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続・刀屋物語 21

腰下煙管・煙草入れ(時代物)の金具の部分に遣われた純銀製の研師の図。煙草入れの金具は「腰下物」と呼ばれる、豪商などが所持する携帯用の煙管・煙草入れのことである。

 そして彼等の所持品の中に研師の図が登場することは、既に江戸中期頃から刀剣は高価な美術品として、武士階級のみならず豪商達の美術品鑑賞に遣われていたと思われる。



●鑑立てを文章で著す

 私にとって、日本刀を教わったと言うことは、その後、かなりの勉強になり、また人生の楽しみ方の幅を広げ、自らの武術観にも大きく貢献したのである。更には、わが人生にとって、大いなる教訓になり得たことだった。
 それは洞察力が豊かになったと言うことに回帰されよう。
 物事の本質を見抜くためには、単に囲碁将棋の世界の「先読み」だけではなく、本質を探る能力に長けていなければならない。
 つまり、「見通し」を養う眼であった。
 日本刀を勉強することで、そうした眼を少しばかりでも持ち得たように思うのである。私のとっては有意義な勉強であった。

 日本武術は、根底に日本刀の理
(ことわり)が働いている。
 これを知らずして、日本武術は理解し得ない。刀剣抜きには、日本武術は成立しないからである。
 日本刀を知らない者が、日本武術や格闘術について、一端のことを論
(あげつら)っているが、あれは恐らく「知ったか振り」であろう。
 単に、根本まで知らないくせに知っているような、得意満面になって論じているに過ぎない。恐らく本質など、理解は及ばないだろう。

 日本刀を「鑑
(み)きる能力」がないのでは、本当の日本武術の真髄は解るまい。表面を強弱判定で素通りするだけであろう。
 しかし肝心なる日本武術の真髄は、弱肉強食の論理に貫かれているのではない。それを凌駕した異なる次元に真髄がある。それは眼に見えず、手で触れることが出来ず、不可視世界に鎮座している。
 それだけに奥深いものであった。鑑る力が要
(い)るのである。

 この当時、私は最初に、日本刀の実体そのものと同時に、日本刀の市場原理の流通まで学んだのである。
 吉藤先生は、よく毎月十日になると『戸畑十の日会』というところに私を連れて行った。
 当時『戸畑十の日会』は北九州では唯一の刀剣や武具のみを扱った刀剣会であり、刀剣市場であった。その市場に足を運んで、流通の実際を学ばせたのである。
 この当時、他にもあったが、それは書画・骨董品なども混じった古物の交換会市場であった。

 また刀剣市場では、刀身自身を自分の手で握り、重さや刀姿まで鑑て、それを値踏みするのである。
 値踏みは、一種の見積りだが、見積もるだけでなく、それを売買することを教えてくれたのである。
 刀剣商は単に、刀剣・小道具類を市場で仕入れて来て、それを店売りするだけではない。店で、買取りもするのである。その仕組みは質屋によく似ていた。

 売買をする事から、多の小売業とは異なり、また薄利多売をするディスカウント・ショップとも根本的に違っていた。売れ残って在庫を抱えると言う事がなく、一年間仕入れて自店で販売し、売れなければ再び市場に持ち込み、買手を探して物を循環させるのである。こうした独特のルートを通じて循環をさせ、こうした物は日本中の市場を循環して行くのである。

 しかし、サラリーマンなどをしていて、副業で古物商をしているサイドビジネスに二足の草鞋を履いている者の多くは、こういう発想がなく、仕入れて友人や知人に販売したり、それが売れ残れば何年も在庫を抱えると言う効率の悪い商売をしている者が多かった。こういう手合いは、在庫の捌き方を知らなかった。

 したがってこうした商売を生業にするのは難しいと考え、結局どっちつかずの迷いが出て、仕入れた者を友人知人に高く売るという程度のことしか出来なかったのである。限定された顧客の中で商売をしていることになる。循環の和が小さい。そのうえ下取りの発想もないから、一度買ってくれた者は、そこで止まり、それ以降、顧客の開拓が出来ない。

 そうなると悪循環となり、年々在庫が溜まって行き、この在庫に、年度ごとに確定申告をしなければならない。
 だが、この手合いは「なあなあ商売」なので、所得税が掛かるという発想がない。それはまた、古美術品の売買は循環することを知らないからである。
 またそれ故、無意識に脱税を遣る。その自覚症状もなく、税法も不勉強で、そもそも「税金を払う」と言う発想がないのである。

