運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
旅の衣を読むにあたって
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旅の衣・前編 62

禅の言葉に“日に用いて知らず”というのがある。日に用いているのだが、それは無意識のうちに行っていて、しかも自然な様を言う。気付かない中にも、生かされてきた自己を観るとき、これこそが自然に備わった神仏の働きと尊重するのである。
 自然な働きに気付き、生かされている自己の目覚めたとき、これを“悟り”というのである。


●解放感と違和感

 子平直政のことを松子から聞いたとき、私は自分が如何にヤワであるか羞
(は)じ入った。
 軽輩なれど、痩せても枯れても岩崎健太郎、武士の端
(はし)くれなどと豪語していたが、では、その端くれはどの程度の覚悟によるものなのか。
 思えば、豪語は豪語に過ぎず、蓋を開ければ口先の徒でなかったのか。戟
(げき)で肩を砕かれ、自らで対処できず、人の世話になった。お粗末と言えばお粗末だった。
 一方、松子の話によれば、子平直政は不覚をとって脱臼したり、骨折しても、また斬られても十四秒以内に止血し、自分で治したという。これを戦場医術と称して、例えば白兵戦で脱臼しても、帯とその辺の樹木の枝を利用して、直ぐに自分でひょいと入れてしまってたという。格が違うというか、覚悟が違うのである。
 果たして、あのとき私には「覚悟のほど」があったのか。そう問うと、はなはだ怪しくなる。そして、床に臥せり世話になった。そして再び思う。もし、子平直政だったら……と。

 子平なる人物には、一度もお目に掛からずじまいであったが、この人物は俊宮家の家老であったと言う。
 また執事であり御用人的な役を担い、かつ松子の後見人であったと言う。
 戦後、子平は没落した俊宮家に残された松子を連れて、旅から旅へ明け暮れ、彼女を育て、教育し、教養として能管を教え、武儀として中條流小刀を教えたという。だがその剣客だった子平が斬られた。さぞかし無念であったろう。
 私はその子平直政なる人物を知らない。しかしその人物を知る御仁も居る。その御仁は、また子平直政の師匠と言う。だがこれまで、わが師・山村芳繧斎
(ほううんさい)先生のところでは一度も見たことがない。
 更にわが師は、中條流を名乗ったことがない。だが、松子によれば、子平の師匠は山村芳繧斎という。
 考えれば、時代が合わなかった。では子平は、いつの頃の弟子だったのか。私の疑問だった。
 こう言う疑問が起これば、質
(ただ)さなければ気が済まないのが、私の性癖である。
 養生中の身ではあるが、床から勝手に抜け出し、お忍びで出掛けて行きたい衝動に駆られた。そして、その衝動を松子に煽られた。興味の対象は、子平直政なるその人物の「人となり」であり、これを聴いてみたいと思った。こうして、松子に支えられて山村師範宅に向かった。
 松子は、得意の変装で化けているというより、県立T高校のセーラー服と一体型になっていた。よほど気に入っているのであろう。

 何度も往復して通い馴れた坂道の上り下りである。蝉時雨の中であった。この蝉時雨も、思えば七、八年ほど前、父が世を去ったときも、いつか聴いたことのある、蝉の聲
(こえ)がしきりに降り注ぐ道であった。
 「少し休もう……」息切れがして、疵が疼
(うず)いた。
 「じゃァ、あの石の上で。無理しない方がいいわよ。無理だと思ったら、引き返しましょうか?」
 「いや、少し休めば大丈夫だ」とは言ったものの、果たして大丈夫なのか……。今さら引き返すわけにはいかない。
 「強がり、痩せ我慢。意地を張って妥協しない……。本当に困ったものだ」と松子は呆れ気味に言った。心配してのことだろう。
 「有り難うよ、褒
(ほ)め言葉としては頂けないが」
 「でも、強がり、痩せ我慢。そして、自分を強いと思い込んでいること。その錯覚……。その錯覚が付き纏う限り、これを積み重ねて、少しずつ本物に近付いていくのかも……。そんなこと、子平が言っていたわ」
 「なるほど……」と奇妙な言い回しに感心した。
 私が得心したのは、この方法こそ、弱者が強くなっていく、唯一の方法だなと合点がいったのである。何処か子平直政の心に触れたような気がした。それが私を賦活
(ふかつ)させた。
 「健太郎兄さんは、変な妄想があるそうね?……」
 「どんなだ?」
 「由紀子さんが言っていた。自分が第三者から常に見られているというそういう意識。巨大劇場の観客が自分を見ているという変な発想。でも、この発想はおもしろいわ。自分の無態
(ぶざま)を他人から見られれば、見られていると言う意識から、痩せ我慢したくなりますものね。これを、神が自分を見ていると解すれば更に奮闘したくなりますものね。子平も、同じような考えを持っていた」
 「神が見ているか……。人は騙せても、神は騙せない。欺けない。何もかもお見通し。道に外れたことをすれば天罰が当る。素朴なことで、人として守られなならぬ意識。つまり、神が見ている……か……。
 では行こう、神が見ている」果たしてこれは幻妄
(げんもう)か。今からもついて廻るだろう。
 「じゃァ、行きますか。蝉時雨の中を相合い傘で」
 一休みして、また蝉時雨の坂道を上り始めた。

 道中、つらつら思う。
 例えば、『帝王学』では人民を指導する帝王は最低でも、三年間は絶対に風邪をひいてはならぬという厳命があり、風邪やその他の病気を罹病してはその資格無しと看做され、帝王としての「至誠の学問」は全う出来ないとされた。自己の健康管理出来ないものは不適切とされた。また病気に罹らないことでなく、病気に罹っても直ぐに治る体質を養っていなければならない。強靭な体力ではなく、病気に罹っても直ぐに治る体質が必要とされた。私のような怪我をしても、ダラダラと安静にしているだけでは指導者の資格が疑われ、また求道者の態度でもなかった。
 そのために松子から、外へと引っ張り出されてしまったのである。肉体は少々痛いでも、それに甘えては躰が錆
(さ)び付く。関節部の蝶番(ちょうつがい)を稼動させておくことが大事だ。頭も躰も柔軟に稼動させることである。そして自然治癒力を引き出してやる。少々の苦痛でも、辛抱し、我慢して働くことは可能である。
 だが、現代はどうだろう。
 昨今の日本人からは苦痛を我慢する力がなくなった。少し体調を崩しただけで、医者や薬に頼る。自分で自分の病気を克服する、せっかくのチャンスを捨ててしまった。時代は、ついにこういうものが跳梁
(ちょうりょう)する時代になってしまった。
 しかし人間は弱い存在である。御多分に漏れず、私も弱い。弱い種属の人間である。だが弱いから強くなりたいと修行する。その修行においては、肚の出来た人間ほど、覚悟という胆力を肚に秘めている。
 まず、それに倣
(なら)わねばならない。倣う姿勢から、覚悟を決めると言う決心を学ぶ。
 弱いから強くなりたい。その願望を口にした出す。強い台詞を口に出して言う。弱い人間でも、次第に言霊の働きで「強い」と念じれば、それが少しずつ深まって、本物の強さに近付いていく。言霊の威力である。


