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中庸の開運哲学 2

結界を示す神霊域。



●似非神が横行する時代

 日本の戦後は“何でも自由”の結果、闇の世界の病気治しで、この種の職業祈祷師を生んだことだ。
 また、職業祈祷師を生んだもう一つの側面に、これに頼る行いをする人が居ることだ。
 その最たるものが「神霊治療」の詐欺行為である。現代の似非神
(えせがみ)は、神霊治療をするのである。筆者はこの治療の被害に遭い、今も苦しみ続けている人を何人も知っている。この被害者は、生涯、精神病院で余生を送ることになろう。

 職業祈祷師に何事かを頼めば、その依頼料は篦棒
(べらぼう)に高いが、これは高い安いの問題ではない。既に、神饌(しんせん)の行為に素人が関与して、神の名を騙(かた)り、金の授受が行われることが問題なのである。
 本来、神の行為は、金品を受け取らない。それが受け取る。何ともおかしいことではないか。
 そして、金品を要求する似非神
に縋(すが)る人間が、また居る。

 そもそも神は、金品は受け取らない。人間のレベルでの価値観は持たない。それは需
(もと)めて得た埃(ほこり)であるからだ。
 神は金品は受け取らず、別の代価を求めるのである。一生涯奉仕するような代価を求めるのである。使徒を求める。
 かの宗教で言えば聖徒
(saint)である。
 したがって、金品は求めない。
 金品を求めるのは神ではなく、職業祈祷師なのだ。祈祷師は人間だが、神ではない。その祈祷師が、篦棒に高い依頼料を要求するのである。

 この構図は、まさに贈収賄事件と酷似する。
 贈賄と収賄のことで、贈る側と受け取る側が居ることだ。
 賄賂
(わいろ)を贈ることを“贈賄”という。そして、公務員や仲裁人に賄賂を提供し、またはその申込み及び約束をする罪を“贈賄罪”という。

 一方、賄賂を受け取ること“収賄”という。
 公務員や仲裁人が、職務に関して賄賂を収受、要求、約束する罪を“収賄罪”という。そしてこれを総じて、贈収賄という。これをすれば、法的には贈収賄行為で処罰される。目に見える物質界では、これを遣れば間違いなく処罰される。
 ところが、職業祈祷師と依頼者間では、何の咎
(とが)めもない。
 野放しだ。科学的という言葉がそれを奪っている。似非神を放置している。これは神託や託宣のこうした行為をしても、これを科学的に立証出来ないためだ。物質界の科学では不可視世界の出来事を立証出来ないからだ。何一つ立証出来ないからである。

 “坊主丸儲け”という言葉があるが、まさにこれである。
 坊主は経を読むだけで、労働せずに布施
(ふせ)が貰えるからだ。汗水垂らさず、檀家から金を得る。元手いらずで儲けることができる。一種の経読みが、丸儲けの「濡れ手に粟(あわ)」を彷彿させるからだ。
 その二番煎じを職業祈祷師が、柳の下の“泥鰌
(どじょう)捜し”をしているのである。
 「泥鰌掬い」ならぬ“泥鰌捜し”である。
 その宝探しは意図も簡単に、似非神に縋
(すが)る、間抜けな泥鰌によって達成されるのである。これほど“うま味のある泥鰌掬い”はあるまい。
 間抜けな泥鰌は、こうして次々に掬われる。意図も簡単に……。おもしろいように掬われる。あたかも蝿捕り紙
【註】天井から吊るした粘着性の長さ50cmくらいの紙で、それには蝿が好む臭いが仕込んである)に貼り付くように……。

 かつて精神病者は「狐憑き」と呼ばれた。そんな時代が、半世紀ほど前にあった。
 狐が憑いたら……、憑物が憑いたら……、それは精神病院より、職業祈祷師へという暗黙の了解があった。そんな不文律があった。
 戦前・戦中・終戦直後の精神病院は野蛮なところで、手の青竹を持ち、長靴を履いた、厳めしい看護夫が居て、精神患者を暴力で抑えるという刑務所のような所だった。こうしたイメージで、精神病院が語られた時代があったのである。
 患者は否応無く、理不尽な強制に従うしかなく、脅されて、精神病患者の真似をして忍従をする軽度の患者も少なくなかったという。あるいは正気でも、隔離されれば気違いにされた。

