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刀屋物語 8

刀剣の柄と刀身の「刃区」およびに「棟区」の境目に挟み、柄を握る手を敵の刃の攻撃から防護するものを“鍔”という。
 素材の多くは鉄であり、また銅などであった。
 日本刀の場合、これに刀心を通し、鍔の中央に孔をうがち、柄を装着して固定するのである。
 だが、また鍔は絵画で言えば、縦約7〜8センチ×約横6.8〜7.5センチの小さなキャンバスであり、作者である鍔師は、ここに様々な透しや彫り物や、あるいは象嵌をするのである。見事という他ない。
 そして、鍔を見ているだけで、それが工芸品であるということに気付かされるのである。
 鍔という刀の部品は、単に部品としてではなく、美という観点から考えれば、その単体だけで、充分に日本の美術工芸品に相応しい品位を持っているのである。



●珍しき花

 六十歳半ばを過ぎた今、“どうして刀屋なんぞになったのだろう?……”と反芻(はんすう)してみることがある。
 そして、“どうして刀屋に?……”と想うとき、これに関与していたのは、大学の行き帰りに、よくその前を通っていた博多駅付近にあった、ある刀屋が影響していたのではないかと思うのである。

 昭和40年の初頭当時、その店はまだ木造の平屋の店
(あるいは記憶違いで二階屋だったかも知れない)で『金丸刀剣店』といった。博多駅の進行方向へ向かう道にその店はあり、通りに面した側に刀剣を並べた陳列があった。私はその陳列の前を大学の行き帰りに通っていたが、やがてその前で度々立ち止まることがあった。
 そして、いつも立ち止まる度に、陳列内を眺
(なが)めては、唸るのである。
 陳列の前に立ち止まらせ、そして唸る。この一連の行動の中には、何が秘められているのかと思うのであった。

 最初、陳列の中を見ては、ただ唸るだけだった。手を拱いて唸るだけだった。その背景には無力な小市民の実体があり、財力がゼロであったからだ。唸る理由は、欲しくても買えないからだ。日本刀を買えるような財力がなかったからである。貧乏学生の私には、とても手の出るような代物ではなかった。
 当時は十九、二十歳で、刀剣を所持するには一年ばかり早い年齢だった。
 しかし、大学の同学年に“F”という友人が居り、そのFは、また私の遣っている道場の師範代でもあった。その彼が、短刀を学生服の懐に呑んでいて、それが実に見事で、それを観て以来、私の「刀剣反応の無意識層に訴える阿梨耶識
(あらや‐しき)」に眠っていた感性を刺戟(しげき)したのであった。
 勿論、心的な刺戟である。その刺戟が、かくあるべきだ、という心的活動の拠
(よ)り所に変貌して行ったのである。
 この当時、私は多分にFの影響下にあったのである。
 Fは私と同学年だったが、年齢は一歳年上なのである。この男から影響を受けて、それ以降の私の人生は、あたかも天命で引っ張られるような運命の足跡を辿るのである。

 Fは、同年代の若者としては中々の物知りで、博学な面すら窺
(うかが)わせていた。私の専門以外のことは、問えば直ぐに答え、まるで生き字引のような男だった。その生き字引が、学生服の懐にいつも短刀を呑み込んでいたのである。その短刀は、かなりの大業物だった。見事な倶利迦羅(くりから)が彫り込まれていて、見る者を唸らせるに充分な迫力があった。倶利迦羅の流の彫り物といい、地鉄の大板目肌の美しさといい、見れば見るほど溜め息の出るものだった。
 私は彼の短刀を見たことで、眠れる魂が揺さぶられてしまったのである。すっかり当てられたという感じだった。それがまた、刀屋の前を通る度に、発作状態になるのか、刀が欲しくて欲しくてたまらない……、そんな気持ちを起こさせるのであった。Fの短刀が、私の心に刀の残像成分を刺戟し、かつ培養したのであった。

 ちなみに、「刀の見方」というのは大きく分けて二つある。一つは精神的な唯心論的な見方であり、もう一つは物質的な唯物論的見方である。前者は刀を霊的な対象として心の拠り所に置くのであるが、後者は刃物として見る見方で、高価な場合は投機の美術対象となる。
 ただし、この見方は“業物”であることが条件で、二尺三寸以上の定寸を維持していて、市場相場価格としては250万円前後の物で、日本美術刀剣保存協会の認定書の少なくとも“特別保存刀剣”、あるいはやや落ちて“甲種特別貴重刀剣”が付いているか、有名な得能一男氏の鑑定書が付いていることである。そして時代的にな南北朝を挟むその前後の時代である。詳細を記すれば、例えば貞和か観応あたりの時代が特定出来る、“重要刀剣”に届く物でなければならない。

 これを逆から見れば、150万円を切れば、相場値が動き易く、その価値があるかないかは別にして、“買う時は高く売る時は安い”という結末が待っていることを覚悟しなければならない。差し詰め、友人や知人から定寸か、それよりやや寸足らずの“二尺ちょい”を70万円とか80万円で売りつけられたような場合である。
 勿論これには、旧マル特以上の認定書か、藤代氏の鑑定書が付いている。こういう物を換金する場合、それが例えば150万円の価値があるものとしても、実際の刀剣商が買う場合の価格値は高くても“50万円止まり”となる。それ以上の値がつかない。多くは、所得税が懸かることを敬遠して買わないだろう。売れ残ると大変だからである。
 刀剣市で競りに出されるこの手の刀は、刀剣商の間では、売り手に買い手であるが、“一番売り辛く、一番買い手の居ない代物”となるのである。世に出た時代と、出来が平凡だからだ。これを100万円とか、80万円で売るというのは、どだい無理なのである。勿論こうしたものは陳列に並べられれば、売値は90万円前後であろうが、値切られる計算もしているので、落ち着く実質価格は70万円というところであろうか。したがって、仕入れ価格は絶対に50万円以下でなければならないのである。刀屋は、そう値踏みする。
 そもそも刀剣という物は、日本では“買う時は高く売る時は安い”というのは常識であり、その覚悟が出来た者だけが所持する資格があるといえよう。100万円以下では、殆ど投機の対象とはならないのである。試刀術に遣う“使い捨て”と考えねばならないだろう。
 繰り返すが、刀の見方は二つある。唯心的な見方と唯物的な見方である。勿論これを見る場合は、教育委員会発行の銃砲刀剣類登録書は「種別が刀」であり、二尺三寸以上の定寸をキープしている場合の比較である。

刀の見方
見方の目的
実質価格
認定書や鑑定書の種類
価格分岐点
唯心的
心の拠り所
とする。 
買う時は高く売る時は安い。
保存刀剣か、旧マル特程度。
または未鑑定でも保存刀剣が
確実。
150万円以下
唯物的
美術投機の
対象とする。
それ相当の価値を持つ。
旧甲種マル特・特別保存刀剣
以上。出来れば重要刀剣。
250万円以上
重要刀剣では
350万円以上。

