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刀屋物語 9

藻柄子宗直と無銘鍾馗鍔



●刀屋よもやま話

 “平安城石道住正俊”は私の身を起こす最初の原動力になった。
 この刀を持って、NETテレビ
(現在のテレビ朝日)の「桂小金治アフタヌーンショー」(全国放送でウィークデーの正午より放送。桂小金治の司会)にも出演したし、フジテレビの「万国びっくりショー」(全国放送で八木治郎氏の司会)も出演し、結局“平安城”は私を助けてくれて、身代を築くのに、ひと肌も、ふた肌も脱いでくれたのである。

 それ以降、“平安城”は、私の心の拠
(よ)り所となった。
 日本刀を所持することにより、気持ちに余裕が生まれたからであった。刀が「道を拓
(ひら)いてくれた」のである。この刀が、私一代の身代を作ったのだった。刀は、“高が刃物”ではなかった。また、単に観賞用の刃物でもなかった。自分と向かい合う物だった。

 

大東流剣術、枯竹斬りの妙技。

大東流白刃抜きで、引き抜いた後の、刀を握った手を見せるところ。司会は八木治郎アナウンサー(故人)だった。
白刃捕りの演武。一旦引き抜いた掌の鞘から、再び許の鞘に納める高度な儀法。


 苦しいときも悲しいときも、“平安城”と伴にあった。
 私の心の拠
(よ)り所だった。日本刀が心の大きな支えになってのである。
 平安城との、いわば二人三脚の人生は、確か昭和63年頃まで続いたのであった。そして、その後、止むなく手放すことになるのだが、それは平安城を身売りさせるほど辛いものだった。

 人生に別れがあるというが、それは人間同士の別れでなく、“人”と“もの”の別れもあり、止むなく手放さねばならない時が来るのだという、縁に纏
(まつわ)る命があることも知るのだった。
 しかし、思えば、平安城との蜜月は昭和41年頃から63年までの、約22年の長きに亘る歳月であった。いま平安城は、何処で誰の手に抱かれているのだろうか。
 ふと、そう思うことがある。
 その持ち主が居たら、訪ねて行って、評価格を上回る高値でもいいから買い戻したいと思っている。今でも売ってしまったことを悔
(く)やんでいるのである。刀の蒐集をすると、やはり最初に入手した物の想いでは深く、それがいつまでも心に残るようである。


 ─────刀剣の価格というものを考えたとき、私は一瞬不思議な気がするのである。それは値段である。一体値段とは何か?……という疑問がわくのである。値段はある物それ自体に付随する属性は全くないのである。
 特に刀剣の場合、売り手の買い手の打算が均衡する水準を探しながら、折り合いがつく時点に達して、漸
(ようや)く手打ちが起こるのである。はじめて値が立つのである。一応の査定価格があろうが、買い手が居ない場合、その価格は適正でなく換金価値は一切認められないのである。
 自由経済機構の中で流通する刀剣類などの美術品は、売り手と買い手によって構成されていることが中軸であり、この軸が崩れれば、商いは難しくなるのである。

 そして刀剣商売は、最悪な状態と云えるのは物価が低下した時である。
 普通、物価の下落は物が安く買えて、いい傾向だという考えを持つ。デフレはインフレ傾向よりも好ましいと錯覚する人は多い。
 そこで、物価安を画策して、裏で奔走する人が居る。しかし、こういう状況が生じた場合、経済全体は揮わない状態になって、深刻な不景気が襲うのである。このメカニズムを見逃す人は多い。
 公定歩合の上げ下げをして、本来の価格をいじるのは不適切である。法律や通達によって、価格をいじる政府と日銀のお節介は、経済の原理から云えば、まさに経済効果を無視した暴力である。
 物価が下がれば喜ぶ人は多いようだ。しかし、それが廻り廻って、わが身を襲う大変なツケとなる。この世は代価を支払うという原理が働いているからである。

 人間の半身は、まさに消費者である。消費者であるということは、自身が“持ち出し屋”ということである。持ち出し屋構造をしている人間は、物価の下落は確かに支出の減少となるから、それ自体は大いに助かる。ところが、人間のもう一方の半身は生産者である。物を生産して、所得を求める“取り込み屋”であるから、収入が減れば閉口する。物価が下がれば、生産者は当然価格を下げなければならない。そのためには生産に要する費用の削減をしなければならない。

 生産費用は何かと考えれば、それは原料と人件費による。
 昔から商売は、“仕入れが肝心”と云われて来た。仕入れる場合、一度に大量に仕入れ価格を割り引かせるか、あるいはもっと露骨に買い叩くかの何れしかない。しかし、これは自ずと限界がある。すると、残されたのは人件費削減しかない。人件費を削減して、果たしていいものが作れるかどうか。少なくとも職人の仕事意欲は半減するであろう。

