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さすらいの老夫 2

道の脇を流れる小川の清流を見て、ふと、思い出す句がある。
 それは種田山頭火の、「死ぬるばかりの水が流れて」である。

 人間の死と、水とは、どうも深い関係をにありそうである。
 そこには『山水順逆』の理
(ことわり)があって、“山”は「三画」で陽の基本数、水は「四画」であって、死を意味する。

 これは死者の菩提
(ぼだい)を顕すとともに,山水の順逆に従うことを意味するのである。三画は陽数、四画は陰数。
 よって「三」の陽と「四」の陰で、プラス・マイナスが堅く結び、陰陽のバランスを保つのは「ゼロ」ということになる。
 霊界は「ゼロ世界」のことである。則
(すなわ)ち、ゼロとは「空」である。



●ホイトウと呼ばれる放浪の旅へ

 私には一つの憧れがあった。あるいは願望かも知れない。何か帰巣本能のようなものがあって、「帰りたい」という誘惑に駆られるのである。
 その「帰りたい」は何だろうかと思うのである。
 あるいは漠然としたものかも知れないが、心の奥底に、漂泊の旅こそ尊し……というような何かに憧れる願望があるのである。それは何か……。
 一文無しになって、乞食
(こつじき)となりたい……、あるいはもっと蔑まれてホイトウと呼ばれたいと思うような、底辺に、ドン底に落ちて行きたいような魂のリセットだったかも知れない。そういう底辺に落ちてみたいという願望があった。
 思えばこれまで高見ばかりを検
(み)て高望みばかりしていた。だが高望みは、そう簡単に願望を叶えてくれる訳は無い。臨めば臨むほど逃げて行ってしまう。
 そして考えた挙げ句、漂泊の旅に出た……。

 私は自らを遠望して、そうした第三者の目で、客観的に自分自身を見据えていた。
 大樹の下のホイトウは、私なのである。私は乞食なのである。
 大樹のある丘の上から、崖下
(がいか)の村落が見える。村里である。

 『論語』に“里仁
(りじん)”というのが出て来る。
 「子曰
(し‐いわ)く、里(り)は仁(じん)を美(よし)となす。択(えら)んで仁に処(お)らざれば、焉(いずく)んぞ知を得んや」と。

 孟子は、この項を「仁は天から授かる位であり、人の安住の出来る場所である」と引用している。
 要約すれば、田舎こそ人間の安住の地と言っているのである。
 村里は都会と違って仁の厚き風習があり、こうした土地に棲
(す)んでいれば、朝夕接する人はみな仁に厚く、見るものや、聞くものが総て良い風景であり、こうした風習からは、自然に徳が身に付くものである。老いも若きも、仁に厚く、よい習慣が身に付いている。もし住居に選ぶのならば、都会の喧噪(けんそう)を離れた、こうした村里に棲むのがよいと言っているのである。
 それは要約すれば、人間が最後に需
(もと)める「安住の地」だった。心の安らぎを齎(もたら)す安住の地だった。

 私は、大樹の根の上に腰を下ろしながら、崖下を見渡し、“なるほど、里仁か……”と思いながら、これまでの田舎暮らしを想ったのである。
 私はそうした田舎から出てきた年寄りだった。
 老いている。
 足腰も脆い。とうてい若者には叶わない。
 老いは、そうした肉体的な躍動心を阻害し、歯止めを掛け、腐らせるものだった。
 そこに躍動心を失い、老いた年寄りがいた。


 ─────時は、平成34年、西暦2022年8月1日。
 私は75歳になっていた。
 ただし、この75歳は計算が合わないように思うだろうが、私は昭和23年
(1948)8月1日に生まれた。したがって、実際は満では74歳である。75歳には、あと1年足らない。

 しかし、これに反論させてもらえば、人間の年齢は正しく数えるには「満」の数え方より、「数え」で数える方は正しいと思うのである。
 つまり、生まれた年を1歳とし、以後正月になると1歳を加えて数える年齢の表し方である。
 第一、母親の胎内に十月十日
(とつきとうか)も入っているのである。十ヵ月以上も入っているのである。既に、胎児は受精して十ヵ月以上も経っているのである。
 これで何で、母親の胎内から生まれ堕
(お)ちて、0歳なのか。

