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旅の衣を読むにあたって
旅の衣・前編 1
旅の衣・前編 2
旅の衣・前編 3
旅の衣・前編 4
旅の衣・前編 5
旅の衣・前編 6
旅の衣・前編 7
旅の衣・前編 8
旅の衣・前編 9
旅の衣・前編 10
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旅の衣・前編 17
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旅の衣・前編 9

美徳と言うものがある。
 忍耐、謙譲、調和、勇気というものは美徳と考えられていた。
 だが現代はどうだろう。
 美徳と言うものには、その根底に「愛」が存在した。この愛は単に男女の性愛を言うのでない。慈悲であり、慈愛である。
 しかし昨今は慈愛なるものが、さっぱり寂れてしまった。
 個人主義の横行が慈愛を妨げた。
 惻隠という言葉がある。弱い者を労る心であり、世の中の底辺に不憫を感じ、そういう人達に手を差し伸べようとする心である。
 現代人に惻隠は存在しているのだろうか。
 もし、これが欠如していれば、忍耐は恨みの根元になり、謙譲や調和は卑屈や妥協の別名に過ぎず、勇気は粗暴を選ぶことになるであろう。


●黄昏どき

 陽(ひ)は既に傾き、辺り一面を美しい夕陽が支配していた。
 真夏の海で、泳ぎを楽しんでいる由紀子の水着姿を見ると、これらの劣等感が頭から消え去るのである。
 寄せ手は返す波際で、敏捷
(びんしょう)な女鹿(めじか)のように飛び回る彼女の美しい脚は、私をハッとさせるほど感動させた。
 またそれぞれは、若さに溢れ、みんな輝いていた。
 それに較べ私は、何故かどっと老けたような錯覚に捕われた。
 あのような姿を見せ付けられれば、“蹤
(つ)いて行けない”と悲観してしまうのである。

 だが、助平心だけは失っていない。卑猥
(ひわい)な空想が頭の中で、一瞬空回りをする。水着の下のはじけるような裸体を思い浮かべた。それを想起すると、思わずにやけてしまう。卑猥で汚染される。
 海岸線の砂浜に腰を下ろし、彼女たちの泳いだり飛び跳
(は)ねたりする姿をじっくりと鑑賞していた。食い入るように見ては、肉感的なことを想像する。
 彼女と“一発お願いできれば、どんなに幸せだろう”などと、そんな不埒
(ふらち)なことを空想していたのである。特に由紀子に対して、その気持ちが強かった。そういう妄想で一杯であった。
 そんな卑猥
(ひわい)なことを考えている私の心の奥など、彼女たちは知る由(よし)もない。あたりは至って健康だった。

 道場の子供たちの水掛け遊びの輪の一団に混じって、彼女たちも一緒にはしゃぎ、彼らと笑い声を漏
(も)らしながら戯れ合っていた。心に一点の曇りのない程、至って健全だった。私一人が邪(よこしま)な心で揺れ動いていた。
 由紀子以外の、他の二人の女性も容姿は決して悪くなかったが、彼女たち二人が由紀子に比べて、はるかに美しくないことが、私の優越感を満足させていた。
 特に由紀子だけが、沈み行く夕陽に輝いて光っていた。時々、彼女は自分の存在を示すように、私に笑顔で手を振ってくる。その表情が可愛かった。生きいきとした美貌と、人なつこい笑顔の奥に、芯
(しん)の強さと鋭い洞察力と豊かな知性が漂っていることを垣間見たのだった。同時に、“落とすのが難しい……”と悟らずにはいられなかった。
 それを見た瞬間、肉感的な想像と欲望に耐えかねて、男の殆
(ほとん)どが想像する下品な下心で由紀子を見ているのだが、彼女の清々しい清潔感を前にしてしまうと、恥じらいのようなものが湧き起こって、ある種の自制心が蘇(よみがえ)ってくるのだった。しおらしくさせられてしまうのだった。私の卑猥な欲望は萎(な)えていた。ますます彼女は高嶺の花として遠のいて行くのだった。

