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波瀾に生きた私の履歴書 3

わが流の『五輪の魂』という道場歌の三番の歌詞に、「想いは遠く故里(ふるさと)の たなびく雲の山の際(ま)を 夢を通(かよ)わす 武士道の 沈む夕陽に明日を待つ」というのがある。
 夕陽には在りし日のことを偲
(しの)ばせる魔力がある。人間は一時期、その魔力に酔うことがある。いつまでも酔っていたいような、母親の胎内の快い羊水の中に浮んでいたいような、そんな想いを夕陽に馳せるのである。
 そして、そこには哀愁が漂っていると言えるだろう。同時に哀愁は、死者に対する哀惜の念であるかも知れない。



●成仏とは迷わぬこと

 “山高ければ谷深し”という。
 波乱万丈の人生とは、そう言う荒波に揉
(も)まれる人生のことである。
 振り返れば、私の人生はそう言う人生だったように思う。理解者を求めての旅だったようにも思える。金の草鞋
(わらじ)を履いて探しまわった。
 難解なことに挑めば、当然そうなる。
 無から有を作り出すことをしても、また然
(しか)りである。

 何かを作り出し、何かを新たに生もうとすれば、その人生は波瀾万丈に尽きる人生を辿る。振幅も大きくなる。人生で格闘することを余儀なくされる。
 山が高いだけに、落込む時の振幅は大きく、沈む時の大きさは、ただの谷底ではなく、まさに「ドン底」である。とことん落ちて行く。このドン底に何度落ちたことか。
 再起不能とまで思われるところまで叩き落とされた。
 そして私の波瀾万丈の根元を考えた場合、そもそも伝承の時点に問題があった。貧者の嘆きである。

 伝統武術を伝承する場合、その家督相続においては土家屋並びに先代が築き上げた道場という建物も併せて、その流派に伝わる道統の印可や秘宝などを相続するのであるが、私の場合は名称の伝承であり、物質的な物件を相続した訳ではなかった。こうしたものはゼロからの出発を余儀なくされ、自身で創らねばならなかった。
 つまり無から有を創造することであった。
 しかし、無一文から有を創造することは容易なことでない。無から有を造り出そうとするからだ。

 情熱だけではどうにもならない。時を得ることも必要だろうが、信念も要
(い)り、想像を絶する生みの苦しさが付き纏う。筆舌に尽くし難いと云っていい。
 そしてこの創造に対し、私は五十年以上の歳月を費やした。長かった。
 道場一つ創るにも、そうした相続する物は元々無かった。そんな物件はなかったのである。一切が自前で、自分で、自力で用意しなければならなかった。自立心が無ければ出来ない。自力更生の自前主義が必要である。
 道統を得て、自前で創る羽目に陥ったのが、弱冠十八の歳だった。大学に入学した頃である。
 無一文から道場建設に心血を注がねばならなかった。

 私の生まれは卑しい。大した生まれでない。貧乏人の小倅
(こ‐せがれ)だった。
 父親が八幡製鉄の底辺の職工という家に生まれた。その程度の生まれであり、その程度の生まれでありながら、父親は私が中学三年のときに早々と死んだ。
 残されたのは、母一人子一人というのが、その後の私の家の運命だった。
 前々から、人生高々五十年を口にしていた父親は、私が十五のときに死に、その後、私は自力で運命を切り拓かねばならなかった。

 団塊の世代で、戦後直ぐの生まれは、この当時の十五歳としては中学で就職して行くものが大半の時代、私は何故かその気にならず、親が製鉄であれば、その子も製鉄に入れる当時の優遇制度があった。製鉄の職工をしながら、夜は定時制高校に通うのである。そうして四年間在学し、高校資格を経て正式に製鉄社員になれる制度があった。しかし、私がこれに甘んじなかった。自力で高校進学を果たした。

 朝、新聞配達と牛乳配達を同時にし、その後、道場に行って朝稽古をし、それから学校に行き、帰ったら道場通いを行うが、道場の稽古は当時は朝稽古が中心で、人が休息に入る今日のような夜の稽古は余り重要ではなかった。その他色々な職業も体験した。
 当時は、午前中に稽古の重要性が置かれていたのである。
 人間の行動原理は「朝方にある」という古式の理念に基づいた考え方で稽古が進められていた。午前中こそ、また早朝こそ臨死体験を行う大きな意味があったのである。

