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刀屋物語 5

刀の鍔は刀剣装具の一部として、時代とともにその形や様式が変遷し、また発達し、さまざまに変化をしていった。その発達ならびに変化の中に、金工的な彫刻が施され、あるいは透かされ、実用と鑑賞の両方の面から世界に誇れる美術品となっていった。
 鍔の目的は、敵の刀を鍔元で受け、右手や左手を護り、かつ受けて跳ね上げる際の支点的な役割を果たした。鍔により、わが身の危ういところを護ったのである。
 更に鍔は、刀術から言うと、自分の手許を護るという最大の目的の中に、柄とのバランスをとるという目的も含まれていた。そしてこういう目的とともに、南北朝時代の太刀から打刀に移り、鉄鍔が多く造られたものの、桃山期に入ると、透し彫りの技術が一段と進歩し、あるいは金工の技術が隆盛を見るようになり、江戸初期、中期を通じて技術的にも優れた作品が造られるようになった。
 鍔の素材は鉄の他に、山銅といわれる“にぐるみ
(銅の合金。銅100匁(もんめ)に対し白鑞(しろめ)3匁を加えたもの。普通の銅よりも黒みを帯びる)”や、素銅、赤銅、銀流、四分一等の合金と金や銀がある。



●好みで刀剣商家業はできない

 刀剣に出来不出来があるということは既に述べた。
 刀鍛冶は職業的な健康状態から察しても、その職環境は決していいとは言えなかった。環境は、絶えず火の傍
(そば)に居て、春夏秋冬の一年を通して、決していいものではなかった。
 刀剣の鍛錬は常に、火の傍であり、その温度は常に800度前後を極めた。火加減によって、槌一本で一振りの刀を打ち出すのである。心血を注いで打ち出すのである。
 こうした極限状態の中から打ち出すのだから、心身は疲労困憊
(ひろう‐こんぱい)し、窮することは当然であろう。
 特に、職業病として害するのは肺であるらしい。肺病で最後は死ぬ刀工が多かったと聴く。この職場環境は劣悪と言っていい。それでも刀工は、生活のため以外に刀を打ったはずだ。それは何故か。何故そこまでするのか……。

 恐らく美的なものへの追求だろう。
 美の追求がなければこうした劣悪な環境下で、刀鍛冶など、遣る訳がない。それを敢て遣るのだから、そこまで遣るには、当然美の追求がなければならない。美の追求がなければ、命を削り、精魂込めて刀剣は打たないだろう。
 そして、様々な側面には信念に貫かれた自身の闘魂があり、自分と戦いながら、美への理想を追求したのではないかと思うのである。この追求は、名工と言われた大業物を造り出す刀工だけに限らず、底辺の刀鍛冶でもその気概はあったと思われる。ただ、名工と凡夫・
底辺の刀鍛冶との違いは、人格や力量、更には技術的な知識の差が掛け離れていたこともあるが、刀剣を打ち出す根本になる玉鋼(たまはがね)の質の差もあったようだ。

 玉鋼とは、簡単に言えば日本刀の製作に用いる、砂鉄をとかした鋼のことである。
 日本刀を造るには、地鉄は古来より玉鋼
(千草産の砂鉄で鳥取県鳥上村で堀出した砂鉄の玉鋼)が用いられた。これに皮鋼鉄、また心鉄は包丁鉄という柔らかい鉄を加えて三面併せ構造にて全体を鍛え、整えて行くのである。
 更に皮鉄は出羽鋼を造る時にでるヅク鋼鉄などを加える。
 刀剣製作工程は次の通りである。

