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続・夜の宗教 真言立川流 4

信吾立川流は「髑髏(どくろ)本尊」である。髑髏を礼拝することで、魔神の魔力を得る「夜の宗教」である。
 では、髑髏とは何か。
 髑髏は真言立川流の教義である『受法用心集』に基づく、地球上的な人間宗教から興っている。

 一般に“宗教”といえば、その殆どは「天を仰ぐもの」ばかりである。
 既成の仏教にしても、多くは天を仰ぐものだ。
 念仏宗をはじめとする「南無阿弥陀仏」を唱える二調子の念仏宗教は、阿弥陀仏の居所である浄土を「極楽浄土」と称する。その場所は、西方十万億土を経た所にあり、全く苦患
(くげん)のない安楽な世界で、阿弥陀仏が常に説法していると説いている。

 念仏行者は死後此処に生れるという。此処に生まれ変わるという。だから“極楽浄土”という。他にもその呼び名は、安養浄土、西方浄土、安楽世界、あるいは単に浄土などいう。その他、多くの異称がある。
 しかし、どれも生きた人間か感得できるものではない。
 科学が発達し、科学万能主義になると、一口に浄土と言い捨てても、それは色褪
(いろ‐あ)せたものに近い。いかほどの説得力もない。

 「悟りだ」「涅槃
(ねはん)だ」といっても、現代では完全に色褪せ、天を仰ぐ宗教を信じるものは、日本人には少ない。
 キリスト教だって、天国と地獄を説いている。ところが、キリスト教は仏教のように因果律を最初から説いていない。構成が《予定説》になっている。因果応報はないのだ。
 善いことをしたから天国に入れるとは限らず、悪いことをしたから地獄に墜ちるとは一言も書いていない。

 悪人の定義は、悪いことをするような流れの中で、悪いことをするので結果的には悪人となる。悪人になるためには、まず最初に「悪人」になった悪人が居り、この悪人は悪人になるための原因が提起されるとある。悪いことをする原因に添って、悪人になるというのでなく、悪人であるから悪人としての結果が、原因を追う、としているのである。原因から結果が生まれる因果律ではなく、結果が提示され、その結果に相応しいような原因は派生するというのだ。これはまさに『逆因果律』である。

 原因が結果を生むのは仏教的な因果律思想。また結果に相応しい原因が派生するというのはキリスト教的な逆因果律である。
 しかし、この孰れにも属さず、淡々と今を論じ、現世での「悟り」を求めるのが真言立川流である。
 真言立川流の奥義は、「男女二根交会」にある。




●三輪清浄の偈

 
三輪とは、まず第一に「施しをなすもの」をいい、第二に「施しを受けるもの」をいい、第三に「施しもの」をいう。施しをなすものを「施者(せしゃ)」といい、施しを受けるものを「受者(じゅしゃ)」といい、施しものを「施物(せもつ)」という。この三者の相互に関連して、施しをなすもの、受けるもの、また、その施し内容をなすものは、本来「施す」のであるから、これに執着してはならない。

 男は、相手の女の“女根”に執着してはならず、また、女は相手の男の“男根”に執着してはならない。そして各々の「根」が持つ、そこから発する「陰陽の気」すら、執着してはならないのである。その質が良いとか悪いとか、あるいは量の大小を問わず、こうした施し物に執着してはならない。また、そうしたものに執着しない為に修行をして、日々精進が必要であると説いている。

 つまり「施し物」に執着しない為には、執着しない心を持つことが大事であり、執着しない心を養う為には、各々の段階において、「修法」を学ぶことが大事だとしている。そしてこの修法は、知識として頭脳で理解するのではなく、躰
(からだ)で体得せよと教えている。

