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刀屋物語 3



無銘の刀でも、中茎を削って巧妙に細工した贋作がある。しかし、贋作はその真偽が自分の心の裡にあるとき、本物でも贋作の疑念が付き纏う。日本刀は生きていて、常に持ち主の心の動きを検(み)ているのである。持ち主が日本刀を鑑賞するのではない。日本刀が持ち主を観て居るのである。日本刀とは、そうした霊器なのである。



●認定書や鑑定書は宛てになるか?……

 日本刀には本物が存在する以上、当然、贋作もある。偽物である。日本刀にはこの種の物が多く、特に自分の所持刀をベタ褒(ぼ)めする一方で、わが持ち物こそ、この世で最高の逸品と信じ込んでいる素人も少なくない。この意味からすると、実に素人は怕(こわ)いのである。偏見と独断で物事を解釈するからだ。
 また、認定書および鑑定書信仰も甚だしい。刀剣愛好者をターゲッツとして認定や鑑定を下すこの種々の団体が発行するお墨付きを崇
(あが)める嫌いがある。しかし、刀剣に添えた鑑定書は全部が全部、これが付随しているからといって本物を証明しているという物ではない。当然、鑑定ミスもある。
 鑑定書や認定書を下す際に、偽物と知りながらこれに認定書を付けた刀剣類ならびに小道具類鑑定士
(俗にいう金や銀)や審査員もいるのだ。そうした鑑定士を、私は何人か知っている。

 曾て昭和40年半ば、財団法人・日本美術刀剣保存協会の鑑定士か認定士かに、村上某という人が居た。北九州各地で行われる認定審査会には村上某が主導権を握っていた時期があった。村上某こそ、マル特を乱発したということで、悪名高い鑑定士だった。金を出せば、片っ端からマル特を乱発していたように思う。
 その後、この人が認定した“マル特”つまり特別貴重刀剣のことだが、これに認定された刀に、不正認定が発覚したことがあった。本物か贋作かそのどちらかに迷った場合、本物と判定してしまうのである。鑑定眼を甘くしたのである。この結果、マル特
だらけの刀が世に溢れることになったのである。当時は刀剣商仲間で、“村上マル特”と蔑称された、かなりの特別貴重刀剣が続出したのである。

 特に北九州では、村上マル特が大量に刀剣市場に出回った。
 昭和40年代半ばの認定日が入っているマル特付きの刀は、大刀にしろ脇差しにしろ短刀にしろ、あるいは槍、薙刀に至るまで、「もしかすると、この刀は村上マル特ではないか?……」と疑われるほど、刀剣の業界では悪い噂が流布されていた。
 認定書の発行日が、昭和44年とか、45年とか、46年とか、47年だったりすると、誰もが「もしや村上マル特では?……」と疑念を抱かずにはいられない、そんな不穏な時期があった。認定書の発行の年月日が昭和四十年代だったら、マル特が付けられた刀は、片っ端から村上マル特では?……と疑われたのである。

 事実、認定や鑑定を下す場合、贋作と知りながら……という行為をする審査員がいる。
 単に間違うのではない。意図的に間違うのである。鑑定料欲しさに意図的に、故意に、である。あるいは認定して貰うために、賄賂
(わいろ)が横行したこともある。
 そして、この故意は“脅
(おど)されて……”というものもあるが、背後には自己の利益のため……とか、金儲けで……というものも随分ある。それくらい信用の置けない認定書や鑑定書もあるのである。それはあたかも、江戸期や明治期に鞘書きされた、あのお墨付きのようにである。この時代の鞘書きを検(み)ると、たいそうな達筆で、さも“本物と認む”という自信満々の鞘書きをしている。しかし、鞘書きに本物があった例(ため)しはない。贋作だから敢えて鞘書きされたと考えることも出来る。

 私の認定書や鑑定書に対する見解は、民間レベルで発行して、鑑定料などを徴収する認定書や鑑定書の類
(たぐい)は、本当の刀剣愛好家のためにある正統なお墨付きでなく、曾ての鞘書き程度の物で、素人の刀剣所持者を安心させるための“お守り”程度のものにしか理解していない。眼力が疎(うと)い素人は、お墨付きに頼らねば自分の所持する刀が心配になって落ち着かないのである。だから、お守りという物がいる。そして曾ての鞘書きと認定者や鑑定書は、ほぼ同等と考えられると解釈している。

 則
(すなわ)ち、お守りはそれを所持していたからといって、本当に自分の身を護るものでない。気休めである。気休めと本当に効力がある物とは違う。頭でそのくらいのことは理解しているだろう。ところが、気休めでもないと心配で落ち着かないのである。素人刀剣愛好者は他人に自慢するだけの、屁の突っ張りが居るのである。自慢の持ち物を大袈裟に演出する鑑定専門家のお墨付きを必要とするのである。だが実体はお守り程度のものだろう。

 お守りは自分の身につけたり、あるいは車ならば、どこどこ神社のお守りなどと言って、交通安全を願うものだが、そうした交通安全のお守りを車内に貼っていたからといって、交通事故に遭遇しないという分けではない。願いは、願いの範囲を逸脱しない。起こるべきことは起こる。
 その願いが天に届かなければ、交通事故の遭遇して重傷を負い片輪になるどころか、運が悪ければ忽
(たちま)ち昇天する。これは交通安全のお守りを貼っていても、である。
 お守り信仰や現世ご利益は、期待するだけ無駄で虚しく、滑稽な習慣といえなくもない。気休め的な要素が強く感じられる。これを滑稽といわずに何といおう。

 そして、お守りというのは、実は神社仏閣の裏手で、信心深さとは無関係に大量生産されているのである。
 神道とは無縁の、巫女や神主見習いの衣装を着けたアルバイト学生によって、その裏手で大量製産されているのである。
 寺ならば、衣と袈裟を着けた有髪
(うはつ)の僧侶か俄(にわか)坊主によって、せっせと押型版画で、刷って刷って刷り捲り、大量生産されているのである。おそらくこうした状況を“坊主丸儲け”というのだろう。
 ご利益を願って、ご利益の無いのは、現象界の理
(ことわり)である。ご利益など、非科学の最たるものでしかない。この手の物が効力を発揮したとは、一度も聴いたことがない。現世ご利益など、この世では働かないのである。希望的観測に縋(すが)り、ご利益が、千分の一とか、万分の一という確率で、もしかしたら働くかも知れない……という程度の、運試しである。運試しで運気が向上した例(ため)しはない。神仏に、頭を低くしたという程度の気休めである。

