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満鉄調査部と傀儡国家・満洲国 1
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満鉄調査部と傀儡国家・満洲国 1

満鉄調査部と傀儡国家・満洲国






かつて中国東北地方に「満洲国」という国があった。勿論このくには傀儡国家であった。
 この国は、日本が満州事変により、中国の東北三省および東部内蒙古
(熱河省)をもって作りあげた傀儡国家である。こうした国の政権を“傀儡政権”という。
 この政権は、他国を占領した国が占領地に樹立して、意思のままに操縦される、形式的にだけ独立した他国の政権のことである。そうした政権が、「満洲国」であった。

 「満洲国」の記憶は、今日では殆ど忘れ去られてしまっている。
 一方、第二次世界大戦や太平洋戦争といった戦争に関しては、社会科の教科書などで繰り返し登場し、その登場の仕方が日本人に自虐的な登場の仕方で戦争への反省を促し、かつて「大東亜戦争といわれたこの戦争は、今ではすっかり“悪の代名詞”に成り下がってしまっている。
 しかし、大東亜戦争と満洲国は決して無関係ではなかった。大東亜の呼称は、東アジアならびに東南アジアとその周辺地域を指す、十五年戦争中の日本での呼称であるからだ。

 太平洋を挟んだ日米間に起こった戦争を“太平洋戦争”という。これは日本が当時呼称した大東亜戦争を、後にアメリカ側に立って公称された呼び名だった。
 しかし大東亜戦争の目的の裏には、欧米勢力を排除して、日本を盟主とする満洲なだびに中国および東南アジア諸民族の共存共栄を説く、表向きの意図が含まれていた。
 この意図には、1940年、外相松岡洋右の談話に由来する「大東亜共栄圏」が絡んでいた。そして傀儡国家・満洲は日本と、利権併合を目論んだ反官半民の南満洲鉄道株式会社
(満鉄)によって殖産興業政策が推し進められ、満洲国の経営が行われたのである。


満鉄が当時世界に誇ったあじあ号。大連・新京間を結ぶ新型の特急列車である。濃い藍色に塗られた「あじあ号」は流線形の車体を持ち、大連と長春(新京)を8時間30分で結んだ、当時世界最高速度を誇った満鉄、ご自慢のパシナ型蒸気機関車だった。

 この列車が運転を開始したのは昭和9年
(1934)のことであり、満州国が帝政を実施した年であった。これまで執政だった溥儀(ふぎ)は皇帝に即位し、「大同」という年号も「康徳」と言う名に改められた。

 この時の「あじあ号」運行については、関東軍の一部から反対の声も上がっていた。それは1キロでも多くの新線を建設すべき時期と言う軍事的な理由からであった。しかし満鉄側は、「あじあ号」運行の為に、各種の運転条件や幹線輸送力の増強が最重要であるとして、反対論者の説得に努めて回った。そしてここに、実質を備えた世界に誇るべき「あじあ号」が、昭和9年11月1日に運行する事になるのである。

 この当時、世界的な流行になりはじめていたのは「流線型」である。流線型ブームが世界の鉄道車両界に席巻をし始めていたのである。流線型にする理由は、“空気抵抗を減らす”ことに尽きられた。空気抵抗を減らし、それによりスピードは速度の2乗に比例するという物理理論が考えられていた。それが、蒸気機関車の上にカバーを被せ、流線型にして線路上を走行させるアイディアだった。そのアイディアのもとに登場したのが、これまで旅客用機関車として花形だったC53とC54だった。それが後に満鉄で採用されたパシナ型蒸気機関車だった。


●日本人は、どうして満鉄をタブー視するのか

 日本人で、かつて満洲の曠野(こうや)に、港町大連から新京まで、「あじあ号」を走らせた満鉄(南満州鉄道)という鉄道会社があった事を知る人が少ない。同社は半官半民の国策会社で、炭鉱・港湾等の経営、鉄道付属地の行政をも担当したアジア随一の巨大企業であった。

 しかし、「満鉄」の響きは、日本の中国大陸進出の植民地をイメージする為か、これを正面切って語る人は少ない。
 日本が同社の経営権を手に入れたのは、日露戦争後、ポーツマス条約によって譲渡された東清鉄道支線を基とした事から始まった。またこの時、日本の大陸進出の橋頭堡
(きょうとうほ)になった事も、紛(まぎ)れもない事実だ。それ故に、あまり語られない。