 そもそも、「施し物」は、無実体である。何れ、消えてなくなる。つまり、実体がないのだ。これを『理趣経』では「不可得空
(ふか‐とくくう)」という。したがって、清浄である「三輪清浄」を表現した経典が『心地観経(しんじかん‐ぎょう)』である。
 つまり、この世の一切は「無実体」なのだ。実体を持たないのである。この実体が無いと云うことは、「廻向
(えこう)」と同じであろう。

 自ら修めた功徳
(くどく)を自らの悟りの為に、または他者の利益の為に巡らすことを廻向(えこう)と云う。
 功徳
を巡らして衆生の極楽往生に資することを廻向と云う。自他の区別をなくし、伴(とも)に祈念することを云うのだ。これにより「善根」が自由に所期(しょき)の方向に向けられるのである。両者が期待する方向に、事が運ぶのである。それは修法を会得した修行の結果である。

 此処で求められることは、我執
(がしゅう)を捨て去った真実の世界に目覚めた境地を意味するものであり、まず、自他の区別が無くなり、それによって各々は対等同格になり、垣根が取り払われてはじめて自由が得られるのである。此処には「柵(しがらみ)」という自由を束縛するものは存在しなくなるから、男女は横一線に対等に並ぶことが出来る。
 つまり、「平等」を得るわけだ。
 精神の境地において、また、肉体から発する気の質と量において、同質同量となり、然
(しか)もそれで居て、それをお互いに出し合えると云う境地である。

 『理趣経』の求める世界は、一つである。金剛平等である。そこに至る道が縦横に関連していて、誰でも自由にこれに関係することが出来るのである。だから『理趣経』では「万人の宝」と定義している。それは人間であり、人間は「根」によって、エネルギーを共有しているからである。
 自他の区別のない平等な世界に入る為にも、文殊菩薩
(もんじゅ‐ぼさつ)の如き、完全なる智慧の明細が、『理趣経』には説かれているのである。

 『理趣経』の「第七章の文殊
(もんじゅ)の章」には、転字輪(てんじ‐りん)と無相平等(むそう‐びょうどう)の法門(おしえ)が説かれている。この世の一切のものは、実体がなく、形態や様相のないとともに、ものには固定的な実体がないということである。これを「三解脱門(さん‐げだつもん)」といい、無漏むろう/煩悩を離れた状態)の三三昧(さん‐ざんまい)というう。

 三三昧というのは、自己と自己の所有するものを空と観
(かん)ずる空三昧(くう‐ざんまい)と、総てのものは空であるから、別に相がないと観ずる「無相三昧(むそう‐ざんまい)」と、総ては「無相」であるから願求するものなしとする「無願三昧」とをいう。これが《三解脱》である。
 束縛
(そくばく)から離脱して自由になることであり、現世の苦悩から解放されて、絶対自由の境地に達することである。これこそが到達されるべき究極の境地であり、「涅槃(ねはん)」と呼ぶのだ。

 この涅槃に至るには、理趣経が説く、《大いなる楽》を、決して安易な人間愛欲の道と捉えてはならないのである。『理趣経』を正しく捉える為には、この世界観を、単なる形而上学的命題で終わるような、客観的な公式に当てはめてはならないのである。
 そうしたものでは解明できない。

 現象を超越し、その背後に在
(あ)るものの真の本質、存在の根本原理、存在そのものを純粋思惟により、あるいは直観によって、探究しようとする学問として把握するのでなく、また神の世界や霊魂などを、その主要テーマに持ち出し、これを解明するものではない。オカルトの類(たぐい)ではないのである。

 『理趣経』の世界観は、「体験第一主義」である。体験こそ、その第一義であり、知識で解決する手合いのものではない。つまり、性とは、本質上は清浄なものなのである。この清浄なるものから人間も生まれ出たことである。
 人間が清らかになるか、穢
(けが)れたものになるかは、その後の行動律と、善悪何(いず)れかの考え方の持ち方によって決定され、それが正解だったか、誤りだったかは、その生きた足跡により判断される。

