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刀屋物語 10



2009年2月テレビ出演した当時の筆者。(尚道館にて)



●均一でない現実社会

 人間は誰でも平等でない。これこそ人生観の大原則である。誰でも同じようなドングリの背比べをすると、そのスタートラインで既に間違いを犯している。昨今は奇妙な平等論が巷(ちまた)に溢れている。個人差を無視して、平等などという。こうした言は総てウソである。
 もし、人間が「平等であらねばならない」とする論理が罷
(まか)り通るなら、まず、最小限度の“頭脳”と“胃腸などの消化器”と“生殖器”の、この三点の能力は均一でなければなるまい。

 この三点の能力の均一なしに、「平等の論理」は成り立たない。
 この均一がなければ、人間の最小限度の平等はあり得ないのである。
 また、社会主義でも共産主義でも、その目指すところは、私有財産制の否定と共有財産制の実現によって、貧富の差をなくそうとする思想であり運動であった。このためにこれまで多くの知識階級がさまざまな理論付けをしてきた。
 古くはプラトンなどにも見られ、また近代は主としてマルクスやエンゲルスによって体系付けられた。この根底には「人間の平等」が貫かれていた筈である。

 プロレタリア革命を通じて実現される、生産手段の社会的所有に立脚する社会体制を指す。したがって、体制を構成する根底には「平等の思想」が流れていなけねばならぬ。
 そして、その第一段階は社会主義とも呼ばれたのではなかったか。
 第一段階においては、生産力の発達程度があまり高くない。途上段階で、生産の向上は高まらない。そのために社会の成員は、能力に応じて労働し、労働に応じた分配を受けるとした思想によって運用を考えた。一見、理想形である。平等が、全体を占めるからである。しかし、錯覚に過ぎない。これは発展途上には発見されないが、何らかの利益が創出する頃に問題が起こり始める。
 提案はするが、「働かないエリート」である。労働をしないエリートも、これに介入する。草案者として、これに介入し、多くを分捕っていく。ここに矛盾が生じる。

 更にそれが高度化した場合、次は生産力が高度に発展する。益々、働かないエリートは口先三寸で、労働者の上前をはねる。
 労働に従事する底辺は遣っておれない。おかしな理論だと思う。
 何かの憶測が生まれ、予測で疑うようになる。疑心暗鬼が始まる。虚構ではないのか?……と。

 そう、予測したのである。
 この予測に従い、各成員が能力に応じて労働し、必要に応じて分配を受ける段階を目指した。この目指すところが狭義的な意味を持つ“共産主義”だった。ここに提案者の虚構がある。
 その狭義には、資本主義に続いて現れるとされる共産主義社会の第一段階をいうのであって、この状態では発展途上である。社会主義の域を出ない。この域を、非マルクス主義的社会主義の運動および思想と位置づけた。
 これは虚構ではないのか。

 マルクス主義の社会主義運動が“共産主義運動”と呼ばれるのと区別するためには、発展途上を経過しつつ、社会民主主義を、特にこの段階で生産手段の社会的所有と呼だのであるが、これを土台とする平等原理は、結局は最後まで到達することが出来なかった。実験段階で終わった。それも多大な犠牲を払って。
 虚構理論の実験段階で終わり、成就はならなかった。地上の楽園は見つけること出来なかった。虚構に、理想も楽園もないのだ。
 見つかったのは、虚構理論だった。
 この虚構を、当時入れ揚げた人間どもは何も論じない。平等を信じた人間どもは、この矛盾について語らない。沈黙したまま、矛盾点を論じることなく、社会主義は正しかったと過去を懐かしむだけである。決して「元凶」を顧みることはなかった。理論の酔っただけであった。

 では、その元凶は何処に問題があったのか。
 それは、そもそも人間が同じように平等に作られていないからだ。ここの生命体は、均一でない。
 種によって、地域によって、能力や才能によって、地球の北側と南側は違った。南北問題に貧富の差は、ここにある。
 南北問題に絡むのは、人種が「均一でない」ということだ。
 均一でない証拠に、例えば“頭脳”と“胃腸などの消化器”と“生殖器”の三点を挙げただけでも、均一でないことは明白である。

幾多の才能も、人間の持つ不平等から生まれた。

 人間は「生まれ」というものがある。
 生まれでる最初の段階は父母の生殖器の善し悪しで、ほぼ勝負がついてしまう。この勝負をつけずに平等理論を持ち出せば、先天的に、容姿も体力も体格も美形も知力も食欲も味覚も……それぞれ異なり、既にこの段階で不平等になっている。紛れもない事実だ。
 したがって、まず生殖器の能力が根本的に平等・均一でなければならぬ。この違いにおいて誤差が生じている状態にあっては、平等は競えない。競えば必ず不平等になる。形の相違も解消されていなければならない。同質・同形でなければならない。更に付け加えれば、同機能を有していなければならない。

 生殖器が均一で平等化された「ドングリの背比べ状態」になっていれば、この世の平等原理の主論の半分以上は解決したことになる。何故なら個人差が生じないからである。この個人差の生じない、平等に限りなく近い場合に、この世の楽園は存在することになる。各成員が能力に応じて労働し、必要に応じて分配を受ける段階を目指しても、何の支障もない。平等分配が可能である。
 容姿でも容貌でも、一切が均一化されているのだから、右を見ても左を見ても、何処を見ても、人という人の周りは、美男美女に溢れ、誰に決めようと同じだからである。
 揃って同じ場合、これを「平均化され、均一化された」という。

