運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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さすらいの老夫 3

人の魂は意識体だから、芭蕉の俳諧紀行に記載されているように「千里に旅立(たびだち)て、路粮(みちかて)をつゝまず、三更月下無何(むか)に入(いる)と云(いい)けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享甲子(きのえね)秋八月江上の破屋をいづる程、風の声そゞろ寒気(さむげ)也」というような、野晒しの中を漂って浮遊するのかも知れない。



●構想村開拓団

 しかし、この暑さはどうだ。そのように形容したくなる暑さだった。猛暑日と言ってもいい。一日の最高気温が、セ氏35度以上の日を、こう言うらしい。恐らく35度は超えているだろう。
 それに蝉の聲
(こえ)も、実に煩(うるさ)い。じりじりと、頭の中まで染み入ってくる……という形容だぴったりの日だった。休みなく、途切れなく鳴く。夏の間、日中は鳴き続ける。時雨れるように、飽きもせずに……。
 それが猛暑と、不協和音を増幅させていた。飽きないものだ……と感心するのだった。
 蝉も、短い命を最高に表現して生きているのであろう。

 日中の炎天下は、悲鳴を上げたくなるような暑さであり、鉄板の上で灼
(や)かれているようだった。
 それが蝉の聲と同調して、余計に暑苦しく感じるのだった。
 暑い、暑いの暑さだった。
 まさに、甑
(こしき)に坐するが如し……を感じざるを得ない暑さだった。

 じっとしていても、熱風は押し寄せてくる。それは熱波と表現してもいいものだった。
 熱波とは、夏に起こる現象である。気温が著しく上昇し、持続したときに起こる現象である。暖波の程度が甚だしいときに起こる。
 こういのは堪える。
 老人には堪える熱波だった。熱の波が押し寄せるのである。それを、もろに受けるのだった。
 聞くところによると、昭和20年8月15日、玉音放送が流されたこの日、恐ろしいほどの暑さだったと言う。今までにない最高の暑さだったと言う。
 日本が負けた日。
 そんな熱波に襲われた一日だった。

玉音放送が流された日。
日本が万歳した日。降伏後、連合軍から身体検査を受ける帝国陸軍将校。

 日本が、大東亜戦争に無条件降伏して、完全敗北した日であった。屈辱の日だった。
 この日は非常に暑かったという。猛暑だったという。恐ろしいほどの猛暑だったという。
 日本が敗北したの日を彷彿とさせる、同じような熱波を、私も浴びせ掛けられているのだった。無慙
(むざん)に浴びせ掛けているのだった。
 私も一つの敗北を背負っていた。その敗北を象徴するような暑さだった。惨めさが込み上げて来る暑さだった、

 熱波の熱放射を頭から浴びるだけで、じっとりとした汗が滲
(にじ)み出て来るのである。
 それだけに老人が汗をかくというのは、大変なエネルギーの消耗になるのである。
 年寄りは抵抗力も免疫力もないから、恐ろしくエネルギーを消耗するのである。あたかも栄養分を吐き出すが如し、である。
 吐き出しても、補給がつかないのが年寄りである。

 汗は、出せば出すほどエネルギーの消耗に繋がる。決していいことはない。
 いま私は、熱波に中で体内の僅かな栄養分を、恐ろしく消耗させているのである。
 それでも、じっとしていることは、動き回るよりマシという程度だった。年寄りは、あらゆる智慧を遣って、今はじっとしているのだった。

 老人にとって、健康な汗などというものはない。健康にいい汗などない。爽やかな汗などというものはない。年寄りにはない。
 老人とは、そういう免疫力の失われた、再生不可能な弱い生き物なのである。老いは、やがて死へと移行するからである。これは老人医学の常識である。老人は幼児並みに、弱い生き物なのである。
 出せば出すほどエネルギーを消耗するのである。汗も体内に含まれた一つの栄養素なのである。
 したがって、年寄りが必要以上に汗をかくのは、それだけ体力を消耗させている証拠だった。控えねばなるまい。
 そう思いながら、汗を拭きながら汗が引っ込むのを木陰の下で涼んでいたのである。

 そして,涼みながら、ふと思い出すのは『五知円
(ごちえん)』だった。
 五知円は、禅の教えである。
 その教えによると、五知円は「吾
(わ)れ唯(た)だ足(た)るを知る」と読むとあり、これは釈尊の最後の説法に出て来るという。
 「いまを満足せよ。そして満足している自分を知る」ということらしい。
 このことは『遺教経
(ゆいぎょうきょう)』の中に説かれていると言われ、このなかに「八大人覚(はちだいじんかく)」というのがあり、仏道を志す者が自覚するべき項目が、八つ挙げられている。

