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中庸の開運哲学 1

中庸の開運哲学







 貪欲に需(もと)めて得た金品は埃(ほこり)というが、まことにその通りである。
 現代の世は、“現世ご利益”という行為が花盛りである。
 貪欲に願い、それを現世ご利益で実現しようと企む者が多い。幸福という名の貪欲を掲げ、商売繁盛、家内安全、合格祈願、交通安全、病気恢復、そして恋愛成就に至まで様々な欲望に願懸けて、神社仏閣詣では大流行をしている。
 何れも、自分と自分の周囲のために祈る行為である。祈願する行為である。

 だが、冷静に考えれば、この現象界で、祈願・祈祷して、果たして得られるものが一体どれだけあろうか。
 もし、祈願・祈祷して手に入れることが出来るというものがあれば、それは“虫”である。この虫は鳥獣などの動物に住み着いた“蟲
(むし)”である。生体に寄生するものである。この寄生する“蟲”が、いま人間に潜り込もうとしている。
 そして、人間は自ら進んで、この“蟲”の侵入をよくしようとして、滅びの方向に門戸を開いたのである。現代は蟲を求める時代である。それは“蠱
(こ)”に変貌するのも知らないで……。

 古人は、「願懸けも祈念も自分のために行うな」といった。
 自分のために祈りを捧げることは、自分の神しか出て来ない。
 では、「自分の神」とは如何なる神か。
 小さな神である。我が儘な神である。屈折した神である。
 つまり、低い神である。現代はこうした低い神を、わが身に引っ付けて徘徊する人が多くなったようだ。
 現代こそ、憑衣霊旺盛の時代である。偏ったからだ。

 しかし、そもそもは人生で起こることは総てが中立であり、中庸をよしとする。
 総てが中立ということは、本来は良いことも悪いことも無いのである。真中に位置するものである。善悪も無しであり、人間現象界に起こる善悪は人間側が決めたことである。人間側の都合を言う。
 したがって良いことも悪いことも、解釈次第で良くもなったり悪くもなったりする。

 例えば、この世にはツキを良くしたいと願う者は多い。
 だが、人生でツキを良くしたいと願う者が多いが、心構えや解釈のした他が間違っているので、ツキの無い人生を送っている。根本的なツキの無い人生の原因も考えずに、漠然と「ツキを良くしたい」という願望を抱いているだけである。これでは、ツキは益々逃げて行くばかりである。中庸ということを知らないためである。

 一方、中庸を知る人はそうではない。ツキは、ツキの方から遣って来る。ツキの良い人ほど、自分はツキが良くなりたいなどを考えていない。それは「自分が足りている」ことを知り、それに満足をしているからである。そして、この微妙な解釈の差が、後の大きな開きとなって顕われ、ツキのある人生と、ツキの無い人生を出現させてしまうのである。これこそが現象界の特徴である。

 人生に「開運」という現象が起こるとするならば、そして良い人生と悪い人生の格差があるとするならば、誰でも良い人生を選びたい願うのは人情だろう。
 ところが、実際には良い人生も悪い人生も無いのである。
 それは人間側の解釈次第で如何様にも変化すると言うことである。選択肢は無数にあるということである。

 ある出来事は、ある人にとってはラッキーと思える素晴らしいことでも、ある人にとっては非常に悪い不幸と感じることもある。これは現象界で起こる中立の出来事を、どのように解釈して行くかということに懸かって来る。この解釈が、人生を悪くしたり良くしたりしているのである。

 自分に悪いことが起こらないように願う人は、ある意味で恐怖の中で生きていることになる。だが、何事も総ては中庸・中立で、それを素直に受け入れようと考え、それを態度に表した場合、心は平安の只中に置かれたことになる。平安を得る。
 良いことも悪いことも考えず、総ての出来事を素直に受け入れる心構えが出来たとき、心には平安が訪れるのである。
 現象界で起こる種々の出来事が、ラッキーであるのかアンラッキーであるのは、それは中庸で考える、その時点に成功も栄光も内蔵されているのであって、それをバラ色にするのか灰色にするのかは自身の創造力から生まれて来るものなのである。
 それはちょうど、光が当たると、必ず影が生まれるのと同じである。自然の摂理である。