 ゼロという次元は“何もない”ということだ。0歳とは、姿形が無いということだ。
 ゼロの概念は、数、量、価値が皆無ということであり、全く無い「無」ということである。そうならば、なぜ生まれた時点で、赤児は形を為
(な)しているのだ。これ自体が辻褄(つじつま)が合わない。生まれたというのは、母親の子宮に納まった時が「生まれた」ではないのか。

 妊娠のメカニズムを探ると、それは死して、再生するまでの中有
(バルド)に由来する。チベット仏教では“中有”を「バルド」という。
 つまり、四有
【註】衆生(しゅじょう)が生まれ、生き、死に、次に再び生まれるまでの間の四時期で生有・本有・死有・中有をいう)の一つである中有(ちゅうう)である。衆生が死んで、次の生を受けるまでの間を「中有」という。
 期間は一念
【註】極めて短い時間。刹那の意)の間から、七日あるいは不定ともいうが、日本では四十九日とされている。この間、七日ごとに法事を行う。この期間を「中陰」という。
 そして、中有
(バルド)の意識が人に生まれてくるかどうかは、その意識の過去の行為によって決定される。
 人に再生されるはずの中有は、その意識が人なのだから、譬
(たと)え隣で犬が交尾していても、素通りしてしまう。犬の交尾には目もくれない。真っ直ぐに人間の男女が性交している場所に辿り着く。

 過去の行為から立ち起こる風は、中有の意識を女性の胎内で結合した精液と経血の中心に吹き込む。そこの風が起こる。
 このとき母親の経穴に惹
(ひ)かれるならば男児が生まれ、父親の精液に惹かれるならば女児が生まれる。そして、一旦母親の胎内の雫(しずく)に中有の意識が入り込めば、それは固定されて、この時点で生命が宿ったことになる。これが生命の誕生である。
 だから、母親の胎内に宿った時点から遡
(さかのぼ)り、計算すると、生まれた時点では、既に十月十日を経ているから、もう1歳なのである。母親の胎内から出てきたその瞬間を、0歳とするのでは辻褄(つじつま)が合わない。
 これ自体が計算が合わないではないか。

 だから、私の持論は、数え年で75歳なのである。
 母親の胎内に十月十日過ごしており、生まれ堕ちた時は、約一年弱を経過しているのである。だから、生まれ堕ちた時は、既に1歳ということだ。0歳ではない。
 私は母親の胎内で生命の雫として、その種が成長し、それから計算して75年を経ていたのである。
 私は昭和23年
(1948)8月1日に生まれた。だから0歳ではなく、このとき1歳になっていたのである。
 だから、あれから数えて75歳になっていた。75年が経過していたのである。

 私は若い頃から、歳とって見られることが好きだった。
 「若いですね」などと云われると、「それほど俺は青二才に見えるか!」と食って掛かったことがあった。
 だから、老けてみられることは厭
(いや)でなかった。むしろ、若造に見られて、青臭く見られる方が非常に厭だった。一歳でも二歳でも老けて検(み)られるのが好きだった。
 「若い」と見れらるのが大嫌いだったのである。

 普通、「若いですね」と他人から、お世辞でも云われるものならば、目尻を垂れて喜ぶ人が多い。一歳でも二歳でも若く見られることを喜ぶ。
 しかし、私は違う。
 「俺はそんなに青く、バカに見えるか!」と反感を持ちたくなる。
 青臭いとバカは同義だから、「あなたは、意外と若いのですね」などと、お世辞にもいわれると、バカを逆撫
(さか‐な)でされているようで腹が立って来るのである。

大東修気館道場玄関前で。
各大学の幹部達と筆者。

 既に、18の時の大学一年生のときには、大東流の道場を開いていた。
 『大東修気館』という道場を構えていた。一日24時間、一年365日、自由に使える道場を持っていた。時間貸しのスポーツセンターや体育館や武道館ではない。
 その当時、50人ほど弟子がいたが、大半は、私より年上のオヤジどもであり、若く見られること自体が、舐
(な)められることに繋がった。だから、一歳でも二歳でも、あるいは十歳でも、老けてみられることを喜んだ。
 「あなた、老けてますね。お年は40歳ぐらいですか?」などと訊かれれば、大満足したであろう。
 しかし、悲しいかな、せいぜい老けて検
(み)られて、5歳か10歳止まりだった。