 彼女たち三人と道場生の十五人の子供たちは、海に入って、沈みかける夕陽を背後から真っ向に浴びて、水掛け遊びの一団となって遊んでいた。その50〜60メートル程先にある飛び込み台は、太い鉄の櫓
(やぐら)の影を倒し、船舶の艦橋(かんきょう)を思わせた。まるで沈没した船が、その艦橋だけを海面に表し、無残な残骸の廃墟(はいきょ)の後にも見えた。

 西陽に影を曳
(ひ)く、それは壮大にして悲愴 (ひそう)なものであった。遠過ぎる存在だった。そして、その前方に由紀子たちがいる。だが追い掛けても遠い人のように思われた。
 これを不思議な絵画のパノラマでも見るような目で、一時間程見ていた。そこには壮大な美しさがあった。
  このようにして、残りの日程は、すっかり由紀子たちに世話になってしまった。はっきり言えば、世話になったというより、振り回されたというべきであろう。
 こうして、この年の夏合宿は、何か煮え切れない気持ちを残した儘
(まま)終わったのである。そしてこれから、由紀子とのつき合いが始まろうとしていた。
 私にとって由紀子と出遭った綾羅木の海は生涯印象深いものとなった。


 ─────ここから帰る時、由紀子に名刺を渡しておいた。
 「これが僕の名刺です」
 「へェ〜ッ、岩崎君。こんなお仕事なさっているの?」
 「柄
(がら)にもなく気宇壮大(きう‐そうだい)な野望に取り憑(つ)かれた、食えない武術家ですよ。毎日が困窮しています」
 「では、どうして困窮しないお仕事に代わられないの?」これは鋭い質問であった。
 一瞬、狼狽
(ろうばい)し、彼女の質問に対して、これを補足する自己弁護が急がれた。
 天下の社会不適合である。簡単に宮仕など出来るわけがない。
 「これには、口で言い表せない不思議な使命感のようなものが働いていて、簡単に逃げ出すわけには行かないのですよ」
 「じゃあ、一生困窮するお仕事をお続けになるの?」
 「どうも、そのようになりそうです」
 「そのためには毎日が困窮しても構わないの?」
 「はあ、困窮ばかりでも厭ですね。しかし性分ですから」
 「性分で困窮する道を選ぶのですの?」
 「いや、どう言ったらいいのでしょうか」
 「ご自分のことでしょ?」
 「はあ、それはそうですが、何と言ったらいいのでしょうか」
 「まるで他人事ですのね」
 「いえ、そう言う訳でもないのですが、これも浮世の義理と言うものでしょうか」
 「まあッ!浮世の義理ですか?……。はっきり言ってズレてなすのね」
 彼女は些か呆れたように言った。
 「そうでしょうか」
 私は涼しい貌で訊き返した。
 「違うとでも?」
 「あのですねェ、事上磨錬という言葉をご存知でしょうか」
 「事上磨錬?……」
 「つまりですね、事に及んで、己を磨く。不幸に遭遇してこそ、人間はそれを克服することで一段と大きくなる、そういう意味です。偉人とは、不幸を受け止めることによって、己を磨く人なのですよ。したがって困窮も辞さない。分って頂けたでしょうか」
 狡猾
(こうかつ)に躱(かわ)したつもりだが、効き目がなかった。
 「分りませんわ」
 「そのように頭ごなしに否定されても、自分としては立つ瀬がないというか、これこそ本当に困窮してしまいます」
 私はなおも続けた。しかし、このあたりになって漸
(ようや)く悪寒を感じ始めていた。
 「いろいろな言い方がありますのね」
 由紀子から突っ込まれていくうちに、段々言葉を失い、萎
(な)えていく自分に気付いた。彼女の経済観念は鋭いからだ。その鋭さに、次々に突き崩されて行くからである。
 何かが訝
(おか)しい……。どうも噛み合ない。何故だろう。