満蒙・中支大地図(この地図の発行はいつの頃か不明だが、後の満洲国の首都になる新京こと“長春”は、そのままの呼称が使われているため、満洲国建国(1932年)以前のものと思われる)

 
1905年のポーツマス条約の調印により、日露戦争が終結した。この終結に伴い、日本は中国東北地方の支配を本格的にはじめた。この中国東北地方の大地が「満洲」だった。
 満洲と呼称された理由は、この地が、中国最後の王朝であった清王朝を建国した満洲族の故地であったからである。

 清王朝は、女直
(じょちょく)族のヌルハチが、1616年帝位(太祖)について、国号を「後金」と称し、瀋陽を都したことからはじまる。そしてその子・太宗は36年国号を「清」と改め、孫の世祖の時に中国に入って北京を都としたのである。清王朝が栄えるのは、康熙・雍正・乾隆の三帝の頃である。しかし辛亥革命によって、第十二世で滅亡した。1912年のことである。

 ところが1932年、満洲事変の後、関東軍が傀儡政権として、満洲国政府を強引に建国するのである。これにより、満洲の語源は地名として機能することになる。更に他には、「傀儡国家・満洲国」を指すようになり、これは国際的に見て、日本は世界の孤児として孤立の道を歩むことになる。

 当時、満鉄には、大連・新京しんきょう/満洲国時代の首都・新京のことで、1932年、もと清の宣統帝であった溥儀(ふぎ)を執政として建国した満洲国の首都である。それまで長春と呼ばれて居たこの地は、満洲国の建国と共に新京と呼ばれた)間の本線と、幾つかの支線があった。満鉄は、満洲建国後は改組などにより、鉄道経営中心となる。その為に、大陸進出の植民地のイメージが強い。

 当時、大陸に進出した日本人の意識には、五族共栄のスローガンを掲げながらも、日本を盟主とする満洲・中国および東南アジア諸民族の共存共栄を目指していた。しかしこれが、やがて大東亜戦争
(太平洋戦争)の引き金となった。そしてこの戦争がどのように熾烈で、日本国民が辛酸を舐めたか、こうした事実から、今日では当時の「赤い夕陽の満洲」が語られる事は殆ど無い。

 それは同時に、満鉄もタブー視する考え方が生まれ、かつての満鉄マンの優れた鉄道技術は、殆ど後世に伝わっていない。また、これ等が伝わらないばかりか、マスコミなどの報道機関も、かつて満洲の彼地
(かのち)に、当時、世界最高水準に達していた「あじあ号」の事を一言も報道しようとしない。それままるで、日本の恥部を隠すかのようにである。

 満洲や満鉄を持ち出すと、日本人の過去には暗い負い目があるのだろうか。あるいは、中国人に対して、悪魔のような振る舞いをしたことから、その恥部を後世の人に伝えないようにしているのだろうか。
 ともあれ、当時の日本人が、日露戦争での勝利の結果、ポーツマス条約によって譲渡された東清鉄道支線をもととし、大連・長春間の本線と、幾つかの支線を支配し、その鉄道沿線から徐々に支配の触手を拡げて言った事は事実であった。これが明治39年
(1906)年設立された南満州鉄道株式会社、ならびに同社経営保護にあたった関東軍との腐れ縁の歴史の開幕となる。

 そして、日中戦争当時、この期間を通じて満洲に移住した日本人の大半は、関東軍の存在によって、生命や財産などの安全保障を期待していたと言ってよい。厳しい言い方をすれば、関東軍に期待する余り、「虎の威を藉
(か)る狐」と化していたのが、当時、満洲に渡った日本人の偽わざる姿だった。

当時の日本人の顔の中には、満洲族やその他の民族の中国人民の意識以上に、優越感をもって、これらの民族を見下して居たことは事実であった。「日の丸」の小旗を振る日本人の笑顔の中には、大人から子供まで優越感が漂っていた。
 写真は奉天暴動により、動揺した日本人居留民は昭和6年12月26日に、日本軍増援部隊の到着に湧く、家族総ぐるみでの歓迎であった。
(毎日新聞社刊『一億人の昭和史』より)