 ─────山村師範宅。
 「これはこれは俊宮の姫君・松子さま。ようこそ、このような草深いあばら屋へ」と畏
(かしこ)まった。
 爺さまはこの日、上機嫌だった。松子を伴ったからだろうか。しかし、《俊宮の姫君・松子さま》とは何か変であった。こういう言い回しは、松子の正体を知っていることになる。
 師匠・山村芳繧斎師範は、凛冽
(りんれつ)な気性の持ち主である。
 「先生も、ご健勝でなによりです」と私も社交辞令として、世辞の一つも言ってみた。
 「なかなか、しぶといのう」どういう意味だろう。あるいは刺客に殺されなかったからだろうか。
 「欲しがりません、勝つまでは」さて、この謎掛け、爺さまはどう反応するやら。
 「さて、緒戦は負けたか」私が重傷を負ったこと言っているのだろうか。
 「どういう意味です?」
 「お前の左右の捻れ。肩を裂かれたであろう、刺客に」と見通したことを言った。
 「うム?!……」驚嘆した。ズバリ衝いたからだ。
 「子平直政と同じ刺客だ」と見透かしたようなことを言った。
 何と言う炯眼
(けいがん)。表面から、一切の出来事を読んでしまう。
 「なんですと?!」
 「まァ、いい。次は不覚をとらぬことだ。あれは戈
(か)といい、戟(げき)という。刺しに捻りを入れるを特異とする」
 爺さまは、総てを見てきたように知っていた。捻りを入れるとは、銃剣術とか手槍術によくにていた。突く刹那、捻りを入れて、銃弾の銃創で言えば、一点を掻き開くのである。銃身の螺旋溝を通過して発射される銃弾の威力は回転しながら弾が撃ち出されるためである。そこに大きな孔
(あな)が開いて、銃創が出来る。

 「先生。子平直政とは、如何なる人物だったのでしょう?」
 「さて、なあ……」爺さまは惚
(とぼ)けて、渋りやがった。簡単に答えない。
 「あのッ……」今度は松子が強請
(ねだ)る眼で、妖艶に、誘惑しつつ切り出した。
 「どうしたものかのう……そういう眼で見られては」爺さまは蠱惑
(こわく)される寸前だった。
 「ねえ、センセェ」といつもの愛くるしい貌をして、可愛らしい聲
(こえ)で言う。
 「さて……」眼が宙に飛んでいた。貌に葛藤が見られた。
 そして渋ったので、もう一度いう。話に術が掛かっている。
 「センセェ……」と更に甘えて微笑を作り、愛らしく迫り、指は盛んに「の」の字を書いていた。
 なかなかの演技である。
 「さて、斯
(か)くも妖艶に蠱惑されているのだから、わしとしては、この際、姫君を評して、可愛いッ!などと頓狂な聲を発したいのはやまやまなれど、しかし、わしも、そこは人と言うか、義理堅い」
 爺さまは容易に転けない。転んでくれない。なにか、ブレーキか掛かっている。
 「だけど、センセェ。そこを曲げて、なんとか」と更に蠱惑に拍車が掛かった。
 「……………」爺さまは、答えないというか、黙して言いたがらない。何がそんなに、頑
(かたくな)な歯止めを掛けているのか。よほど重大なことなのだろう。

 「先生。遂に恍惚のお歳になられましたか」と私は突ついてみたい気持ちで、怕々と鎌を掛けた。
 そこで爺さまは、かッ!ひと睨み。今、まさに、蛙に飛びかからんとする蛇の睨みだった。
 「よう言うた、いい度胸だ!」と竦ませるように吼
(ほ)えた。
 「ここまで言わぬと、なかなか重い口も開かないだろうと思いまして」と怕々と言った。
 「気を遣ってくれたということか、怕さも顧みず。健気じゃのう」爺さまは鬼神と化そうとしている。
 「センセェ、そんな怕い顔なさらないで」愛くるしく迫った。
 しかし爺さまは、喋りたくない表情を崩さない。これには、よほど秘めたことがあるのだろう。
 「さて、どうしたものかのう」
 「まだ、お迷いですか」
 「困ったなあ、義理堅い、わしとしては……」と、したたかに渋った。
 ところが、松子が尻を捲った。果たして、爺さまの渋り勝ちか。
 「では、もうお訊き致しませんわ。じゃァ、健太郎兄さん、帰るわよ!」
 「えッ?えッ?……」いま来たばかりじゃないかと、私は惑乱した。

 「まあ、俟て。早まるでない。これだ。持っていけ、泥棒」爺さまは坐り机の抽き出しから、一冊の手帳を投げた。
 「これは?」松子がそれを拾って中身をパラパラと見た。
 「わしは喋らんぞ。絶対に喋らんぞ。しかしなあ、わしの家に賊が入り、何者かが、わしの秘なるものを盗んで行きおった。それだけだ。それ以上、知らんぞ。関知せんぞ」与
(あずか)り知らぬという事だろう。
 「これは?……、紛れもなく子平が書いたメモランダ!……。書き始めは昭和17年2月25日で、樺太庁庁舎本館から出火し、全焼とあるわ。出火は本館フィルム室より火の手。放火による疑い大。犯行はソ連軍工作員と思われる」と松子が驚いたように、棒読みするように吐露した。
 「わしは、知らんぞ。聞いてもおらんし、見てもおらん。そういうメモは、疾
(とお)に忘れた。メモは何者かが盗み去った。それだけのことだ」
 「有り難う御座います」
 「では、先生は堅く約束されたのですね」私は爺さまの口の堅さに驚いた。
 「知らん、もう忘れた。黄昏れているからな。遠い昔のことだ。いつだったか覚えておらん」
 「では、お暇
(いとま)しますよ、健太郎兄さん。先生は長居は無用という貌をしてるでしょ。泥棒が泥棒に入って、そこで長々と居座っては訝(おか)しいでしょ。退散するわよ」
 「先生、有り難う御座います」と感謝をして一礼した。
 「長居は疵
(きず)に触ろう、早く行け!」
 「はあッ、またいずれ、あらためて」

 上って来た道の復
(かえ)りを急いだ。何かに見張られている気配を感じたからである。
 私は小心者である。臆病風に取り憑かれ易い。まだ陽がある午後の蝉時雨の中であった。
 「健太郎兄さん、大丈夫?」
 「少し休めば、なんとかなる」
 「顔色、なんだか蒼
(あお)い……」
 「大丈夫だよ、時にはこういう痩せ我慢も躰にはいい」
 「今日は、度が過ぎたかしら」
 「いや、鍛えるにはちょうどいい」
 しかし私は気になることがあった。これまで私の棲んでいるアパートである。そして深手を追い、命からがら逃げ帰った私の塒
(ねぐら)。果たして見張られていなかったのか。いままで疵を養生するために、臥(ふ)して居たが、何者かが見張っていなかったのか。懸念するところである。
 もう一度、これまでを整理して、流れと筋書きを最初から洗い直してみる。