 足るを知る人は、影の部分の暗闇でもそれをトータル的に取り込んでバランスを考える。暗闇を悪いと考えていない。光だけを需
(もと)めて居ない。暗闇でも「有り」だと考える。そこにバランスのとれた人生が顕われる。




●中庸の哲学

 神は招いたり願ったりするものでない。況(ま)して強請(ねだ)ったり呼びつけたりするものでない。
 神は尊
(たつと)び、祈るだけの存在である。
 神は人とともにある。それだけの存在である。願ってはならない。招いてはならない。恭
(うやうや)しく拝跪(はいき)し、その存在に感謝し、頭(こうべ)を垂れるべき存在である。存在を知れば、神に対しての意識はそれから先はない。
 神とともにあり、しかし神に願わず、神とともに生きて行けばいい。敬うべき存在を招いたり、強請ったりしてはならない。

 神を人間のため働かせるという行為が、新興宗教などの礼儀知らずの団体で流行し、この種のものが持て囃
(はや)されている。また狐狗狸(こっくり)もそうだ。低級霊を呼ぶ。それが憑く。
 面目なきに、涙こぼるる程度のものでなく、これは危険なことである。「神降ろし」もそうだ。
 自分の欲のために神降ろしをしたとしよう。招いたとしよう。もしそうだったとして、人間は招いた神に、どのようなお礼を返すことが出来るだろうか。これは神に「借り」を作る行為である。この「借り」は非常に危険である。

 借金と同じだから、あとはその返済に喘
(あえ)がなければならない。招き、呼びつければ、それ相当分の代償を必要とする。神は必ず働いた分の報酬を取り立てに来る。したがって、キリスト者が言うように「神か愛」などではあり得ない。無償で人間を救ってくれるという存在ではない。それはヤハウェ(Yahweh)をみれば一目瞭然であろう。イスラエルの神は恐ろしい神である。その恐ろしさは内村鑑三の『キリスト教問答』からも分ろう。それは「救われる者とそうでない者」の相違である。
 『予定説』解説を訊かれた内村は、質問者のこの言に苦悶
(くもん)しつつ、パウロの言葉を借りて回答するに過ぎなかった。
 「神がある人を貴
(たつと)き器として造り、他の人を卑しき器として造りらればとて、吾人(われ‐ひと)あわれむべき人間はこれに対して何とも言うことはできません。吾人は『神はかくなしたまえり。その他を知らず』と言うのみであります」(『キリスト教問答』より)とこれについてこう言い訳する。これは、愛から随分遠ざかった解釈に終止する。

 百歩譲って、神は愛の存在としよう。それでもその愛をもって、人間に厳しく要求するものなのである。
 神を招き、神に頼んだ者は、神が何を要求したとしても、もうそれを拒むことは出来ない。
 古代人は神の要求を恐れたために、先んじて“御機嫌伺い”をした。恭
(うやうや)しく持て成して、労ったのである。神は気易く呼べるものでないからだ。
 これがやがて「礼」へと発達した。

 したがって、一口に「儀礼」といっても、巫覡
(ふげき)の異能がなければ、儀礼は成功裏には終了しないのである。神に借りを作るだけである。満足を得られるものであるまい。
 孔子クラスの大人物になると、このことに気付いたであろう。捧げものをし、奉納を必要とした。
 武芸・武術にも奉納演武と言うものがあるが、これは神前で武を演じることを言う。天覧試合などもこれに入ろう。
 忠節の証
(あかし)と守護を期待して行われる「礼行為」である。氏神、産土神、土地神、家神、先祖の鬼神などは邪を寄せ付けず、魔を払い、子孫を守護する神である。疫鬼や魑魅魍魎(ちみ‐もうりょう)の類(たぐい)を撃退する神である。