 当時の稽古の中心課題は、「朝方に生命が蘇
(よみがえ)り、夕方に鎮(しず)まる」という思想が先行していたため、朝稽古だけが重んじられた。
 この思想は今考えても理に適
(かな)っていると思う。
 こうした稽古をした者は、夜に反復する稽古を「死に稽古」として死に体
(たい)を作るものだと敬遠した。
 これは古式の伝統を重んじる相撲の稽古を見ても明らかであろう。

 相撲は朝方の稽古を重んじる格技である。これこそが当時の弓矢の習いを受け継いでいる武門の伝統と云える。
 この朝方環境の中で、私は当時毎日稽古に励んだことがある。
 そして印象的なのは、大学受験の当日の朝、道場で稽古をして大学受験に向かったことだ。
 道場で猛稽古に励んだからといって受験に不合格になることは無かった。
 早朝の猛稽古に一時間や二時間打ち込んだからと言って、これに不合格になるようでは、その人間は大学に行くような才能は持たないというふうに考えた方がいいだろう。

 よく三流大学に行くと、試験の度に試験休みという制度を設けている体育会の部活があるが、あれなどは、事実無根の小癪さ諸作であり、試験休みを設けなかったからと言って、成績が低下する訳が無いのである。低下すれば、それはその学生が大学生を遣る才能が無いということになる。
 人の才能というのは色々であるが、やはり学問をするにも才能が居る。
 私はそのことを大学を卒業し、ある私大の非常勤講師をしていたとき、そのことに思い当たった。学問をするには才能が居るのである。その才能が無ければ教える側は如何に声を大にして熱狂的な授業をしても、馬の耳に念仏となる。殆ど聞く耳を持たないのである。その虚しさを嫌というほど思い知らされた。

 私の場合、自身に才能があったか否かは別にしても、高校も自力で出て、大学にも、机にかじりついてという意識を持たずに、とにかく大学までは自力で出た。
 世の中には、「俺は学問が無かったばかりに……」という“フウテンの寅”のような泣き言を云う人が居るが、あれはウソであろう。学問が無かったのではなく、学問をする才能が無かったのである。
 また、「家が貧しくて大学に行けなかった」などと云う人もいるが、あれもウソである。

 自力で大学に行こうと思えば、何処の大学にも行ける。学費が高ければ国公立に行けばよい。そこに入学出来ないのなら、その人は大学を出るような頭脳はしていないし、学問で世に立つ才能が無いからである。
 大学進学の気迫があるならば、奨学金制度も各種有り、富豪の援助者も居るし、また働きながらも出ることが出来る。

 私なども「働きながら」の口だが、アルバイトを必死で遣りながら……というほどのことではなく、ある意味で悠々自適さがあった。
 少しばかり頭を使えば済むことだった。
 同じ大学の級友が時給五百円の家庭教師をしている頃、私は時給一万五千円の家庭教師をしていた。昭和四十年代の頃である。
 世の中は結果だけである。努力したその過程は認められない。
 これが私のその当時の結論だった。
 刀屋を始めたのもこの頃だった。
 当時としては学生の分際で億単位の法外な金を持っていた。発想の転換とも云おうか。詳しくは語らないが、拙著『刀屋物語』などを参照して頂ければ幸いである。
 そして道場を開いたのが、弱冠十八の時だった。

 このとき幸運にも知遇を得て、北九州市八幡東区春の町にある豊山八幡神社の境内の一劃
(いっかく)にある、かつての古い能楽堂を借りることに成功し、此処を最初の道場とした。昭和四十年初頭のことである。
 此処を起点に、私の道場活動は始まった。
 開設時の道場開き当時、この道場で五十人の門人を集める音が出来た。大半は私より年長者であり、こうした一癖も二癖もある年長者を束ねて行くことは並大抵のことではなかった。海千山千の有象無象と言った大人であり、当時私は未成年だった。

 しかしこの当時、同じ大学に通う、学部は違っていたが福島某なる人物を師範代に向かえ、彼の巧妙な戦略と智謀によって道場運営の補佐役に招くことで、一時期、その後の運営は順調を極めた。
 思えば、彼は私の人生において、これまでに出会ったことの無い最高の人物であったのかも知れない。私は彼に影響されることが多かった。
 当時学年は同じだったが、彼は私より一歳年上の年長であり、補佐役として、また大東流という流派を束ねる軍師としては、いま振り返って見ても最高の人物だったように思う。そのうえ「切れ者」だった。