 これは古美術の世界の「流通の意味」を全く理解していなかったからである。一般小売業と同じように考えているからである。これでは顧客にも限りがあり、必然的に、いい物を手に入れられなくジレンマに嵌まるのである。
 本来、古物許可証の鑑札ももって、各地の市場に繁く足を運ばねば、在庫を抱え過ぎて身動きがとれなくなるのである。

 底値で出来るだけ安く買い、売却する時は出来るだけ高く売る。
 これが商いの基本であるが、同時に時価相場である「価格の尖端
(せんたん)」を知らなければ、この値踏みは容易でない。勘とか臆測とかは駄目なのである。今の「動き値」である。
 つまり流通価格である。市場の価格である。

 これを正確に把握していないと、刀屋家業は成り立たない。目利きであると同時に、価格の尖端を知り、この二つが欠けていれば、この商売は成り立たないのである。
 また、不足分を他の小売業者から買い取って販売しているようでは、家族を養うような利益も出まい。ただ古物許可証だけを取得していて、何の意味もなさないのである。

 また昨今は所轄警察の生活安全課の見回りも厳重になり、半年間売買はないと許可は取り消されてしまう。取得した許可は失効してしまうのである。失効した者が以降、古物を売買すると古物商法違反となる。
 これに気付かないまま、惰性で二足の草鞋を履いているサイドビジネス家も少なくないようだ。

 しかし、何事も惰性は禁物である。思考や意識が麻痺してしまうからである。
 特に刀屋家業をしていて最も陥り易いのは、仕入れの際に、購入金額が時価相場の価格の尖端より高く買って仕入れた際、当然こうなると時価相場より高くなり、したがって売る場合は、高く買った物を安く売ると言う損が生じる状態が起こる。

 この場合、時価相場より高くなるまで待とうとか、仕入値より高くなければ売らないなどの慾が、一年以上を越えても温存させてしまうことである。つまり一年以上、在庫を抱えてしまうことになる。
 こうした場合、在庫には所得税が掛かるのだが、これを所持し続けて、在庫調整が思うように捗
(はかど)らなくなってしまうのである。また、投げ売りするにも損を考えれば、いつまでも手許に置いて、つい温存させてしまうのである。損するくらいなら、売るのを止めておこうとなるのである。
 また、自分の気に入った物を手許に置いて「これだけは」となったりすると、それが商いとして手放せなくなってしまうのである。これは、刀屋が刀に惚れてはならぬ掟
(おきて)である。刀に惚れる刀屋は、やがて商売を行き詰まらせてしまうのである。
 これらの愚も戒められたことがある。

 とはいっても、人間である。
 誰しも慾がある。どうしても「損をするくらいなら」となってしまって、つい在庫を温存させたり、また自分のお気に入りを「これだけは」となって、手許に置いてしまうのである。
 私も、この愚を度々犯している。これが度重なると、この商売ではやがて身動きが取れなくなって、致命的な一世一代の危機に遭遇することがある。こうなると、商売も一つの生命体であるから、衰勢を早めると注意されたことがあった。
 つまり在庫調整を上手く遣れということだったのである。

 また日本刀を鑑て、それを正しく表現するとき、単に言葉で表現するばかりでなく、それをきちんと文章にして表現するように教わったのである。
 これは、私のとって非常に役に立ったことである。
 自分の思っていることや考えていることを、きちんと自分の言葉で表す。それも単に喋る言葉でなく、文章にして著す。これは実に大事なことだった。
 しかし昨今は、この大事を見逃し、考えないようになった現代人は、こうした面倒な知的作業をしなくなったようだ。思考力の退化の所以
(ゆえん)か……。

 自分の鑑たことを、きちんと文章に著し、それで始めて、日本刀を表現したということを教えたのである。
 爾来
(じらい)、私は日本刀を鑑て、言葉だけでなく、言葉を文章にして、これを表現することに心掛けたのである。
 日本刀を、言葉で、喋りに返還して能書きを垂れる素人愛好者は多い。好き勝手に垂れている。
 ところが、肝心なることは何も言い表せていない。好き嫌いを自己流に論じているに過ぎない。そのために最も大事な「鑑立
(みた)て」が抜けている。

 したがって、喋っている言葉自体も軽い。独り善がりである。その中には実に失言も多いが、失言自体に、自分ではその非に気付いていない。この辺も、程度が見られ、足許が見られる要因となっている。
 これでは、日本刀を鑑たとはいえまい。
 自己流の能書き、「講釈師語り」である。こういうのは玄人から嫌われる。そうなると軽率なことしか言えない。化けの皮が剥げて来る。然も言葉に重みがない。表し方も甘い。好き嫌いが多く言葉になっているからである。客観的は表現が出来ないのである。

