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刀屋物語 2



刀剣の柄は遣い手の手の延長部分を代表している。柄を介在して刀剣は手の延長となるのだ。そして、その要となるのは、柄巻きの善し悪しである。
 柄はまた、中茎を納める生命線であり、それはあたかも魂を包む肉体に相当する。



●日本の近代史に義士として浮かび上がった新撰組

 曾て、立ち居振る舞いの書物(この本の正確なタイトルは忘れてしまったが)の中で、「神社参拝の詣で方」という項目を読んだことがある。
 作法としての立ち居振る舞いは、社殿に続くまでの神社参道を歩く場合は、中央を歩かずに左右何
(いず)れかの端(はし)を歩けというものだった。絶対に中央は歩いてはならない。中央は、神の歩く道でそこを人間が歩いてはならないということだった。人間は端を歩くこと……と定められているというのだった。

 人間は神ではない。
 人間は参道の真ん中を歩いてはならない話は、この書物を知る以前に平戸の祖父母から聴いて、早くから知っていた。子供心に、神社仏閣には神仏がおいでになり、その中央は常にそうした尊い方が鎮座され、あるいは行き来され、人間は頭を低くして憚
(はばか)るように端を歩かねばならないと聴かされているのであった。それを当り前だと思っていた。この神秘なる論理を、何の疑うことも知らなかった。神仏に対しては武門に限らず、他でも親からそのように教育されたものだった。

 ところが、である。
 かつて幕末期の小説や、それを時代背景にした映画やテレビドラマを見ると、二本指しの武士が参道の中央を通り、大刀同士の“鞘当て状態”あるいは故意の“鞘当て”となって、「お前が悪いの……どうのこうの……」という話になって、「無礼な……」と口論し、遺児同士がぶつかり合い、小競り合いとなって、遂には刀を抜く場面を見たことがある。
 しかし、考えて見れば不可解なことである。

 何故ならば、武門の家ではこうした立ち居振る舞いの常識を子供の時から厳しく躾
(しつ)けるからである。礼儀として躾けるのである。
 したがって、“武士にあるまじき事”となる。
 考えただけでも、サムライ同士の鞘が触れ合い、鞘当てになるのは最初から意図した事か、あるいは何れかの不注意でそうなったのか、それ以外に考えられないことだが、こうした現実が派生したのは、立ち居振る舞いの不心得から起こったものと考えられる。そして相手を見下せば、こうした現象は礼儀知らずから始まり、意図的に、故意に起こるものである。

 また、故意に当てたり不注意で当てたのなら、これは紛れもなく恥知らずである。武士の風上にもおけない。サムライ失格である。この手の話は、演劇などでも見るが、多くは作り話の可能性が高い。
 武士階級が存在した時代、サムライというのは一種の教養人だった。教養人と言われる以上、勿論礼儀も正しく心得ていたはずである。その教養人が、今日の武道家や格闘家に見るような恥知らずの振る舞いをする人は極めて少なかったと思われる。
 武士道残酷物語……などという、武家の世界の残忍で残酷性を描いた物語があるが、これは実際に江戸期以前に存在した実話でなく、日本が先の大戦で負けた敗戦後の作り話と考えられる。武門の残酷性は皆無でないにしろ、近年に作られたような武士階級を卑下する物語は、多くは作り話である。
 こうした物語の構成は、一方が善で、一方が悪と定義することから始まり、善が最終的には悪に勝つストーリーになっているからである。


 ─────時は幕末。
 それは変動の時代だった。
 それもただの変動ではなく、大変動であり激動の時代だった。一旗組は、こうした時代の保身と便乗を計った。
 激動の時代には、人間の感性は不安定となる。拮抗を失う時代である。不穏から心身はアンバランスになり、あるいは一旗組は天変地異の異変と大変動により、一儲けや二儲けを企む。濡れ手に粟
(あわ)を目論む。

 江戸期の末期、日本はそう言う時代ではなかったかと思う。
 維新前夜は、まさにそう言う時代だった。世直しだ……維新だ……身分のない平等な社会だ……日本の夜明けだ……新しい日本だ……と称し、荒唐無稽な発想を想起して、世に野党と言われる集団が暗躍した。

 日本の夜明け……などという発想こそ、実は荒唐無稽に他ならなかった。新しい日本の構造の裏には、旧体制が転落し、それに代わって西南雄藩の下級武士が擡頭
(たいとう)しただけであった。下々の、士農工商の四民のうち、ラッキーを掴んだのは一部の武士階級と豪商だけだった。
 明治維新が、形として少なからず達成されたのは、外圧によっての企みが成功したからだ。勤王の志士独自で、維新を達成することは不可能だった。この維新は背後に革命という現象が横たわっていたからである。尊王愛国ではなく、当初のスローガンの尊王攘夷は、結局は開国によって外国の軋轢
(あつれき)に屈しなければならなかった。

 尊王攘夷と言えば聞こえがいいが、豪語する一派には赤報隊のような形だけの寄せ集めの軍隊も実在した。そうした奇兵隊とは異なる種々の集団は、軍隊というより野党の類
(たぐい)だった。
 傲慢な野党の類
が、武器もなく武装も知らない弱者を食い物にし、無理難題なる名分を突き付けて、婦女子を犯し、陵辱(りょうじょく)の限りを尽くし、そして野党集団は底辺の者から多くを奪った。陵辱したのは、行きがけの駄賃として、である。また意図的に、である。治安は乱れに乱れた。尊王攘夷が仇(あだ)を為していた。

 大義の前には、人は平伏
(ひれふ)す。
 それに“ご維新”と叫べば聞こえがいい。誰もが便乗し、世の中は騒然となった。便乗組の騒然を企む節もあった。時代の変わり目には便乗組が横行する。聞こえのいい大義名分を掲げて、悪党が横行する。そして悪党どもは背後の手で操られ、傀儡
(くぐつ)人形のように躍らされる。陰の傀儡師から躍らされる。幕末とは、尊王攘夷を大義名分に掲げた、外圧の傀儡師に躍らされた時代であった。躍らされる以上、ある一定の流脈を見る。
 世の中の流れを一方に誘導する意図的な流れである。野党が暗躍する流れである。維新前夜はそう言う時代だった。それゆえに、小説にもなり、映画やドラマ化し易い。日本の夜明けと言えば、それだけで立派な大義名分だった。野党でも大義名分があれば、勤王の志士になれた。十六世紀の乱世以来の下克上が起こった。逆転を狙って奔走が始まった。西南雄藩の下級武士の中からこうしたアクションが始まった。そうした背景に新撰組が登場したと言える。