 この切れ者を補佐役として、あるいは戦略上の軍師として彼を向かい家らことは、その後のわが流の方向性と戦略において、多大な影響を与えた人間であった。
 今でも彼の影響は、わが流の随所に残り、また私の思考の一部の中に存在し、既に彼が去った今でも、「もし、この男だったらどのように考えるか」という、行き詰まった時の反芻
(はんすう)に当てることが出来るのである。彼について此処では詳しく述べないが、詳細については『我が修行時代を振り帰る』に詳しいので、一読を請う。
 そしてあれから約四十年弱の時間が流れた。


 さて、伝承にも物件や組織をそっくりそのまま先代から相続するのと、自分で一切を自前で造蔵するのとは大いに違うのである。私の場合は後者だった。総て自前で、ゼロから始めなければならなかった。
 自前でゼロから始めるという発想は、六十を越えた今でも新鮮に、鮮明に残っている。通り一遍のワンパターンの発想では、こうはいかないだろう。
 発想が枯渇
(こかつ)すれば先細るし、行き詰まる。
 その時の場合に応じて、手を替え品を替え、変化しなければならない。常道だけを見詰めていては先が見えない。生き残るには発想の転換が必要である。切り替えが必要である。

 人間は固定観念に捉われ易いものである。そうしたものを一新することで未来に光を見出すことが出来る。
 既成概念に囚われていては生き詰まる。道も閉ざされる。死に体に陥ってしまえば、それを捨てて新たな手を考えばいい。
 生きているということは「変化する」ことだ。
 個人教伝で遠方から人生を学びに来る人は、「変化の求道者」とも云える。
 故に、生き方を教えて下さいではなく、臨死体験を通じて「死に方を教えて下さい」となるのだ。此処に秘める意味は大きいものと思われる。
 今から先、こうした死に方を需
(もと)める人は絶えないだろう。
 世が高齢化社会に遭遇すれば、死から逃げまくる人と、よって以て死ぬことを辞さないことを求める人に分かれよう。現代人にとって、よき死を得るのはどうすればよいかが当面の課題になるだろう。

 では、よき死とはどういう死か。
 それは迷わないということであろう。
 かつて「迷わず成仏……」という言葉があった。
 これは人間が逆の意味で「迷う生き物だ」ということを如実にした言葉だと思う。迷うから悩むのであり、迷うから苦しむのである。迷いが苦悩の種になる。
 苦海に生きる人間の根源的な不幸は「迷い」であろう。

 では何ゆえ迷うのか。
 時代が後世に下るほど物質的には豊かになったからだ。
 一方で精神面は貧弱になる一方である。物に固執し、執着し、こだわった所以
(ゆえん)だろう。
 そして、このような結末を招いた現代人の元凶には、幸福の価値観を金品に求めたことからだった。形ある物に求めた。しかし形ある物はやがては消える。やがて有は無に帰する。今は形があっても、この世の物は還元する。元に還る。
 いまは誰もが物質的な豊かさを追い求める。
 物が豊かであることを幸福だと感じる価値観が生まれた。物だけの豊かさを求める人間にとって、今の世の中はかつて無いほどの満ち足りた表面的な幸福感で覆われているであろうが、それは単に表皮の部分に過ぎない。その幸福感は永遠のものでない。奪われる表皮的な幸福である。形あるが故である。形あるものは、いつか消滅するであろう。やがて無に帰する。

 現代の世を振り返れば、幸福と感じられる条件は整っている筈だが、何か足りないものがある。それゆえ幸福と感じられないのではないだろうか。
 それはあたかも、喉が渇いている人がボートで海原を漂っていて、周りは水だからいつでも喉を潤すことが出来ると思い込んでいるのに似ているのではあるまいか。
 周りは水……。辺りは水……。

