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波瀾に生きた私の履歴書 2

水のように雲のように淡々と流れる。一切にこだわらない。人間はこだわりを捨てるために修行するものである。こだわることは「囚われている」ことである。そこに自由などない。頑迷さがあるだけである。固執があり拘泥があり、こだわれば遂に雁字搦めとなって、いつまでもそこから抜け出せなくなる。また、そこから「迷い」が生まれる。
 滔々と流れる水のように、さらりと流れて行きたいものである。


●陽明学の知行合一

 陽明学では、知ることと行うことは同義であると説く。
 何故ならば、知行合一は「知っていること」は、「行うこと」により、それを知っていると解釈するからである。つまり知っていても、行わねば知っていることにならないからである。
 例えば、教科書の何ページに、何が書いてあるか知っていても、その知るという範囲だけで行動が伴わねば、知っていることにならず、単に、記憶に留めていることになるからだ。
 記憶の範囲で、行動が伴わねば、「まこと」を尽くすことも出来ない。「まこと」は、実践を要
(かなめ)とする。
 陽明学は実践学問であり、「まこと」を尽くす「まごころ」が生まれた。ここに陽明学の行動原理があり、これを王陽明は「知行合一」と名付けたのである。
 また、この行動原理を実践する過程で、「事上磨錬
(じじょう‐まれん)」が生ずることを教えた。
 事上磨錬は単なる観念論ではない。此処が他の哲学とは違う。
 観念的にではなく、実際に、事に当たって精神を錬磨することを指すのである。
 例えば苦難に遭遇したり、窮地に立たされたり、進退窮まり土壇場に追い込まれても、逃げずに、これを一つ一つ解決することを説いたのである。その解決に当たり、根本に備わっていなければならないことが「まこと」であり、「まごころ」であった。至誠を尽くすことを教えたのである。
 「まごころ」は行動によってなる。

 人間の行動原理は、「まごころ」によって感化を与えることが出来る。
 つまり「まごころ」とは、また「まこと」である。両者は同義である。「まこと」を実戦する学問が、つまり陽明学だったのである。ここに学問の革命的な側面がある。
 わが大東流も、「まこと」の実践だった。
 「まこと」を行動に表す武儀であった。
 「まこと」の実践には、師匠と門人の一対一の真剣勝負であるが、真剣である以上、「まこと」のぶつけ合いでなければ勝負を競えない。
 一対一の教伝を通じ、直なる「直伝」を通じて「まごころ」の域を通わせ、一対一の修羅場を展開した。これが本来の教伝の意味である。
 この意味を知る者は、わが流では、皮肉なことに内より外の理解者が多い。

 外の理解者たちは、これまでそれぞれに他流で、その奥義を究め、その礼儀をもって個人教伝の真摯
(しんし)なる態度で、わが流の門を叩く。新鮮なものを需(もと)めて門を叩いた人である。決して興味本位ではなかった。
 そのうえ「礼儀の何たるか」を心得た人達である。思慮深い人達である。学生気分の、ざわついた一般道場の道場生とは、全く違った高い次元の道徳とマナーをもっている。
 そして門人と道場生の違いも、ここにある。
 真摯かつ、真剣であるから、同然学ぶ方も命を張る。修羅場を見る。決して安全圏に逃げ込んだり外野から物を云わない。真剣勝負をする当事者になり得る。
 決して興味本位や遊び半分、あるいは参考程度といった軽いものではない。
 生きることに命懸けを学び、死ぬことを「よって以て死ぬ、心の拠
(よ)り所」として捉える。常に、心の中に頽廃を掲げ、また懐の中に決して奪われる事のない玉(ぎょく)を抱いている。富貴の玉だ。