 刀屋商売は“千一屋”という。
 千人客が店に入って来たら、そのうちの一人が、買うか買わないかの客である。デフレになって不景気になれば、それだけ刀の買値に渋さが出るのは当然だろう。買い渋り状態となる。美術品の暴落は、これらの経済メカニズムによる。
 刀屋は、ますます冷やかされ、どつかれ、コケにされた挙げ句、なかなか商売にならないのである。お手上げの状態となる。
 値下がりは暴落を呼ぶ。
 やがて美術品は贅沢品となって、蔑
(さげす)まれる対象になる。直接、生活と関係ないからである。贅沢品が日常になくても事欠かない。“無用の長物視”される。なくても困らないからだ。庶民はそう見る。刀剣とは無用に生きているからである。
 そうすると、この流通は止まり、市場に出回らなくなる。市場の冷え込みである。これが、やがて全体に波及する。誰もこのメカニズムを理解したい。

 物価が下落傾向にあると、需要は減退する。
 これは当り前のことだが、これを把握している人は少ない。
 人が物を買わなくなる。
 それも分かりきったことがだが、世間はそういう複合思考で物事を考える人は少なく、また安くなっかから飛びついて買うと言う単細胞もそう何処に喪で居る訳はない。思いとしては、何となく買い渋りが進行して、進行ガンの様相を呈する。
 物価が下がる。この状況は、下がったから直ぐに買うと言う分けではない。物価が下がれば、来月はもっと下がるだろう……こうした期待は大きくなる。買い控えが起こる。そこで、店頭からは潮が引くように客が引く。市場から通貨が引き上げられる。益々不景気の度合いが進む。価格破壊は不景気を促進させる。
 刀屋をしていれば、その促進が手に取るように分かる。

 そして、もう一つ敏感に感じるアンテナがある。このアンテナで感じたことは、もし物価が“ほんのちょっぴり上向き”という状況のときに刀屋の商売は成り立つという構図である。少なくとも客相がよくなって、難癖をつける客が少なくなる。
 ところが、デフレ状態ではどうしても客相が悪くなる。えべつない巧妙な詐欺が出てくる。

 戦後、庶民の生活雑誌『暮しの手帖』を創刊し、編集した人に、神戸市生れでジャーナリストだった花森安治
(はなもり‐やすじ)がいた。
 先の大戦中、花森は大政翼賛会で戦争宣伝に関与した人物である。
 この花森が、大政翼賛会の戦争宣伝人にも拘らず、当時のスローガンであった「欲しがりません勝つまでは」とともに、「贅沢は敵だ」という標語が出たとき、何を思ったのか、このオッサン、“贅沢は敵
(てき)だ”に、一字“す”を加えて「贅沢はすてきだ」とやったのである。
 私も思うのである、確かに「贅沢はすてき」なのである。
 日本刀を売るためには、その手の趣味人が、「日本刀はすてきだ」になってもらわないと困るのである。日本刀という美術品は、美術品であるために、税務署などが考える動産としては、一種の贅沢品と看做される。しかし、それが贅沢品ならば、贅沢品で、「贅沢はすてきだ」という意識で所持してもらいたいのである。

 「贅沢はすてきだ」
 いい言葉である。
 ところが、過去に一度、この「すてき」を解さない詐欺師が居たことを思い出すのだった。
 かつて、私は民間での鑑定が上位にある「重要刀剣」なる刀を仕入れ、店頭の陳列に入れて販売したことがあった。
 此処でもう一度、復習しておきたいのだが、“素人は怕い”の定義である。
 素人は本当に怕いのである。それも中産階級に属する素人が……。

 正確な年月日は忘れてしまったが、中産階級の、詐欺師でない詐欺に引っ掛かったことがあった。それは名義変更のおいて、騙し取られたのであった。
 こういう類は何処にでもいるが、刀屋の場合、刀屋自身が見事に嵌められてしまうケースがある。



●刀屋に徘徊する“はめ込み師”

 次に詐欺師の話をしよう。
 どの世界にも「ゴロ」は居るものである。こうした類は、全体のある一定の割合で存在するものである。組織や団体の中、あるいは業界の中には必ず一定の割合で、どうしようもないゴロが存在する。詐欺師的存在であり、組織や団体、更にが業界からすれば「クズ」である。
 こうした類
(たぐい)は必ず何処にも存在する。バチルス(Bazillus)と考えていい。

