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武術家心身体質改造術 1

柳生『天狗の抄』と柳生一族の墓



●江戸期の武士は全人口の7%に過ぎなかった

 日本は先祖代々の口伝(くちづた)いとして「尚武の国」と言われてきた。
 この国では、武事や軍事を重んずる気風があると思われてきた。誰もがそう思い込んでいる。だからそれを称して「文武の国」とも言われてきた。文と武が両輪の輪の如しだったからである。だから“文武”という。いずれも劣っては駄目だった。

 ところが、徳川時代、江戸時代という時代を見れば、この265年間の時代は、何と「非武装時代」だったのである。武が軽視された時代だった。文に重きを置いた。
 江戸年間、日本は武装を放棄し、事実上軍隊は存在しなかった時代であった。軍隊ではなく、警察力で賄
(まかな)えた時代だった。

 16世紀から始まった戦国時代は17世紀に入ると、その面影を消した。以降、大きな戦乱は起こらなかった。
 戦国期の名残と言えば、江戸初期の「大阪の陣」と「島原の乱」を最後に、日本では武事や軍事を重んずることは、はたと止まってしまった。それ以降の軍事行動は、日本では明治維新を迎えるまで何も起こらなかった。日本は徳川時代に入って、非武装を宣言したのだった。武器の放棄したのだった。この時代に入って流行したのは「素肌武道」だった。武器もたない柔術や唐手術が流行した。刃物などの武器を交えなくとも、素手で遣り合うものが流行し、これらは武士だけでなく、町人も学ぶことが出来た。そして町家に広まってこれらの武芸を、「旦那芸」といった。

 江戸期、確かに刀を差した武士はいた。二本指しの武士は居た。
 武士と言われる身分の職業人はいたが、これらの職業人は軍事を司る軍人ではなかった。単なる官吏だった。当時の武士の武力を考えるならば、せいぜい今日で言う警察力程度のもので、それ以外の行動に出るものではなかった。役人だったが軍人ではなかった。

 さて、一つの集団が軍隊として求められるためには、まず二つの条件を満たさなければならない。
 その一つは、他に勝る重装備を持ち、それ相当の武器を所有していることである。
 そして更にもう一つは、集団としての自己完結性を持っていることである。

 自己完結性とはその集団が、他に頼らず、自前で、自分自身の面倒が見れると言うことである。集団内部で一切を行うことのできる機能を内包したものが軍隊であり、その条件に見たない場合は、その集団を軍隊とは言わない。

 軍事機能を有した軍隊は、長期戦でも戦えるように遠征地でも可能な、移動性に富んだ宿泊設備を持ち、食糧と燃料を常に携帯していて、それらを輸送する手段を有し、建物や橋を架ける工兵までもを有し、医療設備の運営や葬儀用の宗教者までもを含んでいることが「自己完結性」なのである。
 同時にその中には、行政や裁判所の機能までもがなければならないのである。

 戦場とは、極めて非日常で、然
(しか)も非情な状況下におかれる場所である。戦闘と言う苛烈(かれつ)な行動が課せられる場合は当然であろう。
 したがって、同じ武器を持つ集団であっても、軍隊と警察が異なるのは、前者は自己完結性があるのに対し、後者はそれを持たないと言うことである。

 江戸期の武士は、その総数が僅かに7%と言われている。全体の7%に過ぎなかった。5%だったという説もある。
 当時の日本人の5〜7%が武家だったのである。極めて少ない数である。
 仮に7%として、残りの93%は、武器とは無縁の人たちであった。武術とは無縁の人たちであった。争うことも知らな人たちだった。だから江戸年間は飢饉を除けば、平和だったと言える。
 そして、この現実を考えれば、この時代は、日本中が非武装国家であると言うことが分かる。