 ところが、その水は喉を潤すことが出来ない海水である。
 海水は飲むことが出来ないのである。こう言う状況こそ、まさに現代の世の中である。物が溢
(あふ)れ返った世の中である。者が氾濫(はんらん)している。金さえ出せば何でも買える。
 しかしである。
 本当の幸福はそんなところには無かったのである。世の中に金を出しても買えないものがあった。兼ね出せ出せば何でも買えると思ったのは、現代人の思い上がりであった。金で買った物は金で失うし、やがて金すらも無に帰する。
 物質的な幸せとは、この程度のことであり、物を追い掛ければ人間は際限がないということである。海水を飲んだら、益々喉が渇くのに似ている。
 そこで、「これでは駄目だ」と気付くのである。
 精神的な価値観を需めて、今度は奔走することになる。

 さて、戦後の日本人を振り返れば、現代日本人は極端に精神面が未熟児化した。精神は全く白痴状態に近い。得た知識に反比例して、精神性は驚くほど幼稚である。
 その最たるものは正義の意識であり、また恥を知る意識である。更に勇気や誇りというものが全く欠落してしまった。
 親切に対する感謝の気持ちや、人への敬意や、自分より優れた人間に対する「畏敬の念」を全く持たなくなってしまった。恥や正義に対する意識を失ってしまった。
 戦争恐怖症が、本来の勇気までもを失わさせてしまった。知識で武装して、安全圏に逃げ込むことばかりを目論んだ。
 経済第一に考え、金持ちほど英雄視する気風が生まれた。同時に金品に対する優越感と経済優先意識が貧者を見下す傲慢を生んだ。そのうえ人間の表皮だけで見る眼しか持たなくなった。凡眼である。

 人間は本来「よりよき死」を需めて、人生を求道する生き物である。
 「よって以て死ぬ、何か」を需めて彷徨い、奔走する生き物である。
 私のその見解は、今でも変わらない。人は本来、死に場所を需めて彷徨うものだ。
 人の生死の長短は、元々は念頭になかったのである。ただ、「何によって死ぬか」が生きている間に問われ、死した後も、その人は「何によって死んだか」が問われる。長生きしたか、短命で終わったかは問題でない。

 長短に、人の人生が無関係なのは、吉田松陰の僅か三十年の人生を見ても明らかであろう。
 松陰は、人の一生を季節の四季に譬
(たと)えて、人間の一生を生・老・病・死の四期とした。
 この四期において、人間は変化し、成長し、それぞれの四期
(四季)を全うするのである。
 松陰は云う。
 「死は恐れるものでない。また憎むものでもない」と。
 此処に簡潔なる答えがある。

 松陰は弟子の高杉晋作の質問に対し、それを明確に応えている。
 晋作の「男子は如何に死ぬべきですか」という質問に対し、死生観を発見した松陰は、愛弟子に端的に応えた。
 「生きて大業をなす見込みがあるのならば、いつまでも生きれば宜しかろう。死して不屈の見込みがあるならば、何時何処で死んでもよい」
 これこそ死生観の発見に他ならなかった。
 要するに松陰は死を度外視して、本来なすべきことを全うすればよいのだとした。
 また松陰の、この示唆が、以降の晋作にとって重要な生き方となった。そして晋作の生き方は、また角度を替えれば死に方であり、つまり「よって以て死ぬ、何かを見つけた」ということになる。

 幕末から明治に掛けて、「道のために潔く死ぬ」ということが幕末期から明治期の武士の美学となり、逃げることを恥辱と考える人々が多く排出されたのは、松陰の説いた『残魂録』
(留魂録)にあるような、魂の燃焼に価値を見出した当時の日本人の精神支柱であったように思う。
 幕末の余韻
(よいん)を明治まで引き摺り、明治期においても、武士らしい恥辱に対する感覚が敏感だった人達が多かったのは、犬死にを避けて「不屈の見込み」に賭けた、死に場所を求めての奔走だったのである。

 松陰の『残魂録』すなわち「留魂録」は、一種の「永訣書」と看做
(みな)していい。死に逝(ゆ)く者の訣別の書である。死が側面にあっただけに格調高く書かれている。
 その中で特に印象深いのは、いま死と対決する心持ちを示していることである。
 松陰曰く、本来の安心は四時
(季節の四季)の循環は、穀物の収穫に譬えた死生観を語った章である。
 この中には「生と死の哲学」が説かれている。
 それによれば、今日、死を覚悟した自分は、心が極めて平安である。何の乱れも無い。動揺も無い。虞
(おそ)れも無い。静かな佇いの中に居る。
 これは季節の春夏秋冬に譬えるならば、四季をひと回りした最後の「冬の時期」に当たるものである。
 このように達観して書き始めを綴る「留魂録」は、農事に見る季節と重ね合わせている。生を繋
(つな)げる時間の少ない松陰にしては、見事な書き出しである。