 私は若い頃から、早く老人に見られたいという願望があったのである。あるいは老獪に見られたかった。“したたか者”に見られたかった。それが、人から侮
(あなど)られないことだった。
 老人の年齢を「白翁」といい、また集団内では「長老」といって、智慧に長
(た)けたその方面で経験を積んだ、頭(かしら)と看做(みな)される。頭目と看做される。その頭目は尊敬される。
 これは衆目の一致するところである。青二才では尊敬の的にはならない。
 私は大した学もある方ではなかったので、せめて老けてみせて、その姿だけでも老人に見られたいという切なる願望があった。だから、老けてみられることは、私にとっては好ましかったし、好きでもあった。
 「若き○○……」と形容されることが大嫌いだった。
 人は、自分が若いと見られることを好むが、私は若く見られるというのが厭
(いや)だった。

 そして、あれから五十年以上が過ぎて、そのときの願望が漸
(ようや)く適(かな)った。74歳にして適ったのである。
 もう数え年では75歳なのである。白翁の域に達した。
 昭和23年生まれだから、西暦2022年8月1日には、数え年で75歳なのである。予
(かね)てよりの、老けてみられる願望が漸く適ったのであった。

 私には、「75歳」という年齢に問題があったのである。
 それは、かのアブラハムが放浪の旅に出たのが、75歳の時だったからである。
 旧約聖書に出て来るアブラハムは、75歳の時に一切の財産を当時の妻子に与えて旅に出た。放浪の旅である。75歳の年寄りが、である。
 そこに惹
(ひ)かれるものがあった。75歳の老人に、である。
 これは一つのロマンを彷彿
(ほうふつ)とさせるのである。

 75歳にして旅に出た。
 放浪の旅に出た。此処に惹
(ひ)かれるものがある。魅せられるものがある。
 私は漸く75歳という年齢で、旧約聖書に出て来るアブラハムと、同じスタートラインに立ったのである。
 そして、この世に生まれ堕ちて漸
(ようや)く、74年目にして、本来の人間として生まれた意義を見つけ出した。この歳にして、進行方向が決まったのである。予(かね)てよりの憧れが、この日に漸く成就したのである。
 しかし、単なるスタートラインに立った似過ぎなかった。この先、行き斃
(だお)れになるかも知れぬ。
 野晒
(の‐ざら)しとなって、夢は荒れ野を駆け巡る……かも知れない。だが、それでもいいのだ。

 アブラハムは75歳にして放浪の旅を始め、その後175歳まで生きる。
 75歳から百年も生きたのである。一体この生命力は何処から来るものであろうか。
 私の一番知りたいことは、その老人のエネルギーだった。
 老人だから、遣うエネルギーが、若者のそれとは異なるだろう。別
の生命回路を遣って、恐るべき神秘なる力を遣って退(の)けたのだろうか?……。
 私にとっては、アブラハムの175歳という年齢に、大いに興味があったのである。
 そして、まずはアブラハムを目指して……、という箇所に落ち着き、放浪の旅に出たのであった。
 その心境は、「野晒しを心に風のしむ身かな」である。何となく風流を漂わせている。

 しかし、何分にも75歳は、確かに爺である。いい歳をしたも、へったくれもない。余命僅かな、紛
(まぎ)れもない爺である。生(お)い先短い。
 それが、雲の如く……、水の如く……放浪しているのである。一丁前に、雲水を気取って……。
 怪奇と言えなくもない。常識で考えれば異常である。狂っている!……とさえ云える。
 しかし私は、痴呆症の気
(け)もない。至って頭は健康である。狂ってもいない。

 ホイトウ……。
 私はそうした恰好をしていたのかも知れない。
 ホイトウ……。
 おそらく自分を客観的に観れば、そう映ったに違いないと思うのである。風体からすれば乞食に見えるだろう。
 私は炎天下の中、大きな楢
(なら)の樹下の根本に腰を下ろしたのである。喉を潤(うるお)し、“やれやれ”と一息ついて思うのだった。
 こうして腰を下ろしている大樹の下の街が、如何なる街か、私は知らい。ただ、着の身着のままという状態で、かつての住居を追われたのだった。既に予測していたことだった。

 私は、この大樹の下まで、大分県N群N村の山奥から歩いてきたのである。立ち退きを喰らって、此処まで徒歩で歩いてきたのである。殆ど、着の身着のままで。
 その出立は慌
(あわ)ただしかった。逃げるように、歩いてきたのである。追い立てられるように飛び出してきたのである。背中に罵声を浴びていた。罵詈雑言を、人間の喋る侮蔑表現で、それを背中に浴びせ掛けられたのである。あらゆる穢い言葉を総動員した罵詈雑言で……。