 肉体を穢れたものと見るか、清らかなものと見るか、それはその人の主観であり、ドイツの哲学者ショーペンハウアー
Arthur Schopenhauer/カントの認識論を現象主義的に徹底させて、人間生活においては意志は絶えず他の意志によってはばまれ、生は同時に苦を意味し、この苦を免れるには意志の滅却・諦観以外にないと説いた。主著『意志と表象としての世界』などがある。1788〜1860)が云ったように、「人間は本来好んで子孫の繁殖を図るものではない。だからこそ、神が、生殖に快楽と云う餌を与えたもうた」と、見るような、この手の観察眼で、男女の情愛を見下すことをしないのが、つまり『理趣経』の世界なのだ。

 『理趣経』では、むしろ「愛は清らかなもの」と定義しているのである。この定義が、誰の眼を通して見ても、「淫乱」でないことは一目瞭然であろう。
 況
(ま)して、快楽遊戯などではなく、また、現代の若者が猛り狂う、スポーツ・セックスでもないのである。
 真実の智慧を説いているところに『理趣経』の偉大さがあるのである。

 それはあたかも、美人は美人のままに見て、美人を骸骨に覆
(おお)った肉布団(にく‐ぶとん)と見たり、白い炊きあがった米飯を蛆の塊と見たりするような考え方でなく、花は美しいと観じ、季節は過ぎ去り、また巡ると捉え、あるがままに捉えることが「真実なる智慧」であり、『理趣経』の説かんとするところなのである。

 そしてこの『理趣経』と「性の恥じらい」を併せもって説くところが、真言立川流の教えである。これまで歴史の中で邪教視され、歪められた宗教観で悪態をつかれた立川流であるが、ここで改めて念を押したいのは、この宗派は邪宗ではないことだ。

 多くの宗教者は、真言立川流を邪教視した。それは、長い間、日本人が想像を絶した執拗
(しつよう)さで、性道徳を歪め、性に関する事柄を異端視したことに起因しているようだ。
 要するに、日本人は明治維新以来、欧米思想のキリスト教社会の思想に圧倒されて、そこで学んだ処世術によって、その宗教の持つ原罪意識により、性を歪めたのだった。その歪みが、少なくとも戦前・戦中までの日本に蔓延
(はびこ)り、同時に戦後は、性の解放により、更に狂いに狂った自由恋愛術が蔓延(はびこ)ったことによる。この結果、日本人の性は更に、転落の方向を示すことになる。

 それは原罪意識と裏腹な意識であり、これが今日の学校教育で教えられる、性教育ならぬ、“性器教育”の結果から、性は淫らなもの、汚らしいものと蔑まれたである。この結果から作り出された、性器教育の狂いが、現代の青少年を汚染しているとしたら、由々
(ゆゆ)しき事態であろう。児童ポルノも、今日の小中高で教える性器教育の誤りから派生している。

 しかし、真言立川流は、こうした時代を横目に見ながら、細々と生き残り、いま特記したいことは、これまで真言立川流の発祥と伴に、日本人が、真言の世界で、性を取り上げ、これまでの既成宗教に対抗して、膨大な世界観を繰り広げ、『理趣経』の教えによる「愛は清らかなもの」を大上段から議論し、更に実践として展開した宗教が、他にあっただろうか。
 それゆえ、真言立川流は「夜の宗教」といわれる異名を持つ所以
(ゆえん)である。

 近代の訪れと伴に、日本人もまた、「性の力」に、一種独特の泉の如き情愛を観じ、更には、その一方で哀憐
(あいれん)と恋愛を搦(から)めて、これをもって宗教の世界に挑戦を試みている。情愛は偉大なエネルギーなのだ。
 近松門左衛門の人形浄瑠璃
(にんぎょう‐じょうるいり)の主人公は、心中して、死ぬ間際に、愛人の愛の言葉で、救われるではないか。
 死に逝く者へ、愛人が唱える、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」は、この言葉により、死に逝
(ゆ)く者は死のエネルギーを得て、励まされるのである。死ねるのである。人間の死には、エネルギーが居るのである。だから、その情念は凄い。