 かつて大蔵省
(2001年より財務省)といわれた、国の財務・通貨・金融・外国為替・証券取引などを所掌した中央行政機関は、日本では最優秀の東大法学部出身のエリートを集結させた組織だった。また、それに続くのが日銀である。
 しかし、大蔵省でも日銀でも、贈収賄などの不祥事を引き起こして指弾されるクズが居る。最優秀エリートを集めた機関であったとしても、こうした犯罪を働くのは、要するに知能とモラルが必ずしも一定していないということを顕しているのである。つまり、クズはある一定比率で存在するということである。これこそが人間世界の実情である。

 この「一定比率」は、何もこうしたエリート集団の中だけではない。何処にでも居るのである。
 刀屋業界というところも、クズとは無縁でなかった。玄人にも、また駆け出しの刀剣蒐集の素人にも、こうしたクズとか、ゴロと言われるどうしようもない者が、ある一定比率で存在するのである。今も昔も変わらないのである。

 刀屋を遣っていて必ず引っ掛かるのが、「詐欺師」である。古物商には詐欺は憑物
(つきもの)である。こうした話はゴマンとある。小さな詐欺から大きな詐欺まで、詐欺師の話は尽きない。そして、一番口惜しいのは、詐欺師が法律すれすれのことを遣って、それで検挙されず、のうのうと次なる詐欺を働くことである。
 こうした類を玄人も素人も含めて、刀剣ゴロとか、刀剣ブローカーと呼んだりする。

 まず素人から論じよう。
 素人は実に怕い。
 「怕い」箇所は、目利きでないことだ。次に思い込みが激しい。思い込みの塊
(かたまり)として世の中を生きている。盲(めくら)であるためだ。
 目利きでないために無茶苦茶なことを言う。
 普通、刀剣商を始めとして、古道具を扱う古物商は、だいたい目の利く人は、決して吹っかけず、商品に適正価格をつけていることである。この適正価格こそ、本物の証
(あかし)であり、目利きの証拠である。
 ところが素人は違う。

 ほら吹きで、不適性な価格で物を言う人は、だいたいが盲である。物の値段の適正というものを知らない。そのため自身の思い込みで凝り固まっている。一言で「恐ろしい」と吐露してもいい。
 そしてこの盲は、熟年者より、若者に多い。
 昨今は若者だけに限らず年寄りの中にも、盲が多くなっているので、眼もさほど利くとは思われない人が大きなことを言って仰天するような論理を展開することがある。こうした人は、生まれが悪いようだ。あるいは、着飾っていても、お里が知れる人である。人間性の上下は、生まれと育ちに由来しているようだ。

 素人は思い込みが激しいから、“自分の物”という自分が所持している物財に、非常に固執している。こういう、固執人種は、決まって物を買う時値切る。安くならないかと根切り、盲の感覚で物を言う。揚げ足を取るのも上手い。
 しかし、刀剣などの古美術の世界にあっては、絶対に値切ってはいけないし、自分の意志で決定して購入したのであるから、返品することも許されない。返品するくらいなら、最初から買わなければいい。
 サラリーマンにはこうした人が多い。しかし、これはサラリーマン一般を言っているのではない。
 サラリーマンの中で、刀剣に趣味があり、素人刀剣愛好家の一部を言っているのである。
 この一部は、あたかも石原慎太郎の『息子をサラリーマンにしない法』の内容に適合するような、そういうサラリーマン根性で物を考え、意識をしている人を指す。

 サラリーマン刀剣愛好家の一部には、平気で返品する人がいる。返品する中の職業では、サラリーマンがダントツである。それもある程度の役付で、主任とか、係長とか、課長代理とか、課長クラスに人に多く、こうした人は身分を確認すると運転免許証とかパスポートとか、健康保険証カードとか写真付きの住民台帳カードなどの、そういうものを提示せず、上場会社に与している人は、先に会社の名刺を出したりする。それらを自分の身分として証す。それで身分を証明しようとする。

 しかし、この手の素人愛好家に見られるのは、会社での権限などに少しばかり自惚れているのか、下請けを泣かすような行為を平気で遣るのである。どうかすると、刀屋を取引相手の下請けのように見下している人がいる。
 この手の人を、刀屋の眼で評すると、まず創意工夫の意識が欠け、全体の雰囲気や、職場の雰囲気を乱すことを恐れ、自身は“中の上の階級”と思い込み、安定を第一としながら、その上で屈折した不平不満を持っている。そうした屈折が、周囲をアッといわせようとする自己顕示の刀剣蒐集に走っているようだ。
 しかし屈折しているだけあって、階級意識からも刀屋を見下す嫌いがある。