 「つまりですねェ……困窮するのは、僕の生まれながらの性分です。糊口
(ここう)を凌(しの)ぎ、赤貧(せきひん)洗うが如しの貧乏を甘んじて受ける覚悟は出来ています」
 「では、お嫁さんも貰わずに、この儘
(まま)ずっと一人で押し通すの?」
 彼女は一向に矛
(ほこ)を収めようとしなかった。
 「そうなるかも知れませんね」
 自身でもこのように返答しながら、心の中では《嘘をつけ……》という気持ちでいた。私のような頸から下が性器のような男に、一人ですっとなどとは出来る訳がない。女と見れば直ぐに転ぶ。だが、この場は気取って痩せ我慢をする以外ないのである。
 「それで一生押し通すって、寂
(さび)しくない?」
 私の立場が揺れ始めた。あたかも立っている地盤が急に崩れ落ちるような不安に怯
(おび)えた。
 「寂しい、寂しくないよりも、心に何を持って生きていくかですよ。僕は自分の持っている野望に、人生を賭
(か)けてみたいのです。果たせるか、また果たせないかを……。そして、人生は常に挫(くじ)けそうになる自分自身との戦いですよ」
 自分の持論を、自分なりに述べた積もりだった。だが化けの皮は直ぐに剥
(は)がれていく思いだった。
 追い込まれ、理詰めで衝
(つ)かれていくと、次第に重い気持ちに変化し始めていたのである。

 「それはそうだけど……」
 相槌
(あいつち)を打ちながらも、由紀子は承諾しかねるような返事をした。
 話題が尻切れとんぼになって空白化する中で、私はある憶測が脳裡
(のうり)に浮かび上がり、その質問を投げかけた。
 「ところで、あなたこそ、どうなんですか?」
 これこそが、私の一番知りたい彼女の情報だった。いったい彼女はどう思料するのか。
  私は彼女に恋人か、それらしき者が周囲にいないかどうか、その穿鑿
(せんさく)の駆逐を試みた。
 もし居れば?……となった。果たして、蹴落として、すり替わることが出来るか。ここが思案の為所
(しどころ)であった。
 「どうって、何がですの?」
 質問されることで、親密な感情を抱き、それが私に次の質問を必然的に用意させた。ここは一つ攻め込んで見るべきだろう。
 「あなたのような美人だったら、世の男どもは、決してほってはおかないと思いますが……」
 彼女とは気が合うという自惚
(うぬぼ)れから、このようなお節介事まで喋ってしまった。
 「あたしは、そんなものには全く興味がありませんわ。今は、一日も早く優秀な女医になることばかりを考えています」
 それは眼中に、男など存在しないと云う言い方であった。これで漸
(ようや)く彼女の舌鋒が終わった。
 私は心の中で、
(ほーッ、優秀な女医にね……。俺とは随分身分が違うな。足許にもおよばないや……)と、そんな卑屈な気持ちが襲い始めた。距離が開いている現実を目(ま)の当たりに突き付けられたからである。
 しかしそこには、彼女は彼女なりに思慮深い眼差しがあった。彼女の自身の将来設計であろうか。

 彼女の返事は、何処かにある種の気高い格調高さがあり、私の穿鑿
(せんさく)は見当外れだった。様々な彼女への憶測が、的外れであったことが、私を何よりも安心させた。まだ、彼女に特定の男性は存在していないようだった。それがまた、私を更に気丈にさせた。それは一縷(いちる)の望みという形で、である。

 由紀子の声は、女医を志す希望に燃えていて、あたかも聖女のように気高
(けだか)く響いていた。
 彼女には、世の結婚適齢期の男女が憧
(あこが)れる、軽い恋愛感情のようなものは、どうも今現在は存在しないらしい。恋愛に振り回されず、しっかりと前を見ているのだ。職業婦人の先駆けになろうとしていた。
 そして、その中には私自身の存在すらも眼中にないようにも受け止められた。
 そうなると私に話かけて来たのは、小学生時代のクラスメートとしての好
(よしみ)からであり、単なる彼女の気紛(きまぐ)れ過ぎなかったのだろうか。そのように思えなくもない。

 私の心の中には、仄
(ほのか)な予感が胸騒ぎを始めた。
 切ない恋心の幻影がめらめらと燃え上がり、私の胸裡
(きょうり)をほろ苦い味で、いつしか胸を締めつけていた。この時、私一人が彼女に仄な想いを寄せ、甘く切ない余韻(よいん)を伴って、それが密かに空回りしてる自分に気付いた。そして、ほろずっぱい甘味(かんみ)のような、何かが残った。
 それは“溜息”の一種であったかも知れない。やはり遠い人だった。高嶺
(たかね)の花である。そのように感得したのである。

