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刀屋物語 6

兜は平安中期以降、頭部を保護する防具として、鎧(よろい)の発達とともに盛行した星兜であり、冑(かぶと)はその代表とされる。
 「兜」あるいは「冑」の字は何れも“かぶと”と読むが、武具防護術や白兵戦戦闘思想に疎い一般人の中には、“かぶと”という文字を当てるとき、「甲冑
(かっちゅう)」という呼称があるため、誤って甲(よろい)の字をあてることも多いようだ。
 しかし、兜は頭を入れる所を鉢
(はち)という防具なので、甲ではなく兜あるいは冑が正しい。



●素人刀剣愛好家の怕さ

 有能な刀屋は、客の好みを知り尽くし、擽(くすぐ)る言葉を知っている。その販売技術を持っている。類は友を呼び、また友は類を呼ぶその術を心得ている。似た者同士は自然と寄り集まるものだ。
 ところが、コレクターが高
(こう)じて刀屋になった、趣味半分の刀屋は、この点において失敗する。お気に入りの刀に惚れ込むからだ。ぞっこんになる。此処が危うい。

 実は私も曾てはそうだった。趣味の延長で刀屋を遣ったのである。落し穴は此処にあった。
 大した代物でなくとも、それが客の好みと一致すれば、その入札物には高値を張って入札するし、逆に銘のいい物で、相場以下に易く出た場合でも、決して入札することはない。売れない物は、現金買いしないのである。現金買いして、それを年末までに売り捌くことが出来なければ、その買い物金額には在庫として、所得税が掛かるのである。仕入れて売り残れば、その品物相当の金額に対して、所得税が掛かるのである。美術品は仕入れても売れない場合、寝かせるだけで仕入額相当の所得税が掛かる。
 よく考えれば、売れ残った在庫という代物は税金の対象になるのである。

 これは、本来は趣味で動産を買っても同じである。動産には税金が掛かる。趣味で買った美術動産も同じである。売れない、自分の趣味の物を買い過ぎれば、税金地獄となる。税金地獄を招いては、刀屋は成り立たないし、失格である。売れ残った物が、無税であるはずがないのだ。

 しかし、刀屋失格の刀屋は、自分の趣味の範疇
(はんちゅう)から中々抜け出すことが出来ない。趣味が先行する。自分の好みが先きに出る。そこで、コレクターとしての意識で、売れない物を大量に仕入れる。そして、無駄な在庫を抱えるのだ。お決まりの敗北コースである。税金にあっぷあっぷとなる。儲けどころか、税金地獄で苦しめられる。これこそ“滅びの構図”である。

 更に、泣きっ面に蜂……を思わせる最悪の結末は、一旦入札して物を受け取り、それが売れずに一年間寝かせて抱えることになれば、その仕入代金には所得税が掛かるからである。在庫を残せば、その代金そっくりが所得税の対象になり、在庫代金そのものが課税されるのである。刀剣類をはじめとした美術品や道具類、更には金銀や宝石類までも、所得として課税に対象になるのである。所得税が派生するのである。

 これは刀剣商でも素人愛好家でも同じだが、刀剣類などの美術品を買えば、そこにはその年の所得税が派生するのである。そして刀屋の場合、売れ残りは、現金と同じであり、それは所得となる。儲けである。
 しかし、素人は、特にサラーマンをしている刀剣愛好家は「その年の所得税を払う」という感覚と意識がないので、刀剣を購入しても所得税を払わない人が多い。更に、警察に提示しなければならない『古物台帳』や『売掛帳』その他の帳簿も、明確にしない者が居る。出納帳すら無視しているサラリーマン古物商も居る。知らぬか、知ってか頬っ被りだ。
 つまり、単刀直入にいえば脱税である。
 税務に関する、賦課ならびに徴収に関する行政事務の意識が欠如しているからである。

 では、何故こういう意識に至るのか。
 刀剣という美術品を動産と認識していないからだ。
 動産の意味が理解出来ていないのである。サラリーマン古物商の怕いところである。また、この種は、素人の刀剣愛好家の中にも居る。仲間内で、古物商許可もないのに闇売買し、それで利益が生じても知らぬ顔なのだ。
 勿論、闇売買だから、仲間内だけで黙っていれば外に漏れることはないが、これは二重の罪を犯している。その一つは古物営業法違反であり、もう一つは所得税法違反である。そして、所得隠しはバレれば追徴金と重加算税の多額な税金だけで済むが、古物営業違反は刑事罰だから、裁判を受け有罪を喰らって罰金刑になるか禁固刑になる。しかし、これも知らずに、仲間内で集団を作り、オークションまでしている素人集団が居る。

 また、昨今は情報化時代であり、ネットの発達で、ネット販売やネットオークションも盛んである。
 ところが、古物許可もないのにネットで古物を商っている者が居る。
 酷い者になると、例えば、わが店がネットで掲載している刀剣類や小道具類を、自分のサイトにそっくりそのまま掲載し、写真なで盗んでそれをあげ、まったく同じ物を販売しているのである。

 販売方法は同じようなフォームを作り、そこから買い物カゴに入れさせ注文を取るのである。違いは販売価格であり、値段設定が二割増ほどになっているのである。そして客が注文してくると、こちらにその商品を指定して購入し、“分割にしてもらいたい”などとメールを送付して来る。
 ネット上に架空の古物ショップを設け、それで古物商のような顔をして注文を取り、仕入れ先には分割購入を申し出、一回払っただけで、後は払わないという悪質な遣り方だ。
 このネット販売は、古物営業法に触れるばかりでなく、完全な詐欺
(さぎ)である。他人を騙して錯誤に陥れ、財物などを騙し取ったり、瑕疵(かし)ある意思表示をさせたりする行為にあたる。これは法的に言って、行為や物や権利などに本来あるべき要件や性質が欠けており、客に高く売りつけて騙しているだけでなく、こちらの店にも損害を与えようとする二重の悪質な行為である。それも許可も権利もないのに遣っているのである。これが古物商あるいは刀剣商の、何たるかも知らない素人が遣っているから、また怕いのである。