砂鉄
玉鋼の材料であり、砂鉄には、少しばかり錆びて複雑な組成を為す赤目鉄と、キラキラ光る真砂鉄とがある。
玉鋼
タタラという製鉄炉を三日三晩、木炭と砂鉄を交互に投入して燃焼させ、最終的には炉床に溜まって出来た約畳み二畳ほどのケラという鉄塊が出現する。それは暑さ30センチ、総量が約2屯程度である。この鉄塊を砕き、その中から良質の物を取り出す。その場合、見分けのポイントは砕いた部位の色や良質の物だけを採る。これが玉鋼であり、刀剣の刃鉄となる。
包丁鉄
刀の部分で刃ではなく、刀の芯に当たる部分のに遣われる軟らかい部分の芯鉄(しんがね)を作る。これは低炭素の錬鉄である。これは一級品の玉鋼を選別した後の、残り鉄で作る。
古鉄
釘や鋲(びょう)、古金具、壊れた鎧の鉄の部分などの古鉄を材料にしたものである。こうした古い鉄を混ぜないと名刀は生まれないと言われている。よい切れ味を追求する場合、鉄の複雑な結晶構成が不可欠であり、この組成により名刀が生まれるとされる。鈍刀か名刀かの差は、鉄の複雑な組成構成にある。名工はこの結晶組成の秘密を知る者が名人となれる。
洗鉄
タタラ作業の初期段階に出来るズクといわれるもので、よく溶解した鉄のことである。この鉄は鋳物の鍋や釜にも使用される鉄である。この鉄に卸し鉄処理すれば、鎌や鍬、鉈(なた)や斧(おの)などが出来る。農鍛冶師や馬車鍛冶師はこの鉄を主に用いる。よく溶解した脱炭状態にすれば、鉄の農機具だけでなく、馬車の車輪の輪っかの最外郭の外輪部に巻く鉄の輪っかや馬の馬蹄鉄になるだけでなく、その鉄を使用した刀にもなる。
 つまり、鈍刀の類
(たぐい)である。十六世紀前後の戦国期、雑兵の刀などが、このレベルの簡易製作の刀であり、贋作はこのレベルの刀に仰々しい銘を刻み込んだ物もある。
卸し鉄
古鉄ならびに銑鉄を加熱し、加炭あるいは脱炭処理して鋼としたものを言う。良質のものは刀の芯になり、その他の物は鎌や鍬、鉈や斧となる。勿論、量産が可能なので、身分の低い武士の刀にしたものもある。
玉鋼ヘシ鉄
刀鍛冶が火床(ほど)という炉で玉鋼を鍛錬する。この鍛錬は、槌で叩いて圧延したものを言う。
割りヘシ
ヘシ鉄を割り、切り餅状態にしたもの。これを無作為に重ね合わせて行く。こうすることにより、材料の平均かが行われるのである。
積沸かし鉄
割りヘシを梃台に無作為に載せて積み重ね、泥水を注ぎ、藁灰を掛け加熱する。この加熱を「沸かす」という。この場合に泥を掛けるのは、加熱して場合に不必要な参加状態を防ぎ、また炭素の増減を防ぐためである。
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折り返し鍛え
積沸かした鉄を15回折り返して鍛える。15回折り返すということは、「二の十五乗ということで32,768枚の層」が出来ることになる。
 しかし、折り返しの手間を省いた刀工も居たらしく、15回を二、三回で止め、鍛える際に地肌に出来る鍛え疵すら見えないものもある。鈍刀の類である。世に出回っている多くの愚作は、折り返し鍛えが充分でない。焼刃の焼き入れはなされても、鍛えが足らないことから、そのために美的な鑑賞に耐えられる物が少ないと言える。
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荒鍛え延鉄
折り返し鍛えを圧延する。更にこれを短冊状に切る。この切った鉄片を「拍子木」という。
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拍子木
荒鍛え延鉄を拍子木にしたもの。
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仕上げ鍛え
刀の刃線に対し、拍子木を直角に並べて行く。荒鍛えで延ばした方向とは逆に打ち延ばして行くことで、均質化が図れるのである。これはまた鋼の組成上においても、強い素材を得ることが出来るのである。
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甲伏せ鍛え
皮鉄の製作のことで、包丁鉄や卸し鉄などを使った刀身部分の比較的軟らかい部分に皮鉄を被せる。そして、これを縦方向に延ばして行くのである。
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素延べ
甲伏せ鍛えを焼き、打ち延ばし、刀の原型を作ったものを素延べといい、素延べの状態で止めてこれに研ぎを入れた物を「素延べ刀」という。
 かつてはこのレベルの刀に、教育委員会文化財保護課は登録証を付けていたが、今日では美術的価値は皆無とされ、登録証の発行は難しくなった。素人愛好家が持つ刀剣類には、この種の刀が非常に多い。
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荒仕上げ
刀身の形がほぼ出来上がると、刀身全体に粘土を塗る。この粘土を焼刃土(やばつち)という。刃になる部分の粘土は剥がすか、薄く塗られ、身の部分は粘土で包み込まれる。例えば、「丁字乱れ」などの複雑な刃文を描く時は薄い粘土の上に、更に細かい液体状の粘土で巧みに線を描いて行く。その後、約780度で均等に加熱し、のち一気に水で急冷する。これを焼き入れという。
 現在では、現代刀作家の多くは、この温度を800度前後に設定しているようだ。
 したがって、焼きの入った物と素延べの物とは根本的に異なるのである。素延刀は焼きが入っていないために、刀に見立てる場合は研ぎ師が、刃文のような波を研ぎ段階で付けていく。素延べ状態と荒らし上げ完了の状態では、大いに異なることを認識すべきであろう。したがって素延刀を再び研ぐと、これまで“砥石粉”や“角粉”や“いぼた”で、素人騙しに描かれていた波紋は完全に消える。要するに、刃がないのである。刃がないから切れ味が悪いだけでなく、切れないのである。へこんだり曲がったりする。ただし、畳表を束ねて水を充分に吸わせた畳表蓙なら、大根を切るのと同じだから、斬り方がよければ切れるだろうが、竹は切れずにへこむ。また、火事などで刀身が焼けてしまった刀も同じである。銘のいい名刀でも、焼け身の刀は鈍刀となる。この鈍刀に顛落した中茎を、似た刀と中茎をすり替えて巧妙に贋作に仕立てた物もある。

 一方、荒仕上げまで進んだ刀は焼き入れによって得た「刃」を持つことになる。
 刃が得られる原理は、粘土の薄いところは激しく冷やされ、厚い部分はゆるやかに冷やされる。そのために折れ難い刀身が出来る。更に、その境目に刃文が生まれる。この刃文は単に美術的な装飾ではない。波形の刃文は折れ難い軟らかい部分と、切れ味の鋭い難い部分が綯い交ぜになっていて、接触面積を増やすことで刀身が刃を抱き込むという構造になっている。そのために接触面積が大きければ、それだけ切れ味がよくなり、刃こぼれも少なく、然も折れ難いという働きが生まれる。
 そして日本刀を最も美的にしている最大の特長は、焼き入れの瞬間に刃文と切れ味が決定され、それは同時に刃文の美しさということになる。故に、古来より、焼刃土の作り方や塗り方、更には焼き入れの温度などが地域ごとの各流派の秘伝とされ、秘伝の奥義を極めた人物が名工というと頂点の一握りだった。