 繰り返せば、神は招いたり願ったりするものでない。強請ったり呼びつけたりするものでもない。ただ敬うべき存在である。
 これは仏に対しても同じだろう。
 先祖霊を鬼神と言う。祖霊のことである。祖霊は自らの霊的中枢の中に生きている。
 しかし現代は祖霊に意識が大きく変化した。その最たる事象が霊性を感じることの出来る人と、そうでない人の二つに分離したことだ。
 前者は圧倒的に少数で、後者はその残りの大半を占める。霊性不在の時代に入った。殆どが神仏を感じられなくなってしまった。霊的神性は曇らされ、“獣
(けだもの)ごっこ”に興じるというのが現在の偽わざる姿である。殆どは“獣人(けだものびと)”であり、「霊人(たまびと)」ではない。
 霊的感性は、遺伝子の中に残る先祖の記憶であり、この記憶を明確に留
(とど)める人と、殆ど記憶を喪失してしまっている人に別れる。記憶を留める人は、太古の縄文時代から、そのまま霊的能力を残留している人もいる。したがって闇を見る視覚が明るい。それだけに見えていた。

 恐らく縄文の古代人は、みな闇を見る視覚が明るく、肉体を持たない霊魂だけの意識体の動きが見えていたのであろう。そのため生活の中には、生者も死者も同じ生活空間に棲
(す)んでいた。死者を祀(まつ)るのはそのためである。そして最初の死者が初代の先祖霊となり、やがてこれが神格化され、神ととなって祀られることになる。
 この「祀る」には、同時に祭祀が含まれていたと思われる。先祖に対する儀礼法である。そういう痕跡は、神社仏閣に残っている。古代人は、みな霊能者であったと考えられる。
 ところが、個々人の間に記憶格差が起こり、記憶を留めて先祖の遺伝をそのまま現代に持ち越した人と、早々と喪失して喪失してしまった人とに別れた。

 それを分岐させたのは、食べ物であったと考えられる。
 食生活が人間を霊的神性を留めた穀物菜食実践者の「霊人
(たまびと)」と、片や、肉でも乳製品でも野菜でも果物でも、現代栄養学が推奨する自称“バランス良く”の、何でもの食べて雑食する百花繚乱の、主食として肉や乳製品を多く摂る肉常食者の“獣人(けだものびと)”に隔ててしまったのである。
 したがって両者を比較すれば、霊的神性の曇り度合いも違うし、霊的波調の粗密も異なるし、更には闇の中を視る眼の視力能力も違う。視覚の明るさまで違う。
 最も分り易い比較で言うならば、夜目の利
(き)く人と、そうでない人である。
 夜目の利く人は、視覚自体が明るく、更に広角度に遠くまで宵闇
(よいやみ)の中を見ることが出来る。利かない人はその限りではなく、宵闇世界は盲同然である。
 一方で、夜の時間帯は、全く駄目と言う夜盲症の鳥目もいる。この違いは歴然としているものである。

 夜目が利かない……。視覚が暗くなってしまったからだ。
 これこそ現代人は霊的神性が曇らされ、視界が利かなくなった証拠である。したがって、人工的な赫々
(あかあか)とした強烈な発火を需(もと)める。夜中でも発光灯が赫々照らし出されているのは、現代の光に対する畸形(きけい)であるといえよう。
 光にも、色にも現代人の視覚やその五官は、既に中庸を失っているからである。そして中庸と失った致命的な危機を招いたのは、人間の臆測によって、自己満足を満たすために、神仏の意識を計れる鬼神の意識を受け継いでいる人が極めて減少してしまった。そのために「祀り」が疎
(おそ)かになり、人間流にねじ曲げられ、人間流の非礼をもって、それを礼に帰していることだ。
 このことに逸
(いち)早く気付いたのが、孔子であった。間違った礼が行われているのに気付いたのが孔子であった。
 孔子が天命について語るとき、それは鬼神について語るときと同じく、常に礼の形式以上に肉の眼に見える以外の“何か”があり、この“何か”が尊重されていた。天意神意に対して至誠なる「まごころ」をもって接し、奉したて、祈り、事
(つか)えるべき誠意はあったが、その一方で天意神意に願いもせず、招きもせず、強請りもしなかった。決して天を、神を当て込んで、使役しないことであった。使役しないことこそ、本当の礼であり、「まごころ」であったのである。
 言及すれば、神仏は尊べど、之
(これ)を決して恃(たの)まずである。