 さて、家財や什器備品、宝石や貴金属、その他の美術品や貴重品は動産である。刀剣も、この中に入る。
 これは生活必需品ではなく、裕福の証
(あかし)である。だから、その年の不労所得【註】勤労しないで入る所得。資本利子・株式配当の類)や高価な美術品や高級車などを贈られたりすると、本来はそれ自体が所得になる。しかし、黙っていれば分からない。趣味の範囲であるからだ。
 土地や家を貰えば相続税が掛かり、遺贈により取得した財産には国税が掛かる。法務局に名義変更を行わねばならないからだ。そのために、新たに測量をして面積の数字を正確にする場合は土地家屋調査士の力を借り、登記には司法書士の力を借りる。此処までは誰でも知っていようが、動産になると疎
(うと)くなる。
 また動産であるから動き、株式購入などのように手数料が派生しないから流れが掴み難い。それが他人に知られない原因を作る。よって、これを明確にしない人が多い。

 普通、脱税というと銀行預金の金額を誤摩化したり、多額の現金を家の何処かに隠したり、二重帳簿を作って帳簿の数字を少なく見せて、過少申告するものを脱税と考えがちだが、在庫も立派な税金の対象になり、売れ残りにはその年の所得税が掛かる。しかし、それを識
(し)っている人は少ない。
 だから刀剣愛好家に、無意識なる脱税者が多いのである。

 自分の趣味に税金は派生しないと思っているようだが、大間違いで、厳密に言えばこうしたものにも税金は派生する。
 つまりである。
 日本国という国では、生きているということだけで、既に所得税が派生するのである。生きているということ事態が、課税の対象なのである。この国の国家運営は、税金によって運営されるシステムになっているからである。

 ところが、税務に疎
(うと)い、会社が納税の代行をするサラリーマン生活をしていては、実質上の税金派生状態が分からない。この人達は、自分はサラリーマンをして、多額の税金を払っていると思い込んでいる。これだけで済まされると思っている。
 こうした多額の税金納税者が、自分の趣味で、日本刀やその他の美術品などを蒐集
(しゅうしゅう)しても、それは趣味の範疇(はんちゅう)であるから、何故税金を取られなければならぬのかと思い込んでいる。趣味は無税だと思い込んでいる。
 だが違う。
 厳密に言えば、これは違う。
 裕福の証である。生きて行くための生活必需品以外の、何かを買えば、それは裕福の証となる。

 日本では生きているだけで、税金を払わねばならぬのである。趣味は贅沢品と看做
(みな)されるから、こうした動産には、当然の如く税金が派生する。また、美術品は投機の対象となる。
 実際には、100万円以下の刀は投機の対象になるどころか、下落の対象になる。しかし、それは見逃し無視される。絵画や彫刻やその他の美術品同様、投機の対象と看做される。これを知らないサラリーマンは多い。サラリーマン刀剣愛好家は、これを知らない者が多い。
 そこで、教育委員会文化財保護課に提出する名義変更を行わないで放置する。これは刀剣を所持していることを逃れるためである。
 ところが、刀剣は所持した日から20以内に登録証を発行している都道府県の教育委員会に名義変更を行わねばならない。所有者が変われば20日以内に行わないと罰則を喰らう。
 しかし、これは厳格に守られていない。

 一方、刀屋は商売である。
 刀剣商は売り上げた美術品の収入は台帳に記載されるから、購入品の売れ残りと、その年の売り上げに付いて確定申告を行う。
 ところが、素人愛好者はこれをしない。確定申告をせぬまま、また刀剣という「動産」の美術品に対し税金が掛からないと思い込んでいるのである。

 かつてサラリーマンで、余暇を利用し、貸しビルを借りて道場を開いている指導者が、私の店で日本刀を買ったことがあった。
 その指導者はサラリーマンだったが、几帳面に会費の上がりを確定申告し、給与所得以外に別収入の入金も計上し、税金を納めていた。
 ところがである。
 この人は、うちで刀を買い、それに手書きの領収証が欲しいと言い出したのである。レシートでない領収証が欲しいと言い出した。レシートでも、3万円超えれば収入印紙を貼り、それにより正式な領収証になる。私は言われるままに手書きの領収証を別に切って渡した。

 さて、この人はなぜ領収証が必要だったか。
 道場の必要経費として、日本刀購入の領収証が必要だったからだ。道場の設備品としてそれを必要経費に計上し、日本刀を経費にしようとしたのである。
 しかし、日本刀は美術品としての動産であるから、これは経費としては認められない。道場の財産となるのである。道場が個人経営のものである限り、その経営者の贅沢品であり私有財産である。この財産を税務署は見逃すはずがない。

 繰り返すが、人間は生きているだけで税金の対象となる。日本では、税法でそう定義されている。だから塒
(ねぐら)のない路上生活者でも、缶ジュースや、焼酎の小瓶一本も買えば、それに付随されている税金相当分の飲料税や酒税を払う。
 況
(ま)して、刀剣所持者が、路上生活者のように生きているだけという状態でないことは明白である。余裕があるから、50万円とか、70万円という手持ちの金を叩いて、日本刀を買うのである。裕福の証であるからだ。
 本来ならば、老後に備えてとか……、持ち家の購入とか……と考えて、爪に火を灯すような生活をして預貯金に励むのだが、それを遣らずに日本刀を買う。これは余裕から生まれるものである。そして動産は余裕があるから、車やバイクを買うように買うのである。

 日本では、刀剣類やそれに付随する小道具などの美術品は、動産である。法的にはそう定義される。
 動産には、その年の購入時に所得税が派生する。税法にはそう定義されている。
 余裕があったから買うことが出来た。余裕がなければ贅沢品は買えるはずがない。少なくとも税務署はそう看做す。
 したがって、美術品は常に価格を所有する代物であるから、絶対に無価値とはならない。これが日本刀をはじめとする、美術品が動産と言われる所以
(ゆえん)である。土地や建物は動かせないから、不動産という。

 不動産は、価値は所有する媒体であるが、動かせないだけで、評価格はほぼ固定的で、不動的なものである。不動産の評価格が上がった下がったなどというのは、その年の地方公共団体の都市計画税が定めるところにより公表されるだけであって、実質上は、不動産には極端な相場的な上げ幅はないのである。
 つまり、無価値になるということは絶対にあり得ない。
 物には、永遠に価値があり、定価があるのである。ボロはボロなりに、二束三文に叩き売られる値段があり、その後の定価がある。
 それと同様、刀剣類をはじめとする動産にも、完全無価値という現象は起こらない。競売市の相場で上下はあるが、それは市場相場であり、価値観を指して言うものではない。物には相場があり、価格があるからだ。ある意味で有価証券と同じであり、実際物は、形を止めるということである。これを動産という。