 大量生産というのは、何も神社仏閣が乱発するお守りだけではない。
 実は刀剣の世界でも、認定者や鑑定書までもが大量生産されている事実がある。
 印刷した大量生産の書面だから、これれは、何も本物だけとは限らない。お守り同様、乱発が出来る。紙
(押形用紙)と墨(石華墨)と、それに朱肉と角印がありさえすれば事足りる。これらを遣って鑑定書きを行っている書面は幾らでも作れる。

 あるいは、もっと悪質なのは、認定証や鑑定書自体をそっくり偽造した物もある。偽造も、印刷という大量生産の技術で造り出されている。これは偽金を印刷するのでないから、実に簡単に出来る。偽金造りの技術は要らない。初歩的な印刷技術があれば充分である。それだけに偽造して、本物らしく似せることは簡単に出来る。
 悪質な業者は、その偽造の書き付けを贋作に付随して売り捌くのである。刀屋の一部には、そう言う詐欺師擬いも居るのである。また、単独ではなくグループで、という、金持ちの愛刀家相手の詐欺師グループもいる。間抜けな愛刀家だったら分けもなく嵌
(は)められてしまう。大量に数十振り単位で仕掛けられるのだ。
 これらの詐欺師も知っているが、この集団に、まんまと嵌められた、刀剣には全くの素人の武道家も知っている。この某武道家は、「贋作に嵌められた」と喚
(わめ)いていたが、刀剣売買は、お互いが承知の上で売買を成立させるのだから、その後に嵌められたと喚くのは筋違いである。自分の眼力のなさを嘆くべきである。

 昨今はこのレベルの素人の刀剣愛好者が殖えている。
 50万円とか100万円とかならいざ知らず、高々、銃砲刀剣類の発行登録証代
(正しくは6500円で各都道府県教育委員会文化財保護課で審査され美術品として登録が付けられる。しかし、そこまで持ち運ぶ交通費や弁当代や一日の日当分を考えれば軽く4、5万円は掛かる。)程度の2万円とか5万円【註】多くは白鞘で研磨の済まない錆刀とか、研いでも消えない鍛え疵や膨ら疵のある物だが)とかで一旦は、錆、疵などは納得した上で購入しておきながら、購入した後に突き返して来て、利息をつけて引き取って欲しいなどと、再持ち込みする者もいる。昨今は愛好家のレベルが低下したという外ない。

 この種の愛好家は、購入した刀を複数の誰かに自慢して見せ捲り、仲間から悪い批評を受けて、「突き返せ」と唆
(すすのか)されて返しに来るようである。一旦は納得したものの、後で気持ちが変わったというやつである。
 そもそもこうした連中は、刀剣を所持する資格がない。納得して買った以上、武士に二言があっては資格がないのだ。

 この世界は生き馬の目を抜く世界でもある。凄まじいものだ。凄まじい物が覚悟出来ないのなら、日本刀は所持しないことだ。
 日本刀を所持するということは、建前的には美術品を所持するということである。しかし、この美術品には贋作もあるということである。それを承知で所持するのである。この点に、絶対に二言があってはならないのである。
 したがって、贋作を掴まされれば、銀行預金の利回りより、株式や投資信託の利回りより遥かに率が低いということだ。それを承知で、覚悟の上で、購入するというのがサムライというものである。

 眼識がなければ立ち所に騙されてしまう。騙されるのは自己責任だ。それを最初から覚悟の上での購入である。だから、繰り返し勉強する必要がある。
 刀工の血縁や伝承系図は勿論のこと、亜流の派生した系列や刀工名や鍔や目貫などに携わる細工師や拵師まで覚えておく必要がある。これは愛好者でも刀屋でも同じである。一見、そこまでしなくとも刀屋は出来るという甘い考えもあろうが、その甘さは、やがて付け込まれるネックとなって、カモの対象になる。勉強不足は、売る側も買う側もカモにされるのである。
 カモを食い物にする、形だけのサラリーマン古物商を狙った贋作に詳しい詐欺師グループもある。中途半端な生かじりのカモをターゲットにするのである。
 私も曾ては、そう言うグループに騙されたことがある。根刮
(ね‐こそ)ぎ奪われたことがあった。
 そう言う連中の存在を知りながら、私もまんまと騙された一人だった。後れ馳せながら騙されて、始めて勉強する価値があることに気付くのである。

 騙されれば、当然損をする。特に、刀屋が騙されてはお話しにならない。
 しかし、頬っ被りして認定書付きの贋作を陳列に並べるわけにはいかない。損をするからといって、これを知らぬ顔をして売り捌くことは出来ない。自分で処理する以外ない。これが私の流儀だった。
 些
(いささ)かでも良心があれば、人間としての誇りを取り戻す。それゆえ売らずに、外に出さずに、泣き寝入りを決め込むのである。人間としてのプライドと良心があれば、これを逆手に取って、有り難い勉強をさせて頂いたと思って、決して安くない高額な月謝を払うのである。そういう心意気も必要だろう。
 月謝は、払った分だけ賢くなり、眼識も出来、それだけに詳しくなる。何しろ月謝は高額であるからだ。
 月謝を払えば、眼の勝負で、少しずつ勝てるようになる。眼が肥えて行く。本物と贋作の識別の境界線が見えて来る。
 この世界は騙されてはじめて賢くなる。そういう泣き言をいわせない凄まじい世界である。武士に二言のない世界である。「買った!」といえば、どんなことをしても金策し、翌月の決済はきっちりつつけねばならないのである。

 一方、プロになりきれないサラリーマンと副業の古物商は哀れだ。そしてこの種は、武士に二言があるから、更に哀れだ。「買った」を“取り消してくれませんか”という奴もいる。自分の言葉に責任がなく、言葉に重みがない。宮仕えの特長のようだ。
 普段はサラリーマンをしながら、副業としての小銭稼ぎで……という形で、古物商をしている人はかなり多い。最近はこうした人達が刀剣市に雪崩れ込んで来る。二足のわらじを履いた人達だ。
 これらのサラリーマン副業古物商は、頭の中に、刀剣会などで安く仕入れて、高く売りつけるという単純構造の稚拙な商売の仕方が頭の中で出来上がっているのだが、物事は思うようには運ばない。稚拙な商売で、「商い」という厳しい現実を考える場合、稚拙一点張りで、また幼児的思考で、大人の世界の生き馬の目を抜く、本当の意味での商いは出来ない。幼児思考では、全く通用しない世界だ。
 これが通用するのは、商いの厳しさを知らない、ただ、決められたことだけをちゃんとしていれば給料を貰えるというサラリーマン世界とは全く違うのである。こうした考えで古物商にもなろうものなら、忽
(たちま)ち周りから啖(く)われてしまう。絶好のカモにされるのである。