 文久二年
(1863)江戸幕府は、庄内藩郷士・清河八郎(きよかわ‐はちろう)の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集した。
 更に翌三年、集まった二百名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上するに至った。ところが浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。それは清川が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇麾下の兵力にしようとする画策が明るみに出かたかである。浪士取締役は浪士組を江戸に引き戻そうとする。

 しかしこれに反対したのが、芹沢鴨
(せりざわ‐かも)を中心とする水戸派の新見錦(にいみ‐にしき)、平山五郎、野口健司らと、また天然理心流の試衛館派である近藤勇を中心とする土方歳三、山南敬助、沖田総司らであった。あくまで京都の警護を主張したのであった。
 何れの派も、武芸に優れた浪士集団だった。京都守護職に所属し、京都市中を警備する警備隊を編制した。過激なる尊王攘夷派らの鎮圧にあたるためである。
 武芸巧みなる者の代表格は芹沢鴨だった。
 芹沢は戸賀崎熊太郎に神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたという。何しろ腕が立つのだ。桁外れに強かった。
 その一方を担っていたのが近藤勇を局長とする試衛館勢力だった。武州多摩の剣豪集団だった。その長たる近藤の差料は『虎徹』と言われていた。無銘の虎徹と言われていた。

 今日、新撰組は歴史的評価が変わり、『幕末の義士』などと言われている。いつの間にか“義士”と言われ始めた。勤王の志士も義士ならば、新撰組も義士となった。この時代、義士同士が戦ったことになる。不思議な時代である。
 歴史家達は当時のことを思えば、新撰組も日本の将来とビジョンを創出しようと懸命に奔走したのだから、彼等も義士と称しておかしくないとランク付けしたようだった。

 ところが、私が子供の頃、新撰組は悪役として悪の烙印を押された集団であり、「壬生の人斬り狼」などと侮蔑されていた。おぞましき集団と毛嫌いされていた。
 その当時の子供向けの映画として『鞍馬天狗』や『月形半平太』などがあり、鞍馬天狗や月形半平太は、新撰組に対峙した絶対善であった。一方、新撰組は絶対悪だった。悪の親玉が近藤勇だった。
 故に、近藤勇の愛刀虎徹は“人斬り包丁”と揶揄
(やゆ)され、殺人剣などと侮蔑されていた。
 鞍馬天狗の物語は、幕末を舞台に「鞍馬 天狗」を名乗る勤王の志士が縦横に活躍をするさまを描いた、大衆小説の代表作である 。当時は絶賛の人気を博した。大衆から支持を受けていた。頭巾を被った覆面の主人公が善を勧めて、京都では悪の代表格である新撰組を懲らしめるという構図である。
 『鞍馬天狗』の歌にも、こうある。

 鞍馬天狗のおじさんは、正義の味方よ 良い人よ…… 

 鞍馬天狗は勤王の志士であり、正義の味方だった。良い人だった。そして、鞍馬天狗の敵対相手は新撰組だった。鞍馬天狗の物語に従えば、「新撰組をエイ・エイ・オー」とやっつけねばならなかった。新撰組こそ悪玉だった。
 更に新撰組局長の愛刀は虎徹であり、また講談などには、「今宵の虎徹は血に餓えている……」などと、本来は近藤勇と虎徹は無関係なのであるが、自称の愛刀が虎徹だったので、それを連想させてしまうのである。
 また近藤自身も、自分の刀を“無銘の虎徹”と思い込んでいたので、それが講談等で盛んに語られ、こうして“虎徹イコール近藤”あるいは“近藤イコール虎徹”という図式が後世に成り立ってしまった。
 子供の頃は、私もそう信じていた。宣伝の額面通りに信じて疑わなかった。

 更に、ある小説には新撰組の横暴が描かれた場面があった。つまり、鞘当てである。新撰組の隊士の誰かが、神社で、勤王の志士と、当たったの当たらないのと小競り合いを起こす場面があった。無理難題の因縁を吹っかけるのである。最初から善悪が分かれ、悪の槍玉に新撰組が挙げられていたのである。そんな話の小説を、子供の頃に読んだことがある。子供の頭には、悪イコール新撰組の図式が出来上がっていた。
 その小説には、近藤の愛刀虎徹は「殺人剣」などと豪語され、あるいは人斬りの新撰組を「鬼の集団」と侮蔑していた。そして虎徹共々、虎徹が人斬り集団の持ち物のように描かれていた。
 子供の当時の私は、それを100%信じたのであった。

 ところが十代後半に、司馬遼太郎の長編歴史小説の『燃えよ剣』という、新撰組副長の土方歳三の生涯を描いた小説がテレビドラマ化された栗塚旭
(くりはら‐あさひ)主演の番組を見たとき、土方が愛刀の和泉守兼定と出会うまでの経緯が描かれ、一方、近藤勇の愛刀の虎徹は偽名であったと描かれていた。近藤はこれを偽名と思わず、最後まで自分の差料は、無銘の虎徹と信じて疑わなかったと描かれていた。

 そして、私の虎徹の探求は『燃えよ剣』のテレビ映画とともに始まったのであった。
 既に述べたが、虎徹は非常に難解な刀剣である。鑑定が非常に難しい。刀剣専門家でも鑑定が難しい。そのような刀に、私は生涯取り憑かれることになる。

  さて、虎徹を辿ると、長曽禰の一族は近江にルーツを持つ、主に甲冑などを作る鍛冶集団であった。室町時代から記録が散見されるが、江戸中期以降は優れた者が何代に亘っても出なかったため、長曽禰の名を冠する者は消滅したという。
 また、日光東照宮に長曽禰一族が作った金具があることから、東照宮建立当時はそれなりの知名度があったとされる。
 一門には、長曽禰才一、長曽禰興寛、長曽禰三右衛門利光、長曽禰播一山、長曽禰助七などがおり、興里もその一人である。また一説には、門人の興正は、興里の甲冑師時代からの助手であったと言う。長曽禰一族から名工が出る条件は揃っていた。

