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刀屋物語 4

日本刀は刀工の人格が顕われるものである。刀剣の作位や価格は、人格的上位であるばかりでなく、技術的かつ美術的な、こうした面も備わらないと、日本刀の世界では美術的鑑賞に耐えられないとなってしまう。
 これはちょうど、大相撲の力士で、人格は良好で礼儀正しく、人格面では文句の付けどころがない力士でも、相撲をして負けてばかりでは人気が出ず、ファンが付かないのと同じである。



●日本刀の鑑定価格

 さて、下記は大まかな価格であり、これは飽くまで参考価格である。価格に、これ以下はあっても、これ以上はない。ある意味で架空の物だ。娑婆の物価価格が反映しての、刀剣業界が付けた架空の物である。全世界に通じるものでない。またこれから先きにも通用するものでない。今の世の、物価に反映した、「とりあえず」のものである。物には価格が必要であるからだ。
 また第一位から第二位までの分類も、参考としての分類に過ぎない。
 現実には、売り手と買い手の値段が折り合わなければ、商いは成立しないから、流れた場合はこの限りでない。そもそも美術品とは、実際に造った刀工の売値を反映したものでなく、外野の刀屋どもが勝手に付けた物である。先きにも、大いに変動があろう。一応の参考目安である。

官民別
美術保護等級
管理階層
第一位から第二位の評価格
国指定
価格は、ほぼ
固定的
国 宝










第一位 1億5千万円 前後
第二位 1億円 前後
第三位 8千万円 前後
重要文化財
第一位 1億円 前後
第二位 8千万円 前後
第三位 7千万円 前後
重要美術品
第一位 3千5百万円 前後
第二位 3千万円 前後
第三位 2千5百万円 前後
民間団体指定
(例/財団法人日本
美術刀剣保存協会)
 
価格の変動が
激しい
特別重要刀剣





第一位 2千5百万円 前後
第二位 2千万円 前後
第三位 1千7百万円 前後からそれ以下
重要刀剣
第一位 1千5百万円 前後
第二位 1千万円 前後
第三位 5百万円 前後からそれ以下
特別保存刀剣
(旧甲種特別貴重)
第一位 3百万円 前後
第二位 2百万円 前後
第三位 百万円 前後からそれ以下
保存刀剣
(旧特別貴重刀剣また
は旧特別貴重小道具)






第一位 80万円 前後
第二位 50万円 前後
第三位 30万円 前後からそれ以下
白 紙
(旧貴重刀剣
または旧貴重小道具)
第一位 20万円 前後
第二位 10万円 前後
第三位 5万円 前後からそれ以下

 日本刀は同一作家でも出来・不出来がある。したがって価格も違う。同じ刀工で、同じ長さの物でも価格が違う。
 刀工大鑑やその他の刀剣本に掲載されている刀工の作なら、総てが、みな同じ価格というわけではない。同一刀工でも出来・不出来で価格の上下はある。

 また、製作した年代と刀工自身の健康状態により、最高の出来を示す物と、体調不調の場合の出来の悪い物もある。したがって同一作家でも、価格が同じというわけにはいかない。幾ら銘がよくとも、作品自体に出来が悪かった時代の物があり、この善し悪しの比率を言えば、出来の悪い物が圧倒的で、出来のいい物はその頂点の部分に、ほんの僅かしかない。常に出来のいい物を安定的に打ち出せる刀工は、滅多に居なかったと推測される。それも生涯に亘って、である。
 もしそうした刀工がいるとしたら、それは刀工時代区分で、大業物を打ち出した国宝級か重要文化財級か重要美術品級か、あるいは下がって重要刀剣級までの刀工くらいであろう。

 実際には、同一刀工でも不出来であり、しかも姿形が悪く、疵
(きず)のある物や研ぎ減りがして地刃に疲れの出ている物は刀剣相場価格の半値か、あるいは三分の一程度の価格となり、それでも本来ならば、価値無しとするところだが、銘の良さで辛うじて留まっているといえなくもない。