到着した増援部隊。増援部隊の主力は、広島部隊であり、昭和7年1月3日、戦わずして錦州を撤退した張学良軍は日本軍の山海関ならびに天津での増兵を黙認することになる。
 増援部隊は、到着を待ちわびていた日本人居留民に頼もしげな視線を浴びて、万国橋を通過し、意気揚々の行進を続けた。
(毎日新聞社刊『一億人の昭和史』より)

 これは別な言い方をすれば、当時、満洲に移住した如何なる職業の人も、あるいはその人が極めて善人的で慈愛深い心を持って居たとしても、人間の尊厳と人民平等の原則から照らし合わせても、当時の日本人は古くからこの地に棲(す)む満洲人(中国東北地方の東北部から南部一帯にかけて分布した満洲族)に対し、優越的な感情を持って居たことは事実であろう。
 これは取りも直さず、満洲人やその他の中国人民の、上前を跳ねる生活を享受して居た事になる。こうした歴史の中で、今もなお、日本人の心の中には、当時の後ろめたさに負い目を感じているのであろうか。

 また、こうした負い目が歴史の中にあるから、満洲と満鉄の事は、固く口を閉ざして語らないのであろうか。
 満鉄。それは当時、東洋最大の一大コンツェルンであった。同社は半官半民の国策会社で、炭鉱や港湾等の経営に乗り出し、また、鉄道付属地の行政をも担当した。満洲建国後は改組などにより、鉄道経営中心の巨大会社として発展した。
 そして、満鉄のシンボルこそ、当時、鉄道技術では世界最高水準に達していた、特急「あじあ号」であり、この機関車は流線形のパシナ型と呼ばれる者もので、六輛編成のこの列車は時代のシンボルマークとも成得たものだった。

あじあ号・パナシ型初期のもの
新型のパナシ12

 これはSLファンの“鉄ちゃん”にとっても、決して見逃せない必見なのだが、こうした鉄道愛好家の間でも、「あじあ号」の事はあまり語れることがない。したがって、テレビの鉄道ファン向けの報道にしても、当時、世界最高水準だった蒸気機関車の「あじあ号」のことは決して報道されない。
 それは今日に至っても、実に意図的であり、決して触れられたくない恥部のような扱いをしている。そして、これは非常に残念な事であり、意図的に何らかの外国の政治的な圧力が掛かっているようにも思える。

 満鉄と満洲国は切っても切れない関係にあった。満洲国は、物資輸送の面で満鉄が一手に担っていたからだ。更に満鉄は、関東軍との関係も密接であった。満鉄の鉄道保護をしていたのは関東軍であるからだ。
 特に満洲事変以降、満洲に駐屯理由の口実をもうけたのは関東軍だった。満洲事変は関東軍が仕掛けた侵略戦争にも関わらず、日本軍はこの地に駐屯したのであった。その理由は、鉄道の保護ということだった。

 満鉄本線のうち、関東州外を走る部分は625kmであった。この沿線に1kmにつき、15人の保護兵力が認められていたからだ。これを保護するには、最大9375人の将兵が満洲に駐屯できる計算になる。また、この兵力は日本陸軍の約1個師団に相当するものだった。
 これを口実に、関東軍は満洲全土を制圧し、日本は満洲の支配・運営に乗り出していくことになるのである。



●満洲支配のもう一つの構図

 1905年、ポーツマス条約の調印により、日露戦争が終結した。
 この終結に伴い、日本は中国東北地方の「満洲」の支配に乗り出していく。満洲は、行政上は東北三省
(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部にわたり、中国ではこの地方のことを「満洲」と呼ぶことになる。満洲の語源は、国東北地方の東北部から南部一帯にかけて分布した民族の“南方ツングース系”を指して、ここを「満洲」と呼ぶようになる。
 そして満洲は周知の通り、1932年、日本が満州事変により、中国の東北三省および東部内蒙古
(熱河省)をもって作りあげた傀儡国家である。

 また、国家元首として元清の宣統帝であった溥儀
(ふぎ)を執政として建国した国であり、34年に溥儀が皇帝に即位するのである。これは関東軍の画策であったことは言うまでもない。そして長春Changchun/ 中国吉林省中部にある省都で、1932〜45年満洲国の首都・新京と呼ばれた)を新京とし、そこを満洲国の首都とした。
 その後、1945年8月15日の日本の敗戦に伴い、満洲は消滅することになる。わずか13年の短命な国家だった。戦後、中国では「偽満洲国」と称した。