 それによれば、春に種を撒
(ま)き、夏に苗を植え、秋にそれを刈り入れ、冬には収穫した穀物を貯蔵する。秋冬に至れば、人は汗を流した分の労働を歓喜に帰ることが出来る。その成果を喜び、穀物で酒を造り、また甘酒を造って村中の人に振る舞う。村中に歓喜が溢れる。これを喜ばしいことである、としている。
 そして松陰は、更に続ける。

私は今年で三十になった。
 三十の年齢を考えれば、まだ何も一事の成功を見ない年齢である。死ぬには些
(いささ)か早い年齢である。それなのに、この歳で死を迎えようとしている。
 これは穀物に譬えるならば、まだ花もつけず、実らない穀物の苗に似ている。
実らないで死ぬのは口惜しい限りである。
 しかし、私の身について云うのなら、今が花を咲かせ、結実の秋
(とき)だと信ずる。
このときに、何を悲しむ必要があろう。人生で一番晴れがましい時である。
 何故ならば、人の寿命というものは、物理的な長短とは無関係であるからだ。
 寿命の長短は決して定まっておらず、人それぞれである。穀物のように、必ず四季を巡らねばならないという訳ではない。

 敢えて云うなら、十歳で死ぬ者はその十年の年月の中に四季を在し、二十歳で死ぬ者は二十年の中にそれがあり、三十歳ならば三十年の四季があり、四十歳ならば四十年の四季がある。そして、五十、六十、七十、八十、九十、百と生きればそれぞれの中に四季がある。
 それにも関わらず、十歳の十年の人生を短過ぎるというのは、あたかもヒグラシをして、長生の樹木たる霊椿ららしめる、物理時間の比較であろう。
 また百歳をもって長寿と観るのは、霊椿
(れいちん)をしてヒグラシたらしめんとするようなものであろう。

 而
(しか)して、例えば百歳の寿命の者が八十半ばで死んだ場合、これは短命で終わったというべきであろう。また七十年の寿命の者が、七十年の満年を果たし、死したならばそれは長寿でめでたいと云わねばならない。何れにも天から与えられた寿命というものがあり、これを人間側が長いの短いのと論ずるのはお門違いである。
 私は三十歳の満年に到達した。四季は既に到達している。四季は備わった。花も咲き、三十歳の実を結んだ。
 ただ、その実が単なる籾殻なのか、あるいは粟
(あわ)であるのか、また麦であるのか、それは私の知るところでない。

 松陰は獄中で刻々と死が近付くのを感じていた。死と対決する時だった。生への執着と未練を断ち切らねばならない。
 こうした迫り来る死に対して、多くの人が頼ろうとするのは、差し当たり宗教であろう。宗教に帰依することにより、神仏に手を合わせ、自分の成仏を願おうとする。
 ところが松陰は宗教に頼らなかった。
 ただひたすら自らの知性と意志力と、これまでに悟り、発見した死生観をもって、死を克服したのである。それゆえ、遂に死生観を発見したのである。生死同根を観たのである。
 人の生死は表裏として一体をなしていたのである。

 松陰が三十年の人生で実を結んだ、その実は、決して籾殻などではなかった。立派な一粒の麦だった。一粒の麦は地に落ちて死なずば実を結ぶという、「一粒の麦」だった。そのことは以降の歴史が証明する通りである。

 人の一生には、それぞれの四季がある。その人生が結実に値するか、そうでないかは人それぞれである。
 ただ、死生観を発見し、それを見事に解決して死に往く人と、そうでない人に分かれるのは明白である。
 よりよき死とは、そうでない死である。
 仏道的に言えば、死生観を発見し成仏する死に方と、死生観が解決出来ないまま六道を輪廻するような迷いの生き方である。
 この場合、後者を選んだ場合、未解決であるのだから迷いっぱなしの人生を繰り返すことになる。優柔不断で決心がつかず、生死を解決することもなく生涯を終えることになる。それは再び六道を輪廻する迷いを繰り返す、終わりなき生き方と云えよう。いつまでも終焉
(しゅうえん)が迎えられないのだ。恐ろしき生き態(ざま)と云えよう。