 更に、刀剣というのは尖先部分の鋩子
(ぼうし)が命である。尖先・鋩子によって、「剣」という物を象徴しているのである。帽子の焼き切れていないことが大事である。鋩子は“帽子”の字を当てたりする。
 特に、鋩子の焼きが途中で逃げていたり、焼き無しであれば、本来刀剣は美術品としての登録自体が付かないのであるが、それはそこ、後世の研ぎ師らが鋩子に研ぎ疵を入れて誤摩化し、あたかも鋩子が存在しているかのような誤摩化し研ぎをして、これで素人を騙しているのである。
 これらの鋩子を、この業界では「騙し鋩子」といい、鋩子がすっきりしていない、こうした物を素人にまんまと嵌
(は)めるのである。
 私は、こうした実際に何度も観て来た。そして、こうした刀がわが店に持ち込まれる度に、「この人は見事に騙されたのだな」と思うのだが、失望させても仕方がないので、そういうことは出来るだけ言わないようにしているのである。刀剣は、眼が利かず、素人ほど、しっかり騙されているのである。

日本刀の名称と拵の名称。

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 次に、磨(す)り上げである。無銘になった、辛うじて60センチを保っている寸詰の物は多くが無銘である。素人が所持する刀剣の多くはこうした刀である。中茎(なかご)の状態が生(う)でない。刃区の生刃(うぶば)も残っていない。棟区も切り上がる。普通、無銘の刀はこの種の物が多い。
 磨り上げるから、それだけ中茎が上がり、中茎の銘が刻まれた部分が失われるから、価格的に言っても五割から七割安となる。この手の無銘刀は格落ちとなる。
 こうした磨り上げ刀も、古刀、末古刀、新刀、新々刀、そして明治期から昭和の戦中までを含む現代刀では、また、それぞれ値段が違う。
 最初から無銘の物は、出来不出来で、その違いにより差額幅は大きくなる。
 出来のいい物は無銘でも高額である。しかし、刀工の心理として出来のいい物に、あえて銘を刻まぬというのは如何にも解
(げ)せない。

 これまで随分の虎徹の贋作を掴まされて来た私は、例えば、近藤勇の愛刀が虎徹だったとする説を執拗に支持する連中がいる。そう言い張る人がいる。しかし、根拠がない。それを覆すように、こう言い張る者もいる。
 この御仁の言によると、次の通り。

新撰組局長近藤勇の池田屋事件 斬殺剣 虎徹、古今稀なる名作、作品は古今東西を問わず美術工芸品として第一級の評価、日本国指定の文化財(国宝・重要文化財・重要美術品). 刃長45.75cm、 鞘を払った長さ73cm、全長さ76cm、近藤勇が 虎徹を持っていたから刃こぼれもせずにすんで、 無銘

 では、この刀は誰が保管しているのだろうか。これこそ摩訶不思議である。私が研究して集めた資料とは全く違う。
 上記のデータが何処から出たのか。そして、一番理解出来ないのは「刃長45.75cm」という数字である。妙な数字だ。
 刃長寸法は尖先の頂点から棟区までのこの寸法を直線で図った長さを言う。これが“45.75cm”という、この数字はなんなのだろうか。
 銃砲刀剣類登録証には「長さ」と記載されている部分である。もし、この長さが刀剣類の種別
(種類)であるとするならば、大刀という刀ではなく、脇差しとなる。
 私は長年刀屋を遣って来た。少なからず刀屋としての日本刀の研究はして来たつもりで、基礎的な日本刀に付いて知っているつもりである。だが、それにしても「刃長45.75cm」とは、何だろう?……。
 第一、「刃長」という名称の表現は何だろう?……。刀剣用語に、刃長というものはない。

 更には、刃長という表現の45.75センチや、鞘を払った長さ73センチ、全長さ76センチ。と、いうことは、この刀は拵えの柄頭の柄の頭から、鞘の鐺
(こじり)までが76センチで、抜いた長さが柄の頭から尖先までが73センチということなのだろうか。これでは、刀ではなく脇差しである。柄の長さも、鞘を払った長さの刃渡り(刃長寸法のことで刀剣類登録証には「長さ」と記入される)を差し引けば、27.25センチとなり、脇差しの柄にしては、柄だけは莫迦に長い。大方、大刀の柄に匹敵する。大刀の柄を持った、刃渡り(長さ)45.75センチの刀ということになる。このような奇妙な刀が存在するのだろうか。示している数字がよく分からないのである、何が言いたいのか?