 では何ゆえ、「偽満洲国」と呼ばれたのか。
 これは厳密にいえば、「満洲国」は国家名称であったからだ。この国が国際上、国家として認められるか否かは別としても、「満洲」の呼称は、中国東北地方の支配地全体を指して、これを偽装の国名にしたからである。日本の満洲支配は、わずかに13年だった。
 しかし満洲国建国以前に、既に日本人は30万人以上もの者が居住していたのである。この日本人の「30万人」という数は、二十世紀前半の東洋史を考える上では重要な意味を持つのである。

 戦後の日本では、「満洲」と「満洲国」との区別が明確にされなくなってしまった。
 一般に“満洲”というと、中国東北地方という漠然とした意味で用いられ、日本が打ち建てた「満洲国」との区別が不明確であり、その意味が釈然としない。それに伴い、日本がこの地を支配したという歴史も、侵略も、実に曖昧
(あいまい)なものとなってしまった。

 更に「満洲国」には、いかなる仕掛けがあり、陰謀や画策があったか、殆ど分からなってしまった。歴史の闇の葬られた観も少なくない。ところが、実は「満洲国」の仕掛けには、巧妙な陰謀と幻想があったのである。
 「陰謀」は、いつの時代も存在する。
 人間の刻み込む歴史の中には、意図的に歴史を動かすものが少なくない。特に十七世紀後半以降は、何者かの意図により、歴史が動かされている。ある流脈を持った目的により、人為的に誘導されることが明確になっている。歴史に裏が登場したのは、この時からだった。

 したがって歴史の動きは、決して自然体でもないし、自然発生的なものは、近代史においては殆ど見られないのである。人間の手で画策され、作り出されたものである。それが近代史を色取る「陰謀」である。
 したがって、また「戦争」もその根底には陰謀の匂いが漂っていないのか。
 その最たるものが、「ユダヤ満洲共和国計画」というものであり、この計画は『河豚
(ふぐ)計画』というものだった。

 私たち日本人が河豚に抱くイメージは、河豚は猛毒を持っているが、その調理の仕方次第では、実に美味しいものになるという感想を持っている。河豚を、うまく調理しようとする試みが見られたのが、実は満洲だった。河豚の持つ猛毒を取り除き、うまく調理して、いわば満洲の地に、イスラエルを建国しようとする計画が試みられたのであった。この計画は「ユダヤ満洲共和国計画」と言われた。
 この計画の骨子は、アメリカに介在するユダヤ資本を満洲に出資させて、此処にイスラエルを建国しようと言う計画であった。

 ところが、この計画にアメリカは乗ってこなかった。そのため、河豚計画は挫折する。満洲は、こうしたアメリカ系ユダヤ人の目論みも絡んでいたのである。そして、十把一絡げにこの地・中国東北地方を安易に「満洲」と呼ぶ。しかしこの地では、満洲がイスラエルとの網状組織
(ネットワーク)を持っていたことだ。もし、ユダヤとのネットワークが完成していたら、その後の満洲は、昭和20年8月15日の日本敗戦による結末とは違ったものが展開されていたであろう。

 日本敗戦間際の「戦争体制崩壊」から「敗戦までの流れ」が変わったかも知れないと言うことだ。
 日本が敗戦する流れは、まず昭和19年のアメリカ軍によるマーシャル群島
(西太平洋、ミクロネシアの東部に散在する珊瑚島・環礁から成る群島で、第二次大戦終結まで日本の委任統治領)上陸に始まる。これに際して、軍部は「決戦非常措置要領」が出される。しかし昭和19年7月にはサイパン島が陥落する。この陥落により、東条内閣が倒れた。
 次にアメリカ軍はレイテ島に上陸した。この上陸はB29による東京空襲を可能にしたのだった。
 以降、昭和20年より飛び石作戦によって硫黄島玉砕、沖縄上陸を容易にならしめ、日本の敗戦は秒読み段階に入った。
 そしてソ連は、日ソ中立条約
(1941年4月、日本とソ連との間に締結された中立条約)不延長通告を行い、8月の対日参戦によりこの条約は失効した。

 日本がポツダム宣言を受諾するまでの流れは、その間に広島
(8月6日)と長崎(8月9日)に人類初の原子爆弾投下があり、ソ連の対日宣戦(8月8日夜)があり、そしてポツダム宣言受諾へと、流れが急転していく。この年の5月、ヨーロッパでは、ドイツが無条件降伏している。

