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忘れ去られる東洋哲学 1

忘れ去られる東洋哲学



四季を織り込んだ季節感と智慧



●内なる智慧

 現代人は精神的領域の進化を停止している。では、人間が精神領域の進化を止めたのは、いつ頃だったか。
 多くの人たちは、人間は今なお、「進化し続けている」と思い込んでいる。
 しかし物質文明の進歩に反比例して、人間の精神敵領域の進化は益々退化の一途にある。その理由は、人類の精神文化の進展は、おおよそ今から数千年以前に終ってしまっていると推測されるからだ。

 そして、物質至上の科学文明も、今やピークに達したかのように映る一方で、唯物弁証法から新たな物質が作り出され、「物質文明の火、いまだ消えず」という現実も、実際には存在している。新技術は次から次へと展開され、傲慢
(ごうまん)な弁証法が自然科学の分野で繰り広げられてる。その結果、科学万能主義と、物質至上主義は、人々に大いなる幸せを齎したように錯覚する現実が生まれた。また、それが進化の根拠としている。

 ところが、人間の精神的領域、特に心域は停止してしまったと言うより、退化の一途にある。
 心域面の開拓は皆無で、現代人は知識の集積を基盤に置いて、確かに物質社会を著しく発展させたが、精神文化の発達は停滞し、かつ退化した。精神面は進歩が見られない。
 況(ま)して、霊域面は完全に退化して、この領域を働かせている人は、殆ど居なくなったと言っていいようだ。
 獣人は急増したが、霊人は急減した。物質進歩と反比例の関係にある。それは心域や霊域が物質でないからである。
 したがって物質進歩が起こると、物に惑わされる獣人は急増するが、逆に霊人は急減する。

 人の世というこの現象界には、必ず作用と反作用が働いている。つまりこの世は代償を支払うという片方の借りを、片方で返すという仕組みになっている。そしてそれがプラス・マイナス・ゼロで吊り合っている。一方だけが突出することはない。いい事だけが永遠に続くこともないし、悪いことが永遠に続くこともない。必ず中庸に戻ってきて拮抗を保とうとする。拮抗が保つことが出来なければ、バランスを失って崩壊するだけである。
 文明の崩壊とは、この拮抗を失った事に他ならない。

 物質や制度によって依存する愚かさは、此処に着て、益々強くなり、権威の持つ力は失われるどころか、その反対に強大なものになりつつある。権威の保持する科学万能主義は、いまなお威力を失うことなく、絶大なものである。

 人間の精神活動は、原始時代から急速なスピードで進化し、進歩し続けてきた。
 しかし二十一世紀の現代と、今から数千年前の精神活動の進化を顧みれば、少しも進化していないことが分かる。進化や進歩どころか、今や退化の一途にある。反動な起こっているからである。