 以上の刀剣の製作工程を追えば、日本刀はどのようにして造られるかだけでなく、刀工の技術的な技巧やその時の精神状態がどのように非ねばならないか、また、それをコンスタントに維持するためにはどのような人格を身に付けねばならないかということが分かろう。単に職人というだけでなく、職人の域を超えた人格者の域に到達しなければ、名工とは言えないのである。
 つまり、肉体だけでなく、心の領域も大変な心労を齎
(もたら)す訳だ。

 この状況下で、決して長生き出来る生活環境であったとは言い難い。寿命も、他の職業に比べれば、決して長いとは言えないのである。これから察すると、一人の刀工が、“華”といわれた時期は、どのくらいであったろうか。
 華をピークにした場合、それはほんの束
(つか)の間の期間ではなかったのだろうか。
 それにしても不思議である。
 人間の格と言う、ランクがあるからだ。
 刀剣という同じ物を造りながら、刀剣の工程手順を同じように分で造るのだが、それでも差というものが出る。何故だろうか。

 これは、例えば医者の世界に喩
(たと)えれば、明白になろう。
 日本では、医師になるためには医学部の全課程を終え、医師国家試験という、凡人には想像も付かない難解な試験に合格しなければならない。その難関な試験に合格したのだから、その合格者は誰もが優秀な医師だと思い込む。確かに難関試験を合格するのだから、学力知力共に優秀だろう。それなのに、やはり名医とヤブ医者が出現する。それに国公立病院のヤブ医者が、収賄に手を染めれば、眼も当てられなくなる。
 これは刀剣の世界でも同じだろう。名工とボロ刀の作家の違いである。
 このことからすれば、例えば東大という大学は最高学府の中で、日本中の大学を代表してその頂点に立っている。それだけに優秀な学生が殺到し、難関を突破して入学できれば、取りも直さずエートとなる。日本でも少数の、超エリートということになる。秀才というより、知力の域では天才というべきかも知れない。その他大勢から、山の頂上を見上げられるような羨望の主であり、まさに天才の名を恣
(ほしいまま)にしている。
 ところがである。

 こうした難関校の頂点に一握りに選ばれた、超エリートの中にも、ある一定の割合でクズかいる。クズが出るのは、一種の確率論である。この論理の確率に遵
(したが)えば、東大出身者という超難関の出身者が、卒業後殺到するのは国家第一種試験を合格して入所する大蔵省だった。
 戦後は、この省は「省の中の省」、といわれ、大蔵官僚は「官僚の中の官僚」と呼ばれた。それだけに、ここに集まった国家第一種試験の合格者の大蔵官僚は、まさに秀才中の超エリートであり、エリート中のエリートだった訳である。今日、この省の後継官庁は財務省である。
 大蔵省が権勢を揮っていた時代、超エリート集団だった大蔵省にも日銀にも、贈収賄などの不詳事を引き起こして指弾されるクズはいた。歴
(れっき)とした東大法学部出身者である。
 一体これは何を物語っているのだろうか。

 それは、人間の知能程度とモラルは、必ずしも一致しないという事実だった。知能程度とモラルは無関係に、常に一定比率で、どうしようもないクズ人間がいるということだった。
 この、どうしようもない人間は、何処の組織にも一定比率いるということが、今日では確率論から明白になった。
 今では、悪を憎み、正義を掲げる警察官の中にも犯罪に手を染める、どうしようのないクズ人間は居るし、裁判官にも、検事にも一定比率で、どうしようもないクズが居るということだ。
 組織とか集団というのは、こうした弱点を抱えている側面があるのである。職業で、善悪は判明ならびに分類が出来ないのである。

 更に、もう一つ。
 この世の中は賢人によって、いい方向に導かれているのでなく、愚人によって動かされているということだ。世を動かすのは、賢人ではなく愚人なのである。日本では政治家が政治屋と侮蔑されているが、この政治屋の正体こそ、愚人ではないか。この愚人が世の中を仕切ってるのである。そして、愚人は愚人の策で動く。
 世はまさに愚人の策によって動かされているのである。
 例えば、贈収賄事件である。
 この事件の成立は、贈る側と、贈られた物を収める側が居て事件を構成している。
 賄賂を贈るという、この策は愚人の策である。愚人が愚人を知るが故に、愚人に賄賂を贈るのである。

 賄賂……。
 一般に賄賂といえば、金品を想像する。しかし、賄賂はこの限りではない。接待も賄賂の一つであり、更に接待に絡めた色の贈与もある。つまり、女好きの収賄者には女を抱かせ、男色好みの収賄者には美少年を色で奉仕させて、跡が残らない巧妙な遣り方で、収賄側に受け取りを完了させる。これだと、金品という物でないので跡形がない。事件にもなり難いし、事件を立証する方も、その立証が難しい。そこで、金・物・色の三つのうち、「色」を贈呈するのである。
 色に転ぶ人間は多い。金品より、むしろ色に転ぶ方が多いといえるだろう。
 したがって、金品を収賄側に贈呈するというのは“愚人の策”でない。むしろ「痴人の策」というべきであろう。痴人とは、単なる愚か者ではない。戯
(たわ)け者ものである。バカである。また、バカだから捕まる。