 刀屋を含む、古美術の世界では「返品する」ことを『ションベンする』という。俗語の小便のことである。
 買うときに値切る人間も『ションベンする』という。そして、こうした人間に出会うと、この世界では、刀屋を含む古物商は心の中で「小便垂れが……」と悪態を叩く。
 大抵、ションベンするクソは、物の値打ちを理解出来ない、“素人風情”である。職種はサラリーマンがダントツである。

 こうした素人に出遭うと、これまでの苦労が一気に襲って、刀屋は益々排他的になり、素人を敬遠するようになる。特にこうした人に度々出合うと、刀屋にも直感のようなものが生まれ、ションベンをするサラリーマンが匂いで嗅ぎ分けられるようになるのである。長い間の経験からである。そして、嗅ぎ分けたが最後、相手にしなくなる。
 「僕は、○○住○○守○○を持っているんだよ」などの類である。素人程、これをいう。この手の素人は自慢話が先に出て、話がし辛くなる。種属
(スピーシーズ)は自己顕示欲の人であって、美意識を持った人でない。
 つまり、例の「一見さんお断り」ならぬ「美意識不在お断り」となるのである。

 値切る人間も、買ったのち返品する人間も、いずれも「ションベン垂れ」である。
 しかし、残念なことに、これらのションベン垂れどもは、自分がションベンを垂れていることに気付かない。
 また、こうしたションベン垂れが増えると、刀屋を含む古美術の業界人は、ションベン垂れを見込んで、最初からそれなりに値切られる計算を入れて、高く設定している店がある。
 その結果、ションベン垂れは、店も忌み嫌って、いい物を見せようとしなくなる。心の裡
(うち)では「このションベン垂れが……」と侮蔑されているのである。

 この人生観の裏には何が存在するか。
 人の欲が絡んでいるからである。
 人間の欲というものは、なかなか根の深い物である。業
(ごう)と言ってもよい。ここには業の果報が働いている。
 この「業の果報」を目にする度に、私自身を含めて、この業には、我ながらに感心させられる。ションベンするのも、業から起こるものである。

 しかし、この業を検
(み)れば、前世の悪業(あくごう)によって、この世で恥を晒(さら)す側面がある。ショウベンは恥だが、この恥に気付かないのが、「値切る類の素人」であり、かつ「返品する類の素人」である。ここに“素人は怕い”という図式が成り立つ。
 私自身、こういう素人相手に何度怕い思いをしたことか。
 だが、素人でもションベンする素人衆は、まだ可愛い。ションベン垂れ小僧で済まされる。寝小便をする、青二才と許してもらえるのである。だが、世の中にはこれよりもっと怕いものがある。
 ゴロだ。
 自覚症状のない、反社会種属
である。根本的に考え違いし、思い込みが極端であるからだ。

 人の世は欲が渦巻いている。
 長年刀屋をしていると、この欲に、はたと気付かされるものを感じる。
 私は若い頃、素人衆の詐欺人間に一回引っ掛けられたことがあった。
 この素人衆の詐欺人間を、ここでは“M”としておこう。
 Mは、かつて私に店にちょいちょう訪れ、いつも安物ばかりを漁る人間だった。素人といっても、普段はサラリーマンをしていて、趣味というか副業というか、そうした副業で警察の古物許可を取り、自称“セミプロの刀剣商”を遣っていた。

 かつて私の店で、安物の刀剣や小道具類を買い、それを更に会社の仲間内で転売する遣り口でサイド・ビジネスをしているのだった。
 勿論このサイド・ビジネスは、その売り上げを税務署になんかは届けたりはしない。一度も申告をしたことはないし、確定申告をするという意識も微塵もない、ただのサラリーマンであり、またサラリーマン素人の一番怕いところだった。
 端的に言えば「税金の飛ばし」を遣る。お構えなしだ。この素人は恐ろしい。

 この手の人間も、自称古物商である。
 自分では、表向きはサラリーマンをしているが、本職は刀屋などといって、会社の同僚を煙
(けむ)に巻き、講釈師宜しく、「自慢の権化」になっていた。人間が権化化すると怕いものである。その塊に完全に固まってしまうのである。
 会社にあっても、同僚や上司に対して、おれは日本刀を持っている……お前らからはバカにされないぞ!……こうした意識を持つようになる。これは日本刀に限らず、特殊なことをしているということで代用されるだろう。武道などをして段位者であることも、その手の自慢に入ろう。こういう動機で日本刀の蒐集に奔走したり、武道という強さを誇示するものをはじめ、自分の自慢の領域を作るのである。大方は自己顕示欲の保持である場合が少なくないようだ。