 土地およびその定着物
【註】建物や立ち木や、個人所有の山や池や沼など)以外の一切の有体物を、日本では「動産」という。
 この場合に動産と看做
(みな)されないのは船舶であり、船舶はそもそも不動産であるからだ。動くものでも、それ以外は動産であり、美術品として法律上定義されるものは、日本刀もこれに入るのだ。その所有をした時点で、その年の確定申告のエリアに入る。免れることは出来ない。その年は給与所得以外に、臨時収入や不労所得があったと看做され、その金銭的余裕があって日本刀を購入したと看做されるからだ。
 そもそも、高価な美術品は金銭的に余裕があるから買えるのであって、汲々
(きゅうきゅう)としていては購入出来ないからである。

 この人はそのことを知らず、逆に“やぶ蛇”となり、その経費分の申告漏れを税務署から指摘され、その年、想いもよらぬ追徴金
【註】税金などの公課を追加して取り立てることであり、後から不足額を取り立てること)と重加算税【註】過少申告や無申告などに対して加算税が課せられる場合、事実隠蔽(いんぺい)や仮装があったときなどに制裁として課せられる厳しい率の加算税)を課税をされたのであった。無知と言えば無知だが、こうした一面も、素人の怕さを物語っているのである。
 では、何処が怕いのか。
 それは自分が“やぶ蛇”なることをしているという自覚症状が全くないからである。
 こうした税金対策を考えないで、“趣味”という領域で、友人同士、知人同士で刀剣の不法売買を行っている素人刀剣愛好家も居る。売買によって動いた儲け分を頬っ被りして、その年の確定申告を無視するのである。サラリーマンをしている愛剣家に多いようだ。
 不思議なことだが、こうした人間に税務署の査察は入らないが、刀屋には難癖付けて査察が入る。これを摩訶不思議現象と言わずに、何と言おう。
 そして無知の最たるものとして特記すべきは、こうした日本刀をはじめとする動産は、“自分が買う時は高く、売る時は二束三文”ということを認識しておくべきだろう。
 日本刀は投機でないから、売る時は投げ売りを覚悟しなければならない。

 しかし、刀は二束三文だからだと言って、タダにはならない。必ず値段がある。
 所持していた株券は、その会社が倒産すればその発行権は紙屑
(かみくず)だが、日本刀などの美術品は、タダにはならない。下落すれば、下落下なりの価格が存在しているのである。今日の経済状態は不景気傾向だから、下落傾向にあり、自分が買った値よりも安くなる場合が多い。
 しかし、価格の上下を宛てにせずに購入したのだから、刀剣市場の相場が上がろうと、下がろうと、一切関係ないことである。買う時は、その刀に惚
(ほ)れ込んで買ったのだから、真の愛好家なら価格の上下は無用のことであろう。
 これを覚悟することが出来なければ、現代では、刀剣類を所持する資格はないだろう。
 つまり、刀剣はランクで言うと、旧マル特以下では投機の対象にならないのである。特別貴重刀剣が付いているからといって、それが価格を保証しているのではない。

 しかし、タダではないから評価格があり、投機の対象にされない一方で、売買して利益を生んだ分は課税されるという、不思議な二面性がある。贋作でも、それに支払った金は課税の対象となる。本物か偽物か、ではないのである。金が動いたことが問題なのである。
 素人の怕いところは、刀剣を、株式や銀行の預金利息と同じように投資の対象と考えて、美術とは無縁の人が、この手の物を投機対象として蒐集している実情があるからだ。

 私は、既に延べたが貸金業
(平成13年7月から16年7月まで。福岡県知事認可)をしていたので、“売掛金(債権)”という立場から論ずると、顧客に貸している金額にも、また取り損なって遅延になっている金額にも、その数字相当分の税金が掛かるのである。非課税にするには、貸し倒れの損金にするか、債権そのものを下請けに安値で売却するかしなければならない。遅延の債権を長期抱えていれば、それだけで税金が掛かる。取りっ逸(ぱ)れにも、その数字に対して税金が掛かるのである。
 したがって貸金業者は、代下がりとして債権を安値で売却してしまうのである。しかし、売却出来るうちはいいが、今度は貸金業者自体が成り立たなくなり、経営が火の車となる。貸した金は取り立てて回収出来ないと、貸付金の額が、そのまま所得税の対象になってしまうのである。現金が存在しないのに、である。
 この場合、得をするのは誰だろう。
 これに答えることが出来たら、動産に領収書を求めて必要経費で落とすというバカな真似はしないだろう。
 ところが、世の中は随分と狭いもので、バカはそこら近所にたくさん居るのである。

 私の店で、かつて居合の道場を経営している先生が顧客に居たが、この先生が自分の好きな刀を趣味で片っ端から買い込んで、これを道場の「道場設備」として日本刀を必要経費で落としたのである。それも数百万単位だった。
 こちらは刀屋であり、領収の金額に対する領収書を発行するが、この先生はその領収書をそっくりそのまま経費に挙げたのである。確定申告時に、日本刀を複数振り買い込んで、道場で使うということで道場設備品に挙げ、経費にしてしまったのである。これを経費などにせずに、黙っていれば分からないものを、御丁寧に日本刀購入代金を、収支上の必要経費として挙げ、月謝の上がりと相殺して差し引けば当然赤字になるので、その年の所得は赤字にしておいて「うちの道場は儲かっていません」と、これを遣ったのである。

 必要経費とは、所得税法上、事業所得・不動産所得・山林所得・雑所得の計算において、総収入金額から控除される経費のことである。その収入を得るための必要上、支出されたものに限られる。
 この税法上の控除による経費のうち、日本刀という美術品が、果たして経費として認められるだろうか。
 そのうえ、この先生は購入した日本刀を道場に置いて、道場生に自由に使わせるのならともかく、自分の家の床の間に置き、他人には出も触れさせず、自分の観賞用にしていたのである。

