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今わの際の死に様 2

ある夕焼けの夕陽


●臨終という死出の旅立ちの秘儀

 人間には、生まれた誕生日があるとするならば、また、死す時の命日めいにち/故人が死んだ日に当る毎月または毎年のその日)も存在します。
 さて、人の死とは一体何でしょうか。

 天象
(日・月・星のおこす現象)には、初めがあると同時に終があり、生あるものは生まれた以上、その終焉(しゅうえん)には、死ななければなりません。
 こうした明白な事実を、私たちは普段忘れています。例え、心の隅に留
(と)めていても、自分の死は例外であり、事実、あるにしても、ずっと先の出来事であろうと高を括(くく)っています。
 しかし、死は、生きているからこそ、約束された掟
(おきて)であって、そして生きているからには、必ず死が来るのは当り前の事なのです。死とは、生きているからこそ、必然的な生の終局として訪れます。

 私たちが死ぬ場合、多くは病気によって死に就
(つ)きます。
 生・老・病・死という四期の順を辿
(たど)る以上、現代は病気が殆どであり、その他にも災害や事故で死ぬ事があり、老衰で自然死的に死ぬというのは、現代人にとっては極めて稀(まれ)と言えましょう。
 生・老・病・死の四期を追うと、乳幼児期、幼児期、少年・少女期、青年期、壮年期、晩年期と成長していきますが、これは生命力の働きによって成長する過程を現わしたもので、一方、肉体は成長し、増強を辿っているように見受けられますが、その実は、肉体から艶
(つや)と張りを失わせ、間違いなく老化に向かって突き進んでいる事は疑いようもありません。生命力は、年齢と共に次第に衰え、減退に向かっているのは紛(まぎ)れもない事実です。
 そして人にとって「死」は、ある意味で、何十年か生きた事への「報償」とも受け取れます。

 不満の多い、苦悶
(くもん)に満ちた、苦汁(くじゅう)(きわ)まる人生に、生きとし生けるものは、死によって終末を告げる事になります。こうした現実にあって、「何とかして死にたくない」と思い、不死の妙薬を求めて旅した古人も少なくなく、しかし結局は、それを最後まで探し出す事はできませんでした。

 唯、叶
(かな)ったのは、僅かながらの延命効果をもたらす、そうした類の延命薬でした。
 人間は生まれた時から、死が約束されながら、その約束とは正反対の道を求めるというのは、紛れもない矛盾であり、もともと人間は叡智
(えいち)の意志に目覚めない場合、こうした矛盾に、何の躊躇(ためらい)いもなく頭を突っ込んでしまいます。

 これは死に対する恐れと、死に対する不安が交叉(こうさ)する所以(ゆえん)であり、死とは何か、という事を具体的に認識できない恐怖心に他なりません。

 さて、死という現象に迫ってみましょう。
 死がはじまる最初の現象は、互いに組み合った神経索
(しんけい‐さく)が解け離れて、まず肉体的に知覚する五官を通じた自意識が消滅します。

 喩
(たと)えば、炭素原子と酸素原子が結合できなくなり、火の消え失せるような状態に陥ります。
 次に、心臓は睡眠時のように、脳髄に送る血液中に精練した養分を循環させることが出来なくなり、やがて神経索は窒息状態を起こし、循環飢餓に陥って死に至ります。

 これがはじまると、脳髄の分解がはじまり、バクテリア
bacillus/原核生物に属する単細胞の微生物で、幅おおよそ0.1〜3.0マイクロメートルで、球状・桿状・螺旋状などを呈し、細胞壁や細胞膜で囲まれた細胞質内には膜で包まれた核や小器官を欠き、種類により莢膜(きようまく)と鞭毛と線毛を持つ。更に、二分裂を繰り返して増殖し、一部のものは芽胞(胞子)をつくり、無機物の酸化により、エネルギーを得る化学独立栄養菌と有機物を栄養源とする化学従属栄養菌とがあり、生態系の中で物質循環に重要な役割を果すほか、ある種のものは動植物に寄生して病原性を示す黴菌)の活動によって、幾らかの固定した化合物へと変化し、各々に元素として復帰し始めます。