 古来より、東洋では「富貴は天にあり」と言われてきた。
 つまり、それだけの高き誇りを以て、外の弟子に玉
(ぎょく)を抱く人が居たから、その支えによって師匠と弟子の真剣勝負が出来たともいえる。
 人は、心ある人は、そうした真剣なる出遭
(で‐あ)いを通じて「よって以て死ねるもの」を探しているのである。これは、現代には貴重なものである。
 その貴重なものを逸早く見つけた人達であった。
 ここで言う玉は、物質的なものでない。宝石の類
(たぐい)を言うのではない。あるいは硬玉や軟玉の併称ならびに白玉や翡翠(ひすい)更には黄玉の類をいうのではない。
 我が心に抱くものである。精神的支柱である。
 そして、そこで学ぶものは、一般道場の一斉指導とは異なる、臨死体験の修羅場の地獄を覗きに来る。真剣勝負は臨死体験を学ぶことを抜きにして体験することは出来ない。精神性がそれだけ深いのである。
 そうしなければ、彼等の死生観は解決しないからである。
 臨死体験を学ぶ者に、横の連帯も同格の意識も無い。存在するのは臨死に対する地獄を知る恐ろしさの度合いだけである。
 この度合いは、縦の高低で繋がって居るだけである。
 人、それぞれに死に対する考え方が違うからである。

 死を理解する人は、常に死と背中合わせの緊張ある生き方をしているし、死が理解出来ず、自分の死を遠い先の対岸の火事のように捉えている人は、自分の死が現実的なものでない。自分の死でも他人事となる。
 陽明学は、このことをきつく戒めているのである。
 まさに知行合一の度合いは、人によって違い、そこには次元の高低がある。
 したがって、実際には門人同士は面識が無い。
 門人はただ自分の師匠に繋がった、厳密なり意味の一親等門人を本来は門人と呼んだのである。
 つまり、道場通いの道場生を指すものではなかった。
 この意味で、この武術集団は、本来の街道場とは異なる指導形式を伝統にしてきたのである。
 勿論私もこの伝統に則り、直接に師匠と繋がる稽古を遣って来た。

 先代の師匠は実に厳しい人だった。
 更に、少しばかりクレージーな人だったので、この人の稽古を受けるのは並大抵ではなかった。これをユーモアと云えなくもないが、ユーモアと解するには少しばかり道化が過ぎる。この御仁
(ごじん)のイメージは、私の著書『旅の衣』などから汲み取って頂ければ幸いである。
 一風変わった、奇人と言ってもいい人だった。奇人だけに要求することは熾烈
(しれつ)である。

 当然そうなれば、稽古自体は猛稽古となる。
 怪我したり、あるいは運悪く死ぬようなことがあっても、それは稽古を受けた本人の自己責任となる。決して師匠の責任とはならない。この責任の取り方も、今日とは随分と違うものである。今では全く通用しないことである。
 しかし昔は、昭和三十年代、四十年代は当り前だった。
 これに不平を洩らしたり、文句を言う者は居なかった。また親もそれを覚悟して子供を道場に送り出していた。

 道場での怪我や死亡事故は、道場自体に責任は無かった。門人の未熟に責任があり、それだけが問題にされた。責任追求などと、そういう愚痴が洩れれば辞めるしかないのである。また、そこまでの覚悟が無ければ臨死体験は実際のものにならない。
 「汝
(なんじ)自ら参じて知れ」が、当時の教伝方式であり、今日に見られるような大学のサークルなどや部活で見られるそんな甘いものではなかった。その厳しさは、ヤワな強化合宿などの体罰程度の軽いものではなかった。
 昨今は、どついたり、ビンタでも喰らわせようものなら、直ぐに訴える人が殖えた。今は何でも告訴の時代である。
 ところが、昭和三十年代、四十年代はそうではなかった。師も真剣らら、弟子も命懸けであった。命懸けで構えていなければならなかった。隙があれば打たれるのである。
 とにかく厳格を帰した。
 恐ろしいほど厳しかった。
 臨死体験を体験するには覚悟がいるのである。本当の覚悟とは、そういうことを言う。真剣勝負に「訴え」は通じない。間違えば死ぬだけのことだった。それを覚悟して、門人は求道者
(ぐどう‐しゃ)となるのである。
 かつて、わが流は求道者の集団だった。