 そうした世界観を宗教と一体化させ、それを「夜の宗教」としているところに、真言立川流の邪宗ではない、人間追求の性エネルギーの威力が表現されているのである。
 だから、真言立川流は、『理趣経』同様、「愛は清らかなもの」と定義しているのである。そしてこの修法者は、陰と陽の精気に同化し、修法者自身の内部にそれを取り込んでこそ、修法は成就すると云っているのである。

 また、真言立川流でも、陰と陽との精気の輪を結び、男女の二者が「一つ」になって、供養する修法を行えば、この時、その修法によって、輪より光明を発し、その思いが相手側に伝わるとしている。
 つまり、立川流では『理趣経』の経典を、修法と儀式により、その法力によって、その念を相手の送り届けるとしているのである。まことに凄まじい「夜の宗教」である。



●髑髏礼拝の真言立川流

 
人間はドイツの哲学者ハイデッガーが論じたように「非存在」なる生き物である。非存在なる理由は、人間が生と死の両方を自らの身体内に内臓しているからである。生と死を表裏一体の関係で内蔵し、あるいは生と死を時機には合体させて、エロスの女神と死神との結婚を企てたりするのである。
 真言立川流の原点は、此処にある。

 これが髑髏本尊を礼拝する所以
(ゆえん)である。
 この世に存在する多くの宗教は、天のみに目を向け、大地や大海について、あまり考えなかった。大地大海思想という概念を持たず、常に天を仰いできた。
 そしていつの頃かっらは、天を仰ぐから交渉であり、大地や大会に目を向け、更に人間の肉体そのものに目を向けるのは不浄とされてきた。肉体は男女共に穢
(けが)れていると看做(みな)されてきた。特に宗教家の考えるセックスは、穢れたものであると一蹴(いっしゅう)されてきた。

 しかし、肉体が穢れ、大地や大海が穢れているとするならば、なぜ人間は生まれてきたのか。なぜ穢れたものは生まれてきたのか、となる。
 また事実、人間は大気がなければ生きることができず、天空は空気が存在するから人間は生存したのではなかったか。
 生存の理由は大気とともに、大地があり、大海があったから、これらによって人間の「生」は約束されたのではなかったか。

 安易に、天ばかりを憧
(あこが)れ、極楽浄土といってみたり、天国といってみたりしても、その憧れは、隣の花が赫(あか)く見える現象だったのではないか。その「赫く見える現象」に目を眩(くら)まされて、天地の間に生存する人間を、実は長い間、見失っているのではなかったか。
 人間を見ずに天だけを仰ぐ宗教は、人間的でない。人間的であるのは、「人間宗教」が確立されて、はじめてその教えは尊いのであって、人間を見逃した宗教は、非人間的であるといえよう。

 また真言立川流の根底には『理趣経』が存在している。
 『理趣経』の教えるところは、「愛は清らかなもの」したがって“決して汚らしいものではない”と説いていることだ。

 本来、歓喜
(かんぎ)も法悦(ほうえつ)も、人間を介して理解されるものではなかったか。
 人間不在の歓喜も法悦もあり得ない。
 人間は本質的に生物である。
 人間は、サル目
(霊長類)ヒト科の動物である。水冷式哺乳動物である。現存種はホモ・サピエンスただ一種である。これを歴史上では「人類」と名付けたのではなかったか。

 霊長類である人間は本質的には歓喜する生き物である。
 例えば、朝日を拝むという行為をすれば、それだけで心は清々しくなる。精一杯それをやり、太陽を呑み込むイメージで「日拝
(にっぱい)」をやれば、気持ちがゆったりして気が大きくなったりする。こうした感覚を抱けるのは、人間だけである。馬や豚が、日拝をしたからといって、気持ちがゆったりしたり、気が大きくなったりはしない。寛(くつろ)ぐということも識(し)らない。
 馬は馬であり、豚は豚である。それ以外の何ものでもない。人間に使役されていることすらも、自覚がないかも知れない。