 さて、話を再び戻そう。
 私は、それからというものは、どうしたら、最初の一刀
(ひとふり)を手に入れることが出来るか、それを思案し始めたのである。
 寝ても覚めても、刀・刀・刀……だった。女よりも刀だった。私の頭の中は、刀の残像が駆け巡っていた。しかし、願ったといってそれが手に入る訳ではなかった。手に入れるためには、それ相応のアクションを起こさねばならなかった。

 現世は、ご利益宗教のように、願えば簡単に何でも手に入る構造で出来ていない。願っても、それだけでは成就しないのである。拝めば適
(かな)うほど甘くはないのである。
 昨今の新興宗教をはじめとする、現世ご利益を願うこの手の信仰は、願えば何事も適えられるという謳
(うた)い文句で、信者を集め、教団の賽銭箱(さいせんばこ)を一杯にしているが、願っただけでは適えられず、また努力しただけでも適えられないのである。
 私が六十余年の人生を通じて痛感したことは、“努力は必ずしも実らない”ということだった。運命論者ではないが、物事の成就は天にありという気がしないでもない。
 世の多くの人々は、努力さえすれば最後はそれが成就して実る、という淡い夢を抱いている。だが、それは幻想に過ぎない。淡い幻想だ。
 幻想は何処まで行っても幻想なので、その領域を出るものではない。この範疇
(はんちゅう)を凌駕(りょうが)するには、アクションが必要である。願うのではなく、アクションなのである。具体的な行動を起こすことだ。間接行動でも最終的には、目的を達成出来る行動である。

 その行動も、常人が行うような在
(あ)り来たりなものでは、結局は徒労に終わってしまうのである。
 金丸刀剣店の陳列の前に一瞬佇んでは、ある一振りを見て唸る。それだけの行動パターンである。だが、この行動パタンからは何も生まれない。
 さて、どうするか……。
 この当時に、何気なくFが私に、世阿弥
(ぜあみ)の著に『風姿花伝(ふうしかでん)』というのがあるのを知っているか?と訊いたことがあった。
 私は世阿弥の名は知っているが、『風姿花伝
』という著書は知らないと答えた。
 Fの説明によると、この著書は能楽書で、単に能を解説しただけの書でないという。能の修業や演出等に関する広範囲の内容を含み、年来稽古条々あるいは物学
(ものまね)条々・問答条々・神儀・奥義・花修・別紙などを口伝の七編して、世の中や人間心理までを著した書というのであった。彼はそのように説明したのであった。

 博学なFは、この著書の中に「珍しき花」という言葉が出て来て、常に、上位の坐を維持するには“珍しきことをせよ”という教えがあると説明するのだった。彼の説明によると、世阿弥はわが子・観阿弥
(かんあみ)に「能役者の世界で、常にトップの坐を維持するには、常に珍しきことをするのだ」と教えたという。
 世阿弥の言葉の裏には、多分に人間心理の側面が横たわっていて、“変化旺盛なる大衆というのは、常に変化を求めているのだよ”という教えがある。人間とは……、大衆とは……、マンネリに退屈する。何か面白いことはないか、と探し歩いている。それが大衆だ。
 常に新しきことがないか、珍しきことがないかと、それを追い掛ける生き物なのである。流行というものもその中に組み込まれ、昨年流行ったことは、もう今年は時代遅れになっている。そして現代はこの変化が激しく、またテンポが速い。実に目紛しい。瞬時に物事が変化する。
 その変化する人間の心理を、世阿弥は五百年以上も前に掴み取っていたのである。世阿弥は室町初期の能役者であり、また能作者でもあった。足利義満の庇護を受け、更に鑑賞眼の高い足利義持の意に沿うような工夫を加え、能を優雅なものに洗練した。芸術性の高い独特の世界を形成した。

 故に『風姿花伝
』には、「珍しき花」の一節があり、「花と、面白きと、珍らしきと、これ三つは同じ心なり。何れの花か散らで残るべき。散る故によりて、咲く頃あれば、珍らしきなり。能も住(じゆう)する所なきを、先(まず)花と知るべし。住せずして、余の風体(ふうてい)に移れば、珍らしきなり」と言わしめている。名言だ。
 世阿弥こそ、人間研究の第一人者であった。
 人間という生き物を、凡夫
(ぼんぷ)の眼で見ていなかったのである。見る眼は、賢人のそれだった。賢人の眼が、愚者という大衆を見ていた。
 この辺が、その他大勢の子を持つ、父親とは違っていたのである。
 一般的な「普通」と自称する、そのレベルの親父に、世渡りの質問をぶつけたら、どういう返事が返って来るだろうか。
 まさか、世阿弥のように「常に珍しきことを遣れ」などとは言わないだろう。冒険せずに堅実な道を……というだろう。
 おそらく「ウソをつかす正直で、正しいことをしておれば、いつかそのうちいいことがある」など曖昧
(あいまい)な言い方をして、希望的観測に縋(すが)る抽象的な言葉で濁すのではあるまいか。
 ところが、世阿弥はそうした、“うそ”とか、“正直”とか、“正しいこと”などの単語は、一言も喋ってない。ただ「珍しきこと」を遣れ、と一喝しているのである。それは冒険をせよ……とも聴こえる。

 この世の既成概念は、“うそ”とか、“正直”とか、“正しいこと”などの、こうしたものに囚われる善の側面の社会があるが、その一方で、それを覆す悪の側面があるのである。善悪綯い交ぜの世界が、この世ということだ。
 世阿弥は、人の世が何もかも綯い交ぜになっていることを知っていたのであろう。つまり、先人の妙を超えるためには、通常通りの同じことをしていても、何もならないということに気付いていたのだろう。それを超越するには珍しいことをして、革命的な、人をあッといわせるような、そうした突発性と独創性がないと、生き残れないということを強調したかったのだろう。
 つまり、新しきことへの挑戦である。ユニークさへの挑戦である。
 このような要約したことを、Fは私に懇々と説いて聴かせたことがあった。

 新しきことか……。
 私は溜息を漏らした。
 珍しきこと?……。
 その代替を求めようとした。
 しかし、何も思い浮かばない。そんなものは脳裡に浮んで来なかった。
 思い浮かばないが、刀屋の陳列の前に来て佇
(たたず)むと、何か私を惹(ひ)き付けて離さないものがあった。
 陳列の中に一刀だけ、私を惹
き付けて止まない、そういう意思表示をする何かが居た。生き物のような、あるいは、そうでないような、そういうものが一つだけ横たわっていた。それは、ただの物でない気がした。物体でない気がした。奴は徒者(ただもの)のではないのだ。私も見るが、逆に見詰め替えしてくるような、そういう錯覚に囚われる何かが居た。これは何だろう?……とおもう。