 義によって助太刀もうすから始まった及川英治の喧嘩事件。妙な方向に発展した。
 及川は事もあろうに、広域暴力団系の安田組
(仮名)の息のかかるチンピラ相手に、五人斬りをやらかしてしまったことに始まる。そこで落とし前をつけさられる羽目になった。そして『ヤッパの俊』という刺客が、私に差し向けられた。刺客は俊宮松子だった。松子の出は、由緒ある旧華族の俊宮家であった。
 今は大東亜戦争敗北とともに没落したが、その宮家を支えてかつての家老で側用人で、松子の後見人であった子平直政が親代わりに育て、教養を身につけさせ、しかし旅から旅への渡世人家業。土地土地の顔役の家に草鞋を脱ぎ、また各地の道場を泊まり歩いた。なぜ旅から旅を繰り返したのか。
 それに松子の背中に、鬼面の鬼子母神の彫物をさせたのか。松子の美貌を、筋者が狙わない訳がない。狙いが定められ、必ず猟られるだろう。それを懸念してのことだった。しかしである。ただ、それだけのことか。
 仏道では、女は成仏できないという。そこで変成男子
(へんじょう‐なんし)となる呪文を唱え、松子の姿を男にしてしまった。そこから『ヤッパの俊』が出現した。刺客である。
 松子は刺客となって、暫く私を付け狙った。猟る気だったかも知れない。
 しかし、此処に来て彼女は変わった。その原因は、私の母との関係に起因しているのだろう。彼女は自らの人生で、母親の存在と言うのを感じたのだろう。彼女自身の母性の目醒めであったのだろうか。
 奇
(く)しくも私を狙った際に、寝返ったのかも知れない。彼女は「松子サヤン」を引き受け、逆スパイとなった。そして対決の末、見た目では決着がついたように思えた。

 ところが、安田組との落とし前は、それ以上の上部組織から、この対決を隠れ蓑にして、私の始末が目論まれたのではないか?という懸念が疾った。本命は、私の命ではなかったのか。
 そうすると、何となく辻褄が合ってくる。
 更に振り返れば、観月会のあの月見、ただの月見であったのだろうか。
 それに、妙に感じたのは、観月会の招待状が由紀子に渡ったというシナリオである。由紀子の話では、上司である小児科部長から貰ったという。「自分は都合でいけなくなったので、よかったら八月×日の観月会に行ってみないか」といわれて、今宵の観月会の招待状を貰ったと言う。そして小児科部長は、なぜ今宵の観月会の招待状を持っているかと訊くと、書画骨董の蒐集家と言うのである。つまり、お茶を嗜
(たしな)む人であるらしかった。だいたい小児科部長は、何故招待状を由紀子に渡したのか。任意なのか、故意なのか。
 裏で何か大きな目論見があったのではないか。疑念が次から次へと連鎖した。
 次に、『三宝堂』が密かに所持していた登録証のない二尺三寸七分の『庄司次郎太郎直胤』の行方である。
 今、この刀剣は誰の手にあるのか。それは刺客が遣うのか。あるいは何処かで秘されて、官憲の目を眩まし温存されているのか。
 更に奇妙なことは、子平直政が書いたメモランダである。
 これによると、書き出しが、昭和17年2月25日で、樺太庁庁舎本館から出火し、全焼とある。出火は本館フィルム室より火の手。放火による疑い大。犯行はソ連軍工作員と思われる……となっていた。
 山村師範宅を去るとき、爺さまは「わしは、知らんぞ。聞いてもおらんし、見てもおらん。そういうメモは疾
(とう)に忘れた。メモは何者かが盗み去った……」などの、総て自分は知らぬ存ぜぬで、見て見らぬ振りをしている。これも何かがあるように思われた。
 何かがある……。それは漠然とした勘である。小さな一旦が見つかったに過ぎない。一つの方向性が見えただけだ。


 ─────復
(かえ)り、実家に寄ることにした。アパートまで持たないような気がしたからだ。
 母は元気になっていた。松子のお陰であった。彼女には尽きせぬ感謝があった。
 「おれは疲れた。少し横になる。松子、いいか。この事、絶対に母に言うなよ。うまく繕
(つくろ)え」
 「ええ、任せておいて、うまく遣る。じゃァ、早く横になって、今お蒲団、敷くから」
 私は言われるままに、夏用の蓙布団の上に横たわった。何故かこのとき、急に動悸は烈しくなった。傷めた肩が何か熱を帯び、脈を打ち始めた。肩の反対側には、欠盆
(けつぼん)がある。
 欠盆は鎖骨の上の窪
(くぼ)みにあり、喉の下にあって、胸の上に半環状をしている骨の部分である。更に裡側には動脈が通っている。そこに砕けた骨の先が触れ、あるいは刺されば、動脈を損傷する恐れがあった。破れたか?……、私の懸念であった。気の所為か、少し息苦しくなった。
 「では、おれが恢復
(かいふく)するまで、母をお前の傍に貼付けておけ。その前に、少しばかり子平直政のメモランダムの件(くだり)を読んでくれないか」