 かの宮本武蔵も謂うではないか。
 「神仏を尊び神仏を頼まず」
(独行道)と。
 用心深い武蔵は、この事を逸早く見抜いていた。
 当てにしたり、恃んだり、強請ったり、招いたり、呼びつけたりするものでない。そういうものは礼ではなく非礼である。非礼には必ず邪
(こししま)なものが忍び込んで来る。また非礼自体が妖邪(ようじゃ)の術であり、狐狸などの低級霊を呼び寄せてしまう。妖邪に顛落すれば、いずれその魂は崩壊へと向かう。亡びる悪礼である。神仏頼みをした人に精神の畸形が生じるのはこのためである。



●現世ご利益
 昨今は、人の遣
(や)ることに習って「右へ倣(なら)え」をする時代である。
 人と同じことをしていれば、安全と錯覚するのだが、しかしこれがまさに危ういのだ。
 現代は“危うい”ことが多過ぎる世の中なのである。
 誰かが、何かそれをすると、その真似をする。
 また、“最近流行の……××……”というような、「尻追い」である。あるいは「便乗」である。まさに“バスに乗り遅れる”という感覚である。時流に遅れ、好機を逸するという“早る心”である。
 流行もその一つだろう。

 流行は、仕掛人の画策によって起こる。企みによって起こる。生活の中に変化を常に求めている人間は、仕掛人や扇動者
(せんどう‐しゃ)の画策に乗り易い。時代遅れ……と揶揄(やゆ)される強迫観念が、意識の中に常にあるのだろう。

 かつて扇動者と言えば、暴力革命を目論んだ革命家だった。
 革命家は当時の若者を、暴力をすることは「世直し」だと煽
(あお)った。暴力を肯定し、暴力こそ正義と定義した。まったくおかしな理屈だった。
 秩序を破壊するためには、暴力以外ないと煽った。大資本を粉砕するには暴力以外ないと煽った。この中の実行者の中には殺人未遂など犯行をを犯しながら、証拠不十分で不問にされた学生や労働者も居た。扇動者に煽られての犯行だった。
 この煽りに乗ったのが、戦後生まれのベビーブーマーと言われた“団塊の世代”だった。
 日本では、昭和22年から24年を挟むその前後に生まれたベビーブーム時代の世代を“団塊の世代”という。

 この世代は、既に還暦を迎え、孫のを持つ“ジジババ世代”となった。また、世の中にこれから先きも迷惑を掛ける、年金生活者世代でもある。高齢化社会を齎
(もたら)した世代である。迷惑世代である。
 この層の殆どは、いま年金世代で自分の行った犯行など、なかったように恍けて安穏とした年金生活を送っている。少なくとも、今の若者から見れば、当面は年金で養わねばならない迷惑世代であろう。若者達から見れば、遅く生まれれば父母世代であり、早く生まれれば祖父母世代である。数が多いだけに“鼻つまみ世代”でもある。
 筆者も何を隠そう、その嫌われ者の“鼻つまみ世代”である。

 その迷惑世代の“団塊の世代ジュニア”も、今やいいオヤジで、平均レベルで言えば、既に結婚適齢期の息子や娘を持つ親となっている。壮年の働き盛りであり、社会の原動力を担う中核となった。役職で言えば中間管理職というところだろうか。時代も変われば変わったものである。
 こうして時代は流れ行く。
 あるいは時代は、堆積物のように積み重ねられるかも知れない。
 古い地層の上に、新しい地層が積もり、更にその上に新しいものが載って行く。そのようにして、沈積した幾つもの層状のものが、あたかも年輪の表皮のような形成を見せて降り積もっている。時代というのは、こうしたものかも知れない。
 地層を時代別に、世代別に見ると、それぞれの世代の青少年期には何に流行し、何に向かって奔走したかが分かる。団塊の世代は、世直しという大義名分を掲げて暴力革命を夢見て奔走した世代だった。