 そのうえサラリーマンと言っても、企業の中には、社則や就業規定で副業を厳しく禁止している企業もあるから、二重職に該当し、それに触れれば懲戒免職になる会社もある。
 私は公務員で古物免許を取得し、副業を働いて懲戒免職になって人を知っている。
 この懲戒免職になった人は、もと警察官だった。警察官という地方公務員として、人民の血税の一部の恩恵に預かりながら、その傍
(かたわ)らで刀剣の売買をしていたのである。そして売り抜けるのは、自分の部下やその周辺の友人関係を利用したセミプロ擬の商売をしていた人だった。この人は随分若い時から、仲間内に刀剣を売り捌いていた人で、月平均300万円以上の利益を上げていた。その裏には、登録証のない刀に職権乱用擬いのことをして、登録証を付け回ったからだ。部下か誰かに無理矢理『発見届』の書類を作らせ、それを毎月一回行われる県の教育委員会文化財保護課に持ち込んで登録書を付けるという遣り方で、かなり儲けたようだ。銃砲刀剣類に登録証がなければ不法所持となる。これを楯に取って脅せば、無知な持ち主はタダ同然で投げ出す。これを端金(はしたがね)で買い叩けば濡れ手に粟(あわ)である。

 数十年前は、古物商も簡単にその許可が取得出来た。
 一般会社員のサラリーマンでも、また公務員でも履歴書と申し込み用紙と印紙代だけを提出すれば簡単に取得出来た時代があった。昭和40年代から50年代に懸けては、随分と簡略化されて誰でもなれた。規制緩和の時期があった。今日のように、法務局発行の種々の掲出書類はなかった。極めて簡単だった。

 ところが、古物商が殖えたため、これに制限と規制を加える取り締り強化が行われるようになった。特に、後見人などに指定されたら古物商になれない。この点は医師免許取得などと同じである。
 古物商は医師資格と同じような申請するための法的証明書の発行を願い、これを所轄警察署に提出する。したがって、掲出書類が複雑になったた。代行業として行政書士などの手を借りなければならなくなった。官公署に提出する書類その他権利義務・事実証明に関する書類は、今日では行政書士の手を借りるようになった。代行業者に頼むと経費などを含めて、平成24年現在で約15万円ほど掛かる。自分で遣って出来ないことはないが、法務局関係の書類の作成は難しい。また、身分証明書
(本籍地のある市町村が発行)などの提出があるが、この申請方法を知らなければ随分と手間が掛かる。法務局に何度も足を運ばなければならない。所轄警察署の古物商係からも提出書類不足分を指摘される。その度に足を運ばねばならない。
 許可や資格は以前に比べて、その取得が随分と難しくなったのである。

 しかし、これをもっと以前に取得した人は、此処までの苦労知らずで、古物の売買をしている。刀剣類を扱う美術品商の中には、こうした人が多い。職業が重複していても、二重職を免れて商売をしている人もいる。
 私の知り合いの警察官も、この手の人だった。昔は内職程度にお手軽に出来たのである。
 店は構えずに自宅を所在地にして、行商をしていたのである。この人は、退職寸前に職業が重複し、古物商として商売をしていることが発覚した。
 発覚当時、階級は警部だった。数ヵ月後に退職を控え、退職後は店を構えて、大々的に商売をする予定だったらしい。ところが、退職を目前にこのことが発覚した。即懲戒免職になったのである。
 この人のその後は、懲戒免職になったために、これまで共済組合でコツコツと積み立てて来た2500万円ほどの退職金が瞬時にパーになった。内緒で刀剣売買していた警察官時代には不相応な豪邸を建てていたが、その支払いも退職金の一部を当て、完済する予定だったようだ。ところが、それも無に帰した。その後、家族は一家離散したという。今では行先不明である。

 古物商許可を取得している人の中には、会社には内緒で職業を重複させながら、社則に触れ、古物商として刀剣類を売買し、年間に数百万単位の利益を出している人もいる。勿論こうした人の中には、その年の確定申告をせずに、脱税と知らずに脱税をしている人がいる。税務署もこうした人の把握は分かり辛い。また、本人も給与から所得税相当分を差し引かれているから、自分の趣味で儲けた動産の確定申告はしなくていいと思い込んでいる。
 私の知り合いには、普段はサラリーマンをしていて、会社には内緒で古物商許可を取り、重要刀剣クラスの売買をして、その年の確定申告をせずに頬っ被りしている人がいる。また、本人も趣味の範囲であるから確定申告の必要はないと思い込んでいる。無知というか、知らないということは、実に恐ろしいのである。この意味でも、素人は実に怕いのである。

 怕いレベルの稚拙な頭で、刀剣類を扱っているのだから、世の中を知らないというか、商いを軽く考えているというか、人間は素人ほど本当に怕いと、つくづく感じるのである。
 そして、もっと怕い輩
(やから)がいる。
 それは古物商許可を得ずに、大っぴらに刀剣の売買をしている人である。そして、この手の人も、趣味の範囲だから……ということで、売買で得た利益を自分の遊興費に遣ったり、二号を囲ったり、確定申告には頬っ被りなのである。語るに落ちたとは、このことである。

 私の知人と言うか、客の一人だったのだが……、その人はある高校の体育の教師をしていて、かつてうちの店で脇差しを二、三振り買ってくれたことがあった。当時の金額で、一振りにつき4万円から5万円程度だったと思う。刀を見切らないくせに、刀が無茶苦茶好きなのである。
 そのうえ刀剣だけでなく、骨董好きのこの人は、随分と骨董品で儲けているらしく、古物商許可は持っていない。それなのに同僚や部下やその周囲の人達に、買った値段の10倍以上で刀剣類や骨董品を売りつけていたのである。
 実は、無理強いされて買わされたという人から、購入した刀の値段で相談されたことがあった。
 この人は言う、「実はFさんから、この刀を無理に50万円で買わされたのですが、これはそれだけの価値があるものでしょうか?」と、脇差しを手にしながら訊かれたことがあった。私はこれにびっくり仰天した。それは曾てFさんに安価で売ったボロ刀であったからだ。それが法外な50万円に化けていたからである。