 言葉に重みを加えるには、きちんと文章にして、それで始めて鑑たと言える。
 こうした最終的な、最も重大な戒めと教訓を教わったのである。
 研師の吉藤先生は、私のとって掛け替えのない日本刀を教えてくれた、ただ一人の師匠だった。
 以降、私は日本刀を商うのだが、騙されて、「もはやこれまで……」という局面が何度かあったが、その度に、最後の最後で、大火傷をせずに、九死に一生を得て、経済的不自由の局面を脱している。「あわや」と言うところで、致命傷を負わずに、無事回避したのである。
 文章にして、文字を使い、言い表すことの行為が功を奏したのである。

備前国住家次。
 家次のような造は、上杉家に伝わった長巻か、静形薙刀の形体や構造によく似ている。一見、尖先
(きっさき)の形状は薙刀風である。
 後年、こうした造をした薙刀類は、磨り上げられて脇差しに形体を変えた物もある。
 造り込みとしては、菖蒲
(しょうぶ‐づくり)や鵜首造(うのくび‐づくり)の物が多いようだ。

 かつて私は、吉藤先生から研ぎのお客の「長巻直し」という、これまでに一度も見たことのない風変わりな脇差しを見せられて、これを見て「文章で著せ」と云われたことがあった。
 先生の話では、無銘だが鎌倉末期から南北朝時代に懸けての無銘の『尻懸
(しっかけ)』と云うのであった。
 一見、特異と言うより、私の眼には奇妙な脇差しと映ったのである。それだけに、それを鑑て、文章で著せと言うものだった。

 まだ経験の浅い、駆け出しの私は、しかし自分の思うまま感想を文章にしてみた。
 しかし素人の眼からすれば、時代も産国名も解らない。況
(ま)して、その姿から刀工名など、皆目検討がつかない。だが拙(つたな)い鑑立(みた)てで、思うままに文章に著してみた。

 「互の目乱れ有り、匂い有りて金線走る。匂い煙り、鋩子焼は物打にて小沸か……」と。
 文は短いが、考えて考え抜き、これまでの集大成として智慧を絞り、私なりの苦心の文章だった。私の鑑立ては、しかしここまでだった。
 ここまでの文章表現以上に、今の私には無理があり、こうすることで自分の眼の欠点と言うか、眼力の未熟さが一目瞭然になったのである。学ばねばならないことを痛感したのである。こうすると、学ぶことに一層の喜びを感じるのである。益々、求道精神が旺盛になって来る。私のとってはいい勉強だった。

 このように文章に著したところ、先生は「で、時代は?」と訊かれ、更に「国は?」と問われた。あたかも肝心なことが抜けていると言わんばかりだった。
 これには絶句した。時代も、国も解らなかったからである。ここにきて勉強不足を思い知らされた。

 私が解らないことを見透かした上で、「わしの鑑るところ、鎌倉末期は動かし難いな。それに宇多に似るが宇多なら古宇多か……、しかしおそらく尻懸だろう……。
 波紋は沸出来。地鉄、微塵の地沸。その証拠に匂口深く、よく冴え、かつ砂流しあり。金線掛かり葉風で、それが実に柔らかく、沸
(にえ)と匂(におい)でまさに煙る如し。寔(かこと)によきかな……」
 また最後に「おそらく長巻の磨り上げだろう……」と言われた。
 今にして思えば「よく鑑た」と思うのである。つまり、これが眼力だった。眼の勝負師の勝負師たる所以だった。

 目釘穴の二つを指摘されれば、まさにその通りである。それ以外推測出来ない。的中だろう。
 長い、研師人生を通じて、ここまでの眼を養っていたのである。それだけに、多くの物を見て来ているのである。ここまで表現するには、一朝一夕にいくものではなかった。
 ここに見聞すると言う大事があり、それは人生にそのまま通用することであった。

 自分の鑑立ての感想を、口ではなく文章で著す……。
 実にいい学習法であった。
 これを非常に重要なことだ、と吉藤先生は指摘したのであった。
 自分の言葉で、文章に出来るまで、刀剣を鑑るということを教えたのである。これは貴重な教訓だった。
 日本刀には、ここまで深い意味があったのである。日本人の、まさに精神の世界だった。それを感性のまま文章にする……。
 それだけに日本刀は、人を斬る道具ではないことが分る。
 道具でない証拠に、ここまでの精神文化を作り上げていた。
 一般に道具と言うのは、文章にするほどのことでもないと考えがちである。したがって、文章にすることは稀である。ところが、日本刀は違う。しっかりとした文章になる。ここが単なる道具と違うところであった。
 その精神世界について、吉藤先生は過去に思いを馳せて論じたことがあった。