 名工が造り出す刀を、名刀という。至極当り前のことである。
 しかし、名工でも時によって非常にいい物と、それ並みの物を造り出す。体調の変化やその時の閃
(ひらめ)きにより、出来不出来が多少たりとも変化する。虎徹も、些(いささ)か体調と変化に翻弄(ほんろう)された名工だった。人間である以上、当然だろう。

 かつて虎徹は甲冑師だった。
 甲冑師であった長曽禰興里が江戸に移住後、刀鍛冶に転職し一門を旗揚げする。開祖・長曽禰興里をはじめ、二代目長曽禰興正、興久、興直である。この血脈からは名工が続出する。
 また、大坂には長曽禰長広なる刀鍛冶がいるが、銘ぶり、作風の点から言って、直接的な関係はなさそうであるが、血統的な繋がりはあるかも知れない。刀工は血筋が物を言うようだ。
 刀鍛冶のセンスは、血縁的に大きく左右されたようである。したがって、初代、二代は大したこともないが、突如として、それから何代か後に、天才的と言われる才能を発揮する名工が生まれる。虎徹も、そうした人だったのであろう。

 虎徹は佐和山城下
(現在の滋賀県彦根市)の生まれである。
 虎徹の幼少の頃に関ヶ原の合戦があり、佐和山城が落城したため福井から金沢に逃れたという。
 そして金沢では、既に甲冑の名工として知られた。世に名立たる名工としての要素を、この地から天下に知らしめていたのである。
 虎徹は甲冑師から刀鍛冶に変更した職人である。
 太平の世となって、甲冑の需要がめっきり減ったためだろが、江戸に移って刀鍛冶に商売替えしたのは五十歳を超えてからであるという。
 しかし甲冑師の技術は生きていた。兜や古釘など、古い鉄を溶かして刀を造る特異な技術を持っていた。虎徹の甲冑師としての技術が、後にも生きていた。
 また、その古鉄の処理に関する特異技術を持ち、はじめは「古鉄入道」と名乗っていたが、その後中国の故事により、虎徹と改めたのである。これが虎徹の名の由来だと言われる。
 更に、虎徹は歳とともに急激な成長を遂げ、寛文の終わり頃から延宝の始めが実に絶頂期であったという。作刀上の師は諸説あるが、和泉守兼重
(いずみ‐の‐かみ‐かねしげ)とされているようだ。

 反り極めて浅く、武骨な寛文新刀姿の作が多い。太平の世であったため槍や薙刀等の需要には迫られず、ほぼ刀と脇差の製作に専念している。しかし、短刀は極めて少ない。大刀と脇差しが多かった。

 造り込みは長物で、短刀は稀
(まれ)に見られるが、極めて少ないとされる。
 初期には典型的な寛文新刀姿となり、反り極めて浅く、切先小さく“詰まり心”となる。
 また、延宝頃の作刀は、姿が優しくなり、反りが増し、切先伸び心となる。刀姿を考えて変化が生じたのかも知れない。
 更に、特別注文打ちと思われる脇差の中には、身幅が広く大切先
(大鋩子)になった物もあり、一方、冠落造りとなったものがある。切先は尖先とも書く。
 更に、脇差、短刀の中には、刀身彫りが施されているものが多いと言う。虎徹の刀身に彫り物を施された物は、新刀の書籍などに多く紹介されている。

 地鉄は鍛えが強く、また細かであり、地肌は明るく冴え渡り、地沸
(じわき)がよくつくとされた。
 相州伝、美濃伝を狙った作の中には、荒沸のつく物もあると聞く。出来映えによって、指表のハバキ元に鍛えの流れた弱い肌が、まま見受けられるというが、これは「虎徹のテコ鉄」と呼び、虎徹の特徴でもあるという。
 現に、万治年間の虎徹には「長曽禰
(祢)奥里古鉄(こてつ)」と銘が切られ、襴間透しといい、鑑定では「ハ奥」と称している。

 刃文 は、初期は瓢箪刃、後期は数珠刃と呼ばれる。
 専門的に言えば匂い口深く、明るく冴える。また初期は美濃風、後期は南北朝時代の刀工郷義弘を狙ったような広直刃調の作風も多いときく。作刀の多くに、ハバキ元を短い直刃で焼き出す、「江戸焼き出し」を見る。横手下で湾
(のた)れ、尖先部の帽子は、ふくらにそって小丸に返るのを典型とする。火焔状に掃(は)き掛ける物も見受けられる。横手付近で湾れ、くびれた様を「虎の顎(あご)」、あるいは「虎徹帽子(鋩子)」とも呼称される。

掃き掛けの鋩子の参考例。

 虎徹の銘は、ほっそりとして活字体のように整っており、偽銘が切りやすいとされる。字の模写が容易だというのである。これがまた真偽を見分ける刀屋泣かせとなっているようだ。
 しかし一方、よく見てみると、線は細いが力強く、更には浅く銘を切っていて清々しい印象があるともいう。
 この印象から、微妙な力加減あって銘全体が絶妙なバランスで成り立っていると言う。見れば見るほどそう映るらしい。これが一方で贋作を退けているとも言う。
 ところが、刀を鑑賞するのに万人が虎徹の本物を握れるわけでなく、多くは本の上からでしか知ることが出来ない。運が良い人は、陳列越しに見せてもらうこともあるだろう。しかし、貧する刀屋にとって、実際に手に握っての鑑賞は不可能に近く、ぜいぜい出来たとして、虎徹特有の字の克明な形を頭に刻み込むことくらいしかない。

 本物に迫って銘を切ろうと思えば、それだけ本物からは遠ざかり、偽造すれば偽造するほど極めて困難となり、この微妙な異なりが、本物と贋作に違いを隔てているというのである。
 刀は霊器である。単なる鉄の塊でない。鉄棒でない。霊器は“霊”を宿している。作者の魂を宿している。
 霊的に言えば、刀は一つの人格を持ち霊格を持っている。手先の器用な、騙しに長けた人間でも、人格や霊格までもを模倣することは出来ない。その証拠に、贋作はついにバレる。暴露される。偽物であることが指弾されるのである。