 また日本国の文化財として、国宝・重要文化財・重要美術品の三ランクの物を挙げているが、では、近藤勇の愛刀虎徹は、どのランクの物か?……。わざわざ、括弧までつけて註釈しているのだから、この三つのうちの何れかを指すのだろう。その、どれか?
 国宝なのか、重要文化財なのか、重要美術品なのか?……。
 それに「全長さ」とは、拵部分の縁頭の頭
(かしら)から、鞘の鐺(こじり)までを指すのか、一体何処までを76センチと言っているのか?……。
 鞘を払った長さも、刃渡りのことを言っているのか、鞘を抜き、ハバキの幅元から尖先
(きっさき)までを言っているのか?……。いったい何処の長さを指しているのか。

 また、近藤勇の愛刀が虎徹で、無銘で、これが国宝や重要文化財になっているということも聞いたことがない。
 もし、存在するとしたならば、これは何処の誰が所蔵しているのか、是非その持ち主に会いたいものである。その無銘の虎徹を、もう直き死んで行く、余命幾ばくもない私としては、冥土
(めいど)の土産にぜひ一度拝ませてもらいたいものである。そして、この無銘の虎徹だが、いったい如何程の刀剣的価値があるのだろうか。また、美術的価値は如何程だろうか。
 何故なら、日本国の文化財として、国宝・重要文化財・重要美術品の三ランクの物であるとしているからだ。

 日本刀に美術的な価値があり、更に鑑賞に耐えられる状態であるから、日本国は近藤勇の愛刀虎徹を、まあとにかく、国宝・重要文化財・重要美術品のいずれかに指定したのである。仮に、国指定の三つのランクのうち、最下位の重要美術品に認定したとしよう。それでも、この審査は厳格であり、厳しい眼で鑑定したはずである。その時の条件は、天下の名工と言われた新々刀期の、仮に、なんと源清麿であったとしよう。清麿の新々刀を、新刀の無銘の虎徹として、果たして中茎の状態が、どうであったか?……。健全であったか?……。美術的な鑑賞に耐えられるような、完全かつ健全であったか?……。疑問は次から次へと湧く。

 当然、国宝クラスの日本刀であるから、まず、絶対に作者銘のある刀の銘を削り落としてないことが絶対的鑑定条件になろう。
 国宝級の鑑定が下されるその条件は、同一刀工でも、まず作品の出来がよく、姿もよく、肉置もあり、健全で、傑作刀の生
(うぶ)状態をいう。当然国宝級であるから、造有銘のものが条件であることは言うまでもない。

 ここで言う「造有銘」というのは、何を示しているかというと“中茎の状態”を示し、また磨
(す)り上げを一度もしていないという“生”の状態を表しているのだ。
 大きく磨り上げば中茎の保存状態は生でなくなる。在銘の物を削り落としてもそうなる。したがって、順位的には造有銘がまず第一番目に挙げられ、出来が良くても無銘は次席となる。
 この“造有銘のもの”という条件下で、無銘の虎徹が国宝級と認定出来るのか、これ一つ考えても、実に解せないところである。

各都道府県教育委員会文化財保護課が発行する銃刀法に関する銃砲刀剣類登録証。

登録証の裏面(刀剣の所持者への義務が書かれている)

 今日では、新たに日本刀が旧家などの土蔵か、その他の場所から発見された場合、警察の届けなければ行けない義務がある。
 したがって新たに発見された刀が警察の届けられて、発見届が正式に認められたとしても、今度は各都道府県の教育委員会文化財保護課では、美術的に耐え得る刀剣かどうかの、美術的審査が行われる。
 かつて県教育委員会が行う美術的審査は、甘かった。甘かったというより、この部署を担当する県の官吏に、日本刀の美術的価値を見抜くことができる職員は殆ど居なかった。警察の発見届の書類に眼を通しただけで、そのまま登録証を発行していた。

 ところが、無銘の刀に、“長さ・反り・目釘穴の数”だけで一致する刀剣類に、別の登録証を差し替えるという手口が盛んに行われるようになった。これは、明らかに公文書違反で刑法で処罰されるものだが、闇では、実際に銃砲刀剣類登録証が無銘の場合は7から8万円前後、在銘の場合は5万前後で「登録証の取引」が行われている。
 現在では発見届のある刀剣類に、教育委員会に支払う登録手数料は6,500円であるが、闇では十倍以上の値がついている。

 こうした不正すり替えのために、教育委員会文化財保護課では、中茎の写真や、刃文の写真まで記録するようになった。更に、美術的審査を刀剣専門家を委嘱職員として呼んで、厳格に鑑定するようになったのである。
 この場合に、美術的価値がないとなった場合、直ぐ没収され、破棄される。つまり、没収された後、切断されて、鉄屑となる。
 登録証の付かない物は、戦前・戦中の陸海軍配給の将校用や下士官用の軍刀、焼きが入っていない素延
(すのべ)の刀、焼きが逃げて刃文が明確でないもの、焼き切れ、疵の酷いもの、刀の原形をとどめない錆刀(資料として残されるものはこの限りでない)、火事で焼けてしまった刀(焼きがなくなっていて刃文も消えている。これで竹や畳表を巻いた束を切るとへこんだり曲がったりする)などは美術品として看做(みな)されない。よって、廃棄処分される。
 現在は登録書一枚付けるだけでも、これだけ厳しい。美術価値のない物は認めない。