 「あれは確か、昭和十三年頃だった」と、こういう話を始めたのである。
 私は食い入るように聴いていた。
 「わしは陸軍上等兵として、半島の竜山の師団にいて、満期除隊する年の事じゃった。
 わしの生業
(なりわい)は研師じゃ。高等小学校を出て、十四の頃、父親の意向もあり研師の師匠を得て、研師を生業とする職人になろうと思い、しばらくそこで修行をした。21歳の時に、徴兵され軍隊に入った。そして除隊満期の年だ。確か、あの頃は23の歳だったと思う。
 当時、わしの生業
は日本刀を研いで糧(かて)を得ていたが、併(あわ)せて研師は、単に刃物の研ぎが出来るということでは駄目で、当時の日本刀には、実用が課せられた時代であったから、師匠について、十四の頃から激剣と据え物斬りを学んでいた。斬れ味は研師の腕が物を言うからな。それで、激剣と据え物斬りの免許を軍隊に入る前に貰ったんじゃ。
 当時はなあ、剣道の三段以上の有段者や、剣術並びに、その他の居合術の免許などを持っている者は、兵でも下士官でも、腕に覚えのある者は、軍刀を腰に下げることが許されていた。
 わしは、激剣と据え物斬りの流派の免許を持っていたから、上等兵に進級すると、軍刀の佩用
(はいよう)が許されておった。
 だがなあ、軍刀と言っても、将校が吊るような立派なものでない。官品と言っても、使い古しでな、大半は32年式
(昭和5年式)の“軍刀乙”という物で歩兵の……、つまり俗にいう、曹長刀という大した拵(こしらえ)でない物に、刀身だけ、自分で調達して、二尺二寸の山城物の寛永年間の新刀『信吉(のぶよし)』を下士官用の拵に仕込んでいた……」といって、軍隊時代のことを回想して、こういう話をし始めたのである。

 この話を聴いていると、何か曰
(いわ)くげであった。
 私にとっては、またとない興味津々の話であった。つい、身を乗り出して、その先を聴いてみたい気になったのである。
 恐らく直感的に、日本刀に対して、貴重な話をするのではないかと期待したのである。
 私はつい相槌
(あいづち)と言うか、興味津々で下士官用の拵に仕込んだ『信吉』の話を聴いてみたかったのである。

 「信吉の話ですか?……」
 私はつい、そのように切り出していた。
 「いや、日本刀についての話だ……」と、別方向からの話を始めた。
 その話には感慨深いものが含まれているようだった。

 「あれは確か……」ということから始まり、「わしは当時、半島の竜山の師団にいた。もう満期除隊が近付いていた頃だった。同じ召集兵と、久々に外出が許されて街へ出たんだ。その時、同期はわしを含めて三名だった。その三名で竜山の街を歩き、途中、小腹が空いたので、ある朝鮮料理の食堂に入った。そこには先客がいて、半島では珍しい学者風のようなグループが四、五名いいて、何かの議論をしているようだった。
 わしらは彼等の少し離れた席に腰を降ろし、わしは朝鮮語はよく分からんじゃったが、同期に、一人言葉の堪能なやつがいて、注文はその者に任せた。

 店のオヤジと現地語で遣り取りして、暫
(しばら)くすると日本料理で言う、付け出しの八寸のようなものが運ばれて来た。それを肴(さかな)に酒を酌み交わしていた。遠巻きにした学者グループと思しき者達は、あたかもテーブルを囲み角を付き合わせるように、時には静かに低い声で、ひそひそと耳許で囁(ささや)くように話をし、また時には興奮したように、声高に甲高い声で、話の内容は分らないが、何か議論のようなことをそれぞれが戦わせているようだった。白熱していることは明白だった。しかし何を議論しているのか、わしには不明だった。しかし時には、意を外し声高になった。

 そのグループの声が大きくなるに従い、店のオヤジは時々注意をしているようだった。他の客の迷惑になるとでも思ったのだろう。あるいは日本の兵隊が、ここにいると思ったのだろうか。
 そして、わしらの方に、騒がしくて申し訳ないということをしきりに謝りに来るのだ。このオヤジは大陸系の鮮人だったが、日本語は堪能
(たんのう)だった。日本にも居たと言うことじゃった。堪能なる素性はそれで分った。