 ボロ刀を買った人は欲しくもない脇差しを、無理に押し付けられて、Fさんから買わされたのであろうが、買う方も買う方と言いたいのだが、売る方も売る方と一蹴出来ず、もうこれは無茶苦茶である。詐欺の世界を遥かに通り越している。無知から出た詐欺で、Fさんは詐欺以上のことを働いているのだ。
 ところがFさんには詐欺を働いたという自覚症状がない。押し売りしながら、逆に恩着せがましい匂いすら漂っているのである。この人の金銭感覚ばかりでなく頭の中が分からない。

 うちの店の陳列に入れて売っていた、商いとしての値段は4万円ほどだった。高くとも5万円程度である。ボロ刀の部類である。
 商いであるから、仕入れ値に約三割の利益が載っている。三割の利益を載せても4万円から5万円ほどである。これは少しばかり高い、刀屋としては順当な値段である。それが何と、売り抜け後は50万円に跳ね上がっているのである。一体この価格は何処から出たのか……。
 種類としてはボロ刀に属する代物である。そのボロを50万円という値で売り捌き、10倍以上の儲けをせしめていたのである。この意味からしても、素人は実に怕いのである。また、無知だから怕いのである。売る方も買わされた方も無知だった。その上、確定申告はしない。売り上げが100%、ほぼ自分の純利益になっているのである。こんなことが罷り通っていいものか……。
 そして、Fさんの行為を言えば、これは明らかに古物営業法違反で、刑罰の対象になるのである。この人も警察に逮捕されれば、即懲戒免職だろう。
 これを何といっていいか、空いた口が塞がらない。素人は空いた口が塞がらないほど、仰天するくらい怕いのである。思考も行動も、怕いの一言に尽きる。

 この世界の、“ちょろネズミ”として、素人の無知が横行し、怕い素人がこれに一枚咬
(か)んで一儲けを企んでいるのである。そして、最も許せないのは、自分が完全に悪党の種属に属しているという自覚症状すら感じていないのである。
 悪党は悪党なりに、自分が悪党であることに聊
(いささ)かなりとも、お天道さまに顔向け出来ない後ろめたさと、娑婆の堅気人への憚りを持っている。堅気でないところを幾らかでも恥じている。
 ところが、悪党の自覚症状のない素人は、間抜けにも、こうしたことに痛痒も感じないのである。この鈍感さを何といおうか。
 刀剣素人愛好家の中には、この種属が実に多いのである。刀剣の、動産の意味も理解していないのである。

 そこに目を付け、薄汚く儲けを企む、商売っ気のあるサラリーマン古物商もいる。しかし商いの厳しさを知らない、所詮サラリーマンである。サラリーマンの多くが、脱サラして一商人として商売を始めたら、その日のうちから糊口
(ここう)を凌(しの)ぐ手立てがなくなるだろう。決して凌ぎきれないだろう。そして脱サラから、やがて路上生活者へ……という転落も決して珍しくないのである。
 サラリーマンと古物商を重複させているサラリーマンは、趣味の世界で“刀剣の売買ごっこ”をしている実情がある。しかし、あくまでも趣味の世界のもので、趣味の範疇
(はんちゅう)を出るものではない。そしてサラリーマン古物商こそ、眼識の欠如を補うために認定書や鑑定書を後生大事にする傾向があるようだ。それを楯に“売買ごっこ”を成立させるのである。実に怕い世界を演出しているのである。

 怕い世界を、世間では地獄などという。
 現実にも地獄は幾らでもある。人間は生きながらに地獄を体験せねばならない。
 曾ては受験地獄などと言われ受験生が苦しんでいた。また、交通地獄などといい、交通事故の発生で苦しむ人がいるし、サラ金地獄などと言って多重債務で苦しんでいる人がいる。
 ところが、素人が演出した地獄は、自覚症状や痛痒も感じない無自覚地獄のため、釜ゆでのような地獄に首までドップリと浸かりながら、熱湯で自分の躰は煮え爛
(ただ)れながらも、それに自覚症状を持たないのである。熱湯で自分の躰は煮詰まりながらも、全く痛痒を感じないのである。一番怕いのはこの点である。これは鈍感という次元のものでなく、明らかに無知なのである。この無知こそ、犯罪であり、そこに人間の無知の怕さの側面があるのである。

 本当の悪党は、悪党然とした自覚症状を持つ人よりも、企業という安全圏の温室の中に居て、片手間で、趣味のレベルで刀剣を愛好し、一儲けを企み、それに関して全く自覚症状を持たないこうした手合いを、実は本当の悪党というのかも知れない。そして、この手の悪党の掲げる認定書や鑑定書こそ、実に厄介なものはないのである。
 元々この手の悪党は、自覚症状のある悪党から散々カモにされて、吸い尽くされ、出し殻になってそれでも自覚症状がなく、後生大事なるものを携
(たずさ)えているのだから、実に始末が悪いのである。
 私は幾度となく、自覚症状のない「素人の怕さ」を見て来たのである。その怕さの最たるものは、素人とは、自分は悪党とは無縁で、善人の代表者のような顔をしていることであった。

 私が検
(み)た中で一番怕いと感じた種属(スピーシーズ)は、素人の怕さであり、自覚症状のない、裁判所が定義する“善良な市民”とい階層だった。多くは中産階級に属しているので、悪党とは無縁の世界に住んでいるという思い込みある。
 しかし、人間である以上、悪党とは無縁で居続けることが出来るだろうか。
 この世界は善悪が綯い交ぜになって構成されているのに、悪に関わらず、稚拙な幼児的思考で、善だけの世界が出現でもすると思っているのだろうか。
 もし、それを本当に信じているのなら、既に楽天家を通り越して、無知蒙昧な生き物に人間は成り下がる以外ないだろう。何とか自覚症状を感じてもらいたいものである。痛痒を感得してもらいたいものである。