 ところが、こうした条件は、この世でのは作り出せない。そんな世の中は作り出せない。
 如何に優生保護法に頼ったところで、ある一定の比率でクズが出現するからである。ここに人間が平等ない元凶が巣食っている。
 生殖器の均一抜きに平等は語れない。
 生殖器が均一であるということは、逆に言えば、個人差がないということだから、ここには絶倫も不能も存在しない訳で、更には好色も、ロリコン趣味もなく、同性愛もなく、況
(ま)して階段のしたのパンチラすらなく、満員電車の乗っても痴漢などは居(お)らず、SMなどの猟奇も存在しないことになる。風俗産業はお手上げである。水商売すら成り立たなくなるだろう。
 そうなれば、まさに世は平等であり、均一化された人間の世を誇らしく思う筈である。

 右を見ても左を見ても均一で、健康に溢れ健全に溢れている。個人差がなければ、まさにこの世は地上の楽園となる。
 ところが、そうならないのは何故か。
 個人差を見逃したところに、不平等が働いているからだ。
 持って生まれた先祖の遺伝子が働いているからだ。
 父母の遺伝もあろうし、以前の先祖の隔世遺伝もあろう。こうしたものは、総て生殖器を媒介して齎される。生殖器の優劣によって、ある種の優劣が齎され、そこに人間界の元凶が横たわっていうるようにも思える。

 生殖器。
 これは持って生まれた変更出来ない宿痾
(しゅくあ)が、ここには潜んでいる。ここに変更出来ない宿命を孕(はら)んでいる。だから、貧富の差が生まれると言える。醜美も、ここに創出される。
 宿痾も宿命も、その表現からして動かし難い物であり、かつ固定的である。その固定なるが故に、生殖器の形があり大小がある。
 名器も鈍器もここに集約されるのである。そしてそこには、濃淡を分ける耐久性などがあり、性行為回数の格差があり、同時に絶倫型人間もおり、好色型人間もおり、付随するように不感症も不能もいる。これこそ個人差の実体ではなかったか。
 これをもって、何ゆえ均一かつ平等と言えよう。
 これだけを考えてみても、平等は、この時点で崩壊している。平等は荒唐無稽な理想論である。
 だから、昨今は民主の言葉を吐きつつ「法の上での平等」などを、肝心な要を隠す連動が横行している。実に上手い「方便」である。
 あたかも、仏教創世記の方便の如しである。

 崩壊している証拠に、現実の世として、この世には一夫一婦制でない実情が派生する。
 これは如何なる思想、如何なるイデオロギー体制かにおいても存在する。プロレタリア独裁において、その一握りのエリートは、一夫一婦制に即した生活を行っていない。社会体制は人間の世である限り、如何なる体制が現れようと、弱肉強食である。強い者や優れた者が上位を独占する。ここに優劣が存在する。
 スターリンも毛沢東も、一夫一婦制に遵
(したが)ったというのか。清貧に甘んじて、プロレタリア階級とともに汗を流したというのか。
 この一事を糾弾したい。
 だが生じた優劣は、指弾されることはない。不文律が働き、暗黙の了解となる。
 特に、一握りのエリートには、一夫一婦制が全く働かない。

 何故なら、持って生まれた、例えば容貌や美貌が変更出来ないように、また逆に醜男
(ぶおとこ)も醜女(しこめ)も変更出来ないように、ここには固定的な宿命が働いているからである。変更不可能な遺伝子によって齎された所産が出現しているからである。
 この出現を、後天的には変更出来ない。幾ら弾劾しても弾劾出来ない所産が現実として存在するからである。これを以て、嫉妬から弾劾することは、ただ醜い限りである。
 つまり、現実問題としてこの世には“平等”を口実に、絶倫や好色などを含む個人差を叩き落とすこと自体、非常に醜い嫉妬心が生まれるということだ。
 この世は不平等に出来ている。
 この現実を決して忘れてはなるまい。

 私は刀屋を通じて、この「不平等」を嫌というほど思い知らされてきた。
 根本的に、人間の習気
(じっけ)にはそのような不平等が絡み付いているからである。
 習気とは、過去世における性癖である。一種の遺伝子情報だ。この情報は人間の性
(さが)な関与しているため変更出来ない。その変更で着ない現実は、同じ性を共有しながら、牛や豚に生まれた哺乳動物が、人間に変更出来ないように、それくらい染色体の改竄(かいざん)が不可能なのである。結局諦めるしかない。
 先天的な物が占める領域のものは、後天的には改竄することも出来ないし、それをベースに改良するしかない。改良だけが残される。しかし、改良してもそれは先天の上に、後天を重ね合わせただけに過ぎない。素材は変改しないのである。見た目が変わるだけである。素
(そ)は同質であり、同質が後天的な努力の結果、多少変化すると言った程度である。その変化を需(もと)めて、この世は奔走する現実がある。

 素が変化し変形を遂げる場合として、次のことが考えられる。
 一つは、素が努力に応じて変化し変形した場合。
 二つは、素は努力せずに朽ち果て風化した場合。
 おおよそ、変化・変形には二つの選択肢がある。
 この世でのは前者を「他力一乗」といい、後者を「無為自然」という。努力する他力と、努力しない他力である。両者は180度の違いを持つ。
 ここにも既に、意識からして不平等が働いている。
 不平等とは「他人との相違」である。一様でないことを言う。