 また、錆刀の場合、約「一寸幅の窓」を開け、刃文の種類まで調べられ、刃文をはじめとして、地肌や肌荒れの状態まで調べられる。無銘の刀の登録証のすり替えを禁止するからだ。同時に刃文や地肌も写真に撮って登録する。当然、鑑賞に耐えないものであるとなれば、没収され、発見者立ち会いの下で破棄される。勿論、銃刀法によって、である。
 更に、打ち合った場合の刀疵、肌割れ、立て割れ、刃切れ、その他の疵も大いに鑑賞に耐えられるかどうかの判定の分かれ目になろう。こうした物が、近藤勇の愛刀虎徹に、一切もないとするのは解
(げ)せない。

 近藤勇は池田屋をはじめとする事件に関わり、斬り合い、打ち合い、あるいは突き合い、こうした死闘をしているのである。この結果、刃こぼれもなく、一ヵ所にも疵がないというのはどうしても解せない。それに清麿だったら、その銘を落としてしまった中茎である。中茎の細工である。
 また、国宝級の鑑定を下す、鑑定士ならば、中茎の小細工など、一発で見破れよう。一端的に知られる中茎の細工は、ある期間、中茎部分を土の中に埋めておき、それからその部分を茶の葉に炊
(た)き込んで、赤錆止めをするという方法が遣われる。茶の葉に炊き込むのは一種のクロム鍍金(めっき)である。
 これは鉄瓶や茶釜の錆び止めで、茶の葉に炊き込むという方法と同じである。この方法を遣って、日本刀の中茎部分の時代搾取がおこなわれる。赤錆を黒錆に変化させるためである。他にも薬品を遣う方法がある。錫に似た、銀白色の硬い金属などの合金を、腐食薬液で化学反応させて用いる場合がある。

 特に、現代刀を幕末期までの新々刀に見立てて細工をする場合は、この方法が遣われる。一旦、現代刀の銘の入った物を削り落とし、新々刀時代の作家の銘を刻むのである。新々刀仕立ての贋作を造る場合は、この手法が遣われる。
 巧妙な中茎の細工であっても、鑑定士の眼力に懸かっては一溜まりもない。直ぐにバレる。決して国宝級を検
(み)る鑑定士の眼は節穴ではない。

 だとしたら、それを見破れずに、清麿を虎徹と見誤った国宝を鑑定する鑑定士がいるだろうか。
 また、居たとしたら、その鑑定士は何処の誰かということになる。もしいるのなら、この鑑定士にも、私は冥土の土産として是非お会いしてみたいものである。いい冥土の土産になるだろう。
 私は20代前半から刀屋をして来たが、六十半ばのこの歳まで、近藤勇の愛刀が虎徹だと断言した鑑定士が居たという話は、一度も聞いたことがない。刀剣業界でも、虎徹ではないというのは知れ渡った、しかも常識だ。
 更に、国宝級の刀剣を鑑定するのだから、その人自身、人格的にも人間的にも優れ、人間国宝に近い眼力を持っているだろう。この人の眼力が狂うということは、まず考えられない。

 これまでの研究により、近藤勇の愛刀は虎徹の贋作だといわれてきた。現在でも、これが定説である。
 100%といわないが、九割方は虎徹の贋作であり、実は源清麿の新々刀を虎徹と称したのではないか?……とも言われている。清麿の銘を落とし、無銘にして、これを虎徹と称したのではないか?……と言われている。おそらく、この説は正しいだろう。

 無論、清麿と言えば新々刀の中でも最上の大業物を造り上げた大家として知られ、清麿の作は総て重要美術品以上である。落ちても、民間レベルでの鑑定の最高位にある重要刀剣以上である。重要刀剣で私の知る限りでは、その価格は最高1,000万円台、最低350万円台である。特別重要刀剣となれば、この限りではない。もっと上を行くだろう。価格も一千万円代以上であろう。