 ─────さて、悪党を予防するには、自身も悪党であることが肝心であり、刀屋はこうして生き抜ける智慧を身につけて行くのである。俗界の悪に身を置きながらも、悪に染まらないというのが生き抜ける生き方ではあるまいか。これ、現象界の絶対真実!自信を持って断言出来る。
 悪党が企む騙しの術は、悪党でなければ分からない。善人では、また、お人好しでは、到底刀屋は勤まらないのである。
 贋作を掴まされれば、喚いても仕方ない。勉強をしたという気持ちで、これまでの淀
(よど)んだ、憤懣(ふんまん)やる方ない気持ちを切り替え、次に臨むしかない。一部に出回っている認定書や鑑定書も信用の置けないものがあるのだ。そう、値踏みする以外ない。
 そしてこうした物は、経験の少ない、また鑑識の乏しい素人が一番の被害者であり、被害者の中には、自分の愛刀を頑
(かたくな)に本物と信じ込み、更には刀剣書籍などに掲載されている刀剣の価格表を額面通りに信じているのである。

 だが、刀剣の価格というものは、あってないようなものであり、売りたくても、買い手が居なければそれは何の換金も出来ない代物なのである。
 更に追言すれば、刀剣価格というのは、作力の出来と刀工自身の経歴によって価格に相違があり、まず一様ではないということである。同じ刀工でも、出来映えに相違がある。したがって刀工名が同じで、銘がよかったとしても、当然そこには開きがあり、これに価格を確定することは至難の業なのである。
 しかし、素人にはこの理論が通用しない。素人ほど思い込みが激しく、暗い固定観念が強く、私はこれまで刀屋をして来て「素人ほど怕
(こわ)い」と、つくづく考えさせられるのである。思い込みによって自分のポーズを作っているからである。先入観も甚だしいようだ。それでいて、昨今はネット情報が溢れていることから、情報のみを鵜呑みにし、女に限らず男も、完全な耳年増になっている。

 素人は怕い。
 確かに素人は怕い。
 しかし、怕いのは素人だけではなく、そもそも人間が怕いのである。人間と言う生き物は、慈悲を抱えている反面、その一方で、人を遣り込める怕いものを持っているのである。
 その怕さをもって、認定書や鑑定書の示す通りを信じ、更には刀剣の価格に付いて、書籍の示す通りの額面を信じて疑わないのだから、まさにこれこそ「怕い」を地で行く生き物となる。

 その生き物が、価格表から一割差し引いて大負けして売ってやるから、これを買い取れ……などと押し売りに来るのである。空いた口が塞がらないというか、バカも休み休み言えといいたいところである。自分の物を、とにかく高く見積もっているのが、自称刀剣愛好家という素人の、百万円以下の刀剣を所持している連中である。
 時にはこうした連中が店に押し掛け、陳列に展示している物を貶
(けな)し、自分は、さも凄い物を所持しているなどと豪語するのである。こうした連中に、何度手の灼(や)いたことか。

 さて、日本刀に関して、これに鑑定を付け、それを証明するのは次のものである。
 ちなみに民間団体指定の認定書で、最も信用と信頼の高いものは財団法人・日本美術刀剣保存協会の発行する認定書類である。

官民別
文化的価値として美術保護等級
国指定
国 宝
重要文化財
重要美術品
民間団体指定(例/財団法人日本美術刀剣保存協会)
特別重要刀剣
重要刀剣
特別保存刀剣(旧通称、甲種マル特)
 
(旧甲種特別貴重)
保存刀剣(旧通称、マル特)
(旧特別貴重刀剣または旧特別貴重小道具)
旧通称、白紙
(旧貴重刀剣または旧貴重小道具)

 また、財団法人・日本美術刀剣保存協会以外の認定書には、日本刀剣保存協会の審定書、法人美術刀剣鑑定倶楽部の鑑定書、そして個人では得能一男氏の鑑定書や藤代松雄氏の鑑定書などがある。
 その中でも信用と信頼の高いものは財団法人・日本美術刀剣保存協会の認定書である。これは愛刀家の誰もが認めるところだろう。複数の鑑定士が評議を行うからだ。
 それだけに信用度が高いが、それが逆利用されて、巧妙に偽造した認定書が出回っている。旧認定書の発行をやめて、表現も「特別保存刀剣」や「保存刀剣」として名が改められ、中茎の写真を撮るなどして、厳重な認定書を発行するようになった。
 しかし、幾ら厳重と言っても、偽金造りの技術には及ばないだろう。厳重になったとはいえ、それでも偽造は可能なのだ。認定書改良後にも、認定書の偽物を見たことがある。それは殆どそっくりだった。微妙に違っているのは、押形割印の書体や間隔が微妙にズレているところだけだった。非常によく似た贋作が持ち込まれれば刀屋でも騙されるだろう。

 財団法人・日本美術刀剣保存協会の最低ランクは、保存刀剣である。
 ところが、特別保存刀剣になると中々合格しない。申請しても落とされる。厳重に鑑定される。その結果、曾ての在銘入りの甲種マル特
(甲種特別貴重刀剣)すら、不合格になってしまうのである。甲種マル特を特別保存刀剣の審査に提出したのであった。
 ところが、不思議なことに同質・同名・同程度・同時代の刀剣は、刀剣書籍にも高位にランク付けされているのである。同質・同名・同程度・同時代の物は、ちゃんと特別保存刀剣になっているのである。どうして、私の物に限り?……と頸
(くび)を捻りたくなる。
 研ぎが悪かったのか?……、保存状態が悪かったのか?……、そういう反省をして見るが分からない。これこそ日本刀剣界の七不思議である。

 それに比べて、甘いのは保存刀剣であり、無銘で、素延べでなければ大抵の物は保存刀剣が付いてしまう。磨
(す)り上げでも、また偽名だった物の銘を削り落として、無銘として出せば、これでも大抵の物は何処かに行き着いて認定が付く。それも奇妙な、実におかしなとろに行き着く。偽名を削った物は、結局は何処かに行き着かせなければならない理由があるのか、後で認定結果を貰って笑い出してしまうことがある。
 出所を知っているだけに、つい可笑しくて嗤
(わら)いが漏れるのだ。よくぞ、こうまでして何とか結びつけたという、審査員のご苦労を労いつつも、嗤いが先きに出てしまうのである。
 貰った後に、ご苦労さん……といいたいところだが、こじつけがましいところは、どうしても嗤いが先行してしまうのである。しかし、本当にご苦労さん……、そうも声をかけてやりたい。
 長生きしていると、いろいろ奇妙なことに遭遇しますよ……。
 これがいいことか悪いことかは知らないが、お守りを貰うには、これしかないらしい。一筆のお墨付きは、素人愛好家の安全弁になっているからだろう。