 その際、手にしたものは、使い古した小さな革製の前盒
(ぜんごう)に似たベルトバックと、これも使い古しの肩に背負った迷彩色の旧陸軍の背嚢(はいのう)に似た小型のリュックサックに、ありったけの物を詰め込んだだけだった。出発が慌ただしかったからだ。
 それだけに不要な物が交じっている確率も高い。数日前から吟味したつもりだったが、やはり慌ただしい出立
(しゅったつ)は番狂わせがある。
 その他、かつて父が軍隊時代に使用していた旧日本陸軍の将校用水筒だった。
 放浪の旅では、他家の水を飲ませてもらうという訳にも行くまい。自前で、水は用意しておかねばならない。だが、その水はコンビニなどで売っているミネラル・ウォーターの類ではない。あるときは野山に流れる小川の水であったり、あるときは公園か、公衆便所の手洗いの水である。
 ホイトウが飲む水は、昔からこうした汚水と相場が決まっている。水筒の水がなくなれば、こうした処で補給するのである。これこそ“元手いらず”だった。

 何
(いず)れも骨董品に近いものだったが、価値は皆無である。何のアンティーク価値もない。ゴミ同然のボロに過ぎない。
 荷物と言っても、そんなに大した量を持っている訳でない。その辺の低い山に、トレックングでも行くような出
(い)で立ちの軽装で出てきたのであった。私のような年寄りに大した荷物は必要なかった。

 この歳に至って、放下著
(ほうげじゃく)を無意識で実践しているのかも知れなかった。
 生
(お)い先短い年寄りが、何故この先、生活のための鍋・釜・甑(こしき)の生活必需品が、何ゆえ要(い)ろう。日々を野宿をして煮炊きするのではないのだから……。
 夏場とはいえ、老人に野宿は堪える。それでも、その覚悟はいろう。

 しかし、私のような年寄りも、自分の命の次に大事な物を一つだけ持っていた。
 それは一振りの日本刀だった。
 これだけは、とうとう最後まで手放すことが出来ず、ついに最後まで付き合う羽目になってしまった。その一振りを肩から斜めに掛けていた。本革の居合刀バックに入れて掛けていた。これだけが私の所持人の中で、唯一輝いていた。
 そして、その一振りは旧日本陸軍の軍刀拵に仕込まれていた。軍刀拵は父の遺品だった。
 将校用の軍刀である。刀緒の表が茶色で、裏が青色だから、これは下級将校
(尉官)に配給された軍刀の拵だった。

私に、最後まで運命を伴にした愛刀の一振り。銘は助廣。別称“丸津田”といわれる丸文字の銘が切られている。津田越前守助廣である。時代は新々刀。
 長さ:72.2センチメートル。反り:2.00センチメートル。目くし穴:1個。

表銘(津田越前守助廣)

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裏銘(延宝二年八月日)

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 だが、愛刀と言っても大した銘の物でない。銘はよくないかも知れない。自分ではそう思っている。甲種マル特【註】財団法人・日本美術刀剣保存協会認定の甲種特別貴重刀剣)は付いているが、贋作の可能性もあるからだ。
 私は、もう認定書とか、鑑定書などという愚かしい「紙切れ」に振り回される年齢ではなかった。そういう紙切れからは卒業していた。

 しかし、贋作にしては、よく出来ていた。実際のところは本物か贋作か、それがはっきりしない。
 はっきりしないが、気に入っていた。
 これまで刀屋を生業
(なりわい)としてきたから、それが分かる。私観だが、私なりには、いい刀と思っている。
 銘の切り方からして、“丸津田”を、よく表現しているからである。

 もし贋作として、この贋作銘を、贋作作者は、どうやって刻んだのだろうか?……と思うほど、能
(よ)く出来ていた。
 この刀が、贋作かどうか、私にはどうでもいいことであった。多くの蒐集品の中から、これだけが、唯一振りだけ残ったのである。他は綺麗に売り払ったが、これだけが残ったのである。これも何かの因縁であろう。
 かつかつ鑑賞に堪える代物である。気に入った一刀
(ひとふり)だった。
 地肌の鍛え疵
(きず)よろしく、小板目の梨子地(なしじ)のような肌をしていた。私にしては、充分な心の拠(よ)り所になった。