 Mも例外に洩れず、その類だった。自慢する物が欲しくなるのである。そのためには、人をアッと言わせる業物
(わざもの)が必要である。
 そしてMの目論んだことは、最初、株式なんかでうんと儲けて、などという誰もが考える一攫千金の幸せコースを考えついたのだが、これがうまくいかなかった。儲けた金で、好きな刀を買い漁
(あさ)る。これらを買い求め、自分の家の床の間を、仲間内に自慢出来る刀で飾りたいと考えたのである。

 一つ自慢して、その周囲をアッと言わせたいと考え付いたのである。
 こうした夢は、刀剣類を始めとする古美術品の蒐集家なら誰もが描いている一つの夢である。こうした夢を描くことは、決して悪いことではない。誰もが持っていることだ。
 自己顕示欲に一つと考えていい。だからこそ、その一方で、古美術の世界では「投機的に美術品を買い漁る」という現象が起こるのである。名器を所持したいと思うのは、誰もが一応に持ち続けている蒐集家の夢である。刀剣に限らず、古美術の世界ならば、美術館に陳列されるような名器と考えるのが人情である。

 蒐集家ならば誰もが抱いている夢である。
 ところがMは、この夢を選
(よ)りに選って、私の店で仕掛けたのである。
 Mは、度々店に訪れては安物ばかりを買い漁っていた。それで顔見知りでもあるし、名前・年齢・住所・電話番号・職業は既に古物台帳にあり、そのことも、一つのMに対する信用になっていた。
 あるとき、いい物を見せてくれとMが来店した。Mの言ういい物とは、今で言う“特別保存刀剣”とか“重要刀剣”の類を指すのである。価格的にも、350万円前後の物を指す。それなりに名の通った業物
(わざもの)を言う。
 当時私の店では、350万円の価格をつけた重要刀剣と記憶しているが、この刀をMは貸してくれというのだった。知り合いに資産家が居るので、その資産家に頼まれて、いい刀を探しているのだという。だから、貸してくれと言うのだった。

 貸し出し期間は「一週間の約束」だった。
 Mは一週間借りて、駄目だといって返却してきた。既に間違いは、このときに始まっていたのである。この「一週間の約束」を、その後度々繰り返したのである。ニ度が三度になり、三度が四度になり……という具合に、これを繰り返し、ついに最後は、一週間の約束で借りた物を、持って来なくなったのである。返却せずにそれが一ヵ月経ち、二ヵ月経ち、そしてかなりの歳月が流れた。それ以来、Mは店に足を運ばなくなったのである。

 客はMだけが客ではなかったので、他の客相手に商売をしていた。
 その当時、Mは借りた刀をどうしたのだろう……くらいの軽い気持ちでしか考えていなかった。半年が過ぎた頃、さすがの私も痺れを切らし、Mの家に行った。そこで居留守を使われて追い返された。電話をしても、家族は不在という。
 そこで、とうとうMに重要刀剣は生け捕られたか?……と思ったのである。

 予告なしにMの家に出向くと、Mが居た。貸した刀を返してくれと言ったら、Mは刀を借りた憶えはないという。そこで、貸したの、借りた憶えのないなどという悶着があり、擦った揉んだを繰り返して、Mが借りた憶えがないという理由には、銃刀法のルールに随
(したが)い、「20日以上、刀剣類を所有する者は……」の箇所を持ち出し、名義変更をして、既に登録証の発行先の県教育委員会文化財保護課には自分の名義で、変更済みになっているというのだった。
 これを聴いた時、私は開いた口が塞がらなかった。

 Mは、その名義変更済みの結果を見せ、私のところから借りていった重要刀剣は、自分の物と言い張るのだった。
 こうしてまんまと、素人から刀を生け捕られたのであった。
 その後、警察の二係
(詐欺を専門に扱う係)に行って相談したが、「銃刀法に従い、名義変更はなされているのだから、今更喚いても仕方ないではないか」と逆に、逆捩(さかねじ)を喰らわされ、結局は信用して貸した私がバカを見た。
 こうして、素人からまんまと重要刀剣を騙し取られるという詐欺に遭
(あ)って、素人ゴロの洗礼を受けたのである。恐らくMは、プロの旗師などから、この手の遣り口を聴いて、実行に移したのだろう。

 このようにして、素人ゴロに騙し取られたのだが、それよりも上手のプロの旗師の罠に掛ったことがある。
 古物商でも、店を持たずに全国に古物市場などに出入りして、全国を股に掛けて売り歩く美術品商を「旗師」という。
 そして、多くは「骨董ブローカー」でもある。これらは、刀剣の他に骨董品も売買するのである。正規の古物商である。古物許可証を携帯し、その許可で全国の古物市場に出入りし、いい物があれば買取り、またそのときに客の顔が浮べば、そこへ出掛けていく。
 しかし、仕入れ先は何も、古物市場とは限らない。骨董品店にも現れるのである。もちろん刀剣店にも現れる。

