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合気之術 2


●握力と合気揚げの関係

 最近は気功などのブームで、「力無用論」が罷(まか)り通っている。また中国拳法における「発勁(はっけい)なども、これに準ずる理論を上げている。そして、その中心課題は「力の無用論」だ。
 果たして、力は無用なのだろうか。筋力やスピードを失って、体躯養成は可能だろうか。
 ここに「力無用論」のウソがある。

 力の無用論を説く多くの指導者は、実戦に直面した場合、果たしてその行動は如何に……。
 あるいは自分の道場生に対して、あれだこれだと「気の理論」を説くように、「気」を説明する魔法の舌と理論を論
(あげつら)うように実戦に対処するのだろうか。
 気を空気中に伝搬
(でんぱん)させることは難しい。
 それはこの現象界が、「接触」を媒介として、力が伝搬されるようになっているからである。つまり、接触点があって初めて物理現象を起こす構造になっているからである。したがって、気を物理現象として伝搬させることは、極めて難しいことといわねばならない。

 それは搬送波と関係がある。大気中を伝わる波は、情報を含む低周波信号電流によって変調され、これを搬送する高周波電流である。これを気として搬送させるにはかなりの難題があり、これ一つで、物理現象を起こすのは難しい。しかし、こうした「気」の搬送を信じるマニアも少なくない。殆ど、新興宗教の教祖を信じる如くのマニヤやオタクがいる。

 本来の気の伝搬とは、接触して初めてそれは伝搬される。伝搬の場合に、術者の手から出た気が、大気を媒介して、相手に伝え、それで相手に影響を与えるということは、かなりの難題である。気は感じるものではあるが、気を伝え、それによって物理現象を起こすということは極めて難しい課題である。したがって、この手は、発信する者と、受信する者とが協力関係にない場合、それは伝搬し、受信することはできない。敵対関係では、殆ど無効なのである。

 さて、合気揚げは相手の掴
(つか)む手と腕を揚げてこそ、はじめてその価値観を見い出すものである。
 これは、狎
(な)れ合いの約束稽古の中からは、決して生まれて来ない事実である。日夜心血を注いで、稽古を重ねてこそ、はじめて出来るものである。

 さて合気揚げは、単に力を用いず、気だけで揚げると言うものではない。合気揚げを会得するには、まず握力の養成をしなければならない。充分に握力を鍛える事だ。
 握力を鍛えると言う事は、筋肉を養成する事ではなく、人間の本能的な「物を握る」「物を掴む」という生存本能に由来するものである。

 物を掴んだり、物を握れない者は、やがて自らの命すら掴む事が出来なくなる。みすみす掴めるはずの自分の命すら取り逃がしてしまい、ついには病気や事故で倒れるのである。

 また、「握力が強い」と言う事は、いったい何を意味するのか。
 それは「腕っぷしが強い」と言う事であり、馬を馭
(ぎょ)す場合に「腕(かいな)を返す」と言う技術がある。

 つまり力の強力な敵に対し、腕を返す事が出来るのである。腕を返す、という語源は相撲でも遣
(つか)われる。相撲で、相手の脇の下に差し入れた腕の肘(ひじ)を上へ上げ、相手にまわしを取らせないようにする動作だ。
 そしてこれは、握力がものを言い、握力によって自分の体勢を防御するという事である。

 一方、握力の弱い者は、自らの体勢を守る事すら出来ず、相手の言い成りにされてしまう、心の弱さを持っている。心が弱いと言う事は、握力もまた弱いと言う事であり、物を掴もうとする生存本能が弱いと言う事でもある。

 一般に合気系の武術や中国北派系の拳法は、各々に共通点があり、「力は無用である」と信じられている。しかしこれは大きな誤りである。
 人間の戦いに、力が無用等と言う愚かしい考え方は、やがては我が身を滅ぼす元凶となる。力の無い人間の辿
(たど)る末路は、我が身の崩壊である。
 病気すら、力の無い人間に襲って来る現象である。

 では、なぜ病気に罹
(かか)るか。
 それは体力がないからである。体力がなければ、病気を招き寄せるばかりでなく、病原菌が忍び寄って来てもそれを跳ね返す事が出来ない。したがって最後は病気で我が身を滅ぼしてしまう。
 事故にしてもそうである。



●力の無い人間は病原菌やウイルスに感染し易い

 我が身に迫る危機を事前に察知できないような鈍感な人間は、霊的感覚【註】勘や近未来予知)も曇らされているので、やがては事故の圏内に取り込まれ、最後は交通事故や犯罪に巻き込まれて、我が身を滅ぼす事になる。こうした不幸現象に遭遇するのは、つまり能力不足で、結局は「力がない為」である。