 仮に道場生が30人居て、一人月謝が5,000円として、一ヵ月で150,000円となる。これが一年間で1,800,000円である。
 この先生はサラリーマン武道家で、普段は会社員をしていて余暇で公共施設の武道場を時間で借り、そこで週一回、居合道を教えているのだが、地代家賃相当分の必要経費や、その場所に通う交通費などを差し引いてもいい副収入となる。
 教えることが副業なのだから、仕入れはないし、道場生に模擬居合刀を勧めても、出入りの武道具店からも二割程度の斡旋料は取っているであろうし、道衣その他でも斡旋料は取っているはずである。こうなると売り上げは、更に殖える。
 この売り上げから行けば、どうみても確実に150万円は純利益となる。つまり浮いた150万円を、日本刀を購入して差し引きし、赤字にしてしまったのである。

 この先生は以前にも、薙刀を“参考資料”という名目で30万円で買ってくれたが、この薙刀もこれより前、必要経費で落としていて、この時は必要経費の額が小額だったから疑われなかったようだが、今回ばかりは違った。
 どう考えても、売り上げ200万円くらいにしかないのに、200万円以上を必要経費で挙げれば、当然、“ではその必要経費とは何か?”と疑われるはずである。貸借対照表的に検
(み)ても、このアンラランスな数字自体が疑われるのである。

 ちなみに、うちで買った薙刀は、座敷の鴨居
(かもい)の上に掛けられていて、立派な観賞用になっていた。
 薙刀は薙刀術の指導者が参考資料として買うのなら、まだ分かるが、居合道の先生が参考資料として買うのはどうも解せない。あるいは“居合道”対“薙刀術”でも想定して、その攻防の策でも考えていたのだろうか。
 そのうえ買ってくれたのは、“女薙刀”という、刃渡りは25センチの短刀程度の短い物で、男が戦場などで使う「長巻き然」
【註】長巻きは太刀の中茎を長く作り、鍔を入れて長い柄つかを加え、表面を手縄や紐などで巻いたもの。戦場に携えて、人馬の足などを払い倒すのに用いた。野太刀とも)とした斬馬刀を思わせる“男薙刀”ではなかった。
 これだけで、武術の研究とは程遠い、観賞用に購入したということは明白である。そのうえ、何人かにこれを見せ、「これを買わないか?」と奨めているかも知れない。売って換金すれば、それ自体が所得である。こういうことを愛好者同士で、闇で行っているのである。それも頬っ被りで……。

 日本刀購入代金を必要経費にしたことは、“やぶ蛇”であることは言うまでもないが、この程度の税務管理が分からない人が、道場を遣り、“どんぶり勘定経営”をしているのである。この先生は、申告した必要経費そのままが、申告漏れとなって追徴金や重加算税を取られたのである。無知の怕さというより、素人の怕さだった。このような素人は実に多いのである。
 何ともお粗末な、人間模様を刀屋という覗き穴から見たのだった。

 武家の商法のレベルで抜け目なく、サイドビジネスで賢く振る舞っているように見えても、実はこういう人ほど、頭の中は空っぽなのである。素人の刀剣蒐集家で……、とは言っても、所持数はせいぜい三、四振り程度であろうが、このレベルの中産階級の所持者に、こうした人は多いようだ。
 これは刀剣に限らず、鍔でも、拵でも、購入した前金額が20万円を超えれば、これは当然所得税が掛かるのである。しかし、黙っていたり、直ぐに売却してしまえば、その限りでない。また、確定申告が適正で、余力分から美術品を購入するのも、その限りではない。しかし、運営をして行く上での経費としては認められるべきもない。

 ここでおさらいしたことは、

 日本刀という美術品は営業上の経費にはならないということである。また、日本刀を購入すれば、赤字計上したとしても、その購入分は所得税の対象になるということである。
 在庫も、その年の年内に売却しなければ、所得税の対象になる。それは動産に数えられる美術品であるであるからだ。

 したがって、刀屋は、多くの店が在庫を抱えると所得税の対象となり、買取りよりは、委託して販売することに重点を置く店が増えているのである。
 ちなみに、「在庫は税金が掛かる」ということだが、分割販売した分割の元本にも税金が掛かるのである。したがって、分割の場合は、ローン組みなどをするローン会社に頼み、委託のみで販売する刀屋が多くなったようだ。仕入れて売らないのである。仕入れて在庫になったらこれまでの儲けは吹き飛んでしまうからだ。だから刀を預かり、委託で売るのである。そうぜずに仕入れて寝せると、所得税が掛かるからである。
 上手な刀屋は、手持ちの在庫を持たないのである。

 刀屋で成功するには、どれだけ業物
(わざもの)の刀剣類を委託で多く集め、そして、即座に売り捌くことが出来るか否かに懸かっているのである。
 かつてのように、現金で大量に仕入れ、大量に売るという薄利多売の遣り方では成功しないのである。これでは、売り捌いても多少の在庫が生まれ、この在庫に所得税が掛かるからだ。
 在庫には所得税が掛かる。これが何度言っても言い過ぎることはない。

 在庫は仕入れ値相当分が、売れ残ればそのまま所得となる。いつまでも持っておれば、その相当分は所得税を引き摺っていることになる。
 税金が理解出来れば出来るほど、在庫は抱えてはならないということが分かるであろう。
 また、刀屋が、自分の趣味で刀を買ってはならないというのも理解出来よう。買って、それを鑑賞用に楽しんでいるだけで、それ自体が所得税の対象になるからである。
 刀屋が自分の好みの刀に魅
(み)せられて、手放したくないという感情ばかりでなく、惚れ込んでいるまでも手許に置こうとすると、それだけで所得税が発生するのである。刀屋にとって、鑑賞する意味は殆どないのである。だから、好きとか、趣味が高(こう)じて……という刀屋は成功しない。税金額ばかりが増えるからだ。
 刀屋が、刀に惚れ込んでならないという理由も此処にあるのである。


 ─────しかし、世の中は狭いと感じると同時に、バカも多い。バカも身近に居ると思うのである。そのバカは買い手に多いようだ。
 特に、刀剣購入者には、こうしたバカを度々見ることがある。
 かつて二十代半ばの青年が、有り金叩いて、うちの店で45万円ほどの定寸の刀を買った。そして、暫
(しばら)くして、急に金銭が必要になり、他の刀屋に持って行って売却したら、たったの10万円だったというのである。45万円で買ったが、余所(よそ)で売ったら、10万円しかしなかったではないかというのである。
 それで“お前の店では暴利を得た”などと言って、売却の後、怒鳴り込んで来たのである。つまり、この若者の言は“10万円ほどしか価値のないものを、何で45万円で売ったのか!”という苦情だった。
 そこで説明した。