 また、人間の特徴は「喜び」を味わいために、行動をする。何事かにアクションを起こし、行為をする。この行為の中には性交もあろう。
 性交は、真言立川流では「男女二根交会
(だんじょ‐にこん‐こうえ)」という。
 では、なぜ男女は交会をするのか。

 これを明確に答えられるセックス・カウンセラーはいまい。
 安易に性生活のためと一蹴
(いっしゅう)するだろう。あるいは「享楽」の一言で片付けるかも知れない。
 しかし「なぜ、するのか?」ということには答えられまい。なぜ人間に享楽が必要か、それを完全に答えられる者は少ない。

 真言立川流では交会をすると、歓喜が訪れ、法悦が得られると説いている。男女が二根交会をすると、限りない喜びがあるのだ。
 一方、悲しみは邪道であり、悲しませる行為は悪魔の仕業である。悪魔の仕業で、「気持ちの良くなる」ことはない。総て気持ちの悪いものばかりである。悪魔が関与したものは、一切が穢れて汚らしいのだ。

『肉蒲団』口絵(紅摺絵)明和年間

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 人間の棲(す)む現世を「穢土(えど)」という。
 穢土は汚れた世界を指す。また娑婆を穢土ともいう。人間は人間界の穢土という穢れた世界に棲んでいる。ところが、総てが穢れているのかというと、そうでもない。清濁
(せいだく)相乱れて、綯(な)い交(ま)ぜになっているのである。善も悪も一緒くただ。

 そして人間の求めるものには、究極に「歓喜」がある。
 その歓喜には、精神的なものと肉体的なものがある。信仰上の法悦は精神的なものである。一方、性交による享楽は肉体的なものである。享楽は肉体を通じて感得できる、唯一の快楽である。これは本能から来るものである。肉体と精神を区別しても、結局は歓喜も快楽も、ともに人間の生理現象なのである。

 人間は本能に帰着する生き物である。本能を離れて、信仰も、歓喜も、法悦もないのだ。
 中途半端な精神は無駄であるし、性交も好みでない相手と嫌々やっても、何も得するところはないであろう。精神にも肉体にも、恐ろしい後遺症を残すのだ。況
(ま)して、嫌々行った性交で、懐妊して子供ができたら大変だ。

 大凶時
(おおまか‐どき)の禁を冒して、出来た子供は世を騒がせるばかりの犯罪者になる。あるいは愚者となる。こうした「禁」を識(し)って交会に及ぶのと、識らずに交会に及ぶのとは、天地の開きがある。
 真言立川流は、霊魂の分散として後世に、世を惑わす者を派生させないことを説いている。同時に「夜の宗教」として、信仰法悦と性的歓喜を併せて説き、その重要性を今に伝えているのである。 
  

大自然の中の壮大なスケールの男魂祭
天を突くように聳え立つ男魂岩(福岡県と大分県にまたがる英彦山・深倉峡)
男女岩

 さて、これからのご案内は、「第一章 真言立川流受法」を除く、「第二章 ドクロ礼拝理論」ならびに「第三章 密教伝四十八手」へと続き、ご案内は次の通りである。
 此処には男女二根交会の真髄が論じてある。

 男女の肉体は、平等ではない。それぞれが異なる体質を持っている。その意味で、男女は決して平等ではないのだ。したがって、女は男に比べて、肉体的にも精神的にも、修行を要する種属である。つまり、神経系ならびにホルモン系の肉体的な働きは、男以上に不安定であるため、更に一般的に見て運動量が少なく、そのために体内に「毒」を残留させやすい種属なのである。