 刀屋をしていると、さまざまな人が遣って来る。決して客だけではない。商売人も来る。
 店を持たない古美術商というのが居て、彼等は「旗師」という。中には遠く四国や北陸、あるいは関東や北海道あらも遣って来る場合がある。遣って来る場合、電話帳などを閲覧して、予
(あらかじ)め当りをつけているのである。その場合、多くは売買が目的なのだが、中には仕入れと称して「貸してくれ」というのがいる。
 この場合、何か別の珍しい物を持ってきて、その代わりに、何か別も物を持っていこうとする。このときに「貸してくれ」という行為が起こる。

 自己紹介では「自分は全国を回っている。売り抜ける客を知っている」などと話を持ち掛け、担保として別の物を置いていき、その代わりに自分の眼のつけた目ぼしい物を漁って、「これを売ってあげよう」などと、言葉巧みに持ち掛ける。だから、「ちょっと貸せ」ということになる。
 そして、貸したが最後、そのままというケースも多い。
 相手の古物許可証の氏名や住所・本籍地はコピーするのだが、そういうコピーでは当てにならない。それっきりとなる。返しに来ないのである。そのうえ担保として荷割れ品
(三文、四文以下の品物)を置いていっている。
 こうなると、詐欺が立証し難い。また、これらの旗師を邪険に扱うと、全国中に触れ回り、悪評が立つ場合もある。したがって、扱いには注意が居るのである。

 「ちょっと貸して下さい」と話を持ちかける詐欺擬いの旗師を、業界では旗師と言わず、“はめ込み師”という。嵌め込み詐欺を働くからである。
 刀屋をしていれば、生涯のうちに、何度かそうした“はめ込み師”に掛ることがある。私の場合も多分に洩れなかった。はめ込み師から見れば、実に甘くて美味しい最後上の顧客であったかも知れない。こうした、はめ込み師に何度か掛ったことがあった。

 その一つの手口を、ご紹介しよう。
 まず、はめ込み師は、昭和四十年代の当時のことであるが、予め電話帳などで、ターゲットになる獲物を狙い、遠目に下見をして、間抜けな店主に当りを付けているのである。
 例えば、刀剣の陳列にマル特クラスの定寸
(在銘で拵え付きで、二尺三寸五分以上)の刀剣を展示しているとしよう。
 そして、はめ込み師が、それに目を付けたとしよう。
 マル特で長物だから、当時の相場としては百万円前後で動いていた。だいたい店の売値はそれくらいであった。
 狙い定めた物を、はめ込み師は次のように話を持ちかける。

 「私の顧客に、マル特に刀を欲しがっている人が居るので、売らせてもらえませんか。その人はこの近くに住んでいるので、即日に話をつけます。買うこと間違いなしです」と切り出し、その条件として、「売れだ場合は、売値の一割を私が手数料として頂きます」ということであった。
 仮に、百万円で売れた場合、その手数料は一割の十万円ということになる。仕入れ値は、大方、七掛けなので、七十万前後であり、一割の手数料を支払っても、儲けは二十万円ということになる。こうした条件が持ち出されて、直ぐに動いてしまうのは、何かの事情で延べ払いなどの支払いが迫っていたり、不況で刀が売れなくなった場合などに、背に腹は返られないということで、泣く泣く疑いながらも、実は乗ってしまった場合である。

 古物商許可証を信用し、人物を信用して、「貸してくれ」と恃
(たの)まれて、貸すのだが、疑いつつも乗った場合、普通貸した物は何日経っても返って来ることはないのである。人間は、急に金の必要が生じた場合、ついこうしたものに頼り、以来を任せてしまう場合がある。
 私もこうした詐欺には度々遭
(あ)った。梨の礫(つぶ)で、以降音沙汰なしである。
 それどころか、かつて私が貸した刀が、他県のある店の店頭で150万円の値段がついて売りに出されていたというニュースまで入って来るのである。

 このニュースの出所を、仲間の刀屋を通じて探ってみると、貸してくれといって私を嵌め込んだ、はめ込み師は詐取した刀をある質屋に持って行って、これを70万円の担保にして、20万円の金を借りていることが分かったのである。
 こうしたことが直ぐに知れ渡るのは、刀屋の世界では横の繋がりが密なので、旗師の妙な動きは直ぐに発覚して、まことに狭いものなのであるが、こうして騙し取られた物は、取得者の20日以内の名義変更というものがあるので、変更した後、いったい誰の持ち物であるか釈然とせず、これを取り返そうとする場合は裁判を遣って白黒を付けねばならないのである。そして、名義変更後「自分の物」と強引に通されれば、それが変更後のことであるから、ウソが真
(まこと)になってしまう場合もあるのである。民事裁判での実証は非常に難しいのである。