 この世は因縁が関与するものである。
 人間が生きている、この状態すら因縁が関与している。生きているということは生かされているということであり、生かされるということは明らかに因縁が関与しているからである。
 そして、また因縁も平等でない。そこには他力一乗において変化し変形する因縁と、無為自然で放置され朽ちはれる因縁がある。だが、努力しない風化は虚しい。
 努力は必ず実るとは限らない。むしろ実らない確率の方が高いであろう。
 この世は、努力したからといって、それが実るという保証はないのだ。努力の裏には、常に「運」が絡んでいるからである。人は、「運」によって運ばれている現実があるからだ。
 だが、運にも先天運と後天運がある。

 先天運とは習気が関与した先祖からの恩恵であり、後天運とは、努力が絡んだ変化・変形である。
 前者は「親の七光り」が絡むが、後者は「自力での努力あるのみ」である。しかし、自力努力は、また他力努力であり、この「他力」部分に実は運が絡むのである。努力は実らないが、努力する他力は実るのだ。
 実ると言うより、「万一まかり間違えば、実るかも知れない」という程度で得ある。
 何故なら、そこには天が関与しているからである。
 人智を超えた天が絡み、他力一乗を支えているのである。任せたところに他力一乗が働くのである。努力する他力は、ここにこそ大きな因縁の縮図があり、諦めとは違う結末を齎してくれるのである。



●富貴

 私が二十代半ばで最初の刀剣店を開いたのは、北九州市八幡西区の黒崎商店街の一劃(いっかく)だった。そこに『大東美術刀剣店』という店を開いたのである。
 売買する商品は刀が主体で、脇役として、陶器趣味が絡んで、一部焼き物なども扱っていた。
 私の趣味としては、日本刀と陶芸は何処か合致していたのである。あるいは風流人の心をくすぐって、日本刀の中に焼き物が紛れ込んだのかも知れない。鑑賞家は、何もワンパターンにこだわらない。

 一方で、それは親戚が、佐賀県有田で窯元を紹介する有田焼の店を経営していたことにもよろう。陶器を見る眼は、子供心に自然と馴染む環境に居たのである。
 眼の勝負といったのは、有田の親戚筋の伯父の、いつも口癖のことであろう。眼力の有無をいつも激しい口調で指摘していた。
 この世界は「眼の勝負」だからである。培った眼力が物を言う。
 現代作家の焼いた物でもそうであるが、古美術品でも真贋があり、真物
(ほんもの)を掴めばそれだけ眼のあることになり、贋作を掴まされれば、それだけ眼が冥(くら)いことになる。そして盲(めくら)は、贋作を掴む度に高い月謝を払って、もっと勉強して“目利き”になろうと努力するのである。

刀剣類の他に、こうした陶磁器の焼き物も扱っていた。

 はじめから眼の見える人間などいないのである。
 最初は、みな盲である。勝負も何もない。何も見えず、盲である。眼の勝負の土俵にも立てない。幕下である。
 盲が努力して、目開きになりたいと奔走するから、その奔走した分だけ眼が開いて来るのである。
 したがって眼開きになるにはそれだけ、ある時点に到達するまで有難い高額な月謝を払い続けることになる。
 欲を出して、“掘り出し物”などと下心をもって、美術の世界に挑んでも駄目である。謙虚さがなければ、欲搦みでは真物の世界に到達出来ない。学ぶ謙虚さがいる。謙虚さを見下す者は、盲のまま一生を終える人である。

 私のとって刀屋は「人間勉強の場」であった。
 刀屋に限らず、刀剣市場もその他の骨董市場も、この市場には、一癖も二癖もある、世の有象無象が集まって来る。単刀直入に言えば、どの人間も、総て穢
(きた)い。一筋縄ではいかない。海千山千の強者(つわもの)揃いである。その辺の、底辺の課長や係長止まりの人間ではない。
 「恐ろしい」と形容していいくらいの、恐ろしい癖のある人間どもだ。
 この世界で綺麗な人間など、殆ど皆無と言ってよいであろう。それは人間界でも同じである。修羅の世界と置き換えても言いだろう。
 既に、市場に物を持ち込んだときから駆け引きの地獄が始まっている。
 刀剣市や骨董市は、地獄の競りを思うのである。
 古物商を遣っていて、市場を「地獄」と形容出来ない人は、まだ“火と水の試煉”が充分でないのだ。洗礼が足らないのである。洗礼の不充分な人は、この世界を甘く見る。だが現実は甘くない。
 一言で云えば、凄まじい。何とも凄まじい。地獄での格闘である。男も女もない。ただ「眼の勝負」である。眼力が物を言う。

 目利
(めき)きか否かで、勝負は一瞬にしてついてしまう。
 美術品の市場は、人生の縮図がそのまま存在していると言えよう。
 欲の世界であり、決して無為自然な安穏の世界ではない。この世界に善人など、一人もいない。鬼ばかりである。凄まじい鬼神
(きじん)の世界である。問題はこの世界に入って、入った者は鬼になるかそうでないかに掛る。善人が鬼に中に入って、鬼になればその人はそこまでの人である。鬼の世界にあっても、鬼にならず、一人孤高を保って毅然としている人こそ、鬼に染まらない真の人間と言えよう。
 こうして考えると、鬼の世界にあって、鬼に汚染をされないということが、どんなに難しいか分かるのである。