 かつてドイツ人の科学者で、日本刀に興味を持った学者が刀に取り憑かれた。日本刀の美しさに心より心服した。そして、この日本刀をそのまま持ち帰り、ドイツで復元し、日本刀の大量生産を計ろうとした。
 ところが、大量生産することは適
(かな)わなかった。日本刀に似た形の模造品は作れるが、精神性をも包含する日本刀は造れなかった。形の模倣を越えることは出来なかった。精神性を真似することは出来なかった。
 無論、魂の模倣など以ての外だった。

 ドイツ人のこの学者は、日本刀が鉄の塊でないことを理解した。大量生産出来ない理由は、日本刀が霊器であり神器であったからだ。
 霊的世界の物や不可視世界の物は、物質界の論理では真似出来ない。
 そkもそも波調が違うからだ。霊的波調が違うからだ。霊器や神器という代物は、物質界の一部を借りた物質表現はしているが、その大半は霊的世界、つまり不可視世界の霊格や神格に準ずる物である。こうした物を、三次元物質界では復元出来ないことを悟ったのである。物質界に、霊的世界の来各を持った者は復元出来ないし、存続もさせられないのである。

 この意味で日本刀は、確かに霊器であり、神器だった。霊界に属し、また神界に属する超高次元の精神性を包含した生き物だった。物質界で復元出来ず、また大量製産出来ないのは当り前だった。
 したがって、日本刀は同じ物は世界に二つとないのである。一振り一振りが手造りの代物だった。手造りであるからこそ、一振りに込められた作者の想いが、日本刀という霊器を通じて移入されていたのである。同じ物は、その作者の真の精神性がない限り、造り出せないのである。作者の精神性まで侵入し、そこまで迫れば、本物と偽物の見分けはつくはずである。
 霊的世界の霊器や神器の高次元物質の仕組みが分かれば、その判別はつくはずである。つかないのは不勉強であるからだ。

 私の見てきたのは贋作ばかりだった。未だに本物に行き当たったことはない。どれもこれも、横行な見せ物の贋作ばかりだった。騙しの心で汚染されていた。その汚染を見抜けなかったのは、不勉強に他ならなかった。不勉強が災いして、このレベルの刀剣ばかりを扱って来たのである。これでは眼力に磨きが懸かる分けはないだろう。逆に贋作を見て、実によく出来ていると唸るばかりだった。愚者の嘆きだった。

 三流四流の刀屋は、結局この程度の贋作に出くわすのが関の山だった。
 歴史上にも名高い、長曽禰興里虎徹入道に対面することは、確立としても一億分の一以下だった。目が曇っているためである。同時に勉強不足だった。反省すればその指摘個所は多々ある。
 そして、実際に贋作の銘に注目すると、古い時代の偽物は「興」という字のバランスが取れていないないという。稚雑な感じを受けるものも多いという。しかし、現にこうした稚拙なる代物に出くわし、巧妙に騙されたのだった。

 往古の刀鍛冶の中には鍛冶平直光などのように、虎徹の銘の独特の刻印と癖のある鏨の入れ方を研究し、霊的に人間の行動原理と下心の動機を読み解き、それを極めたような人物が居たらしい。
 そして、これらの人物は写真技術やコピー機が発達した現代より、もっと精巧な偽銘を切ることができたともいう。精神的に迫ったからである。似せることを目的としたのではなく、本物の作者の霊を呼び込んで、自らの肉体を通じて再現したからである。
 かつては、多くの刀鍛冶は霊的世界にも通じ、不可視世界の現象の起こることを承知していた。故に、極めて近い作品を自ら造り出した贋作の中に再現しようとした。こうした巧妙な研究家の手に掛かれば、駆け出しの刀屋など、イチコロで騙されてしまう。巧妙に欺ける。例外なく、私もその一人だった。あまりに能
(よ)く迫っていたからイチコロで騙された。
 この意味では、人間は霊的世界において平等であり、物質界の才能など微々たる物となる。これが局限すれば、逆転して贋作が本物を上回ることもあるという。そういう物を一度も見たことはないが、これが絶対に皆無だとは言い切れない。

 人間は、誰とは限らず心は常に揺れ動いている物である。その意味では賢人も愚人も変わりない。問題が愚人が賢人の域に迫った時である。また逆に、賢人が愚人に転落した時である。
 かの久米仙人だって、洗濯中の若い女の太腿を見て、天から転落したのである。色香に見とれて堕ちたのである。これが人間ならば尚更であろう。迷いの多き、不安に苦悩する人間ならば尚更だろう。その心情は常に変化している。現象界では、変化するというのが鉄則だ。
 贋作に騙される私などは、単に凡夫
(ぼんぷ)といい棄(す)てるより、凡夫の中の凡夫である。愚人の中の愚人である。愚人が騙されるのはむしろ健康的な生活反応であると言える。したがって、能く騙された。
 虎徹と名のつく物には、毎度おなじみの……という拡声器の一言のように騙され続けたのだった。しかし騙されながらも、学習はするので少しは変化する。それに伴って、騙し方も変化する。イタチごっこである。

 そのうえ虎徹の銘は、幾度となく切り方が変わっている。これも、愚者の泣き所である。
 虎徹の約二十年間という短い作刀期間には数種類の銘があるらしい。
 では、なぜ度々銘を変化させたのか。
 それは虎徹の生前から贋作が出回ったことである。虎徹の名は天下に知れ渡っていた。それだけ贋作の出回ることが多く、真似されたのである。

 甲冑師時代ならびに刀工時代のごく初期には「興」という字を略して、崩した「奥」のような字になっている。これを「略おき」などと呼ぶ。一方そのまま字を崩さずに切る「興」の字を「いおき」と呼ぶ。
 「興」の最後の画が平仮名の「い」のように見えることからこう呼ぶらしい。