 そして、団塊の世代ジュニアは、わが子を前頭葉未発達のまま大人にした、罪深い世代でもある。その過失は過保護の母親が、犯人だった。この世代の育児に確かに過失はあった。
 今日でも、壮年層の一部に幼児的発想をする大人が多くいるのは、自らの過保護なる母親に起因していた。肉体は確かに大人だが、思考は幼児である。その幼児が、子をもうけた。団塊の世代にすれば孫である。
 その子の世代は、どうなっているか。何に奔走しているのか。
 恋愛遊戯にかけずり回り、流行やファッションを追って、若さに任せて青春を謳歌
(おうか)し、わが世の春の青春街道を驀進中である。しかし、その進み方は、必ずしも明るい未来の方角ではない。果たして、彼等は明るい未来に目標を定めているのか。
 否、危うい!……と思う。実に危ういと思う。逆走の危うささえ感じられる。

 前頭葉未発達の隔世遺伝は、団塊の世代ジュニアだけではあるまい。
 孫に飛んでいるはずだ。だとすると、大脳生理学で言うところの、孫の“個性の座”は、どうなったのか。どう確立されてたのか。健全に、健康に、確立されたのだろうか。
 否、そうではあるまい。
 “個性の座”はないから「右へ倣
(なら)え」をするのではないか。

 流行を見れば、そしてファッションを見れば、それに奔走する行動を見れば、一目瞭然となる。これを時代の流れと一蹴
(いっしゅう)すればそれまでだが、しかし一蹴に付せば、そこには奇妙な“何か”が起こるだろう。
 この“何か”は、大衆を引き摺りながら、大衆の幸不幸に関係なく変化しなければならない。そうした悲しい側面を宿したものだ。
 そこに煽られるという……、躍らされる側の悲しい性
(さが)があるようにも思える。やはり、人間は平等などではなく、駕篭(かご)に乗る人と、駕篭を担ぐ人で二分されているのであろうか。
 その最たる現れが格差社会であり、持てる者と持たざる者の格差を生んでいる。金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧乏になって行く。これこそが資本主義経済の裏側に隠された、まさに恥部だった。

 現代は煽り方が昔とは異なり、強力なメディアを遣って流行やファッションを洪水のように氾濫
(はんらん)させる。あたかも、堰(せき)を切ったように、である。
 今日の情報化社会は、巨大資本の強力なメディアが関与している。
 食物・食糧メジャーが押し進めるグルメもそうだろう。美食もまさにその最先端にある。
 美食は動物性タンパク質で成り立っている。動タンパクに含まれる、現代栄養学が声を大にして奨励する“アミノ酸礼賛”も、その信仰も、現代の流行の最先端にある。

 また霊場巡りもその側面にあって、食文化と抱き合わせ構造で、食べ物と霊的スポットやパワースポットにセットになった旅行ツワーが静かなブームを呼んでいる。そして、そこに恋愛が絡むというのが、参加者の心を擽
(くすぐ)る。擽られる原動力は「現世ご利益」である。幸福願望の現世ご利益である。

 あるいは、“こだわり標語”が招いた、「元気を貰う」とか、「勇気を貰う」とか、また「恋愛成就」とか、更に「病気恢復祈願」などであり、酷いのになるとこれを逆手のとって、仕掛人どもが「ガンなどの難病が治る」などと遣り出した。祈願成就にこだわると、ガンも退散するらしい。“貰ったり”あるいは“祈願する”などの背後には、金が絡んでいることは明白だろう。
 それを、こだわり、こだわり、こだわり……と機関銃のように連発して、若い無垢層
(むく‐そう)を遣り込める。遣り込められた方は靡(なび)くしかない。無垢なる故だ。