 由紀子の存在は、私の心の中で巨大な、難攻不落
(なんこう‐ふらく)の大要塞(だい‐ようさい)のような建造物となって、高く聳(そび)え始めたのである。高過ぎる建物だった。それに圧倒され続けるしかなかった。ややともすれば軋轢(あつれき)に押し潰されそうだった。
 しかし彼女が私のような蹉跌
(さてつ)に困窮(こんきゅう)する者に目を向けることは、ありもしない空想だと言い聞かせ、その空想は、夢のまた夢という諦めにも似た感想が湧(わ)き起こっていた。手の届かない高嶺の花だった。距離はますます開く一方だった。

山陰にある、日本海に面した静かな綾羅木の海。

 ─────由紀子とその仲間は、私たちより、一日早く此処を出立した。
 私は彼女と別れるに際し、駅まで見送りに行って、彼女の在学する東京の大学女子寮の住所を訊き出すことに成功した。
 これは果たして、些
(いささ)かでも、私に脈があるということの証(あかし)なのか。あるいはまだ付け入る隙間(すきま)が残されているのか。
 そんな穿鑿
(せんさく)を重ねながら軽率にも、(作戦通りだ)と内心思い、不埒(ふらち)な自負の気持ちまで湧き起こっていた。虎視眈々(こし‐たんたん)である。
 付け入るチャンスがある事に、私は一縷
(いちる)の希(のぞみ)を託し、それを夢想した。しかし夢想は何処まで行っても夢想の範疇(はんちゅう)を出ない。虚しい空想を追い掛けていた。愚者のお決まりの行動パターンである。

 由紀子の去った後の、この場所は無残な廃墟
(はいきょ)と化しているように思われた。彼女の幻影が、いつまでたっても頭から離れない。幻影がのしかかる。
 私の体内には、彼女に恋慕する種子が確
(しっか)りと蒔(ま)かれていて、それが発芽しているのではないかという錯覚を覚えた。何処を眺めても彼女の残像が現れ、幽(かす)かな幻影となって、その輪郭(りんかく)を象(かたど)り始めた。私に屡々(しばしば)快く、時には辛く襲いかかってくるのであった。
 果たして、彼女は味方なのか、それとも敵なのか?……。
 その識別すら、付け難い状態に陥っていた。とんでもない妖怪に魅了され、魅入られてしまったものだという軽い苦笑いが込み上げた。

 夕方、海岸線にぽっかり浮かんだ月を見ていると、その月の中央辺りに、由紀子の姿が浮かび上がった。その月に彼女の輪郭が現れ、やがてあの近くで、はっきりと如実に見据えた大きな美しい眼が優しく笑いかけてきた。
 妖怪に取り憑かれたのか?……。
 何と言う化け物?を見てしまったのだ、という恐れに似た戦慄
(せんりつ)が、躰中を駆け抜けた。美しい妖怪に魅了されたと言う感じだった。あるいは妖しい鬼女というべきか。
 こんな時、無力な仔羊
(こひつじ)は、何をしなければならないかという課題が課せられたような気がした。まだ付け入る隙が残されているのだ。何をするべきか?。そして、ついにある結論に達したのだった。

 私は由起子を失うかも知れないと云う危惧
(きぐ)を何度も感じて、手紙を書くことを決意した。それは軽率で軽薄な決意だった。恋慕への想いの、わが胸の裡(うち)を秘めた手紙を書くことだった。それしか思い浮かばなかったのである。愚者にはその程度の智慧(ちえ)しかない。
 だが、手紙といっても、必要な用件だけを伝える伝言では用をなさず、私自身の心情の披歴
(ひれき)が必要だった。それをラブレターと言えば憚(はばか)られるのだが……、一応そうしたものだった。愚者の足掻きである。
 文才のない私としては、手に負えることではないと、何度か思い直してみたが、しかし簡単に諦
(あきら)めることは出来なかった。気障(きざ)っぽい美辞麗句を並び立てる気にはなれないし、そうかといって浮いた気持ちの、愛だの、恋いだのと、そんな軽々しいものも憚(はばか)られた。書いた後に読み返せば、何故こうした恥ずかしくなるような手紙を書いたのか……と悔やみ悩むのだった。あまりにも幼稚で軽率過ぎはしないか。そういう反省が脳裡(のうり)を支配した。