五知円

 それを順に言うと、次の通りである。

第一
小欲の実践
いま自分が食べているもの、着ているもの、持っているものなどの、それらのものをそれ以上に多く求めないこと。金銭や物財に溺れないこと。
第二
静寂
静かで心を煩わされない落ち着いた場所に棲(す)むこと。静かな佇(たたずま)いの中に身をおくこと。
第三
精進
動物や乳製品を食べることを出来るだけ控え、穀物菜食にして心身を浄め行いを慎むこと。殺生になることをせず、動物の肉を食べないこと。
第四
不忘念(ふぼうねん)
仏道への志を忘れないこと。経験を明瞭に記憶して忘れないこと。心の作法を心得ておくこと。
第五
禅定(ぜんじょう)
心を安らかにすること、そして腹を立てないこと。心を静めて、一つの対象に集中し瞑想をすること。
第六
修智慧(しゅうちえ)
ありのままに物事を見る眼を養うこと。真理を明らかにしてその修行に励むこと。この修行は「慈悲」と対になっていることを知り、同じように実践すること。
第七
認識
正しく思いを巡らすこと。認識は知る作用および成果の両者を指すから、知る働きの中で正しさを求めること。
第八
知足(ちそく)
生かされ、また満たされている自己を知ること。価値観を物から心へと移行させ、心は満ち足りていることを知ること。

   人間の一生は生・老・病・死の中にある。この四期の中に、今の人生がある。
 老いは四期の二番目に来る現象だが、その後には病が待ち構えている。老いて、病へと移行し、病んで死ぬだけの生き物が人間なのである。
 この人間が、今生きているということは、これ自体が奇蹟
(きせき)であり、人間は生きているという中に奇蹟の連続を感じなければならないのである。
 私も、老いた身でありながら、未だ生かされていた。天より生かされて、いま大樹の下で涼をとっているのであった。
 生かされ、そしれ大樹の下で涼をとる……。
 もしかすると、これ自体が奇蹟を実践している思うのだった。


 ─────あれは誕生日の三日前のことだった。つまり、出立の三日前である。
 その日は、朝から激しい雨が降っていた。驟雨
(しゅうう)である。風を伴った雨である。そんな雨が襲っていた。
 低気圧の接近で……というニュースを、ラジオの朝のニュースで聴いていた。そんな日に選
(よ)りに選って裁判所の執行官と助手と思える男と、他に債権者が、私の棲む掘建て小屋に押し掛け、立ち退きの『予告通知』が実施されたのだった。
 立ち退き予告通知を目の前に突き付けて、債権者どもが「出て行け!」と一喝
(いっかつ)するのだった。
 私としては「くそッ……、選りに選って……」と、臍
(ほぞ)を噬(か)む思いで、その日を恨めしく思ったのだった。しかし後悔しても始まらなかった。
 私は家を空けねばならなかった。
 債務不履行で、家を空ける羽目に陥ったのである。債権者の強引な取り立てにあったのだった。土地家屋が債務不履行で差し押さえられたのである。
 そして、三日前の雨の日、立ち退きを喰らったのであった。それだけに「あと三日」という思いがあった。これまでに善後策を考えねばならなかった。

 そうかといって職もない。
 歳を取れば糊口
(ここう)を凌(しの)ぐ糧(かて)がない。おいそれと誰も雇ってくれない。
 のろまで、鈍重な動きしか出来ない年寄りには職がない。それが仇
(あだ)となった。況(ま)して年寄りには金も貸してくれない。貸したまま死なれては困るからだ。

 そうなると、自分で自分を雇って、働くしかない。雇い主も自分なら、働くのも自分であった。しかし、自分雇いの商売は、あまり軌道に乗らなかった。
 では、その商売は何であったか、少しずつ話すことにしよう。
 話は前後するが、一先ず商売を中断して、放浪の旅を始めたのである。山奥に居ては商売にならないのである。下界に降りて、これから何らかのアクションを緒こなさなければならなかった。そのアクションは話が進むことによって明らかになろう。

 そう言う矢先の旅立ちだった。
 それから三日後、こうして炎天下の中を歩いて来たのであった。酷い話である。
 何でか。
 何故なら、選りに選って……だからである。
 私は、その三日後、75歳の誕生日を迎えた。母の胎内に生命として芽生え、それから75年経ったのである。
 此処まで話すと、私のような爺にも少しばかり同情してくれるだろうか。