 徳川幕府は、実に250年以上の“二世紀半”も続いた「非武装中立政策」と言う異例な政策を敷いた幕府だった。戦争放棄の幕府だった。ゆえに元禄時代では、町人文化は花開いた。この世の春を謳歌した。江戸中期には、元禄花見踊
(げんろく‐はなみおどり)に見るような、艶やかな時代が出現した。歌舞伎舞踊がはやり、長唄などがはやった。元禄文学もこの時代の中心となり、俳諧・小説・演劇などで町人文学が上方を中心に一つの頂点に達した時期である。
 それと引き換えに、尚武の心を忘れた。


花開いた町人文化。これは非武装国家を目指した徳川幕府の恩恵だった。ところが、崩壊させたものもあった。いつの間にか日本人は「尚武の民」の自覚をなくし、「尚武の心」を忘れてしまったのである。

 江戸時代は確かに平和だった。三大飢饉を除けば、この265年間は平和だったと言える。平和の眠りを醒まされたのは、幕末、外圧のよってである。泰平の眠りは、アメリカの砲艦外交によって叩き起こされてしまったのだった。しかし、二世紀半の眠りは大きかった。あまりにも長い間、眠り続けたのだった。

 そしてその間に、尚武の心まで眠り付いたのだった。近代の日本人の意識からは、「戦うこと」の意味すら消え失せたのだった。
 その逆効果が顕著に現れたのが、「先の大戦」の敗北だった。昭和の陸海軍は、265年の泰平の眠りの後遺症で、戦争という現実を完全に忘れ、夜郎自大に陥り、負け戦を仕出かしたのだった。

 これは徳川幕府が「世界の平和を愛する極東の国」と言うものを標榜(ひょうぼう)したものでもなく、戦争放棄を掲げたものでもなかった。
 単に日本と言う極東の島国が、政治的かつ経済的に、当時の諸外国が目を向けて侵略するに値しない国であったというだけに過ぎなかった。これにより、これまでは外圧の脅威を免れてきた。

 更に、この時代の日本人を論ずるならば、軍事思想や戦争観は殆ど希薄の状態で、徳川幕府が支配した日本ではこれにより、いよいよ軍事的発想は欠落していったのである。
 それに代わって、官吏の武士ではなく、武芸者としての武士が、幕末に擡頭
(たいとう)するのである。

 そして彼等の掲げたものは、「何とともに死のうか」あるいは「何とともに滅びようか」と言うものだった。
 こうして人間は「死ぬ何か」を見つけた場合、普段の臆病者も勇者となるのである。幕末、こうした武芸の武士が多く輩出された。維新はこの原動力で動いた。死ぬ何かを、この当時の武士は見出していたからである。それは尊王攘夷に賭
(か)けることだった。それに命を賭けることだった。特に下級武士に、この気概があった。

 日本もアメリカの砲艦外交の結果、また中国でのアヘン戦争の結果、泰平の眠りから眼を醒
(さ)ました。265年間もの泰平の眠りから眼を醒ました。黒船の来航の砲声で、長い眠りから醒めた。目が醒めたものの、その間に、しかし尚武の心は失われていた。外圧によって、危機意識を持った。この巻き返しが大変だった。
 明治期は、この巻き返しで躍起になった時代だった。富国強兵に奔走する時代だった。有能な軍人を育成し、戦争観を認識させ、尚武の心を取り戻す必要があったからだ。

 明治の陸海軍はそれに邁進し、真摯に努力した。
 しかし昭和になって、日本軍は官僚化した。軍隊官僚が出現した。士官学校や兵学校の卒業年の成績によって重要ポストが決まるという、官僚への道に走り、心得違いをした軍人などは、夜郎自大に陥って、威張り腐るだけだった。尚武の心の欠如からだった。