 また「興」の字の最後の画が、片仮名の「ハ」に見えるものが年代的には寛文八年、同十一年、十二年、そして晩年に見るという。この「興」「ハおき」と呼ぶ。そして「略おき」の場合も、最後の画は「ハ」になるという。
 更には、「虎」の字も、初期の「虎」は虎の尻尾が撥
(は)ねたようになることから「ハネとら」と称された。ハネ虎は有名である。
 更に後期の「虎」は、俗字を用いた「乕」の字となっておりこれを「ハコとら」と称された。ハコ虎も有名だ。虎徹は有名のオンパレードである。
 虎徹に刻まれた種々の刀銘である。その刀銘は、有名の一言に尽きる。それだけに虎徹の研究は難しくなり、見分けの鑑定も難解を極める。有名なだけに後世の人間を困惑させ、誑
(たぶら)かすのである。

 寛文十一年、延宝二年、三年には、初期の「ハネとら」の銘とも異なる「虎」の字であり、「虎入道」という銘を切っている。これを「とら入道」と言う。そして「ハネとら」と一応区別する。
 出来具合から言うと、一般的には「ハコとら時代」の刀剣の方が出来がいいとされている。今日に見る重要文化財などに指定されている虎徹は「ハネとら」ではなく、全て後期の「ハコとら」である。

 主な銘としては、長曽祢奥里古鐵入道、長曽祢奥里作、長曽祢奥里虎徹入道、長曽祢虎徹入道興里、乕徹入道興里、長曽祢興里入道乕徹、長曽祢虎入道などあるという。また虎徹の銘は、この限りではないともいう。非常に多いのだ。
 晩年には「住東叡山忍岡邊」と添銘するものもあるらしい。
 この銘の種類だけでも、刀屋泣かせであり、一筋縄では決着がつかない。難解な物がある。実物を前に勉強に勉強を重ねねばならない。しかし、これも財力があってのことである。私のような貧乏刀屋では無理な話である。本物にも触られず、また偽名・贋作の類にも金と暇がないため、勉強しようにも不可能なのである。

 次に虎徹の“切れ味”である。
 切れ味については、実際に試し切りをした者でなければ到底検討がつかない。単なる濡れ藁
(わら)や、濡れ畳表を切るだけではなく、“生き胴切り”などという、罪人などを切った人間でないと、その切れ味は正確に評することは出来ないだろう。刀が刃物である以上、単に美しくとも吃実用は物として用を為さねば意味がない。斬ることが出来て幾らの代物である。

 人間と言う生物体を一刀両断するには、据え物斬りの相当な技術が居るだけでなく、実際に人を斬った人間でないと分からない。人間の、肉という生体の原理を知らねば、力任せで斬ることは出来ない。
 人間は肉体という生体を持つ。同時にこの肉体の内部には幽体があり霊体がある。簡単に言えば三重構造をしている。この三重構造に生体を斬るのだから、当然そこには切断のための霊器が必要であり神器が必要で得ある。凄まじい物が一重だけではなく、二重も三重もしているのである。それだけに生体の切断は難しい。単に、動物の犬猫を斬るようには行かない。霊的生物の人間を斬るのである。

 往時の人の言い伝えによると、虎徹は切れ味は「非常にいい」という噂が立っていたらしい。それゆえ近藤勇などが欲しがったのも頷
(うなず)ける話だ。達人ならば、虎徹が欲しいと思う心境は至極当然である。
 しかし、近藤は殺人剣を欲したと、安易に解釈することは出来ない。本来サムライの愛刀として所有する日本刀は霊器であり神器であるから、タンラル鉄棒としての物ではない。物質界に属しながらも、高い精神性を持つものである。
 刀剣の切れ味がいい……という裏には、人間同士の、サムライ同士の、そこに礼儀作法があったはずだ。礼を尽くして、それを全う出来てこそ、サムライはサムライと呼ばれる。サムライは礼儀を尊ぶのである。
 命の遣り取りをするのだから、そこには当然、形居合などとは異なる真剣においての礼法があったはずだ。
 形の表現ではなく、精神性から成る心の世界、つまり霊的世界の理
(ことわり)が存在したのである。

 真剣においての礼法。
 それは、命の遣り取りから起こった厳粛なる作法であり、真剣勝負では何れかが生き残り、何れかが死ぬ。肉から魂を切り離す場合は、そこに大変な葛藤がある。勝った方は負けた方を斬り殺すことになる。また、負けた方はそこに無念の意識が凝縮される。無念は怨念を伴う。怨念は死した後、死霊化して生き残った物を恨む。だから、問題は此処に派生する。
 故に「鎮める」という作法が必要になる。安らかに心置きなく死についてもらわねば困る。

 死に逝かせる者として、相手を死出の旅立ちに就かせる側は、自分の差料の切れ味が名刀の域でなければならない。死出の山に赴くことの大変な作業は、名刀を持って即座に、ひと思いに切り伏せ、死に就かせることにある。斬り方が下手では無念を残す。これはサムライとしての礼儀であろう。
 相手を苦しませてはならない。苦しまずにそれを極力小さくして、死に就かせることが本来の武士の礼儀であり、そこに武士としての介錯
(かいしゃく)の作法があった。欠盆(けつぼん)を斬るとはこのことを意味していた。欠盆とは、鎖骨の上の窪み部分を言う。医学的に言えば、喉下の胸の上に半環状をしている骨を指し、此処を素早く切断する。これこそ死者に対する礼儀である。
 切れない刀で……、飴のような曲がった刀で……、相手を嬲
(なぶ)り殺しにするのは礼儀に反する。膾切りにしてはならない。一気に迷わず斬ることである。迷えば刃筋が歪む。歪めば狂うから斬られた方は死ぬに死ねず、暫(しばら)く断末魔(だんまつま)の苦しみを味わうことになる。断末魔を与えては、礼儀知らずに看做される。武士にあるまじきことである。サムライ失格である。

 虎徹の試刀は、試刀術の大家であった山野加衛門、勘十郎親子が試し切りをした物が多いという。試刀術の名人は礼儀作法を知る者でならねばならなかった。苦痛を与えてはならないのである。また、死の恐怖を与えてはならないのである。これらを与えないことは礼儀であった。
 試刀術の妙技には、人間の胴体を二つ重ねて切った「二ツ胴」、三つ重ねて切った「三ツ胴」などがあり、試刀が成功した場合には、金象嵌銘
(きん‐ぞうがん‐めい)に記されている物があるという。更には、四つ胴を切った刀も現存するという。