 こうした状態を外から見れば、死は生活反応と生活現象が停止した状態と映ります。
 生活現象を構成する生活体は、細胞組織から構成され、死はやがて、各々の体組織で細胞死を招きます。
 この場合、総ての細胞が同時に機能を停止するのではなく、生命活動の中枢を担う、心臓ならびに脳髄機能が停止し、やがて体中の組織細胞にまで及びます。これが死の決定的な瞬間であり、臨終に立ち合った医師は心臓の活動停止を以て、死を宣告します。

 しかし、心臓の鼓動や止んでも、暫
(しばら)く置かないと完全な死とは言い切れず、蘇生(そせい)する例も少なくないからです。死後24時間と決められているのは、この為です。
 死の兆候としては、知覚の喪失であり、しかしそれだけで死と断定することはできません。死に類似した状態に、無感覚状態や、ヒステリーのある場合も同じ様な現象が現われるからです。

 死となると、無感覚は全身に及び、死者はどんな激しい刺戟にも反応する事がなくなります。嗅覚や聴覚も働かず、眼球の張力が減少しますが、これは血管が空虚になるからです。眼の瞳孔
(どうこう)は、死の刹那に拡大し、正常な時の大きさ、並びに虹彩(こうさい)は覆い隠されます。

 身体的特徴は、下顎
(したあご)が胸に落ち、死後硬直の起こる前触れとして、死体はこわばりを見せます。
 同時に死ぬと、身体が冷たくなりますが、これは熱の発生源である「気のエネルギー
(火)」が失われた為であり、次第に冷却作用が起こり、外気の温度に等しくなるまで低下します。この冷却した状態を「屍冷(しれい)」と言います。

 この冷却は、外気の状態にもよって異なりますが、長い時には24時間かかります。
 冷却に当たって、死体の着用する衣服の状態や、寝床の厚薄にも差を生じますが、年齢が若い人や、皮下脂肪の厚い人は、一般に痩せた老人より長い時間を要します。

 また大量出血死の場合、その冷却時間は早いように思われますが、多くの場合そうでもなく、更に窒息死の場合、冷却が遅れるような事があっても、屍冷は瞭
(あきらか)に死の兆候でありながら、ある種の病気が死因になった場合、喩えば破傷風はしょうふう/外傷から体内に入った破傷風菌の外毒素の為に、中枢神経がおかされる感染病で、病症は咬筋の強直による開口不全に始まり、顔面筋その他の随意筋強直性痙攣(けいれん)となって現れ、高熱を発し、最悪の場合は24時間で死亡する)で死んだ時など、逆に生前より体温が上がるようなことがあります。

 そして、以上総じて、死体の冷却が始まると、貌
(かお)の筋肉は奇怪に緊縮します。時として、その「死にざま」に応じて、死体が何かを訴えるように、顔面がいろいろな形に歪められ、酷い苦痛に悩まされて死んでいったような様子を呈する事があります。

 更に、そうした死後、小さな鉛色の斑点
(はんてん)が身体の表面を覆います。これは医学上では、血管から細胞組織に血液が流出する事によって起こる現象だとされています。そして、これはどんな死についても見られる現象です。

 しかし、死ぬ直前に夥
(おびただ)しい出血があった時などは、こうしたものは見られません。
 また、皮膚全体の変色も、一般には「死相」として、死者が語る表現形態だとされていますが、現代医学ではこうしたものを「死を語る」ものとは捉えず、単に死んだ後の、やがてくる、死後硬直の腐敗現象であると一蹴
(いっしゅう)しています。



●死の判定

 生体が死亡すると、まず数十分後に有機質の分解がはじまり、腐敗が進行します。つまり有機物、特に蛋白質が細菌によって分解され、有毒な物質と悪臭(一般には死臭と言われるもの)ある気体を生ずる変化が腐敗であり、この腐敗には腐敗菌が関与しています。また、うんこ臭い匂いを放つ“硫化水素”も関与しています。
 腐敗菌は有機物に作用して腐敗をもたらす細菌のことで、コリ‐エロゲネス群細菌・プロテウス・枯草
(こそう)菌群・クロストリディウム・プソイドモナス・セルロース分解細菌等が挙げられます。そして有機物を分解しはじめるのです。