 人が遣るから自分も遣る式では、“穢
(よご)れ”からいつまでたっても卒業出来ない。
 しかし、鬼も反面教師である。鬼がいるから穢れから卒業出来る人もいるのである。鬼がいなければ比較対象がないから、穢れたままいつまで経っても卒業出来ないのである。
 それから考えれば、刀屋の世界、古美術の世界は、まさに人間界の縮図をそのまま取り込んで、「人間勉強の場」を提供しているのである。そして、一度は鬼に顛落
(てんらく)した身分の者でも、富貴な買手によって救われ、目覚めることがある。私はある人から救われたことがあった。

 この当時のことである。
 山口県美祢市から、私の店に刀を買いに来た御仁
(ごじん)がいた。
 この御仁は私の刀屋で、最低でも重要刀剣以上の刀を買ってくれた上客であった。上客というより、こうした人は、これまで顧客にいなかったのだから「最上客」というべきかも知れない。
 この御仁からは延べにすれば、軽く一億円以上は買ってくれている人である。最上客中の最上客だった。

 しかし、この最上客は大変に癖のある人で、最初、金の亡者のような金銭意識しか持っていなかった。私の古美術を検(み)る眼で、意識改革する以前は、確かに「金の亡者」のように映った。金の嫌いな人はいない。亡者でも、この点は正直だった。
 この人が、黒崎商店街で刀屋をしている当時、私の店に訪れたことがあった。
 当時は大変尊大な人で、札束で人の頬
(ほほ)を叩(は)くような感じの人であった。金は持っているのだろうが、些か高飛車だった。高飛車で物を言う人だった。
 当時、私は未
(ま)だ二十代半ばで、刀剣商と言っても、駆け出しの青二才である。甘く見られるのは当然である。この青二才に、この御仁は目を付けたのだった。その物言いも「おい、こら」式である。
 心の底まで、人を侮蔑した人ではなかったであろうが、雰囲気から、これまで散々札束で人の頬を叩
(はた)いてきた人のような印象を受けたからである。それに身形(みなり)も良くなかった。

 この御仁は店に入ってくるなり、「おい、小僧。儲かる刀はないか!」と唐突に、然
(しか)も傲慢(ごうまん)に訊くのだった。まさに「おい、こら」式である。横柄である。
 その尊大振りに、第一印象としては辟易
(へきえき)を覚えたのだった。こうした手合いとは、出来ればお付き合いしたくないのである。いま直ぐにでも消えて欲しかった。
 このタイプは、私の最も嫌いな客だった。こうした客は、一刻も早く退散してもらうに限る。こんな客が店の中で罵詈雑言を並べられると、私自身、精神的衛生上、非常に悪いのである。
 「儲かる刀ですか?」
 私は仏頂面
(ぶっちょうづら)で切り返した。
 「そうだ、儲かる刀だ!……儲かる刀だぞ!」
 “儲かる”を、莫迦
(ばか)に力を入れて言うのだった。
 最初この人を、海千山千の、その程度の人だと軽く見たのである。卑しいと検
(み)たのである。美術品を投機の対象にしていたからである。

 また私自身、当時は駆け出しの若造経営の刀屋で、小金で、金に行き詰まった弱者の持ち物を、札束を切って傲慢に買い漁
(あ)ることをしていたので、結局はその辺の古物商と変わりのなかった。汚い買い叩き方をしたのである。
 汚く買い叩き、それに認定書や鑑定書を付けて、ランク付けで示されている時価値より、高めに売るという阿漕
(あこぎ)な商売をしていたのである。当時は真贋に関わらず、私立でやっている刀剣鑑定のお墨付きを貰い、それを刀に付けて売れば、値段はグーンと跳ね上がるのである。
 当時は、長物
(2尺3寸前後の定寸の大刀や太刀を言う)の場合、日本刀剣保存協会の白紙(貴重刀剣)で20万円前後、青紙(特別貴重刀剣)で30〜80万円前後で、そして甲種マル特(甲種特別貴重刀剣)で100〜300万円前後だった。
 更にその上になると、重要刀剣の450〜1,000万円前後、あるいは特別重要刀剣の2,000〜2,500万円前後となるのである。上には上があった。

 しかし正直なところ、重要刀剣や徳別重要刀剣は別にしても、貴重刀剣や特別貴重刀剣クラスでは、幾らでも贋作にこの手の認定や鑑定が付けられていた。第一、某保存協会の鑑定師には「村上マル特」という悪名高い“その手の人”がいて、この人に一杯飲ませて恃めば、幾らでもマル特が大量生産された時代があった。いま思えば、村上某から鑑定を受けた人は気の毒である。
 底辺では、こうした鬼以下の有象無象が徘徊し、素人愛好家を攪乱
(かくらん)していたのである。これも「人間勉強の修行の場」の一つの縮図だったかも知れない。
 そうした鬼と、鬼以下の有象無象が徘徊する時代が、昭和四十年代半ばだった。