 「ええ、いいわ。じゃァ、読むわよ。まず書き出しから。『昭和17年2月25日で、樺太庁庁舎本館から出火し、全焼』とあるわ。どうも、この火事に何かがあるようね。陰謀を感じさせる発端があるみたい。
 『出火は本館フィルム室より火の手。放火による疑い大。犯行はソ連軍工作員と思われる。この放火事件で陸軍省法務局の山村中佐が調査に来る。フィルム室は、日本軍のプロパガンダ工作の映画フィルムが収録されていて、日本軍が戦争終結の模索を始めていた頃である。自分は樺太・豊原憲兵隊から派遣された調査班の班長を仰せつかった子平憲兵中尉である。当時28歳の駆け出しの憲兵将校だった。
 この調査を直々に下令されたのは、樺太軍司令官の公爵・俊宮奉文
(ともふみ)陸軍中将閣下だった。またこの調査には陸軍省法務局の山村芳樹(芳繧斎)中佐が特使として派遣された。中佐は武儀に優れた才を持つと聞く。一度お手合わせ願いたい。かねがねそう思っていた。
 この放火事件は、意外な方向に発展し、そこに陰のフィクサーが泛
(うか)び上がったが、それを断言するだけの自信がない。事件解決は以外と長引き、犯人像は特定しならがも、証拠がない。解決の諸(いとぐち)は見つからないままであった。合理的な推論のたたない事件であった。あのとき感じた朧(おぼろ)げなる影は、ただの思い過ごしだったのか。
 昭和18年7月1日には樺太庁長官に大津敏男閣下が就任。樺太の地は農産物の宝庫だった。樺太庁中央試験場では小麦の新種『樺太1号』の実験が成功した。同年7月31日のこと。この前後、中佐とお手合わせを願い、敗る。甚だ強し。その後、中佐は北支へ派遣さる。嗚呼
(ああ)、惜しいや。
 昭和20年6月13日、国民義勇隊樺太大隊が編制され、本隊は樺太軍の俊宮閣下の指揮下に混成義勇軍としてソ連との国境・安別
(あんべつ)の警備に当る。同年8月9日、ソ連対日参戦の宣戦布告。同月12日にはソ連軍は師走川を突破して古屯に進撃。
 同月15日、戦争終結の詔書放送
(玉音放送)あり。翌16日、ソ連軍、恵須取(えすとり)に進攻。日本人の惨殺が始まり、その虐殺筆舌に尽くし難し。ソ連軍の無頼漢で編制された暗殺部隊の蛮行甚だし。20日、真岡に進攻。真岡(まおか)郵便局電話交換手の女性9人が全員殉職、自決を図る。俊宮閣下、ソ連軍との交渉の結果、同月22日、知取(ちとり)町で日ソ停戦協定成立。同月全樺太日本軍武装解除。同年9月3日、俊宮閣下、ハバロフスクへ連行。のち同年12月6日、わたくし子平直政とに帰国が赦され帰国する。その際、わたくしは、俊宮閣下から俊宮家の御用人を仰せつかる。
 昭和26年3月7日、俊宮奉文さま、皇族・羽賀宮寅泰
(ともやす)殿下の二女・祥子さまと婚姻。
 昭和28年5月29日、長女・松子さまご誕生。
 昭和29年1月24日、俊宮奉文さま、戦犯容疑で巣鴨刑務所に収監される。同29年8月4日、朝鮮人・中国人虐待の科
(とが)で、戦犯として死刑判決を受ける。同月、25日絞首刑が執行さる。享年四十七。
 昭和30年、お妃の祥子さま、心労のため、一子・松子さまを残し病没する。享年三十。
 翌年5月、もと陸軍省法務局の山村中佐殿の自宅を乳飲み子・松子さまを連れて訪れる。中佐殿の一子・山村芳嘉
(よしひろ)海軍少尉、台湾沖上空で散華する。甚だ気の毒なり。慰めるに言葉しらず。
 昭和31年、中佐殿の予備士官学校教官時代の教え子に岩崎宗樹大尉あり。大尉殿は平戸藩の出身の士族と聞く。奥さまの朝子さんに、松子さまの養育をお願いする。戦後の物資難の折であったが、奥さまは快く承諾する。言葉に尽くせぬ、寔
(まこと)に有り難し。朝子さんに健太郎なる男子あり。この男子は、いま八幡に居ず、平戸に居るとのよし。朝子さん、病弱にて松子さまの養育ままならず。松子さまを引き取る。
 昭和32年、松子さま、4歳。姫さまを伴い、放浪の旅に出る。途中、追手あり。その尾行者不明。
 のち尾行者の輪郭浮上。心当たり有り。わたくし、子平直政は憲兵中尉以来の事件追及の結果、戦後、日本で樺太庁庁舎本館から出火工作を図った意外なる人物と奇
(く)しくも遭遇する。爾来(じらい)、松子さまを連れて各地を行脚(あんぎゃ)する……』と、まだ長々と続いておりますが、続けますか?」
 子平の記したメモランダムには、空恐ろしいことが書かれていた。それは何故か不吉を思わせた。その不吉は今も継続されているように思われた。以降の覚書は松子を連れて行脚したことが綴られているのだろう。
 そして聞いていて不思議なことは、子平直政なる人物は当時憲兵中尉だった。私の知る限り、これまでの証言から、外地で捕虜になった憲兵将校は、殆どがBC級戦犯として死刑になっている。何故、この人物はシベリア送りにもならず、無事に日本の帰国で来たのだろうか。裏に何か、取引があったのだろうか。
 それにあと一つ。子平が昭和47年まで生きていたとして、そのとき年齢は58歳である。松子は、この子平を昔のヤクザといった。年齢より老けて見えたのだろうか。

 「いや、これ以上続けられると、もう恐ろしい文面の衝撃で、おれが躰が持たん。松子。こういうのを読ませて、さぞ、辛かったであろう。赦せ、赦してくれ……」と言いかけて、私は気の遠くなるのを覚えた。
 疵の恢復は、まだ先のようであった。遂に破れたか……。意識が消え掛っていた。
 「お母さん、お母さん。健太郎兄さんが……」と慌ただしく呼ぶ松子の聲の、そこまでしか、私には聴こえなかった。
 私は夢の中で、松子は一時期、母に育てられたのだろうか。母は、今の松子を、当時の松子と同一人物と認識しているのだろうか。そういうことを思いながら、次第に意識が薄れていくのを感じていた。そして、その先はもう総て何もかも分からなかった。なぜか眠い、やたら眠かった……。


 ─────あれから幾日が経ち、暫し実家の床で臥したままであった。その間、山あり谷ありの状態で、一進一退を繰り返し、「瞑眩
(めんけん)反応」が現れた。不思議な現象である。
 瞑眩とは、目がくらむことを言い、これは“目眩
(めまい)”の症状である。これは怪我や病気が好転する時に現れる反応である。
 かつて東洋医学は瞑眩反応のことをよく知っていた。それは患者を全身で捉え、今日の現代医学
(西洋医学)のように分化した考えで、数値で捉えてなかったからである。現代医学は患者を診ず、検査結果で出た数値との睨合い治療だ。医師は、患者を診ずに数値ばかりを検討し、その検査結果に合わせて、今後の治療法を検討する。慢性病や大怪我などをして、それが好転する時には、必ず「瞑眩反応」が現れるものである。
 昨今の現代医療の現場では、滅多にこうした反応は見られなくなったが、それは数値本位の機械本位の医療になってしまったためであろう。したがって現代医療の現場で、もし瞑眩反応が現れようものなら、それは好転に向かっていると捉
(とら)えずに、「病気が悪化したのだ」という診断を下す。そして追加処置として、更に強力な投薬がなされ、この反応を封じ込めてしまう。しかし、それは折角好転に向かいかけていた患者を苦しめ、更に悪化させてしまうことだった。

 瞑眩反応は例えば、内臓疾患ならば胃痛や嘔吐
(おうと)などが起こり、手足・腕や肩の怪我などでは捻挫や打撲の痕(あと)、また骨折の痕が腫(は)れ上がって痛んだり、発熱をしたり、皮膚病の場合などは湿疹(しっしん)が出たり、激しい痒(かゆ)みが出たりする。
 私の場合は数日たった頃から、一時的に嗜眠
(しみん)が起こって、長い睡眠状態とともに、高熱を出し、やがて眠りから覚めると、今度は発熱とともに傷痕が痛みはじめた。その痛みは激痛に近いものだった。そして自分では、「悪化しているのでは?……」という疑いを持ったのだった。
 ところが、由紀子は別に心配するふうでもなく、自分の治療法に自信を持ったのか、私に「大丈夫です」と言って、痛みと発熱に関心を示したり、不安を抱いているふうではなかった。とにかく取り合ってくれないのである。しかし、この状態を、私は半信半疑で「悪くなっているのでは?……」と訊き返したことがあった。
 すると、「それは、良いお報せなんです」と言って、心配無用という顔をするのだった。
 しかし私は、更に食い下がって訊くのだった。