特攻隊出撃。滅びの美学……。何とも後味の悪い結末か。そして戦争指導者たちは頬っ被りした。この現実に誰も責任をとった高官は居ない。

戦い済んで、飛行機焼いて、国民の血税を無駄にして、その挙げ句が敗戦国。戦争は負けた時から本当の地獄が始まる。

 そして敗戦間際、日本軍の選択した道は、「滅びの美学」だった。死を美化することだった。
 戦争を知らない世代は、何も戦後生まれの子供たちばかりだけではなかった。戦前生まれにも、戦中生まれにも、“戦争を知らない子供たち”は沢山居たのである。
 日本人は、尚武の心を忘れた結果、老いも若きも、みな戦争観が欠如してしまったのだった。敗戦の結果、「戦争は悍
(おぞま)しい」という意識まで抱いた。正しい戦争観を持ち得なくなった。何でも反対を唱えれば、戦争は起こらないと思い込むようになった。

 そこで、先の大戦を悪とした。戦前・戦中は総て間違っていたと決めつけた。日本人は一億総懺悔しなければならないと、自虐的な立場に追い込まれた。
 戦後の反戦論は、自虐的な考え方から始まった。その自虐的な考え方こそ、次世代の歴史を検証する能力を奪うことになる。

 戦後生まれの戦争を知らない子供たちは、戦後教育の中で、正しい歴史認識を奪う教育をされ、その後遺症は今もなお続いている。正しい歴史認識こそ、そこには知性や理性で物事を解釈する思考が生まれるのだが、これを戦後教育は、日教組に与
(く)する教師たちが「感情論」で学校の現場で教え、それを真に受けた当時の生徒たちは大人になって、暴力革命で帝国主義を殲滅させるという思想に取り憑かれた。
 戦後生まれの、1970年代の若者の暴挙と暴力は、日教組教育の顕著な反映だった。

 戦争は、もうこりごりだという意識とは裏腹に、軍国主義に反対する感情こそ、絶対正義とした考え方を培養し、これが長らく正義の座に君臨している。感情のみで反戦に訴えるのが主力であり、なぜ戦争が起こったか……のメカニズムを殆ど検証させないのである。武器を遠ざければ戦争がないと、楽天的な思考へと誘い、物の見方を情緒や感情で訴える固定観念へと導いたことだ。
 日本人は、戦後一億総楽天家に改造されたことだ。
 今日の悪しき個人主義が、これを雄弁に物語っている。
 日本人がおかしくなった原因は戦後教育にある。戦争の教訓を学ばせなかった戦後教育にある。武器を遠ざけ、徒党を組んで反戦を高らかに叫べば、それで戦争が起こらないとしたことだった。果たして、世界はこれで戦争がなくなっただろうか。

 日本人は戦争を知らなかった。負けると言う意味を知らなかった。負けた時から地獄が始まるということを知らなかった。そして戦後は、教訓を学ぶということも怠った。そのツケが、再び巡り巡っている。外圧の無理難題は、これを顕わしている。

 戦争を知らないから、先の大戦では負けた。
 引き分けにすら導けなかった。勝たなくても、負けないことくらいの努力はするべきだったが、その努力も怠り、敗戦国へと導いてしまった。昭和の陸海軍の軍首脳は、無能の単なる軍隊官僚だった。軍事と軍隊の官僚主義が、いわば負けない戦争を、待てる戦いにしてしまったのだった。軍事観の欠如である。
 理由は戦争観を持て得なかったからだ。先の大戦を戦った、高級軍人の中にも、「戦争を知らない大人たち」は沢山したのである。何も戦後の、“戦争を知らない子供たち”ばかりではなかった。



●武の道の「伝統」と「伝承」の違い

 戦争を知らない「戦後生まれの子供たち」は、伝統と伝承の違いも知らない。両者を同じように考えている。
 それはあたかも、運命と宿命を同じ用に考える思考と似ている。運命がダイナミックな躍動をするのに、宿命は固定で決まりきったシナリオ通りに進むこうした観念で、「運」を捉えたり、「命」を捉えたりしている。したがって、両者は根本的に違うものである。