 しかし私の心は最後まで、由起子に胸の裡
(うち)を伝えるその思いが、愛の障害となって葛藤(かっとう)していた。そんなやりきれなさを、改めて感じないわけにはいかなかった。
 そして書き上げたものが不自然な畸形
(きけい)を成し、また読み返してみても妙な違和感と抵抗感があり、照れくささが付き纏(まと)うのであった。
 それは恋文の一種であった。
 しかしそれは、また恋文の形式をとらない恋文であった。それを何度も書き直しては破り、破っては、また書いた。
 書きながら思った。
 単純で稚拙な文章。あるいは小賢しくて、そのくせ支離滅裂……。軽薄過ぎはしまいか。
 そう思うと、表現を呻吟
(しんぎん)しているうちに、逆に論文調になって、しつこく説明を繰り返して焦点がボケているのではないか。だが、どんなに愛しているか彼女に分かってもらえるために繰り返し書いたのである。ここまで頭を煩わしたのは大学の卒業論文以来だった。
 いつしか私は甘味な苦しみに酔っていた。

 これで私の想いは届くだろうか……。それが一種の不安になった。
 そう考えると、まだそれが達せられていないように思えてきて、再び読み直しては破り捨て、また書き始めるといった徒労を繰り返していた。
 徒労努力である。自分でもそれが分かった。これまで努力は実らないことは、厭
(いや)というほど思い知らされた経験がある。この世で、努力は実らないというのが相場である。しかし人間はその努力が実らないことを承知で、再び努力に挑むのである。努力せずにはいられない生き物である。
 私の努力は一縷
(いちる)の希(のぞ)みに賭(か)けられていた。恋への情熱が燃え盛っていたのである。

 いよいよポストに投函した。そしてポストに深々とお辞儀した。
 無事に届いてくれよ、恃
(たの)むぞ。この切なる想いを伝えてくれ。私の細やかな願いだった。しかし、ポストにお辞儀する私の姿は、傍(はた)から見れば実に滑稽だったであろう。
 書き上げた手紙は、ほぼ満足する自信が持てるものであったが、これから三日が過ぎ、一週間が過ぎ、更に一ヵ月が過ぎても、その返事は来なかった。梨の礫
(つぶて)である。
 何故だろう?……。
 ポストへのお辞儀の仕方が悪かったのだろうか。そういう反省が脳裡
(のうり)を過ったのである。
 あの場合はケチな75度ではなく、深々と腰を折って、90度の最敬礼をするべきだった。いや90度では駄目だ。もっ深く100度以上で最敬礼すべきだった。重ねがなね反省したのである。やはり、当初のケチな75度がいけなかったのである。躓いた。しくじった。そういう悔いが蓄積されていった。
 だが何故だろうと、もう一度考えてみる。根本的にどこか間違っているのではないだろうか。
 あるいは誤字脱字の類
(たぐい)が、下手な文章に拍車を描けたのでは?などと考えてみた。
 さて、こういう事態は固
(もと)より予期したことであったが、落胆を抑えて、二度目の挑戦に望みを繋(つな)いだ。まだ終わったわけではない。恋に破れたわけではない。キャンスはある。そんな気持ちが、徒労を繰り返す結果を招いていた。

 つらつら失策を反省してみた。
 渾身
(こんしん)の力を振り絞って書いた今回の手紙は、精密に拵(こしら)えたつもりであったが、返事か来ないことを考えると、彼女は私のことなど眼中になかったのか?……という敗北の色が濃厚になり始めた。戦いに敗れた観があった。
 ついに勝負有りである。
 そう思うと、文面の一言一句までが鮮やかに思い返され、そして克明に、また滑稽に無残な様相を呈して、反芻
(はんすう)されてくるのだった。その刻み込まれた文面を、小刻みに思い出す度に、敗北の色は益々深まった。そして往生際(おうじょう‐ぎわ)悪く、最後の手段として、彼女の知性と教養に訴えるべく、更に巧妙な草案を練って、二通目を書いた。しかしこれも返事は貰えなかった。やはり、ポストへのお辞儀が足りなかったのだろう。前屈姿勢での最敬礼に、どこか無礼があったのかも知れない。
 手紙を書き、それを投函する。そして返事をもらう。これはなかなか骨が折れるものだと思った。
 果たして何度の最敬礼が出来るのだろうか。投函するだけでも柔軟性を必要とした。こうなると手紙も体力勝負だった。