 懐宝剣尺、古今鍛冶備考などの刀剣書には、最上大業物に列せられている。
 これらの書には切れ味において、「全刀工第一」とあり、それを記した辞典も存在するらしいが、現実には世の中の刀工の全作品を全て斬り試したわけでもないので、“全刀工第一”の真偽は定かでない。
 但し、最上大業物
(おおわざもの)に上げられている以上、切れ味のほどの根拠は、全く嘘はないらしい。むしろ非常にいいとされたようだ。
 更に、虎徹で石灯籠を切った話や、兜を割った話もあり、これを行ったという虎徹も残されていると聞く。こうしたことが可能だったのは、切れ味のよさにも況
(ま)して、刀身自体に相当の強度があったと考えられる。鍛えが充分であり、曲がらず、折れず、粘りがあって鋼(はがね)であることから、能(よ)くしなったのである。天下の名刀とは、そういう物である。名刀ほど、一瞬に曲がっても復元作用があり、元の形状通りに戻るのである。

 虎徹の刀姿は、反りが浅く、見た目には見栄えがいいという姿はしていない。これは反りの浅さから来るものらしい。
 しかし鉄が明るく、冴えたものが多いと言う。反りの浅い刀は一見しただけでは、武骨で地味に映る。しかし一方で、刀身全体に溢れる品格は極めて高いと評されている。
 時代物と称されるに本当は、これまで二万振りとも三万振りとも言われている。その全刀剣の中で、虎徹の作は日本の刀工の中でも最上作のトップクラスに置かれる物である。世界の美術工芸品の中では第一級の評価がついている。

 虎徹の刀は、生前から高く評価されていたという。
 新刀の中では最も需要の多く、旗本や御家人たちの上級武士に持て囃され、また気品も高い作風から一世を風靡
(ふうび)したようだ。また豪商などからも需要があり、また大名などの上級武士階級からも需要があったらしい。
 更に虎徹の需要を高めたのは「明暦
(めいれき)の大火」だった。
 この大火事は明暦三年正月の十八日に起こり、二十日まで燃え続けた大火事である。江戸城本丸をはじめ市街の大部分を焼き払ったという凄まじいものだった。焼失町数四百町。死者十万人余という。
 出火の原因は、本郷丸山町の本妙寺で施餓鬼
(せがき)に焼いた振袖(ふりそで)が空中に舞い上がったのが原因といわれ、俗に振袖火事と称される火事である。過失から起こった火事だった。
 この火事で、多くの刀剣が消失した。現存していれば、文化財として博物館に収まる刀剣類もあったに違いない。

 これよって江戸での刀剣の需要が増加する。火事へ消滅した刀は減った分だけ需要が高まった。
 この増加したことが、また虎徹の人気を押し上げる要因の一つとなった。虎徹人気が益々跳ね上がった。欲する者が殺到したため、多くは順番待ちとなった。フル回転で製造したが、それでも追いつかなかった。
 そして遂に需要が追いつかなくなり、そのうち偽物が生きているうちから出回ったと言うのである。需要が高鳴ればそれに比例して偽物が出回る。贋作の横行はこの時に始まったという。

 名工は引っ張り蛸だった。名工だけではない。並みの刀鍛冶も時代に反映して多くの人達から所望されたのである。そして、延宝六年に虎徹が死去すると、その後益々贋作が横行した。並みの刀鍛冶も名工面し出した。“並み”でも大家なのである。名人なのである。需要と供給の関係が崩れれば当然そうなる。人間社会の特長である。需要が増えれば、人間社会ではそのバランスをとろうとして偽物の横行という形で所望者の欲望を満たそうとする。これは穢いと詰るより、そもそも人間とはこうした穢い者なのだ。穢い生き物なのである。そして穢いが、一方で良心という善なる心も持っている。だが、良心など、人間の穢さに比べれば取るに足らないことである。

 虎徹の死後百年経った時代の、ある刀剣書には「虎徹は偽物だらけ」とまで記載されている。それだけ当時の人間は良心を押しつぶし、穢さを露出させて来たと言えよう。穢さの中に虎徹は浮んでいた。それくらい虎徹が多かったのである。火事によって、需要と供給のバランスが崩れた結果だった。バランスが崩れれば、穢さが擡頭する。これが人間社会の現実である。

 さて、江戸後期になると、不穏な世の中を反映して実用刀の需要が多くなる。これが新々刀の母体を造り上げた。十六世紀の戦国時代の乱世の世界に逆戻りしたからだ。
 水心子正秀
(すいしんし‐まさひで)により、復古鍛錬法が提唱されてからは、実用的な刀剣が持て囃されるようになった。そのため虎徹の刀は、再び値が高騰したのである。下級武士には手の出せない代物となった。高嶺の花に一気に躍り出た。こうしたことも、虎徹の贋作が殖える要因となった。
 実用刀のモットーは、切れ味がいいことである。その点、虎徹は打って付けだった。新刀でありながら、美術的な名刀としての価値も高く、そのうえ切れ味がいい。江戸初期よりそう噂されていた。
 愛刀家の守り本尊として、あるいは心の拠り所として、更には実戦における実用刀として、虎徹はこの時代の理想の刀だった。一番人気に、虎徹が挙げられたのも無理からぬことだった。

 一般的には、新刀の東の横綱は虎徹、西の横綱は助広と言われている。
 この番付によれば、知名度も、刀工の中で正宗と並ぶほどだという。虎徹は天下を極めていた。それだけに偽物の多さは、人気と知名度に比例する。偽作が限りなく登場するのである。
 この構図は、需要に対して供給される作刀は少ない形なので、当然贋作が横行することになるのである。
 幕末、近藤勇の愛刀に偽虎徹の銘を切った人物は、刀工で刀剣愛好家、そして贋作家だった細田直光である。
 細田は自分が今まで作った虎徹の偽銘を『虎徹押し型』という本を出版した人物である。虎徹の研究だけで一冊の分厚い本が出来た。それも贋作の本である。
 そして、現在における虎徹の評価も、幕末からの延長線上にあると言ってよい。