 ところが愚人は厳密にいえば、バカではない。バカの領域に含まれるようでは、愚人といえない。それは痴人である。
 愚とは、「くだらないことをする」とか、「遜
(へりくだ)る行動」に宛てられたもので、この「くだらない」が、実は「遜っている」ので、この構図から検(み)ると、自分または自分に関する物事を遜って行ったり、それに準ずる行動をするので、このしたたかな構図の中に、愚人が、愚人を反応させる、「快い、心憎いまでの、魅了する何か」が伴っているのである。この「何か」に愚人の策は、愚人を誘惑する上で、絶好の形を極めるのである。
 愚人の策とは、愚人を知る知者が、愚人を加工処理する場合に使う策である。その策にまんまと絡め捕られてしまうのが、収賄側の愚人なのである。よって、これを「愚人の策」という。
 これだけで、世の中は愚人によって、愚人の策によって動かされているというのが分かるであろう。
 つまり、愚人の策に動かされる、知的集団の中にも、ある一定の比率で、どうしようもないクズが存在しているということだ。

 それから考えれば、刀鍛冶の中にも、大業物を造り出す名工が居る反面、鈍刀しか造れない“凡の才”しかない刀工も存在したのである。
 そして、日本刀作家の場合、時代物を研究すると、凡才が凡才の域でじっとしていればいいのだが、凡才が「愚人の策」に誘惑されて、贋作を作ったり、後銘を刻んだりと、奔走して、後世の人間を誑かす現実を作り出したということだ。迷惑至極のことだった。
 勿論この中には、誘惑などものともせず、自ら進んで贋作を作り出した愉快犯的な刀工もいたであろう。

 だが、本当の問題は此処にあるのではない。良心の呵責というモラルである。そこに問題がある。
 日本刀の場合、凡の才しかないくせに、これに名工の銘を刻んだという、恥の上塗りをしたことだ。贋作は名工の名を騙った、一種の恥の上塗りである。
 この“恥の上塗り”は、日本刀に限らず、美術界全般にも言えることである。
 一体この恥の上塗りは、どういう発想から起こったものだろうか。それが、またサムライの魂を担う輩
(やから)が遣ったのだから、余計に腹立たしい。日本刀は武器であるばかりでなく、古来から観賞用として、また心の拠(よ)り所でもあった。その心を穢したのである。この穢した罪は、法で処罰出来ないだけに、大きいと言えるだろう。贋作者は、自らの心までもを知らずか知ってか、紛れもなく穢したのである。
 法というのは、小さな罪は罰することが出来るが、大きな、不可視世界まで及ぶ広範囲の巨大なものは罰することが出来ない。しかし、罰されないからといって、その穢れと罪は消えたのではない。

 単に、本物とそっくりのものを造り、悪戯を楽しんだのか、自分は本物を超えていると自負的に思い込んだのか、あるいは後世になって、面白半分に本物と贋作の境目を混乱させて痛快がる愉快犯的発想があったのか……。
 これこそ、人間の棲む、善悪綯い交ぜの世界である。何処の国にも、何処の国民にも、何処の分野にも、何処の組織や集団にも、善だけで固められているとか、悪だけで固められているといった、片一方に偏った人間集団はない。善が半分居れば、その分だけ悪も居る。したがって、仮に暴力組織にも、ここに属しながらも筋道を通し、善と仁義を貫く人間は居る。堅気以上に真正直な人間も居る。ただ、それ全体が表面的に見て、悪だと思い込まれているからである。しかし、犯罪組織や暴力組織を奨励したり持ち上げているのではない。
 組織や集団内の人間分配の比率を言っているのである。

 それに加えて、美術界全般の贋作の出現数の比率を言っているのである。
 贋作は本物の作者に迫るものだったとしても、それを“騙す”という域で製作したのなら、やはり恥の上塗りをしていることになる。
 何故ならば、例えば正宗や虎徹のような大業物を造り出し名工が、他の時代の名工の真似をしてその贋作を造ったという話は聴かないからだる。側面には人格がそうさせないモラルを宿していたと言える。このモラルが欠如すると、東大法学部の出身のくせに、贈収賄に手を染めるという不祥事を起こすクズ人間になりさがる。

 ある刀工が顧客から誰かの贋作を造って欲しいとか、既に出来上がっている刀剣の中茎に後銘なりをして、銘を刻んで欲しい、あるいは中茎をすり替えて欲しいと頼まれて、これを受けるか受けないかは、やはり刀工のモラルであり、また依頼者のモラルであろう。贈収賄事件は賄賂をもらう側だけで成立しない。贈る側が居て始めて贈収賄となる。公務員あるいは仲裁人が、職務に関して賄賂を収受・要求・約束する罪を収賄罪という。東大法学部出身者ならば、もうした人間のモラルに問う犯罪ことぐらい識
(し)っているであろう。それでも遣る。犯罪てあると知りながら、それでも遣る。こうなると、知能程度云々ではなくなる。人間性だ。
 贋作を偽造した主も、自身のモラルに問い、遣るか遣らないかは、知能程度や技術力ばかりでないはずだ。つまり、人格を含んだ人間性である。
 名刀は作品の出来映えだけでなく、その側面には作者の人間性も同時に評価されているのである。