 あるいは、“奴が居た”と言う方が正しいだろう。歌謡曲風に言えば、当時流行った「奴
(君たち)が居て、僕が居た」なのだ。
 その奴が、小癪
(こしゃく)にも、私を手招きしするのである。そのように感じるのである。
 おや?と思うと、
 “お前、俺が欲しいか?”と訊かんばかりに手招きするのである。
 そして、ついに“苦しゅうない、近う寄れ”となったのである。ふざけた野郎だった。
 何て野郎だ……と思うのだが、魅せられた以上仕方がなかった。刀が人間を魅了したのであった。誘惑されたのだった。

 その刀は、2尺3寸7分9厘
(約72.1cm)の“平安城石道住正俊”という刀だった。
 この“平安城
(へいあんじょう)”との出会いが、その後の私の運命を大きく変えたのであった。
 平安城をもって、私は武術家として若年ながら売り出し、デビューを飾ったのである。平安城がその刀屋の陳列に並んでいなければ、私は今頃、無芸の“ただの人”だっただろう。
 また、金勘定の一つも知らない、うだつの上がらないサラリーマン教師か、学習塾の時間級講師などをして貧困生活に甘んじ、“田舎の塾のオヤジ”として細々とした生涯を閉じていたかも知れない。あるいは、京都の祇園のお茶屋や、銀座の高級クラブも、無縁のままの一生を送ったかも知れない。その後の著名な、各方面の先生達との出会いもなかったかも知れない。孤立無援で死んで行く運命だっただろう。

 おそらく、ただ虚しく北九州の片田舎で、空を仰ぎながら、仕事の余暇で“道場遣いのおっさん”をやり、小・中学生などに拙
(つたな)い技を教え、それで終わる人生だったであろう。私が小さい頃、町道場の先生は“道場遣い”と呼ばれていた。五市合併前(福岡県北九州市の前身は1963年、門司・小倉・戸畑・八幡・若松の5市が合併して発足)の北九州・八幡市では、確かにそう呼ばれていた。そして、八幡市は八幡製鉄に勤務する職工の街で、私の父も製鉄の職工だった。

 この当時、八幡製鉄は“三鉄”の一つに数えられ、上から順に製鉄・国鉄・西鉄といわれた。少なからず、親が製鉄に勤めていると、この三鉄のうちで一番上だったから、少なからず優越感が子供心にあった。昭和20年代後半の八幡製鉄のアパートや社宅は、まだ当時、井戸水で生活するところがありながら水道が完備し、またガス設備が完備し、部屋の中には食堂があって今で言うリビングがあり、便所は水洗便所であり、私は幼児期から、このレベルの生活をしていた。風呂だけは近くの銭湯に通っていたが、当時の生活水準としては、三鉄の中で、一番文化的な生活をしていたのである。便所が、“肥だめ式”になっているのは、小学校一年のとき平戸に転校して初めて知ったのであった。小学五年から中三まで、一応文化的という生活をしていた。
 ところが、私が中学三年の夏休みの終わり、父が死んだ。まだ五十そこそこの、あまりにも早い死だった。
 その後、どうするか……。十五歳のガキは、その後の身の振り方をどうするか……。
 少しばかりの退職金と生命保険の給付はあったが、それは微々たるものだった。何年も、残された遺族が食いつなげるような金額ではなかった。

 辛うじて、家だけは持ち家だったので、家賃が懸からずに済んだが、それでも生活には多少なりとも金が居る。子供だからといって、僅かな親の残した金を食い潰すことは出来なかった。それに母は躰が弱かった。私が働くしかなかった。中学で卒業した後、働くか……。
 この時代、中学の1クラスの中の半分は中学を卒業して働くのが大半だった。その中の約半分が、公立や私学を含めて高校へ進学した。高校のとき、また、その後、大学に進学するのはクラスの中の約三分の一だった。団塊の世代といいながら、当時の大学生は国公立私学を含めて、今とは比べ物にならないほど少数だった。
 しかし母は家が貧しいから、進学を止めて中学を出て働け、とは言わなかった。高校を出て働けとは言わなかった。好きにしろと言った。

 高校へ行きたければ、自分で行け。大学も同じ。好きな大学に行け。ただ、そう言うだけだった。そう言われると、自力で、全てを遣らねばならなかった。子供の頃からそう言う、自立型の生き方を仕込まれていたのである。だから、中学一年の時には新聞配達をして、金銭の何たるかの学習をさせられていたのである。後にこれが功を奏した。中学三年の時には、親の金を宛てにするとういう、金銭的乳離れが早々と終了していたのである。親から金をせびることはなかった。無心することはなかった。金が欲しければ、頭を遣えば良かった。

 進学するにしても、私立よりは県立がいい。県立よりは、私立の学力特待生か、運動特待生の方がタダで学校に行ける。学校の知名度を高めるのに寄与すれば、学費は無料になる。こうした基礎的な比較も、子供でありながら判別が出来たのである。残る課題は、学力的に優遇を受けるためには、知力を向上させれば済むことだった。焦点はそこだけに絞られる。
 子供心に、こうした計算を始め、“人生の計”をこの時期立てておかねばならなかったのである。
 しかし、学費がタダとしても、それで喰える訳ではない。特待生でも、学校から給料をもらう訳ではない。そういう生徒も居たようだが、自衛隊少年工科学校のように15歳から入隊し、年少・自衛官生徒
(三等陸士・三等海士・三等空士)として身分が保障され、自衛官並みに給料をもらえる訳はなかった。待遇が良くて授業料が無料……その程度のことである。しかし、これでは喰えない。身も飾れない。欲しい物も買えない。

 それに比べ、タダの学校に進学しても、結局、どこかでアルバイトをしながら生活費を稼ぎ、母を養わねばならなかった。母に渡す月々の小遣いも必要とした。もう、高校の頃、母に相当額の小遣いを渡していたように思う。母は金遣いの粗い人でなかったから、私が渡す月々の金をコツコツと定期に積み立てていたようだ。あるいは息子が大学を出るまでは……、という気持ちがあったのかも知れない。
 要するに、私は高校にも大学にも、自力で進学をし、それに併せて、生活に困らない金銭を自分で賄
(まかな)おうとしていたのである。喰って飲んで、学んで、遊んで、着飾って、少なからず余裕があって、という生活を目論んだのである。この目論見の下に、かつてFが言った「珍しき花」の応用編があったのである。