私は愛刀・助廣を軍刀拵に仕込み、これを肩から斜めに背負ったのである。
 勿論、現代は裸のままでは日本刀は持ち歩けないので、これを一振り用の皮の居合刀バックに入れ、バックごと肩から背負ったのであった。
 「銃砲刀剣類登録証」も携帯している。官憲から文句を言われる筋合いはない。不法所持ではない。
 旅の途中、官憲から職務質問されても、堂々と、毅然として応えられるだけの準備はしていた。
今から度々お世話になろう、津田越前守助廣。
 心の拠り所として、精神的支柱として、この助廣が私の唯一の語り合い手だった。助廣は応えないが、しかし、語り掛ければ黙って聴いてくれるのである。

 鞘を払って度々、鑑賞……という訳にも行かないが、やはり武人にとって、一振りは、“いざ”というとき、心の拠(よ)り所になる。
 刀剣は単に人斬り包丁でない。人斬り包丁と思うのは、愚人の錯覚である。
 そういう錯覚は、映画やテレビのチャンバラものが植え付けたものである。架空の芝居のものである。そう言う間違ったイメージを、殺陣
(たて)の振り付け師が植え付けたのである。罪なことである。
 人斬り包丁のイメージを日本人に植え付けたのは、愚かなチャンバラ映画だった。これは甚だ、迷惑千万なことであった。

 愚かな「大衆誤解」を生じさせたのは、新国劇俳優の沢田正二郎
(さわだ‐しょうじろう)だった。
 沢田は、剣劇に壮烈な殺陣を演じて大衆に喜ばれたが、沢田の振り回したのは日本刀ではなく、遥かに軽く、細い竹光だった。鞘を払って、せいぜい500g程度だったであろう。そんな軽い物を振り回してチャンバラを遣るのだから、当然、大衆誤解は生まれ、またチャンバラ自体が洞察力の鋭い外国人から軽蔑される事態を招いた。日本刀で人間を、大根のようには切れないのである。日本刀は、そうした刃物ではない。
 むしろ刀は、心の拠り所になる面が大きい。
 我と吾
(わ)が身を支える精神的支柱である。人を脅(おど)す兇器でない。

 かの吉田松陰は、渡米密航を試みたとき、自らの記した『三月二十七日夜の紀』
(日本嘉永七年甲寅とあり、1854年)によれば、この時、松陰はアメリカ軍艦に乗り移る際に、多少慌てていたことを告白している。その中で、刀を小舟に忘れたことを大いに悔(く)やんでいる。忘れるという、不覚を取ったことで「運に見放された」と嘆いている。

 松陰は不覚であった。確かに不覚であった。
 心の拠り所を忘れては、毅然
(きぜん)とした態度もとりようがなかっただろう。あるいは忘れなければ……、もしかすると、以降の日本の歴史は変わっていたかも知れない。松陰がアメリカに密航出来た可能性も考えられなくはなかった。
 しかし、刀を忘れたためにその可能性も失われ、本人も「運に見放された」と嘆いているのである。

 もし私が、若い頃、吉田松陰を研究してなければ、出発に際して刀を忘れ、松陰の二の舞を踏んでいたことであろう。
 これは個人的見解だが、もし小舟から軍艦ポーハンタ号に乗り移る際、帯刀していたら、その後の海軍大将・ペリー提督を説得して、説き伏せたかも知れないと思うのである。あるいは、密航が成ったかも知れないと思うのである。

 この当時、甲板に居たのはウィリアムという士官だったが、刀さえ携帯していれば、彼をも説き伏せ、上申されて、ペリー提督に面会が適
(かな)ったかも知れない。
 『三月二十七日夜の紀』には、「この事は大将と私だけが知っている。他の者は知らない。大将もあなたの志を大いに喜んでいる。しかし日米両国は国交がなく、条約も締結しておらず、個人的には意向を汲み入れたいが、こうした事情により、あなたの希望を今直ぐ認める訳には行かない。もうしばらく、待って頂きたい。日本人が自由にアメリカに渡り、アメリカ人も日本に来航出来る時がこよう。それまで待って頂きたい。われわれは後、三ヵ月ばかり此処に滞在する予定であり、直に帰国はしない」と、翌日の朝、このように諭
(さと)されたとある。

 松陰は刀を小舟に忘れたことを、乗船に際し、悔
(く)やみ続けていたのである。大波に揉(も)まれ続け、小舟から軍艦に乗り移る際、そのことだけに囚われて、肝心な刀を忘れてしまったのである。当時、29歳か30歳くらいだったから無理もなかろう。
 当時の外国人は、日本の武士階級に些
(いささ)かながら尊敬の念を抱いていた。サムライが帯刀していることは、外国人高官の中では広く知れ渡っていた。帯刀しているか、していないのかで階級と身分を見分けていたのである。西洋は階級社会であったからだ。