 力なき者は滅ぶ。これは人間界の掟
(おきて)あり、人生の常だ。
 力なき者は、絶好のチャンスも取り逃がすし、チャンスは訪れて来ても、これに素直に耳を傾ける事が出来ない。幸運の女神は何時
(いつ)でも耳許(みみもと)で囁(ささや)いているのである。

 しかし、これを素直に聞き言える能力の無い者は、こうした幸運の女神の微
(かす)かな囁きも聞き取る事が出来ないのである。そしてついには聞き逃し、やがては知らず知らずのうちに虎口(こぐち)に近付き、我が身を滅ぼしてしまうのである。

 また力なき者は、天地の人間
(じんかん)の中にあって、天も地も自分の味方につける事が出来ない。
 人間の戦いは、霊的ならびに、現世の一切合切の現象を合わせた総合戦力が、ものを言う世界であり、単に自分一人の努力だけでは絶対に勝つ事が出来ない。

 「勝てると言う事」あるいは「負けないと言う事」は、天も地も自分の味方につけると言う事であり、「我」
/自我の欲望を指す)によって、独断と偏見から導きだされるものではない。人間の力など高が知れているのである。常に総合戦力がものを言うのである。こうした総合的な力が働いた時、圧倒的優勢の敵に対して勝つ事が出来るのである。あるいは勝つ事は無理にしても、負けない境地で、我が身だけは滅ぼさずに済むのである。

 人間の世は、何時
(いつ)の時代でも「砂上の楼閣(ろうかく)」的な繁栄の上に成り立った幻(まぼろし)の世界である。肉の目で見える華々しい繁栄の世界を、未来永劫まで続く現象と捉え、これに浸り切ろうとする。しかし中身は、砂上の楼閣である事を忘れてはならない。この砂上の楼閣の上に浸り切っていると言うのが、資本主義経済の偽わざる姿であり、やがては滅ぶものなのである。

 またこの世界では、いつ発生するかも知れない災難が待ち構えていて、現代人を虎口に引き寄せる落とし穴を持っている。こうした落とし穴に墜
(お)ちない為には、まず自分自身を鍛える事であり、心も躰(からだ)も常に怠らず鍛えておかなければならない。

 しかしこうした「力の養成」をするのにアスレチック・ジムやスポーツ・トレーニングセンターなどに一々通う必要はない。自宅でも、通勤・通学途中でも、何処でも、簡単に養成できるのが握力の養成であり、この握力を養成する事が、実は我が身を護
(まも)る強力な力となるのである。
 合気揚げは、実に握力の養成によって完成する総合戦力の要
(かなめ)であり、逆に言えば、握力の無い者は、合気揚げをいつまで経(た)っても完成させる事が出来ないという事である。

 それは我が身を護る時の、ぶら下がるロープを想像してもらえれば容易に想像がつこう。
 偶発的に何等かの異変が起り、高い処にから、低い処
(ところ)へと逃れる場合、ロープ等を伝わって危険な箇所から脱出を図らねばならない事もある。

 例えば、猛火の高層ビルの火事に遭遇したとしよう。猛火のビルから脱出する為には、ロープ等を伝わって此処から脱出する以外ない。ロープがなければ、それに代わる代用品を探し、これが最後の命綱
(いのち‐づな)になるのである。
 この時、ロープ等に捕まって降下すると言う事は、最終的には握力がものを言う。しかしこれは簡単に、誰にでも出来る業
(わざ)ではない。むしろ離れ業に近く、不可能ではないかと考えるだろう。

 しかしこれが不可能ではない。要するに握力を鍛える事だ。
 握力の場合に目安になるのは、「体重の80%」と言う数字が非常に大事である。この数字は、例えば、体重が75kgとすれば、この体重の80%であるから、60kg程の握力が必要になる。これが自分自身を護りうる最低限度の握力となる。そしてこの握力がなければ、我が命は滅するのである。
 握力の養成は、実に簡単に出来る。しかし、あまりの簡単さゆえに、これを怠ると言うのが人間の本性のようだ。

 さて、握力のトレーニング法は、要するに指を開いたり、握ったりする運動である。最も基本的な運動であり、歩く事より更に簡単である。
 まず、最初は何も握らずに指の開閉を行う運動である。これを毎日朝晩、最初は五百回程度からはじめ、徐々に回数を増やし、千回、二千回、三千回と回数を重ねる。そして一万回程、難無く開閉が出来るようになると、今度はハンドグ・リップを遣って、握力の養成を図るのである。

 握力の養成については、この手順を間違ってはならない。
 握力を養成しようとする場合、多くはハンド・グリップをいきなり握ってこれを養成しようとするが、これは誤りであり、また長続きしない。まず最初は、何も握らずに、指の開閉だけを行う。そして徐々に回数を増やし、最低でも一万回程、早いスピードでこれを行わなければならない。その目安は最低でも、百回行うのに一分以内で行うのが正しく、徐々に指の開閉速度を速めるのである。
 最初は腕に筋肉痛等が起るが、回数を重ね、日を重ねるごとに馴れて来て、千回行うのに5〜6分程度となるであろう。