 昭和三十年代のことを語れば、技術面だけでなく、精神面も重視されていた。精神面で最も重要なのが「観察眼」だった。見逃しや聞き逃しが出来ないのである。こうした失態をすれば罵倒が飛んだ。
 私が若い頃、とは言っても昭和三十年代から四十年のことであるが、この当時の古い形体と古式に則る伝統武術は今日では筆舌に尽くし難いほど過酷であった。徹底した猛稽古だった。地獄を見る思いだった。猛稽古に猛稽古という感じだった。
 だがこの猛稽古も、シゴキとは違った。
 シゴキの場合、多くは意味の無いものである。

 かつて戦前・戦中、日本が陸海軍を持っていた軍隊時代が存在したとき、この軍隊は問答無用という無意味なシゴキがあったと言う。ビンタは勿論のこと、中でも海軍の、初年兵の水兵や、予科練や兵学校の生徒をしごく「尻
(けつ)バット」は有名だった。知りをバットで打ち殴るのである。遣る方も遣る方で、尋常な神経ではないだろう。幾ら、人体の尻の部位が鈍麻と云って、これをバットで殴るのだからまともな神経をしている者には出来ない所行である。
 この事実を当時、海軍特別幹部練習生だった作家・城山三郎氏は旧帝国海軍の恥部だと語っている。この恥部のために、氏は日本国の文化勲章すら辞退しているのである。

 この時代の兵役を経験した多くは、これらのシゴキを意味の無い叱咤として、今でも批判する人が居る。無意味な、愚かな、この程度の叱咤激励で戦争に勝てないことは明白だった。
 この批判の一つに、戦勝とは無関係な、上官の憂さ晴らし的な娯楽が含まれていたからとも言う。上官たちは初年兵や階級の下の者を集めて、連日、陰湿な叱咤をして自称「気合いを入れる」というものを遣って、この程度のシゴキを細やかな娯楽として楽しんでいたらしい。
 上官の言によると「士気の鼓舞だ」と云うのは真っ赤なウソで、まさしく陰湿なシゴキであった。無意味なシゴキは、しごいても勝ちに繋がらないのである。スポーツも然りだ。

 武器の貧弱をさておいて、単なる精神主義だけではどうにもならないのである。
 気合いを入れるなら、部下よりむしろ夜郎自大
(じだい‐やろう)な上官の方だった。更に攻めるべきは、戦争指導者として携わった陸海軍首脳部の無能な将官どもだった。
 昭和の陸海軍の将官どもは、日本を敗戦に導いた戦争責任を未だに償っていない。その張本人である敗戦責任の首謀者は、戦前・戦中は天皇の命令だと称して東洋平和だと抜かし侵略戦争を展開して敗北した上に、戦後は自決することもなく、天皇のお言葉で日本の発展のためだという理由を捏造
(ねつぞう)し、大企業や欧米の有力筋に結びついて、自らの我田引水を計り、戦後はのうのうと高級軍人の高額恩給にありつき、平穏で安楽な余生を楽しんだ。
 ウソが作り上げた敗戦国の極楽ならぬ地獄の実体だった。

 私が若い頃修行した時代、確かに命に関わるような危険を伴う猛稽古は確かに存在した。一歩間違えば即死というのは確かに何度かあった。
 しかし、これはシゴキではなかった。猛稽古である。
 シゴキと猛稽古の違いは、前者は愛情が伴わないが、後者は紛れもなく師の愛情が伴っている。士気を鼓舞するためである。あるいはネバー・ギブ・アップの精神を授ける。我が愛弟子を何とかしようとする師の親心である。不屈の精神を叩き込むのである。その愛情が講じて、時には激しさを伴う猛稽古となる時がある。手段であり方便である。これを上手く見分けなければならない。観察眼の大事も、単に見るだけでなく、深く読み解く勘が要る。感じなければならない。つまり、見るのでなく検
(み)るのである。察するのである。