 人間の精神活動が退化の一途にあるという現実は、例えば、紀元前5世紀前の中国においては、次の通りである。

人物名 精神活動の内容 生きた時代
孔子
(こうし)
中国・春秋時代の思想家、哲学者で、儒家の始祖である。名は孔、諱は丘(丘(きゅう)は頭の頂き形からきたともいう)、字は仲尼(ちゆうじ)。魯の昌平郷陬邑(すうゆう)(山東省曲阜)に出生した。
 尭・舜・文王・武王・周公らを尊崇し、古来の思想を大成する。
 その思想は、また仁道政治を掲げたものであった。
 仁を理想の道徳とし、孝悌
(こうてい)と忠恕(ちゅうじょ)とを以て理想を達成する根底とした。これを政治に応用して、魯に仕えたが結局は容れられず、その後、諸国を歴遊して治国の「道」を説くこと十余年。
 しかし「道」の思想は用いられず、時世の非なるを見て教育と著述とに専念した。その奮闘振りは、言行録『論語』に窺われる。後世、文宣王・至聖文宣王と諡
(おくりな)されて至聖先師と言われた。
前551〜前479年
墨子
(ぼくし)
春秋戦国時代の思想家。墨家の始祖。河南魯山の人。姓は墨(顔が黒かったためとも、入墨の意で一種の蔑称ともいう)
 一時期、宋に仕官して大夫となる。弱小国に行って戦術を指導し、また一切の差別が無い博愛主義を説いた。更に兼愛を説いて全国を遊説した。戦国末期まで儒家と思想界を二分する巨大勢力を誇り、墨子十大主張を説いたことで知られる。
前480頃〜前390頃
老子
(ろうし)
古代中国の哲学者であり、道教創案の中心人物とされ思想家。道家の始祖。
 史記によれば、姓は李、名は耳、字はタンまたは伯陽。楚の苦県(こけん)曲仁里
(河南省)の人。周の守蔵室(図書室)の書記官。乱世を逃れて関(函谷関または散関)に至った時、関守の尹喜(いんき)が道を求めたので、『老子』を説いたという。また『老子道徳経』を説いたとされるがその履歴に至っては不明。老子は、神格化されて、「太上老君」とも称された。
生年没年不明
荘子
(そうし)
戦国時代の思想家で荘周(姓が荘、名が周)とも。道教の始祖の一人とされる。戦国時代の宋国の蒙の人とされる。孟子と同時代の人。子とともに道家の代表者で、老荘と並称。 生年没年不明
孟子
(もうし)
中国・戦国時代の思想家。山東鄒(すう)の人。姓は不詳、氏 は孟、諱は軻(か)、字は子輿(しよ)
 儒学では孔子に続く重要な人物とされる。
 学を孔子の孫の子思の門人に受け、王道主義を以て諸国に遊説したが用いられず、退いて弟子万章らと詩書を序し、孔子の意を祖述して「孟子」など七編を作る。その倫理説は性善説に根拠を置き、仁義礼智の徳を発揮するにありとした。
前372〜前289
荀子
(じゅんし)
中国・戦国時代の思想家で儒学者。諱は況(きょう)、字は卿。荀卿また孫卿と尊称。趙の人。50歳にして初めて斉に遊学し、襄王に仕え祭酒となる。讒言(ざんげん)に遭って楚に移り春申君により蘭陵の令となったが、春申君の没後、任地に隠棲。後漢の荀イクや荀攸(じゅんゆう)はその末裔とされる。 前298? 〜前238以降
司馬遷
(しばせん)
前漢の歴史家。姓は司馬、名は遷、字は子長。陝西夏陽の人。武帝の時、父談の職を継いで太史令となり、自ら太史公と称した。李陵が匈奴に降ったのを弁護して宮刑に処せられたため発憤し、父の志をついで『史記』130巻を完成した。 前145頃〜前 86頃

 ここに挙げる偉人は、総て紀元前の中国の人達である。この時代は精神活動が盛んに行われた。

 ギリシャにおいても、紀元前8〜9世紀にはホメロス(古代ギリシアの詩人。前8〜9世紀頃小アジアに生れ、吟遊詩人としてギリシア諸国を遍歴したと伝える)が『イリアス』や『オデッセイア』【註】この二作の作者だったかについては様々な諸説がある)を書き、紀元前6〜7世紀にはイソップ(「イソップ物語」の作者と伝えられる前6〜7世紀頃の古代ギリシアの人)が生まれ、紀元前5世紀には数学者としてピタゴラス(ギリシアの哲学者・数学者・宗教家。南イタリアで教団を組織、霊魂の救いを目的とする新宗教を説き、宇宙の調和の原理を数とそれの比例とした。前570頃〜)、哲学者としてヘラクレイスト(古代ギリシアの哲学者。万物は根源的実体である火の変化したもので、永遠の生成消滅のうちにあるが「万物流転」を説き、この生滅は相互に転化しあう相対立するものによって不変の秩序(ロゴス)を示すと説いた。前535頃〜前475頃)、悲劇作家としてアイスキュロス(古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人。前525〜前456)やソフォクレス(古代ギリシア三大悲劇詩人の一人。人間性豊かな内容面でも、古典悲劇の最高の完成者といわれる。前497 〜前405頃)、紀元前4世紀にはソクラテス(古代ギリシアの哲人。アテナイで活動して生涯を倫理の原理の探究にささげた。前470〜前399)やプラトン(ギリシアの哲学者。ソクラテスの弟子。アテナイ市外に学校(アカデメイア)を開いた。前427〜前347)、更にはアリストテレス(古代ギリシアの哲学者。プラトンの弟子で、またその超克者。前384〜前322)らが活躍していた。