 ─────私は五年前に、晩年の自分の小さな庵
(いおり)を構えようとして、大分県N郡K村の山奥の掘建て小屋(二間の簡易住宅)と山林と畑(原野登記の約3,000坪)付きで、これを700万円で買った。
 登記簿謄本の登記は山林の原野である。
 3阡坪だから、1坪当たり2千4百円弱ということになる。

 これが安いか高いか分からないが、何しろ山奥である。山林原野である。遣い勝手が悪い。それは悪いというものではない。電気もガスも水道も通っていない。唯の山の中だった。
 そう言う場所を買ったのである。この買い物が、安いか高いか分からない。
 しかし、北海道の原野には、今でも1坪100円という山奥があるというから、実際には1坪当たり、2千4百円弱というのは、価値観からして、その高低が不明である。高いと言えば高いし、安いと言えば安い。
 ただ気に入ったから、買ったのである。ある目的があって……。

 傾斜地で、一部は棚田
(たなだ)のようになっていた。昔の水田耕作をした跡地だった。その面影が今でも残っていた。
 しかし、傾斜地は山林へも続く。これを水平にして平地にならし、畑を造るには開墾
(かいこん)もしなければならなかった。その脇に、粗末な倒れかかった掘建て小屋があった。そこに少しばかり手を入れ、何とか棲(す)めるようにした。
 最初は一人で棲んでいた。
 しかし、私にはある意図があった。有終の美を飾る「総仕上げ」をするためである。
 人生最後の総仕上げとして、私には「ある構想」があった。それを永らく暖めてきた。それを実現するための第一歩が、これだった。此処に住み着くことであった。晩年の人生を此処で送る気で居たのである。

 3千坪の土地に、私一人が棲
(す)むのでない。
 入植者を考えていたのである。それで簡易ハウスを建てた。そして入居者を募集したのである。
 これだけでも、随分、金が掛かった。足らない分を高利貸しに頼った。銀行は、私のような年寄りには貸さない。生
(お)い先短いから貸さない。年寄りに金を貸さないのは金融業者の鉄則である。貸して、直ぐに死なれては困るからだ。
 それで、少しばかり“闇金掛かった高利貸し”から借りた。あとは話さなくても分かるだろう。雪達磨である。借金は見る見る間に膨らんだ。
 それでも「総仕上げ」をする必要があった。

 此処に理想郷を考えていた。
 一つのグランドビジョンに随
(したが)い、桃源郷ならぬ理想郷を考えていた。
 かの陶淵明
(とう‐えんめい)の著書に『桃花源記』なるものがある。ここに書かれた理想郷が、俗世間を離れた別天地だったのである。その別天地の構想を抱いたのだった。
 『桃花源記』によると、武陵の漁夫が道に迷って、桃林の奥にある村里に入り込んでしまった。村里には秦の乱を避けた者達の子孫が、世の変遷を知ることなく平和に暮らしていた。此処はまさに生を楽しむ仙境であった。漁夫はそこで歓待された。そして帰るとき、もう一度尋ねようと思った。暫くしてから、再び尋ねたが、もう、そこは見つからなかったという内容である。こうしたところを桃源郷というのである。

 私は都会の喧噪を逃れた、桃源郷をこの地に造ろうと考えていたのである。しかし、桃源郷は一朝一夕には出来ない。完成するまでに、それ相応の手順がある。それを踏まえて進めなければならない。
 私の考えていることは、桃源郷で馬を走らせることだった。

 3千坪の原野を相手に開墾もし、畑も遣
(や)るが、畑以外にも、ある構想に随い、これは後で詳細に語るが、馬場を考えていたのである。つまり馬だ。
 この地で馬を走らせるのである。馬の疾走を夢見て居たのである。それは「馬場」である。馬術を遣るための馬場である。
 年寄りには似つかわしくないと思うだろうが、私は似つかわしくない夢を見た年寄りだった。

 馬場とは、そこで馬を走らせるのである。馬を飼うだけではない。そこで疾走させるのである。
 此処で馬術を遣るのである。それも西洋馬術ではない。日本馬術である。その準備を始めた矢先だった。
 しかし途中で、維持していくだけの資金が窮したのである。年寄りの手持ちは、潤沢ではなかった。それが此処に来て仇となった。