 一方、財団法人・日本美術刀剣保存協会の認定書以外のものは、偽造したものを殆ど見ない。知名度が低いためだろう。
 私の経験としては、一度、藤代の鑑定書が付いた刀を、財団法人・日本美術刀剣保存協会の「保存刀剣」の審査に出したら、思った通り不合格で一蹴されてしまった。単独鑑定の眼力の甘さだったのだろうか。
 このように、個人のものは知名度が低いだけでなく、眼力も甘いようだ。素人愛好家の中には、藤代の鑑定書を後生大事にしている人もいる。お守りだから、それはそれでいいだろう。お守りは後生大事にしている時が華なのだ。

 また、財団法人・日本美術刀剣保存協会発行の「甲種特別貴重刀剣」の認定書の付いた刀剣を、再審査のつもりで特別保存刀剣を付けようと思って審査に出したら、「特別保存刀剣は無理。妥当は保存刀剣」という回答で、突き返されてしまったことがあった。
 私としては「何とご無体な……、何と理不尽な……」と嘆きたいところだった。そして、しかしそれでは?……ということになる。些かの疑念が起こるのである。
 では、あの甲種マル特は、何だったかということになる。
 なぜ旧認定書群に貴重刀剣から始まり、マル特
(特別貴重刀剣)になり、更に甲種マル特が存在するのか?……ということになる。
 つまり、旧甲種マル特は、改正後の「保存刀剣」のレベルまで引き下げられてしまうのか?……ということだ。番狂わせも甚だしいではないか。

 これを逆に見れば、曾ての甲種マル特でも、それを認定した鑑定の眼は甘かったということであり、認定にばらつきがあり、甲種マル特でも最低ランクの保存刀剣にしかなり得ない、同一刀工の“ヤワな刀剣”も存在するということである。微妙な差の出来・不出来があるということだ。あるいは同一刀工でも出来・不出来に大差があるがあるということだ。

 では、刀の中茎に刻まれた銘とは何なのか?……という率直な疑問がわく。刀工は苦労までして、何で自分の銘を刻んだのだろう?……という疑問が出て来る。出来が悪ければ無銘で出せばいいではないか。それを無銘にせず、刀工が刻んだ銘は徒労だったのか。
 そうなれば認定するという、この判定も納得のいかないところである。無意味になるからである。そのうえ特別保存の審査料は返還されない。お守りにしては少々高い月謝である。理不尽という他ない。
 以上の結果から悟ったことは、鑑定士のそれぞれの見立てで、真偽のほどが大きく違って来るということだ。銘がよくても程度が悪いということになる。
 見立てをする眼が変われば、結果も違うということだ。そして追言すれば、この世の中は刀剣の世界に限らず、人間の世は、これこそが理不尽で固まっている世界だといえなくもない。

 私が人間社会で学んだ最終結論は、この世の中は何処もかしこも、理不尽であるということである。理不尽が横行していることである。この世とは、ろくでもないところなのである。
 ろくでもないという言葉が出たついでに、この“ろくでもない”という言葉を、わざわざ私のところに来て聴かせてくれる、ある刀屋の若旦那の話をしよう。

 この若旦那は、昭和50年生まれで、私にも彼と同年齢の息子がいるが、この若旦那の感心するところは、朝から晩までよく働き、中々のアイディアマンで、頭の回転が早く、年間一億円以上を売り上げ、年に何回かは東京などのデパートで展示会も開いている御仁
(ごじん)だ。
 商売上手で、刀屋に客の来るのを持って居るのではなく、打って出るのである。売り方を企画するのである。普通、刀剣は一度買ったらそれまでだ。ところが、この若旦那は前の物を下取りして、更に一ランク上の物に買い替えさせるのである。これを次々に行って、決して売りっぱなしでない。その後の修理等のメンテナンスとアフターサービスがいいのである。
 若いながらに、なかなかの老獪な商売人である。

 その彼が、時々うちに遣って来る。
 遣って来て開口一番、「先生
【註】私のところは道場もしているし、娘や息子も刀剣商をしている。そこで彼は私を先生と呼ぶ。弟子の手前からだろう)、世の中って、ろくでもないところですね」という切り出し口上から話を始めるのである。
 すると私は「ああそうだよ、君はよく知っているじゃないか」と相槌
(あいづち)を打ってやるのである。

 彼は、世の中は理不尽と言いたいのだろう。そう見ているのだろう。確かな観察眼である。よく観ている。
 それに親の仕込みが一流とあって、実に頭が低い。揉み手こそしないが、頭が低い。
 その頭の低さをどうしてか、と訊いたことがある。

 すると彼は「商いをするとは、購
(あがない)いをするということなんですよ」というのだった。
 この若旦那は、「商い」と「購い」は、元々同じ言葉だったというのである。それゆえ商いをするのは購いをしているのだというのであった。赦
(ゆる)しを乞うために商いをしている。商いをして、あがなっているのだという。過去の罪を商いをすることであがなっているという。彼の言を、なるほどと思うのだった。だから商いをするには、人より低く頭を下げ、ふんぞり返っては購いにならないというのだった。
 そして最後にぽつりと一言。
 「人間って、罪深いから、ろくでもない地球で人間を遣っているのですよ。そこで購いをしたり、病気に罹ったりと、さまざまなろくでもないことを体験しなければならないのですよ」と、何か悟りきった禅僧のようなことを言うのであった。

 昭和50年生まれのこの歳で、世の中をろくでもないところと検
(み)るのは、実に観察眼がいいという他ない。父親の店で外交の刀屋商売をしながら、人間をじっくり観察しているのだろう。そして、人間と言う生き物を詳細に観察しているのだろう。
 その観察の結果、この世の中を包含して、ろくでもないところと検たのである。若輩ながら確かな観察眼をしていた。

 そして、彼には同年齢の奥さんと、小学校に上がった二人の娘がいるが、家では子供達に殆どテレビを見せず、それかといって勉強しろともいわず、彼自身、夜九時になると、もう寝てしまうというのである。そして翌日の早朝四時に起きて、その日の一日の仕事の行動プランを考えるというのである。これでこそ、豪華なマンションに棲み、高級車を乗り回し、若いながらに悠々自適で遣って行けるのだろう。一億円を売り上げる、今時珍しい若者を観た思いだった。