 この世は、“現世ご利益”だらけである。
 何処に行っても、現世ご利益が謳われている。恋愛成就も子宝成就もその一環に組み込まれ、大々的にこだわって、何処の神社仏閣でもそれらを謳い文句に、詣で客を待ち構えている。
 “こだわり”だらけである。こだわることがいいように宣伝する。
 これにかこつけた青年男女をターゲットにした恋愛信仰まで流行している。愛染明王信仰まで、何処の寺社も花盛りだ。神仏習合で、社の仲間で怪しき明王群が祀られている。
 まさに金・物・色のオンパレードである。

 現世ご利益……。
 深く考えないで、そのご利益にありつけば、これほどいいものはない。
 代価とか、代償などを考えなければ、これほどいいものはない。何しろ願っただけで適
(かな)うからだ。
 ところが、現象界はそのように出来ていない。人間現象界は、代償を払うという現象が起こる世界なのだ。
 現世ご利益……。
 これは幻想に過ぎない。
 しかし、何ゆえ現代は現世ご利益に奔るのだろう。大半は“願を懸けたい一心”であろう。その願は、家庭の不幸とか経済的不自由とか病気などであろう。願懸けには人さまざまな理由をもって願うものである。その願懸けに異能が登場すればどうなるだろうか。立ち所に願いを叶えると言うその種の物が取り憑
(つ)けばどうなるだろうか。不幸現象に何らかの願いを求めて殺到する人々に嗤(わら)う気にはならないが、しかし不憫(ふびん)を感じないわけにはいなかい。人はみな不憫である。
 そして御利益はあったのか?と訊きたい。
 こうした場合、多くは「先取り能力」である。何の役にも立ちはしない。御利益騒動に巻き込まれ、取り憑いた物は何ら変化無しである。一回でも落ちたかとなると、これがまた怪しい。もし一回でも落ちたのなら、それは能力が齎したものでなく、ただの被験者の体験であった。体験をもって先取り能力を換金する輩が殖えた事である。憑いてもそれを落せないのが現代社会の側面にあるようだ。



●現代人を悩ます霊的磁場の影響

 新興宗教に入信したり、霊山や霊場に出掛けて行って、無知のために結界の張られた注連縄
(しめなわ)の境界線を無視して霊域に踏み込み、その禁を冒して統合失調症に罹(かか)る霊的未熟者も居る。体調だけでなく、心まで崩す者が居る。
 それに“肉喰った報い”が絡めば,不幸の二重奏だ。心身を崩し、やがては絶望の淵に立たされる。
 そして以降、廃人の人生を送る。

 一旦この病気に認定されると、日本では一生涯精神病の薬を飲み続け、死ぬまで薬から解放されることはない。精神衛生福祉法は、そうした患者のためにある。
 今こうした人が殖
(ふ)え続けている。こうした若者が殖え続けている。若者の未来は前途洋々ではない。昏(くら)い翳(かげ)りがある。冥(くら)い暗示がある。神(しん)に障る現象が起きている。
 心の病んだ、神を冒された、そういう異常者が殖え続けている。

 本来は、こういう人は稀
(まれ)だった。少なくとも、半世紀前は何処の精神病院も、精神科も閑散としていた。人間の罹る病気に精神病はなかった。そう断言する医者も居る。
 「本来、人間の病気には精神病はないんだよ」そう断言する医者も居る。
 ところが、その言は覆されている。居ないどころか大勢居る。何処の精神病院も、何処の精神科神経科クリニックも、朝から診察の順番待ちで、番号札を貰って待たなければ行けないほど大繁盛している。
 本来、人間には精神病はなかった。