 入手の経路は、ある山師の紹介だった。
 この山師が私の耳元で囁いたのである。
 「桃源郷がありますよ」と。
 山師の紹介で山に入った。それでこの場所を買うことに決めた。気に入ったからだ。
 予
(かね)てより、そうした場所を探していたからである。その場所が、遂に見つかったという思いだった。一も二もなく、此処に決めた。
 此処がいいと、インスピレーションが閃
(ひらめ)いたのである。天来の着想であり、霊感だった。

昔話で出て来るような、……それはそれは山奥の原生林で覆われた草深いところだった。この草深い山奥に、粗末な掘っ建て小屋が建っていた。

 第一、3阡坪が700万円とは、破格値に思えたからだ。だから飛びついた。しかし、安易だったかも知れない。
 半分は手持ちで、半分は借り入れで、である。
 不足分の借りた。銀行から借りた。
 最初は銀行も快く貸した。長期の5年定期預金を組んだからである。手持ちの金の350万円を定期預金したのである。私が70歳の頃である。今から五年前のことだった。

 このとき、350万円を5年定期にして、そこから350万円借り、それに不足分を、土地家屋を担保にして、新たに350万円借り、合計700万円を借入する方法をとったのである。
 こうすることで、返済し終わった時点で、相殺されてプラスマイナス・ゼロということでなく、完済した五年後には土地家屋も手に入るし、また、まだ350万円が定期預金として、そっくりそのまま残っているという状態を作り上げたのである。
 勿論、利息は払わねばならないが、返済が履行されれば預金額は1円も失われないのである。

 65歳から、小金をコツコツと溜め、手持ちの350万円を軍資金として、残りを銀行から借り入れたのである。漸
(ようや)く70歳にして実現した。
 しかし、日が経つごとに状況は変化した。悪化の一途を辿った。
 此処は電気・ガス・水道が一切通っていない原野である。住宅地ではない。それを引くために多大な金が掛かる。これを甘く見て居たのである。
 やがて資金不足に悩み出した。それから徐々に窮していったのである。落し穴が隠れていた。

 窮し始めた頃から、自分で「馬場を遣るのは金が掛かる。馬を走らせるには本当に金が掛かる」が、いつしか口癖になり、これを毎日のように独り言のように呟
(つぶ)いていた。
 しかし、独り言を呟いても始まらなかった。一ひねりすることが急がれた。
 自分を叱咤激励して「頭を使え!」が、今日この頃の口癖になっていた。


 ─────3阡坪の土地と掘建て小屋の家屋は、ある意図をもって購入したのだが、それが遂に支払い不履行となり、追い立てを食ったのだった。購入して五年後のことだった。
 75歳の誕生日を迎える三日前だった。
 銀行をはじめとする債権者が押し掛けたのだった。所謂
(いわゆる)、債権処理の切取屋たちである。あるいは葬式屋であるかも知れなかった。裁判所の執行官を引き連れて……。
 奴らの腹は読めていた。
 まず、切取屋が好きなだけ債権を切り刻んで、細かくし、それを小口の債権候補者に散蒔き売りつける。そして、今度は葬式屋の御出座
(おでま)しとなる。葬式屋が、債務者を裸同然にして葬るのである。悪足掻き出来ぬように、最後の止(とど)めとも言える。何とも、えげつない遣り方だった。

 しかし、こちらも負けていられない。
 だが、策はあった。
 タダでは転ばない。
 転んでも、タダでは起きない。善後策は講じてあった。巧妙な善後策である。
 この地の、土地家屋の権利者は私である。全権限は私にある。
 しかし、善後策には、裏の裏があった。第一プランがあり、次に第二プランがあり、更には第三プランがあった。そして、更に裏を読み、第四プラン、第五プラン、第六プランまで設けた。そして最後が極めつけの「第七プラン」であった。
 確かに全権限は、私にある。また、全責任も私にある。
 それが目の付けどころだった。不埒
(ふらち)な策を考えた。一泡吹かせるつもりで……。
 この地を手に入れたとき、此処に入植者を入れるつもりだった。このアクションは、購入と同時に行ったのである。また、入植者に協力してもらう肚
(はら)もあった。