 これは何処でも出来る事であり、通勤・通学途中の電車やバスの中でも、また慣れれば、車を運転しながら、ハンドルを握った状態で、指の開閉は容易であろう。
 こうして、指の開閉を行いつつ、一万回の完成に向かって、根気よく続ける事だ。
 そして、一万回を達成する事ができれば、次にハンドグリップを握って、握力の養成に入る。



●合気には構えが無い

 わが西郷派大東流では、「構えありて構え無し」と教える。したがって、構え方を重視するのは間違いである。敵と対峙し、これに対して構え方を重視するのは間違った考え方である。

 本来構えとは、敵が居ない場合に構えるものである。また、物事の構えと言うのは、動かされぬ場合のみに用いられる言葉である。
 例えば、「城構え」や「陣構え」という言葉がある。この「構え」は相手にけしかけられても、じっとして動かぬ状態を言う。

 しかし、武術・兵法というものは、これが命を遣り取りする勝負である以上、何事も構えるばかりでなく、先手と取り、先手を取ることのより、勝因の活路が見出せるものである。したがって、構えと言うものは、敵から仕掛けられる状態を「待つ」ものであり、待つものに勝因の期待はあまり持たれない。

 一般に護身術や合気道の掛けての守りは「待つ」ものと信じられている。しかし、相手が攻撃に出て動いた時には、これに合わせて受けよう等と思えば、総
(すべ)て出遅れてしまう。相手が動きに出てから動いても遅いのである。それ以前に敵の動きを察知し、攻撃する場所を予め予測し、それを「想念固め」して、これを意識した上で、ゆめゆめ疑わないことである。

 かつては想念固めを古人の諌言
(はくげん)を借りて、「夢想」などともいい、また「ムソウ」は、「無想」の文字も充(あ)てられた。
 「無想」は、一切の想念を無くすこと言い、また心に、何も思わないことを意味した。これは無念無想と云う言葉で明白となる。

 一方、「夢想」は、一般的に言えば、夢に見ることであり、更に深く入り込めば、の中に神仏の示現のあることを指し、夢に神仏の示現
(じげん)を受け、悟って作ったという剣を、「夢想剣」などとも謂(い)った。この名人に、近世杖術の神道夢想流の祖・夢想権之助勝吉(かつよし)が居た事は有名である。

 こうした「夢想」は、一見「無想」と隔たりがあるように思うが、敵から仕掛けれられ動かぬ態
(さま)は同じである。それは双方とも、「想い」によって、想いをなくし、想いのないところに、形や構えが無いからである。

 敵の構えを動揺させ、敵の思いも拠
(よ)らぬことを、こちらから仕掛けて敵を狼狽(うろた)えさせ、脅(おど)かし、竦(すく)ませ、敵を動顛(どうてん)させて、混乱に導くなどの行動律は、実はこれと謂(い)った構えがないところから発している。
 勝ちを得る為には、構えなどと言う後手の動作と作
(な)るもの要らないのである。したがって、「構えありて、構え無し」というのが、そもそもの西郷派合気の「無構え」とするところである。

片手・正眼(せいがん)である術者(向かって右)は、次の体勢に変化する形を取る。そして、合気剣に至る為の、足の螺旋(らせん)の「うねり」と「捻り」を準備する。
影に構えた術者は、八相に転じて「想念固め」で「先」をとる。此処では、心の描いたことは必ず具現すると言う、心像化現象を巧みに利用し、「想念固め」をする。一旦、術者は足の捻りの螺旋の躰動法により、膝に腰の捻りを伝える八相構えをとる。そしてこの捻りが増幅された時、「想念固め」で、撃ち込みの刹那(せつな)の拍子を作る。
左半身で誘い、惹(ひ)き付けを行う。これは「想念固め」での誘いであり、「観(かん)」と「見(けん)」によって、行動過程を予見することである。そして「拍子」が充分に生きていなければならない。
この惹き付けに乗せて、深く入り込ませ、「想念固め」によって抜けることを描く。これは眼で追い掛けるのではなく、敵の太刀に眼を付け、迷う事なく「抜け」への動作の企てを完了する。
 術者は拍子を以て敵の剣を受け、その受けた剣の拍子は、増幅された膝と腰の「うねり」によって、まず、背中へと伝えられる。次に背中を経由して、腕に至り、剣を握る拳に至り、更には剣そのものに伝搬されて、うねりが「跳ねる」のである。
敵が打ち込んで来た刹那(せつな)、相打ちの剣を仕掛ける。抜き胴の要領で「手頸の返し」【註】手頸の返しに口伝あり)を遣って、斬り抜け、一気に敵の首を刎(は)ねる。この一連の動作を、「想念固め」により、最初から作っておく。この場合、「目付」を肉の眼で追っても遅く、目付は肉の眼で追て、その一箇所だけになり、全体像が見えない欠点がある。したがって敵の心の軽重を、全体像で推し量るのである。
 また、下肢から発した「うねり」と「捻り」は上肢へと移行され、それが伝搬されて合気剣を作るのである。