 しかし、正直に言えば、私はこの上のクラスの刀の商いを、一度もしたことがない。重要刀剣どまりである。だからこそ、虎徹の贋作を見せられて何度も掴まされたのだろう。
 重要刀剣のその上を知らないし、実際にわが手で握ったこともない。店の顧客は中産階級以下である。
 今は金がないので、分割払いにしてくれないだろうかという、こうした階層の顧客である。
 この階層は約束した通りに、支払い期日を守らないクズもいる。合計回数のうち、一回や二回、踏み倒す不届き者もいる。口にすることは傲慢で、好き嫌いで凝り固まった、礼儀知らずの、刀剣には素人の顧客が大半だ。
 したがって、売買しているのは最高でも150万円程度の物であり、その中心は30万円台
(勿論定寸という長物)や40万円台である。その30万円台の定寸(2尺3寸5分前後を定寸という。つまり71.5センチで70センチ以上を言う)の代金でも、10回払いの毎月三万円である。しかし律儀に支払いをする人は少ない。また、これだけに、今日の刀剣愛好家はレベルが下がったというべきであろう。

 中には90万円の定寸
(ゆうに2尺4寸5分はある)を買って、90回払いにしてくれと言う顧客まで居た。
 お人好しの私は、最敬礼で頼まれたり、お願いされたら、断れない質
(たち)である。そして90回払いを了承した。勿論、金利や延滞金は付かない。毎月一万円ずつである。
 ところが、この御仁。ついに月一万円もきついと言い出し、毎月五千円にして欲しいと変更を申し出たのだ。呆れて開いた口が塞がらなかったが、お人好しの私は、泣く泣くこれを呑んだ。
 要するに90回払いが、180回払いになったのである。180回払いといえば、180ヵ月である。180回払いを完済するには、15年かかる。いいですか、15年!ですよ。バカも休み休み家と言いたくなる。

 例えば、この歳に生まれた子供であれば、15歳になっているのである。中学三年生である。
 そして、例えば、銀行から低利の3.5〜5%台の金利で、90万円を借りて180回払いをすれば、毎月五千円払いでは、その金利にも満たさない額である。元本はどうなるのかと言いたい。この恥知らずの顧客のことを、いまでも印象的に覚えている。
 期限に遅れて請求すると、私のことを「金の亡者」とか、「人非人」とか、「鬼」とかいって、知人に「あそこの刀屋の店主は金に穢い」と言い触らすのだった。

 私は俗にいう街金という、県知事許可の貸金業もしたことがあるので、金銭の貸借で人間そのものの研究もした。
 金を借りに来る者の多くは「期限は厳守します」と口では誓約ながら、多くは二言がある者ばかりだった。遅延の度に嘘をつく。その嘘を暴き、期限を守るようにと注意すれば、異口同音にして、まず私を「人非人」とか、「鬼」と罵
(ののし)った後で、「金の亡者」と決めつけ、「蛇のような執念深さ」などと揶揄(やゆ)して、結局最後は裁判所の督促支払命令を執行しなければならなくなるのである。そして、「お前は近いうちに紫川(北九州市小倉南区および北九州市小倉北区を流れる2級河川)に浮ぶだろう」などと、電話で脅して来るのである。

 自ら誓約しておいて金を借り、返済の段になると返せないのか、返さない。こうした弱小の金融業者を踏み倒す方が穢いのか、約束を履行せよと迫る方が穢いのか、これは人間の礼儀の問題であろう。返せないのなら別の方法もあろう。その説明をするべきであろう。
 果たして、穢いのはどちらだろうか。譲歩した私は、金に穢い人間だったのだろうか。

 私が今まで生きて来て、人間と言う生き物を観て感じたことは、金は貸す人間よりも借りる人間の方が穢いということだった。貸す方は無理に押し付けて「借りてくれ」と頼んだのではない。借りる方が「貸して下さい」と土下座して頼んだのである。その土下座に免じて、渋々、法定金利内で金を貸すのである。平成13年当時、法定利息の上限は29.2%だった。これに一切の違反はない。

 ところが、返済する段になって、支払い不能になると、今度は債務者が債権者を罵
(ののし)るというこの不思議。私には分からない。
 そして、金銭哲学のない人間は相手が出来ないということだった。また、多額のローンなどを組んで、クレジットで車や家電などを買い込んでいる者の多くは、初歩的な経済知識の常識である『貸借対照表』や『損益積算書』を全く読めないということだった。資産の部も負債の部も、全く区別出来ず、一切が、どんぶり勘定で人生を生きているのである。
 ここに「知らない」という、法律では罰されない犯罪者が居るのである。