 さて、刀と剣は異なる。
 一般に刀を用いる術を「剣術」と呼称しているが、刀であれば、剣術ではなく『刀術』と言わねばならない。それは、刀が『反り』というものを持っているからだ。
 反りとは、大刀・刀・脇差・短刀などの、刀身が湾曲している部分を指し、尖先
(鋒(きっさき)とも書くが此処では“尖先”の字を当てる)の先端と棟区(むねまち)とを結ぶ直線と、刀身との距離が最大の所をいう。しかし、剣は反りがなく直剣である。諸刃(もろは)の太刀、あるいは“つるぎ”をいう。『万葉集』には、両刃の剣を“剣刀(つるぎたち)”と表現している。

 だから、刀の場合、剣術ではなく、『刀術』というのが正しい。この術を使う法を、また『刀法』ともいう。
 剣道は反りのない竹刀
(最近では高級竹刀に、断面が楕円で、反りのある物もあるようだが近年のものである)を使っているので剣道でも構わないが、木刀などの反りのある得物を使って、主に“斬る”を主体におき、次に“突く”であるから、やはりこれはどう考えても、反りを利用しての斬るだから、刀術の術理が刀には根底に流れている。

 昨今、韓国では剣道の起源は日本ではなく、韓国である……などと豪語している韓国人スポーツ専門家が居るが、反りがなく直剣を用いるのなら、これは日本のものでなく、韓国のものであろう。
 日本のものは、反りのある刀を使うから剣道ではない。全くの刀術である。正しくは刀術である。
 古流の剣は、剣と称しながらも、刀の形を模倣した木刀を使って来た。これは直剣の“木剣”ではない。日本では、近代幕末に起こった北辰一刀流の竹刀剣道が主体になったため、これを剣術の創意工夫した最終段階のものと思い込んでいるようだが、日本刀を使って、刀術か剣術かとなると、やはり刀術というのが正確を期しているだろう。その特長は「反り」にあるからだ。この点は、剣と大いに異なるのである。

日本刀の持つ独特の反り。

 日本刀はその特長として、中国大陸や朝鮮半島系の刀剣と異なり、「反り」というものが日本において発明される。剣に、反りを持たせたのである。これが日本刀の始まりだった。大陸や半島の物でない。
 この地域には、『武備志』が物語るように、“大陸では刀は廃
(すた)れた。刀術は日本に伝えられた”と記すように、大陸や半島には反りのある刀というものは既に絶えて久しいとされ、この中には猿が刀を握って組太刀をする得が記されている。『武備志』自体が何処まで信用出来るか分からない書物であるが、少なくともこの書物は茅元儀(ぼうげんぎ)が1621年(明・天啓元年)に完成させた兵書であるといわれている。それに猿が刀を握る図が示されている。猿が握っているのは剣でなく、反りのある刀である。
 となれば、刀は日本独自の発明器具ということになる。その発明たる所以は「反り」であろう。

 この「反り」というものが、日本刀の特長を代表しており、また、それに伴う刃文という考え方も日本独自のものである。反りにより、引いて「斬る」という技術が生まれたのである。
 太古は中国大陸から半島経由で日本に持ち込まれた銅鉾
どうほこ/青銅製のほこのことで、古代中国で発達し、日本には弥生時代に朝鮮半島から伝来した。特長は下部は筒状で、柄を挿入するようになっている)からはじまり、やがてそれが鉄製に変わり、原史は剣の形態をしていた。刀にはなっていなかった。斬るというより、突くことを目的にして造られたものだった。

 そして剣が、日本において「反りのある刀」へと日本独特のものへ発展する。
 そこに日本刀の歴史があるのである。同時に日本刀の歴史の中には時代区分があり、これが古刀期、末古刀期、新刀期、新々刀期、そして現代刀期という時代を経た。時代を経ている以上、時代の流行や必要に応じた刀姿が生まれたのである。これが日本刀をはじめとする刀剣類の特長である。

 つまり、刀剣類には時代があり、その時代時代に応じて持ち主も変わり、所持者の扱い方も異なる。
 その時代の生
(うぶ)のままの物もあれば、生中茎うぶ‐なかご/茎または中心)から擦り上げ(磨上(すりあげ)をして、無銘刀になる場合や脇差しなったり短刀になったり、あるいは薙刀や槍になる。こういう代物は譬えそれが本物だとしても評価の三分の一が妥当)などをして、生が失われている場合もある。
 有銘であっても後銘であったり、偽銘であったりする。研磨状態も含まれる。並みの研磨か、あるいは上研磨でも、その見栄えは大きく違って来る。研ぎが悪くて審査に不合格になるものもあるし、再度上研磨で提出したら、合格した物もある。審査員の見立てによるのだ。
 また、価格は刀剣本の著者の金銭感覚によっても異なり、これは書かれている額面通りには信じ難いものである。