 ところが、こうした分解がはじまる時期に前後して、では、「いつ死亡したか?」ということについて、誰も正確に言い当てることはできません。医学者であっても、宗教家であっても、「いつ死亡したか?」と言うことを正確には言い当てられません。

 一般に、臨床医の死の判定については、大方において、自然呼吸の停止並びに心臓の停止、もしくは瞳孔
(どうこう)反応の停止というもので死の判定を下しているようです。しかしこれまでの人間の歴史の中には、単にこれだけでその定義に当てはまらない事態が屡々(しばしば)起こっており、少ない例外として蘇生する人もいるということです。

 こうした場合の事を考えて、埋葬する為の法律としては、死後24時間については、死体を処理する場合、この時間を猶予
(ゆうよ)するという法律が設けられています。
 特に、人間の中枢を司る脳は、人体内の諸器官の中でも、最も酸素欠乏に対しては非常に弱いところです。心臓の停止によって血液の供給が途絶えると、数分で脳細胞は死滅し、やがて腐敗という分解がはじまります。こうした医学的な状態の過程段階が、「脳死」という死の認定の仮説を作り上げました。

 しかし脳皮質が死んでも、脳幹
(のうかん)が生きているという場合があります。心臓移植やその他の移植においても、「真当(ほんとう)の脳死とは何か?」という問題が一つの争点となり、一頃はこれが世間を騒がせましたが、最近では脳細胞の死滅と同時に腐敗と分解がはじまる時点を「脳死」と定義し、脳死が人の死んだ状態と判定しているようです。
 しかし皮質脳波計では脳死の判定が正確ではなく、脳幹脳波計を必要とするのですが、これはあくまで動物実験においてのみ可能であり、人間については殆ど開発されていないというのが現実のようです。

 したがって今日でも、死の判定は昔ながらの自然呼吸の停止並びに心臓の停止、もしくは瞳孔
(どうこう)反応の停止というもので死を定義し、認定しています。
 今日の医学上の死の診断は、死を認定しているのにもかかわらず、死後の分解と腐敗が進行しないという稀
(まれ)に見る状態を、どう考えればいいのか、これを判断する判定は具体的な結論を見ていないというのが現実です。

 死と仮死の違いを、生命活動の停止と一時停止の区別を如実に示すものは、まだ発見されていないというのが実情なのです。



●大自然の摂理に則した死に方と、反した死に方

 中有(ちゅうう)の世界に於て、人間は歓喜に満ちた香りを食料として生き、また中有は香を尋ねて飛び回るものです。歓喜は「喜び」の事であり、喜びは「寿」で顕(あら)わされます。 また一方、「寿」は喜寿(きじゅ)ともいい、あるいは一般には福寿(ふくじゅ)という言葉で知られています。そして「寿」とは、「寿命」の事です。

 こことから「この世で生きる」とは、「喜びを生き甲斐にする」ものでなければなりません。喜びを生き甲斐にしながら、人生の目標を設定して、成就を果たし、その寿が尽きる時機
(とき)が「臨終」なのです。しかし同じ死ぬにしても、様々な死に方があります。
 現代社会は複雑化し、物質文明が表面に打ち出されている為、時として、大自然の摂理に反した事故死や自殺等が多くなり、余りにも不成仏霊で死んで行く霊魂が多くなりました。

 例えば絶望の果て、自殺する人は、喜びが眼の前にあっても、これを感得する事ができません。また、ノイローゼ患者や神経症患者は、その初期症状として嗅覚異常が現れます。この異常は、例えば正常なものを腐っている臭いと言ったり、腐っているものを正常だと言ったりする嗅覚の異常であり、こうしたことが異常に敏感だったり、あるいは異常に鈍麻して、嗅覚の機能を失っている場合もあります。