 この御仁が一番最初に店に顕われたとき、身窄
(みすぼ)らしい労務者風の身形をしていて、決して金の匂いは感じられなかった。労務者風の中年男が、冷やかしで店に入って来たと思ったのである。
 刀屋は「千一屋」とも言う。
 これは何度いっても言い過ぎることはない。要するに、簡単には売れないのである。庶民は買わないのである。刀はなくても生活に困らないからである。この点は「千一屋」なのである。
 千人客が入って来ても、そのうちの一人が、買うかどうか迷うである。それくらい確率は低い。1000人中、999人までが“冷やかし”である。おまけに金も持っていない。金のないくせに大きなことを言う。
 又聞きで、耳年増で、大きなことを言う。この手の話は、耳にタコができる程よく聴くのである。そして多くは、最初から買う気などない客である。何故ならば、金がないので、欲しくても買えないのである。好きものだが、買えないのである。

 刀屋にはこうした手合いが、集まって来る。冷やかしては帰り、また何日か経って遣って来るのである。
 そして、さも金持ちのように振る舞い、大きなことを言う。この手の客は尊大この上もなしである。自分の又聞きで聴いた、訝
(おか)しい「刀剣譚(とうけん‐たん)」を始めるのである。
 素人の刀剣譚ほど聞き苦しいものはない。
 困り者は、こうした耳年増で刀剣譚の一席もぶたれ、それにじっと耳を傾けなければならないことである。辛いこと、聞き苦しいこと、この上もなしである。お里が知れているのに、刀剣譚をぶつ人は、自分の正体がバレていることに気付かないのである。哀れというか……。
 要するに、自慢話がしたいのである。こうした自慢話に、根気よく相槌を打って聴いてやることも刀屋の閑な仕事の日課なのである。

 こうした閑が続いているときに、この御仁がきとのである。
 最初見たとき、その手の客と、眼鏡違いをしてしまったのだった。身形は卑しかったからである。
 一方、この御仁は傲慢であり、尊大な口を聞く。刀剣譚をぶつ典型的なタイプに映ったのである。
 こうした尊大な言葉遣いは、私の一番嫌うところであり、ついに堪忍袋の緒が切れて、売り言葉に買い言葉となるのである。そうした客を、今まで何人も見て来たからである。

 「おい小僧」
 私をこの店の丁稚か、手代のように扱うのである。
 客が来ない日々の日課で、私がすることと言えば、店の前の水撒きくらいである。玄関に水打ちをして掃き清めることくらいである。
 「小僧とは、私のことですか?」
 「そうだ。早くこの店の主人を呼べ。お前では話にならん」
 「話にならんと仰られても、……つまり、その店主が私なのですが」
 「なに!お前が店主とな?……、これは異なことを……」
 “異なことと言われても……”と反論が先立ったが、一応お客である。ここが我慢の為所
(しどころ)だった。
 「私が店主なのです、正真正銘の。異なことを……と仰られても困ります」
 「じゃァ、訊くが、儲かる刀はないか、儲かる刀だ」
 「儲かる刀とは、それは掘り出し物という意味ですか?……、後に十倍とか二十倍になるような……」
 「そうだ。儲かる刀だ。50万とか、100万の安物では駄目だ。そんな物
(ぶつ)はガラクタに決まっておる。わしはゴミのようなガラクタは好まん。いい物が欲しい。一千万単位のな。お前の店の陳列(ちんれつ)に並べたガラクタではないぞ。見ていて惚(ほ)れ惚(ぼ)れする……、そうした刀はないのか?」
 「見ていて、惚れ惚れ……ですか……。そんな物があったら、私が買いたいくらいです。教えて下さい」
 「お前。わしの身形に目を眩
(くら)まされ、甘く見ているのと違うか。そういう了見の狭いことでは大した刀屋ではあるまい」
 「そうです。大した刀屋ではありません。貧乏刀屋です」
 「ほーッ、今度は居直りおった」
 “ふん”と吐いて、侮蔑するように、言い捨てるのだった。

 「はい、何しろ私は貧乏な上に、大層、気も小さく、小心者ですから、大きなことを言って脅さないで下さい。震えて言葉も出ません。これ以上、苛
(いじ)めないで下さい」
 「まあ、しかし自分で貧乏と言い、また小心と言う。お前は小心より、本当は正直な奴だ。少しばかり見所がある」
 「そんなに褒
(ほ)めて、莫迦(ばか)にしないで下さい。一応意地だけは持っておりますから……」
 「では、その意地とやらを見せてもらおう」
 私はこの労務者風の男を完全に見下していたのである。刀剣譚をぶつ人間には、よく居るタイプだったからである。
 半分、小馬鹿にしながら、売り言葉に買い言葉で、“意地とやら?……”を見せる羽目になってしまったのである。

 普通、銀座などに店を構える老舗
(しにせ)の大手の刀屋は、上客の出入りも頻繁(ひんぱん)である。仕入れ資金も潤沢であり、また、上質の顧客も多くついている。
 ところが底辺は違う。仕入れ資金も潤沢でなく、顧客も底が見えている。底の見えた尊大な顧客を扱い、苦しい商売の駆け引きをするのである。それだけに難しい。商いを成立させることは難しい。
 習性として、高級品は隠す癖がつく。尊大な客に、見せたくないのは人情だろう。
 数千万クラスを陳列に入れて飾っているが、私の店のように小店舗では、こうした値の張る物は並べず、金庫の中に入れて陳列には出さないのである。
 上客が来たときにだけ、見せ渋りながら、ちらりちらりと見せ、買う気をそそり立てて、駆け引き半分に商売をするのである。したがって、労務者風情の素人に、数千万円の刀を見せても仕方がないと思っているのである。駆け引きに無駄な動力を遣いたくないという思いが働くからである。
 この日の、この御仁に対する態度も、そうした意識を剥
(む)き出しにして軽く見て居たのである。