 ところが、素人は信じ難い高値の額面を、額面通りに信じて疑わない。そして譲らず、他人の物を貶
(けな)し、自分の物をとことん持ち上げ、自慢する。その暴言、実に聞き苦しいだけでなく、嫌味が鼻に衝(つ)くから非常に困ったものである。旧マル特以下か、保存刀剣程度の物を所持する刀剣愛好家には、この手の人が多いようだ。
 また、素人愛剣家ほど好き嫌いが多く、自分の好みで批評するのである。偏りも甚だしく、聴いていて苦笑しそうになる。偏りが著しく、自分の物を自慢し、他人の物を卑下する素人愛剣家は敬遠すべきである。先入観で汚染されている愛好家を近付けては百害あって一利無しなのである。

 そして、まだある。
 それは素人刀剣愛好家が、某かの発行する認定書に信頼を置いているが、刀屋の場合、認定書は売り易くするための、「お品書き」であり、こうした鑑定書の類をあまり信用していない。鑑定書自体が偽造されている場合もあるからだ。
 刀屋が鑑定書や認定書を添えて販売するのは、本物を保証しての販売ではない。贋作や偽物の類と知りながらも、売るのは、打った側の責任を少しでも回避するためである。

刀剣商売は認定書が付随してこそ、売買が成立する。素人刀剣愛好家を相手にしているからだ。
 この図式は、素人は認定書に信頼をおくが、刀剣商は認定書を疑う。この違いで、刀屋商売は成り立っている。ある意味で売る側は「認定書さまさま」なのである。

 素人は自分の購入した刀剣類に自慢するお品書きが必要であり、これは友人や周囲の人に、自分という人間に“一目をおかせる”という証明書が必要なのである。酷な言い方だが、その意味で日本刀に付随された認定証や鑑定書は、素人が素人に自慢する好都合な材料になり得るのである。
(写真は財団法人・日本美術刀剣保存協会の『旧甲種特別貴重刀剣』であることを認定したものである)

 例えば、買い主が認定書の付いた日本刀を買って、これを再審査に出し、それで不合格とか贋作だと言われるようなことがあっても、自分はこれを認定書通り本物として売りましたというだけである。絶対に鑑定書や認定書が偽物で……などとは、口が避けても言わないのである。知っていても、知らない振りをする。
 事実、それが分かっていて売る刀屋がいる。素人はこうして騙されるのである。

 そして未だ分からないのがある。
 それは、素人刀剣愛好家という、50万円以下の物を蒐集
(しゅうしゅう)する連中である。多くは剣道愛好者とか居合道愛好者の人達である。
 こうした人は、私に言わせれば、模造居合刀がお似合いなのだが、武道をしているという自負心から、美術的な眼が養われていないのに、やたらと真剣を所持したがる人がいる。
 昨今の武道愛好家という自称武道家は、大半が美術的見識を欠いている。分類すれば、眼を持つ人と眼を持たない人に分かれ、後者が圧倒的に多い。また、二足の草鞋を履くサラリーマン古物商も、大半は後者に入る。要するに、好きが高じて……という素人だ。

 時代でも、古刀でなければ駄目とか、逆に古刀、末古刀、新刀、新々刀などの刀剣を「中古」と看做
(みな)し、中茎(なかご)が光った現代刀でなければ厭(いや)だという愛剣家もいる。すなわち、「時代物」を中古と言って憚(はばか)らないのである。
 したがって、中古は、あたかも中古車を見るような目で卑下し、時代物をボロ刀と一蹴して、侮蔑的に見る愛好者も居るのである。つまり、骨董品嫌いなのである。古い時代に置き忘れてしまったようなガラクタを汚れて穢いと検
(み)るのである。古き良きものの良さを知覚出来ないのである。ゆえに中茎がピカピカに光っている現代刀がいいとまでいう人が居る。

 “人さまざま”というが、本当に人の世は善悪綯
(な)い交ぜであり、そこに棲(す)む人間は、ろくでもない世界にそれぞれの文化と社会を形成しているとつくづく考えさせられるのである。生(お)い立ちや生活環境によって、人格が出来上がっているようだ。同じ国民性、同じ人種でも、これほどまでに違うのである。

 ただ、その中でも共通していることは、刀剣を所持する大半の愛好家が偏った考え方で、刀剣類を蒐集しているということである。
 つまり、プロとしての刀屋感覚ではなく、好みで蒐集しているということであり、そこに個々人の個性が出て、その個性を巧みに読み取りながら、愛剣家に刀剣類を売りつけるというのが刀屋の腕でもあるようだ。
 買い手と売り手の構図は、こうして構成される。

 刀剣会など競りに集まる刀剣商は、競りに出された代物を見るとき、その刀剣類はいい物か、悪い者かは問題ではない。
 まず、客の顔を思い浮かべ、その客の好みを計算し、こうした物を材料にして入札して来るのである。幾らいい物が出たからといって、それを安易に買うことはない。まずは客の顔であり、客の好みである。そうした客に思い当たらない場合、刀剣商は入札を行わないのである。刀剣商は、刀屋商売はコレクターではないからだ。



●刀屋という小さな覗き穴

 刀屋商売とコレクターの“けじめ”が出来ない場合は、刀屋失格である。
 刀に魅入られて、店を潰しかねない。刀屋は自分の好みで仕入れてはならないのである。売れるか売れないかではない。自らの顧客の中で、どれが向き、どれが向かないかそれを把握し、巧みに売り捌くことが出来なければ、商売上手とは言えない。単に、素人レベルの“好き者”だけでは刀屋は成立しないのである。