 次に、視覚異常が現れます。実際には見えないはずの幻覚を見たりするのです。この幻覚は見えるものが、かつて想念で描いた異物の幻
(まぼろし)であり、この幻が茶色、もしくは土色で見えると言う事です。これらの現象の多くは、歓喜を意識できない異常性から派生しています。香りを食料とせず、あるいは命の喜寿を意識できないからです。

 また、こうした人の特徴は、「仮面鬱病
(かめん‐うつびょう)」という、自らが招いた想念の暗示に懸(かか)り、憑衣・憑霊されていますから、「笑う」ことがありません。「喜び」が意識できないのです。あるいは逆に、おかしくもないのにニヤニヤしたり、ゲラゲラと笑い転げるような仕種(しぐさ)をします。

 予
(かね)てより東洋医術では、歓喜と言う「喜」は、心臓に属したものと定義されています。人間の心臓は知性、理性、情緒、意志、更には意識という非常に高級な営みを司さどる処(ところ)であり、心臓の強弱によって、これらの現れが異なります。
 心臓に力があり過ぎれば「心実
(しんじつ)」と言い、逆に力が失われた状態を「心虚(きょしん)」と言います。これは心臓が心実でも心虚でも、喜びを食料にする事が出来ず、また香りを食料にする事もできません。その中間に位置する、中庸(ちゅうよう)状態でなければならないのです。

 人間界における特徴は「暖
(だん)」で彩られます。「暖」はエネルギー体であり、「焦(しょう)」の火のエネルギーによって発生します。また東洋医術では、五行(ごぎょう)から心(しん)は「火」に属します。
 これは人間のエネルギーが「心」から発生して、高級・高度な意識と結び付く事が出来る心を司っているからです。そして、物質と精神の両方を維持しているのが「心」ということになります。
 したがって「死」とは、「心
(しん)に中(あた)る」という事を顕(あら)わし、邪(じゃ)と陰(いん)が体内で勝った状態を「死」と言うのです。

五臓
五行
精 神 状 態 と 想 念 の 意 識
積極的、攻撃的、緊張、行動的、意志的、自我過剰、闘志、怒り、憤り、驚き等で、魂に通ず。
昂揚(こうよう)的、興奮的、楽観的、喜笑、喜楽、歓喜等で、神(しん)に通ず。
思慮、思考、判断、知的、固執、固着、頑固、持続の感覚、こだわり等で、意智(いち)に通ず。
退嬰(たいえい)的、悲観的、気鬱(きうつ)、憂鬱、沈鬱、沈んだ気持ち等で、気魄(きはく)に通ず。
抑制的、恐怖心、脅迫観念、本能的感情等で、精志(せいし)に通ず。

 さて、人の死には大きく分けて二種類あります。
 まず第一は、寿命は尽きて老死する事を「時節死
(じせつ‐し)」と言い、これは自然死の事です。大自然の摂理に従った死に方です。一方、自殺、他殺、病死、あるいは寿命とは関係なく、中間(ちゅうげん)にして死ぬ事を「不時節死(ふじせつ‐し)」と言います。これが事故死を言われるものです。

 事故死は、地の底目掛けて墜
(お)ちて行く死に方です。暗い想念を持った意識体は、下へ下へと流れていきます。これは水が下へ下へと流れるように、意識も下へ流れていくのです。また「水」という字の字画は四格で、これを「死格」と言います。
 自殺者が上から下に飛び下りると言う意識を持つのは、無意識のうちに低い処に行きたいと言う願望があり、更には「死格」に沿って、「水に戻りたい」という願望があるからです。飛び降り等の投身自殺、水中に身を投げる入水自殺、首吊り自殺等は、やはり上から下に「墜ちる」願望を持った自殺です。

 これは他殺の場合も同様です。他殺は刃物で斬り殺される、刺し殺される、拳銃で撃ち殺される、爆弾テロで殺される等で、擬態が切り裂かれますから血が流れます。
 血は成分が液体であり、その殆どは水からなります。血が流れれば、「暖」という火のエネルギーは急速に体内から逃げ出してしまいます。
 したがって「寿」と「暖」が失われれば、生命エネルギーは悉々
(ことごと)く失われ、生体(肉体)と命体(霊体)は分離してしまいます。