 45万円する価値の物でも、一旦刀屋が買い取るとなると、これを仮に二割引で買っても、36万円の買取となる。この36万円の刀は、売れ残れば所得税が掛かるのだと。
 したがって、うちの店では10万円しかしないものを、ぼって45万円で売ったのではない、と。
 だが、この若者は理解不能だった。そして最後に大声で喚いたのは、「ぼったくりだ!」と言うのであった。

 ぼったくり……。
 確かにそう言う売り方をしている刀剣店もあるようだ。また、安値で叩き買いする刀剣店もあるようだ。
 しかし、安値で買い取ろうとする場合は、事情がある。欲しくないという事情がある。買い取った刀を買いそうな客が居ないという事情がある。買いそうな客の顔が思い浮かばない場合は、欲しくないのである。それがどんなにいい物であっても、だ。
 おそらく、買い取った刀屋は、本当は欲しくなかったのだろう。
 それでも10万円の値段をつけた。よくつけた!と、その刀屋を褒
(ほ)めてやるべきだ、切り返したのである。

 そして、金に困って売りたいのなら、うちの店で、「委託で売ってやる」と言ったのである。だが、後の祭りだった。
 委託は売値の折半で、委託主と売却した店が50%で分けるのが、今日の相場となっている。この相場は、はっきり決まっていないが、多くがこの折半委託を採用しているようだ。中には普段からの顧客に限り、20%〜30%という店もあるようだ。

 途中で……というか、人生半ばで、金に困って、刀を売りに出すようならば、最初から買わなければいいのである。あるいは、どうしても金策に迫られたのなら、叩き買いされても、黙ってそれに遵
(したが)うというのが男であろう。サムライの潔さは、そうしたものではないのか。
 確かに、日本刀はサムライの心の拠
(よ)り所であるが、サムライの拠り所を、サムライではない者が、持ちなれない物を持っべきでないということだ。単刀直入に言えば、日本刀を町人が所持しても仕方あるまい。
 しかし、この青年などは、順序を追って、サムライの心構えを話せば分かる人間だったが、全く話にならないオヤジも居た。


 ─────このオヤジは、うちの店で長時間、散々値切り、刀剣だけではなく、手入れ道具から金襴の刀剣袋や正絹の房、更には刀剣バックまでタダで付けさせておいて、うちでの売値が40万円の定寸の刀を30万円に叩いて買ったのである。そもそも40万円の売値は、最初から他店よりも二割方下げた値段だった。
 買うとき、このオヤジは自分は“居合道四段”を強調するのだった。嘘か本当かは知らないが、四段を自慢して言うのだった。
 そして、それから一週間ほどして刀を持って来て、引き取ってもらいたい、買い戻してもらいたいというのだった。理由を聞いた。それは寝耳に水だったのである。
 それも今度はこのオヤジ一人ではなく、仲間と思える人相のよからぬ男を二人連れていて、高圧的に迫る観があった。数人で威圧を掛ければ、私が屈すると思ったのだろう。

 うちの店では2週間以内だったら20%引きで買い取るようにしているが、「では拝見」と思い、買い戻せという、この刀を鞘から抜こうとするのだが、すんなりと抜けないのである。何処かが鞘の中で引っ掛かっていた。簡単に抜けないのである。
 私はそこで、ピンの来たのは“曲げたな”という直感だった。そして、このオヤジ、「畳蓙表の濡れ藁を斬ったら曲がった」というのである。
 曲がったことを強調するのであった。よって「不良品だから引き取って欲しい」というのである。

 へまして、曲げたのは私でない。このオヤジである。
 それなのに、このオヤジが「うちの店で不良品の刀を売りつけられた!」と喚
(わめ)くのである。引き取らせる理由は、「直ぐに曲がるような不良品の刀を売った」と言うのだった。
 このオヤジの論で行くと、刀が曲がったから不良品だというのである。自分の腕の未熟を責めないで、である。理不尽な言い掛かりだった。

 このオヤジは居合道四段だとほざいても、実は、試し切りの経験は殆ど無い人なのだろう。
 また、“刀は曲がる”という、試刀術を遣っている人なら、誰でも識
(し)っている常識を知らなかったのだろう。
 つまり、このオヤジは、自分の斬り方が悪くて曲がったのであり、曲がったのは刀の所為
(せい)ではなかったのである。刀は無関係で、オヤジの腕のほどが問題だったのである。
 斬り方が悪かったり、あるいは力任せに、切断する媒体に叩き付ければ、切れずに曲がるというのが刀である。また、“引く”という刀法の理
(ことわり)を知らねば、刀は曲がる。


 ─────昨今は情報過多時代でもある。
 情報が錯綜しているだけに、バーチャル体験が主体となり、本当の意味での体得とか、会得という技倆
(ぎりょう)の意味は薄れて来ている。
 このオヤジは、居合道四段などと言っても、テレビの時代劇などを見て、刀は触れただけで切れる物と思い込んでいたのだろう。
 こうした考えを持っているのは、本物の刀で試刀術をしたことのない剣道愛好者の中にも多く居るようだ。
 しかし、テレビや映画の時代劇の“大根切り”と、試刀術の実際は大きく異なっているのである。人間は大根のように、簡単には斬れないのである。

 更に、である。
 刀を振り回した時や、人間を斬った時に音がする、“ビューッ”とか、“ブシューッ”とかの音は、実際にはしないのである。
 刀を振って、“ビューッ”っと音がするのは「樋の入っている刀」だけであり、居合道やその他の居合術では、こうした樋の入った刀を使わせるのは初心者用であり、熟練者は真剣の場合、樋の入っていない物を用いる。樋が入っていない方が耐久力があるからだ。音がしないだけ、樋を彫っていないので、刀身自体に強固さが増し、したがって強度も強く、折れずに、曲がらずということを識っているからである。
 だから、派手な、素人が観てカッコいいという“ビューッ”という音は、しないのである。