 更に手の込んだ詐欺は、ちょっと検
(み)ただけで、真贋がはっきりしないものがある。複数の鑑定士を遣って、その意見を聞き、検討しなければ明確にならない物がある。このように吟味してみないと分からないものは、真物(ほんもの)でも値段の付けようがなく、また実に売り難い物である。あるいは売れずに在庫として抱えねばならない。
 こうした場合、はめ込み師は、この手の者を持ち込んで、汽車賃とか、飛行機代といって、真贋のはっきりしない物を置き、「これを担保に十万円で預かってもらいたい」と持ち掛け、「直ぐに受け取りに来るから、それまで預かってもらいたい」といい、それと交通費を貸してくれというのである。ここの巧妙なのは「直ぐに」という言葉を吐くことである。直ぐというから、普通半年や一年の単位を言うのではない。どんなに長くても、一ヵ月未満であり、また名義変更の20日以内のそれ以前のことを言う。だから、所謂
(いわゆる)「直ぐ」なのである。
 20日が過ぎれば名義変更が迫られる。

 普通、刀剣商以外の人はこの名義変更が多少遅れても喧
(やかま)しく言われないが、刀屋はそうはいかない。これを怠れば始末書を書かされ厳重注意を受ける。これが度々続くと、営業停止までなる。
 そう言う事情から、こうした場合も一旦担保で預かった物は、20日が過ぎれば名義変更をしなければならない。

 その当時、担保に預かった刀は、悪くは見えない。鑑定の程が不確かなのである。
 見ると、担保物件にした刀は、その辺のボロ刀のようには見えない。しかし、かといって真物とも断言出来ない。そうした中途半端な物である。
 こうした担保に預かった物でも、20日が過ぎれば名義変更の必要に迫られ、また、一時的に買い取ったことになり、これに対して所得税が掛かる。あるいは、こうしたことを計算して、はめ込み師は策動したのかも知れなかった。今とは些か事情が違っていた。
 しかし、この話はこれで終わったのではない。

 こちらが忘れているときに、再び、はめ込み師が遣って来るのである。それは三ヵ月後とか半年後である。
 「差額を受け取りにきた」と切り出すのである。
 そして店に陳列にその刀がないことを知ると、今度は強きに出て、「あの刀は本来、二百万円するものである。私はあんたから十万円の担保金と、交通費の五千円を借りただけだから、これから差し引くと、百八十四万五千円である。この差額分を受け取りにきた」というのである。

 更に駄目押しは、「あの時は、運悪く刀剣鑑定書を持ち忘れていた。しかし今日はそれを持参した。この通り、中茎
(なかご)の映しもあり、さる筋の確かな鑑定書もついている。だから、その差額分の金を受け取りにきたというのである。
 この男の言うことは、端
(はな)から鎌を掛けているのに気付いていたから、「うちの店に来てケツを捲っても駄目だよ。鑑定書があったにしても、仕入れ値は八十万前後」と切り返すと、「では、五十万から十万五千円を差っ引いて、差額は六十九万五千円。これを払ってくれ」と言うのであった。

 つまり、この男は私の店には売り捌いてしまって、無いものと踏んでいたのである。しかし、こうした無期限担保のものは、勝手に売る訳はいかず、店頭には出せないのである。
 そして、「現物を返すから、十万五千円耳を揃えて、いま返済して欲しい」と逆に迫ったのである。もし、売り払っていれば、はめ込み師の言いなりに、まんまと百八十四万五千円を払わされていたのかも知れない。
 この手口の詐欺は、要するに五万円程度のものを持ってきて、十万円貸してくれと言う虫のいいことを言う“はめ込み師”なのである。その特長として、必ず何かの担保を置いていくことである。担保を置いていくという行為自体は、詐欺でもなんでもない。
 問題は、暫く経って遣って来て、「差額を取りにきた」といって慌てさせることである。勿論、策略はここにある訳だ。

 刀に限らず、古美術を扱っている人の中には、少なからず、こうした人は居るものである。美術品を愛し、それを見て鑑賞することを無視して、美とは無縁の人がいるものである。そしてこうした詐欺を働き、それでいて簡単に検挙出来ないのは、また古美術商同士の横の繋がりから来る「付き合い」である。