 「わたしは気違いじゃありません」と隔離された患者が言う。
 「最初は誰でもそういうんだよ」と青竹を持った看護夫。
 「でも気違いじゃありません」
 「気違いだから、そういうんだ」
 こうなると、逃れられない。まったく警察の取り調べを彷彿とさせるではないか。
 真犯人でなくとも、容疑者で逮捕された方は、
 「わたしは犯人ではありません。わたしが殺
(や)ったのではありまあせん」
 「最初は誰でもそういうんだよ」と取調官の一蹴。
 この構図、どこか似ていないだろうか。

 気違いでなくとも精神安定剤の連続投与で、確実に気違いになって行く。
 そのときに正気な患者
【註】家族に暴力を振るっただけで入院させられた患者。精神病とは無関係)や軽度の患者【註】かつては精神病と神経症の区別がつかなかった。ノイローゼでも精神分裂病と看做された)が、「ああ、あ……、俺もとうとう気違いにされたか……」と嘆きながら、生涯、精神病院に閉じ込められる生活が余儀なくされたのである。刑務所に入った者に人権がないように、精神病院に入れられた者も人権は剥奪される。隔離されればそれまでだ。
 その象徴が、鍵の掛かる厳重なドアと、鉄格子の付いた病棟だった。構造は刑務所に酷似する。
 今日のように、“開かれた精神病院”は、殆どなかった時代である。半世紀前はそうだった。だから最初、家族は精神病院は敬遠するのである。

 当時のこの時代、家族はまず、最初に思い浮かぶのは精神病院ではなく、職業祈祷師だった。職業祈祷師に頼って、狐憑きを落としてもらうこと考えるのだった。
 しかし、狐憑きは職業祈祷師では落とせない。そんな霊的な能力も持っていない。
 持っているのは、弁舌爽やかな“口のナメリ”だけである。
 この口のナメリを、かつては無礼言
(なめり‐ごと)といった。狐が、捕らえた獲物を見て、口の周りを舐(な)めることから、こう呼ばれたのだろう。祈祷師こそ、低級霊の憑いた狐だった。

 その狐が妙なことを言うのである。
 はっきり言えば、聴くに絶えないことであり、無礼な言葉の連発なのである。
 それを家族は、患者の恢復
(かいふく)だけを期待して、藁(わら)をも縋る気持ちで祈祷師の、あたかも「乱言(なめりごと)し揚言(ようげん)ことあげして曰(いわ)く……」という酷い光景の、暴言に耐えながら聴くのである。狐憑きはどちらか?……と慮(おもん‐ぱか)りである。
 しかし、治る気配はない。一向に治る気配はない。日々を追って悪化する。
 酷い話だ。
 精神分裂病だから無理もない。憑物落しで治せないのだ。また、治るはずがない。

 数百万円も巻き上げられて、患者の病状は悪化するばかりで、一向に正常に戻る気配はない。
 掬われた泥鰌は無残だった。こうしてカモにされたのである。
 職業祈祷師から、一回につき、数百万単位の神託料を払わされることになる。次ぎに行けば、更に数百万円が加算される。こうして、二回が三回になり、三回が四回になる。気付いたら、身代を失っていた。
 戦後日本に生じた新たな社会の恥部であった。

「元気を貰う」とか「勇気を貰う」のこれらの『気』は、また、充分に用心しないと、それは気門の気であり、気門は時として、人間が見落とす鬼門に隣接していることがある。

 一方、これに類似した霊的スポットとか、パワースポットとかの“お気軽ツアー”がマスコミなどに取り上げられて大流行している。そして、霊場で体調を崩す人も少なくない。
 “戦後の恥部”は、また西暦2000年代に入って、若い世代に受け継がれ、形を変えた職業祈祷師が登場している。それが「霊場巡り」だ。
 町興しや村興しの名目で、地域の神社仏閣が霊場巡りのコースに組み込まれているのである。そこを知らない者が踏み入れる。それも“土足”で。
 巡らせる方も巡らせる方だが、巡る方も巡る方だ。
 一種の「贈収賄構造」で、双方は成り立っている。