 昨今は観察眼の無い者が多い。実に見逃しが多い。
 そこで観察眼の大事を説く。
 私は、よく内弟子修行者にこれを説いて廻った。観察眼の疎い者は、上達が遅いばかりでなく、日常の行動原理や仕事の中にも見逃し箇所が多い。
 これは便所掃除や風呂掃除、更には風呂の湯沸しなどを遣らせてみれば、その人間の能力と才能が一目瞭然となる。そして多くは、緊張感が足りないために見逃しをしている。
 風呂掃除や便所掃除を遣らせてみると、能力の乏しい者はその劣等が如実になる。
 風呂掃除の場合、風呂床のタイル部分は丹念に磨き、かつ洗い上げているが、壁などの付着したカビは見逃している。これを洗い忘れているのである。あるいは見逃しか、更に横着を噛ませて、風呂掃除は湯槽
(ゆぶね)と風呂床だけで終了すると思っているのか。
 そして最大の見逃しは、天井を全く見ておらず、天井にはびっしりとカビがこびりついている。
 人間は、下と左右の側面などには眼が行き易いが、なかなか上は視ようとしないし、上から攻めて来ることを見逃している。前方には警戒するが、不意打ちはいつも左右ばかりでなく、後方からも、また頭上からも襲って来るのである。特に現代人の上の見逃しは甚だしい。頭上からビルの窓ガラスの破片や天上板が襲って来るのは地震の場合でも明らかであろう。
 あるいは建設現場付近などを通行していて、建設資材が落下したり、建設機械が倒れ掛かってその下敷きになって死亡する事故もこれまでに多々起こっている。こうした事故に遭遇する人は、自分の頭上の警戒を怠っているのである。緊張感が無いからだ。あるいは心を他のことに奪われているのかも知れない。

 それに風呂の湯加減を検
(み)らせても一目瞭然となる。
 かつて武芸の世界では、「風呂の湯加減」を煩
(うるさ)く云った。湯加減を検る場合、この基本は「師匠より先に風呂に入ってはならない」という戒めによる。
 そこには「拝師の礼」があるからだ。更に「薪水の労をとる」という、師への介助も要求される。
 薪水の労をとるということは、早朝から夜寝るまで続く。師の床を延べるのも弟子の仕事だった。
 朝の洗面には師に付き従って手拭の用意をして介助し、次に調理を含む食事の用意、給仕、着替えの介助、外に出る際のお伴、そして道を歩く場合は随伴としての位置は原則として左後方である。左後方を随伴している時も、他行中の一切の気配の察知や他人への気配り、更には帰館してからの風呂の湯沸しとなる。
 風呂で最も大事なのは、風呂の湯沸しとされた。これは風呂掃除よりも優先された。入浴の介助も勿論のことだが、特に湯加減については煩く云ったものである。
 では、何故これが煩く言われたのか。

 湯加減を見る場合、湯槽に張ったお湯の温度を計る際、普通凡夫
(ぼんぷ)は、湯槽のお湯に手を入れて温度加減を検る。これは自分の躰の一部を湯に浸けたことになる。師匠より、自分の方が先に風呂に入ったことと同義だ。叱責されても当然である。しかし、この意味を解さない者が居る。手と浸けただけで風呂には入っていないなどと抜かすバカが居る。世の多くは、このバカだろう。バカだから、こうしたことも叱責しない指導者も多くなった。弟子の不手際を叱責しない指導者も居る。指導者も指導者である。指導者も、一種のこの程度のバカだからである。
 世の中は愚人で動いている故である。

 この世は愚人で動かされている……。
 しかしこれでは、自分が師匠より先に風呂に入ったことになり、こんなことをすると、直ぐさま激しい叱責が飛ぶ。武の世界では当然のことだ。
 師弟関係は厳しいだけでなく、厳密である。密なる秘事が多い。求道の世界では当り前のことだ。
 そこで手を用いるのではなく、手桶にお湯を汲み、手桶の中の湯加減を検る。こうすれば師匠より先に入ったことにはならない。こうした細かい戒めに従い、弟子は観察眼を一つ一つ養ったものである。

