の剣」及び「二刀の剣」に連動されている。



●二刀の合気

 多数の合気には二刀の乱斜刀が用いられ、多数の敵に対抗することを「多数之位(たすう‐の‐くらい)」あるいは「多敵之位(たてき‐の‐くらい)」という。
 では、多勢に無勢となった時、何故二刀を用いるのか。

 これは武士が、二刀を腰に帯びているからである。古くは、二刀を帯びる得物として、太刀
(たち)や刀(かたな)を越しに帯び、その他にも脇指、鎧通し、短刀などを腰に帯びた。このように本来、武士と言うものはその起源から、江戸末期の武家の崩壊までの期間、腰に二刀を帯びた時代が長かった。

「二刀剣」対「一刀剣」の比較に於いて、左右に武器を持ち片手で遣う動作は、遣い慣れれば、片手でも苦にならないものである。したがって、武器として太刀や刀を考えた場合、これらは片手でも遣えるようになっている。此処に目を付けたのが、「合気二刀流剣」の極意である。

 しかし、敵の一刀を両手に握って、打ち込んで来る剣には凄まじいものがあり、これを跳ね返したり、受け止めたりするのは容易でない。十分な鍛錬をして、片手で一刀を振り回せる伎倆を養わねばならない。二本ある両腕を、一振りの太刀だけを握ったのでは、無駄遣いと言うことなのだ。

 この二刀の効用を悟らせるのは、「二刀剣」であり、「合気二刀剣」であった。そしてこれを悟りにまで導くのが、「合気二刀流剣」である。
 「合気二刀流剣」までに辿り着く粗の路程には、まず、太刀と脇指の組み合わせ等があり、左右の剣の長さは異なっていた。普通、こうした場合に、利き手の右手に太刀を握り、左手に脇指を握る。あるいは左利きの場合この握りが逆になろう。

 つまり、最初は、二刀の組み合わせは太刀と刀、あるいは刀と脇指の組み合わせで、両手に刃物を持ち、敵と闘う訓練が必要とされた。
 人間の心理として、一命を賭
(と)して闘うのであるから、持てる限りの武器を持って闘うのが当然の理屈であろう。

 槍や薙刀などの長物は仕方がないとしても、太刀、刀、脇指、鎧通し、短刀などは何れも片手で扱える武器である。これは馬上は言うに及ばず、走っている時も、沼・泥田・湿地・石畑・嶮
(けわ)しい山路、ジャングル、人込みの中など、何れも両手にこれ等の武器を持って闘いに決して具合の悪いものでjはない。

 また、左右何れかに、弓矢や槍、薙刀などを持っている場合は、利き手に太刀か刀を持ち、反対の手に長物や飛び道具を持っているはずである。こうした場合、どうしても片手で闘わねばならない。したがって、一振りの太刀や刀を、両手で用いるのは甚だ不自然である。

 戦いの戦闘ステージが、平面の道場内であればよいが、三次元戦闘ステージに変わり、これが高低差のある嶮しい山路などになると、両手に太刀や刀を持って闘うと言った事は出来なくなる。
 更に、一刀を持つより、二刀を持った方がいいのは、大勢の敵を相手にしなければならなくなった場合である。「一対多数の戦闘構図」に於いて、一刀より、二刀の方が優れていることは誰の身にも一目瞭然であろう。

 さて、《乱斜刀
(らんしゃ‐とう)》は、二人以上の敵を相手に、同じ長さの大刀を持ち、「外乱射」と「内乱射」を交互に打ち出し、吾はその剣の円心の中で「乱之術」を用いる。

 宮本武蔵の『五輪の書・水之巻』には「多敵の位の事」を上げ、「多敵の位と云ふは、一身に大勢と戦ふ時の事也」という件がある。これには観察力を以て敵を見分け前後何れかを打破する事、左右に太刀を広く使う事、左右の太刀は各々に振り違える事、敵を一重に魚繋ぎに追い廻す心の仕掛けをつくる事、四方に取り囲まれても一方方向に追い廻す事、敵との間合いや間のとり方、拍子を受けて崩す事等が上げられている。