 「大丈夫と言っても、本当に傷がキリキリして痛んです。疼
(うず)くんです。何だか、気のせいかも知れませんけど、躰中が熱っぽく感じるのです」
 「熱っぽく感じますの?それは発熱している証拠です。だから大丈夫です」
 「発熱するのは大丈夫の証拠なんですか?変な証拠だなあ。一度、体温計で熱を測ってくれませんか、普通の37、8度という熱ではないような気がします。もっと40度か、それ以上のような……」
 「だったら大丈夫です、気にすることはありませんわ」簡単に一蹴するのだった。おそらく、こうした臨床例を何度か見ているのだろう。
 「えッ?これって、気にしないでいいんですか?本当に頭が割れるように痛いのですが……」
 「しかし、熱で頭は割れませんわ。そのうち治りますから」
 全く取り合ってくれない。それどころか、確
(しっか)り揚げ足を取っている。
 「僕は熱で頭が痛いし、傷も今まで以上に痛いと言っているのですよ。これでも大丈夫なんですか?あなた医者でしょう」
 「ええ」しゃあしゃあと言うのだった。
 「だったら、患者の訴えを聞いて、この痛いのを何とかして下さいよ」
 私は心の中で《このヤブ医者めが……》というような卑下の思いで訴えていた。
 「今日一日、辛抱したら明日には治っていますよ、だから大丈夫」
 「この辛さ、解ってもらえないのかなァ……」私は悩ましげに言った。
 「解りますわ」
 「だったら、解熱剤でも下さい、それに痛み止めも……」
 「そういうのは無用です。この熱と痛みが、もう直ぐ治る証拠なのです」
 私の痛みを完全に無視していた。
 「それって、本当ですか?何だか嘘くさいなァ。悪化が進んでいるのではないでようか。このまま悪化してもう直、死ぬのではないでしょうねェ?」
 「怕
(こわ)いの?」ひとの心を覗くような訊き方だった。
 私はこう問われて口を閉じるしかない。もし言うとするなら「あなたを残してしねますか」だった。
 死ぬのは私の不安材料だった。
 しかし不安の中にも、何処かで心地よさを感じ、高揚を常に認識しているのだが、怕いかと訊かれれば、返事のしようがなくなる。そもそも不安と安心は対立するものではあるまいが、これが同一の意識とすれば、不安とは安心を実感するための、自己が懐疑的に模索する恐怖体験の一部なのだろう。
 記憶の中で自己がこれまで体験した、創造による不安が完璧であればあるほど、勝手に増幅されて行くのであろう。
 《死ぬのが怕いか?……》と問われれば、もう何を言っても無駄だった。
 彼女の方が一枚上手であるからだ。心の裡
(うち)を覗かれているような錯覚に陥って行くのである。
 由紀子は、私を「獅子の振りをした羊」と検
(み)たのだろうか。
 そして次の日、分かったことだったが、私の発熱したり、疵口が痛むのを瞑眩反応と言うのだった。
 この反応は現代医学では臨床として認められていない。また、こうした反応が現れた場合は、投薬などをして更に強く押さえつけてしまうようで、自然治癒という形の患者自身が持つ生命力を信用していないようだ。昨今では「何が何でも、現代医療の枠の中で」という押さえ込みの医療が施されているようだ。

 私の場合、急激な目眩と発熱と痛みが起こった。これは幾ら好転反応と言っても、急激な身体的な変化が起これば、それだけで苦痛は激しかった。
 東洋医学や漢方医学は、瞑眩反応を『黄帝内経
(こうてい‐ないきょう)』などによると、その臨床例として、早朝の目覚め前にも、目眩などが起こり、この反応の一種として扱っている。
 疲れた身体は、床に横たえて一晩寝ることによって、恢復
(かいふく)するという臨床例を挙げ、起き上がる寸前に起こるこうした症状は、実は恢復している証拠だとしているのである。それゆえ一晩ゆっくり寝て、朝目が覚めて、立ち上がる時に立ち眩みを覚えるのは、この反応が現れた結果だとも言う。

 翌日、目を醒
(さ)ました時、昨日の発熱と疵(きず)の痛みは嘘のように消滅していた。
 昨日まで筋肉を硬くすると、即座に疵口へと伝達され、今とは比べ物にならない激痛が疾った。それは左肩から始まり、右肩までもを包み込み、やがて背中一面に拡散して行くのである。その拡散は、拡散し、やがて肚
(はら)まで覆うのである。どうにもならない。左を上に側臥(そくが)したまま、のたうちまわるような身悶えの錯覚に囚われた。それだけに、寝返ることも困難だった。何日間は苦痛に満ちた日々だった。


 ─────季節は晩夏とは言え、まだ夏場だった。
 寝たリ起きたりの繰り返しは、些
(いささ)か蒸れるし、躰は鈍るし、窮屈だった。不自由を身を以て知らされた。夏場の不自由は辛いものである。ただ、寝かされた毎日だった。細菌感染による併発症が避けられたのは運が良かった所為(せい)だろうが、それよりもまして由紀子の看病の賜物(たまもの)だった。
 顎
(あご)や喉(のど)を動かすだけでも、左肩が引き摺るような痛みに喘(あえ)ぐのだった。確かに昨日まではそうだった。無理を悪化しているような、錯覚さえ抱いたのだった。

 ところが、一夜経って薄らいだ。瞑眩反応である。驚くような恢復
(かいふく)に向かった。痛みは急に軽減したのである。どうやら由紀子は、老医師か誰かに、この反応のことを聞いていて、私が発熱し、痛みを訴えたら、それは治る証(あかし)だと自信を持ったのかも知れない。そうでないと私の訴えに、彼女は大慌てしたことだろう。あの余裕と落ち着きは、臨床例を通して、確かに瞑眩反応の状態を知っていると思われた。
 こうして翌日から急激に恢復に向かい、死に掛かるような大怪我をしたにも関わらず、我ながら、よく生き残ったものだと思う。主人公は、“どっこい”生き残ったのだった。九死に一生を得たのである。
 そして道場の事が気になっていたが、電話で病気?のこと……を知らせておいたら、誰かが、きちんとやってくてたようだ。

 私は「運命」と云う言葉について考えた。九死に一生を得たということについて考えた。
 人間の生死には、何処までも運命が付き纏
(まと)う。運命の陰陽が絡み付く。その運命だが、人生の戦いにおいて、運命は一度位は勝ちを譲(ゆず)って呉れることはあるだろう、それも私のような若造(わかぞう)に対しては……。これを武運というのだろうか。
 しかしこれが、二度三度となると、果たしてどうだか。
 恐らくこの次は、決して容赦
(ようしゃ)しないだろう。人のみされるだろう。その戒めを、慎んで肝に命じなければならない筈だ。こうして治癒に向った陰には、松子のサヤンとしての貢献が大きかった。
 だが時として、悪戯を仕掛ける小悪魔になる。その反対に協力者になったり、その乱高下が烈しいが、彼女には、言葉では言い尽くせぬ多大な感謝があった。
 それだけに、松子との人生の『貸借対照表』の「負債の部」は膨らむ一方だった。