 事実私も、人生の厄年を挟んでその前後、億単位の高額な借金を抱えて夜逃げしたことがあった。緊急避難である。したがって、支払いに窮する債務者の気持ちも分からないことはない。
 だが、金を借りて、爪に火を灯すようにして貯めた僅かな金を個人から借りて踏み倒したことは一度もなかった。また弱者の金は、借りない。もし友人であったら、借金によって、対等な友人関係が崩れるからである。もし借りたのならば、まず、そうしたところに一番に返済する。
 そして、その他の法人は、一時的に「待った!」を掛け、銀行、サラ金、それに純する高利貸しなどは、支払いの意志がある旨を貸金業者に伝え、あるいは裁判で明確にして来た。男ならそうするのが筋道だろう。

 人間は経済活動を死ぬまでして生きていかなければならないのだから、時には金にも窮することがあろう。やむを得ず借金することに迫られることもあろう。そうした場合、親や親戚、友人や恩師と言った人は極力避けねばならない。
 まずは銀行に詳細な「支払計画書」を持ち込み、融資課員に熱心に訴え、それでもだめなら法人組織の街金となる。
 管轄税務局の下した認定を持つ、金融業の法人は、商法によって経営している会社だから、貸金業であれば商売である。

 ところが弱者の個人は違う。個人は貸金業が職業ではない。最初から金貸しを商売としていない。むしろ他人に金を貸すことを好まない。個人が他人に金を貸し、5%以上の金利をとれば、出資法違反で罰される。出資法違反は刑罰だから、刑務所行きとなる。
 その意味でも、個人と法人は違う。時効期間も違う。時効とは、「時効の援用」を含む、踏み倒しの期間である。
 法人は商法によって時効期限が五年間であるが、個人の時効は十年である。それだけ法律でも、個人を保護しているのである。それは弱者だからだ。
 弱い者を助け、強い者に抗
(あらが)う。
 この精神は人間関係を保つ上で大事だろう。

 したがって、私は弱いもの苛めだけはせずに済んだ。また、その誇りもある。つまり、銀行などを泣かせたことだ。銀行やノンバンク、それに暴利を貪る大手サラ金は泣かせてもよいが、個人を泣かせては恥である。男が立たない。
 強い者に立ち向かってこそ、男でないか。

 本来は、金利5%前後での融資を受け、これで事業をするのは別だが、企業家としての能力がないくせに、借金をして儲けるような商売は、今日の日本にはない。況
(ま)して、今日でも遅延金の上限として、現に29.2%の利息は利息制限法内であるから、延滞者が遅延金としてこれを請求された場合、文句は言えないのである。よって、29.2%の利息を支払って、これで利益が出て、儲かるという商売は日本には絶対にないのである。
 むしろ、借金はしないことに限る。刀剣を所持する場合も、出来ればローンなどで買うのでなく、「一括現金払い」がサムライとしての常識である。

 日本刀購入にローンを組むと、今日では長期で36回の三年払いだが、三年間無事に、一度も遅延なく支払いを完了出来る人は少ない。
 特に、例えば特別保存刀剣の150万円を超え、また特別保存刀剣の上クラスの250万円程度の刀剣を購入した場合、月々の支払いは150万円では51,400円、250万円では85,600円となる。この支払いが三年間続く。一度でも遅延すれば、ローン会社から矢の催促の電話が、自宅にも会社にも懸かって来る。恥である。

 同時に、人間は一寸先は闇である。
 一秒後に、一分後に、一時間後に何が起こるか分からない。確実なのは「今」である。
 今、自分の手持ちには幾らあるか、ということを正しく把握した上で、少なくとも『貸借対照表』の資産の部と負債の部のバランスをとりながら、日本刀は購入するべきなのである。だから、最良なのは現金一括払いである。それが現在不足しているのなら、決して買うべきでない。それは所持する資格がないからである。刀剣を所持するのは、昔からサムライと決まっている。サムライの心意気がなければ止めた方がいい。これくらいの自負は持ってもらいたいものだ。

 私は長い刀屋生活で、若者の日本刀購入者には、「君はサムライの気概がないのなら、刀は所持する資格がない」と言ってやる。日本刀を所持するだけの心構えと、サムライのプライドと、金力や財力が出来てから、あらためて来店して下さいという。これは日本刀を所持する上で、正しいアドバイスであると思う。