 さて、ここで《多数之位》がどのようなものであるか、先ずは説明しよう。
 一人の人間を攻撃するにしても、攻撃側は各々異なった技量と力量をもっている。手練の中にも足の速い者もいれば、遅い者もいる。技量や力量にも当然差がある。即ち、一斉攻撃のようであって、そうではないのである。

 一度に押し寄せてくる波にも、場所によって若干の「ズレ」というものがある。これをしっかり見切ることを「見切り」という。まさに武蔵の云う観察力を以て敵を見分け、前後何れかを打破する事に通じるのである

 一人に対して多勢で襲い掛る攻撃も、見た眼には一斉攻撃のように見えるが、若干の誤差があるという事である。渦に向かった数人が、一斉に渦には巻き込まれないと同様である。誤差は数人であっても、一回につき接して対応できるのは一人であり、相対対象が渦のようなものであったら、如何に攻撃側と雖
(いえど)も容易に取りつく事は出来ない。
 《多数之位》は、この誤差を以て敵の攻撃に対処するのである。ここでも武蔵の、敵を一重にして数珠つなぎに追い廻す心の仕掛けをつくること、四方に取り囲まれても一方方向に追い回すことの教訓が生きてくる。

 一般に知られている合気道の多人数捕りは、《合気二刀剣》に於ける《多数之位》とは大きく異なるっている。その違いを説明すると、その修練法も去ることながら、技法をかける次元
(時間と場所)が異なっているのである。

 合気道はその術理の中心となすものが、横平面円運動上の高低を含む「転換
(前後左右の平面円運動)」であり、西郷派大東流では、同じ円運動でありながら、「転身(立体球運動)」を行う。「転換」と「転身」は、双方は同じような意味を持ちながらも、その行動に於ては大いに異なっている。

 合気道の転換は「踵
(かかと)での転換」であり、西郷派大東流では「爪先での転身」である。この違いを述べれば、「踵での転換」は足腰が安定する反面、敵の多種多様の攻撃に対して反撃するにあたり、動きが制約され、鈍重になる。それに反して「爪先での転身」は、体重を爪先に預けている関係上、種々の攻撃に対して、軽快に敏捷(びんしょう)に防護する事が出来、仮に敵の第一打を喰(く)らったとしても、致命傷的な損傷は受けない。方向移動も円滑に行われ、腰の切れが良いというのが特長である。

 しかし、《多数之位》を会得くするには、充分な剣の術理の熟知が必要であり、特に二刀剣の修練は《合気》を行う上で必要不可欠なものとなる。
 次に二次業
(にじ‐わざ)と三次業(さんじ‐わざ)の説明に入る事にしよう。
 意地と意地がぶつかり合い、力と力がぶつかり合うのが武術の世界である。勝者は英雄と持て囃され、敗者は無残に今までの地位を追われる事になる。

 武道評論家達は、勝者の、その勝因を科学的に証明しようとするし、敗者はその敗因が何処にあったかその究明を試みる。しかし武術と謂われるものは、個々の今までの培った修練を総括したもので、枝葉末節な局所の究明では全貌を解明する事は出来ない。

 さて、武術というものには、各々に次元というものがあり、次元が異なればそこで使われるエネルギーは当然異なるものを使わなければならなくなる。

 これを上げると二次元的なスポーツ武道、三次元的な実戦武道、四次元的な気界
(厳密的に云えば、霊界や神界の異次元パワー)のエネルギーを使う、次元の異なった古武術に区別される。従って各々は次元の違いで、形式も、形態も、その修行法すらも異なってくるのだ。

 二次元的な平面上を活動範囲とするスポーツ武道は、主に点から点への移動であり、それを上から覗けばその行動線は直線であったり、腕や脚を振り回す範囲の半円形を描くものであったりしているが、それを側面から眺めると平面的な面の展開で、それには厚みや幅といった空間が無くがなく、単にスピードと力のぶつけ合いが中心となる。