 最初、300万円前後の重要刀剣を見せて、この御仁には、早々にお引き取り願おうと思っていた。
 私は、この御仁の刀剣に対する知識を検
(み)るために、“まず、それを検て……”という態度で、今度は、こちらが揶揄(からか)おうと思ったのである。下衆(げす)の仕打ちである。

 私は、人を試すために、また試したことを確認するために、常に来客者の程度のほどの「人定」を行うのである。
 刑事裁判の公判手続の冒頭で、法廷に出頭した者が、被告人の、その人に相違ないことを確かめる、裁判官の“あれ”である。その人を人為的に確かめ、「人間のレベル」を判定するのである。人間勉強は、こうしたところにも転がっているのである。
 特に尊大な客に対しては、その正体を見定め、あるいは暴
(あば)こうとするのである。
 そのために店内ではなく、店内に隣接している座敷に上がってもらい、畏
(かし)まって、徹底的にバカ丁寧にして、次に持て成すのである。それに金庫は、座敷内の置いていたからである。
 まずは、上がり框
(かまち)を上がって貰うことから始まった。

 この時も、この御仁に座敷内に上がって貰って、古伊万里の茶碗に盆略点前
(ぼんりゃく‐てまえ)で茶を立て、茶を進ぜるつもりでいたのである。こうして、バカ丁寧に持て成すことにより、自他の間に境界線を作って、こちらの敷居(しきい)を一ランク上に保つのである。言わば“結界”である。
 穢い遣り方と言えば穢いし、それが商売の、沽券
(こけん)を保つ唯一の方法と思っていたからである。甘く観る、見下した者への仕打ちである。それで辛うじて、自尊心を保つのである。
 ある意味で、刀屋とはそうした哀れな商売だった。哀れだから、それを逆手
(さかて)に取って世俗の「逆を遣る」のである。

 普通、凡夫
(ぼんぷ)は、敷居が高くなると恐縮ばかりする。やたら恐縮する者は、その化けの皮が直ぐに剥(は)げる。それで人定が表出する。どのランクは見極めることが出来る。
 「お里」を観るのである。観察するのである。人間の品定めだ。
 私はこのとき、この労務者風の御仁の化けの皮を剥ごうとしたのである。
 徐
(おもむろ)に茶を立て、少しばかり値の張る古伊万里の名器で、抹茶(まっちゃ)を一服(いっぷく)進ぜたのである。
 すると、この御仁は別に怯
(ひる)むでもなく、また恐縮するでもなく、これまで胡座(あぐら)で坐っていた佇(たたず)まいを正坐に改めて、茶を頂くのだった。

 この御仁を見て、この人は見掛けによらぬ礼儀家かも知れない……と思ったのである。
 そして金庫から一振りを出して、350万円前後の重要刀剣を見せたことを憶
(おぼ)えている。
 あれは確か、名前が長ったらしい素人好みの越前刀を見せたことを憶えている。二尺三寸六分で、銘には「越前国住上総大掾藤原宗道」と入っていたと思う。
 刃文が、互の目乱れの直刃匂だったから、少しばかり派手で、素人受けすると思ったからである。

 この御仁に、まず刀を、袋ごと渡した。
 すると、この人は正直に「わしは扱い方を知らん。教えて欲しい」と、頭を下げて請い出たのだった。
 これだけで、この人に対する考え方を180度変えなければならないと気付いたのだった。礼には礼で応えねばならない。このように出られれば、労務者風情と雖
(いえど)も、こちらも襟(えり)を正さないわけにはいかない。
 房紐
(ふさひも)を解き、刀袋から外装ごとを抜き出して、それから鞘を払って、刀を渡して柄を握らせたのだった。
 この御仁は暫
(しば)く刀を見ていた。そして唸(うな)り声を挙げたのである。

 「刀はいい。実にいい。わしは素人で、今は刀の見方は知らんが、これから猛勉強する。これは幾らだ?」
 「350万円ほどになりますが……」
 「この程度の物で、博物館の陳列に並ぶか?」
 「とんでもありません、この程度では、とてもとても……。正直に申せば、まあ、その辺の安物の建売住宅でも買って、貧相な床の間に飾る程度のものでしょう。素人に見栄を張るのが精一杯です」
 「では、もっといい物を見せてくれ。わしはなあ、どうせ持つなら、博物館に展示されるような物を持ちたい」
 そういってこの御仁は、今まで背中に背負っていた小型の古びたリュックサックの中を開け、私の目の前に、レンガ五個を並べたのであった。つまり、5,000万円である。
 このレンガ五個に驚愕
(きょうがく)せずにはいられなかった。今までに、こんな客は見たことがないからである。
 粗末な作業着の、労務者のような恰好で、泥だらけの履き古したゴム長靴を履き、粗末な布製の赤茶けたリュックサックを背負っていたからである。まるで終戦直後の、食糧買い出しに出掛けたような恰好をしていたからである。戦後生まれの私としては、この御仁を食い詰め浪人と検
(み)たのである。こうした人も、昭和四十年代には多かった。