 この一連の流れの中で、満洲の担ったチャンスは、日本軍部が描いたものとは違った満洲像が存在した可能性があったということだ。つまりそれが日本とユダヤの「満洲併合論」であり、『日猶満洲共和国計画』の構想があったということである。その根底には、日本人とユダヤ人の同祖論があったからだ。
 これは日本が間接的に「ユダヤ問題」に関わる第一歩であり、日本の近代史は、ある意味で“陰謀史観”の起源といってもいい時期であった。



●満洲に巡らされた陰謀

 1930年代前半の満洲建国を前後にして、世界は第二次世界大戦さらには大東亜戦争へと、戦争が東洋にも波及しつつあった。
 近代史を色取る戦争の歴史は、日本では社会科の教科書によれば、1940年9月、第二次大戦中の枢軸国であった日本・ドイツ・イタリアの三国間に結ばれた三国間の「日独伊軍事同盟」に始まり、昭和20年8月15日のポツダム宣言ならびに無条件降伏の終戦への間に、様々な出来事が起こっている。

東京赤坂で行われた昭和11年の日独防共協定締結祝賀会。

 しかし、これを今さら知っても、どうなる訳ではないという意見もある。あるいは知らなくても、特別に困るということもないという意見もある。人それぞれだ。知らなくても、その後の人生は全うできるからである。
 だか、近代史におけるこの流れの中に、今日の現代日本人の進むべき方向があることも、また事実である。
 そして、知らなくても人生は全うできるが、それは同時に知らないことは、明日の日本の未来を失うことになるのではないか。

 過去を紐解
(ひも‐ど)き、「なぜ戦争が起きてしまったのか?」あるいは「どういうメカニズムで、先の対戦が起こったのか?」という疑問を探究すると、そこには今でも、なお深く考えさせられることが横たわっていることに気付かされる。
 だからこそ、過去を学び、歴史を学ぶことは、決して無駄なことでもなく、また未来を失うことにもならない。よき教訓となる。
 この「学び」の中に、当時どういう思惑があったのか、何を目論んで歴史を刻もうとしたのか、その原点に振り返る必要があろう。

 更には、当時の日本人が、戦争へと向かう時代の中で、何を考え、何を思い、どんな気持ちでこれを受け止めていたのか、それをもう一度検証してみる必要があろう。そして検証すると、そこに見えるのは欧米の陰謀が垣間見えてくるのである。陰謀は、自然発生的に起こるものでないからだ。

 人間の有史以来の歴史は、戦争の歴史である。そして戦争とセットになっているのが、その裏側を司る水面下の「陰謀」である。
 人為的に齎
(もたら)された陰謀は、その殆どが暴露されずに歴史の闇の部分に葬り去れていくが、しかし、陰謀が幾ら否定されても歴史の水面下を構成する一つになっている。したがって、陰謀は度々繰り返されるのである。だからこそ、ある意味で陰謀は荒唐無稽(こうとう‐むけい)で馬鹿馬鹿しいと揶揄(やゆ)されながらも、繰り返し浮上し、歴史の闇の部分を構成しているのである。

 歴史を見る場合、普通正史は“陰謀”という事柄を、まともに扱ってこなかった。荒唐無稽だと頭から否定し続けてきた。
 ところが陰謀の見えざる部分を探究していくと、そこには新たな歴史の切り口が浮上してくるのである。
 近代史の一つに、満洲国という傀儡国家があった。当時の日本陸軍
(関東軍)が捏(でっ)ち上げた国家である。
 この国家は傀儡故に、長い間語ることが禁じられてきた。満洲国を語ることは、日本の近代史にとって長い間タブーとされてきた。また昭和初期に登場する満洲国という事柄は、単に中国東北部の、日本が捏造
(ねつぞう)した砂上の楼閣であったと伝える程度のものである。
 だが、その捏造の裏には、日本の思惑だけではなく、此処に絡んでいたのはドイツであり、またアメリカであった。そしてユダヤまでもが複雑に絡んでいたのである。

 1931年9月18日、満州事変が起こる。しかしその実は、奉天
(今の瀋陽)北方の柳条湖(りゅうじょうこ)の鉄道爆破事件を契機とする日本の、中国東北への侵略戦争である。侵略である以上、そこには人為的な力が働いていた。
 「事変」とは、何とも都合のいい言葉である。
 そもそも戦争は、人為的に起こるものだが、これが“事変”となると、天災その他の変事あるいは人力で避けられない出来事として大義名分が成り立つからである
。そのために都合のいい言葉である。