 しかし、自然死が、生体と命体が穩やかに分離するのに比べ、事故死は急激に引き裂かれるような分離をします。
 もともと人の死は、転生の為に「ゼロ」の世界、つまり「空
(くう)の世界」に戻る為の儀式です。
 ところが事故死はゼロではなく、「マイナス」の世界に戻って行くのです。
 つまり「ゼロ」以下の世界です。生命の火は、水によって消されます。この水の量は、多過ぎず、また、少な過ぎずの適量な水の量によって消されなければなりません。生命の火は、穩やかに、徐々に消されなければならないのです。

 これに、浴びせるような水の掛け方であってはなりません。しかし事故死は、この、最も行なわれてはならない消し方で、生命の火が消されてしまうのです。
 これが大自然の摂理に反した死に方なのです。そしてここに不成仏霊の実態があります。



●死後硬直

 死後に現われる現象として、死後硬直があります。
 これは諸筋肉が収縮し、硬くなる死後の現象です。頭部の筋肉と下顎
(したあご)に始まって、胸部から腹部に掛け、やがて上肢や下肢に及びます。
 こうした硬直は、やがて時間と共に解けるものですが、死体の上部から下部に向かって起こるのが普通とされます。

人間の本体とされる神体域。人間は気道を本体として、それを外皮的に覆っているのが霊体や幽体であり、その最外郭(さいがいかく)に極めて粗い、肉体の波動を以て、本体を加えた、四重構造で出来上がっているものが「人間」と言われるものである。

それは霊的に視(み)て、頭部と胸部にかけて神体域が集中している為であり、泥丸を抜けて霊体が離脱する現象が死後硬直に現われます。
 死に方によっては、死体が息を引き取ってから、2〜3時間後に硬直が始まり、摂氏10℃位の温度では、おおよそ数10時間もこの状態が続き、霊体と肉体の分離が容易に行われなかったり、これに手間取る、死に方の問題に原因があることがあります。

 しかし、こうして死相を顕
(あら)わしつつも、肉体と霊体は生命体の遊離が行われ、死後硬直は解かれます。
 死後硬直は、各々の年齢に応じて異なり、小児や幼年者は成人に比べて早く起こり、逆に四十代から五十代の働き盛りの、現世に未練多き年代は、この死後硬直も長く、特に過労死や心臓マヒ等が死因で死んだ人は、この持続時間がかなり長いのが特徴です。

 それに比べて乳幼児が死んだ場合は、極めて短く、また弱く、見逃される事もある位です。
 全般的に、死後硬直は、周囲の温度が低ければ低いほど、その持続時間は長く、逆に高ければ短くなります。

 特に、今まで殆ど病気もせず、健康体の人で、事故死等で死んだ場合、死後硬直は長い時間を継続させます。それは急激な肉体と霊体の分離が行われた為、その霊的なショックに対応できず、自然死のように緩やかな遊離とは逆の状態になっているからです。一種の恐怖から来る、霊的な衝動といえます。

 逆に、幼児や老人が長い間の闘病生活で、死を覚悟しつつ死んだ場合は、比較的死相も穏やかで、死後硬直も短いようです。病死も、事故死の一種ですが、突然な事故死と比べると、その差は非常に大きく、死に方によって、死後硬直の時間が異なるのは確かなようです。

 さて、死後硬直が起こる原因は、医学的には繊維維中
(せんいいちゅう)に乳酸(有機酸の一つで、乳酸発酵や激しい筋肉運動など、糖を無酸素状態で分解することによって生ずる物質)が出来て、屍体(したい)を硬くさせる為ですが、落雷や窒息で死んだ人は、死後硬直がない場合があると言われています。

 これは米国の一部の州で死刑で遣われる電気椅子
(死刑に用いる刑具で、高圧電流を通ずるようにした椅子)刑や、日本の死刑で行われる絞首刑(首を縄で絞めて殺す刑罰で、現行刑法で規定する死刑の方法)等が、こうした医学的な見地から、ある意味で死後硬直を抑えたものと考えられます。
 こうした死因による各々の死に方は、人各々ですが、特に死後硬直の激しい、日射病で死んだ人は、死後硬直が激しく、筋肉の硬直と共に心臓まで硬直すると言われます。こうした人を解剖すると、まるで木片にメスを当てているような音さえすると言われております。