 金の勉強も、よくしているようである。利益率の瞬時計算も速いが、貸借対照表や損益計算書が読め、税務にも詳しいのだ。公認会計士や税理士任せではない。笑顔で「うちの刀屋が潰れたら、二、三年掛かりで、税理士の勉強を始めますよ」というのだった。
 彼の財布の中には、万札が二百枚ほどいつもぎっしり詰まっているが、その金は急な出物に備えて持っているのであって、無駄遣いするための金ではないそうだ。金の活かし方を知っているのである。そしてケチでないところが、彼を大きくしているのである。持って生まれた性分だろう。人当たりがいいためか、少しばかり調子のいいところもあるが、自分の人生を重く受け止めているところは称賛に値するようだ。

 私もこれまでいろいろな刀屋を見て来たが、多くは非常にケチな人間が多い。ケチで無駄金を遣う者が多い。死に金を遣う。がめついだけである。利得に抜け目なく、押しが強いが、肝心のところで逆転劇に遭遇する。
 かつて菊田一夫の戯曲に『がめつい奴』というのがあったが、庶民の遠吠えに過ぎなかった。我武者羅根性ドラマである。押し一点張りの商魂ドラマである。
 “がめつい”とは抜け目のないことを言う。ケチの別名でもある。
 これは成功する教訓を示したものでなく、大阪でも“がめつい”と揶揄
(やゆ)されれば、一瞬身を引く者が多い。これが、押しだけの、がめつい商法では成功しないということを物語っている。引くことも肝心であり、損も、将来の月謝という気持ちでなければ成就は覚束無い。途中で挫折する。諦めてしまうからだ。投げ出してしまうからだ。

 人間は、諦めが迫られる時は、死ぬ時だけなのである。師が確定した時点でのみ、諦めればいい。今まさに死なんとする、その目前の時だけだ。死が決定的になった時だけだ。それ以外は諦めてはならぬ。
 早々と、余力が残っているくせに諦めてはならぬ。余力がある限りは戦うべし。諦めて、もはやこれまでと覚悟するのは、決定的な運命が免れぬと知覚した時だけである。つまり、断末魔を苦しみを目前にして、死んでみる以外、手がない場合、そこで始めて「諦め」となる。こうなれば、この期
(ご)に及んでの、ひともがきは無用である。
 それ以外は、ひともがきも、ふたもがきもする必要がある。徹底的にもがけばいい。
 もがくことの出来ない人間は、将棋でいえば「つん」でいる。人生はそれで終焉
(しゅうえん)している。簡単に終焉してしまうような人間に成功はない。
 これこそ典型的な、刀屋で成功出来ないような人間である。

 次に、「こだわる」人間も、頑迷から抜けきれず、刀屋では失敗するだろう。
 昨今は、こだわり……といえば、何かいいことのように宣伝している。ところが、その実体は愚者であり、迷うから頑迷にこだわるのである。こだわるから、一つの小事に、うじうじする……のである。何で、こだわってよいものか。

 曾て、私はあるお客の好意で、ある有名な寿司屋に招待されたことがあった。その寿司屋のオヤジは、テレビなどにも頻繁
(ひんぱん)に出ていて、タレント寿司職人で名を馳(は)せていた。性格は職人風情の小心者らしく、強きに靡(なび)き、弱きを見下す、横柄でタレント擬の尊大な態度をとるようになっていた。“われこそ勝ち組の第一人者”という態度だった。
 そして、この職人の“こだわりの逸品”を食べたとき、私は、もうこの人は終わっているな……と感じたのだった。それから間もなく、この人は倒産の憂き目で寿司屋を畳み、夜逃げしたと聴いた。
 こだわりの結果の結末は、実はこれだった。
 私が検
(み)るところ、この職人は、こだわりにこだわった人だったように思う。そして、こだわる人の共通点は、みなケチである。

 購いをする商売人が商売で、ケチであっては成功は覚束無い。途中で挫折する。だからといって気前がいいだけでは、なお成功出来ない。
 ケチは「死に金遣い」である。迷う人間である。迷いの多い、渋る人間は成功しない。この種属
(スピーシーズ)をケチという。特異な生物学上の種である。この種は、墜落の暗示がある。
 二言があっても仲間外されて成功しないが、ケチであっては絶対に成功しない。
 ケチは、持って生まれた性癖であり、種属特有の特性だから、実は治しようがない。こだわる人も治しようがない。こだわりは拘泥の心から生まれるのであって、こうした、持って生まれた頑迷な性癖は、実は治療の方法がないのだ。先天性の不治の病の罹病者だ。
 この罹病者に、“こだわり”とか“こだわる”という単語を連発する人が多い。
 それ故に私の場合、自分の取り巻きに、こだわるとか、こだわりのなどという単語を連発する人間は、敬遠して決して近付けないようにしている。こうした、こだわりの類を近付けると、自分も巻き込まれて運命を危うくするからだ。

 こだわって、運命を危うくした人間を何人も知っているからである。そして、こだわる人間はケチである。小人
(しょうじん)である。大人(たいじん)の要素は、一欠片も感じられない。
 こだわって、こだわり過ぎて、会社を潰してしまった職人上がりの、ある会社の社長の断末魔を観て来たからである。決していい物ではなかった。職人上がりのこの社長は、こだわるの一念で断末魔に喘
(あえ)ぎながら無慙(むざん)な人生を閉じた。
 こだわる人は、刀屋の職人の中にも居た。
 研師でも鞘師でも塗師でも、また柄巻師
(組紐師やハバキ製作などの彫金師)でも、そして刀工でも、小道具金具師(鍔師、縁頭および目貫師)でも、こだわった職人の作品で、これは……というものは出来ない。惚れ惚れするような物は、一度も見た事がない。何処か、偏って歪である。こだわりは、また“偏り”でもある。

 それは料理職人も同じことだ。
 こだわり料理を特異とする料理人は、見掛け上は目眩
(めくら)ましが上手いために、素人を騙すのは上手い。しかし、それだけの技能しかない。故に尊大なことを豪語する。小人に限って尊大なこという。
 こだわりの料理人では、お先が見えているし、こうした職人の料理は、こだわるという頑迷さも一緒に盛り込んでいるので、味の分かる人が食べれば、ちっとも美味くない。実に不味い。
 こうした、こだわりの料理人の料理に舌鼓を打つのは、“安かろう悪かろう”の実態を知らない、お手頃特典価格で、蝿が群がるように参集した三流四流の客ばかりである。味覚音痴の特典好きな客を集めて、得意満面になっている職人は、実に哀れである。ケチの成れの果ては、ケチしか集められない。こだわれば、その程度の人生が待ち構えている。結末は蛆
(うじ)が集る人生でしかない。