 満州事変の発端となったのは「柳条湖
事件」である。
 同年の9月18日夜、関東軍は参謀・石原莞爾
(いしわら‐かんじ)中佐(当時)らの謀略計画により、柳条湖で満鉄線路を爆破した。これを中国軍の仕業(しわざ)と偽ったのである。これを大義名分として日本軍は攻撃を開始した。
 当時の日本の戦争指導者たちは、「事変」と言う言葉を巧みに使い分けながら、戦争へと、どんどん突き進むような日本の世論を操作したのだった。

 さて満州事変が勃発した時、満鉄の鉄道守備隊
(大連・長春間の本線と、幾つかの支線の警備)であった関東軍は、“満洲併合論”を展開していた。関東軍は、もとは満洲に駐屯した日本陸軍部隊に過ぎなかった。
 ところが、日露戦争後置かれた関東都督府が大正八年
(1919)、関東庁へ改組された際、その陸軍部が独立した形をとり、日本の満州支配の中核的役割を担うようになった。やがて、満洲併合論に始まった満洲支配の策は、その後、独立国案が浮上することになる。

 日露戦争終結の結果、日本が獲得した満洲における利権は次の通りだった。

旅順・大連を中心に、遼東半島南部の租借権を有する。
寛城子(長春)以南の東清鉄道線とその沿線に広がる鉄道附属地ならびに鉄道に付属する鉱山の経営権を有する。
安東県・奉天間の鉄道の経営権を有する。
鴨緑江(おうりょっ‐こう)流域での木材の伐採権を有する。

 日本は明治38年9月5日のポーツマス条約により、以上の四つの権利を有したのである。そして特記事項としては、領土問題として、日本の韓国における権益の確認、ならびに樺太南半の割譲などを得たのだが、賠償金は得られなかったのである。
 したがって日本政府は、これらの利権を有効に行使するために旅順に関東都督府を設置し、対応策を講じたのであった。そして利権の鉄道経営権に対して「満鉄」を設立し、また朝鮮と中国東北部との国境をなす流域の鴨緑江
(白頭山(長白山)に発源し、南西流して黄海に注ぐ川)に日清合併の木材会社である「鴨緑江採木公司」を設立したのだった。

 明治39年
(1906)南満州鉄道株式会社が設立された。
 この会社は、日露戦争後、ポーツマス条約によって譲渡された東清鉄道支線をもととし、大連・長春間の本線と、幾つかの支線があった。同社は半官半民の国策会社である。他にも、炭鉱・港湾等の経営、ならびに鉄道付属地の行政をも担当した。満洲建国後は改組などにより、鉄道経営が中心となる。
 そして翌年の4月1日には、満鉄本社は大連に移転し、会社経営を一層強化して経営に乗り出すのである。

 だか、満鉄は単なる鉄道会社ではなかった。炭鉱や港湾等の経営も行い、満洲支配の根幹をなした鉄道附属地の行政までもを担当したのである。これにより満鉄は特異なる会社組織であったことが分かる。
 満鉄は設立当時、資本金は2億円であった。その半分の1億円は民間からの株式募集で掻
(か)き集めたものだったが、残りの半分は政府出資であった。

 ところが日露戦争で国家予算の四倍に相当する19億円の戦費を使った日本政府は、極度な財政難に陥ったため、政府出資の1億円は、それに相当する土地や建物や車輛などの現物出資であった。この現物出資となったものは、何
(いず)れも日露戦争中に日本軍がロシアから接収した鹵獲品(ろかく‐ひん)だった。一言でいうと、日露戦争に参戦した日本の将兵の血と涙と汗によって獲得した戦利品だった。

 満鉄設立に当たっては、有能な人材を多方面から多く募った。日本政府の官吏が満鉄社員になる場合は、在官のままで入社が許され、その組織形態は民間会社でありながら、実態は政府機関と何ら変わりがなかったのである。こうして満鉄は、当時としては世界規模の一大コンツェルンへと巨大化していくのである。
 そしてこの一大コンツェルンは、満洲国と大きく関わっていくことになるのである。同時にそれは、戦争とも無関係ではすまされない方向へと向かっていくのである。