 その最たるものが、「便秘」であろう。便秘は、男よりも女の方が遥かに多い。体質的に毒が残りやすい体質をしているのだ。その上、精神構造上、男に比べて「諦め」が悪く、欲が深い。これは性欲の深さなどからも、容易に窺
(うかが)うことができよう。
 欲が深い、ということは現世を生きていく上で、非常に損な肉体を持っているということになる。このような状態のままで生きていれば、当然、生体を崩壊させる方向に向かいかねない。

 しかし、こうした男に比べて不利な肉体を所有している女も、真言立川流の修法を行うことで、全く男に引けを取らない肉体に改造することができる。
 本来、人間の男女は、男は射精が始まるまで、また女は生理が始まるまで、男女共、引けを取らない肉体を持っていた。この“始まる寸前”まで、男女の双方に肉体的な格差は殆どなかった。
 ところが女の場合、生理が始まりホルモン系が働き出すと、それに完全に振り回されることになる。

 セックス面並びに女性生殖器として、やがて母になるという点では、男はどんなに逆立ちをしても叶わないが、精神構造上の人間としては、人生上の可能性は生理が始まり、ホルモン系が働き出すと同時に、殆ど消えてしまうのである。
 これが「消える」という点を、男はまた理解しなければならないのである。
 女が仮に、男に伍して肉体的な活躍をしても、今度は逆にホルモン系の働きが壊れてしまう。無理して、肉体を酷使すれば、女の体は、肉体的には破壊方向に向かい、肝心な時に力を発揮できなくなってしまう。

 そこで真言立川流は、女の不利な面を修正し、男と同じ土俵の上に上がって、互角に闘える修法を説いているのである。男と同じ土俵に上がり、そこで互角に闘い、かつ共に生き抜けていく、一つの方法は、女が生理が始まる前の、ホルモン系が働く以前の肉体に戻してやることである。
 つまり、生理の始まる前の、少女時代の肉体に戻ることである。しかし、これを完全に逆戻りさせると、胸の膨らみは消え、生理が失せ、女の特徴を失うので、ある意味で両刃の剣であることを忘れてはならない。

 もっとも、真言立川流の修法を確実に行っていけば、完全に逆戻りする以前にホルモン系の働きを失うことはなく、また女性の特徴も失うことはない。これを上手にコントロールすることを真言立川流は「行
(ぎょう)」として説くのである。
 つまり、ぎりぎりのところで女を失うことなく、女の特徴を維持しながら修法していくのである。
 そして、男と同じ土俵に上がって闘える女の肉体の目指すところは、殆ど年齢に関係なく、生理が始まってからの、女性としての生長が止まる
「12歳から19歳までの肉体」の状態を復元させるのである。

 普通、セックスは“年齢相応”という感じで、男女が性交すると考えられているが、交会
(こうえ)に年齢相応などはあり得ない。肉体が重点であるのだから、肉体は、粘りのある、瑞々(みずみず)しい、躍動性に富んだ活動が好ましい。
 そして、女の一番美しいと感じるのは、やはり12歳から19歳までの肉体である。

第一章 真言立川流受法

(オープンべージ)
真言立川流は、わが肉体、それもわが性器である男根・女根を“ご本尊さま”として拝む、「夜の宗教」である。
 現代人は性交あるいはセックスといえば、“鴉
(からす)の行水”で終わらせる御仁(ごじん)が何と多いことか。
 少なくとも、「1時間」は粘りたいものである。“鴉の行水”であってはならない。ここでは手法の数々を挙げてみた。
(この部分は、既に述べた通りである)
第二章 ドクロ礼拝理論

(会員ページ)
ドクロを拝むなんて……という人がいよう。何てグロテスクな……と思う人がいよう。
 しかし、真言立川流は「大地大海思想」に基づく、人間宗教だ。歓喜
(かんぎ)や法悦(ほうえつ)は、自ら体験してそれが「悟り」となり「涅槃(ねはん)」となる。