 また、彼等の活躍が、後の西洋文明の錬金術や科学論理の基盤になったことは紛れもない事実である。西洋文明の知的産物は総て、紀元前の知的階級によって創造されたものがベースであった。

 インドにおいては、更に古く、紀元前10世紀には『リグ・ヴェーダ』
【註】ヴェーダ(吠陀)インド最古の宗教文献。バラモン教の根本聖典)が成立している。
 これはインドの宗教、哲学、文学の源流をなすもので、その起源は前1500年頃のものである。当時、インドの北西方に移住したアーリア民族が、多数の自然神に捧げた賛美に発し、以来1千年の間に続々と成立している。
 そして紀元前8世紀には、バラモン教が活動を展開している。

 更に紀元前7世紀には『ウパニシャッド』
【註】インド古代の宗教哲学書。ヴェーダ文献の末尾をなすところからヴェーダーンタ(ヴェーダの終り)ともいわれ、また奥義書と称する)が完成している。
 これは宇宙の根本原理
(ブラフマン)と個人の自我(アートマン)の一致(梵我一如)などを説き、後のインド哲学の源流となった。漢字ではこれを「優婆尼沙土」の字をあてる。紀元前556年前には、釈迦(釈迦牟尼。仏教の開祖。その生没年代は、前566〜486年、前463〜383年など諸説がある)が生まれている。

 そして釈迦とほぼ同じ頃、中国では孔子
(春秋時代の思想家であり儒学の祖。前551〜前479)が生まれた。
 ここに東洋思想独特の根本原理が生まれたのである。



●心こそ道、道こそ天に通ずの画期的思想の起こり

 儒学から生まれた学に『陽明学』がある。明代に説かれた学である。
 初めは朱子学の「性即理説」に対抗して「心即理説」、また後には「致良知説」となり、王陽明の晩年には「無善無悪説」が唱えられている。心の内面に真実があるとする画期的な心学である。

 例えば「己に克つ」
(『論語』顔淵篇)という項を挙げ、これを「私欲を取り掃(はら)い、微塵(みじん)だに取り残さないようにする」と教えている。
 これ自体で、朱子に対抗した画期的な革命説である。かつての儒学にはなかった事柄である。
 これは「格物」の説からして朱子とは異なっている。

 王陽明の説くところによれば、「心は聖人の鏡」としている。
 聖人の心は明鏡であり、これに比べて常人の心は曇った鏡であるとしている。そして朱子の格物の説は、鏡に物を映す場合、映すことに工夫を集中するだけで、鏡が曇っているかどうかは問題にしていないと批判をする。
 この状況では物が正しく映る分けではないというのが、朱子批判の第一である。
 これに対して王陽明の心の捉え方は、先ず鏡を磨いて透明にしなければならない。そして磨くと言うことに工夫して、それに集中するのであるから、鏡が透明になった後は、あらゆるものを正しく映し出すことが出来るとしている。

 また『大学』の天理人欲を挙げて、王陽明は次のように説く。
 「人がもし真実に切り込み、不断に工夫
(功夫)するならば、その心の裡(うち)は天理の精微なるをもって日一日と実体が明らかになる。また、私欲の細微なるところも日一日と明らかになる。
 だが、もし克己の工夫に努めなかったら、始終談論するばかりで埒
(らち)があかず、天理も私欲も不明のままに終焉(しゅうえん)する。
 これは人が道を進む場合も同じで、一区間歩けば一区間の事が知られ、岐
(わ)かれ道に来てどちらに進めば目的地に着くか、その地域の事をよく知っている人に尋ね、尋ね終わったらまた歩く。このように進んで行けば目的地に着くことが出来るのである。
 人は自らが知り得た天理についてはこれを保持しようとせず、既に知り得た人欲についてもこれを除去しようとせず、ただひらすら知り尽くせないことを憂い、そのくせに中身のない講学に多大な時間を潰している。これでは決して得ることはあるまい。負の面ばかりが増すばかりである。
 先ずは自己の裡に蟠
(わだかま)る私欲に打ち勝ち(克己)、“私”を除去した上で始めて知り尽くせもしないことを憂いても決して遅くはあるまい。道を知るとはそういうことであり、知り尽くせない憂いばかりを募らせるのは愚かなことだ」としている。
 またこれは心学の画期的な一面を顕している。