 しかし、この御仁は、最初から買う気で来店していたのであった。そうした食い詰めではなかった。毅然とした、堂々とした人だった。
 私の“凡眼”が、この人の本当の姿を見抜けなかっただけである。未熟を恥じた。
 こうなると、こちらの方が益々恐縮して、逆に、私が試された観があった。観られていたのである。
 私は、この人から試されていたのである。不覚だった。
 この御仁の眼からすると、“お前の眼は何処についているのか。節穴ではないのか!……”と、刺さるような厳しい眼で、あたかも糾弾されるようであった。

 人を観る眼が甘かった。
 当時、こうした深い反省をしたものだった。人を観る眼が甘かった!……という、心の底から湧き起こる悔悟である。私の心の中に、悔悟が充満していた。恥じ入るばかりである。
 そこで私は、わが店で一番とびっきりの、滅多に人の見せない、当時の値をつけていた延文年間
(南北朝時代の北朝、後光厳(ごこうごん)天皇朝の年号で、1356〜1361年)の特別重要刀剣であった『包氏(かねうじ)』を見せたのであった。私の売り物としては、これがとびっきりだった。
 別に私の恥を、繕
(つくろ)おうとは思った訳でない。これまで、人を表面で、姿形で観てきた自分を恥じたのである。愚かだった。
 世に恐ろしき、あたかも“水戸黄門さま”のような人がいることを、初めて思い知らされたのである。水戸黄門さまは、何もテレビに世界だけの人ではなかった。現代にも、こうした“恐ろしき人”はいるのである。

 こうした人は、庶民の世界にも徘徊し、庶民の愚を見て、試したり、あるいは庶民の非を検
(み)て、やはり“庶民だなァ……”と、「人の生まれの違い」を確認しているのかも知れなかった。あり得ることだろう。
 私は“刀屋”という、古美術品の狭い世界で人を検
(み)ただけではあったが、人間界を見渡せば、何処の世界にも“愚”なるものや、“非”なるものが、ゴマンと居るように思えるのである。
 当時、私は「恥多き自分」に、反吐をつかし、徹底的に恥じ、愛想を尽かし、自分自身に対し「クソ野郎」と喚いたことがある。私は確かにクソ野郎だった。
 人を観る眼がなかったのである。

 普通「人を観る眼」といえば、自分が眼鏡違いして、その人に失望して“人を観る眼がなかった”と、ボヤクらしい。
 しかし私の場合、“水戸黄門さまを見抜く眼がなかった”という、猛反省だった。
 確かに、眼鏡違いをしていたのであった。
 正真正銘の“水戸黄門さま”を、その辺の「惰夫
(だふ)」と眼鏡違いをしていたのである。
 そして「試された」という口惜しさがあった。
 恥の上塗りをした、自分自身への口惜しさがあった。
 しかし“水戸黄門さま”は、やはり“水戸黄門さま”だった。別に、見抜けなかった私を責める訳でもなかった。ただ、にこやかに笑っておられた。実に自然体だった。その自然体を観て、これまでの人生観が変わった。
 それだけに、試された私は「口惜しい」と言う気持ちを持ったのは確かだった。

 人は振り返れば、過去を顧みて「恥多き人生」という。
 私愚はご多分に漏れず、恥多き人生を歩いてきた。反省あるのみの人生を歩いてきた。
 これに“償
(つぐな)う術(すべ)”は知らない。
 しかし、「恥」と知しったら、やはり修正すべきだろう。
 謝れば済むことだ。
 日本人は訝
(おか)しな習性があって、自分の非も、なかなか謝ろうとしない。恰好ばかりをつける。これで、後世の人間が、どれだけ迷惑したことか。
 私は謝った。
 それが男らしいというものだ。
 この御仁が、まず毅然として、正々堂々とし、悪びれる様子がないからだ。こうした、正しく清々しく毅然とした人を見たのは、初めてであったからだ。
 私自身襟を正す必要があった。正真正銘、正面から見据える人であった。
 取って置きを観せた。観て欲しかった。
 観てもらって、その結果、難癖があるのなら、結果としてほざいて欲しかった。相手も武士ならば、私も武士だった。

 取って置きは、『志津三郎』だった。
 博物館にあっても不思議ではない。
 私は、自称「天下の名刀」と思っている。かの「包氏」だ。
 包氏は大和志津と称し、また『志津三郎兼氏』の異名を持つ刀工の作だった。大業物に属する刀である。志津三郎は鎌倉時代の刀工である。
 この刀には、鎌倉期特有の「映し」があることで知られる。私の好きな刀である。
 志津三郎は、大和から美濃国多芸郡志津村
(現在の岐阜県海津市)に移り、後代まで、その名跡が継がれている。
 その作風は、直刃小乱れ五の目乱れに、砂流金線湯走と沸付があるのである。