 また便所掃除を遣らせてみても、観察眼のある者と、そうでない者とは一目瞭然になる。
 便所で見逃しの多いのは、男子便所の下に落ちている陰毛である。多くの便所掃除初心者は、この陰毛を見逃している。ただ便器を水で流したという程度で、「便所掃除をした」と高を括
(く)っている。単に便器に水を流し、また床に水を流して、ただ洗い流したというのが、この程度の掃除しかし出来ない観察眼の疎い者である。
 検
(み)ると、何とも詰めが甘い。高が知れた、底が見えた“その程度の人間”と言えるだろう。
 小賢しい小手先の技が器用だったり、自称得意技が見事に決まったところで、その選手がそれだけの人間である。その程度の選手が、事件や自己に巻き込まれて無慙
(むざん)に命を落とすのは、その程度の観察眼しか持たないからである。

 やはり観察眼の善し悪しは、一種の人間の才能だと思う。護身能力とイコールであると思う。あるいは生まれながらの能力だろう。
 このように人間は一様でなく、生まれながらに能力の大小が定まっていて、それは「生まれを決定している」とも言える。護身能力の優れたものは、霊的神性も優れており、能
(よ)く命を護り、長寿である。長寿と護身能力は、また同義なのである。
 病気に罹っても死なず、感染症は勿論のこと、運命の危機からも見事に命を護ってみせるのである。肉体的な体力の体質が優れているばかりでなく、未来予知にも優れ、運命にプログラムされた最悪の事態から身を護ることが出来る霊的神性を備えているのである。

 墜落する飛行機には搭乗しないであろうし、脱線する列車には乗車せず、熱狂して将棋倒しになるようなスポーツ観戦や花火大会のイベントなどには出向かず、行楽地や観光地には旅行せず、崩落するトンネルの下は車を走らせないのである。それを無意識に、意図することなく簡単に遣って退けるのである。
 これは人知の作為によって危険を回避するのではない。肉の眼で判断して危険を回避するのでない。霊的に導かれて、無意識に、意図も簡単に遣って退けるのである。頸
(くび)を傾(かし)げた後に、弾丸が通り抜けるというように、である。
 しかしこれを能く検証すると、「人の集まるところには出向かない」という法則に則っているようにも思うのである。愚人の指向を避けているのである。人と同じことをしないのである。
 霊的神性が霽
(はれ)れ渡ると、“その他大勢の多数決現象”に靡(なび)かないのである。これこそが賢人の特徴である。

 墜落する飛行機には搭乗しないであろうし、脱線する列車には乗車せず、熱狂して将棋倒しになるようなスポーツ観戦や花火大会のイベントなどには出向かず、行楽地や観光地には旅行せず、崩落するトンネルの下は車を走らせないのである。それを無意識に、意図することなく簡単に遣って退けるのである。
 これは人知の作為によって危険を回避するのではない。肉の眼で判断して危険を回避するのでない。霊的に導かれて、無意識に、意図も簡単に遣って退けるのである。頸
(くび)を傾(かし)げた後に、弾丸が通り抜けるというように、である。
 しかしこれを能く検証すると、「人の集まるところには出向かない」という法則に則っているようにも思うのである。愚人の指向を避けているのである。人と同じことをしないのである。
 霊的神性が霽
(はれ)れ渡ると、“その他大勢の多数決現象”に靡(なび)かないのである。これこそが賢人の特徴である。

 また、流行やブームに乗ったり、占いに凝ったり、マスコミの宣伝に乗らないのである。物質的な、一時の慰安に決してほだされないのである。
 “その他大勢”の決定することこそ、実は危険であり“その他大勢”に従って、碌
(ろく)なことはないのである。それは確立された自己があるからだ。確固たる自立があるからだ。デマや周囲の群集心理で動かない。
 この世とは“碌なこと”は起こらず、“ろくでもないところ”なのだ。
 霊的神性が明確になると、「目から鱗」状態となり、まず人の群れるところに行かないようになるのである。先が見えるからだ。見えない者が、不慮の事象に遭遇する。

 これを私は「生まれの違い」と云っているのである。
 生まれの違いは、殿上人
(てんじょう‐びと)に見られるような、何も歌に興じ、和歌が詠めるか否かではない。和歌が詠めても、疎い者は詰めが甘いのである。
 血統から来る血の繋
(つな)がりとは、その程度のものだ。
 やはり霊統が物を言うようだ。血に対して霊が存在する。
 人間は血統だけではなく、最も肝心な霊統で繋がり、その関係は才能と能力を、血統以外に引き継いでいるものである。