 こうした場所に立ち入って、体調を崩す人の多い。そして、その中でも地方人より都会人の方が多い。都会人は山奥の田舎時間のバイオリズムの周期に適合しないためだろう。更に霊的免疫も持たない。無理もないことだ。
 崩す要因は、第一に巡る側の礼儀知らずである。神社仏閣に詣でる作法の無知から体調を崩すようだ。無礼を働いたことから障られるのである。
 第二に霊的波調が低く、歪み、その波調が粗い。細やかでない。雑である。この粗なる部分に邪が忍び込む。隙間だらけの粗い波調だから、邪は同調し易い。簡単に邪の侵入を許す。これによって体調を崩す。
 第三に、霊的神性を持っていない。つまり霊的免疫がないのである。普段の日常では、霊的世界をバカにしたり、非科学の最たるものと思い込んでいる。
 “霊の否定現象”は、何も科学万能主義を信じる最先端に所属する学者だけではない。仏教の宗派では、禅宗も霊的な存在を完全否定している。霊は存在しないのだ、と。

 いま霊的スポットだけではなく、禅宗の寺に泊まって、宿坊体験することが静かなブームになり、テレビなどでも盛んに報道されている。そこに若い娘が殺到する。また、人格改造を目指す、内向性型の青年男女が殺到する。陰圧が高い人達だ。陰圧に同調するのは、また陰圧が高い低級霊だ。類は友を呼ぶ。
 都会人が田舎に行って、山寺で坐禅をし、写経をし、こうした宿坊体験を、境内や便所を掃除とともに遣らされるのである。これで某かに金数を払い、「有り難う御座いました」と頭を下げて、再び元の都会へと戻って行くのである。

 この一連の流れに、法的な不正は何一つない。職業祈祷師らしき行為は何も感じられない。
 むしろ、対価を得る方法としては当然であり、可視的に、科学的に見た場合、不正は何処にも存在しない。
 ところが、此処は霊否定であっても霊場である。寺院である。問題は此処にある。
 その寺は、いま住職を勤める大学出の禅坊主が、自分一代で寺を築いたのではあるまい。既婚が許される宗派ならば、当然の如く、先祖が居る。現住職は自分一代の、そこに寺を開山した開基住職
(かいき‐じゅうしょく)ではないはずだ。血脈は過去に確かに存在するはずだ。霊を否定するという隔世遺伝の血脈が……。
 霊否定でも、霊場には何かが居る。寺院には、宗派を問わず何かが居る。霊という意識体は、そこを住処
(すみか)としているのである。霊が否定されようとも……。

 これは禅寺否定の話でない。
 禅宗でも真言宗でも、宿坊体験者に坐禅をさせ、写経させ、精進料理を喰わせて、それで幾ら……という話に、いちゃもんを付けているのではない。正式に宿泊業の認可を貰い、消防設備も万全であれば消防法に適った立派な宿発施設であり、寺の離れを提供して、そこを宿坊とするのに文句はない。そんなことを言っているのではない。
 霊の話だ。

 土地に纏
(まつわ)る、また建築物に纏る、そこに棲(す)む種々の霊の話である。
 肉の眼で見えようが見えまいが、そこの闇には何ものかが居る。霊を否定しても、何かが居ることは確かだ。
 現代人は視力を暗くしてしまったために、古代人ほど闇を見る視覚は明るくない。闇を見通す視覚能力は低い。だから、不可視世界は覗けない。
 現代人が闇を見るには、一種の盲同然である。盲のまま、何か無意識に触れ、それによって障りを受けるのである。これを問題にしているのである。