 また三次元的な空間行動線を主体とする実戦武道は、側面から眺めると、それには厚みや幅の空間があり、行動線には常に螺旋的
(らせん‐てき)な動きが伴う。動きは複雑であり、早い遅いが加わって、高低の落差が大きい。そして球形を成す立体感がある。
      
 四次元以上の気界のエネルギーを使う古武術は、種々の行法が付随している為、専ら筋力トレーニングよりは、呼吸法や丹田養成法や精神修養が中心であり、それに集中力や霊的行法を用いて、心・技・体の《三位一体》を霊的に駆使する玄気を用いる。


 この動きの構造は一人の敵に対して行うものもあるが、応用業は二人以上の複数の敵を相手にし、巨大なエネルギーを発する《玄法(げんぽう)》が原則となっている。そして「四次元空間に沈める」という、気界の異次元エネルギーを使うのである。
 武蔵は「多敵之位の事」の最後に、「一人の敵も十二十の敵も心易き事也。能々
(よくよく)稽古して吟味(ぎんみ)有るべき物也」と締めくくっている。

 さて、二刀の合気にはその基本技として、一刀による「一対一之剣」「一対二之剣」があり、その体得が熟した後、次の段階の二刀の合気を踏む。



●大東流合気之術は太子流と似通った側面を持つ

 太子流の戦闘思想の中には、多勢に無勢の大集団の軍を、軍法によって敗る秘策が存在しているという事である。この思想は、大東流の『多数捕り』や『多敵之位』の戦法に相通じるものがある。大東流は、太子流の軍法が充分に加味されていると言う事が分かる。

 そして、大東流伝説の「清和天皇第六皇子貞純親王」の流祖なる説までも、非常に似通った歴史観を持っている。太子流が「清和天皇第四皇子貞元親王の子・滋野幸恒の第三子・三郎重俊からはじまり、……云々」と、挙げるところなどは極めて酷似する内容である。

 以上二つを、歴史的に観て行くと、「清和天皇」と言う皇胤
(こういん)を誘導しようとする痕跡の跡が見られる。そして伝説は、皇胤に結び付ける事により、その素性を天皇の血統、または、その血統の流れとして、皇裔(こうえい)がそれを受け継いでいるとする意図的な働きが背後に浮かび上がって来るのである。

 したがって、大東流の「清和天皇第六皇子貞純親王の流祖説」ならびに「新羅三郎源義光
(しいら‐さぶろう‐みなもと‐の‐よしみつ)の大東の館伝説」は、皇胤(こういん)への意図的な誘導があるものと思われる。しかし、断っておくが、流派の歴史観と儀法は別問題であり、技が卓(す)ぐれている事と、歴史を古く見せ掛け、皇胤に繋(つな)がるとする流派の意図的な誘導は、決して同じものではない。技の素晴らしさは、皇胤にあるのではない。そんなものは、無くても凄いものは凄い。皇胤とツーショットでなければ、凄さを現せないのなら、それはその流派の技法に自信がないからだ。

 さて、『多数捕り』や『多敵之位』は、近代戦的発想の中から生まれている。
 一人の術者が複数の敵と戦い、これを敗ると言う発想は源平時代の戦法には存在しなかったし、名のある武将は一騎討ちを好んだ。一騎討ちを当時は美徳と考えていたのであるから、当然攻める側も、一対一を潔
(いさぎ)よしとしたはずである。
 日本人が集団戦法を歴史の中で初めて学ぶのは、二回の「元冦
(げんこう)の役」に於てである。

 元冦の役は、鎌倉時代、元の軍隊が日本に来襲した事件であり、日本では「蒙古襲来」という名で知られている。元
(げん)のフビライは日本の入貢(外国からの使者が貢物をもって入朝すること)を求めたが鎌倉幕府に拒否され、1274年文永11年)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、1281年(弘安4年)にも再び范文虎(えん‐ぶんこ)らの兵十万を送ったが、二度とも大風が起って元艦の沈没するものが多かった。そして鎌倉幕府もこれにより財政難に陥って、傾きはじめる。