 満洲国と満鉄の関係は密接である。満鉄によって傀儡国家が作られたといってもよい。日本は、満洲を“日本の生命線”とまで言い切ったのである。その日本の生命線に「ユダヤ問題」が絡んでくる。
 ユダヤ人は、満洲に日猶併合論を持ち出して、「ユダヤ満洲共和国計画」を押し進めようとしていたからだ。この計画を『河豚
(ふぐ)計画』という。
 この名前の由来は、河豚は珍味で実に美味しい魚だが、その魚は毒を持っている。しかし、この毒も、調理次第では命の関わるような河豚の毒は回避できる。毒を除けば、実に美味しい魚なのだ。
 だからこの地に、ユダヤ人を受け入れるという計画を立てていたらしい。単刀直入に言えば、満洲にイスラエルを建国すると言う計画である。

 この計画には、アメリカ系のユダヤ人の国際ユダヤ金融資本を、満洲に出資させるという計画が推し進められていた。それにより、建国されたイスラエルを繁栄させようとする狙いがあったらしい。
 「もしも」という論でいけば、ドイツを追われたユダヤ人の命は数十万人以上もの命が助かったのではないか?と言われる。しかし、この計画は挫折した。日本軍首脳が懸念を示したからだ。
 また「もしも」という論でいけば、“太平洋戦争”も回避できたと言うのである。果たしてそうだろうか?

 昭和16年当時の日米開戦の是非を問うのは、当時も現在も不毛なことである。
 太平洋戦争が勃発する起因を作ったのは、日本陸軍の暴走によって、この戦争が起こったと現代史は結論を出しているが、果たしてその見解は正しいだろうか。
 “陸軍の暴走……云々”を挙げるのなら、海軍の真珠湾奇襲作戦は暴走ではなかったのか。不意打ちし、アメリカ国民に“リメンバー・パール・ハーバー”の国民感情を逆撫
(さか‐な)でしたこの行為は、果たして暴走ではなかったと言えるのだろうか。
 戦争を引き合いに出すとき、結論を吟味しないまま決着を急ぐのはあまりにも短絡的である。また、当時の国際情勢を考えると、問題は一言で言えるほど、単純ではなかったのである。

 当時、欧米は日本に対し、「満洲から手を引け」と脅しを掛けていた。特にアメリカの脅しは物凄かった。満洲から手を引けば、石油禁輸措置は解除するという交換条件を出していた。この交換条件に乗って、日本が満洲から手を引いていれば、本当に太平洋戦争は回避することができたのだろうか。
 日本が英米蘭国の参加国の要求を受け入れ、満洲から全面撤退していたら、その後の戦争は避けられたと言うのであろうか。また、日本が全面撤退した後の満洲は、中国人の手に返還されたのだろうか。いや、そんなはずはない。日本に代わり、満洲は欧米人の手によって、別の支配があったはずである。東南アジア方面の植民地化も激化を極めたはずである。

 当時の日本が仮に、この交換条件に乗ったとしよう。これにより当面は、石油禁輸措置は解除され、日本に石油が齎
(もたら)されることになろう。ところが、これは一時的なことである。その上、大陸から閉め出されて、後は欧米の意のままに日本は締め付けられただろう。日本に残された唯一の外貨獲得方法も、根こそぎ毟(む)り取られ、遠からず日本は欧米支配の構図の中に取り込まれて、困窮の道を辿ったことは想像に難しくない。
 先の大戦を語る時、多くの歴史家たちや進歩的文化人は、欧米支配下に組み込まれ、そこで経済危機にもがく日本の姿を見逃しているのである。

 確かに満洲は日本の植民地政策によって、拡充された傀儡国家であった。外国に資源を求めること以外できない日本は、欧米列強の大国の狭間
(はざま)で孤立することは目に見えていた。
 当時を振り返れば、圧倒的な経済力と工業力を誇る大国アメリカでさえ、ハワイ、パナマ、フィリピンを植民地化していたのである。その上で、日本が経営してきた満洲にまで割り込み、これを取り上げようとするこの企ては、海外市場の奪い合いによって、戦争が画策されているといっても言い過ぎではないだろう。先の大戦は、日本が仕掛けたと言うよりも、戦争に誘導する仕掛けを作ったのは、アメリカの方だという論理も成り立つのである。その槍玉に挙がったのが満洲だった。



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