 この“付き合い”という行為があるから、詐欺を用意に立証出来ず、詐欺を働いた方が“付き合い”の名で居直れば、その場は泣く泣く鉾
(ほこ)を収めるという場面が作られてしまうものなのである。ある意味で、詐欺もオーケーというところがあり、その裏には、世の中は巡り巡っての構造になっているから、またそうした者が“思わぬ儲け物件”を持ち込むこともあるというのである。一時的に損した分は、そうした時に取り返せばいいという暗黙の了解というか不文律もあるのである。
 だから、その甘えによって、警察には訴えず、「泳がせる」という、極めて畸形
(きけい)な凭(もた)れ合い合いもあるのである。最初、こうした凭れ合いを嫌っている人も、いつの間にか自分もその中に取り込まれていて、無自覚のまま凭れ合いに賛同している人もいるようだ。

 また更に、手の込んだことを遣る人は、自分の女房を連れて遣って来る人である。夫婦同伴だと、無下に断る手荒い真似はしないという計算からだろう。夫婦揃って、はめ込み師を遣る人もいる。
 人間、夫婦同伴で来訪されると、「嘘はつかない」という烙印を押したも同然と思い込んでいる人もある。
 それは刀に限らず、車でも家でも高い買い物をするときは、大抵が夫婦同伴である。同伴で買い物をする場合に女房連れの人は多いが、逆に物を売る場合も、夫婦同伴という場合がある。傍にわざわざ女房を伴わしていて、何かの場合に女房が口を出すようになっているのである。一つの魂胆があり、意図があるからだ。

 全部が全部そうだと意は言い切れないが、中には夫婦連れで、立派な人格を持った人もいる。夫婦で同じ趣味を持ち、亭主を立てる妻君はなかなかいいものである。そころが、また逆に全部が全部そうでないだけに、女房を同伴して、はめ込み師を遣る欲の塊の亡者も居るのである。そして言うまでもなく、こうした人は夫婦連れであっても、双方とも美とは無縁である。要するに美術品を金儲けの媒介にしているだけである。


 ─────この話を後になって、大阪の金銭哲学の教祖と謳
(うた)われる金の神様の“鷲野のおっさん(鷲野隆之氏)”に話したら、「それりゃあ、あんさん。計画倒産の基本的な手口ですがいなァ」という答えが返って来るのだった。

 私はあれこれと“鷲野のおっさん”から自身の欠点を論
(あげつら)ってもらった後、はたと感じたことがあった。それは、まったく一つだけはっきりしていたことである。何でも人と逆のことをするということだった。同じことをするから嵌められるのだ。
 人と同じことをしていては、同じ程度のことは超えられない。これを超えることが出来る必要十分条件は、「人のしていることと逆を遣る」ということだった。
 それさえ遣っておれば、あまり損をすることがないのである。何とか、のんびり遣って行けるのである。怕いのは、人と同じことをして禍
(わざわい)に遭遇した時である。

 例えば、何処かのビルとか、地下街で火災などが発生してその難から逃れようとしたら、人が走る反対の方向に走る。この基本さえ守っていたら、あるいは全員焼死という最悪な状態の中で、自分一人だけは助かるかも知れない。
 また、三箇日の神社仏閣などに初詣をして、大勢の人ごみで将棋倒しになって顛倒
(てんとう)し、それに押し潰されて死ぬなどという事故があるが、あれなども、人が殺到する時期に初詣に行くからこうした災難に遭うのであって、これを外して空いている時に行けばいいのである。
 何年か前、ある花火大会に出掛けて、歩道橋付近で将棋倒しになり、何人かの死者が出たが、これなども花火大会に出掛けたからこうした災難に遭遇するのであって、こした過剰に人の集まるところには行かなければいいのである。

 人と逆のことをする。
 つまりこれは、並の人間と同じことをしないということである。人と同じことをして、行動パターンが同じになるから不慮の事故に遭遇するのである。重ならなければいいのである。そこで創意と工夫が必要になるのである。
 それは何も人と同じことをしてはならないということではない。同じことをしてもいいが、同じことをするにも、独特の創意と工夫が居るのである。同じことをしていれば、やがて食い上げになろう。

 この世は善悪綯
(な)い交ぜである。ある一定の割合で、悪も存在し、その中には裏切り者も詐欺師もいる。それを承知した上で、人生は生きていかなければならないということである。
 まさに生き抜いていくためには、知識や理論よりは、実践から学んだ智慧である。智慧の無いものは、この世では啖
(く)われるのである。教訓からなる智慧を積んで、はじめて美の世界も鑑賞出来るのである。
 私は確かに刀屋を通じて、人間のいじましさ、浅ましさ、欲深さを見て来たが、同時にそれは人間理解の要
(かなめ)でもあった。



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