 ケチは病気である。病気だからこだわる。こだわりは真理の探究などではない。
 それはどういう病気かというと、感性が壊れた病気である。あるいは感性が麻痺した病気である。感性が壊れているから直感が働かない。つまり勘であり、第六感機能である。この機能が麻痺しているか……、錆び付いて閉鎖されているか……、あるいは最初から壊れているのである。予言能力が皆無である。
 二者択一で、右は左かの分岐点に立たされると、明確な決断に躊躇
(ちゅうちょ)する。この躊躇が、則ち迷いである。
 信念がなく揺れ動いている。そして、こだわって揺れ動かなければ、これを“頑迷”という。この迷いを“頑迷固陋
(ころう)”というが、自分の考えや、古い習慣にかたくなに執着する人のことを、こう呼ぶ。

 したがって、この罹病者は特長として「迷う」のである。決断を前に、時間が掛かるばかりでなく、散々迷うのである。優柔不断が堂々巡りするのである。見聞が狭いからだ。度量の許容量が小さいからだ。ゆえに小人
(しょうじん)という。小人のレベルでは、最初からケチになる。
 臆病なる人間も、ケチの症状を起こす。ケチの自覚症状が診られる。この先天的症状から誘発しているケチは、生まれ堕
(お)ちた後も継続される。それが後天的症状として、その後の人生に大きな影響を与える。
 人生で、幸せと成功を願い、わが身一つを護り通す気持ちがあるのなら、まず防御策としてケチは避けることであり、ケチな人間を自分の身の回りに置いてはならないことだ。
 ケチは伝染病であるから、ケチが身の回りに寄生すると、それがやがて自分にも伝染する。感染して、自らもケチの症状を示す。これだけ恐ろしい。ケチは先天的不治の病だ。生涯、罹病すれば治ることはない。死ぬまで背負う。

 人間は生まれながらに平等だという。アメリカの独立宣言には、そう書かれている。
 アメリカ合衆国第三代大統領ジェファソンが起草した宣言の語の一部を借りれば「
(中略)すべての人々は、平等に創られたものである。すべての人々には、彼らの創造主によって、一定の譲渡すべからざる権利があたえられている。これらの中に、生命、自由および幸福追求の権利がある……云々」とあるが、荒唐無稽の宣言だ。人間は平等などではあり得ない。人間ほど不平等な生き物はない。
 平等でありたいと願うことと、平等であることは違う。この本質を見極めるべきだ。

 それを如実に示すのが、人間の行動に顕
(あら)われる“ケチの現象”である。ケチが表示する“こだわり”のポーズである。このポーズこそ、病気だ。
 この症状に冒されている者は、死ぬまで治らない。死ぬまで治らないのはバカだけではないのだ。ケチも治らないのである。精神機能の欠損状態を示す。人間は平等でないから、こうした機能が最初から壊れているのである。

 したがって、ケチの星回りに生まれた人間は哀れである。そんな哀れな人間も、私はこれまで多く観て来たのである。同時に、同じ数くらい、ケチでない潔い人間の姿も見た。
 うちに出入りする刀屋の若旦那は、若輩ながら、一つの信念を持って動いていた。
 夜九時になったら寝るという彼に、こう言ったことがある。

 「夜九時とは随分と早く寝るんだね、それもテレビを見ないとは。私も、年寄りだから夜九時になれば床に付くが、君のような若者が、夜九時とは……珍しいねぇ」
 すると彼は「先生。果たして夜九時以降、起きていて見なければならないテレビ番組がありますか?」と、逆に叱責するように訊くのである。そして「深夜、どうしても見なければならない番組があれば、文明の力であるビデオに録画すればいいじゃないですか」と、付け加えるのだった。
 私はその都度、「おもしろいことを言う」と、感心しながら聞き流すのである。
 世間に流されない信念のようなものを感じた。彼は、流行やファッションの仕掛人の策に躍る……そのような人間でないことが確認出来たのだった。信念の自分が居るのである。

 世の中はろくでもないところ……。
 こうした言葉がすんなりと出るのは、観察眼を持った信念の自分が居るからである。
 あるいは他人に揉まれて苦労の末、この世が、ろくでもないところと知覚したのだろう。
 近年、稀
(まれ)に見る若者である。おそらくこの若者は刀屋で成功するだろう。
 それに比べ、わが息子は……ということになる。爪の垢
(あか)でも煎じて飲ましてやりたいほどだ。末坊主にも暫(しばら)く刀屋を遣らせていた。

 そこで、末坊主には暫く刀剣会での市で、丁稚を遣らせたことがあった。観察眼を養わせるためである。人の勉強をさせるためである。そして坊主に言うのであった。
 「あの若旦那の行動をしっかり観察して、そこから何かを学び取れ」と。

 すると、野郎の学んだことといえば、何と、若旦那の物真似だった。彼の競
(せ)り声を、そっくりに真似するのだった。
 「
(一瞬咳払いをして)エッ〜っ、この鍔……。一万円、一万円。一万円はないか……、(その間、ご丁寧に周囲を見回す若旦那の仕種まで真似する。目付きまで若旦那の真似をする)それでは九千円、九千円、九千円……。うーん、九千円でもない。困った困った、本当に困った。これでは会の競売が成立しない。今度はどうだ、ヤケクソの半値だ。五千円、五千円、五千円!……」と、競(せ)り特有の濁声(だみごえ)の、若旦那の声色(こわいろ)を真似て、競りの様子を再現するのだった。
 私は思わず怒鳴った。
 「バカやろう!お前は奴の何処を見て来たのか!」と叱責するのだった。何のための丁稚か!と怒り心頭に来たのだった。
 しかし、幾ら叱責しても意に介さず、愚息の観察眼はこの程度であった。勝負有りという感じがする。

 確かに、この世はろくでもないところだが、ろくでもない世界に住む人間も、ろくでもない生き物なのである。人間は誰でも平等でないところが、また、ろくでもない世界を出現させているのである。
 私にとって刀屋とは世間を、人間を観察する一つの観察点であった。



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