 当時、少年が遣れるアルバイトは限られていた。新聞配達や牛乳配達もしたが、それでは成人が稼ぐ給料には満たない。これ以外のことを遣らねばならない。余裕を得るには、高額の収入を得る仕事を探すのが先決だった。新聞配達や牛乳配達で、ちまちまとした収入を稼いでも、それで充分とは言えなかった。
 高校時代には、ある料理屋で板前の見習いのようなことを遣っていた。そこで料理を仕込まれ、それなりに手に職を持っていたのである。マニアル通りの料理を作るだけでなく、包丁仕事も出来たのである。その後、条件の良いところを探して、料理店を転々とした。転々とすることで腕も磨けた。金の高い方、率の高い方に鞍替えするのである。生活人ならば当然の智慧と言えよう。
 大学の時も同じだった。何でも遣った。看板屋の仕事もしたし、魚介類や野菜の流通の市場仕事もしたし、重労働の沖仲仕もした。そして、最も異彩を放ったのは、学生刀屋であったが、更にもそれが異彩中の異彩に畸形
(きけい)であったのは選挙ブローカーだった。学生刀屋が政治家の縄張りまで踏み込み始めていたのである。善悪、総てを綯(な)い交ぜにするこの世の縮図を観たのだが、総てはその後の良き経験となった。
 しかし、時間級効率は悪かった。一番よかったのは中・高生を対象にした家庭教師だった。そして、最終的には家庭教師に「珍しき花」の応用編を試みたのだった。

 私は、他の学生が時給500円で家庭教師をするのに対し、時給3,000円から5,000円貰っていた。通り相場を遥かに超えていた。しかし、別に特別な教え方をしたのではない。
 ただ成績が上がることを100%保証し、志望校に合格することを100%保証しただけであった。世の中は結果だけが評価されるのである。後に、個別指導の元祖で、東大医学部麻酔科医出身の佐々木慶一氏と受験産業の世界で知り合いになるが、私と彼の言は「物事は結果だけが評価される」という世の中の見方と一致していた。
 つまりである。
 教える教師側は声を張り上げ、黒板相手に自己陶酔するような立派な感動授業をしても、生徒の理解度が低く、成績も上がらず、志望校入試にも失敗すれば、結果的に言ってこの教師は無能である。問題なのは結果であり、成績が上がり志望校に合格すれば、その途中の遣り方はどういうことをしても許されるのである。つまり、結果だけが問われるのである。志望校合格という部分に目標を置き、それに邁進すればいいことであって、教え方の上手下手や、いい授業を遣る必要はないのである。

 それだけで、時給が6倍から10倍に跳ね上がる。ここにこそ「珍しき花」の応用編があった。そして、時給を上げれば成績も上がるという、私流の“中・高生の学習方程式”が出来たのである。
 ただし、教える側も条件があった。生徒を選ぶ権利である。
 成績の悪い、つまり頭の悪い生徒に教えないことを条件に、家庭教師を遣ったのである。教師が生徒を選ぶのである。生徒が教師を選ぶのでない。
 基礎から指導しなければならない生徒は、同じ時間給をもらいながらも、指導に骨が折れる。それだけ大変な動力も必要だ。

 同じ時給3,000円を貰いながら、熱弁を揮って基礎から徹底的に教える指導法と、ほったらかしても自分でスイスイ遣ってくれて手間の掛からない生徒とでは、どちらが動力が少ないだろうか。
 もし、この生徒から時給3,000円を貰うのなら、手間の掛かる方は時給一万円を貰っても割が合わないだろう。誰が考えても、手間の掛からない、静かに勉強してくれる方の生徒を選ぶだろう。
 それに、学問で世に出ている人間ならば、親がそれなりの地位にあり、高額所得者であるということは、その子弟も案外いい出来をしていて、親に比例しているということである。「珍しき花」の応用編は、珍しきところに目を付けることで独創性が生まれたのだった。
 「学問で世に出ている人」は、その子弟にしても同じ目的を持つ場合が多い。その関係は“親子鷹”だろう。二世三世が幅を利かす時代、経営者の子は経営者、医者の子は医者、官僚の子は官僚。こうした親の利権を子に継ぐ世襲がある。「珍しき花」の応用編は、ここに目を付けたのである。

 それに反して、親自身が出来が悪く三流四流の大学しか出てなく、職場でも地位が低く、うだつの上がらない親自身の所得は低く、それだけに子供の出来も遺伝的に言って、また確率的に言って、悪い。それにこうした子弟の母親は、よりによって、子供を何とかしようとする激しい焦りがある。亭主とは逆の意識と焦りがあるだけに、凄いコンプレックスで固まっているのである。
 亭主の歩いた、うだつの上がらない、同じ轍
(てつ)を二度と踏ませないという、執念のようなものを感じるのである。こうした執念がいつ怨念に変わるかも知れない。君子は、君子は危うきに近寄らず、である。確率的に言って、鳶(とんび)は鷹を生まないからである。私は、ドライにこう割り切ったのである。
 それに金にも煩
(うるさ)く、成績の席次が少しでも下がろうものなら、家庭教師の責任にしてしまうのである。激しい口調で、嫌みを交えつつ、教え方が悪い!……と厳しく指弾するのは眼に見えている。元の土台が悪いのに無理な話だったといっても通用しない。まさしくトラブルメーカーだった。触らぬ神に祟(たた)りなしなのである。私が敬遠したのも当然だろう。

 私は、後になってのことだが“トラブルメーカーの法則”が、このレベルの、いわゆる中産階級の子弟の家庭教師を請け負うことと、刀屋で刀を買い、それを破損させておいて不良品といちゃもんを付け、元の売値の20%引きで買い戻せという、この言い掛かりと、双方が、とも共通していることに気付いたのである。
 だが、“元の売値の20%引きで買い戻せという”というのは、まだいい方で、酷いのになると半年も一年も経ってから来店し、手入れも悪く錆び状態にして、“買った時の値段で買い戻せ”というのが居た。空いた口が塞がらないというか、こうした手合いは、まさに頭の悪い、わが子を教師の所為
(せい)にする母親のようなものだった。

 刀屋を遣りながら気付いたのは、売り易い客と売り辛い客が居て、売り辛い、また定価から強引に値切るようなこの種属
(スピーシーズ)は、後で問題を持ち込むトラブルメーカだったのである。
 トラブルメーカーは、こうした階層の中に確率的に言って、あるい一定比率の割合で紛れ込み、説明や刀剣所持の心構えを話しても“馬の耳に念仏”を唱えているようで、いつまでたっても埒
(らち)があかず、遂に堂々巡りして振り出しに戻るのだった。まさに、悪夢の輪廻だった。謂(いわ)れなき輪廻は避けねばならなかった。教師が生徒を選ぶ根拠は、此処にあった。