 この投函現場を集荷業務の郵便局のオヤジに見られてしまったことがあった。
 柏手を叩き、深々と最敬礼したときだった。
 「あんた、いったい何をしてるんだね?」
 「えッ!……」
 このとき郵便局のオヤジが傍に居ることに気付かなかった。変な現場を見られてしまったものだ。
 「柏手まで叩いて、深々とお辞儀して……」と、よくも言い上がった。
 「いや、投函したまでです。無事着いてくれと」
 「大丈夫だよ」
 「そうですか、それならいいのですが」
 「何だい?何を投函したんだい?」
 「訊かないで下さい」
 「恋文でも?」にやけて鎌を掛けたように訊いた。
 「違います!」烈しく否定した。
 「やはり恋文か」断定的に決め付けた。
 「そんなのじゃありません!」
 この否定は、ますますそうだと言っているようなものだった。
 ここにいつまでも居ると、突っ込まれそうだった。退散する以外ない。このオヤジも変なものに好奇心を持つものだ。あるいは柏手と最敬礼の現場を見られてしまったことが悪かったか。
 私を異常者と検
(み)たのだろうか。その懸念はある。
 この種のことは忘れることにしよう。通りすがりの相手に拘
(こだ)わることはない。
 問題は別にあった。

 それより果たして手紙は、彼女の手元に渡ったのだろうか?という疑いさえ湧いた。果たして?……。
 もしかしたら、彼女の寄宿先に意地悪な中年女の寮長がいて、男からの手紙を全部チェックし、不適当と思えるものは全部破棄され、彼女に届かなかったのではないか。そんな勝手な空想さえ描いた。

 だが、私の手紙が、彼女によって開封され、その感想として、不愉快で虚栄的で、見栄一杯の、楽しくないものだとしたら、あるいは差出人の宛名を見て、開封するにも値しないものだとしたら……などとそんなことを思うと、私自身の心の中には、空恐ろしい大それたことをしてしまったという、償
(つぐな)う術(すべ)のない失態が羞恥(しゅうち)のうちに泛(うか)び上がって来るのだった。彼女は苦笑に近い蔑(さげす)みを、私に抱いたのだろうか。もしかすると今頃、私を嘲笑(ちょうしょう)しているのかも知れない。
 要するに嫌われたのである。
 そして彼女は手紙を貰った事で、気を悪くしたのでは?……と言う自己嫌悪に陥っていた。
 あるいは碌
(ろく)に読みもしないで屑籠(くずかご)に捨てられたのだろうか。そう思うと、愚かなことをしてしまったと思いながらも、一種の屈辱を感じるのだった。

 かれこれと、再び失策を反省してみた。反省というより、未練だったかも知れない。未練がある以上、狂る惜しいような感情が昂
(たかぶ)るのだった。
 愛とか、恋とか、そいうい語は一言も使わずに、淡々とだが巧妙に書いたつもりであった。しかし、それが巧妙過ぎて、却
(かえ)って失敗したのではあるまいか?……、あるいは心ならずも、二人が結び付くことの必然性を説いて、その筆が滑り過ぎて、私の底の浅い心底を彼女が見破ったのではあるまいか?……などと、そんな反省を繰り返していた。
 まずい個所であると思われるところを反芻
(はんすう)し始めたのである。自信に溢れ過ぎていた自分自身の愚かしい過失から、失敗を招いたのでは?……などとも思ってみた。いやはや、些(いささ)か軽率であり過ぎたのだ……。その思いは益々深まった。