 都会から田舎に出掛けて行って、その障りによって精神的体調を崩し、精神衛生上、最悪な結果を拾って都会に舞い戻ってくる人も少なくないようだ。筆者は何人も知っている。
 こう言う人達は、霊的波調が粗く、また霊的神性が低い。霊的免疫は皆無である。したがって、山や川や池に棲む土地や河川を住処
とする魑魅魍魎(ちみ‐もうりょう)の低級霊の憑衣され易いのである。障られ易いのである。
 一体このフォローは、どうなっているのだろうか。
 霊は否定しているから、うちは無関係とは言えないだろう。
 それとも憑衣後のアフターサービスは、自分持ちなのだろうか。



●低級なるものとの交流

 現代は霊的免疫の失われた時代である。霊的な、また精神的な向上は失われた時代である。
 したがって、神社仏閣に詣でても、あるいは霊的スポットやそれに準ずるパワースポットの詣でても、直接的に正流を受ける正守護神の働きが得れないのである。高いものと交わらず低いものと交流する。
 多くは副守護神の、神を使役に遣うその程度の即席的な願懸けが主体のようである。こうした願懸けは、最終的には悲惨な末路を辿るようである。

 また、鎮魂帰神なる法があるが、この手の修法は実に危うい。
 何故なら鎮魂帰神法は神人合一あるいは神人感合なる現象は、副守護神の作用によるものであるからだ。物の神の仕業である。物質界の神に仕業である。つまり、この神は外流の影響を受けた物霊であるからだ。

 鎮魂帰神をもって副守護神を改心させることは難しく、これを用いれば帰神法を行っている審神者
(さにわ)自体が外流の影響を受けて潰れるからである。そして憑衣霊は呼び込まれる。
 願懸けにはこうした帰神の外流交叉により、五官を狂わす“ハイ状態”が起こるからである。つまり「人生の畸形化」である。
 人生の畸形化が起こるとどうなるか。あるいは、それを起こした根元のハイ状態が起こるとどうなるか?……である。

 こうした状態が起こった場合、取り返しのつかない重傷に陥ることが誰にでも想像がつこう。こうなると、後戻り出来ないくらいに大きな駄目維持を受ける。
 一種の神懸かりのダメージであり、元凶は、例えばダイエットか、恋愛相談のようなものである。こうしたものにこだわるのは、その人の人為的な欲望である。

 ダイエットも欲望であり、また恋愛成就も欲望である。この意識が強くなると、一種の神懸かりが起こる。背後にはダイエット・ハイがあり、また恋愛ハイがある。要するに陶酔状態である。こうした状態にうっとりとしてしまう。
 本来苦痛のはずなのに、苦痛は快感へと変貌する。そして、度を超せばトランス状態に陥る。正常なる苦痛の意識が感じなくなるのである。苦痛を快感と思ってしまうのである。神懸かるというより、低級なるものに憑衣されると度々顕われる現象である。

 勿論、神懸かるのは、正守護神ではなく、物霊の権化
(ごんげ)である副守護神である。
 神懸かりは、また「神憑かり」とも書く。「憑かり」は憑衣である。憑くのである。それも低級なものが……。
 現代人は、ほぼ全員と言っていいほど憑衣されている。表をを免れている人など殆ど居ない。それは人為的かつオカルト思考により憑衣されたものである。極端に走るとそうなる。中庸から遠ざかる。

 現代人は副守護神の働きが旺盛である。
 つまり、副守護神の実体は後天的憑衣霊である。後天的に多くは憑衣されている。特に憑衣者は物欲が旺盛になる。それに反して、精神性は薄くなる。そうした症状は、食べ物を見れば一目瞭然であろう。美食にこだわり出す。そもそも「こだわり」と言う言葉が副守護神の代名詞である。こだわるから、一方に偏り、拮抗を失う現象を招く。

 偏った状態からは、正守護神は影を潜める。肉体を守護する能力が失われる。肉体の清浄化は行われなくなる。嗜好(しこう)も一層野獣的な動物を好み、鎮魂は失われ、魂は軽薄となって浮き立つ。地に足が着かなくなる。浮遊する。根無し草状態となる。
 本来の、「酒を飲むな」「淫欲を貪るな」「四ツ足を喰うな」の三大禁忌は破られ、憑霊に身を委ねることになる。
 但し、素霊が帰順すれば別である。