 したがって、両親を交えた親子面接の時点で、こういう家庭の家庭教師は断ったのである。これはまさに正解だった。
 普通、子供をダメにしているのは、こうした家庭の母親であり、母親の差し出がましい口が子供をダメにしている場合が多い。過保護な母親が子供を無能にしているのである。こうした母親が育児した子供の多くは、「前頭葉未発達」だった。頑張りが利かない子供であり、我慢が出来ない子供であった。こうした子供は、前頭葉未発達のまま大人になる。
 長年家庭教師もし、また学習塾、進学塾、大学予備校と、こうした仕事を遣って来た私としては、無能な劣等感に凝り固まった母親が、自分の子供をいかにして潰しているか、また、わが子を早々と生きながらにして七十代、八十代のような老人追い込んでいるが、それを目の当たりに見たのである。過保護な母親がわが子を早老にしているか、手に取るように分かるのだった。
 子供の扱いと刀の扱いは、非常によく似ているのである。
 そして、「前頭葉未発達」のまま大人になった者が、日本刀を所持したりすると、それは最悪だ。我慢が出来ぬキレ易い子供に“人斬り包丁”を与えるようなものである。一歩間違えば恐ろしい。

 だから、母子面接の時点で、こう言う家庭は敬遠したのである。私の発見した人間法則によって、である。
 学問という見地から、これを言うと、出来の悪い生徒は学問に向いていないのである。他の才能で、世に出ればいいのである。出来が悪いくせに学問で世に出ようとするから、無理が生じるのである。
 そして、そうした家庭では、そもそも学問で世に出る血脈的な遺伝要素がなく、よって、その血族から学問で世に出る子孫が派生すると考えない方がいいのである。学問以外で、世の中に出て行けばいいのである。学問ではなく、手に職を付けて、職人か芸能か、あるいはスポーツか、そうした世界での才能を伸ばす方が賢明なのである。

 しかし、ここで断っておくが、前頭葉未発達のままで大人になった者は、学問以外に自分の生きる道がある訳でもなく、また、自分の身の置き場は何処にも存在しないという現実があるようだ。それに等身大の自分の大きさも知らない。今日のフリーターという定職を持たない若者が世に溢れ、何を遣っても長続きせず、失業率を高めているのは、何も政治や社会が悪いだけではないような気がするのである。原因は、わが子を前頭葉未発達のまま大人の体形にしてしまった、過保護な母親にあるのではないかと思うのである。前頭葉未発達のまま大人になった、体形は大人でも、思考能力は幼児的である。これこそ、最も刀屋が敬遠するところである。

 一方成績のいい、県内でもトップの進学校に行っている、出来のいい中・高生は監督者が傍
(そば)に坐って居るだけで、自分一人で勉強をしてくれる。これだけでも、非常に楽である。学力もあり、基礎力もある。それに体力もある。体力があり背筋力があるから、勉強のできない子供のように脊柱がぐらぐら動かず、落ち着きがあり、それによって集中力がある。質問もせず、黙々と一人で勉強をしてくれる。
 私の役目と言えば、傍に坐っているだけの“置物のタヌキ”だった。

 これは、つまり「図書館学習の発想」だった。静寂な中で、自分で勝手の勉強するという発想だった。このヒントになったのは「珍しき花」であったことは言うまでもない。
 一斉授業の、講師の熱弁授業は、却
(かえ)って学習能力を低下させ、歩調は底辺か中間層に設定されているから、成績の上位者は退屈して、時間の無駄遣いになる。むしろ隔離した方がいい。一人で遣らせた方がいい。研究者の作業と共通する。
 学習の基本は、一人で、自分で遣った方が伸びるのである。至れり尽くせりの指導は、生徒の依頼心ばかりを強くして、自己完結性を失ってしまうのである。

 これは刀剣を選ぶ場合の顧客にも共通点がある。
 依頼型の、他人の言葉に左右される優柔不断な思考で、刀剣を所持する人は信念が欠如しているため、購入した刀剣が、他人の意見で評論されて、褒めちぎるような評価がされなかった場合、もうこれだけで糞を掴んだような感覚に陥ってしまう。悔悟の念を露
(あらわ)にする。そして、ついに一旦は自分で選んでおきながら、他人の評論に左右されて、買った刀に飽きてしまうのである。こうした手合いが、半年も一年も経過した後に、買値で引き取れと難癖をつけるのである。その難癖は、ヤクザ以上だった。第一、ヤクザにこうした手合いは居ないだろう。
 これは持続力と継続力がない人間の特徴である。
 また、刀剣蒐集家にも、勉学に励む中・高生と同じ共通点を持ち、そのことが言えるのである。こうした共通点は、学問で世に出ようとする集団の中にも、刀剣を蒐集する集団の中にも、同じ共通項が横たわっていたのである。

 しかし、成績のいい、出来のいい、こうした生徒も、では、自分一人で黙々と集中して勉強を遣
(や)るかと言えば、それが出来ないのである。誰か監視する監督役が居る。監督の、その眼を気にしつつ猛烈に勉強するのである。私は、この法則を家庭教師に行って見つけたのであった。
 勿論、質問されれば、答えるが、安易に答えを教えるのでなく、参考書を示して「此処を読め」と解法を教えるのである。そして解法だけで十分なのである。
 一方、成績の悪い生徒は、答えまでを訊こうとする依頼型人間である。
 依頼型人間は自分の行動律も安易ばかリが目立つため、物事の捉え方が表面的である。何故か?という疑問も持たないし、世の中に自分と同じことをしている人間を見ると安心するのである。独創的なことが出来ないのである。創意工夫がないのである。「珍しき花」の実践など、とてもとても……なのである。

 ところが成績のいい、出来のいい生徒は、解法のヒントを示せば、後は自分で答えまで辿り着くのである。つまり、自立型人間である。この双方の違いも、家庭教師で発見した、私の人間法則だった。彼等は「珍しき花」の実践可能な種属だった。商いとは、単に金儲けだけではなく、こうした人間との巡り会いと思うのである。
 昨今は薄利多売の商戦が展開され、大衆相手に大型ストアー合戦が繰り広げられているが、少なくともこれは大量消費の使い捨て思考で、一握りの頂点を対象とした「珍しき花」の実践ではないのである。
 私だったら、大衆相手に薄利多売をするのでなく、薄利多売をしている経営者を捕まえて、経営者層を相手に「珍しき花」の実践をしたいと考えるのである。そうしたことを、私は無意識のまま学生時代から遣っていたように思う。薄利多売は大仕掛けであるからだ。家庭教師をしたのも、中産階級の子弟を相手にするのでなく、経営の総指揮者層の子弟をターゲットにしていたのである。