 観察眼の鋭い者は、その道で功を為
(な)すばかりでなく、仕事の世界でも大いなる能力を発揮することであろう。更に部下の使い方も並外れて上手いであろう。気配りが利くからである。
 よく「細心大胆」などというが、細かなことに気付き、細かなことを積み上げて行くから、いざというとき大胆な行動がとれるのである。細心な心なくして観察眼が鋭いとは言えない。かつては観察眼は武芸者の必須条件とされた。
 而
(しか)して、掛り稽古一つをするにも、やはり観察眼が要るのである。
 動きをよく見て、どのような攻撃で反撃されるか、それを見抜いていなければならない。受けは、取りの心理を巧みに読み、どのように料理されるか、躰から出ている殺気を読み解いていなければならないのである。受けは、取りの意のままに掛け捕られるばかりでない。取りの作為すら見抜かねばならない。そして、起こるであろう危険を察知する。数秒後の殺気を読む。
 本来の掛り稽古の目的は、実に此処にあった。殺気を読み解くための基本稽古だった。
 ところが昨今は、掛り稽古は単にマラソンの延長のようなダラダラとした動きのものになっている。短距離の全力疾走ではない。体力を計算して温存する練習やトレーニングに変わっている。これでは厳密な意味で稽古ではない。体力温存のためのランニングである。ランニングでは、相手の殺気を読み解くことは出来ない。不意打ちは思いがけない瞬間に起こるアクシデントには対応出来ない。無意味なトレーニングで終わる。

 そうならないために、かつての掛り稽古は“突き蹴り有り”だった。掛り稽古のときに「当身」が飛んで来るのが当り前だった。
 不測の事態を想定した臨機応変の対応が要求された。
 この基本に観察眼があり、同時に根底には「不屈の精神」を授ける、師の愛弟子に対する親心があった。今の時代にそぐわないが、ネバー・ギブ・アップは、こうして養われた。
 特に、この猛稽古は「掛り稽古」というメニューの中に登場して来る。
 掛り稽古は、師匠ならびに先輩格の四天王や八天狗と称される人に、掛って行く稽古であるが、この掛る場合に必ず目上の手首か、道衣の上の肩か、その他の部位を掴むことで、この稽古は成り立つ。そこを掴んだ瞬間に投げられたり、倒されたりするのである。
 ところが、明らかに掴むという行為の中に、それを見込んだ当身技の蹴りや突きが飛んで来ることがある。
 掛り稽古は、半ば突進して掛ることを旨とする。
 その突進して来るときに不意を喰らって、思い切り腹を蹴られたり、顎
(あご)か喉(のど)に頸輪擬きの掌底(しょうてい)を突かれて後方に顛倒(てんとう)するのである。
 掌底は一撃必殺の突き技でないだけに、柔らかくズシンと重く、頭蓋
(ずがい)に衝撃波のようなものが疾(はし)るのである。単に顛倒するだけでなく、脳震盪を起こす場合もある。それでも頭を振って立ち上がり、猛烈な突進を行う掛り稽古をしていた。

 骨折も屡
(しばしば)だ。
 私の場合、腹から胸へ掛けて蹴られて肋骨
(あばらぼね)を折ったことがある。それでもその部位を道衣で抑えて掛って行った記憶がある。痛さは筆舌に尽くし難いものだった。掛り稽古が終わるまで、治療はしてもらえないのである。昔は一旦稽古が始まれば、途中で怪我をしても中断されることは無かった。杖か棒で、眼の縁を突かれた時も同じだったし、剣術の際、木刀で右の篭手(こて)を討たれて、腕を骨折した時もそうだった。自分でも貌が青ざめ、額から冷や汗を流しているのが確認出来るほどだった。それでも稽古は中断されないのである。
 一言で云って「恐ろしい稽古」だった。恐怖を感じ、地獄を見る……そんな稽古だった。