●死相の出る死に方、そうでない死に方

 釈迦は輪廻を説きました。
 輪廻があるということは「生まれ変わり」があるという事です。人間は闇の彼方からやって来て、また闇の彼方に還
(かえ)って行きます。これは輪廻転生の暗示であり、「死ねばそれっきり」という分けではありません。
 
《不増不減の法則》(諸法は空にして増減しないこと)から、霊魂は不滅であり、何度でも生まれ変わりを繰り返します。この生まれ変わりの第一段階が「臨終」です。

 そしてこの臨終に失敗するのが、「横死
(おうし)」という不成仏の死に方の相です。
 横死とは一般的に言って、不慮の死や非業
(ひごう)の死を指し、事故・殺害など、思いがけない災難で死ぬことを言いますが、この横死は、単に事故や災害に遭(あ)わなくても、床で死ぬ場合もこうした横死の現実はあります。

 これは死に切れずに死ぬ死に方で、現世に未練を引き摺
(ず)りつつ死ぬ場合にこうした横死が起こり、臨終に失敗した時機(とき)の死に方なども、横死に含まれます。
 こうした死に方の予定は、生前の善行など一切問題にされず、激痛と衝撃と悶絶
(もんぜつ)が、臨終にあたり、待ち構えているという事を、私たちは忘れてはなりません。

 予定説から行くと、死にざまが生きざまに影響を与えている、と言えるのではないでしょうか。
 これはまさに
《予定説》そのものです。
 臨終とは、人が、今まさに死なんとする時、一挙に「死相」という形相
(ぎょうそう)が形作られ、これこそが善業と悪業の総決算の時であり、“空(くう)の世界”に向かう来世の第一歩なのです。だから臨終に際しての死に方は、自らが想念で描いた堕地獄に落ちるか、否かの形相を、「死相」という形で、その遺族に訴えてきます。【註】生前、地獄想念を描いた者は、その想念の中に落ちる)
 では、そもそも臨終とは何でしょうか。

 一般的には臨終を「死にぎわ」とか「まつご」とか「いまわのきわ」等と言います。また「死に臨むこと」を臨終とも言います。
 臨終に纏
(まつわ)る言葉に、「臨終正念(りんじゅう‐しょうねん)」とか、「臨終仏(りんじゅう‐ぶつ)」とか言って、死に臨んで心乱れず往生を信じて疑わないことを臨終正念と言い、また念仏行者の臨終の際に来迎(らいごう)するという、阿弥陀仏(あみだぶつ)およびその聖衆あるいは臨命終(りんみようじゆう)の仏を臨終仏と言います。

 こうして臨終を定義していくと、その死の刹那
(せつな)に死相というものが存在し、死に際して各々の形相を作り、死に就く明暗を分けているようです。



●想念の世界と地獄の関係

 さて、一般に言われる「地獄」は存在するのでしょうか。
 ここで最初に言うことは、本来、地獄は存在しません。
 地獄という想念は、人間が頭の中で作り出した妄想に過ぎません。しかし一旦、こうした妄想が出来上がると、断末魔の非業の死でなくても、臨終に失敗した場合、自然死であっても、ここに落ちる場合があるのです。

 人間は臨終に臨み、中々見事な死にざまが出来ないようです。
 また、こうした悪戦苦闘が、幻覚の地獄を作り出すのです。人間界から霊界に至る途中に「霊幽界」
れいゆう‐かい/一般には「幽界」と言われる)という関所的な場所があります。

 霊幽界は三段階からなり、ここには三つの関所が設けられています。
 しかしこれとて、人間の歪
(ひず)んだ想念が作り出したもので、本来は存在しないものなのです。幽界は人間の心の暗い影が作り出した世界であり、一般には「地獄」と言われています。こうした地獄は、本来存在しません。あくまで人間の想念が作り出した、幻影に過ぎないのです。