 しかし「蒙古襲来」で日本人が見たのは、集団戦法であった。これは複数人が集団となって行う一人の強者に立ち向かう戦法である。これを機に日本人の戦い方に対する意識が変わる。

 集団戦法の戦闘が展開されると、この戦闘構図はどうしても、「一対多数」になる局面が必ず生じる。そこで「一対多数でも戦える状態」を作らなければならない。つまり、敵が一人でも、多数でも同じであると言う状態の事である。



●戦いとは、一人の弱者をよって集って袋叩きにする事だ

 スポーツの世界では、一対一が原則である。競技にルールがあるだけではなく、ルール違反は許されないと言う原則に守られている。一人を大勢で叩くことは許されない。それは、大勢での袋叩きが「卑怯(ひきょう)」に映るからだ。
 しかし、現実には、一人の弱者を大勢で袋叩きにするのが、人間の世の中で、一方的に袋叩きにされたくなければ、これに抗
(あらが)う術を心得ておかねばならない。

 本当の戦いと言うのは、リングの上や畳の上で遣るものではない。また、観客がいて、傍で声援を送ってくれるものでもない。したがってフェア・プレーも存在しない。

 多数之位において、機先を制する為の「先制攻撃」は大事である。先制攻撃こそ、勝機を決定する鍵となり、これが合気之術では、「影の当身」となる。
 「影の当身」とは、見えない死角から、単に当身を繰り出すだけではなく、一番有効な急所を狙って、ここに「影の当身」を叩き込むことである。

 昨今はスポーツ格闘技で見落としている、最も有効な極め手がある。それは急所を狙って叩き込む、「穴」に向けての「影の当身」である。

 人間には、上から順に頭には眼の「眼窩
(がんか)」、鼻の「鼻腔(びこう)」、「口」、「耳の穴」と四箇所の穴がある。この穴は極めて外部からの攻撃に弱く、また、鍛えようがない。次に下半身に至れば、肛門と尿道に穴が空いている。

 更に順を負えば、「四タマ」と言うものがあり、頭、目玉、咽喉
(のど)タマ、金タマの四つがあり、特に弱者でも有効な目玉は、幼児の指一本でも、此処を叩かれれば相当な痛みを感じる。
 現代格闘技では、眼や急所に対する攻撃は禁止されている。しかし、相手を確実に倒すという戦闘思想からは最も有効な攻撃法である。確実に目的を達し、実戦術としては、大いに有効である。実戦術は生き残りを賭
(か)けて戦うものである。

 つまり、戦場での生き残りを賭けた白兵戦では、敵からの攻撃を喰
(く)わない為に、まず、敵の戦意を失わせ、行動力を奪うことが最優先課題となる。その為には、不意打ちも有効であるし、見えない死角から、「影の当身」を繰り出すことも有効であろう。

 戦闘において、自分が敵より有利に立つ為には、まず、敵の視力を奪うことが有効な手段となる。
 もし、自分はか弱き女性で、自分に襲ってくる相手が、飢えた野獣のような屈強な男で、然も、周囲には誰も助けを求められるものがいないとしたら、眼への攻撃は卑怯などとはいっていられない。もしそんな状態に置かれ、こに危険から離脱する為には、顔面の「穴」に向けての攻撃も有効になるだろうし、また、「影の当身」も有効であろう。
 この当身は“死角を利用した当身”である。肉の眼の弱点を衝
(つ)く。弱点は「虚」を衝いた当身である。
 とにかく、急所への当身により、敵の攻撃を弱めておくと言う事が大事である。

 多数之位の行動原理は、「適の攻撃力を弱め」次に「戦意を失わせる」ことである。その為には、縦横に動き回ることが肝心であり、敵が三人ならば、正三角形を造り、三角形の裡側
(うちがわ)の「重心点」に吾(わ)が身を置くことである。また、四人でも、五人でも、常に吾が身を重心点に置き、動き回る際、自分がこの重心点から外れないことである。