 だから、法的に日本刀の所持が認められる20歳以上の若者に限らず、ローンを口にしたら、年配者でも売らないようにしている。ローンがサムライの為来
(しきた)りではなく、かつての身分で言えば、士農工商の最下位にある「商」のものだ。サムライのものでない。刀はサムライ以外は必要であるまい。サムライだからこそ、精神的な心の拠(よ)り所として、刀を鑑賞し、それを愛(め)でるのではないか。サムライ以外は所持しても、無用の長物ではないか。

 また、力説したいことは、日本刀と言う美術品は、銀行利息ほどの預金利子もつかないということだ。
 100万円の刀を所持して、それが十年後に100万円以上になっているということは、まずない。100万円を大幅に割って、相場は50万円になっているかも知れない。美術品投資で、こうした刀剣を購入するのなら、銀行預金をした方が利口である。刀は投資の材料にならないということだ。

 断言出来るが、最低でも特別保存刀剣以上の造有銘の物を所持しなければ、いざという場合の換金能力はない。大手刀屋ショップで、即換金が出来るのは、最低でも特別保存刀剣から重要刀剣クラスである。
 私は宝石商として、宝石を扱った経験があり、今日でも宝石を検
(み)て扱うが、例えば、テレビショッピングなどで売りに出される30万円以下の宝石は、ズバリ言えば、持ち主には気の毒だが、「ガラス玉」である。それに付随している鑑定書は、業者が勝手に個人は付けた物で、価値を保証したり、原石を認定している物ではない。

 では、100万円も200万円もする物だったら、即換金は可能か?
 これでもダメだと思う。少なくとも1,000万円以上だろう。宝石書籍に載るくらいの物を持っていなければ、世界には通用しない。小粒のダイヤでは、もどうしようもない。換金力がゼロに近い。また、宝石商の業者は買わない。買って売れなければ、その年の所得として申告しなければならなくなるからだ。所得税が懸かるから、譬え、200万円、300万円しても、売れない物は買わない。況して、テレビショッピングに出て来た、20万円や30万円のガラス玉ほどの価値しかない宝石類を同等の値で買うだろうか。

 つまり、換金価値のある貴金属を買うのだったら、ダイヤモンドや真珠より、フォーナインの刻印を押している金だけだろう。昨今は金も、フォーナインのインチキが出回っているから、素人には鑑定がし難い。持ちなれない物は、日本刀を含めて所持すべきでない。
 無理は自分にとってプラスにならない。人間性も失墜する。
 どうしても欲しいのなら、昼夜を問わず、労働によって得た金で購入するべきだ。そして、絶対に弱いもの苛めしてはならない。

 また、これは私の個人的な開運の私感だが、天は、弱い者を扶
(たす)け、強い者に抗(あらが)って突き進むとき味方をしてくれるようだ。ここに天命が働くと思っている。
 私の刀屋人生は、人間の縮図が見える一つの“覗き窓か”だった。この覗き窓から、善と悪の綯
(な)い交ぜになった人間を観て来たのである。刀屋人生を通じて「人間学」を学んだのである。そして、同時に「日本刀を所持する」という行為が、どういう人間でなければならないかということも学んだのである。

 貧乏人は日本刀を所持するなとは言わない。所持するには、その人の人格が必要だということである。
 もともと日本刀はサムライの魂だった。その魂を心の拠り所にして所持するのだから、持つ人も、サムライの気質が備わっていなければならない。精神的貧困では持つ資格がない。
 100万円、200万円の買い物が、決して安い物とは言わない。しかし、それでも所持したいと願うのは、その人の人格において所持するのであって、高い物を値切るとか、支払いを引き延ばしたり、あるいは遅延して、迷惑をかけるということではあるまい。その程度の人格ならば、日本刀所持の資格はない。サムライの心意気と潔
(いさぎよ)さがないのなら、日本刀という、かつてはサムライの魂だった心の拠り所を所持する資格がないのである。

 まず、100万円、200万円の金に、困っていない人が所持する資格があるのだ。日本刀を所持する人は、サムライのように誇り高くあるべきである。また、一度購入したならば、例えば150万円で購入した刀が、同額の150万円で売れると思わないことだ。買う時は高く、売る時は安いということを覚悟して買うべきだし、それだけの覚悟がなければ、日本刀は絶対に所持すべきでない。