 この違いは、「伝統」と「伝承」においても言えることができる。
 昨今はこれを、ごちゃ混ぜにしている。そして間違って使われている。その違いも分からないままに……である。
 伝統と伝承の違いは、右脳と左脳の違い程ある。同じ頭骨の中に入っているのだが、右と左では全く違う。右半球と左半球では全く違うのである。伝統と伝承も、同じ武の道の中に入っているものの、この両者は右半球と左半球と同じくらい違うのである。

 武の道を理解する上で、この違いを知るのは大事なことである。
 自称“武道家”とか、自称“武術研究家”という連中でも、伝統と伝承を明確に説明できる者は少ない。自流のみで、他流を知らない愛好者も同じだろう。みな、両者は同じものと思っている。そしていい加減な独断と偏見をもって、好き勝手をくっ喋る。第一人者面してくっ喋る。
 この思い込み、まさに処構わず飛び回る害虫の如しであり、疫病の如しである。

 まず、伝統と伝承の違いを明確にするならば、大脳生理学で言う、右方と左脳の違いくらいにある。右半球を右脳という。左半球を左脳という。

 右脳は創造性や情趣性を司る。一方左脳は、理論性や言語系を司る。
 このそれぞれの違いの中で、現代人の脳の構造を見てみると、受験のための詰め込み教育の中で、その弊害が拡大し、左脳だけは、あたかも鵞鳥
(がちょう)か、あるいは鴨(かも)の肝臓の如き肥大した。フォアグラ化したのである。

 この特異な飼育法は、肥大させることが目的であり、高級な食材として珍重された。受験戦争に勝ち残って勝ち組に入った、一流大学から一流企業へという流れの中には、確かに左脳の優れた面を宿している。
 しかしこれは、全体的に検
(み)て畸形だった。特異な飼育法をされたからだ。学校という教育の中で、学問の根本をねじれさせたからだ。これが学閥の「肥大化」である。

 今の世は、学歴ではなく、学閥社会が、今日の実情である。大学や大学院を出ていることが偉いのではない。最高峰の、「一流学閥の毛並み」に準ずることが偉いのである。東大出身者が偉いのである。少なくても、世間ではそう思われている。
 それは一般世間から検て、「一流」の評価が付かなければならない。二流以下の駅弁大学では、どうしようもないのだ。また三流四流でもどうにもならない。
 かくも受験の詰め込み教育が、学問を愚弄しただけでなく、生徒や学生の右半球ばかりを肥大させ続けたのであった。
 その一方で、右半球が矮小化
(わいしょう‐か)したことも否めない。片輪が出来上がったのだ。両輪の輪ではなく、片輪の「輪」だった。

 テレビや雑誌、新聞やネット情報をはじめとするマスコミュニケーションの発達は、左半球の肥大化に拍車を掛け、情報障害と中毒を起こすだけのものだった。
 そのために現代人の大脳は、これらから齎
(もたら)される情報処理能力ばかりに長(た)けていて、左右は極めてアンバランスになっている。このアンバランスが、大脳の右半球を鈍麻させ、記憶や暗記を辿ることのみにエネルギーを費やすようになったのである。

 つまり、例えば教科書で言えば「何ページの何処に、何が書かれているか」の記憶や暗記の範囲である。このことばかりが重要視される。その書かれていることを実行することではない。実行する能力ではなく、その情報の中に、何が書かれているかが大事で、その書かれたことを実行し、実践するこtではない。暗記し、記憶していることが大事なのだ。
 二十世紀から二十一世紀前半に掛けては、こうした人間が「優れている」と思われてきた。創造性に欠けても、暗記していることが大事だった。

 これを武の世界に当てはめるならば、伝統は時代に即した創造性ということになろう。
 一方、伝承は時代とは無関係であり、正確さのみが要求される。時代に即さなくてもいい。古さを誇り、実用性を無視する。つまり「骨董品」である。この骨董品の伝授を「伝承」というのである。も武術の世界ではこういうものが多い。
 しかし伝承だけに偏ると、それは時代遅れとなって、やがて崩壊の憂き目を見るだろう。