 『孟子』の「道は一つ」についても次のように説く。
 「道には決まった規格がある訳でない。道に特定のものはない。型も定まっていない。
 況
(ま)してあれこれの書物の字面を追っても、単にその字句に拘泥(こうでい)するだけである。
 拘泥してこだわれば、あれこれと振り回され、末端に囚われ、本旨を見逃し、むしろ本来の道からは遠ざかってしまう。
 いま、人はしきりに天を論ずるが、その実、天とは何か、その肝心なことが分っていない。
 単に天を指して、日月や風雷を指して、これを天とするのも当たらないし、また人や地上の万物などの草木を指して、これが天でないとするのも当たらない。
 而
(しか)して、天とは道に他ならない。
 これが理解出来れば、至る所、あらゆるものが道であることが分ろう。
 そもそもの間違いは、道とは斯
(か)く斯く然(しか)然と各自を決めて懸かるから、道からは外れてしまうのである。
 道から外れないためには、まず己の内部を追求することである。
 わが心の本体が、いついかなるときも道であり、過去から現在に至るまで、永劫に亘ってそうあり続けてきた。それが道と言うものであり、道にどんな異同があるといえよう。異同などある筈がなく、他ならぬ心こそ道なのである。そして道は天に他ならない。心が分れば、また道も分るし天も分るのである」

 道を知り天を知るには、まず拘泥を捨てよとある。こだわりを捨てよとある。末端に囚われ、楊枝で重箱の隅をほじくる事を止めよとある。細かいところまで干渉し、あるいは穿鑿してもそれは本旨を見逃すだけだとしている。これでは中心を見失うのである。こだわりの禁を説いている。
 道を見極めようとするなら、まず己の心の体認に心掛け、これを己の外に求めず、己の裡に求めよとしている。



●十全

 物事の関係を出来るだけ正確に把握し、一義的に対応する概念また命題を「十全」と言う。
 認識や概念は、その対象と完全に合致しなければならない。十全の定義である。
 これに対して、王陽明は次のように説く。

 「人は己の心の本体を十全に発揮さえすれば、総ての働きはそのまま十全となる。もし心の本体を潤すことができれば、未発が確定出来るだろう。そしてそれが確定できたら、発するものは自ずから節に中
(あた)る『和』となる。また、それを実施することで、総てが自ずと当を得たものになる。
 だが、もし心と言うものが無視されてしまったら、譬
(たと)え世間の無数の文物や制度はあらかじめ学び取らせたとしても、それらは何ら己と関わりのないものになってしまう。要するに、装飾に過ぎなくなってしまう。これでは、“いざ”という時に役には立つまい。
 要は、“いざ”というときに自分がどうしたらよいかが、直ぐに行動とならねばならない。
 しかし、だからといって、文物や制度を無視して、それを修めなくてもよいということでない。
 肝心なのは、事に当たってその後先が把握出来ることである。優先順は解ることである。これが解れば、道に、より一層近付けることになる」と。

 更に『中庸』を挙げ「中庸に出てくる『富貴の境遇あるときは富貴を己のものにし、患難の中にあるときは患難を己のものにする』とあるのは、総て自己を、ある一つのものに限定しないことである。
 限定しない。
 これは心の本体に正しく潤いを保たせている人のみが出来る事である」といい、特に、自然に水が染み込む様を譬えて、「水源のない数町歩の池水となるよりは、数尺四方でもいいから、水源があって生意の尽きない井戸であった方がいい」という、王陽明のこの言葉は有名である。

 行動学ならびに実践学の中心は、知ることは行うことという知行合一の回帰される。知っているだけでは用を為さない。行って始めて知識は智慧となって開花するのである。

 ゆえに善念が起これば、それをもって善念を充実させ、もし悪念が起きた時には、それを逸早く察知して防ぎ止める。この「知」を充実させて防ぎ止めるのは『志』による。この『志』こそ天の聡明によるものだと教えているのである。
 聖人はその域まで達すれば十全は具有しているものだが、常人にあって学ぶ者はそれを保持すべき努力を重ねなれればならないとしている。

 『陽明学』は日本では、中江藤樹・熊沢蕃山・三輪執斎・佐藤一斎、また大塩平八郎
(中斎)らに受け入れられた。



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