 また、“ブシューッ”という音であるが、これは演出上の“効果音”である。人間が刃物で斬られた場合、ああした音はしない。あくまで効果音だ。
 刃物は、拳銃やそれに類する銃器でないので、発射音や命中音はしない。相手を斬っても、刺しても、“ブシューッ”と音はしない。映画やテレビではリアルでない、架空の効果音を演出者の想像によって、不可解な音を出しているに過ぎない。それも素人相手に、である。
 素人には、“いま斬りましたよ”とか、“いま刺しましたよ”という効果音を、聴かせてやらないと、斬られたり刺されたりした、悪役がどういう状態に至ったか分からないので、効果音でそれを伝えているのである。これは打ち合わせのある、また約束のある、殺陣の世界の出来事であり、現実にはああした音は殆どしないのである。
 また、もう一つ不思議なことがある。
 それは主役が、敵対相手を斬って、直ぐに血振りをしなかったり、それを鞣
(なめ)し革で拭くということをしないので、そのまま鞘に収めるシーンがある。時々そうした場面を見る。実際だったら、もう次は、鞘から抜けないであろうに……と、刀法の理を知っている者は思うのであるが、それも所詮(しょせん)は素人騙しの演劇であるので、ああした出鱈目(でたらめ)も許されるのであろう。

 かつて俳優で、滋賀県大津市生れの沢田正二郎
さわだ‐しょうじろう/早大卒。文芸協会出身で芸術座に参加。1917年(大正6)新国劇を結成)は、剣劇に壮烈な殺陣を演じて、大衆に喜ばれた演出家であった。その殺陣の仕組みは、“リアリズム”の追求であった。
 つまり、沢田の追求したのは、リアリズムの観点から、“人が斬られたら、こういう状態で、それに至る殺陣の流れは、歌舞伎役者のおっとりとしたそれとは違う”というところから始まったものだった。
 沢田が、大衆から絶賛の支持を受けたのは、歌舞伎役者の“山型、ちょんちょん”とも違うし、“おっとりとした殺陣”とも違った。現実に近いリアリズムであった。これが大衆に受けた。

 だが、これがいつの間にか、一人歩きし、以降、その道の演出者によって、様々なリアリズムの殺陣が演出された。そのリアリズムの中に登場したのが、昭和38年頃に登場した、かつての沢田の殺陣に効果音を加えて、“ビューッ”とか、“ブシューッ”という音の登場だった。
 この効果音によって、時代劇は低迷を辿るところだったのだが、一気に蘇
(よみがえ)った。効果音で迫力を増した。その迫力に時代劇離れした人が帰って来た。迫力のある時代劇が、今度は茶の間に登場することになった。
 その結果、どうなったか。

 日本刀を知らない、また日本刀の実際を知らない一般大衆は、ヤクザ映画を含めて、刀を振り回せば、あのような“ビューッ”という音がし、また人間が斬られると“ブシューッ”という音がするように思い込んでしまったのである。
 しかし、実際には樋
(ひ)のある刀以外は、振り回しても音がせず、人間は斬られても“ブシューッ”という音はしないのである。あれは演出で作り出した架空の効果音で、人が斬られる時に音がするのは、斬られた場合でなく、叩かれた場合に“バッチッ”というような低い音がするだけである。時代劇の効果音は一切が架空の音なのである。
 そして、それは今日でも訂正されることなく、同じ内容で、“これは何処か、おなしいのではないのか?……”と疑いもないまま、続けられているのである。

 筆者である私は、昭和23年生まれである。団塊の世代という、戦後のベビーブームに生まれた世代である。
 この年代に生まれた者の少年時代後半から成人までに懸けて、よくテレビや映画で見たのは『三匹の侍』のような、これまでとは違う迫力のある効果音を持った時代劇だった。この時代劇の監督は五社英雄だった。
 五社英雄は、かつてない斬新な殺陣と、また独特のカメラワーク、更には模倣音あるいは擬音などいう「SE
(音響効果)」という方法で、時代劇に革命をもたらしたといわれる伝説の監督である。
 当時は、五社英雄作品といえば、私自身テレビに釘付けになり、また映画もよく見に行ったものである。それは殺陣のリアリズムにも加えて、効果音の凄まじさがあったからだ。ぞっとする迫力さえあったのである。
 そして、実際に刀を握って、試刀術や抜刀術を遣ると、あの効果音は作り物だったと気付いたのである。
 確かそれは、借り物の刀で、竹を斬った高校一年の時だった。このとき効果音の作り物に気付いたのである。今まで、よく騙されたと思ったのである。

 ところが、人が斬られる場面や、斬り合いに演じられている“ビューッ”とか、刀と刀が当たって“チンー”と派手な音がして噛み合う箇所であるが、実際の刀では、このような音はしないのである。
 むしろ、昭和20年代から30年代半ばに懸けて、竹を削って刀身とし銀紙を貼った
竹光(たけみつ)が当たる鈍い音の方が、むしろ実際の音に近く、“ビューッ”もしない。
 また、光効果の、刀と刀が当たって火花が散るという場面も演出であり、これを実際に遣ったら、その刀はどれだけ損傷を被るだろうというか?……という、こちらの方に興味がそそられるようになったのである。
 もし、実際の日本刀であれを遣ったら、これは刀剣の価値として、どれくらいの損害が出るだろう?……と思う方が先行したのである。刀を血振りだけで鞘に収めれば、刀がイカレるだけでなく、鞘も使い物にならなくなる。

 鞘は、時代劇では粗末に扱われているが、これを現代に復元修理して使うとなると、鞘に関わるスタッフは、まず鞘師がいて、この職人は朴
(ほお)の木から鞘を削り出し、その削り出した鞘を、次ぎに漆(うるし)を塗る塗師に委ねる。簡易鞘を作った場合でも、二人の職人が携わり、この場合の鞘価格は、本漆で約20万円である。あたらに鞘を新調するとなると約20万円懸かる。この代金は「定寸」と言われる長物でも、脇差しでも、短刀でも、ほど同じであり、長物であっても短刀であっても見掛け上の長短はあるが、代金は殆ど変わらない。手間は同じであるからだ。

 また、時代劇をよく検
(み)ると、生活様式も何から何まで、“何処かおかしい?”という場面が、時代考証もないまま進行されていることに気付く。江戸時代の、江戸の街の長屋住いでの井戸端会議も、実際にはなかったことだし、第一、かつての東京、つまり江戸には井戸がなかった。井戸が出来たのは明治以降のことだった。東京という都市は、地理的に検(み)ても、関東ローム層の上に建っている。