●幕末期の江戸三大道場

 江戸幕末期、江戸で有名だった道場は千葉周作(北辰一刀流、玄武館)、斎藤弥九郎(神道無念流、道場練兵館)、桃井春蔵(鏡新明智流(きょういしんめいち‐りゅう)、道場士学館)の三大道場で、幕末の江戸では、「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」と称され、これからすると、剣技に備わるそれぞれの人物の格が高く評価されていたのであろう。

 そ
の他に、剣術で名の知られた道場に心形刀流(しんけいとう‐りゅう)の伊庭(いば)道場があった。
 伊庭家の中興の祖である八代目軍兵衛秀業
(ぐんべい‐ひでなり)は剣名人と謂(いわ)れ、その門人の数は江戸三大道場と謂われたそれらと比肩し、四大道場の一つとも数えられた。

 秀業の長子八郎治秀頴
(ひでさと)は戊辰戦争の際、函館で戦死した。通称伊庭八郎と言われた秀頴は、美男で、勇猛で知られたが函館で戦死した。その為に弟・想太郎(そうたろう)が十代目を継いだ。
 しかしその弟の想太郎も、明治34年に逓相や東京市会議長などを歴任した星亨
(ほし‐とおる)を刺殺し、獄死した。

 伊庭想太郎が健在だった明治年間には、心形刀流は勇名を馳
(は)せていた。
 特に幕臣で、剣客と称された伊庭八郎は、幕府講武所剣術指南・伊庭軍兵衛秀業の長男として生まれ、八郎は江戸下谷御徒町
(おかち‐まち)に生まれた。天性の武術に秀でた才能と素質を持ち、少年の頃から既に「伊庭の小天狗」などと称されていた。のちに講武所に入り、元治元年(1864)、奥詰めとなり、将軍徳川家茂に随従した。
 慶応二年
(1866)の軍政改革に伴い、この年に新しく編成された遊撃隊に編入され、鳥羽伏見の戦いでは奮戦した経歴を持っていた。しかし、負傷したために江戸に帰った。

 その後、傷が癒えた後、人見勝太郎
(ひとみ‐かつたろう)らの同志と、今度は海路に出て、真鶴で戦い、更には新政府軍の背後を突いて、箱根で戦った。左腕を失いながらも、激闘に激闘を重ね、敵を散々蹴散らせて此処でも勇名を馳せた。後に、函館に走り、榎本武揚(えのもと‐たけあき)の軍に合流して奮戦を重ねたが、明治二年(1869)肩と腹に銃弾を浴び、五稜郭(ごりょうかく)で陣没した。享年27であった。
 辞世の句は「まてよ君迷途も友と思ひしにしばしおくるる身こそつらけれ」であった。

 千葉周作は北辰一刀流の流祖である。
 江戸後期の剣客として知られ、生まれは盛岡藩の馬医幸右衛門
(浦山寿貞)の次男として生まれた。幼少より父から剣の手解きを受け、その才能を発揮した。後の浅利又七郎と、その師・中西忠兵衛に学んだ。

 更に小野派一刀流と祖父の北辰流を合わせて北辰一刀流を創始した。諸国武者修行を重ね、他流と多く試合し、試合の悉
(ことごと)くに勝ち、名声を揚げた。はじめ日本橋、のちに神田お玉が池に玄武館を創設した。玄武館では諸藩の子弟のために寄宿舎を設け、懇切丁寧な指導により、卓越した指導力を発揮し、江戸三大道場の筆頭にのし上がった。