 しかし人間の想念は、心像化現象を齎
(もたら)します。これが様々な幻影を作り出し、その恐怖心から「死相」という形相が現われるのです。この相が、地獄行の不成仏霊を作り出してしまうのです。

想念がつくり出した極楽浄土とその階層構造。法然や真鸞が言った「極楽浄土」すら階級が存在する想念から派生させた世界でしかなかった。

 ところが一方、天国や地獄の様相絵図から観(み)て、一般に浄土教・念仏宗で信じられている「極楽浄土」は、霊幽界(幽界を含む)・三層構造の最上部の一層から、霊界・五層構造の最下部までの世界を指し、極楽でさえ「完全な差別」がある事が分かります。要するに、浄土教・念仏宗が極楽浄土と唱えているところは、この極楽浄土ですら「方便の世界」、あるいは人間が作り出した「想念の世界」であるという事になります。

 この世は心像化現象を起こします。一旦想念を描いたが最後、その残像は現実のものとして具現される構造を持っています。したがって横死した場合も、こうした幻影が付き纏
(まと)い、臨終の際、断末魔の藻掻(もが)きを演出します。悪夢のような藻掻(もが)きが襲い、それを繰り返しながら、霊界に到達する事が中々出来ず、地獄へと迷い込むのです。これが非業の死を遂げた人の、死にざまの特徴であると言えます。

 こうした横死の場合、本人が感じる霊的意識は、「痛い!、肉が骨から離れる。離れる、急激に物凄い痛さで離れる!」と、声にならない絶叫を上げているのです。これが断末魔の苦しみです。
 事故死の場合は、こうしたく衝撃が全身に趨
(はし)るものですが、これもまた本来は存在しないものであり、もう既に、臨終に際して、在(あ)るはずもない地獄までもを、幻覚として見ているのです。
 この幻覚の現われが、死者の貌
(かお)に窺(うかが)われ、それが「死相」を形作っているのです。



●自然死の場合の穏やかな臨終

 では自然死の場合、「すんなりと臨終出来るのか?」あるいは「大往生できるのか?」ということになります。

 さて、人間は生まれた以上、必ず死なねばならない宿命を持ちます。そして、生まれるのが喜びであれば、また死ぬのも喜びでなければならないはずなのですが、私たちは末法
(釈尊入滅後の仏教流布の期間を3区分した最後の時期)の世に生まれた為に、生まれる喜びとは裏腹に、死を悉々(ことごと)く恐れます。

 何とか、死なないで、少しでも長生きできるように、死生観の解消を二の次にして、生に執着します。その執着の余りに、死を極度に恐れるようになりました。
 しかし、死は新たな生命体の生まれ変わりであるにもかかわらず、何故か、嫌われることになったのでしょうか。
 そしてこうした事が、一種の、死の恐怖として付き纏
(まと)う、現世の現実を考えた時、ここに臨終の難しさが感じ取れます。

 この難しさから、ついには臨終を失敗し、死後苦海に彷徨う霊魂
(霊体)は数知れず、長期に亙(わた)って幽界最下層の地獄を彷徨(さまよ)う事になります。

 特に、死後の世界の事を頭から否定し、物質界のみが宇宙の現実と考えている唯物論者達は、霊的世界の存在を知らない為、死を単なる肉体の死とするのではなく、意識そのものが、この世から総て喪失し、死が総てを完結すると言って憚
(はばか)りません。こうした意識を持った人は、また死後に、自分が死んだことを悟り切れない人であり、永遠の死の苦海を彷徨います。

 こうした意味で、人間は中々見事な臨終ができないものです。
 唯物的思考で凝
(こ)り固まった人が、臨終に臨む時、肉体と霊体が徐々に遊離する自然死であっても、臨終に成功するとは限ぎりません。霊魂を信じなかったり、死後の生活のことを無視した人は、ついには臨終を失敗してしまうのです。
 人間の誕生は、次のプロセスで始まり、そして、その逆のコースを辿って、死に就くのが宇宙の玄理
(げんり)です。