 包氏は、この御仁の目を捉えて離さなかった。このまま放置すると、この御仁は三十分でも一時間でも、あるいは二時間でも三時間でも、このままの状態になって、ずっと固まっているのではないかと思われた。それだけ見入っていた。魅せられたといっても過言ではない。
 恐ろしい程、固まり、声を掛けることも憚
(はばか)れるくらい恐ろしい姿で魅入ったいた。心酔し、魅せられたのだ。
 「いかがですか?」恐る恐る声を掛けた。
 下手に声を掛けると、啖われる啖
(く)われるくらいの恐怖があった。凄まじい。
 世にこう言う、深みに嵌まる人がいることも初めて知った。
 「あの……」
 「……………」
 声を掛けたが返事がない。
 御仁は、ただ観ているだけだった。それだけの御仁である。
 とにかく、鬼のように恐ろしいくらい魅入ったいた。

 「あのッ……」
 私は再び恐る恐る訪ねた。
 鬼の御機嫌伺いである。
 平身低頭する以外ない。訊き方を間違えれば、啖
われるような恐ろしさがあった。
 この人は、これまでのションベンをするような客とは、そもそも生まれの違いを感じたのである。このとき初めて、「上のランクの人」というのを見たのであった。庶民のもつ感覚とは全く違っていた。
 「これを所望する。幾らだ?」
 畳み掛けるように訊いた。訊き方が何とも恐ろしかった。値段でも間違えば、叩き斬られるような凄みがあった。
 「1,500万円です」
 恐る恐る言ったのである。何しろ、刀屋の儲けの、仕入れ分の七掛けが乗っているからである。
 私はそれで生活しているからである。これで“いちゃもん”付けられても困る。
 「よし買った!」
 一声だった。
 恐れている懸念は消えた。

 同時に、私は一瞬耳を疑った。
 何しろ値切らない。庶民の素人相手では、常識の値切ることをしないのである。
 普通は、どんな金持ちでも“ごねる”のだ。安くならないか?と、ごねるのである。迫るのである。
 しかし、この御仁に“ごねる”行為は、微塵
(みじん)もなかった。「買った」の一声だけだった。
 今までに、こうした客は知らないからである。鶴のひと声だった。値切りも、何もしなかった。
 美しい……と思った。見事だと思った。

 こちらの言い値で買ったのである。こんな見事な人は初めてだった。
 別に吹っ掛けている訳ではないが、仕入れ値の儲けの七掛け程度だった。
 刀屋も、せめて七掛け程度の“おこぼれ”に預からないと、生活していけない。だから、吹っかけた訳ではない。買うために仕入れる地まで出向き、大枚を叩いて買う。買うための下準備も、智慧も遣う。売れ残れば、翌年の所得税を覚悟しなければならない。それを承知で、踏ん切りを付けて買う。
 それが刀屋の商売である。刀屋にも生活のために辛い事情がある。
 だが、これを見越したかどうか、知らないが、鶴のひと声が掛かった。これを「美しい」と言わずに何と言おう。見事という以外に言葉があろうか。こう言う人こそ、このクラスの刀を所持して当り前と思うのだった。
 素直に“1,500万円”が出たのである。

 刀屋は「千一屋」ともいう。
 売れないのだ。
 売れないから“千一屋”という、皮肉な言葉がある。
 簡単に売れず、況
(ま)してこうした上客が来るのは、一生のうちに一度有るか無いかである。
 私はラッキーだった。
 まさに、私がこの年で「上のランクの人」を見たというのは、実に幸運だった。
 もし、この当時、上のランクの人を見ることが出来なければ、その後の私の人生は、どん詰まりだっただろう。人生に厭世観を抱いていたことであろう。それが、二十代半ばで解消された。
 人生は、なかなか捨てたものではない……と思ったのである。この御仁を見て、そう思った。
 こうして、この御仁との付き合いがはじまったのである。私の人生の師匠だった。
 住所を訊くと、山口県美祢市から来たというのだった。美祢市はセメントの街である。
 またそれから、この御仁の刀道楽がはじまったのだった。その道楽に、私は暫く付き合うことになる。

 帰る際、私は商店街前の停めている車まで見送ったが、この御仁は運転手付きのロールス・ロイスに乗って来ていた。当時、この手の高級車を見たのは暫く振りだった。
 運転手からは恭
(うやうや)しく扱われ、このとき、人は見掛けによらないものだとつくづく痛感したのだった。同時に、人の接し方にも考えさせられるものがあり、表面だけを見て、軽薄にその人物を評価するのはよくないと感じたのであった。
 私自身、有り難い人間勉強をしたのだった。
 そしてこの御仁は、実は、庶民からは覗
(のぞ)けない、桁外れの資産家だったのである。意地穢い小金持ではなかった。確固たる金銭哲学を持った桁外れの人だった。
 同時に「富貴の人」だった。

 若造の私は……、青二才の私は……、刀屋商売をして、最初に富貴とは「ああ言う人のためにあるのだ……」ということを思い知らされたのである。
 しかし昨今、富貴の人を見るのは、殆どないのである。皆こぢんまりなってしまった。尊大はいるが、桁が小さ過ぎる。
 もしかすると、この御仁は“富貴天にあり”という言葉を、本当に理解している人だったかも知れない。それでいて礼儀正しい。
 その意味で、生まれが違っていたのである。私などの“下衆
(げす)の生まれ”とは、そもそも次元が違っていたのである。次元が違うから、労務者風の作業服で現れたのかも知れないと思うのだった。
 この人は掛値なしの、全く人間の羨望や劣等感に無縁の人だった。だからこそ、側面には成功が転がっていたのだろう。




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