 水戸藩主・徳川斉昭
(とくがわ‐なりあき)の眷顧(けんこ)を受け、水戸藩剣術指南となり、天保十二年(1841)には馬廻り格として100石を拝領した。その拝領の席で、周作は重量ある舶載の大筒を軽々と扱い、膂力(りょりょく)のあることを驚かせ、その場に列席したお歴々を驚嘆させた。
 嘉永期の浅草寺
(せんそう‐じ)奉納額に記された門弟数には、当時で既に3600名を数えていたと記されている。門弟には著名な剣客が多く、桜田門外の変の水戸浪士の他に、薩摩藩の有村次左衛門(ありむら‐じざえもん)らがいた。高弟には、海保帆平(かいほ‐はんぺい)、森要蔵(もり‐ようぞう)らがいた。

 周作は終生政治的行動はせず、一剣客に徹する道を全うした。
 兄・又右衛門
(またえもん)は岡部藩(埼玉県)の剣術指南役となり、弟・定吉は京橋桶町に道場を開き、桶町千葉といわれた。桶町千葉の門弟になったのが坂本竜馬や、後に新撰組に入った伊東甲子太郎(いとう‐かしたろう)であった。坂本竜馬の婚約者となった定吉の娘・さな子も幼少より武芸に秀で、「小千葉の小町娘」と呼ばれていた。

 千葉周作には四子がいたが、長男が岐蘇太郎、次男が栄次郎、三男が道三郎、四男が多門四郎であったが、いずれも剣の達人として若いことから名声があったが、早世している。

 神道無念流の斎藤弥九郎は、越中国
えっちゅう‐の‐くに/富山県)氷見(ひみ)郡仏生寺村の郷士・斉藤新助信道の長男として生まれた。十五歳で江戸に出て、岡田十松吉利(おかだ‐じゅうまつ‐よしとし)の神道無念流の門に入門した。同門には江川太郎左衛門(えがわ‐たろうざえもん)や藤田東湖(ふじた‐とうこ)らがいた。

 江川太郎左衛門
(1801〜1855)は伊豆韮山(いず‐にらやま)に住した江戸幕府の世襲代官の通称で、第三十六代を継いだ江戸後期の砲術家であり民政家であった。名は英竜(ひでたつ)、号は坦庵といった。高島秋帆に学び、西洋砲術を教授として名を馳せていた。また、品川台場建設にあたり、反射炉を設け、大砲を鋳造するなどの偉業を果たしていた。

 また藤田東湖
(1806〜1855)は、幕末の水戸藩士で儒学者であり、名は彪といい、藤田幽谷の子である。水戸藩主徳川斉昭を補佐して、天保の改革を推進し、側用人となる。交友範囲も広く、激烈な尊攘論者として知られる。安政の江戸大地震に母を助けて、自分は圧死したことで有名である。のそ著に『回天詩史』『弘道館記述義』などがある。

 斎藤弥九郎はこうした江川や藤田らと親交を結んだ。29歳の時、独立し、江川の援助を経て九段下に道場練兵館を開設した。
 天保六年
(1835)、江川が伊豆韮山の代官になると、その手代として文武の道を指導した。その一方で文官としての才もあり、道路や河川の改修工事や品川御台場(おだいば)の築造工事などにも従事した。この頃、渡辺華山とも知り合いになり、思想的には尊王攘夷派に傾いていった。

 長男の新太郎
(第二代・弥九郎を拝命。1828〜88)が、萩で長州藩の剣術指南役をしていたことから、道場練兵館が開設されると、長州藩や薩摩藩からも門弟が増えはじめた。
 この頃、薩長の志士も多く集まり、門弟三千余名といわれた。そして、当時千葉周作の発明といわれた「竹刀打ち込み」の剣術稽古を採用し、千葉周作の玄武館、桃井春蔵の士学館とともに、幕末江戸三大道場の一つに数えられた。
 道場練兵館の門人からは、桂小五郎、高杉晋作、品川弥次郎らが出ている。
 また弥九郎は、維新後に至り、会計官権判事、造幣局権判事を務めた。