 ところが、これが難しい。
 大酒を煽り、淫欲は濃厚になり、四ツ足常食の元凶は、動物霊である。
 動物霊により憑衣が、不定愁訴のような病状を招く。そのうえ歪んだ霊的波調を持ちながら、物欲や性欲は旺盛となり、権力欲や闘争欲も露にな活発になり、物質的な交流が盛んになるため畸形した魂は、その表現型として妖怪化の道を辿ることになる。
 酒と、四ツ足動物性食品は、互いに引き合う。それは双方が、低級で粗い波調から構成されている物質であるからだ。何れも霊的波調が粗い。
 極端に求めれば、主体は低級なものが憑いて来る。

 つまり、極端に傾くということは中庸から外れてしまうということである。
 例えば美徳を追い求めると、その過剰状態は悪徳である。美徳と信じていたものは、実は悪徳だったということになる。
 この世には作用と反作用の力が働くため、何れかに極端かが起これば当然拮抗を失ってしまう。この世の現象は円環的である。
 円を、その円と同一平面上にあり、その円と交わらない直線のまわりに回転して得られる曲面の運動をする。トーラス
(torus)である。輪環面であり、ドーナツ面である。
 神霊の運動は円環的である。
 神霊体は光の実体からなり、本性は真理の実体からなる。
 この上を循環する以上、極端に走れば中庸を失う。

 中庸を失った結果、肉体は病み、魂は無自覚のままで無理を増し、胃袋は美食を求めてのたうち回り、国家は意見が分裂して内乱を引き起こし、家族は不和となり、こうしてあらゆる過剰が真理から遠ざける。

 一般人で、これまで修行をしたことのない人が、また、都会人が突如、山時間に慣れ親しんだり、山の空間に迷い込んだり、傾いた善行に奔
(はし)ったり、中庸を忘れることを始めると、危険な状態が起こり、結果的には悪行となってしまう。それは、あたかも高山病に罹るのとよく似ている。
 高山病は高山に登った際、気圧の低下、酸素の欠乏のために起こる症状である。心悸亢進
(しんきこうしん)・顔面潮紅・鼻血・悪心(おしん)・嘔吐(おうと)・耳鳴り・難聴、更には意識障害などを呈する病状だ。
 あるいは潜水病に似ている。ケーソン病である。
 この症状は、長時間気圧の高い所にいて急に通常の気圧の所に出た際、血中に溶け込んでいた窒素が気泡となって細い血管を塞ぐために起こる疾患である。これに罹ると、筋肉や関節の疼痛を覚え、めまい、四肢の麻痺などが起こる。
 高山病も潜水病も、急激な変化に伴う急性症状である。
 これと似た症状は、神域や霊域と言われる場所でも起こる。
 素人が、いきなり高い山に登ったり、深い海の底に潜るようなものだ。此処に現れる症状が恐ろしい。礼儀知らずが遣るから恐ろしい。何事も無知で遣るから恐ろしい。
 極端な変化に興じないことだ。

 極善が来れば、それは一変して極悪に変化する。
 宇宙は中庸を成立させて拮抗を保つ働きがある。したがって、何れかに極端に傾いた場合、そのバランスをとろうとする。
 拮抗の摂理から考えれば、善と同じ分だけ、悪も存在していることになる。作用と反作用ゆえのことである。
 拮抗を失って何れかに極端に傾けば、次に平衡が起こる。あるいは均衡が起こる。中庸を取ろうとするからである。

 願懸けも祈念も、自分のためだけに行われれば、それは均衡の揺り戻しによって、その反復だけ、願懸けも祈念も禍
(わざわい)となって跳ね返ってくる。
 痩身祈願も恋愛祈願も、蓋を開ければ自分だけの祈りでしかなかった。自分だけの祈りは、自分だけの神しかでて来ない。そして、自分の神と思っていた神は、実は神などでなく、低級なる動物霊というのが実体だった。狐狸
(こり)の類である。
 現代はこの狐狸の類を引っ付けて、低級なるものに憑衣されているとも知らず、また自分が人生の畸形化の禍を受けているとも知らず、徘徊している人が多いようだ。



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