 それにしても、人は巧妙な作文に、どうして動かされないのだろうか。
 世には大義名分という巧妙な“行動するに正当化する理由付け”があるではないか。蹶起
(けっき)する理由付けがあるではないか。その言に人は動く。
 何故なら歴史上の人間の行動率も、それに集約されているかだら。だから人は動かされるのである。
 だか今回の私の軽率な行動は何か?……。
 蹶起に値し、それを促し、果たして大義名分があるのか。困惑は益々深まるばかりだった。
 しかし、動いて欲しい。動かされて欲しい。心が動かされて欲しい……。
 それを願うばかりだ。
 もし動かされないとすると、本当に人を動かすのは、虚飾
(きょしょく)のない純真無垢の正直さで、率直さで朴訥なまでの謙虚さで、そうした心情で記された手紙であったのか。心には二重の反省が起こった。虚飾がないとは言い切れなかったからである。下心も充分にあった。
 恐らく私の手紙は、この条件から食
(は)み出してしまったのだろう。そして考えられるだけ考えて、次の策が出てこなかった。種切れである。そして、虚しい挫折感を感じたのだった。ここで諦めるべきか……。
 いやと頭を振る。

 この時、私の頭の中に悲しく現れたものは、「二度あることは三度ある」という故事
(こじ)に準(なぞら)えた格言(かくげん)であった。
 二度あることは、必ずもう一度繰り返されるのだ。
 この俚諺
(りげん)の予想通り、二度ある事は、やはり三度あるのだろう。
 特に、悪い事は繰り返し起る可能性が高い。吉報など、遠い夢の彼方に消え失せたのだろうか。果たしてそうだろう。その確率が高いようだ。

 二度手紙を出して返事を貰
(もら)えないものが、三度出して返事を貰(もら)えるわけがないという結論であった。心の片隅には、何か訴えどころのない寂しさが次第に大きくなって行った。

 今頃、由紀子は私の恋文とも、身勝手な人生論とも分からぬ滑稽
(こっけい)な手紙を見て、笑っているのであろう……という勝手な、辛い想像が浮かび上がり、打ちひしがれた気持ちに陥っていた。
 私のしたことは所詮
(しょせん)、分別を知らない愚か者の愚行、あるいは蛮行だったに違いない。世間の常識を度外視(どがい‐し)した愚かな冒険者の如き、大胆不敵な卑しい下心であったのかも知れない。私の遣って事は蛮勇であったのだ。
 それを手紙に託したのではなかったのか、という届かぬ願いを恨み始めていた。呪うべきは彼女でなく、自分自身だったのである。

 更にその恨みは、『お高く止まった』彼女に対しての恨みに変わり始めていた。そして、男という生き物の哀れさを感じ始めていた。
 私はとんだピエロを演じてしまったと言う観が否
(いな)めなかった。それは、まさに悔悟(かいご)に近いものだった。もう懲り懲りだ。これが私の偽らざる気持ちだった。

 女と、固い約束を求めることによって、男は、女に自分の真心を誓って見せる。
 しかし誓った真心は、何処かで空回りして女には届かず、空しく潰
(つい)えるのである。そこにピエロを演じる落し穴がある。
 こう言う意味で、男は純真かつ鈍馬
(とんま)な生き物である。お目出度(めでた)屋である。そして茶屋や水商売の女に見られるような、女の巧言(こうげん)に逢えば、まんまと瞞(だま)され欺(あざむ)かれてしまうのである。
 私はお目出度屋であった。
 欺かれる側の、お人好しな愚人なのである。とんだ道化を演じたものだと、後悔したのである。
 愚者の結末とはそんな存在であった。漸く悪寒を感じ始めていた。

 女に欺かれながら、泰然
(たいぜん)として取り乱さず、憤慨(ふんがい)せぬ者を世間一般では紳士というらしいが、一体こんな馬鹿な決まりを、誰が作ったのだろうか。
 人間は時に、運命から謀
(はか)られることがある。
 いま私がやるべき作業は、先ず心の整理であり、気
(け)高くも、倨慢(きょまん)な彼女の存在を、一日も早く心の中から消し去ることであった。
 やはり、もう女は懲
(こ)り懲(ご)りと言うべきものか……。
 女は虫酸
(むしず)が疾(はし)るべきものに変化し始めていた。


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