 わが流は、昔から剣術の稽古は木刀を使っていた。木刀が基準であった。それも軽い赤樫や白樫ではなかった。木刀の中では粘りがあって折れ難く、一等も二等も重い“枇杷の木刀”が使用されていた。
 枇杷の木刀で急所の部位を討たれると、その重みと粘りで、受け損なうとよく骨折をした。両腕は勿論のこと、胴がガラ空きで隙だらけであれば肋
(あばら)などは簡単に打ち砕かれたし、脛を討つことも当然の稽古としては「有り」だったので日常茶飯事のように行われていた。脛骨なども度々骨折することがあった。
 しかし骨折したからといって、休ましてくれるようなことは無かった。動かせるところを動かして、修練するように命じられたのである。修行に手抜きは赦してもらえなかった。

 古流でも、セーフティー防具や剣士防護の得物として、古くから袋竹刀や、三八、三九の一般剣道用の竹刀が用いられた居たが、わが流にはそんなものは無かったし、使用もしなかった。また、それを使用して欲しいなどとも願わなかった。
 極
(ごく)当り前のように木刀を使用していた。木刀でも、一番重くて粘りのある枇杷の木を使用していたのである。枇杷の木刀はスヌケや樫の木刀より粘りがあり、簡単には折れない。どの木刀よりも強い。
 だが近年、枇杷の木刀は、枇杷の木自体が少なくなり、希少価値だけではなく、噂だが、打ち据えられると打ち据えられた部位が腐るなどの理由で、この木刀はいつの間にか発売禁止となり、危険という理由から、武道具用品から消えてしまったのである。
 枇杷の木刀だったら、それだけで対戦相手を死に至らしめることも出来るのである。既に立派な武器であった。それだけに軽い樫の木刀より強力だった。強力なるが故に発禁となったようだ。
 命を護る最も有効なものが、次々に廃止されて行った。当時はセーフティー・スポーツの発想が無かったが、逆に安全過ぎて危険に早く立たないのだから、時代も変われば変わるのもである。

 往時の人々は、本当に厳しい稽古を積んだものである。
 人間は鍛える厳しさのランクを落とせば、必ずヤワになる。ナイーブやデリケートでは駄目である。ひ弱では役に立たぬ。武術修行には適正でない。
 これを嫌うために、自分にも厳しい修行を課せ、精進に精進を重ねたものである。自他ともに厳しかった。
 しかし、これは明らかにシゴキの類
(たぐい)とは違っていた。生き残るための、生きて行くための人生教訓の伝授であったように思う。人間は、安易に自ら命を絶ってはならないのである。
 私の場合、若い頃に仕込まれた人生教訓が、いつの間にか自分のうちの家訓になっていた。後になって考えてみれば、「苦中に楽あり」の実践版だったように思う。

 しかし、わが流は昭和五十年半ばより、そう言う古い時代の遣り方では人は蹤
(つ)いてこないということで、指導方針が一部変更され、特に進龍一が北九州より習志野に出向き、関東方面での切り込み隊長として派遣されて以来、これまでの指導方式は、道場生一斉方式に改められ、誰でも親しめるものと変貌した。
 厳しいものから、親しめるものへと変わった。気楽なものへと変わった。同時に厳しさが失われた。
 かつての、わが流の信条は易より難であった。それが、この頃より、難より易へと変わった。墜落の第一歩であったかも知れない。
 四天王・八天狗は一掃されたからである。同時に、道場生の中からは求道者が現れなくなった。

 本来の易より難への修行が一掃され、辛いものが甘いものになり、誰にでも親しめる健康法や趣味のレベルの簡単なものへと変わった。一子相伝の厳しさが消滅し、学生気分の、愉しく気軽な甘いものに変わった。底辺の裾野を広げたからだ。
 大衆化と堕落の第一歩であり、求道者が姿を消した。
 道を求める人は、個人教伝に頼るようになり、本来の求道が有志に頼るようになったのである。

 思えば、これがいいか悪いかよく分からない。いい面をあったし、悪い面も出た。
 単刀直入に云えば、現代人の甘さに歩調を合わせたというべきである。
 辛い修行から、誰でも親しめる簡単なものへと変化したのである。簡素化されたということである。
 しかし簡素化されたと言っても、深淵なるものを失ったのではない。奥に通じる深きものは、現実に教えないだけで存在はしている。
 私のモットーは教えないことにある。秘密は秘密でなければならない。公開し、大衆化すれば研究される。昔から能く云われたことだ。
 思えば、この流派は「教えないこと」に、大きな特長があった。