 虎穴に入らずんば虎子を得ずという譬
(たと)えから、薄利多売の商戦を展開しても、採れるのは雑魚である。雑魚は大量に捕らえてこそ、意味があるが、それには大掛かりなし掛けが居る。巨大なし掛けがなければ薄利多売は出来ない。将兵相手の大将ではなく、大将相手の大将にならなければならない。兵の将ではない。将の将である。
 だから、私は虎穴に入って、まず虎児を生け捕ろうとしたのである。ただ、この場合、度胸が居る。ビビっては足許を見透かされる。相手は将の将だ。下手をすれば返り討ちに遭う。「珍しき花」は奇想天外な、あッと言わせるような意表を衝いていなければならない。私の場合その意表が、世間相場とは掛け離れた時給の高額料金だった。高いというのは差別化であり、“並み”とは違うということである。
 一時間3,000円以上の時給を払ってくれる「将の将」である。「兵の将」でもなく、また「兵の兵」でもない。「兵」は第一疲れる。重労働になる。労多く利少なしである。それでは躰が持たない。大金を集金するのに時間も掛かる。あるいは永久に集金出来ないかも知れない。

 では、「将の将」をどうして探すのか。
 私の採った方法は、まず、種金を作って、その金で新聞広告を打つことだった。次に、高額所得者の『紳士録』を入手し、住所・氏名からその家族構成を割り出すことだった。これを遣るには市役所に行って住民票の閲覧をすることだった。これにより、中高校生の受験年齢を割り出し、そうした子弟の父兄名でDMを打つことであった。今では住民票の閲覧は出来なくなってしまったが、昭和40年代はコピー以外は何でも出来た。この遣り方は、後に進研ゼミやZ会などの大手から真似されたが、そのハシリは私が一番最初ではないかと思うのである。
 それにより、まず親との人脈が出来るのである。親は雑魚でない。立派な虎穴の虎である。
 そして、これは単なる家庭教師で終わるのではない。
 おまけが付いているのである。おまけは虎児の親である。この親の存在は虎児以上に大きい。経済人でもあり、また地元の有志でもある。

 私は虎穴の中に居る虎児を利用して、親を得るという方法を、かつて書物の中で呼んだ覚えがある。随分と古い本で、それにはユダヤ人のことが紹介されていて、記載内容にロスチャイルド家という項目があった。
 そして興味を引いたのが、ロスチャイルド家の始祖マイヤー・アムシェルだった。1760年当時のマイヤー・アムシェルは、ドイツ西部地方のライン川の支流マイン川下流にある都市・フランクフルトに、小さな店を構えた、ただの一古物商に過ぎなかった。
 この時マイヤーは、古銭を商う『古物商』に過ぎなかった。
 だが、マイヤーは常人ではなかった。常人の考えで物事を考えはしなかった。アイディアがあったのである。このアイディアこそ、西洋版の「珍しき花」だった。

 彼は普通の人なら安易に見逃してしまう、“がらくた”同様の、どうしようもない古銭に目をつけた。その古銭に、付加価値をつける為、安い古銭を買い取ると、持ち前の知恵を駆使して、手書きのパンフレットを作り、その上に、独自の創意工夫を懲らして、顧客になりそうな人達に、このパンフレットを郵送したのである。
 当時の時代背景としては、封建時代の真っ只中にあり、封建君主が君臨して「絶対王制の時代」であった。当時古銭などに興味を抱く階級としては、王侯貴族や富裕の商人層などの上流階級であり、そこでマイヤーは知恵を絞り、自分の持てる知識を駆使して、この階級の人達に、興味を抱く、心憎いばかりの趣向を凝らしたのであった。顧客開拓の為に、あの手この手を使って、彼等に接近を図り、遂に、支配層に食い込むことに成功したのである。そしてフランクフルト地方の領主、ヘッセン・ハナウ家のウィルヘルム公に、古銭を売り込むチャンスを掴んだと聞く。
 私は当時、それを日本の福岡市博多を中心軸に展開したのである。

 亭主が私大の大学教授をしている叔母の家に転がり込んでいたが、電話の取り次ぎまで居候宅にしていたのである。電話が掛かる度に睨まれたことは言うまでもない。当時から私は親戚中の鼻つまみ者だった。しかし、その電話を叔母は私が学校に行って居ない時は、丁寧にメモしてくれていたのである。こうして私は、虎穴の中の虎児のみでなく、親虎とも親しくなるために、一人でご用聞きをし、家庭教師を遣るという自分一人で一人で二役をこなしたのである。
 そして、時給が高いというのが、私の「珍しき花」から得たヒントだった。
 通常価格では興味を引かない。世間相場では眼を留めてくれない。将の将を得るためには、奇抜なアイディアがいるのだった。それは、私としてみれば、篦棒
(べらぼう)に高い時給だったのである。

 それは、時給3、000円以上を払い、一回2時間指導として、週に2回依頼されると、6千円×2回×4週であり、その生徒の家が私に払う月謝は48,000円である。昭和40年初頭、この月謝の額は、当時の大卒者の初任給を超えていた。それを二件掛け持ちすれば、一ヵ月10万円に迫るのである。時給も一律でなかったから、三千円の家もあれば五千円の家もあった。合計でおおかた十万円だった。
 二十歳になるかならないかの学生が、アルバイトをするにはいい金だった。こうした家を、新聞広告に『プロの家庭教師派遣』と福岡市内版の広告に出し、そういう家だけを対象に捜し歩いたのである。

 当然、毎月五万円前後の月謝を払うのであるから、中小以上の会社の経営者か、開業医の子弟に限られる。そして、こうした場合、相手にするのは生徒だけではなく、その生徒の父親も対象だったのである。虎児から親虎を得るのである。
 つまり、こうした高額所得者の中には少なからず刀剣愛好家が居るのである。また、豪邸に棲んでいるのだから、床飾りにも日本刀の一振りや二振りは置きたいところだろう。そこにも目を付けたのだった。
 家庭教師と、その父兄を対象にした刀剣販売。それが虎穴に入って、“虎児から親虎を得るの策”だった。
 これがやがて功を奏するのである。その結果、金丸刀剣店の陳列の前で指を銜えてみるだけの通りすがりの“ただの人”から、美術刀剣を蒐集する名実共に顧客のなったのである。

 私はある目的をもって大学に行った。
 将来は数学者になって……
(目にもの言わせて……くれん……)、そういう目標があった。一流とは言わないまでも、せめて“一流半”くらいはなどと……という夢を抱いていた。そのために大学に行ったのだが、当時は学園闘争華々しき頃で、いつ大学に行っても、休講、休講、休講で、やがて大学から足が遠のいて行くのである。
 というより、数学者としての才能は皆無かも知れない……という、挫折とともに味わう、こうした敗北への末路だった。自問して、俺は数学者より、金勘定をする、そっちの方が向いているのではないかと思うようになっのである。
 事実、その通りになった。