 つまり人間は、死して後の中有
(ちゅうう)の世界の訪ね人であり、中有は霊意識を持ち、「尋香」じんこう/香を尋ねて浮遊する霊的な意識体)とも言われています。
 これは第六期の仏教
(仏教は釈迦入滅後、六回に亘って思想の編成が行なわれている)によって、この思想が確立され、魂が受肉する過程を説いたものです。

 中有の思想によりますと、中有という尋香は、香を尋ねて旅をします。空中をすばしっこい速さで飛行し、男女が性交をしている所にやってきて、それを暫
(しばら)く視(み)ており、自分の父母となる男女を探し求めます。

 そして性交する男女の、男の射精する瞬間、精液中の数億ある精虫
(水の意)の一匹に成り済まし、その意志を、受肉と言う物理的な肉体現象に作用させます。
 これが人間の肉体を結んで、魂現象を形作る最初の状態です。

 やがて精虫は女体の腔から子宮へと侵入し、卵子と出会って受精し、やがて胎児としての様相を呈し、肉体と霊体が合体する生命体活動を行います。凡
(おおよ)そ、十月十日(とつきとおか)母体の羊水(ようすい)の中で春の眠りを貪(むさぼ)り、やがて生まれ出て焦しょう/火を焦がすの意)と化し、乳児、乳幼児、幼児、少年期、青年期、壮年期、老年期、老衰期、そして臨終期の末期(まつご)の水となり、再び中有(ちゅうう)に戻ります。これが生まれ変わりのメカニズムです。

 誕生は、まずオギャーを呼気を発し生まれて来ます。
 これが阿吽
(あう‐ん)の「阿」の状態で呼気です。生まれ出ると、臍(へそ)の緒が子宮内の胎盤から切断され、乳児となって人間界の一員となります。

 下焦
かしょう/東洋医学では腹部の消化作用のことを「三焦」で現し、上焦・中焦・下焦の三つに分け、臍を中心にしてその上下で食物を熱エネルギーに変える作用の働きを持つところで一番下の部分)で大小便を垂れ、人間として成長を繰り返して行きます。これが生命力の火の作用です。霊肉ともに成長を繰り返します。
 そしてやがて成長が止まり、成人期としての安定期に入り、ここからが老化・老衰に向かって「病」の状態に入ります。

 生・老・病・死のプロセスは、やがて人間が死を迎える事を如実に現わしてきます。
 そして死は、生まれた時とは逆のコースを辿って死に向かいます。
 自然死の場合は、まず、下焦の会陰
(えいん)が閉じられ、生命体は中焦の神闕(しんけつ)を経由して、上焦の泥丸部のブラフマの開き口から体外に出ます。
 人間の誕生は、生命力の火が焦げ始める事であり、死はその火が消える事を意味します。
 精液中の「水」という一匹の精虫から生じた生命体は、焦の尽きると同時に「末期の水
(まつご‐の‐みず)」を必要とします。

 ちなみに「末期の水」とは、臨終を迎える人が、水を求める最後の欲求であり、これを唇
(くちびる)に軽く脱脂綿等で含ませる事でその欲求は終了し、再び中有の世界に戻って行きます。ただ戻る際も、すんなりと中有(ちゅうう)の姿に戻れるのではなく、長い死後の生活の修行が課せられるのです。
 以上が誕生から臨終までのプロセスです。

 さて自然死において、成仏を迎えることのできる人は、まず、体内のエンドルフィン
endorphin/哺乳類の脳や下垂体に存在する内因性モルヒネ様物質)が合成され、その麻酔作用によって、断末魔(だんまつま)の苦痛から解放され、穏やかな臨終を迎える事が出来ると言われてます。

 仏教の経典には、その為に普段から酒を禁じているのは、臨終に際して、このエンドルフィンの合成が妨げられる体質になるのではないか、ということから禁止しているのです。
 したがって大酒呑みは、死に際して、断末魔の苦しみと痛みを押さえる麻酔作用が不充分で、時として、モルヒネ様物質の合成が出来ずに臨終に失敗することもあると言われております。




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