 この期に及んでも、なんとか生きていた。躰は大方八割り方、恢復したようだ。
 私の気になっていたことは、家庭教師先の門司港の二人の姉妹のことであった。
 「松子、おまえ『ご学友』、確
(しっか)り勤まっているか」
 「なんとか。山大医学部の夏美さんは、結晶結合の原子間距離の正四面体共有結合半径の箇所で難儀しているようだったから、大半が正四面体半径の和で一致することをアドバイスした。また共有結合は反平行電子スピンの荷電分布の重なりによって特徴づけられ、重なり合って電子は、それらが属しているイオン心を静電的な引力で結びつけることを示唆してあげた。理解度はいまいち。高三レベルの物理から遣り直しね。
 一方、M学園の由香里さんは総合問題として、基礎的な定積分と数列、および定積分と関数列の演習問題を解かせて、彼女、一応理解しているみたい。数三のない医大だと合格圏かな。あとは健太郎兄さんにリレーした後、どう反応するかが、今後の課題というところかしら」
 思えば奇妙なことである。高校生が、医大生を個別に指導しているからである。
 「だいたい、おまえ、そういうの、何処で、誰に習った?」
 「本屋の学術書コーナの立ち読みで。書いている先生は、みな理学博士号を持っていた」
 「それ、立ち読みで理解したのか」
 「そうみたい」
 私はこれまで、家庭教師、学習塾や進学塾、大学予備校の指導と経営で、少なくとも五人ほどのこういう異才を示す生徒を見たことがある。本を読むというか、眺めていて、それを総て記憶し、内容をほぼ理解してしまう生徒である。世の中にはそういう天才が居る。松子もその類
(たぐい)だろう。

 「おまえの頭の中、はて、何と表現していいやら……。とにかく、ありがとうよ、感謝する」
 感謝の意味で何かしなければならない。松子は滅法目端が利き万事機転にそつがない。応えねばなるまい。
 「言葉で言われても嬉しくない。形で示して」と駄々をこねるところは少女だった。
 「ではだ、なあ……」何がいいか、つらつら考えてみた。
 「そういう食べたら消えるとか、遣ったら跡が残らないとかの、そういうのは駄目。有機的結合を持った結晶作用のあるもの。例えば家屋と隣接しているお風呂とか、水洗トイレとかの生活に有機的な物理作用を行う形ある物、これは住環境を快適に暮らすための必要最小限度の必需品。感謝は口先だけじゃ駄目」
 「果たして、そういうものだろうか……」
 「男は現実の壁に向き合って、果たして行くものでしょ」と、なかなか鋭いところを衝いて来た。
 「うん………」言われてみれば尤もだった。懐手で考えてみた。この両方の恃
(たの)みを断る策を考えているのではない。建て替えること考えているのである。どうしたら、見た目に風流で、文化的で、快適か。そのの智慧を絞っているのである。肝心なのは施工業者である。もういちど懐手で唸ってみた。
 「なんとか言いなさいよ。天下の山師なんでしょ」
 「ああそうだった。おれは山師だった」と直ぐに本業に返った。智慧が枯渇しては山師でない。
 「ねえ、考えた?」と小娘が貌を覗き込むように訊いた。
 「まァ、俟て。山師が山師として、一ひねりして、誰をその気にさせて、牛馬の如く使役するか考えているところだ。うん……、そうだ!やつならいいかも……」時として、加害者の愉しみで物事を考える。
 その業者が、はた!と思い当たった。このたびの人身御供になってもらう被害者である。
 その業者とは中学時代の同級生で、高校・大学は違っていたが、九州工業大学の建築科を出て、一級建築士の試験に辷
(すべ)って、今は二級建築士で甘んじている、この漢が思い当たったのである。
 この漢は、自分が一級建築士の試験に辷ったとき、「おれのような秀才が、たかが一級建築士の試験に受からん訳がない。これは採点ミスであるから、もういちど採点を遣り直し、正しい評価をしてもらいたい」と建設大臣に手紙を書いて抗議した変わり種だった。
 しばらく大手建設会社に勤めて居たが、そこを辞めて、今は『四方
(よも)建設』という自分の奥さん二人の工務店をしていた。時々遣って来て、「仕事がないか」と訊き、「ない」というと、「今日も駄目か」と嘆いていたやつである。しかし諦めず、実家には定期便で遣って来て、母と世間話して還って行く漢だった。
 そうだ、こいつに一世一代の大仕事を恃
(たの)もう。それは型に嵌める愉しみだった。

 「ねえ、健太郎兄さん。唸っているばかりで、真剣に考えてよ」
 「考えてる。いま脳漿を搾り出して、誰を、わが家の家畜にして使役するか考えているところだ」
 「やるの、やらないの?」
 「山師は辞めん」
 「そんなんじゃない。お風呂とおトイレ」
 「だったそんな、小さなスケールのものでいいのか」
 「じゃァ、丸ごと建て替えるの?」
 「それは無理。山師と雖
(いえど)も、そこまでは流石に気が退ける。せめてだなァ、風呂、トイレ、八畳一間と二十畳のステージ付き宴会場および錦鯉を泳がす池に、露天風呂という細やかなものだが……」
 私は空想を始めると、風流の指向が頭を擡
(もた)げ、遂にはお大尽趣味が噴き出して来るのである。
 「旅館でも始めるの?」
 「なるほど旅館か、旅館もいいなァ。グッドアイディアだ。おまえって、相当なアイディアマンだな。いやウーマンというべきか。では客室は、何部屋にするか、さて……。それに旅館ともなると、玄関をロビー式に改装せねばならんな。さて、門構えは?……。それに庭もだ。庭木は何にするか、おれは風流が好きだから、まず桜かな、それに風を感じる竹林の小径もいいな。池には朱塗りの橋を架けて、鯉に餌を遣る。
 春は桜の花見、夏は松林からの蝉の聲
(こえ)。秋は紅葉だから、楓や紅葉を植えよう。そして冬は座敷から雪見障子越しに白銀の庭を眺める……、炬燵に入って日本酒をチビリチビリ遣る。池から鯉が跳ねるのを眺めて楽しむ。では、水は何処から曳くかだなァ。何処からにしようか。そして水を瀧水にするからポンプを付けねばならん。何処のメーカーかな。石灯籠は何にしようか。庭石も居るな。一升石もいい。石は何処の石にしようか。数ヵ所には雪洞(ぼんぼり)を据え付ける。だがその電源は?……。これも考えねばならん。夜の火影(ほかげ)。夜景風景か?……、なんともいいなァ……」と腕組みをして、《そういうのもいいかも……》と思ってみたりもした。
 「もしもし、正気に戻ってよ。空想はそこまで!」
 「なに?空想だと。それもそうかもしれん。空想はやめて現実を見よう。少々、ミニチュア過ぎたか。
 では、お言葉に甘えて、ビックにいこう。根本的に基本構想から練り直そう」
 「あのね、もしもし、そういう意味じゃないんですけど」
 「うム?詰めが甘いだと。それもそうだ。じっくり詰めてみよう」
 「もう空想のレベルで物事を考えるの、やめて!」
 「そうだな、あまりにも空想過ぎた。まず状況判断だ。現実に向かい合おう、これでいいか」
 「そう、空想の世界はそこまで。もっと現実的に」
 「ああ、わかった。まず現実に戻って、今を真剣に検討すれば、土地家屋の敷地面積が実に狭い。たったの150坪だ。これではどうにもならん。まるで兎小屋だ」
 「あのですね、よろしいですか。兎小屋が現実で、旅館願望が空想なの。間違わないでよ」
 「そうだったな。おまえの言っていることはよくわかる。つまり兎小屋の旅館では駄目と言うことか。それもそうだ、何とも道理。したがって根本から練り直し、敷地を確保しよう。隣の爺さん婆さんは老人ホームに行きたがっていたから買収できるとして、だが隣はたったの70坪だ。70坪如きではどうにもならん。
 さて、その横隣も買収する必要があるな。簡単に手放すかな。問題はそこだ」
 「健太郎!問題はお前だ!」と松子は大きな声で指弾した。
 「おれの何処に問題がある?」
 「ある!」
 「何処にだ?」
 「何処に問題だと?……、バカも休み休み言え!そもそも、全部、問題だ!」と松子は尖っていた。
 「そう熱くなるな。おれはいま、真剣に骨幹から基本構造を練り直している。いいか、ようきけ。風呂とトイレを改築しただけの、そんな兎小屋のような旅館が、何処にあると思うか?」
 「何処にもない」
 「だろう。そうなると、それは完全に詐欺だ。山師的発想でない。それでは拙かろう」
 「あのッ……、そういうことではないんですけど。旅館と言う発想に、そもそも無理があるのですけど」
 松子の聲が、莫迦
(ばか)に乙女の雰囲気を漂わせ始めた。蠱惑しているのだろうか。
 「何処に無理がある?」
 「わたしく、旅館なんて欲しくないんです。普通の一般的な、いちいち銭湯に行かないでもいいように、お風呂と、また肥汲みして、筋トレをしないで済むように、清潔なおトイレを所望しているだけですの」
 「それでは、欲があるまい。やるなら大きい方がいい」
 「じゃァ、好きなように遣って下さい。もう、思うままに、好きなように。旅館でも、ホテルでも……」と呆れて、バカも休み休みいえない顔になっていた。