 ところが此処に来て、急増した。人間にはなかった病気が蔓延している。
 元凶は、仕掛人に煽られたからだ。霊場巡りをしたからだ。
 その結果、霊場から持ち帰った霊障を被った。それを行って持って帰って来た。
 何を持ち帰ったのか。
 人の落とした“念”である。他人の願を懸けた“念”である。成就されなかった“念”である。
 霊的スポットとかパワースポットなどは、かつてそこを訪れた“人の念”が一杯落ちている。その落ちたものを、後の人が、分からずに、無意識のまま拾って帰って来る。人の落とした念を拾ってしまうのである。その念の多くは、生霊や死霊が落としたものだった。恨みつらみだった。
 本来、霊場は静かであるべきところだ。静寂を旨とする。騒がしいところではない。これが近年騒がしくなった。

 一部の心ない仕掛人によって“町興し”とか、“村興し”とかで、騒がしくなった。霊場を土足で踏み込む観光地にしてしまった。
 そもそも、そこにいた自然霊が起こるのは無理もないだろう。今や霊場は、絶好の行楽スポットにされてしまった。霊場が、景勝地代わりに遣われ、面白半分に“パワースポット”などと持て囃
(やは)されている。
 あたかも、礼儀知らずの来訪者が先祖の墓の上を踏みつけるように……。祖霊の頭を踏みつけるように……。
 これは恐ろしいことであり、無礼なことである。
 来訪者は観光客の一人に成り下がって、かつての日本人の先祖の頭の上を踏みならして歩いている。その光景は、また、怒りを買う光景でもある。祖霊が怒る構図である。憤懣
(ふんまん)が起こる光景でもある。

 更に、これに新たな動物霊が絡み付く。怒った祖霊に絡み付く。霊的同調である。意識体の同調である。絡み付いた同志が、更に来訪者に障りを為
(な)す。意識が低く、品位のない野蛮な低級霊が絡み付く。最悪の構図だ。畸形(きけい)であるだけにその姿も異様である。
 現代人はこの構図の恐ろしさを知らない。
 霊障が、いま猛威を揮っている。霊障を仕込んだものに、人は、コントロールされている。操られ、自らは人格を失う。犯罪まで関与する。何処も此処も憑衣で溢れている。誰でもが大なり小なり憑衣されている。こうした世が、狂っているとは言えないだろうか……。

 昨今では、無知が無知を呼んで、奇妙な事件ばかりが起こる。
 霊に絡む不可解な異常事件が多い。
 殺したり負傷させる側にも問題があろうが、殺されたり負傷を追わされる側にも、何らかの問題を残しているケースがある。
 子が親を殺す事件などは、その最たるものだろう。
 あるいは親が子を殺すなども、そうだろう。
 血縁者が絡む事件は、一般の殺人事件と異なり、そこに漂っているのは紛れもなく怨念だ。
 怨念こそ、遺恨が拗
(こじ)れた生霊や死霊の恨みである。それを、ひょんなことから拾い込む。そして、それがメルトダウンに達したとき、異常なる事件が起こる。

 霊が絡んでいるからだ。
 肉の眼に見えない闇の世界のものが絡んでいるからだ。霊が絡み付く現象を「霊障」という。
 どうして霊に絡む事件が起こるのか。
 それは興味本位のオカルト趣味が招いたものだと言える。あるいは占いなどの、依頼を絡ませたものである。
 現代の世は、科学を標榜
(ひょうぼう)しながらも神秘主義に興じる人が多く居(お)り、その最たるものが、占いをはじめとする種々の遊びである。運試しの種々の籤(くじ)もそうだろう。
 また、恋愛遊戯も、その一つだろう。

 現代女性が、早々と処女を喪失するこの現れも、一つの憑衣が招いた近年の社会現象であろう。

 巷
(ちまた)では恋愛に絡む、占いゲームが大流行である。
 また、結果依頼で祈祷の類を恃
(たの)む。そんな遊びも流行り出した。神頼みならぬ祈祷師頼みである。そして、これらの遊びには、霊媒師を必要とする。神霊や死者の霊と意思を通じうる媒介者がいる。この媒介者を霊媒師という。巫女(みこ)や口寄(くちよせ)の類(たぐい)だ。
 この一人二役を、荒稼ぎの職業祈祷師が遣るのである。何とも詐取的な構図ではないか。