 桃井春蔵は、沼津藩水野家の臣・田中豊秋の子として生まれた。死後にいう生前の実名の諱
(いみな)を正直といった。14歳の時に鏡新明智流の桃井道場に入門した。17歳の時に剣術の天性の才能が認められ、桃井家の養子になった。この時春蔵は同流の第四代目に当たり、その道場士学館は江戸三大道場に数えられた。
 「位は桃井」と評されるくらいだから、剣技に備わる春蔵の品性と品位が高く買われたのだろう。

 土佐勤王党の武市瑞山
(たけち‐ずいざん)が一時期、士学館の塾頭を務めたことで有名である。
 武市瑞山
(1829〜1865)は、幕末の志士で通称「半平太」と呼称され、映画の“月形半平太”のモデルにもなった。土佐藩士で土佐勤王党の首領であった。
 文久二年
(1862)参政・吉田東洋(よしだ‐とうよう)を誅殺(ちゅうさつ)して斃(たお)し、藩論をまとめ諸藩と交渉、翌年藩主・山内容堂(やまのうち‐ようどう)に容れられず投獄され、のち切腹が申し渡された。

 春蔵の剣の力量は幕府に認められ、与力格の200俵で召し抱えられ、文久元年
(1861)には講武所の教授方として登用された。更に晩年は、大阪で神官として人生を送った。



●人間の世界は神によって造り出されたもの

 さて、武人の「強くあらねば」という意識の中には、これを支える背景として、まず、人間は基本的には、盲目で、愚かで、弱いものという認識があったればこそ、それを打ち破り、そこから抜け出すことができないものかと奮闘する行動律である。

 武人の武技は、行動律により構築されている。
 動くこと、激しく行動することこそ、武人の本文であり、その根底には死を嗜
(たしな)む臨死体験の意識がある。行動律の発端には、死を嗜むという意識があり、それを生存に反映させて激しく戦うからである。その戦う意識の中には、生きるためよりも、むしろ死に向けての挑戦がある。
 そして死に向けての挑戦の中には、人間世界を「被造物」と考えているためだろう。

 人間が、より完成に向かって、神の意識に向かって挑む意識は、被造物の不完全性から、完全を覗き見る時、その中に一条の烱
(ひかり)を見い出すからだ。
 古人は、この烱に向けて、奮闘努力した足跡がある。そして奮闘努力する足跡に、はっきり見ることのできる烱
(ひかり)の根拠は、光が闇を照らす現象である。

 この光は、能力差や才能差から生まれるものではなく、神を見た時に発光する光の威力である。この威力が闇の中で光る時、無意識の他力一乗が働いているのである。
 人間の仕事や外観、能力や才能あるいは素質には歴
(れっき)とした個人差がある。しかし、それは神の眼から見た「差」ではない。突き詰めれば、神から検(み)た人間は、才能溢れる大きな人間も、素質も能力もない小さな人間も、全く同じものとして検ていることだ。逆説的にいえば、神はそれほど眼のある御仁(ごじん)ということになる。

 この世は被造物だるから、総てのものは対価を払わずに手に入れられるものはない。何かを会得し、手に入れようとすれば、必ず代価が要求される。これこそ現実の実在世界の原則である。「代価が要求される」という現実こそ、人間は幼さや青臭さから抜け出す唯一の解脱法なのである。ツケは必ず廻って来るのだ。

 例えば、本当に平和を望むのなら、戦争を遠ざけ、戦争のこと、人殺しのことは一切学ばなくてもいいという考え方は成り立たない。
 しかし、戦後の日本人は戦争恐怖症に飼いならされれしまったため、武器を遠ざけ、戦争を語らなければ世界が平和になると信じ込んでいる。街頭に立ち、“戦争反対!”の反戦シュプレヒコールを挙げれば、それで戦争は起こらないと信じている人が少なくない。