 これは地学的に言うと、ロームとは風成火山灰土の一種ということになる。このロームは保水能力が低い。
 京都などと違って、琵琶湖の水瓶
(みずがめ)の上に成り立っている土地ではない。利根川をその流源としている。ローム層で代表的なのが、関東ロームであり、その層は10メートルに達する。地質の性質としては酸化鉄に富み、土色は赤褐色である。
 はっきり言えば、飲み水に適さないのである。したがって、地下10メートル付近は飲み水に向かない。よって、それ以下の深さが必要になる。この深さを掘る技術は、江戸時代にはなく、辛うじて井戸が存在したのは江戸城の壕の近くだった。埋め立てをした東京湾には飲料水とするような水は殆どなく、当時は水道を引いていたのである。したがって、江戸時代の下町に井戸が出て来るのは時代考証として間違いである。
 これは一つの、演出家の思い込みだった。

 次に、鞘に戻るが、例えば、敵に人質を取られて、人質の喉に匕首
(あいくち)などを突き付けられ、主役に「刀を捨てろ!」という“脅す場面”がある。そのとき主役は、そのまま刀を投げ出したり、刀が鞘に納まっていれば、そのまま地面に投げ出す場面がある。刀を抜き身のまま捨てれば、地面の石などに当たって刃こぼれや疵(きず)が付くであろうし、鞘に納まったまま投げ出せば、幾ら漆塗りと言っても、多少の疵は付く。それを意図も簡単に投げ出すのだから、果たしてサムライ役の主役は、刀というものをどう考え、どう扱っているのか?……という疑問が生まれる。それも武士の魂を、である。
 時代考証だけでなく、主役は武士階級を殆ど理解していなかったのである。
 時代劇では、時代考証を間違っているだけでなく、当時のサムライの精神まで間違っていたのである。

 刀屋の私としては、日本人が考える時代劇の時代考証の間違いが、外国人にも間違ったまま伝染するのが怕い。
 私が大学生であった頃に『レッド・サン』という映画があった。当時、大学四年だったと記憶している。この映画は、英語では“Red Sun”であり、フランス語では“Soliel Rouge”だった。
 1971年公開のフランス・イタリア・スペイン共作の映画である。
 この映画には、日本映画を代表する三船敏郎とハリウッド映画を代表するチャールズ・ブロンソン、それにフランス映画の大物スターのアラン・ドロンの世界三大スターが共演した異色の西部劇である。この映画を監督したのがテレンス・ヤングで、製作総指揮がテッド・リッチモンドで、スタッフは、日本人は一人も含まれていない。総て外国人である。
 そのために、三船敏郎が出ているとはいえ、奇妙な映画だった。外国人好みだが、日本人としては、幾ら舞台がアメリカの西部であったとしても、黒田重兵衛役の三船敏郎に、おかしな扱いをさせる場面が登場することだ。

 それはリンク役の チャールズ・ブロンソンと黒田重兵衛役の三船敏郎が、最初、ぎくしゃくして、小競り合いをし、相棒とはいえ、常に出し抜きを図る虎視眈々とした状況下で、最終部分で、黒田重兵衛のがふんどし一枚で沐浴をする場面がある。
(なぜ山の頂上みたいなところで冷水沐浴しなければならないのか、意味不明)
 その沐浴に際し、隙を窺(うかが)って、ついに重兵衛の衣服と刀をリンクが取り上げる場面がある。その場面での刀の扱い方である。
 刀屋の私としては、刀の扱い方が、どうも“ざつ”で、サムライの魂を足蹴
(あしげ)にされているような気持ちで見たのを印象的に憶えている。あれでは、刀が可哀想ではないか……という気持ちを抱いたのである。
 これは日本人が、刀は心の拠り所と考えて居るのに対し、外国人は刀を刃物として、物として見下しているのである。

 ただ、その中で一つだけ救われたことがある。
 それは三船敏郎演じる黒田重兵衛が、拳銃やライフルなどの火器を使わず、最後まで日本刀と手裏剣だけで闘ったことだ。これだけが、ただ一つの救いだった。しかし、外国人には拳銃とライフルが、日本刀と手裏剣というような、同じ“物”として見ていた節は否めない。
 つまり、外国人は日本人の武人の精神を認めていないし、その精神性は結局、理解出来ないのだということを、この映画を通じて、日本刀の認定書以上に、“確かに認定した”のだった。

 情報化社会の今日、外国人も日本人も、結局、“本物の日本刀”というのは理解していないし、今後も理解出来ないだろうと思うのである。
 特に、現代の日本人は、その多くが、老若男女を問わず、日本刀の心の拠
(よ)り所としている、その気持ちは分からないと思うのである。
 しかし、日本刀は単なる刃物の一種ではない。それだけでも伝われば、著者としての私は有り難いと思うのだが、外国人は言うに及ばず、現代日本人もその大半は無理解のまま、連綿と続いた日本のよき伝統を失いつつあるように思う。
 物を、大事にして使うということを、もっとよく考えてもらいたいものである。また、もし破損したら、それを復元修理するためには、多大な費用が掛かるということも理解して貰いたいものである。

 今日では、新たに替え鞘を作り変えるだけで、定寸の長物だったら、本漆塗りで20万円前後懸かる。
 また、血振りだけで、鞣
(なめ)し革で刀を拭かず、そのまま鞘に収めれば、人間の血の脂でベトベトになる。
 次に使う場合は抜き辛く、殆ど斬れなくなってしまうのである。
 時代劇では、鞣し革の変わりに紙で拭いたり、斬り倒した相手の衣服で拭いたりする場面があるが、決してあれでは血の脂は取れるものでない。実際には鞣し革で10回程度こすって、やっと脂は拭えるものである。
 また、斬る場合、生体と死体は違う。死体は物体化しているので、生体より斬り易いと考えられる。一方、生体は斬り難いものである。これは年配の軍隊に行った人から聞いた話である。