第一プラン
銀行が貸さなくなったあと、高利貸しで借れるところまで借りて、資金力を目一杯殖やす。膨らむだけ膨らませる。これにより、債権は多重化する。多重化した債権は、実は簡単には処分出来ない。
 債務者の常識として、多重化した債権を複雑にせず一本に纏めるということを遣るが、こうすると力が分散せず、一方的に強力な取り立てに悩まされることになる。これを防ぐためには、予め分割しておいた方が処分し難いのである。つまり多重債務だ。これだと債権者の力が分散されてしまう。
第二プラン
掻き集めた資金で、敷地内に簡易ハウスを建て増しする。ここに人を住まわせれば、居住権が発生する。この目的は入居者を集めるためであるが、これが家主と組めばどうなるか。あるいは借地として貸し出す。これも地主と組めばどうなるか。
 土地家屋は、複雑化する。処分が難しくなる。競売しても売れない。
第三プラン
此処の入居者並びに借地人は、勿論、地代家賃を払ってもらうが、このままでは住み着かない。
 第一、交通の便の悪い、電気・ガス・水道の通っていない山奥である。この山奥を売り出すキャッチフレーズが必要だった。これを「入植者募集」と銘打ったのだった。
第四プラン
入植者には、借地人契約や住居人契約はしてもらうが、基本的には以降、地代家賃は無償。その代わりに労働力を提供してもらう。これを家賃と相殺するのである。
 働いてもらう代わりに、衣食住を保証したのである。そして、「ある構想」の夢をぶちまけたのである。その夢に飛びついた者が顕われ始めた。願ってもないことだった。
第五プラン
最初、まず尚道館時代の門人に声を掛けた。そこで四人やってきた。はるばる、この山奥まで来たのである。
 この四人に、第一次入植者になってもらい、彼らを「構想村開拓団」の団員にしたのである。以降、第二次、第三次……と順に募集を行っていくのである。住民を殖やすのである。
第六プラン
入植した団員は「鉄の団結」で堅く結び合う。その要(かなめ)を、「屯田兵制度」に求めたのである。半農半兵の開拓のために設けられた、かつての屯田制を現代に当て嵌めたのである。
 江戸時代の下級武士は、半士半農だった。これに、かつての「屯田兵制度」を参考にしたのである。この地に居住するのは単なる村民ではない。兵力を持った民兵である。
第七プラン
借地人契約や住居人契約が、此処に来て物を言う。最悪の場合物を言う。
 つまり、建物の所有者や賃借人の死亡後も、その相続人でない同居者が、引続きその建物に居住しうる権利である。その権利を有するのが、地主や家主の私でなく、入植者の団員達なのである。
(借地借家法・第36条)

 確かに全権限は、私にある。
 私が代表者あり、私は追い出されるが、入居者は借地貸借契約で居残ることができる。これは借地借家法で保証されている。
 私が目を付けたのは、この箇所だった。
 民法の居住権に目を付けたのである。入居者に居直ってもらえばいい。
 また、居住権を楯に取って、入居者に居座ってもらったのである。何ともへんてこな、奇妙な構図である。あるいは、面白いことになったというべきかも知れない。

 その頃、尚道館は既に財団法人となり、個人の私の手から離れていた。私とは無縁の物になっていた。此処に、とばっちりは及ばない。もう、私とは関係ない。
 そのように仕掛けておいたのである。私の策である。
 宗家の座も末娘に譲り、私は喜楽な隠居の身だった。
 世代交替して、早々と隠棲
(いんせい)を決め込んだのである。

 財団法人での役職も、既に任を解かれ、私には何も発言権もなく、代表権などの権力の欠片
(かけら)も残っていなかった。
 また、そのように自らも仕向け、もう、私が居なくても独り立ち出来る財団には、私のような老害は必要なかった。こうした組織に、私のような老人は不必要であった。そのうえ居残れば、組織は若返りが出来ない。居座ることは、老害の何ものでもなかった。
 老いて、組織のトップの座に居座るのは、実に見苦しいのである。それゆえ去った。

 自分なりに、退き際はよかったと思っている。そして、大分県N郡K村に引っ越してきた。
 それから何年かが過ぎた。
 策士は、次々の策を思いつく。手を替え品を替えが……肝心だった。頭は使うためにある。ワンパターンではどうしようもない。
 「策士、策に溺れぬ範囲」で、策を思いつく。老獪の所以
(ろうかい)である。人から悪党と呼ばれても仕方がない。