 この思考形式こそ、幼児的なものの見方である。街頭署名や戦争反対のシュプレヒコールで地球上から戦争がなくなると考えている、この考え方こそ幼児的発想である。この甘さは救いようがない。極めて楽天的であり、楽天家の発想だ。
 この世に生きているのは楽天家ばかりでない。
 好戦的な者も居るし、性格異常者だっている。粗暴渦巻く現代に、左翼陣営を絶対正義と見るのは短見だろう。
 左右いずれにも偏らない、中庸が必要だろう。中庸を学ぶためには。善と同時に悪も学ばねばならない。

 悪から学ばなければ、善の光は反映されない。光は陰があって、光り輝く現実を見せつけることが出来る。善だけ、光だけで、平和維持は出来ないのである。
 もし、相手が狡猾
(こうかつ)な騙しのプロなら、その騙しから、人は人生を学ばなければならない。悪を知ってこそ、善が理解できる。また、もし相手が狭量なる人ならば、その狭量さを自分に当てて、自らを戒めなければならない。

 あるいは相手が言語や筆舌に尽くしがたい残忍な人間ならば、その残忍さに震え上がるばかりでなく、それを健全に反応した証として、眼を反らすことなく直視して、残忍の反対なる行動は何であるか模索しなければならない。圧倒されてばかりではいけないのである。直視すること、眼を反らさないことこそが、悪の中で善を反映させる光を見ることができるのである。

 この意識が常に自分の中に存在していれば、非常事態になっても、気を失わなくてすみ、また我を失わなくてすむ。大事なのは、幼児的な空想の世界から解脱することである。現実を、もっとシビアなものとして捉え、そこから眼を反らさないことだ。

 人生を生きていく上で、自分にとって不都合な人間に出会う、ということはよくあることだ。自分のいく手を阻み、嫌がらせをし、思い込みによって徹底的に妨害するという人間は世の中には多く居る。何らかの敵対意識を持ち、邪慳
(じゃけん)にし、悪意を持つ人間にぶつかることがある。

 しかしこれらの人間も、人間の世を構成するには、必要不可欠な人間であり、社会を構築する上において、役に立っている人間である。人間社会こそ、清濁併
(あわ)せ呑む、綯(な)い交ぜになっている世界であるから、現実を直視すれば、この世界は「ろくでもないところ」ということになるが、この「ろくでもないところ」で生きなければならないのが、また人間なのである。
 人間界を「苦海」という。生死や苦悩が海のように果てしなく広がっている人間の世界を、こう呼ぶ。ろくでもないことの代名詞が、苦海であるからだ。だから「苦界」ともいう。

 「ろくでもないところ」は、確かに「ろくでもないところ」であるが、この世は同時に変化の激しい世界であるから、この「ろくでもないところ」が、一瞬自分にとって、よき世界に変貌することだってあるのだ。総てを否定的に検
(み)てはならない。
 この「ろくでもないところ」は清濁併せ呑むのだ。善も悪も、味噌も糞
(くそ)も綯い交ぜになっている世界である。そのことを忘れてはならない。
 正直なところ、神から見た眼では、善悪も優劣の区別も、人間が評価するものとは違うのである。

 世に裏切り者は多い。今まで味方と思っていた者が、ある時を機に、敵に回り、裏切ることがある。この逆もある。敵の敵は味方になることもある。立場立場で変わる。
 これは人間は一律でないことを物語っている。人間もまた変化するのである。時代とともに変化するのである。

 もしかすると、今まで敵だった人間がある瞬間から、自分の仕事を手伝う味方になる場合もあるし、その逆もある。歳月は、人を変化させるのだ。人を持たずに変化させるのだ。時間とはそうしたものである。時間は刻一刻と変化する。

 この変化において、人間は時に感じて変わるものであり、敵とばかり思っていたものから塩を送られるようなこともある。生命の危機から救い出してくれることすらあるのだ。それを見抜けないのが、また人間の悲しいところである。
 だからこそ、被造物の世では、殊更、実態の深層部を見抜く、神の如き眼が必要なのである。



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