 学者グループらしき集団は、やがて議論を止めた。日本兵がいるような場所で、悠長に議論している時ではないと感じたのかも知れない。議論を切り上げて席を立ったのである。その時、わしを見たような視線を感じた。また、わしの腰に吊っていた日本刀が気になるらしく、一瞥
(いちべつ)をくれながら出て行ったのを印象的に覚えている。その一瞥が、何であったか、今では知る由もないが、何かの意味があったのかも知れない。
 またその一瞥に、一瞬驚愕を覚え、得体の知れない恐怖を感じたのも事実だった。鋭い一閃
(いっせん)だった。それが日本に対する反感のようにも感じられた。今となっては、それが何であったか分らぬ。あるいは……」と言って、それから先を濁した。
 明治37年
(1904)以来の、日本の韓国併合を言いたかったのだろうか。
 この当時、韓国の併合に諸手を挙げて賛成したのは政府筋であり、この併合に反対した日本人も少なくなかった。
 かの有名な黒竜会の内田良平氏も猛反対であったからだ。更に頭山満翁の玄洋社も反対であった。

 また暫くすると言葉を繋いだ。
 「グループが帰った後、わしらも肚を繕
(つくろ)ったので腰を上げることにした。ところが、店のオヤジは何を思ったのか、好意的な表情を見せて、しきりに話し掛けて来るのである。
 そしてオヤジと、少しばかり語らったことがある。このオヤジは日本語が堪能
でなあ、わしは軍刀を吊っていたから、あんたは幹候(幹部候補生)かと訊くんだ。いやと答えた。
 では、何で軍刀を腰に下げているのか?と訊くので、わしはその筋の経験者だと答えた」
 「その筋の経験者?としてですか……」
 私はそれを是非訊いてみたかった。

 「つまりだなあ、わしを剣術とか、刀術の遣い手と思ったらしい。
 このオヤジは、下士官用の軍刀だが、上等兵でありながら、それを許されているのだから、さもありなんと思ったらしい。しかし、わしはこういう手合いが、どうも好きでないでなあ。何しろ、人を端
(はな)から観察力に任せて値踏みするような人間は好かんでなあ。他の二人と眼で合図して、金を払ったら、ここを直ぐに出ようと促した。
 席を立とうとして表に出ようとすると、オヤジが慌てたように、どうか待ってくれと言うのだ。それでも執拗
(しつよう)に止めるので、随分と鮮人から舐(な)められたものだと思い、つい抜き打ちで、ひと鞭くれるように抜刀し、直ぐに鞘に納めた……」と、何とも、人の興味をそそる話を始めたのである。
 ここまで話を聴かされたら、つい「その先は?」と益々身を乗り出したくなる。

 「別に脅かす訳ではなかったが、しつこさに辟易
(へきえき)した。振り切ろうとしたんだ。また、しつこい者はそれで振り切れると思っていた。ところが違った。つい、軽薄な行動に出てたが、わしも若かったのだ。
 若さは、時として遣らんでもいいことまで遣ってみせることがある。困ったものだ。口にしなくてもいいことまで口にして、つい本性を露見してしまう。若気の至りとでもいおうか。

 さて、執拗な店のオヤジのことなんだ。
 何か話し掛けて来るのは訳がありそうで、そのように直感した。この食い下がりに“訳あり”を感じた。そして聴くだけの事は聴こうとなった。オヤジはどうも、わしの軍刀に関心を示しているようで、日本刀は、折れず曲がらず、よく斬れるというのが最大の関心事であったようだ。なぜ、そうなのかと訊くのである。これには、わしも即答が出来なかった。そして暫く考えて、こう答えた……」
 吉藤先生は、ここまで捲し立てるように喋ると、一旦言葉を置き、間合を取ったようだった。
 それは、私にも考えてみろと言う風でもあった。

 「日本以外の諸外国ではなあ、刃物は、ただの刃物なんじゃよ……」と、ぽつりと言った。
 それを聴いて、まさにその通り思ったのである。
 「刃物は刃物以外に、何ら道具としての価値はない。
 ところが日本ではこれが違った。刃物であった日本刀を神格化し、霊験あらたかとして、霊剣が存在するとした。
 どれもこれも霊剣だらけではないが、その中の小数ではあるが、確かに霊剣は存在する。
 わしはなあ、そのとき日本刀の中には霊剣が存在すると、鮮人に答えた。そこで霊剣とは何か?と切り返して来た。
 そこでわしは、鮮人に、では、あんたのところにも刀はあるかと訊いた。あると答えた。
 では、どのように保管しているか?と訊いた。保管などしていないと答えた。