 ─────昨今では現代刀の打ち卸
(機械ハンマーで打った並みの作品)でも、最初から65万円の定価相場があるが、この現代刀の額にも達しない顧客を、私の店では相手にしている。当然、こうした商売環境で、名工の打った重要刀剣以上の傑作は、滅多に拝めないというのが実情である。
 虎徹の研究は、私個人の趣味で始めたことである。死ぬまでに一度、わが手にしてみたいという気持ちはある。
 ところが、研究すればするほど難しい。趣味が高じてという……、虎徹だが、しかしこれにしても、一度も本物の虎徹に出会うチャンスがなかった。手にしたのは贋作ばかりだった。

 わが店は刀剣に関して、日本でも屈しのNHKなどでも紹介される銀座・長州屋のような一流処ではない。海外からオークションで、日本刀を買い集めて来る財力もない。
 私の刀剣店は、二流・三流どころか、四流・五流の、あるいはもっとその下の、ただ福岡県公安委員会から許可を受けた古物商許可証を持っているだけの貧乏刀屋である。背景の事情には、惨めで、哀れな一面がある。
 ゆえに、虎徹には、まだお目にかかっていない。
 しかし、書籍で研究し、神社や博物館などで、陳列の外から眺めたことはある。手にしたことはない。遠巻きにするだけである。

 それでも、果たして近藤勇の愛刀が、虎徹だったとして「なぜ無銘なのだ」という疑問が残る。
 清麿と同等の名刀を打ち出したのなら、在銘でなければならない。無銘にするはずがない。作者心理としては在銘にするだろう。それが、なぜ無銘で、世に出したかということである。この疑問は六十半ばを、とうに過ぎた今でも、胸に引っ掛かっている。
 やはり、近藤勇の愛刀は贋作だった!……これが偽わざる真実だろう。
 しかし、贋作とはいえ、その辺に転がっているボロ刀の贋作とは違う。中身は清麿である。天下の名刀である。そう思うと、何とも複雑な気持ちである。

 さて、刀の価格はどうして決まるか。
 物には名前があるだけでなく、価格がある。値段がつくのである。よく考えれば不思議なことだ。
 資本主義市場経済では、価格という物を当り前のように考え、その価格によって流通システムが派生している。価格があるから物流があるとも言える。

 しかし、価格というのはどうして決められたのか。
 特に、刀剣の価格は何も今の現代に始まったのでない。既に、日本刀が発明された平安期には価格が出来上がっていたはずだ。平安後期には武家が擡頭するが、その頃、既に価格があったはずだ。そして、その価格に応じて、刀剣市場も武家の武具として物流がなされていたはずである。その際の、価格決定である。
 更に、鎌倉期には武家社会が出現するが、その当時の価格は平安期の価格が基礎におかれ、それにより価格が決定されたはずである。そして鎌倉後期には、日本を代表する名工・正宗が出現する。

 正宗とは、岡崎正宗のことである。名は五郎といった。初代行光の子という。
 鎌倉に住み、古刀の秘伝を調べて、ついに相州伝の一派を開き、無比の名匠と称せられた人物である。また、義弘、兼光らはその弟子という。この刀匠三人は三作の一人として、正宗が挙げられるのである。その出来映えは国宝級である。当然、価格は1億円に届くだろう。

 しかし、貧乏刀屋の私は、本物の鎌倉期の特長とされる「映し」が浮ぶ
正宗を一度も見た事がない。虎徹すら手にしたことがないのに、正宗に迫れる訳がない。鎌倉期の刀の特長は、正宗に限らず、映しが浮ぶという特長を持っている。日本ではこの時代の古刀にランクされる刀が最高とされている。鎌倉期の古刀は、貧乏刀屋に果てが出ない。ただ、有名刀剣店の陳列の外から遠巻きに見ているだけである。
 一般人に果てが出ない……という価格設定があるからだ。
 こうして刀剣の価格を考えて行くと、不思議な気がする。誰の査定で、今日の価格が決まったのか?……、と。

 名刀正宗を世に出したのは、天才岡崎正宗だった。この名工は人格的にも優れた人物であったと思われる。
 しかし、体調その他で、出来の悪い、姿などがよくない、そうした物も一振りくらいは造り出したかも知れない。人格が上位で、かつ刀工番付が最上位だったとしても、刀剣の出来が悪ければ、技術的にも美術的価値も次席よりも下回り、安くなるのは当然である。しかし、こういう本物の正宗を充分に鑑賞して、わが手に取って……ということを、一度もしたことがないので、四流・五流以下の貧乏刀屋の私としては、何とも表現がし難い。
 実際に手にとって、鑑賞するチャンスに恵まれなかったからである。



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