 特に、アメリカは階級社会であった。
 階級によって、接点を持っていいか、そうでないかが決定されていた。欧米では、階級が違えば接点がないのである。サムライ階級であっても、帯刀してなければ、その相手が武士であることは判別し難かったのである。
 日本人は欧米の「社会的平等」という表向きの謳
(うた)い文句に瞞(だま)され易いが、欧米では階級(クラス)の実相を見抜いていることが多い。固有の階級構造があるのである。ハイ・ソサエティーのファーストクラスとミドルクラスとは階級的な等級が違うため、接点がないのである。これは地位制度(ステイタス・システム)による。

 例えば、富豪と貧者、雇い主と雇われる者、地主と小作人、ブルジョアとプロレタリアというふうに、最終的には、紳士と紳士でない者とに選別されてしまうのである。そして選別された後、両者には接点がないし、もし一度、上中階級が下層階級に接点を持とうものなら、一挙に上流は下層に顛落するのである。
 階級が違えば、口も利けないのである。階級社会の国では、口を利くことすらタブーなのである。社会的区分が明確なのである。
 そして、社会的区分の等級を上・中・下の三階級に分けて、階層を値踏みするのは周知の通りである。

 欧米では階級は、それ以前にもあったが、明確になったのは中世からの伝統であり、西洋列強が植民地主義を展開し始めたとき、開港を求め、折衝
(せっしょう)に当たる接点も相手国の階級のよって接点を持とうとしたのである。政府高官が底辺の労働者階級に交渉しても始まるまい。
 日本の場合も、黒船外交などを通じて開港を迫ったとき、折衝相手はサムライ階級だった。そしてサムライ階級の象徴は、何といっても刀だったのである。
 着ている衣服や身なりの善し悪しではなく、まず、二本指しか否かだったのである。いい身なりをしていても、刀を指していなければ、何の意味もなかったのである。むしろ、ボロを着ていても、刀を指していれば、見方は変わったのである。この意味で、吉田松陰は不覚を取ったのだった。
 松陰は帯刀してないことを大いに恥じたのである。

 松陰のこの心理が、私のとって大いに参考になったのである。
 愛刀を、常に持参していることがどんなに心強いか、これは日本刀を所持した人でなければ分からない。
 武人には“必須なる心構え”であり、日本刀こそ武人の魂なのである。
 絶えず自分を護る何かかあるという意識は、また難局を乗り切る原動力になるのである。それは武器を携えているということではなく、心の拠り所を持っている……という安堵感と自信に通じるのである。これが一方で毅然とした態度をつくる。現場に、実際に携帯していなくとも、それを所持しているということだけで、心の拠り所になるのである。日本刀にはそんな神通力があるのである。

 人間は、人それぞれに前頭葉の発達度合いに応じて、「個人の座」というものがあり、生き方もそうだが、死に方も、人それぞれに、死に方のスタイルがあってもいいと思うのである。
 何も、病院のベットに寝かされ、死を待つばかりの退屈な死に方をしなくてもいいと思うのである。
 大脳皮質の前方部が機能している限り、充分に機能させて、意志・思考・創造など高次精神機能と関連させ、もっと違う形であってもいいと思うのである。月並みな、病院で生まれて病院で死ぬという……、現代の畸形
(きけい)現象の、鋳型(いがた)の嵌まった死に方をしなくてもいいと思うのである。

 私の脳に鎮座する「個人の座」は、75歳にして放浪の旅へと旅立たせたのである。
 その旅での、“同行二人
(どうぎょう‐ににん)”ならぬ、愛刀との同行二人だった。弘法大師の代わりに、愛刀『津田越前守助廣』が、私と、これから先きの同行二人を勤めるのである。
 さて、爺の運命は、これ如何に……というところだろう。

 そういう最近のことを回想しながら、暫く私は大樹の下で汗に滲んだ躰を乾かし、一息ついて涼をとっていたのである。
 しかし、汗は簡単には乾かない。じっとりとしたものは粘着性をもって、更に絡み付く感じだった。いま立ち上がって歩くのは賢明でなかった。もう少し此処で休んで行こう……そう決めたのだった。
 暫く此処で……。



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