 「では、やってみようじゃないか、そこまで言うのなら。旅館でも、ホテルでも……。おまえが、わが家に草鞋を脱いでいてくれる間、これまでの感謝を込めて、細やかな『松子御殿』を建ててしんぜようぞ」
 「妄想を抱くのは、個人の自由だけど、そこまでいくと、完全に処置なしね」
 「処置なしではない、頭を捻れば処置できる。目標は大きな方がいい、ビックに行こう」
 「バッカじゃないの、その建築資金、どこから持って来るの?」
 「そりゃァ、銀行からだ」
 「銀行ですって……、呆れた。ここまでくれば、もう完全に誇大妄想」
 「妄想ではない。いいか、こういうのはなァ、高が風呂とトイレでは、銀行は金を貸してくれん。貸したとしても、微々たる小銭。だがなァ、旅館となると訳が違う。融資課の決済となる。融資会議の結果、多額の借入が可能になる可能性が高い。では明日にでも、さっそく銀行に行かなければ」
 「さっそく行くのは病院じゃない?」
 「バカを言え、おれを天才のような眼で見るな。だが脳漿を搾った策がある。事業計画書や返済計画書を提出しただけでは、その信憑性が薄い。それは所詮、絵に描いた餅。だがなあ……」
 「その貌、山師の悪巧み」と指弾するように言った。
 「悪巧みなどと言わず、将来を見越した事業戦略と言ってもらいたい。先に既成事実を作るのだ。そして貸借対照表や損益計算書の数字を組み替える。裏に偶像信憑性のマル秘テクニックあり」
 「それ、粉飾決算でしょ。次から次と、悪智慧が、よく出てくること。もう、そこまで眼が飛んだら、処置なしね。完全に重傷。危篤状態。お手上げ。わたし、もう万歳」
 「万歳するのは未だ早いぞ」
 「いい加減に、われに返って!」
 私は松子の意見など聞いてはいなかった。
 「善は急げだ。早速、計画に移すことにしよう。これで、窮屈な傘の下から抜け出せるぞ」
 私は、一刻も早く、世話になっている由紀子の傘の下から抜け出したかったのである。
 「ここまでくると、聴く耳なしね」
 「いやある。あるから、おまえの一言は、おれを動かし、吉報を齎した。本当におまえは幸運の女神だ。幸運の女神は前髪だけで、後ろは禿
(はげ)と聞いていたが、おまえには前髪も後ろ髪もある。前と後ろが揃った神も珍しい。感謝する。いいか、松子。こういうのはなァ、棒ほど願って、やっと針ほど叶うものだ」
 「ああァ、完全に、いかれちゃったァ」
 こうして、数日後に四方建設に着工依頼を出したのである。だが、現実は甘くなかった。棒ほど願って、針ほど叶うの俚諺
(りげん)は、まさに的を得ていた。やってみたら針ほどしか叶わなかった。

 私の手順は先ず着工、次に銀行への土地家屋を担保に融資依頼、併せて事業計画書や返済計画書を提出という手順の、大方世間がこの逆をしている行動を、私はそのまま実行したのである。果たして、狂気の沙汰であったであろうか。だが、理想は狂気の沙汰でないと実現に近付けることが出来ないのである。逆も真なり。理想主義者が現実主義者を超える所以である。文明はこうして発達して来た。
 ちなみに、昭和47年当時、六畳一間を現在建っている家屋に、併設して増設する工事料が約20万円から高くて35万円だった。おおよそ現在の十分の一以下である。また水洗トイレに切り替えると、市からの50万円を上限にリホーム融資が受けられた。
 一方、刀剣類は当時の目安として、日本刀剣美術協会のマル特で70cm以上の長物で100万円、脇差しで50万円、短刀で60万円、甲種マル特で長物250万円、脇差し120万円、短刀で150万円と、現在よりも随分と高かった。また重要刀剣で500万円。重要美術刀剣で1,000万円だった。


 ─────あの新月の夜、確かに、何かが起こった。それは十数人の負傷者を出す程の大乱闘であった。
 だが、この事件は誰が行ったかも警察は特定することが出来ず、捜査は迷宮入りとなり、以後、何の咎
(とが)めも、何の話題にもならなかった。被害者なき架空の乱闘事件として処理されたようだ。
 奴らからの慰謝料の件もこの儘、有耶無耶
(うや‐むや)になり、いつの間にか不問になってしまった。少しは男の土性骨(どしょっ‐ぽね)の意地を見せて、私も怖れられたようだ。闘えば、ただで済まないことが分からせたようだった。奴やもおいそれと、私には手出しが出来ないだろう。もし、訴え出るようなことがあれば、自らの首を絞めることになり、奴らも叩けば埃(ほこり)の出る躰である。敬遠されたのは確かなようだった。
 この事件から得たものは、実戦の経験が出来たことと、分別の無い行動の威力であった。正攻法によらず、奇手を繰り出した無分別が功を奏した。そして、よく生き残ったものだと思った。
 だが、これで総てが終わったのではない。これからが波瀾万丈に人生の始まりであった。その幕は、いま開けたばかりだ。これまでの事は、これからはじまる序曲に過ぎなかった。そして、これまでとは異なる、何か別の陰が、私の周囲に纏
(まつわ)りつき始めた。不穏の陰である。波瀾を秘めた旅の本番はこれからだ。