 宗教は、単に天を仰ぐものばかりでない。天を仰ぐ目線を人間の目の高さにおいて、初めて人間というものが見えてくる。男女二根交会
(だんじょ‐にこん‐こうえ)の意味が、この高さにおいて、初めて理解できるのである。ドクロ礼拝には大きな意味があったのである。
第三章 密教伝四十八手

(会員ページ)
男女二根交会の体位は、密教伝として「四十八手」ある。どなたも、“四十八手”という言葉は聞いたことがあるであろう。ところがこの“四十八手”を把握している人は、殆どいない。自分は強者だと自称している人でも、正しく四十八手のことは識(し)らない。多くは“耳年増”で、識っているふりをしているだけである。

 さて、男女二根交会は密教でいう印契のセックスが合体しているのだ。これをセットで行うことが正しい交会であって、そもそも人間の左右それぞれの五本の指には「五大の密意」が隠されているのである。

 左右の手は「胎蔵界
(たいぞう‐かい)」と「金剛界(こんごう‐かい)」を表す。左手は胎蔵界であり、右手は金剛界である。交会において双方は絡み合うのだから、これはそのまま男女の営みと解すことができる。男女の営みの中で「仏」を観るである。

 女が真言立川流の修法で、12歳から19歳までの肉体を手に入れた時、これを出来るだけ長く維持させるというのが、修法の、また「第二の目標」となる。
 女が、若さや美しさを保てるということは、それだけで神経系を内分泌系を安定させることが出来る。この安定が本当の自信になるのであって、表面的にいかに着飾ろうとも、それは若さや美しさにはならない。この点が特に大事である。

 ところが逆説的にいえば、女は若さや美しさの根本を探ろうとする、それだけに単純な存在だといえなくもない。女は、男に比べて、異性からちやほやされ、モテることにこだわる生き物である。若いとか、美しいとかいわれれば、それだけで有頂天に舞い上がってしまう生き物である。この舞い上がり方は、そもそも「女の過去世
(かこぜ)からの習気(じっけ)」であるから、おそらく死ぬまでそうであろう。

 男は不老長寿を願うが、女は美しくあり、それを愛されて死ぬことを願う生き物である。そして修法により、女が12歳から19歳までの肉体を手に入れた時、男はそれに目を細め、にやにや喜ぶばかりが能ではない。今度は、少女のような女に、男が立ち向かな分ければならないのである。

 男も、若返り、美しくなった女と同じ土俵に上がり、修法しなければならないのである。この修法を怠れば、男は女から陽気を思う存分吸い取られて、女の陰気の「陰圧」に当てられ、あわや“腹上死”という最悪の結果に遭遇するかも知れない。
 共に、実技においては、男も修法を怠ってはならないのだ。

 修法で若返り、美しさを得た女の勢いは凄まじいものがある。男がいい加減な修法をしていたら、即刻、返り討ちに遭うのだ。
 内分泌系の働きをコントロールできるようになった女は、修法不足の男に遭遇すると、遂に男を啖
(く)う存在になるから要注意なのだ。

 したがって、女の陰圧に押し捲られないためには、男は交会のための呼吸法を学び、意識をかける場所は、丹田より「気海
(きかい)」や「関元(かんげん)」などの皮膚面に近い経穴に意識を置き、女から啖われないように心掛けねばならない。男女の両者は、拮抗(きっこう)のとれた交会を男女二根を通じて行うべきで、女の意識が会陰(えいん)より、子宮の入り口に掛けられたとき、男は最も注意しなければならないのである。男が「深み」に嵌(はま)るからだ。そして男は性腺(せいせん)に異常が生じる。

 つまり、男の陽気の発生は、そのままにしておけば、性欲ばかりが強くなって、中途半端な発情期を年から年中していることになり、その割には“口ほどでもない”という状態に陥るのである。早漏などで、軽蔑されるからだ。
 男女は、陽気と陰気を修法によってコントロールし、これが共に拮抗しなければならないのである。



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