 私はこれまで多くの人間を検
(み)てきた。
 人にはいろんなタイプがある。多種多様であり、十把一絡げとは行かない。それぞれに性癖があり、過去からの習気
(じっけ)を遺伝子の中に背負って、この世に生まれでてきている。大半は一筋縄では行かない。一癖も二癖もあり、思い込みと先入観と、昏(くら)い固定観念で汚染されている。大半は、また凡夫である。愚人である。賢人ではなく愚人である。

 ところが、その愚人である自分に気付いていないというのが、また「並みの人々」である。
 「並み」と云われる人々は、自分を買い被って賢人と思い込んでいる。今の世の中はこうした人で溢れている。バカが、自分でバカでないと思っているから実に始末が悪い。ご都合主義の現代は、こうした人が多くなった。
 世の中はまさに愚人によって動かされている。
 固定観念で汚染された性癖のよって、世は愚人で溢れ返っている。そして自己中になり易い。凡夫の世界ならば当然であろう。
 しかし、である。

 この凡夫の世界を横目に観ながら、少なからず真摯に生きる求道者が居る。真摯に道を求める人達である。よって以て死ぬ何かを求道する人が居る。
 この人達は精進の世界に身を投ずる少数派の人達である。
 私は少なからず、この少数派の人達と遭遇した。一つの幸運と考えていいだろう。
 何しろ少数派は、また求道者である。
 道を求めている。
 よって以て死ぬ、その道を求めてやって来る。そうした人との遭遇は、また心が触れ合う時である。

 私個人としても、気心の知れる人に会って嬉しさを感じる。
 心と心のぶつけ合いは、また心と心の触れ合う時である。そこには清々しいものがある。
 この触れ合う心に傲慢もなく、自惚れもなく、ただ素直に誰もが真摯である。世にはそのような本物の求道者が居るのである。
 逆にこうした求道者から、私は学ぶことが多い。真摯であるなら、それだけ学ぶことも多くなる。
 誰もが大人であるから、道理も通り、嬉しくもある。
 しかし、世の中は、大人の体躯をもちながら大人でない大人で溢れている。一番がっかりする遭遇の瞬間である。大人でない大人は、どうも宜しくない。発想が幼児的であるからだ。こうした幼児大人とは出来るだけ関わりたくないのである。

 私が十八歳より道場を開き、これまで組織造りに奔走し、心ある人を発掘しようと考えたのは、真摯なる求道者を求めてのことだった。
 求道者に出会うことにより、私は救われたこともある。
 教える側が、教わる側から、逆に道を教えてもらうこともったのである。
 この関係は、先生と生徒の関係でなかった。
 本来は師匠と弟子の関係で、一方的に教える関係と思いがちだが、教えることを通じて教えられることもあるのである。教えることで、また学ぶのである。
 それゆえ私が生涯学徒で居られるのである。私は、老いても自身が学徒である気持ちを忘れない。一学徒でいい気持ちが常にある。あらためて自分が修行者であり、学徒であることを思い出させてくれるのである。
 個人教伝には、こうした人が多い。
 教えることで学ぶという体験は、直伝を通じて始めて叶うことで、その他大勢を相手にする一斉指導では、とても得られない現象である。摩訶不思議な現象である。

 ゆえに個人教伝での門人と、道場通いの道場生とでは当然、求道のその意識の面で隔たりが出る。
 しかし、個人教伝に参加する全部が全部、真摯であるという訳ではない。
 人間である以上、欠陥もあり傲慢
(ごうまん)もある。思い上がりも、高邁(こうまい)な自惚れもある。自尊心も強い。
 ただし、全員の一致することは大半が情熱的であり、かつ熱心である。一生懸命である。
 大事に臨んで人を見下したり……、また参考までに……と傲慢な考えを持つ人間は殆ど居ない。自他同根で、道を教わりに来る。一般道場の道場生には観られない現象である。使い捨てで終わらない人である。
 それゆえ教える方も真剣勝負のステージに立たされざるを得ない。