 この類は、霊媒の媒介によって、死者と生者とが意思を通じあう術に関わっている。かつては「神降ろし」などと言われた。
 祭の場に、神霊を招請することであり、巫女が託宣
(せんたく)を受けるために神霊を身に乗り移らせることを言うのだ。
 この術は単なる神楽舞ではない。

 神楽は簡単に言えば、“かむくら”という神座の意味を持ち、それは皇居および皇室との関連が深い神社で、神を祀るために奏する歌舞のことである。この伴奏は笏拍子
(しゃくびょうし)・篳篥(ひちりき)・神楽笛(かぐらぶえ)・和琴(わごん)の四種類の楽器で伴奏される。
 一般に知られるのは毎年十二月、賢所
(かしこどころ)で行われるものが代表的である。
 また、民間の神社の祭儀で奏する歌舞である御神楽
(みかぐら)とか、神遊(かみあそび)と言われるものもあり、里神楽(さとかぐら)などとも言われ、全国各地に様々な系統のものがある。

 能の舞事においては、リズム豊かな曲で、小鼓が神楽特有の譜を奏し、女神や巫女などが幣
(みてぐら)を手に舞う。また、狂言の舞事においては、能とは別の曲が用いられ、巫女が鈴と扇を手にして舞う。
 あるいは歌舞伎囃子の一群もある。これらのものとしては宮神楽・早神楽・本神楽・夜神楽
(大べし)・三保神楽・岩戸・「あばれ」などがある。そして、歌舞の目的は「神降ろしの術」である。
 大変にエネルギーを遣う術である。
 身体的にも心的にも霊的にも消耗を生じさせる術である。
 この術を学ぶには相当な修行を必要とする。心的鍛錬とともに、肉体的な苦行も強いられる。
 決して素人が、面白半分に遣れるようなものではない。

 また、神降ろしによって得られた神慮を、審察する人を審神者
(さにわ)という。
 審神者は「さ庭」ともいい、“サ”は神稲の意を持つ。「さ庭」は故に、斎いみ清めた場所のことであり、神降ろしを行う場所でもある。
 それに立ち会う人が審神者であり、神慮を審察する人であるとともに、神命を承
(うけたまわ)る人でもある。
 あるいは神降ろしのために、神楽で和琴
(わごん)を弾く人でもある。非常な能力を持った人のことである。千人に一人も居(お)るまい。千人どころか、一万人に一人も怪しい。それくらい確率が低い。低い確率の中で、先天的にそうした能力を持ってこの世に生まれた人である。

 しかし、こうしたことが見抜けない世になった。
 先天的な能力を持った人を、現代では「科学的でない」という呼称で引き摺
(ず)り下ろす。非科学的という侮名と汚名を投げつけて、徹底的に扱(こ)き下ろす。これにより、本物の審神者は姿を隠し、それに変わって、“似非神(えせ‐がみ)”が登場した。職業祈祷師の類である。

 現代の“科学的”という言葉は、玄人と素人の境目を、まず無くし、これを平坦にしてしまったことだ。陸続きにしてしまったことだ。
 結界の裡側を土足で踏み込ませることがどんなに恐ろしいか、その意味が分からなくなってしまっている。
 そして、この世界では、素人が玄人に化けることが可能になったのである。

 ド素人がそれらしく振る舞って、霊媒師の真似をすることが、意図も簡単に出来るようになった。
 あの滑稽な、訳もなく飛び跳ねるチャネラーという類もそうだろう。踊り踊って、魑魅魍魎
(ちみ‐もうりょう)に狂わされている類である。その証拠に、ぴょんぴょんと跳ねる軽佻浮薄な動作をする。狂わないとこうした動作は出来る訳が無い。
 触らぬ神に祟りなし、である。中庸を知らぬとこうした軽率な憑霊行動まで顕われる。慎むべし、だろう。



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