 鮮人の言うには、刀は薪割りの道具として納屋の中に転がしているというのである。これは刀を不浄な道具として見下しているからであろう。
 勿論、鮮人のいう刀は、当然日本の物でない。その出所を訊くと、先祖からの物で、戦争で遣ったらしく赤錆びていると言う。
 しかし、そういう不浄の物として見下している赤錆びた刀と、日本人が崇
(あが)める刀は神聖さにおいて、そもそも意味が違っている。このように説明してやったが、これに得心がいったか否かは定かでない。
 ただ付け加えとして、日本刀は神聖な物として極め尽くした最高傑作で、更には芸術性並びに実用性に富んでいる。日本刀は姿形が美しく、気品を具え、同時に折れず曲がらず、よく斬れるという特性を持つ事を付け加えてやった。こうした意味を理解する鮮人は、わしの知るところ、朝鮮戦争の時まではいたように思う。
 何故なら、韓国軍の将校の中には、腰に日本刀を仕込んだ軍刀を下げていた軍人を、わしはこの眼で何人か見たことがあるからだ」と、極めて貴重な証言のような事を話すのであった。そうすると半島の人の中にも、神聖なるものを理解する人がいると言う事になる。この感覚は、おそらく日本人に近いものだろう。

 吉藤先生は、この話の中で「霊剣」と云う言葉を遣った以上、刀の中には、そういう神通を持ったものがあるらしい。
 では、「文章に表現してみろ」という中で、何か見落とした事はないのか、思い返してみたのである。
 そしてこのとき、ふと「霊剣」という言葉が脳裡
(のうり)を過った。
 つまり、日本刀をどの次元で、どう見るかである。
 単に道具の次元で見るのか、更に高めて、神格化した霊剣の次元で見るのかということであった。
 次元に重要な秘密があるのでは?……というのが、この時の私の感想であった。
 私は益々身を乗り出して、悠長
(ゆうちょう)に喋る吉藤先生の口調が早まることを望んだ。
 その願いが通じたのか、先生は、その先を徐
(おもむろ)に喋り始めた。

 しかし吉藤先生は、その表現は“総て終わっているのではない”というのであった。何か見落としているところがないかと訊くのであった。
 「あんた、それで表現し終わったつもりか。肝心な、素人でも解ることを肝心なことを見逃しておろう。それを言わねば、結論は出せまい」
 そう指弾されれば、全くその通りだった。

 吉藤先生は、私を「お前」とは呼称しなかった。「あんた」である。
 これは「親しき仲にも礼儀有り」であり、また「他人行儀」でもあった。これを逆から見れば、私をそこまで信用し、同志とは思っていないというふうに受け取れなくもない。そこまで親密な仲でもないと言う意味なのであろう。

 武術の師匠の山下芳衛先生は、昔から私に対して「お前」と呼称していたが、吉藤先生は、どこか他人行儀のところがあって、いい方に取れば、親しき仲にも礼儀有りだが、また悪く取れば、そこまで心を許していないことになる。それが「あんた」という呼称だった。私はこのように読み解き、これを敏感に感じ取ったのである。

 はて、何が漏れているのか?……。
 このことを思念に置いてみた。あるいは見逃している事があるのかも知れない。多分そうだろう……。
 その時、はたとして解ったのである。
 一番肝心かことを見逃していたのである。
 それは「疵
(きず)」であった。肝心な疵のあることを見逃していたのである。この疵の持つ意味は大きかった。これを見逃しては、素人にも分る問題を見逃した事になる。
 この疵は「鍛え傷」というより、物打としての疵であった。戦いの跡が残っていた。肝心要の、このことを見逃していたのである。

 刀剣商としての刀剣類の「鑑立て」は、おおよそ二種類ある。
 一つは刀工が鍛える際に生じさせた「鍛え傷」と、それが時代ごとに世に出て、例えば戦国期などは合戦に晒されたのであるから、当然そこには戦場での物打としての戦いの跡が残る。この後が「疵」まのである。この戦いの跡が、鍛え傷とは異なる、戦場で負った疵である。この疵を見逃していたのである。また、この疵が重要な意味を持つ。
 私は古
(いにしえ)の時代の古武士の想いに馳(は)せた。遠い昔を想った。そして偲(しの)んだ。