 古今東西の歴史から学ぶことは、自分の関係した組織や団体を、深く愛してはならないということだった。
 思い通りに、人を動かせる権限を人間が握ると、ろくなことがないのである。
 この愚だけは冒さずにすんだ。だから身を退いた。
 組織や団体を深く愛すると、必ず権力を持ち続けたくなる。いつまでも居座ろうとする。居心地がいいためだ。そのために、人事にも口を出してしまう。
 またそれが、組織内を自分の力の及ぶ人間ばかりで取り囲んで、その影響力をもって、牛耳ろうとする。しかし、愚行である。
 その恐れがあったから、身を退いたのであった。
 人間は身体を弁
(わき)えてこそ、わが身を健全に保てるのである。潔(いさぎよ)さがあって、初めて身は保てる。

私は晩年、隠棲のつもりで深い山奥に住み着いた。

 それで、山奥の掘建て小屋を買い、そこで75歳になるまで、放浪への模索の策を練ることにしたのである。
 私は、此処を軌道に乗せたら、此処に住み着くのでなく、後は人に任せて、もともと放浪に出る予定だった。
 アブラハムに習って、放浪に出る予定だった。うまくいっていれば、本来の放浪は、アブラハムに習った放浪だったのである。
 ところが、これが途中で狂った。頓挫した。アブラハムに習えなくなった。
 再建のための放浪となってしまったのである。予想外のものとなってしまったのだった。
 だが、何れにしても、放浪はする予定だった。
 きっちり、75歳になれば放浪はする予定だった。

 青少年風に云えば家出の策であり、年寄りの隠棲風に云うならば出家である。
 家出と出家は、その意味が違う。
 前者は不良思考だが、後者は精神衛生上の健全思考である。
 そうした出家も考えながら、一方で入植者を募っていたのである。
 此処が、自分でも驚くほど老獪だった。
 惚れ惚れする老獪さだった。

 ところが、末期の肝臓ガンと云う持病のこともあり、また自身の生活費等が嵩張
(かさば)り、ついに支払い不可能となって、今日の強制執行の予告通知に至ったのである。
 これまでの設備投資に思わぬ落し穴があった。
 しかし、こうなることは事前に予期していたので、それを含めて、ある計画を目論んでいたのである。計算済みだった。
 策士、策に溺れぬ所以である。
 策士が策に溺れていてばかりでは、策士でない。バカである。策に溺れて、自滅するのはバカである。このバカを策士とは言わない。愚者という。
 私もそうならないように、自粛が必要だった。慎重を要し、警戒を怠れなかった。

 好事魔が多し……という。
 上手く事が運んでいるとき、好いことが連続しているとき、順風満帆
(じゅんぷう‐まんぱん)にある時は、とかく邪魔が入り易いものである。この周期にある場合を警戒せよという。
 追い風に乗って、物事が順調に運んでいる時は、魔が忍び込むので注意が必要という。確かにそうだろう。
 だが、最も警戒せねばならぬ時は、こうした順調な時でない。
 風前の灯しとなり、自転車操業もいよいよ怪しくなって、瀕死寸前にある時だ。順風満帆では、幾らか体力がある。しかし、瀕死
(ひんし)の場合は、生と死は紙一重だ。
 魔が多いのは好事だけでない。悪事に魔が忍び寄る。
 軋轢
(あつれき)で潰されそうになっている時こそ、したたかに忍び、かつ、意表を衝(つ)く策を用いなければならない。これこそ、策士の策である。
 手を拱
(こまね)いて、懐に入れているだけでは何もなるまい。

 所詮
(しょせん)愚人の策は危うい。
 世の中は愚人の策で動かされているが、愚人が動かしているから世の中が怪しくなるのである。愚人は賢人でないから、世を危うい方向へと引っ張るのである。
 晏子
(あんし)以来の「愚人の策」は、今日の世でも幅を利かせ、愚人どもを操っている。恐ろしいことだ。

 まず、地主と家主である私は、これを第三者に貸す。
 一人でなく複数に、である。
 此処がミソだった。
 集団を造るのである。それが『構想村開拓団員』だった。
 そして、連帯を維持しながら、運命共同体を造るのである。

 その構想を此処で展開したのだった。
 そして、私有地内に四軒の簡易ハウスを建て、そこに入居者を住まわした。これで賃貸契約がなる。
 これを連鎖的に行い、住民を殖やす。一人、二人と殖やして行く。山林の中に、村を造る予定だったのである。
 これは、万一のことを考えての防御策だった。そして、功を奏した。
 私には、このとき“十人の戦鬼”を引き連れていたからである。
 私は此処の入居者並びに一時雇用した人達を『構想村開拓団員』と称したのである。そして、やがて彼らを巻き込んで、これから先き、新たなアクションが起こるのだった。


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