 「無構え」ということは、その下地として、「想念固め」が確立されているからである。頭の中で、敵の動きを一々眼で追い、その眼に見える結果から、どう動けば有利に展開できるか、こうした考えに立って動いていては後手となる。また、こうした場合の情報材料になるのは、「目付」であろうが、敵の動きを眼で追いかけても、その追いかけ動作は遅くなり、後手となる。

 一々眼で追いかけていては、「真の動き」に対処できず、「虚の動き」の惑わされる。こうした「虚」に、迷いと言うものが起るのである。迷いを封じる為には、肉の眼で追う目付では遅いのだ。
 他流では、「目付」と称して、「敵の太刀に眼を付けよ」と教える。あるいは「敵の手の拳の動きにも眼を付けよ」と教える。更には、「顔や足にも眼を付けよ」と教える。しかし、この教えは、極めて部分的である。これでは敵の一部にしか、眼を付けることができない。

 一部に眼を付けると言う事は、全体像を見ていないと言うことになる。したがって、これが一部しか見えない「虚」であり、これが迷いの元になる。その上、敵の力量を計ったり、心の軽重が計れない。
 敵を一瞬にして計るには、「観
(かん)」と「見(けん)」がいる。そしてそれへの眼の付け所は、「敵の心」である。心の裡(うち)を見抜かねばならない。心の軽重を悟らねばならない。

 つまり目付は、肉の眼で視
(み)るのではなく、心の眼で検(み)るのである。眼の働きには、「観」と「見」がる。
 「観」の眼で視る場合、その目は強くなければならない。また、「見」で視る場合、その目は弱くあらねばならない。この強弱を以て、敵の心の軽重を計るのである。

 これは人間の表面上の動きを視る場合に、「見」の目をもってして視、心の奥底に隠された正体を検る場合に、「観」の目をもって検るのである。敵の眼の光りには、必ず強弱の顕われがあり、目の虹彩
(こうさい)にはその人間の過去のデータが書き込まれている。これを読む事により、敵が強いか弱いかの正体を身やぶつのである。つまり、敵を一番に見なければならぬ部分は、敵の太刀や両手拳などではなく、一切の肉体を離れた、心に迫り、その奥底に隠された情報を読むことである。

 要は、こちらがどう構えたらよいななどの、太刀の構え方を検討しているよりも、敵の構えを崩し、錯乱させ、崩壊に導く筋道を立てることである。これも動きに合わせてなどと、生温
(なまぬる)い後手の発想ではなく、敵の構えを一撃で崩し、敗北に導き、一撃を加えて、勝利を得る戦闘思想である。

 この為には、身構えて後手になる構えを捨て、こちらから敵が崩壊するように仕掛けなければならないのである。その仕掛の基礎が「想念固め」である。その「想念固め」は、敵の目の強弱により、総
(すべ)てが決定される。つまり、勝利へのストーリーが最初から、想念によって固められ、約束されているのである。勝利の想念が描かれている者に、敗れる道理はない。

 一般には勝ちを得る為には、「先手必勝」という言葉が叫ばれているが、こうした作為から起る先手ではどうにもならない。作為を捨てた、先手でなければならない。つまり、頭の中で、作為を用いて、次にどう動くかを検討するような、後手に等しい動きをしても、勝ち目がないと言うことである。

 作為を超越し、作らず、無念無想の「想念固め」が要るのである。
 構えは、「城構え」とか、「陣構え」とか言う言葉からも分かるように、主に防備に頼り、その防備の堅固さに頼って、城構えなり、陣構えなりをするものである。これは、兵力が劣勢であり、籠城
(ろうじょう)すること事態が始めから勝ち目がない場合や、頑張るだけ頑張れば、そのうち敵が痺れを切らすだろうという、安易な希望的観測から発したものである。

 こうした考えに陥った時、曾
(かつ)ての日本の合戦史を紐解(ひもど)いてみても、城構えを厳重にし、これに籠って敵軍を撃退し、防禦(ぼうぎょ)し得たという戦いは、殆ど十指に数えるくらいしかない。勝ち目がなく、その実例は厳しいものである。
 何故ならば、それは「待つ」だけの、後手の戦法であり、消極的な戦法であるからだ。したがって、合気には構えなど無用となる。それは敵が動いた途端に勝敗が決しているからだ。



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