 かつて、吉藤先生が『尻懸』と称する、この刀の持ち主は「どういう想いで、戦場の赴き、敵味方入り乱れての合戦を戦ったのであろうか?……」と。
 想いは、そこに飛んだ。
 そしてその疵は、鍛錬の時に生じた傷ではなく、戦場で敵と交え、攻防戦を繰り返した時の疵であった。鍛え傷とは全く違うものであった。戦場で負ったものである。

 先生の言葉を借りれば、物打近辺の疵は、棟に斬り込んでいた。その斬り込みは凄まじ跡を思わせた、相当烈しく打ち合ったのだろう。この疵は戦闘時の激しさを窺
(うかが)わせるものであった。一体、敵味方乱れて「何合」打ち合ったのだろうか。

 それにしても、肌立ちの互の目乱れの素晴らしさはどうだ。
 これが素晴らしいから、これだけ打ち合っても、折れず、曲がらず、更には品位を失わないのである。
 しただって、鍛え傷は最初から入ってるものだが、戦場での打ち合い疵は「名誉の負傷」というもので、それでも朽ち果てなければ、それは一等か高く評価されると言うものであった。

 私が手にして一人感嘆していると、この刀には、何の認定も鑑定の書も添えられていないと言う。
 多くの刀剣愛好家は、認定書や鑑定書を後生大事にするという。ところが、これにはそういうものは付けられておず、未鑑定であった。
 それを私は勝手に「惜しいかな……」と呟
(つぶや)いたら、これに釘を刺すように忠告した。
 「そういうものは信用してはならぬ!」
 「そういうもの」とは、認定書や鑑定書の類を指す。
 それは半ば叱咤気味であった。

 「どうしてですか?」と訊き返すと、「そういものを有り難がるのは素人と商魂巧みな商売人だけである。第一、刀屋はそういうものが付いていると、売り易いし、付いているというだけで、相場は倍以上に跳ね上がる場合もある。しかし実はここに落し穴があるんじゃよ」と、このように言われ、私の軽率を嗜
(たしな)めたのであった。
 それはあたかも「違う」と言う風に取れた。
 たった、その程度の次元で、道具として見ているのか、美術品として検
(み)るか、霊剣として視るかという叱責とも取れた。
 また、何か他に重要な意味があるようであった。それが是非とも知りたかった。

 その理由として、認定書や鑑定書に、そもそも偽物や偽造があると云うのであった。世の中には、成功に偽造して“そっくりの物”があると云うのであった。
 これに素人は騙され、そう言う付随物があるために、迷い買いする者をいると云うのである。
 刀剣は好きだが、鑑定書が有るか無いかで素人判断は異なり、普通こうしたものを後生大事にするというのが素人である。こうした盲点は、鑑定書や認定書で、刀剣を購入すると言う愚である。自分の眼より、他人の言を信用する類である。
 つまりその愚は、先入観に始まる。そしてこの先入観が固定観念になると、このジレンマから中々抜け出せないと言うのである。

 頭がそのような考え方になり、改造され、自分の信ずるものより、自称専門家や、詐欺師が仕掛けた偽造の書により、攪乱され、肝心な刀剣より、鑑定書ばかりの専門家と思しきものの考え方が主観的になると云うのである。
 それにより、客観的な「検
(み)る」という眼が失われると云うのであった。そうなると、愛好の世界を逸脱し、好き者から、金銭投機の刀剣蒐集家に成り下がってしまうと云うのであった。誰もが陥り易い、この非と、危険を戒めたのであった。

 この当時、財団法人・日本美術刀剣保存協会の悪評高い、実に、鑑定眼の甘い「マル特」が出回った。
 このマル特を「村上マル特」と言った。
 当時は悪評高いものであった。事実「お願い」すれば、少々怪しい物でもマル特に認定がついたのである。後にこうした認定のついた物は、再審査で殆どが不合格になっている。
 昭和40年代の証書には、この手の物が多く紛れていた。市場にも出回った。それを掴まされた刀剣商も少なからずいた。

 今は厳重なる審査が行われているが、この当時は鑑立てが甘い時代だったのである。「お願い」で済む時代であった。
 そういう「甘いもの」を、この現代にあっても存在し、私は“かつての物”が市場で流通しているのを何度か見たことがある。今なら、必ず不合格になるであろうと思われる、昭和40年代のマル特を実際に何度か見たことがあるのである。そしてそれらの刀剣・小道具類には、やはり当時のままのマル特が付随されていた。
 しかし、これでも一時はマル特として通用したのだから、決して認定書は偽造ものでない。正真正銘の、甘さはあるが認定書は認定書である。
 ところが、これを逸脱した、とんでもない物がある。