 重心点は、物体の各部分に働く重力の合力が作用すると考えられる点のことであり、物理的には、「質量中心」あるいは「重力中心」と謂
(い)われる「要(かなめ)となる点」である。
 人間の行動原理の中で、吾が身を常に重心点に置けば、敵を対頂角においた場合、各頂点と対辺の中点とを結ぶ線分の交点は、均衡を得て「吊り合う」ことになる。バランスが崩れないのである。それはここに「合力」が派生するからである。

 多数之位は、取り囲まれた敵を、重心点の対頂角において、吊り合う「合力」を派生させる行動原理を謂
(い)うのである。この吊り合う「合力」を利用すれば、敵が一人でも多数でも、一人を相手にしているのと同じになる。



●捨身になれば生き返る

 意識は、心の中で描いたもの、あるいは心が掴んだものということになる。したがって、意念ということであり、「念」が生じて動いたものである。念を生じさせれば、常に心は揺らぐ。揺らぐものは「有」であって「無」ではない。「わたしくが有る」ことだ。無私ではない。したがって、無私でないものに「虚」は生まれない。「からっぽ」に出来ない。

 悟道歌には「身を捨てて浮かぶ瀬もあり」と説かれている。これは捨身を現わしている。しかし、捨身は「身を生かすための一つの手段」に過ぎない。それだけでは真の捨身になりきれない。本当の捨身ではない。腹積りがあるからだ。意識のある捨身、作為のある捨身は、却
(かえ)ってそうした捨身を行うと、本当に身を捨てて死んでしまう。浮かぶ瀬などはない。身を捨てただけでは、本当の捨身にはならない。それは思惑があり、意図があるからだ。相手を倒してやろうとする意念が働くからだ。意念の働いたものは作為であり、「意」で動いたことになる。意で動いたものは、総て腹積りである。腹に思ったことが、形に現れたに過ぎない。

 真の捨身は、自分の意識に捨身であるという「念」すらない。思いはないのだ。そうした意識は最初から持たないのが捨身である。真の捨身は因縁に任せきったところからはじまる。本来ならば「任せた」という意識すらないのである。意識すらないのが、本当の捨身であり、救われたいとか、生き残りたいとか、勝ちたいという意識も、一切何も存在しない、「無私」から起こる捨身によって、これが超越した“真の捨身”になるのである。
 「虚」という戦闘思想は、頭の中が思考で一杯であってはなにもならない。“出たとこ勝負”こそ、「虚」の原理であり、自由な働きに吾が身を任せることをいう。一切を任せることをいう。

 人間は眼で物を見て、それを信じようとする。見ない“物”や、見えない“物”は信じない。しかし本当の「真実」というのは眼に見えるものではない。最初から、眼に見えるものは「物」なのだ。人生の働きや、生命の作用というのは本来眼に見えないものである。

 眼に見えていれば、それはどこまでも「私」とあなた、あるいは対峙
(たいじ)した敵ということになる。吾と敵は二個である。つまり「二つの物」ということになる。
 物としての私と、対峙した敵は本来自他であり、二個の存在ということになる。ところが例えば、話し合っている時や、雌雄
(しゆう)を決するために命の遣(や)り取りをしている時は、その「働き」や「動き」の中で、一つに結ばれていることになる。これが合気でいう「一つになる」である。
 この働きが、「生」の世界の真理であり、この状態は実際には眼で見ることができない。一つになっているということは、眼に見えない。物として認識されないということだ。見ることのできるのは物である。眼で見て、二つ存在するだけのことであり、一つになり、一体になっていることは肉の眼では確認できない。

 それは「眼」が、物を見るためにだけあるからだ。更に、眼は裡側に向かって見えるのではなく、外に向かって開けている。眼で見るものは、総て「物」であり、真理を見ているわけではない。「個」の世界のものだけしか眼には映らない。

 したがって、「眼」の世界を超える必要がある。こうした肉の眼を捨てたところに、本来の捨身はある。肉の眼の働きに邪魔されていては、捨身の威力は半減するのである。
 半減した力では、敵を倒すことができない。だから個体の世界から離れなければならない。物の世界から離れ、裡側の内在した力を使わなければならない。内在した力は、現象が眼に見えない。意念を働かせて動かすものでないからだ。あくまで身を捨てるということを自然のままに、自然の姿に、作為を一切捨てた中にある。