 それから四年後、数学者ならぬ、三流四流あるいはそれ以下の高校で、加減乗除も正確ではない痴呆の顔をした高校生に、式の展開や因数分解を教える、そのレベルの数学教師になったのだった。当時の私の職業としては、学生時代に古物商許可を取得していたから本業が刀屋で、副業か高校教師だった。そうした道を歩むようになる。
 紐解けば、確かにそうだった。負け戦の、“勝負有り”の領域に足を突っ込んでいた。だが当時、十九か二十歳の青二才に四年後の未来は占える分けがなかった。大学が厭になったのは確かだろう。

 大学構内では、何処も此処も拡声器のがなり声で喧
(さわが)しく、デモを呼びかける“蹶起集会”と、“本日休講”と書かれた立て看板を見る度に、“大学に行く”というこの行為が、急に馬鹿げているように思えてきたのである。毎日毎日、この手の立て看板を見せられてはうんざりするのである。行っても無駄だ……という、諦めとともに、分けの分からない疲労感を感じるのであった。
 そして、無駄な努力と言うか……、徒労というか……、そうしたものに反吐
(へど)が出るようになり、「珍しき花」を実践する私としては体制挽回という意味で、“ここで一つ”という山師のようなことを思いついたのだった。
 こうなると大学通いよりも、刀屋通いの方が多くなるのである。ますます刀にのめり込んで行くのである。刀に魅せられた結果だった。刀の勉強を大学の勉学以上に遣り出すのである。

 その最初が、金丸刀剣店で手に入れた平安城だったのである。奴が私に、自らの人生が180度変わる引き金を引かせたのであった。
 当時大学生だった私は、学問とは程遠い、家庭教師と刀屋家業に現
(うつつ)を抜かしたのである。双方は、似ていないようで、実かその販売方法に共通点があったのである。
 それがまた、学生刀屋の有限会社・大東美術商会であり、後の大東美術刀剣店だった。
 一方が、この時に着想を抱いた明林塾ゼミナール
(当時はこの名称はなく、最初英数塾や英数学院を屋号とし、明林塾に改まったのは昭和60年頃)という学習塾であり、進学塾であり、そして大学予備校だった。このように進展して行く、最初の切っ掛けが、つまり“平安城石道住正俊”という一振りの刀だったのである。
 私のその後は、この一刀によって運命付けられたと言ってよい。

 私は運命論者ではないが、やはり、人間が何かの転機のとき、肉の眼には見えない“何か……”が、あると思うのである。それが……の齎す運命であるかも知れないし、偶然が度重なる行く先変更であるかも知れない。しかし、人生には……、現世と言うこの世には……、起こりうる確率として、それが仕組まれたように連続して起こらないから、あるいはそれは「天の命」という物かも知れない。それは、一般に言われる“何か”と思うのである。人には、この“何か”が働くらしい。

 その“何か”が人に幸福をもたらしたり、不幸をもやらしたり、また、私のように天から悪運を授かる切っ掛けを作るのだと思うのである。人間以外の何かのよって、人はいつも翻弄
(ほんろう)されるのである。心が揺り動かされているのである。そして、揺らぐ心に、この“何か”が関わって来るのである。あたかも、「拘泥」という“こだわり”をもって……。
 こだわることはよくないことだが、人生には、この“こだわり”が関わって来る。こだわることはよくないことだが、それを解決出来ずに人はこだわるのである。
 こだわりは愚人の崩壊の縮図だが、愚人故に、解決方法を知らない愚人は、やはりこだわりに終始する。
 そして、私に絡み付いて、こだわりにこだわって、私に愚者の烙印を押したのが、金丸刀剣店の陳列の中で見た、“あいつ”だった。
 いわば、平安城は私を誘惑し、翻弄
(ほんろう)した最初の一刀だった。この野郎が、私を未知の世界の招く橋頭堡(きょうとうほ)になったのである。

 これを当時の値段として、この刀を五万五千円で買ったように思う。当時の金として、これが安いか高いか分からない。この刀に日本美術刀剣保存協会の“マル特”が付けば、今の値段で60万円から70万円というところだろう。あるいは“生中茎
(うぶなかご)”だったし、銘がよければ甲種マル特にでもなって、百万から百五十万台の刀になっているかも知れない。ただし、これが贋作でない場合である。
 この刀は、刀剣書籍などに載っている価格表のよると、定寸
(最低でも2尺3寸から2尺4寸は欲しい)で、生中茎で、在銘の場合、その掲載相場は飯村嘉章評価で“平安城石道住正俊”は五百万円となっている。しかし、この“五百万円”は掛値通りに行かないだろう。落ちるのは当然だ。
 それにこれを満たす条件だが、在銘で銘がよく、定寸の長さを止め、生中茎
で磨(す)り上げ無し、研ぎ減りもなく、保存状態も良好という状態に限りである。これを今でも完璧に満たしているとは思えないが、当時、所持していた私の平安城は、その条件を満たしている状態に近かった。それが贋作でなく、銘がいいとして、やはり高くても百五十万円止まりではないかと思うのである。五百万円台だったら重要刀剣である。

 良心的な刀屋ならば、これ前後の価格設定をするだろう。そして、添付される認定書は、日本美術刀剣保存協会の「甲種マル特」か「特別保存刀剣」の認定を付けてである。

 当時、金丸刀剣店の陳列内に立てられた“平安城石道住正俊”の値札は、七万五千円ほどであった。
 しかし、ひょんな縁から金丸のオヤジと意気投合し、学生の分際でこれを二万円ほど負けてもらって手に入れることが出来たのである。
 この店のオヤジはいい人だったと思っている。好々爺然とした好人物だったと思っている。それ以下の、以上の評価をする人が居るかも知れないが、私は当時の大学生の眼で検
(み)てそう思うのである。だから、オヤジは私を手招きしたのだと思っている。この手招きによって、私の人生には、変革が齎されたと言っても過言ではない。オヤジが手招きしなかったら、無縁で終わっているだろう。また陳列に“平安城石道住正俊”が飾られていなかったら、そのまま通り過ぎていたかも知れない。

 金丸のオヤジの想い出としては、この平安城を買った時と、その後、私が高校の教員をしていて、学校の帰りに何度か訪れて、「安親」の贋作の鍔を種明かししてくれたときの想い出である。
 しかし、この話はおくとして、まずは平安城から話そう。