 虎徹の贋作は極めて多い。虎徹を研究するには、同時に贋作の研究を怠ってはならない。それゆえ虎徹は最初から偽物であることが前提条件となる。
 「虎徹と聞いたら、まず偽物であると思え」
 この言葉は耳にタコができるほど聴いた。それでも虎徹には困惑が募る。魅了される。つい、ふらふらとなる。虎徹と聴けば大枚を叩いても、対面したくなるのである。

 虎徹と聞いたら、まず偽物であると思え……。
 これは刀屋、研磨師、愛刀家などの関係者には周知の事実であり、また常識である。掘り出し物として、虎徹なるものが出たら、まずそう思うのが常識である。刀屋商売の鉄則である。
 江戸時代の様々な刀剣書に虎徹の纏
(まつわ)る偽物のことが多く記載されている。また虎徹の偽物の研究書もある。
 そして、虎徹の贋作を分類すると、次の三種に大別出来る。

贋作の最も多いものは、作風が似た別の作者の刀から本来の銘を消し、新たに「虎徹」などと銘を切ったもので、贋作ではこれが一番多い。贋作の最も典型的な代物である。
次に、刀身が折れたりして使い物にならなくなった本物の茎(中茎)を切断し、新たに他の刀に接続したもの。これを“継ぎ茎”という。中茎が本物であることから、巧妙な溶接には、かなりの眼力を持った目利きでも騙される。
更には経済的に困窮した刀匠などが偽造目的で刀身を新たに作り、「虎徹」などと銘を入れたもの。刀工の腕にもよろうが、どんなに巧妙に似せていても、ある程度の見分けはつく。

 典型的な、贋作の最も多いものは、「1」の場合である。
 しかし、虎徹の作風さえ知っていれば、ある程度見破ることが出来るという。実際には、作風がそれほど虎徹に似ていない贋作も多いのである。
 但し、中には作風が似ているという極めて難解な代物もある。それは法城寺正弘や大和守安定などの名工、更には長曽禰興正や源清麿などの巨匠の刀に、虎徹の銘を切り、誑
(たぶら)かすために贋作に転じたものもあると言われてる。こうしたことを心ない者が、敢えて遣らせるらしい。面白半分か冗談かは知らないが……。
 巨匠の銘を一旦削り落とし、次に虎徹の銘を切るのである。こうなると、まさに見分けが難しく、理不尽甚だしいと言わねばならない。後世の愛好者を惑わす、実に罪なことである。人間の汚れた側面を見る思いである。ヨハネの黙示録さながらの、罪人の穢さを見る思いである。

 恐らく、近藤勇の無銘の虎徹は、名工の刀身を引用した物であろう。
 近藤の無銘の虎徹は、『清麿説』が有力で、刀身自体は清麿ではないかと言われている。つまり、清麿の銘を削り落とした、無銘の虎徹としたことである。これを見分けるにも、かなりの注意力と眼力が必要である。しかし、本人は虎徹と信じていたのだから、その切れ味にも満足していたのであろう。よく切れたという理由も、巨匠の清麿ならば……と頷けるのである。パッと見では、区別がつかず、よく似ているからである。騙されるのも、あるいは幸せかも知れない。

 さて、虎徹の銘は微妙なバランスで成り立っている。贋作を見破るポイントは此処にあると言ってもいい。銘が上手く切れていない偽物も多いのだ。区別は此処でつけられる。唯一の救いである。
 切った銘に、ばらつきがあり、不自然な形で拮抗していない。歪
(いびつ)である。こうした物は直ぐに見破れる。本物の銘を頭の中に叩き込んでいれば、この手の贋作は直ぐに見破れるのである。形状識別の鋭い者は、少しばかりで刀の勉強をしただけで見破れる。

 この手の偽虎徹は、作風の似たような刀の元あった銘を消して、新たに銘を切る場合、中茎
(なかご)についた錆が、その部分だけ削げ落ちる。そのため“汚し”をかけて、自然に見えるような小細工を施すが、錆の研究をすれば、“自然の錆”と“人工的な錆”は全く違うのである。識別がつく。
 自然なる錆は、多くは黒錆であり、人工的な錆は赤錆である。黒錆は錆びることを殺すが、赤錆は錆を発展させる。増殖させる。
 贋作製造者
は、この赤錆を茶の葉の中で炊き込み、黒錆に変貌させるが、これとて目利きになれば人工的な錆であることを発見する。また、この程度の小細工は見破り易い。これが見破るポイントとなる。
 中茎が不自然に汚れているうえ、自然の錆ではない。錆が人工的である。不自然で赤色に近い。この場合は100%偽銘の可能性がある。
 刀身や刀姿、そして銘、あるいは中茎の特徴、錆具合など、少しでも不自然なところがあれば、大抵は贋作である。

 「2」の場合は、新たに中茎を接続した物である。刀は偽物だが、中茎は本物という奴である。
 しかし、これは接続部分に不自然なところがある。繋ぎ目が不自然であり、また、刀身全体を見てアンバランスな部分がある。中茎が勝ち過ぎ、刀身が負けているのである。そのために刀身全貌の姿が良くない。刀姿に不自然がある。
 中茎のすり替えは接続部を詳細に観察することによって、すり替えを見破ることが出来るのである。刀身全体を検
(み)て、刀身と中茎のバランスが不自然な違和感の感じる物は、まず贋作と言っていい。
 現在では溶接の技術を遣って巧妙にすり替えるらしい。コンマレベルで精密なすり替えが出来るという。しかし、中茎の銘と刃の部分の刀姿に不自然があり、刃文に力がない。刃が眠った状態である。本来虎徹は刃が明るい、地肌が白い。ところが偽物は全体的に翳りを持っている。翳りがあるから暗い。だから、ある程度見分けがつく。これこそ唯一の救いだ。

 困窮刀工の「3」の場合は、刀工の技倆
(ぎりょう)にもよろうが、ある程度本物に似せる作風を作ることができるらしい。しかし、厳密的には異なる。
 私自身この手の刀は何振りか見たし、現にこの手の偽物も掴まされた。不勉強の時はこの手の被害に遭遇した。ところが、贋作を掴まされながらも、月謝を払って勉強すれば、贋作自体の勉強にもなる。月謝は払った分だけ、しっかりと身になり骨となる。二度目からは騙されない。
 天下の名工や巨匠の作風は、そう簡単に真似出来ない。そう言う精神的な分野が見えて来る。刀は霊器であり神器であるから、至る所に精神性が絡んでいる。