 これまでの刀屋人生を振り返り、では自分はどうだったか?……というと、私は好きが高じて刀屋になったのだから、趣味半分、商売半分でやってきたように思う。半分以上は刀屋失格であったかも知れない。
 時には趣味が突出して商売にならないこともあったと記憶している。刀屋としては、決して上手な方ではなかった。
 ただ、一つだけ美点を上げるなら、刀屋には程遠い、お人好し商売を展開したことだ。
 分割にしてくれと懇願されれば、無利子で分割にし、負けてくれと言われれば、定価よりもやや値を下げて、良心的な値段で、愛好者に提供したと思っている。あるいは仕入れ相場を切ったこともあった。支払いに窮したときはいつもこうなる。商売が下手といわれればそれまでだが、下手は下手なりに急場を凌がなければならない。

 そのうえ刀を、分割購入に応じて、最後の一回分か、二回分を踏み倒され、泣き寝入りしたのだから、お人好しも此処までくれば天然記念物ものである。
 しかし、これで完全に刀屋失格とは思わない。何とか遣ってこれたのだから、踏み倒されたのは、心貧しき物への“人助け”だったのかも知れない。あるいは人間学を学ぶ、授業料を払って来たのかも知れない。施しをしたと思えば、意に介すことはない。

 私の場合、授業料とか月謝を人一倍多く払って来たことは否めない。そして、こうした高額な授業料を払いながら、私が「確
(しか)と見た」のは、人間には恥を知る者と、恥知らずが居るということだった。この違いを見ても、人間には格があるというのを思い知らされるのである。
 恥を知る者と恥知らずでは、人間としての格が雲泥の差があるということだった。
 大人
(たいじん)と小人(しょうじん)の差と言ってもいい。あるいは礼儀を知る者と、礼儀知らずの差と言ってもいい。これが分かっただけでも大きな収穫だった。
 金を毟
(むし)り取られたというより、施したという気持ちが大きい。
 だが、施しにも限度があろう。貧者の嘆きだ。
 では、この嘆きは何処と連結されているのか。
 この根幹には、恥辱というか、恥辱に対する意識が欠如していると言い換えても言いだろう。現代人には、恥辱意識が欠如しているのである。

 どこもここも「匿名」という卑怯で汚らしい行為が罷
(まか)り通っている。わが名を隠して他人を誹謗する。こうした行為が、あたかも認知されたように蔓延(まんえん)しているのである。
 誰もが自分の名を明かさず、堂々と卑怯なことをするのである。これはこれまで「尚武の国」と自負した日本が、また日本人が「おかしくなった」という証拠でもある。

 日本人がおかしくなった……。
 この事実は隠せないだろう。
 確かに日本人はおかしくなっている。そして「おかしい」という自覚症状すら持ち合わせないのだから、処置なしである。手の施しようがない。狂いの極限までいくしかないだろう。

 今の日本人は、匿名で、堂々と他人を論い、批評し、然も自分の名を明かさない。汚いという感覚より、意識がズレているという気がする。匿名を自己主張の道具にしていること事態が、訝
(いぶか)しいことで、こうした背景を作り出したのは、マスコミの仕業である。マスコミが、無垢な人々を意図的に誘導し、こうした「おかしくなる」現実を出現させたのである。
 あるいは、匿名・匿名・匿名……の、ストーカー的犯罪を間接的にマスコミが奨励していることになる。マスコミの左に傾き、進歩的文化人と結託したマスコミ垂れ流しの犯罪足跡は少なからぬものがある。

 卑怯が当然の世とする。現代はそう言う世の中だ。誰もが卑怯で匿名を楽しんでいる。
 常識を阻害し、非常識であることが自己主張の特権であると教え込む。
 これは、どこかおかしい……。
 誹謗中傷して、恥じぬ人間ばかりとなり、恥の垂れ流しを誰もが間接的に遣っている。便所の落書き程度という軽い気持ちで、好き放題を垂れ流す。その一方で、言葉が穢
(けが)されてていることを知らない。言霊がねじれていることを知らない。
 罵詈雑言は、一方で言霊を汚染し、自信の霊的感覚や霊的神性を狂わせているのである。その狂った証拠が、今日に見る日本語の極端なねじれであり、意味不明な日本語の流行である。

 その最たるものが、「こだわる」という、非常に奇妙でおかしな日本語の使い方である。
 この意味は、“拘泥”だから「小事に執念を燃やすとか、小さい事に執着して、重箱の隅を楊枝でほじくるようなことばかりをして、大事を見逃し融通が利かないこと」をいうのだ。これを料理人や美術工芸の職人までもが頻繁
(ひんぱん)に使い、その類までもがテレビらラジオに出演して、乱発に乱発を重ねている。

 マスコミがこうした言葉を大衆に向けて流行させたのである。テレビでもNHKをはじめとして、堂々と恥も外聞もなく、奇妙な日本語の「こだわる」という言葉を垂れ流している。言霊穢しの垂れ流しだ。
 垂れ流した方も、その罪の意識がない。自分の吐いた悪態の、自覚症状にも気付いていないのだ。そして二言がある。
 これは与野党の政治屋を見れば明白である。
 日本と言う国には、政治家は居ないが、政治屋は居る。二枚舌の政治屋は居る。公約を覆
(くつがえ)す政治屋は居る。ウソをつく政治屋は居る。未だに政治家不在である。