 今から大方四十年前くらいのことであるが、関東
(千葉県船橋市)より岡本邦介氏が、私が道場に遣って来た。直伝の機会を賜ったのは、これが始めてだった。私のとって幸運だった。
 氏は当時、八光流柔術皆伝師範であった。これまで佐川幸義先生の大東流合気武術の門に居たという。
 この大東流の門に入るとき、当時は八光流柔術師範
(段位で云えば五段相当)で最初は入門を断られたという。理由は「修行が足りない。もう少し稽古を積んできなさい」と云われたそうだ。

 そこで八光流の皆伝師範に挑戦し、皆伝師範となった。
 再び八光流の巻物をもって佐川先生宅を訪れたそうだ。そこで、皆伝ということで始めて入門が赦
(ゆる)されたという。
 佐川先生の指導法は「一手式」というもので、「一手、金○万円也」という大東流独特の遣り方だったらしい。
 これは「一手教授」を受ける度に金○万円也ずつ払って行く、大東流独特の教授方法である。
 これを数年やっていたが埒があかず、今度は私のところに遣って来た。

 氏の奥さんの里が北九州小倉なので、奥さんの郷里に帰省した際に、かつて私がテレビに出ていたのを記憶していて、「北九州には大東流の師範が居る筈だ」ということで、北九州時代の私の道場に遣って来たのであった。そのとき面談の謝儀として「五万円の水引の祝儀」が包まれていた。
 つまり、大東流の伝統は教伝を受ける場合、「祝儀袋に水引の掛った謝儀」を納めるというのが、古くからの習いだった。この習いこそ、伝統武術の伝統たる所以である。

 このときに、一般の封筒や茶封筒などで祝儀を払う無礼者は居なかった。こうしたことは無礼に当たった。
 必ず水引の掛った祝儀袋に謝儀を入れて納めるのである。こうした為来
(しきた)りが、古流には古くからあり、この礼儀正しさをもって礼を心得ているというのである。今ではすっかり廃(すた)れてしまった礼儀作法である。
 こうした伝統は重んじられなくなった。
 それゆえ、個人教伝に来る人は既に他流の教えでこのことを知っており、金を裸で出したり、茶封筒で出すという無礼者は一人も居ない。必ず水引の掛った祝儀袋に入れて奉じるのである。

 これは謝儀を払うというのではなく、これを謝儀として師匠に奉じるのである。その意識が非常に強いのである。
 これは個人教伝の人達に観られる独特な作法である。各流派の幹部クラスになると、その辺のことは心得たもので、これは教えを乞う者の最高の礼儀であった。
 しかし、こうした作法は道場生には存在しない。
 道場生はどちらかというと求道者ではなく、単なる会員である。
 謝儀を単なる会費とか月謝として、また対価として、資本主義のシステムに準じて支払っているだけである。奉じるという意識は皆無であろう。
 この辺の意識も、個人教伝門人と一般道場生とは大きく異なっているのである。

 当然、根本的な意識も違うから、その上達ぶりや人格の面にも開きが現れる。熱心さも真摯さも此処に極まり、意識と考え方に高低の生まれるのは当然だろう。次元が違うのである。
 それゆえ個人教伝の門人たちは誇り高い。それだけに自信もある。余裕が違うのである。おおらかである。
 また、人間的にも経済的にも余裕がある。これは決して金銭的に裕福であるということではない。

 個人教伝のメンバーを分析すれば、確かに誰もに共通することは資産家であるが、切羽詰まったり、あくせくとしていないのである。おっとりもしていないが、それなりに緊迫感と緊張感を持ち、意識しない緊張が疾って居て、あたかも往時の武芸者を彷彿とさせる。
 本来、武芸者とか、悟道の学徒というのは、こう言う人を云ったのかも知れない。
 水呑百姓的なサラリーマンから、こうした余裕は生まれない筈である。
 そして面談・面会し、謁見する度に感ずることは、穏やかな風貌に物怖
(もの‐お)じせず、往時の高貴さを感じるのである。会っていても、こちらの方が頭を下げたくなる。人柄というより、そうした星の許(もと)で生まれた人なのであろう。検(み)ると、いい人相をしている。

 かつて、はじめて岡本さんに面談したとき、何事にも固執しない、また、こだわらない大らかな人物像に意外性をもち、世人とは一風変わった無欲さを感じた。金にあくせくしないおっとりとした人だった。
 八光流の技がどれほど出来るか知らないが、近年稀に見る高貴の生まれの人に観られる、無欲さを感じたのである。武芸者にはいい人相だった。
 以降、この御仁は千葉から毎週一回、競馬場の厩務員という仕事の傍
(かたわ)ら、熱心に北九州まで足を運んだ。土曜日に来て、わが家で一泊し、翌日の日曜日の午後に帰って行った。