 更に悪いことには、寸分も違わぬ、一切が偽造という認定書が出回ったことがある。今も現実には出回っている。
 最初から偽銘を解った物に、偽の認定書がついた物である。これらにマル特以上の甲種マル特まで付随して売りまくった刀剣商がいた。詐欺師だが詐欺師でない。一度も法の目に掛かった事はない。娑婆で堂々と活動している。
 何故か。
 立証し難いからだ。
 現行法では、詐欺が実証出来ないのである。問い詰められて、真贋のほどを問われても、「実は自分の知らなかった」と言えば、確定証拠は一切出て来ないのである。

 こうした詐欺を罰するには、日本の今の法律では無理であり、日本の現行法では、詐欺を実証する場合、証拠が完全に合法的な手続きをもって行われたものでなければならない。起訴した場合も、これによる。
 更には合法的な方法によって得られた証拠のみが、「証拠」として裁判に持ち出せる。それ以外は、強圧的に自白させたようなものは証拠として看做
(みな)されないし、実はこうしたものは証拠ではない。拷問に強圧的態度に出て取調官が迫った自白は認めない。
 この点が重要なのである。

 したがって動かぬ証拠でも、取り方によって異なって来る。法治国家では「疑わしきは被告人の利益」というのが、デモクラシー国家の裁判なのである。

 デモクラシー裁判においては、状況証拠が如何に揃おうと、確定的証拠がなければ、これは絶対に無罪。
 デモクラシー裁判の窮極の目的は、強大な国家権力から国民の権利を守ることを主眼とする。また、デモクラシー裁判裁判とは、検事に対する裁判である。実際は起訴した検事が裁判官から捌かれるのである。起訴自体を問われるのである。

 したがって検事は、行政権力の代理者である。
 この権力は絶対権力を意味する。それゆえ検事の出す状況証拠のうち、一つでも疑う余地が発生したら、これは無罪。デモクラシー裁判では、そうなる。
 疑わしきは罰せず。
 これこそデモクラシー裁判。
 また証拠のうち、それが確実な証拠であったとしても、証拠収集に不正があり、あるいは法的な欠陥があったら、更には少しでも臆測が混じっていれば、これも無罪。
 これがデモクラシー下の裁判である。

 したがって、証拠が完全なる合法的な手続きによって得られた証拠だけが、証拠として裁判に持ち出せるこの重要な命題を見逃し、デモクラシー裁判の形態を踏まえている場合が、近代民主主義の法治国家のあり方である。

 これは古美術の世界でも真贋の鑑定に当り、鑑定違いがあっても、それを問えないことになる。
 美術品を扱う、美術品商は真贋を判定する鑑定家でない。商いする事を生業にする。真贋のほどが見抜けなかったとしても、それは美術品商の責任でもないし、その罪も問えない。

 これを吉藤先生は熟知していたかどうかは知らないが、他人の眼ではなく、自分の眼を信じれと云うのであった。
 そして万一、自分の眼に狂いがあり、自らの眼力で勝負してそれが外れたなら、それは鑑定書や認定書の所為
(せい)ではなく、責任は自分にあり、自分の眼力が未熟なためだと思えと云うのであった。それに、その覚悟を、私は迫られていたのである。
 今でこそ、自己責任などと云う言葉が盛んに持て囃されているが、当時はそうしたものはなく、頼りになるのは自分の学んだ智慧のみだった。故に、この智慧は時代が変わろうとも、時代を超えて有効なのである。

 これは安易に人を信用するなと言うことであり、敵味方の識別をはっきりさせておけと言うことであった。この戒めは、以降、私の人生の大きな間違いを犯さず、生き残って行けることを暗示したものであった。
 私はこの言を以降墨守することになる。

 しかし、私が墨守したのがそう言う事だけではない。
 最も肝に命じなければならないのは、刀を道具としてみるのではなく、神聖化して「霊剣」として崇
(あが)めると言う心のあり方だった。

 霊的神性なる心さえ失わねば、真贋のほどを判定する眼力は、自ずから身に付き、決して無闇に心眼は曇らされる事はないと言うことであった。
 そして、あと一つ、日本刀を美術刀剣として取るか、実用刀剣として取るかの見方であった。
 往時の武士達は、日本刀を実用刀剣として考えていた。単に美しいだけの美術刀剣としてのみ、温存させた訳ではなかった。真贋よりも、まず折れず曲がらず、それでいて品があり美しい刀であった。そういうものを探し歩き、苦労したのである。



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