 恐ろしい現象である。
 言霊が狂う恐ろしい現象である。
 それを、かの天下のNHKが先頭に立って、この「おかしな日本語」を流行させているのである。一般大衆に向けて、無垢
(むく)な視聴者に向けて、である。
 これこそ、「大衆洗脳」ではないのか。こうしたことが、公共の電波を使って垂れ流して、許されるのだろうか。
 それに視聴者も「天下のNHKさま」には、絶大な信用と信頼を置いて、疑おうとはしない。楯を突くなど、畏れ多いことだと思っている。「天下のNHKさま」が遣ることは総て正しいのだと思い込んでいる。

 一般大衆の洗脳……という次元を考えた場合、天下のNHKのやらかしている、奇妙な現代流行語の垂れ流しは、極めて民放以上に悪質と言わねばならない。
 その悪質は報道を垂れ流しつつ、国営放送の顔をして、一般大衆の多数から「視聴料」を徴収しているからである。
 国営放送でないのにも関わらず、視聴料を徴収した上に、奇妙な流行語を流布する……とは、何とも不可解ではないか。
 第一、国営放送のような、そうでないようなポーズは絶対に訝
(おか)しい。国営放送なら、国営放送と、毅然として名乗るべきだ。そう名乗った上で、正しく一台のテレビにつき、それに準ずる視聴料を徴収すべきである。このことを、現在抜け落ちている電波法に明記し、これは法律であるのだから、当然不払いの不正視聴者に対しては、窃盗と看做し、厳しく厳罰の処すべきである。
 ところが、分かっていて、これをしない。なぜか!

 おそらく「わが社は国営放送だ!」と名乗ると、どこか都合の悪いところがあるのだろう。
 一方で電波法を作らせておいて、国営放送の仮面を被り、片方で民放の仮面を被って、あたかも「あるときは国営、あるときは民放」という二つの仮面を使い分けているのである。また私の知人の、民放に勤務する人から次のようなコメントが入った。

私は民放の報道部勤務です。NHKには常に政府と連携がとれる体制がネットワーク(イントラネット:専用通信網)で構築されています。政府から専用通 信網を経由して政府関係の報道の仕方とかも指示しています。そのため政府の都合のいいように報道できる訳です。毎回NHKが行っている世論調査も あれは政府が操作をして実際には調べないで政府関係が勝手に出した数値を公表しています。またNHKは政府に関わる番組は全て政府が管理し放送前 には政府関係者に見せてOKが出れば政府機関と一緒になり放送日程を合わします。つまりNHKは政府とグルになっていると言うことです。つまり NHKはNHKと政府の都合が悪くなることはウソの内容を報道します。

 報道の世界で、こうした告発があるというのは、腹に何かを含んでいる。国民に明かせない何かを隠している。一般国民には分かり兼ねる政治屋間の特別な仕組みがあるのだろう。それにNHKは加担していることになる。そして、都合が悪くなれば二つの仮面を被り分けて、国民を欺くのである。

 もしこの方針に現政府が加担しているとするならば、匿名は政府奨励で行われていることになる。これで法治国家か。これでは自称であっても、法治国家が聞いて呆れるではないか。
 これは匿名で便所の落書きをする、その程度の人間の安易な思考と、五十歩百歩ではないか。

 昨今は恥知らずの時代である。
 これはネット掲示板の「2ちゃんねる」を見れば一目瞭然であろう。ここには匿名で、恥知らずな、無責任な、“便所の落書き”のようなことが書き込まれている。住所・氏名・年齢・電話番号・メールアドレス・職業の、人間として正々堂々として名乗らせるフォームがないので、罵詈雑言が好きなだけ書けるのである。卑劣といえば卑劣である。だが、卑怯
(ひきょう)を行い、卑劣を行うのは、何処の世界にもある。

 これに似た側面が、実は刀屋人生で観て来た世界の中にも存在していたのである。刀屋という覗き穴から見た人間模様は、またネット掲示板の無責任さと酷似するのだった。
 便所の落書きは「2ちゃんねる」だけに存在するのでなく、あらゆる世界に存在するということだった。そして、よく考えれば、恥知らずは確率的に言って、ある一定の比率で、どこの世界にも、どうしようもないクズが寄生しているということだった。
 ただ、現代という時代は「吹き溜まり構造」をなす掃き溜めがあり、此処にオタクが巣食う“オタク構造”が出来ているので、類は友を呼ぶというか……、友は類を呼ぶというか……、双方が引き合うオタク構造が出来ているので、それらが共に引き合い、吹き溜まりを作って、便所の落書きの共同製作をしているというのが現実である。
 これこそ、これまでには見られなかった新種の人間模様である。あるいは珍種というべきか……。

 刀屋よ何処へ行く……、という前に、日本国民よ何処へ行くといいたい。
 かつて、日本は世界から尚武の国と賞賛された。また、日本国民もこの自負を少なからず持っていた。自称であったかも知れないが持っていた。しかし、今はその面影すらない。残念なことだ。
 しかし、かっては“尚武の国”と自称した日本の国民ならば、この「尚武の精神」は何処へ行くといいたい。いったい何処へ行くのだろう。
 嘆きは、亡国と結びついて脳裡を離れないのである。



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