 かつては競馬場の厩務員と云えば、昔で云う「馬丁」である。ヤクザやゴロツキのような仕事と思われていた。昭和四十九年から五十年代に掛けて、世間ではそう思われていた。
 ところが、岡本さんにそうした卑しさは無かった。
 金銭にこだわらない人であった。金のことに、つべこべ言わない人であった。金銭感覚が無いといえば失礼だろうが、金銭に物怖じしない人であったことは確かなようである。その意味で、サムライを感じた。
 確かにこの御仁は、経済的には裕福とは云えないが、心に玉
(ぎょく)を抱いた富貴の位(くらい)を感じたのである。これが岡本さんとの最初の出遭いで感じたことだった。金銭にこだわらない人であった。それは実に異様に感じたのである。始めて観る異人種だった。

 ところがこの異人種は、その後の個人教伝の門人を見て、岡本さんに限ったことではなかった。個人教伝の求道者は、共通した意識を持っていたのである。
 ことことは私如き、卑しい子弟の出である人間には、凄く高貴の思えたのであった。
 岡本さんの学んだ、また私が教えた儀法は、希望通り柔術全般だったが、どこまで会得したかは定かでないが、本人は熱心に覚えようとしていた。
 ちなみに岡本さんが入門を許された昭和四十年代後半の時代、入門を請い、それが赦
(ゆる)され許可が叶(かな)うには、単に本人が参上し、履歴書と住民票と印鑑証明を提出するだけでは入門は叶わず、他に保証人二名を付けなければならなかった。そして保証人の住民票と印鑑証明と推薦するために念書が必要だった。

 当時は、入門は厳重を帰したのである。金だけ持って入門を請えば、簡単に赦されるというものではなかった。
 こうした厳格を帰する入門審査は本人の情熱と真摯さと意志力を試すための第一歩のテストであり、これは危険な技を教える古くからの古流の為来りであった。
 その数年後、私の初の皆伝師範免許の伝授となった。これは終了したのでなく、今から西郷派大東流を始めるための、やっとの思いで入口に到達したスタートに過ぎなかった。それを言い含めて上で、皆伝を許可したのである。

 そしてあれから考えて、約四十年弱の歳月が流れた。
 皆伝者は、未だに岡本さんただ一人である。
 個人教伝を受ける直伝に近い者も居るが、その域までは達していない。
 況
(ま)して、道場生出身では皆無である。その気配すらない。
 彼等の多くは趣味の範囲で、健康への寄与に満足する人達で、私はそれ以上のことは需
(もと)めて居ない。みなアマチュアである。しかし、アマチュアであっても素人ではない。それなりのことは心得ている。彼等は何処までも道場生であり、道場生の域を出るものでなく、アマチュアであっていいと思う。また、アマチュア以上のものも求めない。
 何しろ、時代が違うからである。思考の違いもある。

 個人教伝の修行者は、つまりあくまで修行者であり、また学徒であり、修行し、学ぶことを最終目標に掲げた人達である。
 道場生全般に観られるような、単に健康法とか趣味の範囲とか特技の範囲で習得をしている人でなく、彼等の目的意識は生涯修行がその本義である。この意識は前者に挙げた道場生との修行の方法と考え方の違いである。
 彼等は修行に準じるために「脱皮した人達」と云えるだろう。
 それぞれの流派の高段位を極め、それでもなおかつ自身の未熟を感じて、自らの意志で参集した人達である。生涯修行者なのだ。
 わが流には門人と道場生という、二種類の隔たりを持った人が居る。双方は平行線を辿りつつ、永遠に交わることはないだろう。何故なら求めるものが違うからである。

 さて、有段者対象の『武義録』もかなりの回数を重ねた。
 重ねる度に何かを発見したのか、あるいは見過ごしたのかは知れないが、また、それはそれで同好の士の教本になれば幸いである。

 本書は平成25年1月発行の『武義録』の「私の履歴書」に掲載されたものである。この年度の武義録欄には、かつて学んだ当時の経験を踏まえて掲載した次第である。しかし、これが総てではない。
 以後、機会があれば連載して行くつもりである。


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