 汝自ら参じて知れ……という以上、その指導方法は当然教えないことに尽きる。教えないことを旨とした。
 また、そもそも人殺しであるこの武術を、そう簡単には教えられる訳がない。教えるのは危険の無い箇所であり、人の死に通じる危険な箇所は、総て排除して簡素化しただけのことである。この簡素化により、考え方と行動が甘くなり、あるいは誤解が生じたのかも知れない。伝統が簡素化により崩れることもある。
 特に高次元な危険な技ほど、護身術としては大きな価値があったのだが、危険という理由だけで排除され削除された。それを懸念して、解る者が密かに集ったのが、個人教伝の受講者たちだった。

 彼等は臨死体験を需めて止まなかった人達である。
 また彼等は、履歴書と住民票と印鑑証明を揃えて、わが尚道館の門を叩いた。尚道館には、一般道場生とは異なる、次元の高いものを求道する求道者が少なからず居るのである。取り組み方も、道場生のような甘い考えで取り憑いた人は居ない。覚悟の上で来る。気迫が最初から違う人達だ。
 しかし、こうした気迫を持った人でも、私は試す。
 現代人に、二言が多いからだ。
 口先だけ、また不言実行を約束出来ない人は多い。
 金銭一つ挙げても、不言実行出来ない人は金銭感覚がなく、金の遣い方を知らない人が多い。有形なもの、直ぐに形を失ってしまうものには金を掛けるが、無形の、精神性に金を掛けることは殆どない。無駄遣いをする人である。
 この手の人間は、結局長続きしない。そこで試す。

 礼儀作法から始まり、日常をきちんと遣れない人間は挫折するように追い込む。挫折すればそこまでだが、それでも絶える人が居る。道を心得た人が居る。そう言う人に儀法を教える。無礼者には決して教えない。即刻退散を願う。こうして覚悟のほどを試す。
 試された者は、底意地があり、外圧に対して軋轢
(あつれき)に強い。こうした人の発掘に勤め、少なからず有志を得た。
 私の後半の人生は、こうした人達の発掘に費やされた。

 その一方で、浮ついた学生気分の、この手の人を敬遠した。無駄だからである。無駄なエネルギーを消耗したくないのは人情であろう。
 この回避に僅かながら成功して、わが流は辛うじて生き残っている。底力のある有志が居るからである。こうした人は経済感覚も優れていて、金銭には困る人ではない。いつも余裕を持って人生を満喫している気風すらある。やはり心の中に富貴な玉を抱いているからであろう。

 心の裡
(うち)に玉を抱いている人は、気高く強い。余裕で、物事をこなすからだ。
 こういう人は、教え甲斐のある人である。そして、富貴を持った人は、最終的な目的を自身に確立しているようだ。
 日本には、まだまだ本物を需めて求道する御仁が居るからである。
 特に個人教伝で参加している人達は、一般の道場生と異なり、わが流の伝統に則って、人の生き死にを教える大事に成功しているからである。目的意識を持っていることの賜物であろう。
 その意味では一般の道場通いの道場生と、本来の意味で門人と云われる人達の違いは、此処で大きく隔てられている。
 こうした本来の門人が居ることで、わが流は未だに滅びもせず、生き残っているのである。つまり、求道の核になる人達である。
 本来、どの流派にも昔は、四天王・八天狗と呼ばれる門人が存在していた。わが流も一度は廃れたが、かつてのことが復活し、今や国の内外を問わない門人が居る。それぞれに活躍している。日本近隣にも散った。

 門人は組織形成上というより、儀法的な伝達において伝統を守る人達であり、こうした支えになる人によって、少なからず儀法を維持してきたのである。伝統武術は組織形成より、儀法の維持が中心に行われてきた。此処に伝統武術の特長があった。伝統武術とは本来そうしたものであった。


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