 私は子供の頃、急性小児脱腸炎で死にかかったことがあったし、何年か前の学生の頃にも、アルバイトで乗船した漁船の転覆や、絡まれての傷害騒動で死の淵を彷徨
(さまよ)ったが、今回の事件も、それに等しいものだった。まさに「九死に一生を得た」と言う感じであった。われながら、よく生き残ったものだと思う。
 そして勿論、由紀子には大変な迷惑をかけたが……。また松子の影の働きにも扶
(たす)けられた。
 以降、私は自分の行動を省みて、襟を正さねばならないことは多々あるが。遅過ぎるともいえるだろう。
 人生の厳しい節目の岐路と立たされた感じである。

 これからは、もう若気の至りなどと軽々しい言い訳は出来まい。慎まねばならない。
 そうなると以前のように他愛無ない、軽々しい口を叩けるようなことも出来ないし、過ぎ去った歳月の移り変わりも感じていた。だが、これも現実だった。
 もう、臨場感のある綱渡りなどは、これで止めにしよう。私の反省である。
 結局、今から先の生き方は可もなく不可もなくの無難な対応に終始する以外あるまいと思ったのである。
 そして、由紀子との関係も、これまでの飯事
(ままごと)がすっかり身に付き、そろそろ抜き差しならぬ状態になっていくのを懸念し始めていた。型に嵌められる危惧(きぐ)である。
 人生の『貸借対照表』の「負債の部」は、益々債務で膨らみ、男の矜持
(きょうじ)は突き崩され、卑しい直感に突き当たる今日この頃であった。だが、傘の下から抜け出す努力を怠った訳でない。いまもなお、奮闘努力を積み重ねていたのである。



●放下著

 自由に動けるようになった頃、参禅するために、一人で大生寺を訪ねていた。
 外はすっかり晩夏である。時折爽
(さわ)やかな秋風が吹いて、初秋を感じさせた。吹き抜ける風が実に気持ち良かった。もう直、白露はくろ/二十四節気の一つで、秋分前の15日、すなわち太陽暦の9月8日頃に当る)なのである。
 私は寺の縁側
(えんがわ)に腰を降ろして、静かに結跏趺坐(けっか‐ふざ)を組み、耳に焼け付くような蝉時雨(せみ‐しぐれ)を聴き入っていた。そして、蝉の声には法師蝉(ほうし‐ぜみ)が、クツクツボウシ……と鳴く声が混じっていた。

私は独り縁側に坐り、蝉時雨に耳を傾け、それを聴き入っていた。

 縁側に坐
(ざ)を組み、こうして坐っていると、人間の「我(が)」として背負う妄念の数々が浮上する。
 人間界特有の金銭欲、食欲、性欲、物欲、支配欲、名誉欲など、遂げられないそれらの欲望の裏には、常に恨みや妬
(ねた)みが潜(ひそ)み、次第にそれが歳月とともに降り積もって行くことが分かる。
 それは人間が「我
(が)」としての生き物の宿業(しゅくごう)を背負っているからだ。
 無一物
(むいちぶつ)で生まれた者は、ただ、無一物に帰るだけのことだ。つまり足るを知り、本来の手ぶらになればいいのである。

 手ぶら。無一物。一口にいって何も難しいことはない……。そのように理解すればいい。だが、頭で理解しても、現実にはそうは問屋が卸さない。人間はさまざまな柵
(しがらみ)を背負っているからだ。その柵から解放されることが難解なのである。現代人が背負う柵は、肩書きや地位、名誉や、それに財産や家族など、いろいろな重荷を担ぎ廻り、悩み、迷っていると言うのが凡夫の悲しいところであろう。
 担いだものを降ろし、捨てれば楽になる。しかし、この楽を理解するのが容易でない。
 当たり前の事を、当たり前に受け止め、当たり前に「行い」をすれば、そこには「こだわり」から解放された世界は広がっているのである。そこに何ものにも束縛されない自由がある。伸び伸びと手足を伸ばせる自由がある。
 この時代を生きた私は、これまでを振り返れば、二十世紀末から二十一世紀の今日にかけて、巷
(ちまた)では「こだわり」という言葉が流行した。何事も、「こだわる」ことがいいことのように宣伝され、信念の代名詞になった。しかし考えれば、「こだわる」という日本語は、訝(おか)しなものに転化して使われ出した観もしないではない。日本語もここまで狂って、現代人に乱用されているかと思うと、私は一日本人として、奇妙な感じがしないでもない。これも時代だろうか……。

 時代は移り変わる。万物は流転する。人間の旅も、おそらくこの中で演じられ、人生という枠組みの中で変化していく。人間が変化するものである。人は変わるものである。そしてやがて「空(くう)」に向かう。
 空とは、万物に復元力があることを意味する。
 それは『仏典』の「色即是空」が縁起によって成り立つと雄弁に物語っているではないか。

無一物(むいちぶつ)雑踏(ざっとう)離れて蝉時雨(せみしぐれ)

 そして、また……

この旅、果もない旅のつくつくぼうし

 と詠った、山頭火の句を想い出していた。

 二十世紀は「科学的」という言葉が好んで使われた時代だった。それは二十一世紀になっても変わらない。
 科学万能主義と物質至上主義は未だに健在である。
 可視世界から不可視世界へ至る、肉の眼に見えない波動のアプローチを「非科学」の名で切り捨てた。そのため二十世紀の科学は、未科学の領域を迷信やオカルトの名で一蹴し、切り捨てて来たのである。未科学を非科学と見誤ったのである。
 この世に、肉の眼に見えないものは確かに存在する。人間の心も、その「見えないもの」の一つである。この世には、肉の眼に「見えない心」が存在する。不可視世界のものが存在する。ただ、それは肉の眼には見えない。まさに、一寸先きの闇なのである。
 したがって、物事のすべてには意味があり、意味のあるものに人間は導かれて縁を結び、生涯旅をするのではなかったか。ここに物事の有機的な藕糸
(ぐうし)の繋がりがある。ひとの人生にも、眼に見えない藕糸が存在する。その糸に手繰り寄せられ、ひとは旅を試みるのかも知れない。

 人生はよく旅に例えられる。
 それは人間が苦労しながら真理を求める姿に、旅人の姿が酷似しているからだ。
 何か、未知のものに向かって、人は永遠に旅をするものなのである。
 私も、また旅人であった。



旅の衣・青春の群像/前編  完


西郷派大東流合気武術


これより『旅の衣』青春の群像は“後編”へつづきます。



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