 天才の域を、見よう見真似で凡作者が真似しても、到底及ばない。
 したがって、詳細部分を研究したりして眼力をつければ、その違いが明白になる。
 まずは本物の作風をよく研究し、それを頭に叩き込んでおくことである。更に同時に贋作の研究をもし、偽物の作風もパタン化して研究すれば、どのランクの偽物は見当がつくようになる。結局は偽銘を切るため、中茎の錆具合い、銘などに不自然なところが生まれている。この微妙な違いを研究する必要があろう。

 虎徹の偽銘を研究すると、長曽禰虎徹の唯一の救いは、銘が長いことである。
 贋作で切られている銘の文字数は九文字という、比較的長い銘に切っているため、何処か不自然で、また詳細に見れば不具合が出ているのである。
 刀身の中茎部は銘を切るために、絵画で言えば、一つのキャンバスである。このキャンバスの中に調和のとれた銘を作者は切るのである。それを実によく切るのである。そして切る以上、そのイメージが作者の頭の中で出来上がっている。だから銘全体にバランスがとれている。

 一方、贋作を試みる贋作者の中にもそのイメージはあろう。そして、一つには贋作を作ろうとしている、後ろめたい気後れもある。
 この気後れが本物の作者とは異なる、真似の中でバランスを失っている。勢いがないのだ。生き生きしていないのだ。どこか弱々しい。そして後ろめたさが番狂わせを引き起こす。これがアンバランスを派生させる。
 こうしたアンバランスは、切った銘にも顕われる。
 つまりだ。
 上手に「虎」と言う字を切ることが出来ても、「興」と言う字にアンバランスが起こる。ちぐはぐな感じがする。こうしたアンバランスが顕われれば、まさしく贋作である。
 特に注目すべき字は、長曽禰の「長」の字、虎徹の「虎
(乕)」の、そして興里の「興」の字で、これらの九文字の全体的な銘のバランスを見て不自然さがあれば、これは贋作である。
 特に虎徹の「虎」に注視すれば、本物の「虎
(ハネとら)」は躍動感に溢れているのに対し、偽物は鏨(たがね)が止まり生き生きしていない。どこかぎこちない。弱々しい。
 新刀の本には、そのような評論が載っている。

 江戸時代は、本物や本物の押し型を横に置いて、偽銘を切ったとされる。
 また、贋作者からみた最大の難関は「興」であったという。「ハおき」を除き「興」と言う字は画数も多く、バランスが大変とりにくい。
 したがって、古い時代の殆どが本物の「興」の字と比べると全く違う。
 また、銘のメリハリや、線の太さも良く観察すると何処か違いに気付くと言われる。現在の精巧な偽物でも極めて似せることが出来るが、どこか単調なところも多い。

 では、目利きの鑑定書付きのものは信用出来るのか。
 鑑定書付きというのも、頭ごなしに信用出来ない。
 したがって、鑑定書付きの物でも注意が必要である。
 明治時代には、鑑定家が食うに困って、適当に鑑定書を書いたと言う。また現在の日本美術刀剣保存協会等発行の認定書、鑑定書も偽造されているものがあるという。私自身も、この偽造詐欺には度々引っ掛かった。

 また、本物に付けられていた鑑定書を偽物に付けて、本物の虎徹として売る場合もある。したがって、いくら鑑定書の類が付いていても最初から鵜呑みにするのはよくない。
 刀に何か一つでも不自然なところがあれば、鑑定書付きの物でも贋作の可能性ありと考えることだ。現に、大枚を叩いた鑑定書付きの虎徹で引っ掛けられているのである。
 鑑定書自体にも本物と偽物の「違い」があることがあり、本物の鑑定書の特徴を覚えておくことも一つの手段であろう。
 また状況を逆手に取り、鑑定書が偽物ならば必然的に刀も偽物ということも言える。いずれの種類の贋作にしろ、落ち着いてよく考えることが大切である。
 では、本物とする根拠は何か……。それはどこにあるのか……。
 事実、根拠のない虎徹に本物などありはしない。このことが肝心だ。
 虎徹は否定的な視点で見ることが最も肝心である。

 現に、彼
(か)の剣豪も騙された。
 新撰組局長・近藤勇すらも騙されていたのだ。
 一般的には、近藤は虎徹の持ち主として有名であり、講談などでも近藤の愛刀を虎徹としている。また、近藤の決め台詞だった「今宵の虎徹は血に餓えている……」は広く知られている。しかし、講談は誇張と作り話の個所がある。
 講談師、見てきたような嘘をいい……などの川柳もある。
 また、どのようにして手に入れたかについても諸説ある。

 実際には近藤の虎徹は、源清麿が打った物の確立が高いようだ。当時名工だった源清麿の打った刀に、偽銘を施したものとする説が有力であり、現在はこれが支持されている。
 ところが、近藤自身は所有の刀を虎徹と信じている関係上、その思い込みは威力があった。よく切れた。池田屋事件の後に、養父宛てに認めた手紙の中に、「下拙刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とある。これこそ、思い込みの最たるものであった。

 司馬遼太郎の小説『新撰組血風録』の中では、上記の作家・子母澤寛の三つの説を支持しており、近藤は三本の虎徹を所有していたと言われる。
 つまり、江戸で買ったのが偽虎徹であり、鴻池から貰った物と、斎藤一が掘り出した真の虎徹が計で二振り目。そして、近藤が常用したのは偽虎徹となっている。
 また、漫画家・水木しげるは、近藤の伝記漫画の『近藤勇、星をつかみそこねる男』の中では、「本物の虎徹だと信じ込んでいたからよく切れたのだ」という解釈を下している。
 とにかく、新撰組局長・近藤勇の愛刀であり、差料は何が何でも虎徹でなければならない理由があったようだ。
 既に述べたが、近藤の尊敬する加藤清正によるらしい。



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