 こうした体験はしたことがないが、20歳代の若い頃、屠殺を頼まれて、山羊や豚の頸
(くび)を落としたことがあった。しかし、完全は斬り落とすことが出来なかった。腕の未熟の所為もあろう。そして、山羊は刀を曲げながらも辛うじて斬ったが、豚は頸の骨の中間部分に当たって、止まってしまって切り落とすことが出来なかった。その上、刀に脂が付いて、引き抜くのに苦労した。もう四十数年ほどの前の話である。
 このとき、恐らく人間も斬れば、こうなるのではないか?……と思うのだった。つまり、動かなくなった死体の静物と、動いている生体とは全く違うということだった。その想像がつくのである。

 これから考えると、時代劇の、所謂
(いわゆる)チャンバラシーンが、実際とは随分掛け離れた、主役に花を持たせる、非現実的な場面であることが明確となる。そして、実際にあのような使い方をしたら、刀はダメになり、刀は単なる“鉄の棒”に化してしまうのである。故にリアルでないばかりか、実際にサムライが日本刀に抱いていた思いすらも、軽視されてしまうのである。
 実際的な観点から言うと、血脂が付着した刀は、斬れるようにするために研ぎが必要だ。
 当時も今も、研ぎ代はバカにならなかったはずである。
 問題は、この研ぎ代である。

 今日、研ぎ代を考えると、それは大した金額になる。昔も安くなかったろうが、今ほどではない。
 わが店では、刀剣の研磨
(目安:2尺寸前後のもの)で次の通りだ。

・廉価研磨……7万円から
・普通研磨……15万円から
・上研磨 ……20万円から
・最上研磨……25万円

平成24年現在、尚道館刀剣部・御刀研ぎ代価格)

 今日での研ぎ代は、中をとって15万円から20万円としても、“斬る一回ごと”に、これだけの金を用意しておかねばならない。斬り合いをする主役は、相当経済力のある、大金持ちでなければならないことになる。
 そして、不思議に思うのだが、サムライの心の拠り所を、ちょっとしたことで抜き合って、武士同士が格闘したのだろうか?……と思うのである。
 特に江戸時代は、十六世紀の戦国の世と違い、主体は商業優先の町人文化が花盛りだったので、刀は武士階級のアクセサリーのようなものになり、実用品として使ったのは幕末くらいでなかったかと思うのである。
 時代劇に出て来る、あの殺陣シーンは時代考証が江戸時代であっても、この時代に起こったことではあるまい。演出家や脚本家の頭の中から出て来た空想劇である。

 『座頭市』
【註】1962年に勝新太郎主演で大映によって映画化されて以来、26作品というヒット作シリーズが公開された。1974年には、同じく勝主演で、テレビドラマとなり、勝プロダクションによって製作された。また漫才師・北野武(ビートたけし)監督・主演による2003年にも「座頭市」が映画になり興行成績を稼いだ)に出て来る“市っあん”でも、この御仁(ごじん)があれだけ人を斬るのだから、按摩をやりながら、影では相当何かで儲けていなければ、刀の研ぎ代は支払うことが出来ないだろう。あるいは研ぎ屋の研ぎ代を踏み倒していたのか。
 しかし、踏み倒して、“市っあん”の人情は謳
(うた)えまい。
 踏み倒し人間の喜怒哀楽を演出するのであれば、一見、善人に思える“市っあん”は、弱いもの苛めする、大した悪党だということになる。驚異的な抜刀術で、悪人と対峙するこの“市っあん”は、何か?……となる。
 派手な立回りの背景に、刀屋の観点で『座頭市』と、おかしなものが浮き彫りになって来る。

 私の言いたいのは「人間を刃物で斬るという現実問題」を言っているのである。話の筋書きではない。
 まず、定義したいのは、生物学上、定義したいのは、“人間は大根ではない”という提起をした上で、結論に至ると、“人間の肉体は脂で構成されているから
(その他の臓器も含めて)それを切り裂き、切断するのは簡単なことではない”ということなのである。
 また、この脂は、肉という形態を為し、骨にまつわりつく物質である。更に、骨の成分は、脊椎動物の骨格を構成するカルシウム塩を含み、その細胞間物質が結合組織を構成していることである。
 高校一年で習う『理科I』のレベルで言えば、こうしたことが教科書に書かれている。私も、若いころ高校の教員
(数学と理科全般)や大学予備校の講師(数学と物理)をしていたので、この程度の簡単な件(くだり)は知っている。

 更に、生物の教科書レベルを紐解けば、「骨は膠様質
(有機物)と石灰質(無機物)とからなる。骨は煮ると、骨膠がとれるのはその中の有機成分による。無機成分は骨の50〜60%を占める。骨の中心には腔があり、骨髄がみたす。骨髄は血液を作る。人体にはこれが200個余ある……」とある。
 今でも当時の教科書を持っているが、教科書には人間の骨を『理科I』の“生物の範囲”で、こう説明している。
 この生物学上の“ヒト科の人間を斬る”というのだから、斬られる側の人間性やその善悪は抜きにしても、これが如何に至難な業
(わざ)である……ということだ。
 時代活劇とはいえ、此処まで考えると、日本刀を販売している私としては、何から何まで“解せないもの”だらけである。これこそ、摩訶不思議である。

 人間の血は「脂
(あぶら)」であり、脂肪の塊は簡単には斬れないのである。
 脂の塊を斬るには、剣道のように叩くだけでは斬れない。刀法の理を知って、引かなければ斬れない。熟練の腕が居る。竹刀競技が上手いだけでは目的は達せられない。試合上手だけでは、日本刀で斬る業
(わざ)は会得出来ない。それは料理人の包丁捌きの比ではない。料理の鉄人の、大根や人参を切る比ではない。超名人芸が居る。

 つまり、出来るだけ刀に、脂が接触する面積を小さくして、抜き斬ってしまわねばならないのである。
 厳密に言えば、骨と骨の関節の隙間を斬り、素早く抜くということだ。叩き込む状態にしてはならないのである。それだけで、もう次は斬れなくなる。刀は脂が付くと切れなくなる代物なのだ。だから、斬り方を学ばねばならない。これを知らねば使っても役に立たないのである。
 実際は、バーチャル体験とは大違いなのである。頭の中の空想の世界のものでない。
 日本刀を大根か、人参を切るような、バーチャル体験の粗末な道具にするのでなく、もう少し精神性を打ち立て、サムライの魂を大事にしてもらいたいものである。
 刀を心の拠り所と考える、刀屋の私としては、物より、心に比重を置いてもらいたいものである。



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