 いつもは大学の講義の行き帰りに、ただ刀屋の前を通り過ぎるだけだった。当時私は西新の叔母の家に居候していた。叔母の亭主は、福岡では少しばかり名の売れたしが私大の教授をしていた。その教授宅に半年ばかり居候して、そこから大学に通っていた。
 当時は西鉄の路面電車はあった。西新から唐人町、大濠公園、赤坂、天神、中洲川端、呉服町を経由して祇園、博多駅と向かう電車があった。当時は中洲川端か、その近くで降りて、博多駅まで歩いていたように思う。北九州にはない博多の町並みが好きだった。その途中に金丸刀剣店があった。その後、店は移転したようだが
(あるいは同じ場所にあって区画整理で周りの風景が変わったかも)、昭和40年初頭はこの通りにあったように思う。些か長い通学路を通って、博多駅まで出ていたのである。今でも、当時の面影を止めているので、久々に博多に来ると、当時の懐かしさが胸に込み上げて来ることがある。中洲の夜の風物詩の屋台も懐かしい。
 北九州に住んで四十年以上になるので、最近の様変わりしてしまった博多の様子は、当時と地域的なズレもあるが、あの当時電車にも乗らず、よく歩いていたことを思い出すのである。歩くのが好きだった。

 私の郷里の長崎県平戸市には、猶興館という平戸藩藩校以来の高校があり、かつては旧制中学だったが、そこの出身者に曾
(かつ)てミッドウエィー海戦で、ただ一人勇猛を馳(は)せた、空母蒼龍(そうりゅう)の艦長・柳本柳作(やなぎもと‐りゅうさく)少将(明治二十二年平戸大久保に生まれた。二世乃木の徒名を有し「七生報国、斃而不己」を信条とした)がいた。平戸が生んだ英雄である。
 柳本の少年時代、彼は五里
(約20キロメートル)の山道を通って学校に行っていたという。その話を親から聴いて知っていたのである。
 だから、私も歩いた。歩くのは厭でなかった。
 晴耕雨読ではないが、晴れや曇りの日は必ず歩いた。中洲から呉服町や川丈を突き切って博多駅に向かうこの通りが好きだった。博多弁も耳に心地よく、北九州にはない得々の言い回しの方言が喋られていた。その方言を小耳に挟みながら歩くのである。
 その歩くコースに、金丸刀剣店があったのである。

 いつの頃か、店頭で立ち止まるようになり、陳列の中を見ては唸るだけの時が遣って来ていた。なぜか、妙に惹き付けるものがあった。欲しいが、それを買うだけの金がなければ唸るだけしかない。最初は指を銜
(くわ)えて見ているだけだった。
 しかし、こうした状態が度々続くと、刀が私を呼んでいるような……、手招きしているような……、そんな錯覚に囚われるのだった。やがてそうなると、刀と会話してみたくなるのが人情である。

 この姿を金丸のオヤジから見られたのであろう。遂に、眼と眼があった。オヤジと眼があったのである。
 そして、手招きするのは刀だけでなく、金丸のオヤジも私を陳列のガラス越しに手招きするのだった。手招きされれば、店の中には入らない分けにはいかない。手招きされるままに、催眠術でも懸けられたように中に入って、話し込んだのが、平安城との不思議な繋がりになってしまったのである。
 私は年齢を訊かれたことを、今でも印象的に覚えている。それが六十半ばを過ぎた今でも克明に思い出す。
 「あんた、幾つ?」オヤジが訊いた。
 「十九です」
 「そうか、数
(かぞ)えで二十歳たいね」
 変なことを言った。
 金丸のオヤジは、私に謎掛けのようなことを言ったのである。そのように聴こえたのである。
  最初、“数
えで二十歳たいね”の意味がよく分からなかった。

 後で分かったことだが、銃刀法によれば、刀剣の所持は二十歳からであり、猟銃などの銃器の所持は十八歳からであった。それで金丸のオヤジは「数えで二十歳たいね」などと言って、年齢の底上げをし、私に“平安城”を売り付ける魂胆だったのだのである。中々の商売人だった。油断も隙もないが、それでいて面白みのある、やはり好々爺とした人物だった。もしかすると、商売抜きで、私と平安城の縁組みを善意で計らってくれたのかも知れない。有り難いと思わねばならなかった。
 そして、人情の機微を知る人だったかも知れない。

 金丸のオヤジは“金七万五千円”を「六万円」に負けると言うのだった。一万五千円の値引きだった。
 しかし、六万円にしてもらっても、無い袖は振れない。「もう一声」と五千円に値切って、これを五万五千円にしてもらったのだった。要するに売値を二万円も負けさせたのである。果たして、こうしたことがサムライの精神として許されるのか否かは知らないが、やはり貧乏学生であった私としては、鷹揚に構えることが出来ず、まだまだ小人
(しょうじん)の域を出るものでなかった。
 五万五千円で買った平安城は白鞘ではなかった。立派な拵が付いていた。特に、漆黒の黒絽塗りの時代鞘は鯉口と鐺
(こじり)が揃いの銀彫刻の一対だった。柄の縁頭も銅に施した金象嵌があり、目貫も上々の物で、時代物の親ザメを遣った鮫皮に緑の正絹柄紐が摘み巻きで巻かれていた。鍔は、後にマル特になった記内(きない)の鍔が嵌まっていた。これが信じられないことだが、五万五千円で買ったのである。この五万五千円は、一桁間違っていたのだろうか。
 あのときドサクサに紛れて……という気がしないでもない。もしかすると本当は55万円だったかも知れない。それを一桁間違って……、という疑念もある。

 では、金丸のオヤジは損をしたのだろうか。仕入れ値を割ったのだろうか。
 どうも、そうとは思わない。
 よく考えれば、売値が五万五千円だった。したがって、仕入れ値はこの金額の“七掛け”が通り相場だから、元は四万円程度だったかも知れない。それを私に買わせて、確実に一万円以上は儲けたの思うのである。あるいは、もしかすると刀剣市の入札で、“山買い”したものかも知れない。立てていた値札からに万円も負けて、叩き売りするのだから、元値は非常に安かったのだろう。考えられることだった。
 私は、こういう不思議な売り方をする刀屋という商売に、奇妙な魅力を感じたのであった。“何と面白い商売か”とそう検
(み)たのであった。
 刀屋は、一振りの刀の価格を突き詰めれば、そして一振りの単価という価格を、一振りで考えれば、一振り一振りに価格があるのだから、それを下回れば、損をするという計算が成り立つ。

 しかし、仕入単価を一振りと看做さず、譬
(たと)えは“山ごと”とか、“丸ごと”と考えて、山の数が全部で五振りとか、まるごと十振りとかで、これを一つと看做し、一切は山ごとに金額とか、丸ごとの金額で均等に割り、そこから定価を付ける方法があるということに気付いたのである。
 だったら均等計算として、例えば平安城を五万五千円で売っても、そのへこみ分を他から当てられると検
(み)たのである。最後までこの種明かしはしてくれなかったが、恐らくそうであろうと考えるのである。
 そして、考えるだけでなく、「珍しき花」の応用編に使えるのではないか?……と、その模索を始めたのであった。
 平安城を買ったことは、私のその後の人生を変えた。刀が齎
(もたら)す、運気の威力は凄まじいものだった。



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