 そうすることにより、一つの働きに結ばれて、敵と私は一体のなるのである。この一体を現わした姿こそ「巴
(ともえ)」なのである。「巴」こそ、捨身の姿である。
 捨身の姿は、横に振り回す力でない。「縦に回転させる力」である。縦に回転させるというのは、自然に従うことである。水が上から下に流れるように、自然のままの動きであり、また働きである。

 一方「横に振り回す力」は、作為であり、腕力である。横に振り回しただけでは、球体にならない。ただの平円である。平円回転では、平面であり、所詮球体の敵ではない。そして横に動くものは、最初から敵を倒してやろうという作為がある。
 作為のあるものは、作為によって動かされ、その行動原理は思惑によって動いているものである。つまり、腹積りがその人間を動かしていることになる。腹積りで動くものは、所詮
(しょせん)腹積りでしかない。意念で動いているのである。これは意図的である。意図的な誘導は、無念の誘導にはかなわない。意念と無念のどちらが勝るかというと、当然無念の方が次元も上だから、意念の相手ではない。

 意念を用いないところに無念が生じ、この生じた働きが「巴」である。巴は、「玉」を現わす。これは平面ではなく、立体である。縦に動くものは上下の高低が生ずるから、玉をなす。「玉」とは、また霊
(たま)でもある。霊こそ、深層心理にあるもので、本来見えないものである。

捨身を現わす「巴」の構図。

 人間という生き物は、物質世界で見る「物」と、眼に見えない不可視世界の「霊(たま)」とで構成されている。物では、真相は見えない。心の動きは読めない。
 例えば、仏像には肉の二つの眼の他に、額に、もう一つの眼が「縦」についている。眼がもう一つついているということは、単に“三つ目”ということではない。もう一つの眼が「縦についている」ということが肝心なのだ。縦についているとは、物を単に平面に見ようとするのではなく、その奥の深層心理までをも立体に見ようとする働きによるものである。

 肉の眼は、「物」を見る眼である。物を見る眼だけでは、真相に隠されたものは見えてこない。物事との真相に迫るには、もう一つの「縦に検
(み)る」もう一つの眼がいる。物事を縦に検討して、その深層部を探る眼である。

 この眼を養わない限り、肉の眼でしか物事は見えなくなり、縦に検
(み)る、そうした立体把握ができなくなる。三次元顕界は、二次元平面と異なり、玉としての構成になっている。玉の状態を、肉の、平面でしか把握できない眼で見ていても、見えるものは物である。物だけを肉の眼で見て、それ以上何も見えないことになる。肉の眼では、形を持って現れたものだけを捉えていることになる。姿を現しているものだけを把握しているのである。したがって、これらのものは、「物」なのである。

 一個、二個と数えられる物なのである。物体なのである。現実世界は、“数”の世界である。数える、あるいは計るという、個々のものを数の世界で現す次元からなっている。しかし、この次元では、物しか見えないのである。深層部が見通せないのである。
 真相は、真実なるものは、つまり物を超越した世界に存在する。この世界を「無量」とか「無辺」と呼ぶのである。更に「不可計」とか「不可数」などといって表現されるものである。

 この世の中に見える、怒るのも、恨むのも、みな「物」の現れである。個々の集まったものである。「形」が現れ、物体としての個体が、吾となったり敵となったりするのである。それを自他の眼で見ているだけである。自他の眼を離れて、人間が一体になり、その中で回転する構図こそ「巴」なのである。一体となるところ、万物のそれぞれの心があり、この心において一つに結ばれる動きが、即ち、捨身なのである。
 したがって、捨身は同じ転がるにしても、無私になって、無念になって巻き込んだ方が、敵を葬り去る威力は大きくなる。これは腹積りがないからである。二つが一つになり、一体になった「肚構え無し」から起こる働きである。



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